6章 1921――革命の絞殺

1.
 E・ゴールドマンの回想

《私たちのアピール〔後出〕が功を奏さなかったことは、トロツキーが到着し、クロンシュタットへの彼の最後通牒が発せられたその日〔三月五日〕に明らかとなった。労働者と農民の政府の命令によって、彼はクロンシュタットの水兵と兵士に、あえて「社会主義の祖国にはむかう」ものはすべて「雉のように射殺される」であろう、と宣言した。叛逆した艦船やその乗組員はソヴェト政府の命令にただちに服するか、武力に屈服するかが命ぜられた。無条件に降服するものだけがソヴェト共和国の慈悲をあてにしえたであろう。
 事態は急を告げた。巨大な軍隊が間断なくペトログラードとその近郊に流れこんだ。トロツキーの最後通牒は、「貴様たちを雉のように撃ち殺してやる」という歴史的な威嚇をもったブリカース(命令状)のようなものであった。そこでペトログラードにいるアナキストの一団は、ボリシェヴィキにクロンシュタット攻撃の決心を今一度ひるがえさせようという最後の努力を試みた。彼らは、たとえそれが望みないことであっても、ロシヤ革命の華であるクロンシュタットの労働者や農民に対して明日にも行なわれようとする虐殺を防止するために力を尽すことが、革命に対する義務であると考えたのだ。

 三月五日、彼らは防衛委員会に抗議文をおくり、クロンシュタットの企図が平和的であること、その要求が正当であることを指摘し、共産主義者にかの水兵たちの勇敢な革命的な歴史を想起させ、同志や革命家たちを傷つけないでこの問題を解決する方法を軽示したのである。
 その文書は次の通りである。

 ペトログラード労働および防衛ソヴェト委員長ジノヴィエフに与う。
 たとえ罪を犯すことになろうとも、今は黙視しているわけにはいかなくなった。最近の諸事件はわれわれアナキストをして、現在の状態におけるわれわれの態度を声明させざるをえなくした。労働者と水兵の騒擾と不満の表明の精神は、われわれの重大な注意を喚起した原因から生じたものである。

 寒気と飢餓が離反を生み、討論と批判の機会を少しも持たないことが労働者や水兵をして彼らの苦痛を爆発させつつあるのだ。
 自己擁護者の一味はこの不満を彼ら自身の利益のために利用しようと思い、そう努力している。労働者や水兵の背後にかくれて、彼らは自由貿易やこれに類似した要求を含む国民議会のスローガンをまき散らしている。
 われわれアナキストは早くからこれらのスローガンの欺瞞を暴露してきた。そしてわれわれは世界にむかって声明する。われわれは社会革命のすべての友とともに、またボリシェヴィキと提携してあらゆる反革命的な企図に対し武器をとって戦おうとするものである。
 ソヴェト政府と労働者および水兵との確執について、われわれはそれが武力に訴えることなく、うちとけた親しい革命家らしい協定によって解決されなければならないと信ずる。ソヴェト政府側が流血に訴えることはこの状勢にあっては労働者を何ら威嚇し沈黙させるものではない。否、むしろそれはただ事態を悪化させ、協商国側と国内反革命の魔手をのばせるのに役立つだけである。
 さらにもつと重大なことは、労農政府が労働者および農民に対して武力を用いることは、国際的な革命運動に反動的な結果をもたらし、いたるところでおびただしい損害を社会革命に与えるものだということである。
 ボリシェヴィキの同志よ、今考えなおしてもけっして遅くはない! 断じて砲火に訴えるな。諸君は今や最も重大かつ決定的な行動に出ようとしていることを反省せよ。
 われわれはここにおいて次のように提案する。五名うち二名はアナキストであることから成る委員会を組織すること。平和的手段によって紛争を解決するために、委員をクロンシュタットへ派遣すること。現在の状態ではこれが何よりも焦眉の手段である。それは国際的な革命的意義を有するであろう。

 一九二一年三月五日 ペトログラードにて

    アレクサンドル・ベルクマン
    エマ・ゴールドマン
    ペルクス
    ペトロフスキー

 クロンシュタット問題に関するある文書が防衛ソヴェトに通達されたとの報告を受けたジノヴィエフは、そのために個人的に代表を送った。その文書を彼らが討議したかどうか著者は知らない。とにかく、それについて何らの処置も講ぜられなかったことは確かである。
 最後の警告には革命軍事ソヴェト議長トロツキーと赤軍司令官カーメネフが署名した。支配者の神聖な権利をあえて疑うことはここでも死をもつて罰せられた。
 トロツキーは約束をたがえなかった。クロンシュタットの人々の助けで権威を得た彼は、今や、「ロシヤ革命の誇りと栄光」へ負債を十分に払う位置にいた。ロマノフ体制の最良の軍事エキスパートや戦術家がトロツキーの意のままになり、そのなかには悪名高いトハチェフスキーがいた。トロツキーは彼をクロンシュタット攻撃の司令長官に任命した。そのうえ、虐殺の技術の訓練を三年間受けた大量のチェカ部隊がいた。命令に盲目的に従う、特に選ばれたクルサンティと共産主義者がいたし、いろいろの前線からの最も信頼された軍隊もいた。命運の定められた市にむけて集結したこうした力をもつてすれば、「叛逆」はたやすく鎮圧されると予想されていた。ペトログラード守備隊の兵士や水兵が武装解除され、包囲された同志との連帯を表明した人々が危険区域から移動した後には特にそうであった。

 インタナショナル・ホテルの室の窓から、私は彼らが小さなグループになってチェカ部隊の強力な分遣隊にとりかこまれて連れて行かれるのを見た。彼らの足どりは、はずみがなく、手は横腹にぶら下がり、頭は悲しげに垂れていた。
 当局はペトログラードのストライキ参加者をもはや恐れなかった。彼らは飢えで少しつつ弱まり、精力も衰えた。彼らやクロンシュタットの同胞に敵対して広められたウソは彼らの志気をくじき、ボリシェヴィキの宣伝が浸透させた疑惑の毒素が彼らの精神を破壊した。彼らの運動を無私にとりあげたことがあり、彼らのために命を投げ出さんばかりであったクロンシュタットの同志を援助する気力も信念も彼らには残されていなかった。
 クロンシュタットはペトログラードに見放され、残りのロシヤから切り離された。クロンシュタットは孤立し、ほとんど抵抗もできなかった。「クロンシュタットは最初の一撃で屈服するであろう」とソヴェトの新聞は表明した。それらはまちがっていた。クロンシュタットはソヴェト政府への叛逆もしくは抵抗しか思いつかなかった。最後の最後まで、クロンシュタットは流血を避けることに決めていた。クロンシュタットはいつも理解と平和的な解決を訴えていた。しかし、いわれのない軍事攻撃からやむなく自己を防衛するために、クロンシュタットはライオンのように戦った。痛ましい日夜、包囲された市の水兵と労働者は、三方からの絶え間のない大砲と飛行機から非戦闘員の居住区へ投げつけられる爆弾に抗してもちこたえた。彼らはモスクワからの特別軍による要塞を強襲するボリシェヴィキのくり返しての攻撃を英雄的に撃退した。
 トロツキーとトハチェフスキーはクロンシュタットの人々よりもはるかに有利であった。共産主義国家の全機構が彼らを支援し、中央集権化された新聞はでっちあげられた「叛逆者と反革命家」に対して悪口を広めつづけた。彼らには際限のない補充があり、クロンシュタットの猜疑心のない人々に対して夜間の攻撃をカムフラージュするために凍結したフィンランド湾の雪と混同する白衣でおおわれた人々を持っていた。クロンシュタットが持っていたものは、ひるむことのない勇気と、彼らの運動の大義および彼らが独裁からロシヤを守る救済者として戦う自由ソヴェトに対する変ることのない信念だけであった。彼らには共産主義者という敵の突進を阻止する砕氷船さえなかった。彼らは飢え、寒さ、夜を徹しての不寝番のために疲れ切っていた。しかし、彼らは責任を果たし、死にものぐるいで圧倒的な不利をものともせずに戦った。
 重砲のとどろきがやまない日夜、恐ろしい不安のなかで、銃砲のうなりの間に、残忍な血の水浴に反対する叫びやそれを停止させようとする呼びかけの声は一つとして聞かれなかった。ゴーリキー、マキシム・ゴーリキー、彼はどこにいたか。彼の声は聞かれなかった。「彼のところへ行こう」と私は何人かのインテリを説得した。彼は、自分の職業の人間に関するときでも、彼が判決された人々の無罪を知っているときでさえ、個人的な大事件ではけっしてわずかでさえも、抗議したことがなかった。彼は今抗議しないであろう。それは望みがなかった。

 インテリ、かつては革命のたいまつの奉持者、思想的指導者、作家や詩人であった男女は私たちと同様どうすることもできず、個人的な努力が役立たないことで無気力になっていた。彼らの同志や友人の大部分はすでに投獄されるか亡命していた。処刑されたものもいた。彼らは人間の価値がすべて崩壊したことですっかり挫折したのを感じていた。
 私は知りあいの共産主義者に向かって、何かするように懇願した。彼らのなかには自分たちの党がクロンシュタットに対して犯しつつあるとはうもない犯罪を認めるものもいた。彼らは反革命という告発が全くのでたらめであることを認めた。誤認されたリーダーのコズロフスキーはつまらない男で、自分の命にびっくりして、水兵たちの抗議にかかわることができなかった。水兵たちの性格は純粋で、彼らの唯一の目標はロシヤの繁栄であった。ツアーの将軍どもと共通した運動を行うどころではなくて、彼らは社会革命党のリーダー、チェルノフが申し出た援助を辞退さえしたのである。彼らは外部の助力を望まなかった。彼らが要求したのは来るべき選挙でクロンシュタット・ソヴェトへの自分たち自身の代表を選ぶ権利であり、ペトログラードのストライキ参加者に対する正義であった。





 これらの共産主義者の友人たちは私たちといっしょに幾夜も議論に議論を重ねながらすごしたが、彼らは誰一人としてあえて抗議の声を公然とあげようとしなかった。私たちはクロンシュタットがもたらす結果を実感しないのである、と彼らはいった。彼らは党から除名され、彼らとその家族は仕事と配給を奪われて、文字通り飢餓によって死刑を宣告されるであろう。あるいは、彼らはあっさりと消息を断って、誰も彼らの身に何が起ったかは少しもわからないであろう。しかし、彼らの意志をまひさせたのは恐怖ではない、と彼らは私たちにうけあった。それは抗議ないしはアピールが全く役に立たないということであった。共産主義国家の戦車の車輪を止めるものは何もなかった、まさに何もなかったのである。車輪は彼らを平伏させ、それに抗して叫ぶヴァイタリティさえ彼らには残っていなかった。

 私たちサーシャ〔ベルクマンを指す〕と私も同じ状態になり、これらの連中のように軟弱に黙従するかもしれないという恐ろしい懸念に私はつきまとわれた。それよりも好ましいものは何もなかったであろう。牢獄、亡命、死刑さえも。それとも脱出! ぞっとするような革命の見せかけと僭称。
 私がロシヤを離れたがるかもしれないという考えは以前は絶対に思いつかなかった。私はそれをちょっと思いついたことでびっくりしたし、ショックであった。私がロシヤをカルヴァリー〔キリストが十字架にかけられた場所〕にする! けれども、機械の歯車、思いのままにあやつられる生命のないものになるよりも、むしろその手段を選びさえするであろうと感じた。


 クロンシュタット砲撃は十日間というもの日夜休むことなくつづき、三月一八日の朝突然停止した。ペトログラードにもたらされた静寂は前夜の間断なき砲声よりももつと恐ろしかった。それは誰をも重苦しい不安におとし入れた。何が起ったのか、なぜ砲撃が絶えたのか知ることはできなかった。午後おそくに、緊張は無言の恐怖に変った。クロンシュタットは征服された数万人が殺害された市は血に浸された。多くの人々、クルサンティや若い共産主義者の墓場ネヴァ川は彼らの大砲で氷がこなごなにされてしまった。英雄的な水兵や兵士は最後まで自分の部署を守った。不幸にして戦闘で死ななかったものは敵の手中に落ちて、処刑されたり、ロシヤ最北の凍原地帯に送られて、徐々に苦しめられたのである。
 私たちはろうばいした。ボリシェヴィキに対する信頼の最後の糸が切れたサーシャは街を絶望的に歩きまわった。私の手足は鉛のようで、全神経はいいようもなく疲れ切っていた。私は弱々しくすわって、暗闇を見つめていた。ペトログラードは黒いとばりのなかでただよっていた。気味悪い死体であった。街の灯は消えかかったローソクのように黄色に明滅していた。



 三月一八日、不安な一七日間の睡眠の不足した後のまだものうい翌朝、私は多勢の足音で目がさめた。共産主義者が行進し、楽隊は軍歌を演奏し、「インタナショナル」を歌っていた。かつて私の耳にこころよかったこの旋律が今では人間の燃え立つような希望の葬送歌のようにひびいた。

 三月一八日、パリ・コミューンの記念日。パリ・コミューンはその二カ月後に三万人のコミュナールの虐殺者のティエールとガリフェによって粉砕されたが、一九二一年三月一八日にはクロンシュタットでそれが踏襲された。

 クロンシュタットの「清算」の十分な意義は弾圧三日後にレーニン自身によって明らかにされた。クロンシュタット包囲が進行中であったときにモスクワで行なわれていた第一〇回共産党会議で、レーニンは意外にも彼の発案になる共産主義歌を、彼の発案(インスパイアド)になる新経済政策賛歌に変えたのである。
 自由貿易、資本家への譲歩、農場と工場労働者の私的雇用、これらすべては三年以上も俗悪な反革命とののしられ、投獄や死刑にすら処せられたのに、今ではレーニンによって独裁の栄光ある旗にしたためられたのだ。相変らず厚かましくレーニンは、党内外の誠実な思慮深い人々が一七日間に知ったこと、「クロンシュタットの人々は本当のところは反革命家を欲さなかったが、私たちを欲しもしなかった」を認めた。純真な水兵たちは「全権力をソヴェトヘ」という革命のスローガンを真剣にかかげていたが、レーニンとその党はこのスローガンを堅く守ると厳粛に約束した。それは彼らの許しがたい犯罪であった。そのために彼らは死なねばならなかった。彼らはレーニンの新しいスローガンを植え付ける大地を肥沃にするために殺害されねばならなかったが、このスローガンは古いものを完全に逆転したのである。その傑作が新経済政策、NEPである。
 クロンシュタットに関するレーニンの公けの告白によっても、敗北した市の水兵、兵士、労働者の捜索は中止されなかった。彼らは幾百人となく逮捕され、チェカは再び「ねらい射ち」にいそがしかった。


 とても奇妙なことに、アナキストはクロンシュタットの「叛逆」と結びつけて言及されなかった。しかし、第一〇回会議でレーニンは、最も仮借ない戦争がアナキスト勢力を含む「プチ・ブル」に対してなされねばならない、と宣言した。労働者反対派のアナルコ・サンジカリスト的な性向は、これらの傾向が共産党それ自身のなかで発展したことを証明する、と述べた。レーニンがアナキストに対して武力に訴えたことはただちに反応があった。ペトログラードのグループは急襲され、多数が逮捕された。そのうえに、チェカは私たちの陣営ではアナルコ・サンジカリスト派に属する『ゴーロス・トルーダ』の印刷所と発行所を閉鎖した。私たちはこのことが起るまえにモスクワ行きの切符を買っていた。私たちは大量の検挙について知ったとき、もし私たちも追われているのなら、もう少し滞在しようと決心した。しかし、私たちは干渉されなかったが、それは多分ソヴェトの監獄には「ならずものども」だけしかいないことを示すために、二、三のアナキストの知名人を自由にしておくことが必要であったからであろう。
 モスクワでは六人を除いてすべてのアナキストが逮捕されていたし、『ゴーロス・トルーダ』の書店は閉鎖されていた。どの市でも私たちの同志に対するどんな告発もなされなかったし、彼らは審問されたり裁判されたりしなかった。にもかかわらず、彼らの多くはサマラ刑務所へすでにおくられていた。まだブチルキやタガンカ監獄にいる人々は最悪の迫害と肉体的な暴力さえも受けていた。このようにして、私たちの若い仲間の一人、若いカシーリンは看守の面前でチェカ部隊になぐられた。革命の前線で戦ったことがあり、多くの共産主義者に知られ、尊敬されていたマクシーモフと他のアナキストたちはぞっとするような状態に反対してハン・ストを宣言せざるをえなかった。

 私たちがモスクワへもどって最初に要求されたことは、私たちの仲間を根絶するために協定された戦術を告発するソヴェト当局に対する宣言に署名することであった。


 私たちはもちろん署名したが、私と同じく、いまではサーシャも、まだ獄外にある一にぎりの国事犯たちのロシヤ国内での抗議は全く役に立たぬと力説した。他方、たとえ私たちがロシヤの大衆に近づくことができたとしても、彼らから効果的な行動を期待することはできなかったであろう。長年にわたる戦争、内戦、苦労は彼らのヴァイタリティを侵食し、テロルは彼らを沈黙させ、従順にした。私たちのたのみはヨーロッパと合衆国である、とサーシャは断言した。海外の労働者が「一月」の恥ずべき裏切りについて知らねばならないときが来た。あらゆる国におけるプロレタリアート、他の自由な急進的な勢力の覚醒した意識が、信念のために仮借ない迫害に対する強い叫びに具体化されねばならなかった。それだけが独裁の手を止めたであろう。他のものは何もそれができなかった。
 クロンシュタットの殉教は私の仲間に代わってすでにこのことを大いになしとげていた。それは彼がボリシェヴィキの神話を信じていた最後の形跡を打ち破った。サーシャだけでなく、かつては共産主義者の方法を革命期には不可避的であると擁護していた他の同志たちも、ついに「一〇月」と独裁との間の深淵を見ざるをえなくなったのである。
 彼らの知った深遠な教訓の費用がさほど莫大なものでなかったらば、私とサーシャが再び同じ立場で手を結んだということ、これまでボリシェヴィキに対する私の態度に敵対的な私のロシヤの同志が今では私と親しくなったということを知って、私は安堵したであろう。苦しい孤立のなかであれ以上模索しなかったこと、アナキストの間で最も有能な人間として私が過去に知った人々のなかでさほど疎外を感じないこと、三二年間の共通の運命を通じて私の生命、理想、労働を共有した一人の人間の前に、私の思想と情緒を押えなかったことはなぐさめであろう。だが、クロンシュタットには黒い十字架が建てられ、現代のキリストたちの血が彼らの心臓からしたたり落ちている。いかにして個人的ななぐさめとすくいをいだくことができるであろうか。》
〔右に引いたのは、A・ベルクマン『クロンシュタットの叛逆』に付記として掲載されているE・ゴールドマンの事件当時の回想の終わり部分である。同書は、戦前と戦後に1回づつ復刻されているがいまは入手困難な状態にある。それを木田冴子氏が訳文も含めてていねいに復刻したもので、宮地健一氏のホームページから借用した。ちなみに、付記を書いているゴールドマンは著者ベルクマンの同志であり、妻でもあったロシヤ生まれのアメリカ人アナキストである。〕



 クロンシュタットについて書かれたものはかなりの数に上る。が、管見のかぎりでいえば、アナキストないしはサンジカリストのものが大半で、元ボリシェヴィキやラッセルのような外国人のものはない。その意味では一方の視点からしか書かれておらず偏った見方であるという指摘も可能だが、たとえそうであったとしても、私は彼らが書いたものほうに正当性があるものと見ている。そこには、全身全霊を賭けて戦いながらも敗れたものでなければ書けない真実が明かされているからだ。長々とベルクマンの著作からを引用した理由はそこにある。
 引用しなかった箇所に、クロンシュタットを指して白衛軍の手先であるとするボリシェヴィキの宣伝にふれている箇所がある。が、同書は、叛乱を前にして選出された15名の臨時革命委員会は、つぎのような職種の持主によって構成されていることを明かしている。
1、ペトリチェンコ (旗艦「ペトロパヴロフスク」高級書記)
2、ヤコヴェンコ (クロンシュタット区電話交換手)
3、オスソソフ (「セヴァストポル」機関兵)
4、アルヒポフ (技師)
5、ペレベルキン (「セヴァストポル」職工)
6、パトルシェフ (「ペトロパヴロフスク」職工監督)
7、クーポロフ (高等看護卒)
8、ヴェルシニン(「セヴァストポル」水兵)
9、ツーキン (電気工)
10
、ロマネンコ (格納庫番人)
11
、オレーシン (第三工業学校管理者)
12
、ヴァルク(木挽工)
13
、パヴロフ (海軍水雷敷設夫)
14
、バイコフ (荷馬車夫)
15
、キルガスト (潜水夫)
 見ればわかるように帝政に深くかかわったと思われる職種の持主はこのメンバーのなかにはいない。むしろ、その職種を考えれば革命でなければ選ばれることがなかったであろう職種の人物で構成されていること見えてくる。基地勤務者が圧倒的に多く乗員が少ないこと、8番目にあるヴェルシニンという水兵の所属に「セヴァストポル」とあるのも、なぜ黒海艦隊乗員がバルト艦隊の基地にいるのかという点でいささか奇異に感じないこともない。だが、一般的に考えれば基地勤務者のほうが活動に有利であることから知名度が高かっただろうこと、同様にヴェルシニンの場合もなにかの事情で革命前にクロンシュタットにきて、そのままとどまった著名な活動家だったと考えれば理解できなことではない。
 他方、ボリシェヴィキないしはボリシェヴィキよりの著者が書いたものには多くの資料を挙げ、一見すると真実を語っているかのように映る。しかし、そこにはいわゆる勝利者の視点、あるいは勝者から提供された資料にのみ依拠して書かれているという致命的な弱点がある。ドイッチャーの一連の著作やカーのものを含めて、ロシア革命が革命とは呼べないものであることを明かしていないのはそのことによる。レーニンまでは正しく、スターリンからが問題なのだというロシア革命観がいまでも根を張っているのは、右に指摘したような現場に近くにいたものでなければ書けないリアリティに欠けているからである。


 ゴルバチョフ後のソ連はレーニン・スターリン時代に無実の罪を着せられ、国家反逆者として扱われてきた人物の名誉回復を相次いでおこなった。にもかかわらず、ことクロンシュタットに関しては手つかずのままに放置されてきた。ソ連共産党を名乗るかぎり、レーニンには手を付けられないという禁忌は、守らざるをえないものとしてありつづけてきたのである。その最後の禁忌は、91年の無血クー・デタによってソ連を最後的に崩壊させ、初代ロシア連邦大統領を名乗ったエリツィンの登場まで、破られることはなかった。94年、エリツィンは大統領令によってクロンシュタットの反乱者の名誉を回復した。
 ソ連が崩壊し、公文書保管所に保存されてきた秘密文書がつぎつぎと明かされている。半世紀以上も闇の中に包まれてきたボリシェヴィキの真実の姿が、21世紀を迎えたいま、やっとのことで明らされはじめているのである。
 このことはそのまま中国にもいうことができる。このところ中国では数多くの騒乱も起きている。文化大革命を含め、それらの真相は中国共産党の独裁が崩れないかぎり明かされないことを意味している。

2. あらかじめ仕組まれていた絞殺



 ロシア革命はクロンシュタットに始まり、クロンシュタットの絞殺によって幕を閉じたといっても過言でない。
 では、なぜそういえるのか。そこには西欧の辺境にあり、きわめて遅れた形で近代を迎えたロシアの特異性がある。
 20世紀という戦争と革命の時代を前にしたロシアは、国民の80パーセント以上を農民が占める遅れた農業国家だった。当然のことながら識字率もきわめて低い。こうした条件を抱えるなかで先進国と肩を並べて大国として国力を発展させ、維持していくカギとなる人材の供給源のひとつが水兵だったのである。陸軍と異なり、近代海軍は技術の塊ともいえる艦船に依拠している。巨大かつ複雑な艦船を敵との交戦という異常事態の下でふだんと同様に機能させるには、熟練した技能だけではなく協同作業をおこなうにふさわしいだけの規律性と協調性が問われる。陸軍は徴兵で成り立つが、海軍が志願兵を原則とするゆえんである。
 協調性については脇にひとまず措くとして、規律という点では伝統ロシアの風土にはなじまない。けっして自分勝手ということではないが、すべてがおおらかで細かいことにはこだわらない(というよりも本能的に拒絶する)体質がロシア人にある。かくして、豊饒が天の恵みであるなら厄災も天が戒めのために与えた警告として受け取ってきたのがロシアの農民だった。
 そうした風土にあって、水兵は優れた技能をもつ規律性を備えたロシアにおける精鋭だった。加えて、彼らは外国の風土と文化にふれる機会が多い。おりから西欧を渦巻いていた思潮に接しても、それらを理解する能力ももっていたのは彼らだけだったのである。バルトと黒海を基地とする2つの艦隊の若い将校と下士官が革命の主力になった背景はここにある。

 黒海艦隊の基地はペテルグルク、モスクワの両首都から遠く離れたクリミア半島にある。それに対して、クロンシュタットはペテルブルグ市内にある。この地勢的条件がクロンシュタットを革命の主役に押し上げた第一の要因である。ロシア革命を語るさいに欠かせないのはソヴィエトであるが、2次の革命にさいして、いずれもクロンシュタット・ソヴィエトが発源地になっていることがその証左である。トロツキーが「ロシヤ革命の誇りと栄光」と賞賛したゆえんもここにある。

 しかし、そのソヴィエトの発源地クロンシュタットで、ソヴィエトを名乗る組織の平和的要求を、ボリシェヴィキは大量の軍隊を動員して圧殺した。それは文字どおりソヴィエトという優れて革命的な組織の絞殺にほかならない。にもかかわらず、ボリシェヴィキは彼らの独裁国家をソヴィエト連邦と名乗りつづけた。国名としてソヴィエトを名乗りつづけることが即革命国家の証であることを、レーニンほど熟知していた人物はほかにいない。このことを考えるとき、レーニンもトロツキーも、できることならクロンシュタットの要求をのみたかったものと思われる。いままでのボリシェヴィキ観はすべてこの視点に立っている。じじつ、主観的にはそうだったと私も思う。
 だが、彼らはそうしなかった。ここで分かれるのは、彼らがその道を選ばなかった理由である。しようとしても諸般の事情が許さなかったのか、それともそうしたくはなかったのか、である。
 全体主義としてのボリシェビズムという思想を考えるとき、あらゆる証拠は後者であることを示している。国家を抑圧のための機関であると考える点では、レーニンもトロツキーも完全に同じ考えをもっていた。ここから、それに敵対する可能性があるすべてを排除することが彼らにしてみれば至上命題だったのである。ここで可能性とは、暴力をもって己の意志を相手に強要する思想と武力をもっているということである。思想だけで武力を備えていない場合も排除しなければならないと考えるのが全体主義の特性だが、それはあとの作業でよい。まずは、両者を兼ね備えている集団の排除が先である。


 当時のロシアには、その可能性をもつ集団が4つあった。1つは、旧軍に連なる部分、いわゆる白衛軍である。2つめはウクライナに伝統的に存在する戦闘的な農民集団であり、この指導者としてマフノがいた。3つめはコサックである。4つめがクロンシュタットとセバでストポリに根拠地をおく水兵たちだった。ボリシェヴィキはこれらの集団を順に排除し、最後に残ったのがクロンシュタットだったのである。クロンシュタットの排除に成功すれば、首都から遠く離れたセバストポリが追従したところ容易に制圧できる。こうした判断から、マフノ軍団の壊滅を果たした2012月を待って、レーニンとトロツキーはクロンシュタットの絞殺を決意した。
 先に私は「主観的には」と書いた。たしかに主観的には譲歩をしたかっただろうとは思う。が、それをした場合のはね返りこそ、彼らにしてみれば、なにを措いても避けなければならない課題だったのである。一歩の譲歩が、この場合は命取りになる可能性を十二分に含んでいた。彼らは、それほど多くの血を流していた。ひとつの譲歩が、ここでは希望の星になる可能性をたぶんに含んでいたのである。
 マフノ軍団を制圧したいま、クロンシュタットだけが排除しなければならない最後の集団だった。できればやりたくはなかっただろうが、やってしまえばあとは時間が解決するというボリシェヴィキ特有の思考が、この蛮行を可能にさせたのである。

 もう1つ証拠を挙げる。それは新経済政策(通称ネップ)と呼ばれている市場原理の導入(内実は飢餓に対する国民に対する譲歩策)が、クロンシュタットの制圧を待って実施に移されていることである。クロンシュタットの制圧は3月18日、ネップの実施は21日であることがそのことを示している。これはボリシェヴィキの政策の失敗を一時的にことするための妥協策であり、ボリシェヴィキの本音ではなかったことが明かされた資料によって明白になっている。資料によれば、レーニンはカーメネフに「ネップがテロルに終止符を打つと考えるのは最大の過ちである。われわれは必ずテロルに戻る。それも経済的テロルにだ」と書簡を送っていたのである。

 もともとがクロンシュタットの叛乱は、ゆうに1冊の本になるだけの内実を備えている。それを、要点を漏らすことなくかつ簡潔に書くことは、それ自体がそれなりの時間とエネルギーを要する作業である。今回はその時間をもてなかった。そのことをふまえ、この章についてもつぎに書き直すさいに全面的に改めたいと考えている。


 7章 1922――反ボリシェヴィキ知識人の国外追放


1. 引き続きベルジャーエフ


《ソヴェート機構は当時にあってはまだ完璧に組織化されていなかった。それはまだ全体主義的とは呼べず、幾多の矛盾を蔵していた。多数の人々に支給された学界用配給切符の実施いぜんに、著名な十二人の著述家が特配切符を受取った。世間は彼らのことを冗談に――不滅者と呼んだ。私はこの十二人のなかの一人であった。しかしなぜ私が選ばれた人々の仲間に入ったのか、つまりどうして私が食糧に関して特権者に数え入れられたのか、私にはまったく不可解なことになった。配給切符を受取ったちょうどそのときに、私は逮捕されて、チェ・カーに監禁されたのである*。当時は旧ロシアのインテリゲンチャの代表者、カーメネフ、ルナチャルスキー、ブハーリン、リャザノフはまだクレムリン宮殿にいた――そしてコミュニズムに同調しなかった著述家や学者等、インテリゲンチャの代表者たちにたいする彼らの態度は、チェ・カーの役人たちの態度とは異なっていた。彼らは恥じていた、そして知的ロシアの苦難にはげしくこころを動かされて、煩悶していたのである。
* N・Aの逮捕の前夜、彼と私は公共事業にかりだされた。N・Aは病気にかかっていた。彼は高熱を発していた。朝の五時にわれわれは起床し、点呼にならばねばならなかった。零下三十五度であった。石油ランプに薄暗く照らされた天井の低い、寒く暗い部屋のなかに「ブルジョワジー」の一群が集められた。人々はみな番号で呼ばれた。寒さに震えているみなりの貧しい人々。蒼白くやつれた顔。武器の触れ合う音。号令者の兇暴な怒声。これらすべてがさながらダンテの「地獄」の一場面を偲ばせた。点呼ののち、われわれは縦隊で行進しなければならなかった。そして、氷を「かち割り」、鉄道線路の雪かきをするために、数露里はなれた田舎へまるで重罪人のように兵隊にとりまかれながら追い立てられるのであった。重い足をひきずって駅に到着したとき、男は女からひき離された。男たちは重い鉄挺で氷を「抉りだし」、女たちは氷塊を車輌に積み込まねばならなかった。一車両ごとに二人の女が配置させられた。私といっしょに働らいたのはまだうら若い少女であった。私は決して彼女の顔を忘れないであろう。彼女は短いブラウスをつけ、軽い靴をはいていた。いま彼女は霜やけで紫色になった両手を震わせながら、これらの氷塊を持上げるのであった、そしてそのあいだ彼女の眼からたえず涙があふれでた。薄暗くなってから、われわれは積込作業をおわった。私はN・Aのところへ行った。彼は蒼ざめ、疲れ果てていた。彼はほとんど立っていることもできなかった。われわれは終日なにも口にしていなかったのである。仕事のおわったあとで、各人にひときれの黒パンが配給された。》
《われわれが死ぬほど疲れ切って帰宅したとき、日はとっぷり暮れていた。私は小型の暖炉を焚きつけるために、大急ぎでN・Aの寝室に入った。燃料は、私が母の領地から運びこんでおいた古代家具であった。N・Aは?のテーブルと安楽椅子を割った。われわれは強いて彼をベットにつかせた。真夜中に騒々しいノックの音がきこえた。それはちょうど誰かが扉を打ち破ろうとしているかのようであった。すぐに私はとびおきた。私のまえには一人のチェ・カーの役人に引率された武装した兵隊たちが立っていた。「ここはベルジャーエフの住まいだね?」 その役人はたずねた。N・Aに警告するため、私は大声で叫んだ、「チェ・カーの役人よ!」兵隊の一人が私の口をふさいだ。チェ・カーの役人はN・Aの部屋を教えるように私に命令した。われわれが彼の部屋に入ったとき、N・Aはすでにおきあがっていて、落着いた声でいった、「家宅捜索は無用です。私はボリシェヴィズムの反対者です、そして私の思想をかくしたことはありません。私の論文のなかに書いてあることはみな、私が講演や集会で公然と語ったことばかりです。」それにもかかわらず、チェ・カーの役人はあらゆる書類をかきまわした。家宅捜索は早朝までつづいた。それから彼はうさんくさく思った書類をえりわけ、調書につぎのように記入した、「ベルジャーエフは、キリスト教徒であるがゆえに、ボリシェヴィズムの反対者であると声明した。」そののち、あたたかい衣類をいくつか持参することを許されて、この病み疲れ、さいなまれた人はルビヤンカの刑務所へとひきたてられて行った。 エフゲニア・ラップ》(『わが生涯』)

 22年夏

 7章 1922――反ボリシェヴィキ知識人の国外追放

《しばらくのあいだ私は比較的平穏に暮らすことができた。一九二二年の春いらい情況は変った。反宗教的戦線が形成せられ、反宗教的迫害がはじまった。一九二二年の夏をわれわれはズヴェニゴロドスク都のボルヴヒですごした。そこはモスクワ河畔の魅力に富んだ土地で、近隣には当時トロツキーが住んでいたユスホフ家の領地アルハンゲルスコエがあった。ボルヴヒをとり巻く森林はまったく素晴らしかった。われわれは茸がりに熱中した。われわれはおそろしい政体のことを忘れた。事実また田舎ではそのようなことはなにも感じとれなかったのである。或るとき私は一日の予定でモスクワへでかけた。はからずもその日の夜、この夏を通じて私がわれわれのモスクワの住まいですごしたただ一度の夜――家宅捜索が行なわれ、私は捕えられた。ふたたび私は、爾来ゲ・ぺ・ウと呼ばれたチェ・カーに拘禁された。私はおよそ一週間そこに拘留されなければならなかった。予審判事のまえへ連れて行かれた私は、彼からソヴェートロシアを退去して、外国へ立ち去るように通告された。ふたたびソヴェートロシアの国境を踏むときは、射殺されなければならないという宣言に、署名させられたのち、私はふたたび釈放された。外国旅行の準備がととのうまでに、それからおよそ二カ月が経過した。コミュニズムへの転向を絶望視された著述家、の一団が外国へ追放された。これはのちに二度とは適用されなかった異例の処置であった。私は故郷から追放されたのである――政治的な理由からではなくして、イデオロギー的な理由から。君は追放されるのだと聞かされたとき、郷愁が私を襲った。私は亡命者になりたくはなかった。私は亡命者たちからのけ者にされているのを感じた、もともと彼らとは共通ななにものをももっていなかったのである。しかしまた同時に、よりいっそう自由な国に行けるだろう、そしてよりいっそう自由な空気を呼吸することができるだろうと、私は感じた。私は私の追放が二十五年以上もつづきうるとは思っていなかった。》(同書)
2.
 レーニン倒れる

5月:レーニン、脳梗塞で倒れ右半身不随となり、執務の現場から離れる。
12
月:2度目の脳梗塞。
2008.10.25
〔未定稿〕


【注】「私の20世紀」了。技術上の問題で読みにくさが残。あしからず。