私の20世紀
Ⅰ部(1917~22)
ロシア革命の経験は、私のながらく抱懐していた思想、自由は民主主義的ではなくして、貴族主義的である、ということの正しさを証明した。自由は蜂起する群衆の関知するところではなく、また必要なものでもないのである。彼らは自由の重荷に耐ええない。このことをドストエフスキーは深く理解していた。西欧におけるファシズム運動もまたこの思想を理解したのである。ファシズム運動は大審問官の徴{しるし}のもとに――パンのための自由の放棄、のもとに立っているのである。ロシア・コミュニズムにおいては、権力への意志が自由への意志よりも強いことが実証された。コミュニズムにおいては、帝国主義的要素が革命的、社会的要素よりも優勢である。 ――A・ベルジャーエフ
1章 ウェーバーのロシア革命論
1. その概要
ロシア革命は2つの革命から成っている。05年の1月および12月の蜂起と17年2月の蜂起および10月(いずれも旧暦)のボリシェヴィキによるクー・デタである。前者を第1次革命、後者を第2次革命と呼ぶが、前者が体制側に押し切られて権力奪取に至らなかったのに対して、後者のクー・デタは帝政を打倒したあとの臨時政府(中身はどうあれ革命政権である)の権力を簒奪し、いらい74年にわたってロシアを支配した。そのことがあずかって、ふつうは17年の10月クー・デタをもってロシア革命ということが一般的である。
マックス・ウェーバーのロシア革命論としてまとまった残されているものは4つある。そのうちの2つは、いわゆる第1次革命に関するもので、分量的にも大きい。原注も含めると邦訳で140ページと330ページになるもので、ウェーバーならでの本格的なロシア革命論である。あとの2つは、いわゆる第2次革命の2月蜂起にかかわるもので、分量的にもさほど大きくない。内容的には第1次大戦末期のドイツの対外政策、とくに和平政策推進の観点からロシアで起こったこの政変をどう評価するかという視点から述べた時論的色彩の濃いものである。
第1次革命について論じたもののうち早く書かれたものの標題は「ロシアにおける市民的民主主義の状態について」(邦訳では第一論文と略称している)、あとに書かれたものが「ロシアの外見的立憲制への移行」(第二論文と略称)で、いずれも『マックス・ウェーバー全集』第1部第10巻に収録されている。
17年2月革命について論じたもののうち1つは「ロシアの外見的民主主義への移行」(第三論文と略称)であり、17年4月に発表されたもの。もう1つは「ロシア革命と講和」(第四論文と略称)で同年5月に発表されたものであり、いずれも『全集』第1部第15巻に収録されている。邦訳は雀部幸隆と肥前榮一を中心とする名大グループによっておこなわれ、第一、第三および第四論文を『ロシア革命論Ⅰ』(97)、第2論文が『ロシア革命論Ⅱ』(98)に名古屋大学出版会によって刊行されている。
2. 刊行が遅れた理由
ウェーバーにロシア革命を論じたものがあることはごく少数の研究者には知られており、邦訳もあった。が、いずれも部分訳であることもあって、ウェーバー学者のあいだでも議論の対象に挙がることなくここまできたというのが実情だった。この事情は欧米でも似たようなもので、ウェーバー没後60年を記念して『全集』の刊行が始まり、前述した10巻と15巻の刊行があって議論が始まったようである。
当初は人類の希望の星とまでいわれた「ロシア革命」が、そのうたい文句とは裏腹にとんでもないものであることが『全体主義の起源』で明かされたこと、加えて91年にソ連崩壊という20世紀最大の事件があったことを考えれば、これは不可解なことだといえる。
では、なぜ、刊行がここまで遅れてしまったのか。
つめていうと、その理由は書いた本人がこの論文を時論的な「編年記」呼んで、厳密な学術論文でないゆえんを機会あるごとに強調していたことにある。大先生が自らそういっているんだからということで、弟子たちがそれに引きずられたということに尽きる。大学者によくあることだが、忠実な弟子はいても師と同じ目線をもつ弟子は、そうおいそれとはいないということである。
結果、死後60年を期して全集を出すということがあって、はじめてこの論文は日の目を見ることになったというのが実情であるらしい。
3. 動機
この論文を書いたおりのウェーバーの主要な研究対象は、東エルベ農村労働者問題だった。つまり、ロシア同様、深刻な農業・農民問題を抱えていたドイツの国内に彼の関心はあったといえる。そのウェーバーの関心を、ロシアに引きつけたのは05年のロシア革命だった。ロシアがドイツと同じように深刻な農業問題を抱えていたこともある。ロシアの民主化が進めば、うしろからの脅威がいくぶんかでも緩和されるとする彼に特有の民族意識もあっただろう。しかし、そのこと以上にウェーバーが抱懐していたのは、彼独自の理念だった。
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でアメリカの可能性を論じたウェーバーは、アメリカに若々しいあるべき民主主義の姿を見ていた。と同時にロシアを、それが遅れた国であるゆえに資本主義の「悪」に汚されていないものを見ていた。この2つの国が世界をリードする時代に期待し、そこに資本主義があるべき未来の姿を見ていたのである。そこに起こった05年の革命は、ウェーバーにしてみれば、なにをさておいても取り組むべき課題だったのである。だが、国内メディアが報じるロシアの情報は、拝外主義的なバイアスがかったものであり、彼の慾求を満たすものではなかった。どうしても事件の経過を自分の目で確かめようとしたウェーバーは、マリアンネ夫人の証言によると数週間でロシア語を修得したという。類い希な能力の持主だったとはいえ、なみの集中力では不可能なことである。ウェーバーの意気込みを感じさせるエピソードである。(以下、稿を改めて書くことにする。その理由について別記を参照のこと。)
【付記】
以下、稿を改める理由について書くことにした理由について要点を書く。
1) ウェーバーのロシア革命論は、分析の中心に80パーセントが農民で占められているロシアの現実に視座を据える。そこにはロシアにおける「非西欧的原理」の典型ともいうべきロシアに固有の原始共産主義的共同体=「オプシチーナ」と呼ばれる体制の問題、伝統的な地主階級の協議機関であるゼムストヴオが築いてきた正と負の遺産の分析、ふつうは農民的小営業と訳されるクスターリと呼ばれる家内制手工業など、ロシアに固有の農村にからむ構造の詳細な分析がある。
右に挙げた3つの歴史的存在は、いずれも正負の2つの側面をもつ一筋縄ではいかないものである。最小限度、この3つについて、基本的な認識を頭に入れないことにはウェーバーがなにを提起しようとしているのかがわからない。また、レーニンが採用した政策や方針の裏側も読み取ることができない。
2) ロシア革命は多くの革命家や思想家を輩出した。が、ウェーバーと同じような視座を据えてロシアを分析しているのはレーニンだけであり、彼のほかに農業・農民問題に真正面から取り組んだものはいない。
ロシアの将来が農業問題にあるという視座の据え方で両者は同じだが、分析する両者の抱懐する思想のあり方には相容れないものがあり、当然のことながら導き出される方向性にも違いが出てくる。ここから、互いに相手を意識することになり、直接ではないものの両者のあいだには激しい議論が交わされている。この議論は、最終的にはレーニンが主張する独裁を是認するか否かというところに収斂するものであるだけに、両者の主張についてそれなりに得心しないことには軽々に論じられない側面がある。その準備が、今号の私にはもてなかった。
3) そうであるなら、中途半端な形で書くことなどはせずに、いっそのことこの章を外してしまうことも考えた。しかし、私が試みようしているのは、ロシアとロシアを震源地として開花した全体主義としてのボリシェビズムの検証にある。そのことを考えると、最大の問題である農業・農民問題から取りかからないことには武器をもたないまま戦に臨むことになる――と私は判断した。それだけウェーバーのロシア革命論は重みをもつものであると私には映ったのである。だから、それだけは避けなければなるまいと考えたことが1つ。もう1つは、前にふれたことだが、まずは全体を素描してグランドデザインを描くための材料を確保し、しかるのちに時間不足のために書こうと試みながら留保してあるものを盛り込むことによって全体をふくらませるという作業に入る。そのことををもってつぎに稿を進める――という当初の方針を貫くためにも、時間が許す範囲内で書けるだけよいから、まずは書いてしまうべきだと判断したのである。
2章 1917年の「革命」
では、17年10月の「革命」とはいかなるものだったのか。このクー・デタの現場に立ち会った生き証人の観察と「革命」の翌年に生まれたロシアの知識人の見解を紹介しよう。
1. 同時代人の観察
《革命の一年まえにモスクワで秘密の政治集会が開かれた。これらの集会には知識階級の左翼の分子もまた参加した、しかし過激な者は参加していなかった。穏健な社会民主党員と社会主義革命家および左寄りの立憲民主党員、いわゆる「カデット」が出席するのをつねとした。E・クスコヴァとS・プロコポヴィチが中心人物であった。A・ポトレソフはヴェーラ・ザスーリッチと腕を組んでやって来た。彼女は当時すでに高齢に達していた。ボリシェヴィキ派のスクヴォルツェフ・スチェパーノフ、のちの『イズヴェスチヤ』の主筆、も二、三度出席した。私はこれらの集会に積極的に参加し、ときおりは議長席にもついた。さまざまの革命的、野党的傾向を代表しているこれらの人々はすべて、自分たちが統御することも、自分自身の意識にしたがって操縦することもできぬ自然力的、運命的な力に支配されていると思っている、このような印象を私はうけた。いつもそうであるように、私はこの団体との連帯感をまったくもたなかった。実際、私が能動的に振舞ったときでさえ、私はよそ人であり、遠くかけ離れた者であった。二月革命がはじまったとき、私はこれらの団体のどれにも親近を感じなかった*。革命が勃発したとき、私は私自身を無縁、無用の余計者と感じた。私ははなはだしい孤独を感じた。革命的インテリゲンチャの代表者たちが臨時政府のなかで出世欲にとりつかれ、掌をかえして顕栄の官吏になったことが、私の嫌悪を非常にそそった。人間の豹変性は私の生涯のなかでもっとも苦渋にみちた印象の一つである。私はこの現象を敗北後のフランスでもふたたび観察した。「自由を愛する」二月革命のあまたの事柄が私を反撥させた。恐怖に満ちた一九一七年の夏のあいだ、私はとくにいやな思いをした。私は当時の数多くの集会に出席し、その環境のなかで限りなく不幸を感じ、ボリシェヴィキの力の増大を明瞭に感得した。私は二度とそこを訪れなかった。革命が二月の段階で停止しようはずのないことは、私には火をみるよりあきらかであった。革命は無血的で同時に自由愛好的でありえようはずがなかった。奇妙に聞こえるであろうが、一九一七年の夏と秋よりも十月革命いごのソヴェート時代の方が、私には快よかったのである**。すでに当時私は内的な震憶を経験しており、諸事件を独自に解釈することができるようになって、きわめて積極的に働きかけはじめていた。私は多くの講義を行ない、講演会を催おし、執筆にはげみ、論争し、著作家連盟のなかで非常に積極的に活動し、「精神文化のための自由アカデミー」を設立した。前線でロシア軍の大規模な逃亡がはじまったとき、私は大きな衝撃をうけた。おそらくこの場合には、私が古い軍人家族に属し、私の先祖たちがゲオルギ勲章凧用の騎兵であったことと結びついている伝統的感情が、私の内部に燃えあがったのであろう。しばらくのあいだ私は名状し難い苦悩におちこんだ。私は旧軍隊の将軍たちとの連帯性を宜明する用意があった、しかし実際には、そのようなものは私には縁もゆかりもなかったのである。そののち私の内部に一つの決定的な深化過程がおこった。私は諸種の事件をより多く精神的地平において体感した。そして私は、ボリシェヴィズムの経験を通過することがロシアにとって絶対的に不可避であることを、認識した。これはロシア民族の内的運命の瞬間であり、その実存的弁証法である。ボリシェヴィキ革命いぜんにあったものへの逆行はありえない。旧秩序再建のすべての試みは無力、有害である、たとえそれが二月革命の諸原理の復元であったとしても! もし可能なものがあるとすれば、それはヘーゲル的意味における「止揚」だけであろう。しかし意識のこの深化は私にとっては決してボリシェヴィキの暴力との和解を意味しなかった。一九一七年の十月には私はまだはげしい感情の嵐につつまれていて、十分に精神的ではなかった。なんらかの理由で私は短期間ソヴェート共和国の構成員、いわゆる「予備議会」に所属させられたが、これは私にはまったく似つかわしくなく、きわめて愚かしいことであった。私はそこであらゆる色合いの革命的ロシアに通暁した。そこには多くの昔の知人がいた。そこでいぜんの被迫害者、かつては非合法的に、或るいは亡命者として生活し、そしていまは――権力のあたらしい坐についている! そういう人々に再会することが、私を苦しめた。私はどんな国家権力にたいしてもつねに嫌感を感じた。私は、非常に戦闘的な気分になっていたので、数人のいぜんの知人にはもはや挨拶もしなかった。のちになって私はこれらすべてのことに超然たる態度をとることを学んだ***。
* 二月革命の日々N・A(ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ベルジャーエフ)の革命活動はつねに非凡な、英雄的な行動としてのみ示された。私はいまもあの日のことをありありとおぼえている。ぺテルブルグから革命勃発の報知がとどいた。モスクワの通りを人々の群れが行進し、口から口へありそうもない噂が伝わった。市の雰囲気は灼熟していた。いまにも爆発がおこりそうな気配であった。N・A、私の姉妹、それに私は、馬場をめざして押し寄せていた革命大衆に加わろうと決心した。私たちがちかくまで行ったとき、馬場はすでに大群衆によってとりまかれていた。馬場に隣接した広場では隊列を組んだ軍隊がまさに火ぶたをきらんとして行進していた。威嚇的な群衆はしだいしだいにちかづき、びっしりと広場をとりかこんだ。恐ろしい瞬間であった! いまにも一斉射撃の音が炸裂するかと思われた。私はその瞬間にふりかえって、N・Aになにごとかをいおうとした。彼はそこにはいなかった。彼の姿は消え失せていた。私たちがあとで聞いたところによると、彼は群衆をかきわけて軍隊のところまで達し、そこで一場の演説を試み、射たないように、血を流さないようにと、兵士たちに勧告した……軍隊は射撃しなかった。彼がその場でただちに指揮官によって射殺されなかったのが、こんにちでも私にはまるで奇蹟のように思われる。(エフゲニア・ラップ)
** 十月の日々、つまりボリシェヴィキ革命がおこるまでの会期間中、N・Aはいいようもなく暗鬱な気分におちこんでいた。私たちの多くの友人が感激に満ちて「ロシアの無血革命」という言葉を使ったり、ケレンスキーの美辞麗句を褒めそやしたり、自由と正義の政体の開始を期待したりしたとき、彼が洩らした皮肉な微笑を私は忘れることができない。彼は無血革命が血まみれに終らねばならぬことを知っていたのである。彼は口数がきわめてすくなくなり、悲しげであった。ただときおり、有頂天になって革命を信じている話相手に答えるとき、怒りをこめて、のみならず憤怒を爆発させて、邪悪な革命的要素を糾弾することができた。すると話相手は身をひいた、N・Aを反動者とみなしたからである。
或るとき私は家にひとりでいた。呼鈴がなった。客間の敷居ぎわにA・ベールイが立っていた。挨拶も交わさずに、彼は興奮して訊ねた、「私がいまどこにいたかご存知ですかで」答も待たずに彼は言葉をつづけた、「私はみましたよ、彼を、ケレンスキーを……演説をしていたのです……なん千人という聴衆……彼は 演説を……」そしてベールイは恍惚となったように両腕を天にさし上げた。「私はみましたよ」、彼はつづけた、「一条の光が空から彼のうえに降り注ぐのを。私は(あたらしい人間)の誕生をみました……彼――は――人間――です。」
そのあいだにN・Aは客間に気づかれずに来ていて、ベールイの最後の言葉を聞くと同時に、はじけるよ うな哄笑を爆発させた。ベールイは彼に燃えるような眼差しを役げつけ、いとまも告げずに部屋から走り去った。それからながいあいだ、彼は私たちのところに姿をみせなかった。 E・R
*** 十月の日々、ボリシェヴィキによるモスクワ包囲の際、私たちの家は射程圏内にあった。弾丸が家の窓下で炸裂した。N・Aは平静に彼の書斎にこもって、或る論文を書いていた。炸裂するたびに女中(当時はまだ使用人を雇うことは禁じられていなかった)が金切声をあげたので、物凄い悲鳴が家中を満たした。N・Aは書斎からでできて、しずかに訊ねた、「どうしたというんだね?――べつに変ったことはないのに……」或る晩私たちは彼の書斎に集まった。私たちの上の部屋に同居していた一人の大佐もそこに居合わせた。とつぜん――猛烈な爆裂音。家全体が震動した。それは獰猛な巨人が家を土台から揺さぶったような感じであった。「迫撃砲が命中したんだ」、大佐が叫んだ、「はやく地下室へ!」私たちは階段を駈け下りた。N・Aはしかし一緒ではなかった。彼はまず愛犬をさがし、それを腕にかかえでから地下室へおりて来た。天井がいまにも頭上におちかかってくるのではないかと片唾をのみながら、私たちはそこに数分間とどまっていた。物音一つ聞こえず、あたりはしんかんと静まりかえっていた。翌日大佐づきの女中がN・Aの書斎の上の部屋に不発の留弾をみつけた。E・R》(『わが生涯』A・ベルジャーエフ)
〔E・Rはエフゲニア.ラップのイニシャル。姉のとともにベルジャーエフと生活を共にした同伴者で、『わが生涯』はベルジャーエフの死後に彼女が編集して上梓されたもの。多くを語ることをしなかったベルジャーエフに代わって、このような補注がいくつかのところでおこなわれている。〕
2. 革命後世代の見解
《独裁を打ち立てるときに、新型の牢獄の設置を遅らせるどんな理由があったと言うのか。いや、言いかえると、新旧のいずれにせよ、牢獄の設置は絶対に遅らせてはならなかったのである。すでに十月革命後まだ数カ月も経ないうちにレーニンは、「規律を上げるために、最もきびしい、苛酷な措置を取るよう」要求した。ところで、苛酷な措置というものは、いったい、牢獄抜きでできるものだろうか。この件に関してプロレタリア国家はどのような新しい措置を導入することができるのか。イリイッチは新しい道を手さぐりで捜した。一九一七年十二月、彼は試みに次のような一連の罰則を提唱した。「全財産の没収……本法の違反者すべてを投獄し、前線に送り、強制労働に付すこと」この事実からわれわれは《群島》の指導原理、すなわち、強制労働が十月革命後のすでに最初の月に提唱されていたことを確認することができるのである。
山蜂のぶんぶんと飛びかう香り豊かなラズリフ(ペテルブルク西北三四キロにある別荘地)の草原にのんびり暮しながら、イリイッチは早くも未来の懲罰制度のことを考えなかったわけはないのだ。すでにそのとき彼はぬかりなく計算して、われわれを次のようになだめているのだ。「多数者である昨日までの賃金奴隷が少数者である搾取者を抑圧することは、比較的容易で、簡単で、かつ自然なことであるので」以前の少数者による多数者に対する抑圧と比較すると、「流血もより少なくてすみ……人類にとってより少ない犠牲ですむはずである」と。亡命した統計学者クルガーノフ教授の計算によると、この「比較的簡単な」国内における抑圧は十月革命から一九五九年までにいたる間に……なんと六千六百万人の犠牲者を必要としたのである。もちろん、われわれはこの数字の正しさを保証できないけれども、他の公式数字を持ちあわせていない。》(『収容所列島』木村浩訳)
私の20世紀①
分量が多いので分割して転載します。
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