著者のコメント


「問われているものは何か」

 『新日本文学』に載せる予定で準備した草稿である。主体となる側に深い内省がないことには、議論は発展しない。こんなことはわかりきったことなのに、詰めて考えることをしない精神風土がこの国にはある。中途半端な妥協やあきらめが大手を振って罷り通るの状態は少しも変わっていない。それはほとんど宿痾といっても過言でない。竹内は、そのような風潮に対して果敢に挑戦した知識人のひとりである。竹内の問題提起を引いて論じようと考えたのは、それが最盛時の新日文に向けて行われたものだったからである。文中、新日文の会員のなまえが出てくるが、その中の何人かは有力会員として現存していた。野間宏、菊池章一などがそれである。書いている最中は、それらの会員が呼応してくれることに対して期待がなかったわけではない。だが、私はこのノートを掲載することを止めた。限られた誌面を争う会員の様に愛想が尽きたことが最大の理由であるが、これらの人たちが私の提起に対して反応してくれるという期待がもてなくなったからでもあった。この時期になると、私はこの会に何かを期待できるとは思えなくなっていた。そのような状況下で活字にすることに、意義がもてなくなっていたのである。
       04.06

 問われているものは何か
 ――継承すべき課題


  1 竹内好の問総提起


 いきなり国民文学論争が飛び出したのでは、面食らうのが当然である。なぜ、いま、国民文学論争かということも含めて、まずはわたしの問題意織から述べる。
 多くの人に読まれるものがいいとは限らない。一部の読者しか持たないものの中にもいいものは、ある。だが、それが作者と読者の間に暗黙裡に成立していた「馴れ合い」を含むものであるなら、あらかじめ多数の読者を獲得できないものであるに過ぎないといっても過言ではないだろう。逆の言い方をすれば、多くの読者を獲得しているものには、それだけの必然性があるという言い方もできる。
 かつてこの国の文学に一つの橋頭堡を築いていた新日本文学会が、いわゆる「文壇」から歯牙にもかけられないほどマイナーな存在になり下がってしまった原因の一つとして、創作方法における閉鎖性とある種の自己満足を、わたしは感じていた。『通信版』での提起は、こうした不満から、その原因を共同の討論で明らかにしたいという問題意識にもとづいて行ったものだった。
 なぜ多くの読者を獲得できないのか、多くの読者を獲得するためには何が必要なのか、という問題意識からいろいろと漁る中で突き当たったのが、竹内好であり、なかでも彼が五十年代に提起した「国民文学」に関する問題提起だった。
 竹内によれば、国民文学という形を取って問題が提唱された時期は、次の三回あったという。
  近代文学の初期(成立期)――二葉亭から透谷をへて啄木に至るもの
  第二次大戦中の「日本ロマン派」の主張を中心にするもの
  一九五〇年代初期に竹内などが提唱したもの
 の時期は、明治維新により欧米列強に比べて一世紀以上遅れて近代国家としての体裁を整えたこの国が、帝国主義のコースを取るか共和主義のコースを取るかをめぐって行われた綱引きの結果、体制側の勝利に終わり、帝国主義的近代化とは別のコースを目指した運動が挫折したことを契機にしていた。
 の時期は、中国古代の王政を範とする復古革命の挫折を契機にしている。ただし、ここにはもう一つの挫折もある。それは、帝国主義的角逐の過程で、その最弱の環であるロシア帝国が革命によって崩壊したことを受けて澎湃として起こった世界革命の波がある。そして、この波がスターリン主義の手で纂奪され、その影響をまともにかぶった左翼運動党の敗北がある。ここには二重の挫折があったともいえる。
 の時期は、米軍占領下の反植民地的状態からの脱出を目指した革命の挫折を契機にしている。
 竹内は、この三回の契機がいずれも革命の敗北を契機にしていることについて触れ、次のようにいう。

――
国民文学は、いつも革命の挫折の後に唱えられているように見えるが、それは法則として認めていいものであるかどうか。(「文学の自立性など」)

 国民文学論争は、右に述べたような省察を前提として、竹内が口火を切ることによって開始され、この国の知識人の総体を巻き込む論争に発展した。しかし、後でも触れるが、分裂していた日本共産党の珍妙な妥協が55年に成立することを機に、巨視的に見れば、55年体制と呼ばれる流れの中に放り込まれ、そこで行われた議論は、今日では完全に忘れ去られ、議論の端の上ることもない。
 竹内が疑問として提起したように「革命の挫折の後に唱えられる」ものとして「国民文学」があるとするならば、80年代を迎えた現在を「革命の挫折後」といえるかどうかが問われなければならないだろう。しかし、80年代以降、なかでも70年代から80年代にかけての総括を果たすことの困難さが、いままでそれを阻んできた。極端な言い方をするならば、この国の知識階級は、自らが歩む先をつかめないままに右往左往しているというのが実情である。このような状況に、高学歴社会と呼ばれる高度大衆社会が混迷状態にさらなる追い打ちをかけている。

 80年代に前後して登場した左翼反対派は、しばらくして「新左翼」と呼ばれるまでに社会的に定着し、一時期は権力と対決する構図を持った。しかし、それが今や見る影もないほどに社会的な影響力を失っている。日本共産党が革命を担う勢力ではないことが明らかであることを考えるとき、「新左翼」が「サヨク」といわれ、運動の実態を伴わない過去のものとしてしか扱われない現状は、「革命の挫折後」以外の何ものでもないと筆者は考える。
 80年代への突入を前にして、事を起こした当人たちも含めて誰もが予想しなかった形で一連の東欧革命が起こった。起きてみてあらためて知らされたことだが、歴史というものはつねに非情であり、また、結果的にはきわめて合理的である。いままで見えなかったものが見えるようになってきたという意味で、89年という年はそれまでの何十年かを凝縮した年だったのである。
 本論に戻していえば、80年代以降、今日に至る時期は、スターリン主義からの決別を目指し、かつ、それを自認していた左翼運動自身が、打倒すべき対象にしていたスターリン主義から依然として決別してはいないことが明らかになった時期でもある。スーリン主義からの決別という場合、何をもってその指標とするかについては議論が分かれるところなので、ここでは誰もが共有できることとして国際主義に問題を絞ってみる。
 国際主義を計る指標は、いうまでもなく「被抑圧民族との連帯」にある。ここでの最大の難問は、帝国主義本国の肥大化が、抑圧民族の内部で階級対立を希薄にするものとして進行することにある。本来的にあるはずの階級対立が見えにくくなる結果、本来なら抑圧されている側に意織の転倒が生まれる。結論を急いでいえば、この間のこの国の左翼運動は、以前的に抱えていた抑圧民族の問題にわずかに手を伸ばしたに留まり、新たに急増した「経済移民」といわれる人たちにまで手を伸ばすところに至っていない。そういうなかで、「経済移民」の数は年を追って増えているのである。スターリン主義にもっとも欠けていた国際主義を実現するという意味での敗北は、明らかである。
 このように考えるとき、90年代に突入した現在、国民文学論争で提起された課題を検証することの意味は小さいとはいえず、あながち的外れであるまいと思うのである。

2 竹内が国民文学を提唱した前提

 竹内が国民文学の必要性を初めて提起した52年は、前年に単独講和が締結され、世界が冷戦体制に突入した時期で、この年にはメーデー事件(5月)、破防法公布(7月)、警察予備隊の保安隊への改編(10月)と反動化攻勢が相次ぎ、「逆コース」という言葉が流行した年でもあった。
 平和条約が締結され、形の上では独立国になったとはいえ、アメリカ占領軍は事実上日本を占領している状態にあり、民族の自立(自決)が当面する緊急の課題として知識人の問題意織に上っている時期でもあった。ちなみに、日本共産党は占領軍を解放軍とするそれまでの規定から、日本をアメリカの半植民地と規定する綱領に変更し、この時期に発表している。この綱領をめぐって、書記局を握っていた主流派(所感派)とこれに反対する国際派との間に主導権争いが起き、新日文はその争いの影響をもろに受けた。竹内の危機意識は、こうした反体制勢力の分裂・不統一を背景にしたものだったことを、ここでは押さえておきたい。

 竹内が国民文学を提唱した前提には、次のような認織があった。

1)
 前記の時期の敗北に関する透徹した反省
 一九一七年のロシア革命が及ぼした影響は、昨年の東欧革命の比ではなかった。世界中のありとあらゆる階級と階層に属する人間が、その衝撃に巻き込まれたわけだが、もっとも影響を受けたのは知識人だった。そのことはこの国においても例外でなく、トルストイの小市民的な観念論に共鳴する中から出発した白樺派の人道主義が、プロレタリア文学に大きく傾斜せざるをえなかったのは、時代背景を考えるならば当然のことだったといえる。
 竹内は、新日文が戦前のプロレタリア文学を出発点にしていること、そして、そのプロレタリア文学が白樺派に基礎を置いていることを指摘したうえで、この両者の関係が未分化のままなし崩し的に移行したことに触れて、次のようにいう。

――
「白樺」の延長から出てきた日本のプロレタリア文学は、階級という新しい要素を輸入することに成功したが、抑圧された民族を救い出すことは念頭になかった。むしろ、民族を抑圧するために階級を利用し、階級を万能化した。抽象的自由人から出発し、それに階級闘争をあてはめれば、当然そうならざるをえない。この民族切り捨ての爪立ちの姿勢にそもそもの無理があったのだ。……そのため、ひとたび何かの力作用によって支えが崩れれば、自分の足で立つことができない。無理な姿勢は逆の方向に崩れる。極端な民族主義者が転向者の間から出たのは不思議ではない。

 十五年戦争下の転向が、語の本来の意味の転向という形を取らずに、この国独自の形態を取らざるを得なかったことの背後に、竹内は右のような発生の由来を見たえうで、敗北(失敗)の経験を無にしてはならないことを次のように説く。

――
国民文学というコトバがひとたび汚されたとしても、今日、私たちは国民文学への念願を捨てるわけにはいかない。それは階級文学や植民地文学(裏がえせば世界文学)では代置できない、かけがえのない大切なものである。それの実現を目ざさなくて、何のなすべくものがあるだろう。しかし、国民文学は、階級とともに民族をふくんだ全人間性の完全な実現なしには達成されない。民族の伝統に根ざさない革命というものはありえない。全体を救うことが問題なので、都合の悪い部分だけを切り捨てて事をすますわけにはいかない。かつての失敗の体験は貴重だ。
――
「処女性」を失った日本が、それを失わないアジアのナショナリズムに結びつく道は、おそらく非常に打開が困難だろう。ほとんど不可能に近いくらい困難だろう。しかし、絶望に直面した先に、かえって心の平静が得られる。……特効薬はない。一歩一歩、手さぐりで歩き続けるより仕方ない。中国の近代文学の建設者たちを見たって……他力に頼らず、手で土を掘るようにして一歩一歩進んでいるのである。かれらの達成した結果だけを借りてくるような虫のいいたくらみは許されない。たといそれで道が開けなかったところで、そのときは民族とともに滅びるだけであって、奴隷(あるいは奴隷の支配者)となって生きながらえるよりは、はるかにいいことである。(いずれも「近代主義と民族の問題」)

 ここにおける竹内の認識は、戦争に敗けた日本人の戦争総括は、敗けざるを得ない戦争を許した文化の敗北として追究されなければならない、という認識を前提にしている点で、大岡昇平の「文化によって勝つ」という認識と呼応している。

2)
 社会革命の挫折に係わる問題提起
 社会革命の挫折は、基本的に近代的市民社会の未成立=自我の未成熟に起因する。ロシアと中国で日の目を見た社会革命が今日もがき苦しんでいることは、そのことを裏付けている。近代的市民社会も未成熟なままに、しかも曲がりなりの社会革命も実現せずに、帝国主義のしっぽに連なろうとした結果、この国ではいろいろの形の歪んだ国民意識を生みだすことになったわけだが、文学という領域に絞っていえば、純文学(竹内によれば文壇文学)と大衆文学との乖離という形を取ったことはその現れの一つだった。その原因として、竹内は、近代文学が文壇=中世的ギルドを軸に存在し続けたこと、新日文もその例外ではなかったという。

――
民主主義文学を称するグループの戦後の動きは、一貫して、文壇という基本構造の破壊、それによる文学の国民的解放を目ざすのではなくて、文壇におけるヘゲモニーの争奪、あるいは別の文壇勢力を作るという方向に限られていた。それが今日のような文学理論の貧困をもたらしたのである。
――
一部は戦後文学と重なりながら、しかしそれとは別に戦後の文学の流れを代表する「新日本文学会」という集団があって「民主主義文学」をとなえている。これは綱領をもち、全国組織をもつ唯一の文学結社である。敗戦直後に組織され……ある程度その組織化に成功したが、間もなく伸びなやみが出てきた。……これには「新日本文学会」自体にも弱点があった。日本共産党の動揺につれて動揺し、内部分裂をおこしたりしたからである。日共は、戦後の再組織にあたって平和革命をとなえ、コミンフォルムの批判にあってそれを撤回したが、その後の理論的確立をまだ行えないでいる。この動揺が「新日本文学会」にも反映したのである。文学者の組織と政党との関係、および過去のプロレタリア文学と今日の民主主義文学との継承関係の理論的探究がいまだ十分になされていない。それがこの会の弱点である。
――
日本の文壇とよばれるものは、特殊なギルド的社会であって、一定の資格を公認されなければ参加できず、参加することによって身分的特権を取得する方式になっていた。そしてこれが日本独特の私小説の発生地盤でもあった。……文壇は今でも残っているが、その形は昔とすっかり変った。資格の公認も、文壇内部の身分的序列も、いまでは文壇の権威が決めるのではなくて、ジャーナリズムの商業主義が決めるのである。……ギルドの解体は、徒弟志願者がいなくなったことで証明される。むかしは文学青年という形でそれがあった。むろん、いまでも文学青年はいるし、むしろふえているが、これは徒弟志願者ではない。……金銭欲あるいは名声欲に駆られて作家を志願するのである。……文壇に代わる正常な作家養成のコースが生れるまでは、この変態現象はつづくだろう。

 最後に引用した箇所が、次のような指摘で結ばれていることに注目して欲しい。

「新日本文学会」が伸びなやむのは、それ自身が新しい文壇形成をめざしていて、コマーシャリズムに対抗する有力な組織原理を発見することができないでいるからではないかと思う。まず文壇の解体を承認し、独自の作家養成コースを作るべきである。今日の権力支配の下で、それは不可能に近いくらい困難であろうが、それなしに新しい文学は生れてこないであろう。(「文学における独立とはなにか」)

 事は、わが新日文に係わることである。竹内が「次のような分析などは割りに公平な見方である」という道家忠道の指摘を見ることは、無駄ではあるまい。
 道家は、日本の文壇文学の主流である私小説は、同じ後進国であるドイツにも似たようなものがあるが、内容的にはまったく違っており、その違いはいわゆる「文壇」というものの存在にあるという。

――
日本の「文壇」という独自なものを見逃しては、私小説は理解できないのではないか。私小説のようなあのような一般的に興味のない対象を扱うものが栄えるのは、一つにはそれがいわば楽屋話的な意味をもつからである。お互いに知りあい飲みあうごくせまいサークル、ほとんど小説家同志と評論家と雑誌記者そしてそれらの志顔者とからなるようなグループの間だからこそ、日常茶飯事的な些末な「私事」も興味がある。そこには「典型化」によって広い大衆にうったえるという要求も地盤もないのである。また描かれている主人公が、描く主体自身から完全にへその緒を切られていないという独特の形態も、読者層と作者層とがほぼ一致するというような社会構造に根本の理由があると思う。しかもそこには一種の特権的な意識、開放感、そして「近代人としての過大な意識」がある。この「文壇」に入場を許されるのは一つの「出世」であったという事実を見逃してはいけない。これは本質的に、一人の師匠を中心にした短歌や俳句や長唄の流派とちがわぬギルド的な社会である。或は生産者が同時に消費者であるようなお針の師匠的な、家内工業的なものですらある。こういうものが、一面で高度資本主義を成立させるような社会の中で「近代化」されて、或る機能を果しているところに問題がある。私小説の基盤としてこのようなものがあり、それが現在の「進歩的」な文学運動にも全く無くなってしまわない点を注意せねばならない。もちろんこのような狭い文壇文学の中でもある高さや進歩はあるが、それは専ら形式的洗練とか、主観的「心境」の練磨とかいう風に、俳句や短歌などと同じ方向に進んだものである。この枠をこえて、より大きな視野へと努力する思想的な文学や社会的関心の強い文学は「素人」の文学として「純文学」からはねとばされてしまった。一方別の層では粗野な類型化をもった「分りやすい」大衆文学が、軽蔑されつつも雑草のように強くはびこる。(道家忠道「最近の日本文学研究について」)

3)
 文学における独立(自律)に関する問題提起
 以上、筆者なりの整理を挟みながら竹内の見解を紹介してきた。ここでは、本題に入る前提として竹内が提唱する国民文学の内容に触れてみたい。
 竹内によると、かれの「国民文学」という概念は、日本民族が民族として十分に自立してはいない(近代的な意味での民族自律が果たせないでいる)という認識が出発点にあるように思われる。このことは世界一の経済力を誇るところまで登りつめたこの国の現状と照らし合わせて考えるとき、優れて現在的な課題であるといえよう。数こそ大陸のようには多くはないが、明らかにこの国は内部に少数民族を抱えている。加えて、「経済難民」と呼ばれる他民族の大量移入は、年を追うごとに加速しており、いまやかつてこの国の歴史が経験したことのない規模で多民族国家にならざるを得ないという現実に突き当たっている。
 歴史的に存在する少教民族を含めて、他民族との平和的な共存が併立する国家的基盤が形成されて、はじめて21世紀的な「日本民族」というものが民族として自立しうるのではなかろうか、というのが筆者の考えだが、以下では、こうした前提に立って文学の独立(自立)という課題に対して、竹内がどう考えていたかについて検討してみる。
 竹内が「文学の独立」というとき、今日見られるような事態はかれの想像の外にあった。しかし、西欧的合理主義をすべての規範とする近代主義を否定し、アジアから学ぶことに真摯だった竹内は、この国に存在する少数民族を含めた「平和的共存」が可能な国民的意識の形成を指して「民族の自立」という用語を意識して使っていることは、これまでの紹介だけでも明らかだと思う。かれが「国民文学」というとき、そのような意味での国民に受容される文学を問題にしていた、とわたしは考えるのである。

――
文学における独立とは何か、という問題になるわけだが、それをあきらかにするためには、文学における植民地性、という反対概念を考えたらいい。日本の文学が植民地的であることを、私は認める。しかしそれは、占領によって急に植民地化したわけではなく、すでに早く、植民地化への抵抗を放棄したことによってはじまっているのである。だいたいの時期でいうと、「白樺」以降がそうであり、新感覚派以降、それが顕著になり、戦争中に十全の奴隷性を発揮したことによって、戦後に完全に植民地になったと考える。……私は個々の事象についていうのではない。作家なり批評家なりが、もし私小説的方法によらなければ、方法どころかイメージまで外国に借りなければならぬ一般状況をさしていうのである。つまり、創造性を失っているのである。文学における独立とは、この創造性の回復を戦いとることでなければならない。(「文学における独立とはなにか」)

 ここで竹内が「植民地化への抵抗」というとき、それは自国が植民地化されることに対する抵抗だけでなく、他国を自国が植民地化することに対する抵抗を意味している。反植民地化闘争の放棄が、自国をも植民地化するという竹内のこの指摘は、見事に三十年以上を経た今日を射抜いている。世界一の金持ち国とはいうものの、戦後日本が作り得た文化といえば、ソニーのオーディオ機器やトヨタの自動車に代表される商品群とインスタントラーメン以外には、何もないのである。方法どころかイメージまで外国、とくにアメリカから借りなければ商品としての文学も成り立たない現実は、最近の村上春樹の小説世界が雄弁に物語っている。
 経済面では一定の独自性(しかし非常に歪んだものでしかないが)を発揮しているように見えるこの国も、こと文化という意味では際限なくアメリカ文化に侵されている。巷に溢れるカタカナの氾濫はものの見事にそのことを象徴しているが、これに対して国民は、無抵抗・無防備のままにこの〈植民地化〉を受容させられている。これではマズイとは思いつつも、どこからも反撃の声は上がってこないし、成す術もなく手をこまぬいているのが実情である。気づいてみたらこうなっていた、という状況の真っただ中にいることを、わたしたちは深刻なものとして考えてみる必要があるのではなかろうか。
 明治維新が革命であったか否かについては、かねてから多くの議論があるが、植民地化の拒否ということを文化の自立という次元まで貫いたという意味では世界史に誇りうる事業だったとする説を、六月号の『月刊Asahi』で司馬遼太郎が説いている。
 司馬は、われわれの先人が幕末から明治のかけて短い時間に何万という造語を試み、そのようにして造り上げた日本語を成熟させるために維新後三十年の歳月を必要としたことを指摘する。その血の滲み出るような努力を単なる「猿真似」と呼んで片付けてよいものだろうか、というのが司馬の問題意識だが、大和言葉しかもたなかった古代にも、われわれの先人は当時もっとも進んだ文明を象徴する漢字を移入することによって、独自の文化を形成する基盤を作った経緯がある。近代西洋が作り上げた方法と概念を移入するに当たって、かつて先人が移入した漢字と漢字によって形成される概念を拡張させて「明治日本語」は創出されたのである。独自の文明を築くことを成し得ていないという意味では、猿真似に猿真似を重ねたといえなくもない。が、そのような試みを成し得なかった漢字圏の中国と朝鮮に、かつての借りを返すほどの意味を持つ重要な試みだったことに疑う余地はない。
 カタカナ語の氾濫に象徴される昨今の欧米文化の垂れ流しは、現代の知識人が幕末や明治の知識人はおろか、古代人ほどの気概さえ喪失していることの証左でなくて何であろうか。

4 権力と芸術および芸術家の関係について

 知識人の気概の喪失という問題は、芸術家である文学者の気概の喪失として、自分に引き寄せて考えることをわれわれに迫る。そこで、ここでは竹内の芸術(家)観に触れてみる。
 竹内の芸術(家)観はきわめてラジカルである。竹内は、芸術家はつねに革新的であらねばならず、「革新という全的な否定行為に出る」ために芸術家は「失うものを何ももたぬもの=本質においては革命家」でなけらばならないという。次に紹介する叙述はその典型である。ここでかれの念頭にある「芸術家像」が、かれが尊敬してやまない魯迅であることは疑う余地がない。

――
芸術家は、自己をふくめての一切がかれに〔とって〕不満であるときに、芸術家となる。芸術家は全体に関するもので、部分に関するものではない。観念的なコトバなり、何かよりかかるものがあれば、芸術家になれない。〔なぜなら〕かれは失うべきものをもっているから。(「文学革命とエネルギイ」)

 そういう芸術家が現れない理由を竹内は、「なぜ日本の文学には革新がないか。これは、イデオロギイ的にはいろいろ説明がつくだろうが、私は、伝統が弱いからだと思う。しかし、伝統が弱いということは、一方からいえば、伝統が意織されぬくらい深くしみついているという、伝統の構造的な強さを意味している」からであるいう。ここで竹内がいう「伝統の構造的な強さ」とは、ほかならぬ天皇制の存在であることは言を待たない。
 ここまでなら誰でもいうことであり、あえて紹介する必要がないことだが、竹内の特徴は権力と芸術の関係を次のように捉えていることであり、われわれが、今、考えなければならないポイントでもある。

――
権力との関係での芸術の不安の種は、ほぼ三つある。一つは大衆社会状況の成立である。もう一つはファシズムであり、最後の一つはコミュニズムである。この三者は、相互に関連して、補いあう部分と反発する部分とをもっているが、古典近代のイメージを内部から破壊するはたらきの点では一致しており、あらわれた時期もほとんど同時である。芸術の自由の主題は、今日では、この三者に対する態度決定にほとんどしぼられており、古典近代のイメージをそこでどう調和させるかが、それぞれの芸術のジャンル、流派、風潮、および芸術家の個性の選択事項になっている。(「権力と芸術」)

 筆者は、この論文の発表が一九五八年の四月であることに注目する。58年といえば共産主義者同盟が発足した年であるが、第一次羽田闘争は翌年のことであり、論文の執筆時点では、共産党が「唯一の前術党」としての神話を誇っていた時期である。この時期に、反共主義者ならいざ知らず、竹内のような人物がコミニュズムをファッシズムや大衆社会状況と並ぶ、芸術との関係では「対立関係にあるもの」として捉えていたことは、驚異に値する。
 「竹内好全集」第九巻に添えられた「月報11」で、さねとうけいしゅうは次のようなエピソードを紹介している。

――
一九五八年、中国は日本の文化人を大勢招待した。安倍能成が団長になり……中国研究家には倉石武四郎・竹内好があった。竹内だけは招待に応じなかった。なぜだろう? 招かれていったのでは、自由な発言ができないからではなかろうか? 安保反対運動のある集まりのとき、わたしはかれに、そういって、きいてみたことがある。かれは肯定もせず、否定もしなかった。

 さねとうの問いに対して、沈黙をもって応えざるを得なかった竹内の心境は複雑だったはずである。国交回復する以前の中国は、ごく限られた者だけが訪問を許されるという時代であり、スターリンの鎖国政策が「鉄のカーテン」と呼ばれていたのをもじって、中国の鎖国政策は「竹のカーテン」と呼ばれた時代のことである。中国に関しては誰よりも愛着を持っていただろう竹内にとって、招待されながらそれを断るということは、迷いに迷った末の決断だっただろうし、並外れた勇気が要ることでもあったに違いない。
 筆者は、このエピソードに、魯迅から最良の近代知識人の在り方を学び取った竹内を、見る。
 周知のように、魯迅は、中国の近代化を計るためには、西欧の中世以前の状態にある中国にあっては魂の革命が必要であると考え、文学を通じてそれを実現しようとした人物である。積年にわたる特殊中国的な迷蒙は深く、絶望的であったことから、そこから脱却する道を西欧の近代化に求めた魯迅は、ある意味では近代主義者としての側面を色濃くもっている。漢字を愚民政策を象徴するものとしてとらえ、表音文字に代えることなしに中国の民衆は解放されないとする魯迅は、漢字と漢字が生みだした文化そのものを否定しかねない主張を展開したことなどが、それである。しかし、魯迅は、単純な近代主義者ではなかった。優れた国際主義者がそうであるように、かれは優れた民族主義者でもあった。若い文学志望者に向けて、古典などは続むなという一方で、自らは、古典の中から生きた民衆のたくましさを、渾身の力を振り絞って掬い上げようとした人だった。魯迅が「阿Q正伝」一作で国民作家としての地歩を築けた根拠と、その地位が今日に至るもゆるぎない根拠は、ここにある。

 国民文学論争は、立場の違いを超えた多くの文学者が参加した論争だった。竹内の提起に伊藤整が応じる形でスタートした論争に、当時所感派に属していた野間宏が『人民文学』誌上から反論を加え、国際派が占拠していた『新日本文学』からは蔵原惟人や菊池章一が反論をしたほかに、臼井吉見や福田恒存までの名の知れた文学者のほとんどが、この論争に参加している。新日文についても、野間宏、小田切秀雄、菊池章一、猪野謙二などの現会員が論争に参加している。そのことを考えるなら、かれらの主張も紹介しながら内容を検証するのが本来のあり方であるに違いない。そのことを承知のうえで、筆者は竹内のみに依拠して論を進めてきた。この節のテーマにからむことでもあるので、その理由を以下で簡単に述べることにする。
 野間の批判に対して、竹内は「いちばん充実していて、掘下げが深い」ことを認めている。菊池の批判にも「よく調べていて相当の力作である」と評価している。その一方で、竹内は、次のような事情を指摘する。

――
国民文学が提唱されたのは、前に述べたように、文学の一般的危機の認識の上に立って、それを救う(したがって人間の自由を救う)ためであったが、同時に、民族的危機(政治的危機)からの脱出の願望がそれに重なっていたのである。そのために国民文学論は勢いをえたが、一方ではそのために議論が複雑になった。それが野間対竹内の論争にも尾を引いているし、野間、竹内を一括した菊地氏の批評にも尾を引いている。……この二つの雑誌(「人民文学」と「新日本文学」)は、日本共産党の中の二つの流れに対応する形になっていた。その傾向は、俗な言い方をすれば、「人民文学」がヨリ政治主義的、「新日本文学」がヨリ文学主義的であった。その当然の帰結として、国民文学というかけ声にとびついたのは「人民文学」の方であった。……「新日本文学」の方は、政治をそのままナマの形で文学論にもちこむのは誤りだと考えていたので、……「人民文学」への対抗意識ないし反感から、ますます「国民文学」を敬遠するようになったのである。(「文学における独立とはなにか」)

 竹内が指摘するように、当時の党員文学者の発想は、一人の表現者である以前に「彼が属する綱領的立場」を優先するというものだった。そのことは、議論を複雑なものにしただけでなく、尻切れトンボなものにしてしまう結果にもつながっている。竹内の次のような指摘は、そのことを何よりも雄弁に物語っている。

――
この叙述〔野間が綱領を引用して叙述した部分〕はあきらかに、日本共産党の綱領の知織で書かれている。文学の自律性についての、確信に満ちた、ひびきの高いコトバとくらべると、まったく別人のようである。文学者としての野間氏は、このような没個性の文章が書ける人ではないが、それがこのような文章を書き、その矛盾を自覚していないことに、私は党員芸術家の悲劇を見る。……私は綱領を引用して悪いというのではない。文学的に処理されていないのがいけないのである。(「文学の自律性など」)

 当時の論争と無縁な筆者のような立場から見るかぎり、真に自立した表現者としては、竹内好の存在しか見えてこないのである。ここで問題なのは、非党員文学者は竹内のみでなかったにもかかわらず、竹内がかくも見事に自立することができたのは、なぜ可能だったのかということである。
 筆者は、先に「竹内が魯迅から最良の知織人のあり方を学んだ」と書いた。医者として人間を個別に治療することによっては、絶望的なほどに迷蒙な民族を解放することはできないと自覚した魯迅は、何よりも精神における解放が果たされなければならないと考え、魂の医者であることを選んだ。この覚醒の過程における苦悩の深さは、かれの生涯を厳しく規定している。優れた詩人であり、小説家であった魯迅であるが、生涯に書き残した作品と呼べるものは二十巻の全集(学習研究社版)のうちでわずか三巻、七分の一程度にすぎず、しかもそれらの多くは初期の段階で書かれたものであり、その精力の大半は、かれ自身が雑文と呼んだ短評を書くことに費やされている。この事実は、魯迅が自らの表現を、絶えず〈現実〉に置いていたことを物語っている。この節の冒頭で、筆者は竹内の芸術(家)観を紹介して、それを竹内が魯迅から学んだことを指摘した。野間のような優れた文学者ですら、党員であることの制約から逃れられないことを、竹内は魯迅を学ぶことによってつかんでいたのである。
 55年代の日共以上に、30年代の中共は「唯一の前衛」であった。そういう時代にあって、魂の解放という大事業を果たすためには、党がもつ物神性から自由であるという条件が、魯迅にとっては欠かせないものだったのである。魯迅と同様に、外野から見るかぎり秘密党員としてしか映らないところまで日共に近づきながら、竹内は、肝心なところでは断固として譲ることなく、明確な一線を画すことをやめなかった。この自律の精神こそ、いま、われわれが学ばなければならないことなのである。
 愛択革が、「文学運動のペレストロイカ、その民衆性」と題して五百号で提起した問題提起は、11回大会以降、「前衛党」との関係で緊張感を喪失した新日本文学会が、衰退の一途をたどり低迷を続けていることに対する、問題の核心に迫るこれまでにはなかった提起なのである。

 三十年以上も前に、竹内が「伸び悩み」を指摘した新日文は、現在、より深刻な状況にある。伸び悩みなどという奇麗事では済まされないほど深刻である、といっていい。新日文だけが危機であるなら、さして驚くに値しない。が、その危機は、この国が置かれている状況を受動的に反映したものであることから、危機の深さは、魯迅が抱えていたものと比べてより深くはあれ浅くはない、と筆者は考えている。特効薬などを期待できないからには、竹内流に表現すれば「手で掘るように」してでも、この現状を突破しなければならないのだ。
 現在の「新日文」がマイナーであることに疑う余地はない。問題は、マイナーであること自体ではなく、マイナーであることに安住する傾向が問題なのである。あえて挑発的な言い方をすれば、三十年以上も前に竹内に指摘されたギルド的存在から、現在に至るも新日本文学会が抜け出ていないことに問題があるのである。
 まずは、次の指摘を読んでいただきたい。

――
私は、読者の数が芸術的価値をはかる規準だといっているのではない。短い時間をとれば、この両者は一致しないのが普通である。先駆的な芸術は、その先駆性のゆえに当代に認められないが、そのことは芸術家の光栄であって、卑俗な芸術家よりかれが劣っていることにはならない。一時的な人気は作品の価値を左右しない。流行は人為的に作り出されることが非常に多いから。ただ、この逆は成立しないので、読者が少ないから作品の価値が高いということには絶対にならない。よくフランスの例などを引いて、すぐれた作家は大衆の低い理解力を問題にしないということで純文学を弁護する批評家がいるが、この類比はまちがっている。純粋の創作衝動というものは、つねに現状の否定から出発するから、そこには孤立意識がつきまとっている。現状との妥協において読者に媚びることは芸術家としての自殺行為である。だがそれは、読者を変革することによって多数を獲得しうるという期待を含むものであって、いわばその少数者は可能的多数者としての少数者であるから、日本の場合とちがう。日本の純文学の場合には、現状を変革するという期待を含まぬ、自足圏内でなれあっている少数者にすぎない。おなじように見える孤立の意識でも、まったく反対だ。むしろ日本の場合は、孤立の意識とはいえないもので、多数に媚びることができないから少数に媚びている程度のものだ。したがって、日本の純文学は、一般的にいえば通俗史文学よりも通俗的である。
 問題を吉川英治に戻していえば、かれの作品がよくよまれるのは、その芸術性においてよまれるので、芸術性と離れた大衆性においてよまれるのではない。多数の読者に媚びるのが通俗作品で、少赦の読者に媚びるのが芸術作品であるという区別は、文壇ギルド内部でしか通用しない価値判断である。
――
民主主義文学と自称する陣営にいる批評家は、吉川を反動ときめていて、それと戦わねばならぬことを口癖にしている。しかし、だれが、いかにして戦うのか。戦うためには敵を知らなければならぬが、かれらは吉川を研究しているだろうか。太宰治はデカダンであり、吉川は反動であるという風に、かれらはレッテルをはることは知っているが、どうも研究しているようには見えない。日本でいちばん続まれる吉川英治を捨てておいて、自分たちの仲間だけでいちゃついているやり方を見ていると、かれらは本気でファシズムと戦う気がないのではないかと疑いたくなる。
――
日本では、批評は文壇というギルド社会に従属している。文壇は純文学という手工業製品を自家消費のために単純再生産している。批評家はその職人に寄食して職人的な勘で、仲間同志のコトバでいいあっている。こういう自足的な、閉ざされた社会の内部にいるかぎり、外とのつながりは出てこない。純文学という商品の特徴は、それが自家消費のための生産であること、生産者が同時に消費者である点にある。その純文学に寄食するのだから、批評にも独立性があるわけはない。
――
ギルドの内部にいる批評家は、その寄食性のために、大衆のもつ芸術的感覚というものが正しく見えない。そこで、芸術性と大衆性を別のものとして表象するようになる。芸術的にすぐれていることと、よくよまれることとは、本来的に一致しないと独断している。芸術性をもつ純文学と大衆性をもつ大衆文学という観念上の区別は、このような分裂した意識の自己表現である。(いずれも「吉川英治論」から)

 長い引用を重ねたが、正直のところ紙副が許すなら全文を引用したいというのが筆者の実感である。それほど竹内の指摘は、鋭く現在の新日本文学会の弱点を指摘していると思うからである。このことを逆にいうと、この三十七年の間、新日本文学会は、ここで指摘された問題点に取り組んでこなかったことを意味している。もっとも、まったく取り組んでこなかったというと、事実に反する。確かに、7712月号の『新日本文学』は「なにが大衆の文学が」と題する特集を組んでいる。季刊になってからも、89年春号でいわゆる「大衆文学」が批評の対象になったことは事実である。
 筆者が問題にしたいのは、大衆文学を十年間に一度しか取り上げてこなかったことではない。前者に色濃く表れており、その色彩が薄れているとはいえ、後者にも見え隠れする「国民的規模で読まれている文学」に対する軽視の思想である。かつて吉川を反動と決め付け、レッテルを張ることによって「敵を知ること」を怠った過ちが、深刻なものとしてとらえられてはいないのだ。あらかじめ批判することが前提にあり、敵からも学ぼうという姿勢がないのである。「ない」と断定することに対して「いやそうではない」という声が聞こえてきそうである。
 7712号の編集後記は、次のように特集を企画した意図を述べている。

――
文学に〈純〉も〈大衆〉もない、文学それ自体であるはずのものだ。という説は、ひるがえせば、いわゆる〈純文学〉と〈大衆文学〉が、ひとつの差別として存在していた証拠であって、これは日本の近代文化形成の事情に発する。……〔よく売れている小説には〕小説の持つべき原初の力が、そこに生きているのではないか。それをどのように回復し、そうしてこの商品社会を突き抜けてゆくべきかという展望を求めて、まずはその雑然たるエネルギーへの注目として、この特集を組んだ。

 この編集後記の誤りは、純文学と大衆文学という「差別」の発生の原因を、日本の近代文化形成一般の問題にずらしていることにある。事実は、これまでの叙述で明らかなように、ギルド的な性格を持った「文壇(ないし新日本文学会を含む文壇的なもの)」が、文学というものを一種至高な存在に崇めたてることのなかから生み出された「差別」であり、近代文化の形成期一般に解消すべき性格のものではないのである。

 [通俗文学・大衆文学に対して]多く売れることを期待せず、純粋に芸術的な意図の下に作られる文芸作品。
 これは、新明解国語辞典の「純文学」の項にある記述である。手元にある他の辞書にはこのようにあからさまな記述はないだけに、純文学なるものの本質を見事に突いている。志を持たない文学が感動をもたらすことは、ないといってもよかろう。しかし、竹内が指摘するように、逆は必ずしも真にはならないのだ。「売れないこと」と「文壇に所属するか否か」をモノサシにして「志の有無」を計り、売れるもの=大衆に迎合するものとして切り捨ててきた結果が、「純文学」などというおかしなものを生み出してきたのである。このことについての反省がないから、「雑然たるエネルギーに注目」するにとどまり、そのエネルギーが秘めている「原初の力=芸術的力」を究明するところまで発想が届かないのである。そのことは、この特集が「雑然たるエネルギーに注目」し、いろいろな書き手を扱いながら、いわゆる「純文学」の側から見てもっとも不可解な、それゆえに魅力的な深沢七郎にページを割くことができなかったこととも密接に関連している。
 司馬遼太郎論にしても同じことがいえる。まずは、8ポ三段組みとはいえ、筆者自身が「国民文学」と表現せざるを得ないほどに国民的規模で続まれている司馬を、わずか二ページで批評すること自体が不遜なのだ。司馬を二ページで検証するなど、吉川を二ページで検証する以上に困難である。原稿を依頼するほうにも、依頼されたからといって書くほうにも、敵を知りつくすという姿勢が欠けらもないのである。だから、加藤周一や菊地昌典などの司馬の史観に対する異議申し立てを支持し、ぜいぜいのところ「問題は司馬史観そのものよりも、司馬文学を読むわれわれのなかの史観の空白を考えなおしてみることに集約されなければならないようである。」という程度のおそまつなことしかいえないだ。では、89年春号はどうか。十年前に比べれば、編集者にも執筆者にも、いわゆる「大衆文学」と呼ばれるものに対する偏見はない。そういうものから何かを学ぼうという姿勢が感じられることもたしかだ。しかし、それは不発に終わっており、その限りではまだ完全に乳離れしているとはいえない。

                      1989.10