4章 引き続きベルジャーエフ

1.

《ソヴェートロシアで過した私の生涯のまる五カ年のあいだ、小ヴラス横町のわれわれの家では(私の記憶に間違がなければ)毎火曜日に集会が開かれた。そこでは講演や討論会*が催された。この時期には私はまた公開の席上で、あとにもさきにも経験したことのない大聴衆のまえに登場した。このような或る集会のことを私はとくによく記憶している。アナーキストのクラブ(当時はまだ許されていたのである)がキリストに関する討論会を開催しようとした。彼らは私の参加を望んだ。主教や司教もまた招待された、しかし彼らは姿をみせなかった。出席者はトルストイ信奉者や復活についてのN・フョードロフの埋念をアナーキ的コミュニズムと結びつけようと試みたフョードロフ信奉者、そのほかに単純なアナーキストや単純なコミュニストであった。人々で満ち溢れた広間に入ったとき、私は沸騰点にまで高まって極度に緊張している雰囲気を感じた。そこには多数の赤軍兵士や水兵や労働者がいた。それは革命時代の雰囲気、しかしまだ十分に完成しておらず、まだ十分に組織化されておらぬ雰国気であった。それは一九一九年のはじめのころのことであったか、或るいはたぷん一九一八年末のことであったろう。
* N・Aは、このテロの時代には他の人々との精神的連繋は絶たれてはならず、精神生活は死に絶えてはならないという意見をもっていた。すべての集会が、それがどこで開催されようと、禁止されていた時代に、私たちの家では講演が行なわれ、種々の問題が論議された。もちろんボルシェヴィストを除外してのことだが、極左にはじまって極右におわるさまざまの党派に所属している人々が毎火曜日に集まってくる、こんなことはモスクワで私たちの家一軒であった。冷えきったサロンに、招待された人々は短い毛皮の半外套をっけ、フェルトの長靴をはいて腰を下ろしていた。敷物の上には一面に雪溜りができた。凍えている出席者をすこしでもあたためようと思って、私は白樺の皮でつくった熱い茶を出し、それに人参を細かくすりつぶしてこしらえた小さな菓子を添えた。砂糖はなかった。或るとき友人の一人がルミャンツェフ博物館からフランスの新聞をもってきた。その記事のなかで筆者のP氏は、ボリシェヴィキ革命の時代にロシアには言論の自由が支配していることを指摘し、その証拠として、つぎのようにのベていた。毎火曜日に高名な哲学者ベルジャーエフの邸に多種多様の党派の代表者が会合して、えぞいちご色の絹布で張られた豪華な安楽椅子によりかかり、金めっきの古代茶碗からお茶を飲み、そのうえ小型の素敵な菓子を食べながら、こころおきなく多種多様な問題を論じている、と。この記事の筆者はたいへん素朴で、素晴らしいコミユニズムの神話に感激したあまり、もっとも幸運な場合でも、この記事のためにN・Aが逮捕される危険のあることを夢にも考えていなかったのである。これらの集会こそ彼の逮捕の機縁を与えたのだと、私は信じている。たぶん同じ筆者の手になったと思われる記事が「イズヴェスチャ」にのったことがある。それにはつぎのように書かれていた、木曜日の或る晩、N・A・ベルジャーエフの邸で、レーニンはアンチクリストであるかいなかの問題が論議され、彼はアンチクリストではなくして、ただその先駆者にすぎないという決論が下された、と。 エフゲニア・ラップ》(同書)

2.

《私は、私がソヴェート極力の側からとくべつに迫害されたということはできない。それにしても私は二度逮捕され、チェ・カーとゲ・ぺ・ウに――ながいあいだではなかったが――収監され、そして、これははるかに重大なことであるが、ロシアから追放されて、それいらいほとんど二十五年のあいだ外国でくらしている。最初に私は一九二〇年にいわゆる「戦術中央本部」の事件に連坐して拘置された。この機関とは私は直接の関係をもっていなかったが、私の親しくしていた知人が多数逮捕されたのである。これは結局大きな裁判沙汰になったが、それに私は捲き込まれずにすんだ。かつて私がチェ・カーの内部刑務所に拘留されていたとき、真夜中の十二時ごろに尋問のために呼びだされた。私は暗い廊下や階段を数限りもなくひきまわされ、ついにあかるく照らしだされた、絨毯の敷かれてある清潔な廊下に達し、そこから床に北極熊の毛皮の拡げられている大きなあかあかと照明された書斎に入った。事務机の左手に私に面識のない一人の男が赤色の屋形勲章をつけた軍服姿で立っていた。彼はブロンドで、細いとがった髭をもち、灰色の、濁った、憂鬱そうな眼をしていた。彼の外貌や身のこなしは教育のよさと洗練さをあらわしていた。彼は私に腰をおろすようにすすめて、いった、「私はジェルジンスキーです。」このチェ・カーを創設した男の名前は血にまみれたものと取沙汰されて、全ロシアがそのまえで震えていた。移しい拘禁者のうち、ジェルジンスキーみずからによってとり調べられたのは私一人であった。私の尋問は厳粛な性格を帯びた。この尋問にはカーメネフが姿をみせ「チェ・カーの議長代理であるメンジンスキーもまた立会った。彼とは昔からすこしばかりの面識があった(私はぺテルブルグで彼と出会ったことがあった。当時彼は著述家で、芽の出ない長篇小説作家であった)。私の性質の顕著な特徴は、人生の危険に満ちた、のみならず破局的な瞬間にも、すこしもうちひしがれず、またすこしもたじろがないで――むしろ反対に、躍動を感じて、ただちに攻撃に移ることである。おそらくこれは、私の体内に流れている軍人の血の仕業であろう。私は尋問の際には自分を弁護しないで、問答の全体をイデオロギー問題にひきこむことによって、攻撃をかけようと決心した。私はジェルジンスキーにいった、「私は私の考えていることを卒直にのべることが思想家、著述家としての私の品位にふさわしいことと考えます、このことに御留意願いたい。」ジェルジンスキーは答えた「それこそあなたからわれわれが期待するものです。」そこで私はまだ私に質問がむけられないさきに語ろうと決心した。私はおよそ四十五分間語った。それはまぎれもないひとつの講義であった。私ののべたことはイデオロギー的な性質を帯びていた。私は私がどのような宗教的・哲学的・道徳的根拠から共産主義の敵なのかを、示そうと努めた。同時に私は、私が人間として非政治的であることを頑強に主張した。ジェルジンスキーは注意深く耳を傾け、ただときおり簡単な所見を挿んだ。たとえば彼はこんなことをいった、「理論においては唯物論者、生活においては観念論者の人がいる。また逆に、理論においては――観念論者で生活においては唯物論者の人もいる。」私のながい議論はその誠実さのゆえに、あとで聞くと、彼の気に入ったとのことである。しかしそのあとで彼は特定の人々に関係をもつさまざまの質問を私にむけた。これらの人々に関してはなにひとつ言うまいと私は固く決心していた。私は旧政体のもとにおける尋問にすでにいささかの経験があった。もっとも不快なひとつの質問にたいしては、ジェルジンスキー自身が答を与えて私を困惑から救ってくれた。逮捕された者の多くが自分で自分に不利な申立てをして、その結果彼ら自身の供述が告訴の主因をつくったことを、私はあとで知った。尋問のおわったのち、ジェルジンスキーは私にいった、「私はあなたをただちに釈放します、しかしとくべつの許可なしにモスクワを離れることは禁止されるでしよう。」それから彼はメンジンスキーの方をむいて、「おそくなった。このあたりには迫剥が徘徊している。ベルジャーエフさんを自動車でお宅までお送りできたらよいのだが。」自動車はみつからなかった。しかしオートバイが私を私の手荷物といっしょに自宅まで送ってくれた。刑務所を出るとき、いぜんに近衛騎兵の曹長であった刑務所長が自分で私の所持品をつみこみながら私に訊ねた、「われわれの所はお気に召しましたか?」チェ・カーの監獄行政ははるかに苛酷で、革命の監獄規律は旧政体時代の監獄に比べて非常に俊厳である。われわれは互に完全に遮断されていた。このようなことは昔の監獄ではおこらなかった。ジェルジンスキーはきわめて信念の強固な、公明な人物という印象を私に与えた。彼は卑劣な人間ではなく、彼の本性はたぶん決して酷薄ではなかったと、私は信じている。彼は狂信者だったのだ。彼は魅入られた人間という印象を与えた。彼には或る不気味さが漂っていた。彼はポーランド人であった、そして彼の挙措には或る洗練さが窺われた。彼はかつてカトリックの僧侶になろうと欲したことがあった、それから彼は彼の熱狂的な信仰をコミュニズムに移したのである。逮捕があってからしばらくして、「戦術中央本部」の裁判が開始せられた。それは公開して審理された。傍聴が許可されたので、私はすべての公判に出席した。被告席には私が個人的関係を結んでいた人々の姿も見出だされた。この裁判は私に陰鬱な印象を与えた。一切が演出であって、すべてはすでにあらかじめ決定されていたのである。被告のうちの数人はなみなみならぬ威厳を示した。しかしまた不面目な、卑屈な振舞をした人々もいた。判決はとくべつにおもくはなく、執行猶予が下された。》(同書)
5章 1920――一外国人が見た「革命」直後のソ連

1.
 B・ラッセルのソ連観察

 ボリシェビズムを革命とのからみで批判した西欧の知識人が書いたものとしては、A・ジイドのものが有名である。親ソ連的な小説家として知られていたジイドだが、36年に訪問したソ連の観察からそこで見たものが喧伝されているものとは真逆のものである知り、帰国後の36年に『ソヴィエト紀行』(36)を公刊。さすがはジイドという評判をうる。と同時に左翼からは罵倒に等しい批判が浴びせられ、即座に『ソヴィエト紀行修正』(37)を書いて反論している。早い時期のボリシェビズム批判である。しかし、世界は広い。ジイドのほかにも慧眼の士はおり、ジイドに遡ること16年も前に(ということはスターリン体制が確立する以前に)17年の10月にロシアで強行されたクー・デタが、およそ革命の名に値しないことを告発していた人物がいる。B・ラッセルである。
 ラッセルはベルジャーエフと同じ伝統的な貴族であるが、若いころから資本主義に対しては批判的であり、広い意味の社会主義者でもあった(自らは公然と社会主義者を名乗っている)。そこでマルクスの資本論をつぶさに検証したうえで20世紀直前のドイツに赴き、著名なマルクス主義者との交歓を通じてマルクス主義なるもの、あるいはマルクス主義者なるものを透徹した目で観察している。そこで獲得した視座をもってラッセルは革命直後のロシアを訪れ、ボリシェヴィキがおこなったクー・デタがおよそ革命の名に値しないことを明かしている。
 ラッセルは、新生ロシアを西欧に向かって宣伝してもらうというボリシェヴィキ政権の思惑の下に、イギリス労働党代表団の随行者として20年5月初旬にソ連入りし、6月中旬に出国するまでの約1カ月半、ロシア各地を旅行した。基本的行動については労働党派遣団と行をともにするという条件を除けば、かなり自由に行動することが許されたものだった。
 とはいえ、国境入りしてからの旅程は、「社会革命や万国の労働者などのスローガンを一杯に書きつけた特別の豪華列車で運ばれた」ものであり、「どこでも兵士たちの出迎えを受け」「軍楽隊はインターナショナルの歌を奏し、市民は起立して脱帽し兵士たちは捧げ銃で敬礼し」、「各地の指導者が祝辞を述べ、われわれに同行していた著名な共産党員が答辞を述べ」、「列車への入口は、きらびやかな軍服の堂々たるバシキール騎兵の兵士たちが護衛」するというものであり」、「要するに一切のことが、われわれ一同にイギリス皇太子であるかのように思わせるよう取りしきられていた」。
 視察行はおおむねこのような条件の下におこなわれたものではあったが、ラッセルは代表団の一員ではないという優位性を生かし、通訳の助けをかりて「街路や農村でたまたま出会った普通の人々と多く会話を交し、普通の非政治的な男女の目には全体制がどのように見えているのかを知ることができた」。
 ペテルブルクとモスクワでの滞在には多くの時間がとられたものの、政府要人とも直に接する機会を得て彼らの見解と人柄もうかがうことができた。レーニンとはほとんどふたりだけで1時間ほど話し、同席者はいたがトロツキーとも会い、カーメネフとは一夜をともに過している。野党の政治家と会う完全な自由も許されており、メンシェヴィキやさまざまな党派の活動家ともボルシェヴィキの同席なしに自由に意見を交換している。
 ラッセルは、この視察行を終えた直後に『ボルシェヴィズムの実践と理論』(邦訳は『ロシア共産主義』河合秀和訳)を上梓した。以下に紹介するのは、同時代の外国人が描いたリアルタイムの「新生ロシア」の実態であり、忌憚ない見解である。

1)
 プロレタリア独裁の実態

《ロシア支持のイギリス人たちは、プロレタリアート独裁とはたかだか新しい形態の代議制政府ぐらいのもの――ただし働く男女だけが選挙権を持ち、選挙区は地理ではなく部分的に職業で定められているが――と考えている。彼らは「プロレタリアート」は「プロレタリアート」であるが、「独裁」の方はまったく「独裁」という訳ではないと考えている。これは真実の正反対である。ロシア共産党員が独裁という時、彼はその言葉を文字通りの意味で使っている。しかしプロレタリアートという時には、その言葉には独特の意味がある。プロレタリアートの「階級的に自覚した」部分、つまりは共産党を意味している。(レーニンやチチェリンのように)全然プロレタリアートではないが正しい意見を持つ人々がそれに含まれており、賃金労働者ではあるが正しい意見を持っていないものは、ブルジョワジーの手先として排除されているのである。》

 プロレタリアといいプロレタリアートというからわかりにくくなるが、これを労働者、労働者階級といえば話がわかりやすくなる。早い話がボリシェヴィキの最高指導部(政治局員)で労働者出身はひとりもいない。あとでふれることになるが、クロンシュタットで反乱を起こしたのはほぼ全員が水兵とその家族であるが、ボリシェヴィキに対して武装して反攻したゆえにプロレタリアートではなく「ブルジョワジーの手先として排除」されることになる。

2)
 すでに死滅しかけていたソヴィエト

《私はロシアに行く前は、代議制政府の新形態についての興味ある実験を見に行くのだと想像していた。私は興味ある実験は見たが、代議制政府の実験を見たのではなかった。ボルシェヴィズムに関心のある人は誰でも、村の集会から全ロシア・ソヴィエトにいたる一連の選挙のことを知っている。政府各省にあたる人民委員部の権力はこの選挙から発生すると考えられている。リコール、職業による選挙区等々によって、人民の意志を確認し記録するための新しい、はるかに完全な機構が工夫されたと、われわれは聞かされていた。われわれが研究したいと思っていたことの一つは、この点でソヴィエト体制が議会主義よりも本当に優れているかどうかという問題であった。
 われわれはそのような研究をすることはできなかった。ソヴィエト体制はすでに死滅しかけていたからである。どう工夫しても自由な選挙制度では、都市でも農村でも共産党は多数を得ることはできなかったであろう。そこで政府候補者に勝たせるための色々な方法が採用された。第一に、投票は挙手で行なわれ、政府に反対投票を入れるものはみな要注意人物になる。第二に、共産党員でない候補者は印刷物を出せない。印刷工場はすべて国家の手中にあるからである。第三に、非党員の候補者は集会で演説できない。会場はすべて国有だからである。もちろん新聞はすべて政府のものである。独立の日刊新聞は許されていない。このようなあらゆる障害にもかかわらず、メンシェヴィキはモスクワ・ソヴィエトの千五百議席中四〇許りを得るのに成功した。いくつかの大工場では選挙連動を口伝てで行なうことができ、候補者の名を知らせることができたからである。現実にメンシェヴィキは、争った議席はすべて獲ちとった。
 しかし、モスクワ・ソヴィエトが名目的にモスクワの主権者であるとはいうものの、それは実際には四〇人の執行委員会を選出するための選挙人団にすぎない。この執行委員会から、次いで九人の幹部会が選ばれ、それが全権力を持つのである。全体としてのモスクワ・ソヴィエトは時たましか集まらない。執行委員会は週に一度集まるといわれているが、われわれがモスクワにいる間には開会しなかった。逆に幹部会は毎日集まっている。もちろん政府が執行委員会の選挙に、さらには幹部会の選挙に圧力をかけるのは簡単なことである。自由な言論、自由な新聞が絶対的に完全に抑圧されているために、効果的な抗議はおよそ不可能であることを想起しておかねばならない。その結果、モスクワ・ソヴィエトの幹部会は正統派の共産党員だけで構成されている。
 モスクワ・ソヴィエトの議長カーメネフは、リコールは非常に頻繁に行なわれていると、われわれに打ち明けた。モスクワでは、一月平均三〇件のリコールがあるという。そのリコールの主要な理由が何であるかと私が彼に尋ねると、彼は四つの理由を挙げた。飲酒、前線への出動(したがって議員としての義務を果せなくなる)、選挙人の側での政策の変更、すべてのソヴィエト議員がすることになっている半月に一度の選挙人への報告を怠ったことである。リコールが議員に圧力をかける政府の道具になっているのは明白であるが、この目的で利用されているかどうかを知る機会はなかった。
 農村地域では、用いられている方法はいくらか違っている。村ソヴィエトが共産党員から成るようになるのは不可能である。一般的に言ってもそうであるが、ともかく私の見た村では党員がいないからである。しかし私が村でヴォロスト(村より一つ上の地域)やグーベルニアで村人たちはどう代表されているのかと尋ねたところ、いつも全然代表されていないというのが答であった。私はそれを実証できなかったが、おそらくは言い過ぎなのであろう。しかし、もし彼らが非党員を議員に選んだら、その議員は鉄道のパスを入手できず、だからヴォロストやグーベルニアのソヴィエトに出席できないだろうという主張には、誰もが同意した。私は、サラトフのグーベルニア・ソヴィエトの集会を見学した。議員は、都市労働者が周辺の農民よりも圧倒的に多数になるよう代表制が仕組んであった。しかしそれを考慮に入れても、非常に重要な農業地帯の中心地にしては、農民の比率は驚くべく少なかった。
 全ロシア・ソヴィエトは憲法上の最高機関であり、政府各省に当る人民委員部はこのソヴィエトにたいして責任を負うが、めったに開会されず、ますます形式的なものになっている。私が知り得た限りでは、現在のところその唯一の機能は、憲法がソヴィエトの決議が必要としている問題(特に外交政策にかんする問題)についての共産党の事前の決定を、討議なしで批准することである。
 真の権力は一切、共産党の手中にある。党員は人口約一億二千万のうち、約六〇万を数える。しかし、たまたま党員と出会ったという経験は私には一度もない。私が街や農村で出会って対談するようになった人々は、ほとんど一人残らず支持政党がないと言った。唯一つ別の答が返ってきたのは数人の農民からで、彼らははっきり自分たちは帝政主義者だと言った。農民がボルシェヴィキを嫌う理由は非常に不充分だということを、言っておかねばならない。農民は以前よりも暮し向きがよくなったと言われており、私が見たすべてのことがその主張を確認していた。村では誰一人――男か女か子供かは問わず――、栄養不良らしい人を見かけなかった。大地主は土地を奪われ、農民は利益を得たのだ。しかし都市と軍隊はやはり食糧を必要としており、政府は食糧と交換に農民に与えられるものとしては、紙幣しか持っていない。そして農民は、その紙幣を受け取らざるを得ないことに腹を立てている。帝政のルーブルにはソヴィエトのルーブルの一〇倍もの価値があり、農村ではその方がもっと広く流通しているのは、異常な事実である。帝政ルーブルは非合法であるが、それを一杯入れた札入れは市の開かれているところでは大っぴらに目についた。農民が帝政の復活を期待しているという推測は下すべきではないと、私は思う。農民はたんに習慣と新奇なものを嫌うということで動かされているのだ。彼らは経済封鎖については一度も聞いたことがなく、したがって、彼らの欲しがっている衣服や農機具を何故、政府が彼らに与えられないのかを、理解できないでいる。土地は得たし、近隣の外のことには無知であるから、彼らは自分たちの村が独立することを望み、政府の要求には何であれ腹を立てるのである。
 共産党の内部には、もちろん、官僚制に常にあるようにさまざまな派閥がある――これまでのところ、外からの圧力のために分裂は妨げられてきたが。官僚制の人員は、三種類に分類できるようである。先ず迫害の歳月の試練を受けた古参の革命家がいる。これらの人々が、最高の地位の大半を占めている。牢獄と亡命のために彼らは強硬に、かつ狂信的になり、彼ら自身の国とむしろ疎遠になった。彼らは正直で、共産主義は世界を再生させるという深い信念を抱いている。彼らは自分たちでは感傷はまったくないと思っているが、現実には共産主義と彼らが創出しつつある体制については感傷的である。自分たちの創出しつつあるものが完全な共産主義ではないという事実、また農民たちは自分自身の土地を欲しているだけで、共産主義は大嫌いであるという事実に、彼らは直面できない。彼らは腐敗や泥酔を官吏の間で発見した時には、容赦なく罰する。しかし彼らは、ささやかな腐敗の誘惑がきわめて強いような体制を作り上げており、彼ら自身の唯物論からして、このような体制のもとでは腐敗が横行することを承認すべきなのであろう。
 官僚制の中の第二の部類は、おおよそ最高の地位のすぐ下の政治的職務を占めている連中で、ボルシェヴィズムの物質的成功のために熱心なボルシェヴィキになった立身出世主義者から成っている。ほとんど帝政時代からひき継がれた警察官、スパイ、秘密機関員などの大軍もその中に算えねばならない。彼らは、誰も法を破らずには生きていけないという事実のおかげで儲けている。ボルシェヴィズムのこの側面を例証するのが、非常委員会である。この機関は事実上、政府から独立しており、赤軍よりもよい食物を当てがわれているそれ自身の軍隊を所有している。この機関は、投機や反革命活動の容疑で誰でも裁判なしで投獄できる権限を持っている。これまでまともな裁判なしで何千人も銃殺してきた。今では名目上は死刑を課する権限は失ったが、実際に完全にその権限を失ったのかどうかは、決して確かでない。それはいたるところにスパイを放っており、普通の人間はそれを恐れながら暮している。
 官僚制の第三の部類は、熱心な共産主義者ではないが、政府が安定していることが証明されたために政府を支持して結集してきた人々である。彼らが政府のために働くのは、一つには愛国心のためか、そうでなければ、伝統的諸制度の邪魔を受けずに自分の理想を自由に発展させていく機会を楽しんでいるからかである。この部類には、実業家として成功しそうなタイプの人々、アメリカで独立独歩、トラストの大立物になった人々に見られるのと同じ才能を有しているが、金銭のためではなく成功と権力のために働く人々がいる。疑いもなくボルシェヴィキは、この種の才能を持った人々を公務に登用しながらも、資本主義社会でのように彼らが財を蓄えるのは許さないという問題を解決するのに成功している。おそらくこれは、戦争の分野を別とすれば、これまでのところ彼らが収めた最大の成功であろう。このことから、次のように推測することができよう。ロシアが平和を維持することを許されたなら、驚異的な工業発展が起ってロシアをアメリカのライバルにするという推測である。ボルシェヴィキは、彼らのすべての目標で産業主義者である。彼らは、資本家に過大の報酬を与えることを別とすれば近代工業のあらゆるものを愛している。彼らは労働者に厳しい規律を課しているが、それは、これまで欠けていた勤勉と正直の習慣を何としても自国の労働者に与えることを企図したものである。それが欠けていたばかりに、ロシアは最先進工業諸国の一つになれなかったのだと、いうのである。》

 ボリシェヴィキは「すべての権力をソヴィエトへ!」というスローガンを掲げて権力を奪取し、翌18年には憲法を制定。国名を「ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国」と名乗る。ラッセルのロシア訪問の2年前のことである。22年には国名からロシアが外され「ソヴィエト社会主義共和国連邦」となり、24年に1回目の憲法改訂がおこなれる。以降、36年と77年に改訂されるが、国名から「ソヴィエト」が外されることはない。建前のうえでは、あくまでもロシア語でソヴィエトと呼ばれる自発的な評議会が立国の基礎とされている。が、実態はといえば、ラッセルの報告が記しているとおりであり、その後もより形骸化される一方で2度にわたる革命で示したソヴィエトの生き生きした姿はどこにも見られなくなる。