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野球部の想い出① 宝塚歌劇団から

下級生への「締め」ケジメの行事 中学時代の想い出

ジャニーズの性加害や宝塚歌劇団のパワハラなどが話題になっている。

ともにエンタテイナーの世界だし同根とも言える。ただ背景には幾分かの違いもありそうだ。

ここでは私の昔の忘れられない記憶。「縦社会」「上下のケジメ」

 

中学に入ってすぐ、私は野球部に入った。

当時は部活は義務制。運動部か文化部のどちらかに入れと指導された。

ま、実際には名目だけの入部で実際には「帰宅部」という幽霊部員も多かった。

私自身は進んで入った。小学校時代に楽しみにしていた町内会の野球大会が何かの都合で中止にされたこともあって、ぜひともやりたかった。

1学年100人の男子のうちほぼ半分、50人近くが野球部を選んだ。

ただ、数か月もしないうちに大半が辞めて他の運動部に移ってしまった。1年生では10数人が残った。運動神経が良かったり、独立心の比較的強い連中がバスケや水泳や陸上部に行ったようだ。選択肢が広がったのだ。

2-3年生はほぼ10人程度だったから、例年のことのようだった。

1年生は基本、球拾い。練習場もさほど広くも無いから、手が空けば半腰で「ガッチコーゼ」「ナイスバッティング」などと叫ぶのが「練習」。

それに加えてマラソンとダッシュ。立教野球部などに行った先輩たちがしょっちゅう顔を出して締める。腹筋とうさぎ跳びなどが際限なく続く。練習とは苦行か?で、みんな嫌になってしまったのだ。

 

当時の3年生の部長は○○興業の社長の息子。運動神経もずば抜けていたがそれ以上にイタヅラ・やんちゃ坊主だった。

大学の先輩たちの姿が見えると「オーイ!体育館の陰に隠れろ!」などと指令して全員一目散に走ったりした。そして全員無事に逃げおおせたりもした。

この学年は強かった。夏の市内大会には優勝。県大会でも3位に食い込んだ。

その夏の大会が終わって3年生が引退し、2年生がトップになる。

忘れもしない。部室に一人ひとり呼び出されて、後輩への『指導』が始まった。私は何番目かに呼び出された。部室の電気は消されている。2年生たちが暗がりに広がり、囲んでくる。「オメエ、××」「テメエ△△」。雨あられと周り中から罵声・非難の声が飛んでくる。「謝れ」「反省しろ!」

ついには「キサマ、生徒会の役員をいいことにして練習をさぼりやがって」「すこし成績がいいからと言ってでかい面しやがって」

尊敬していた先輩たちから投げつけられた罵詈雑言の数々に、涙が止まらなくなった。泣きながら抗議した。「先輩のみなさん、俺のことを理解して応援してくれているとばっかり思っていたのに、なんで突然そんなことを言うんですか!」。「オレは本当に、一人ひとりに家族のような気持ちでいたのに!」

ワンワン泣きじゃくりながら、抗弁し続けた。

「もう良い、分かったら今後気をつけろ」の一言で帰された。

そして次のメンバーが呼び出された。

 

憤然として帰ってきた同級生もいたし落ち込んでうつ向いていた友もいた。ただ、泣きながら抗弁したのは私だけだったらしい。

それが附中野球部の連綿と続く伝統であり、2年生の天下を確立するための代替わりのシメの儀式だったことはすぐに分かった。
  この学年は市内大会の3位だった。

 ***

その1年後、同じころ、私達も同じ儀式をやることになった。

私もその一員に加わった。新部長が音頭を取り、「外交担当の」主任の私もそれなりの役目を負った。

ただ、今度は同じようには行かなかった。1年生のリーダー格が激しく反発して収拾がつかなくなったのだ。「泣かせろ」「泣くまでやれ」。でも泣かないで抗弁を続ける。「分かった。帰れ」

そして数日後、1年生全員が「退部届」を出してきた。「2年生が卒業するまで、野球部には戻らない!」と宣言したリーダー格の高●たちは、徒党を組んでどこかで自主練を始めたらしい。春になり、新1年が入ってくると、彼らもまた新2年生たちに引き込まれて、すぐに退部してしまった。

 

夏の大会に向かって、新3年生は10人だけで練習する羽目に陥った。私は当初、ピッチャーに指名された。まずは足腰を鍛えろと、マラソンや50メートルダッシュを繰り返す。捕手の平●が付き添ってくれると、残りは8人。バッティング練習も守備練習もままならない。直前には1人が転校して定員ギリギリだった。そしてボロボロのままで市内大会は予想通り緒戦敗退となった。

 

敗退の翌日には、12年生が復帰してのびのびと練習を始めた。あの高●、今でも頭が上がらない。前高時代も同じ高校だったのだろうと思うが、想い出に浮かんでこない。たぶん私のいる所には顔を出さなかったのかもしれない。
  それにしても私自身の記憶では、その後に「号泣」したことも「涙なみだ」になったことも他にない。「泣けない体質」はどこから来たのだろうか?

 

【追伸①】3年生の大会1か月前くらいか?突然、新ショートが開眼した。下手の代表格でやる気のなさを絵に描いたようなグレが、とつぜんファインプレーを続発し続けた。「何が起こっているのか?」。…70歳を超えた同窓会で、積年の疑問をぶつけてみた。「フクが家に来てくれたんだ。話し込んだ。それで…。あいつは俺の命の恩人だ」。ふーん?そんな奇跡のようなことがあるんだ?人間って捨てたものじゃないね。

【追伸⓶】ⓐ野球部を嫌った同級生たち

ⓑ部活を嫌って私営の卓球場に通ったもっちゃん

©少年チームを拒否して自前のチームを作ったカミさん

東国原英夫氏 宝塚歌劇団は「上下関係はたけし軍団より凄い .

「詰める」の使い方は?

締める(シメル)とは? 

「自由と民主主義」?

 大国間の論理

ロシアのウクライナへの軍事侵略に日々、想いが掻き立てられている。

日々のニュースに一喜一憂する。

そしてまたさまざまな場面や人々を前にして「立場・立ち位置」が日々揺れる。

「千々に乱れる」そんな毎日だ。

ただ、はっきりしているのは「ロシアの軍事侵略とウクライナ側の自衛戦争」こそすべての起点である、ということだ。
 一般に大規模な地域紛争「低列度紛争=LIW」に向かい合う場合、攻撃されている「弱小国」をひとまずは「主語」から外して大国間の論理を見極めるべきことが大事と考えられている。「自衛戦争」の側のあれこれに引き込まれると、大局観を見失う、という意味だ。第1次大戦下でのレーニンのサラエボ事件=バルカンに対する視点は有名だ。そしてその視点は(いくつかの保留込みで)いまも不可欠な視点だと思う。
 そこではこの戦争は
 ①火点はロシアの侵略開始に置かれるべきだ。さらにはそのロシア侵略軍の想定を超えた残虐性も付加される。ウクライナ側の対ロシア・ソ連の歴史は大事だ。
 ②米欧の「兵器に絞った援助・介入」は、かつて私たちの知らないほどの大規模・激しさを伴っている。その情報戦も「情報のかつてないほどの公開」だ。そしてまた
「経済制裁」は「ロシアをソ連崩壊時に追い込むようなかつ、長期に及ぶ」と宣言された。そもそもが米欧の事実上の対抗的軍事介入という形自体が、ほぼ前例がない。ある人は、スペイン内戦 を想起するという
  問題の大きさはこのロシアと米欧の側の「前例のないほどの」、「ほぼ対抗的な軍事発動」が世界や私たちも巻き込んで、色んな形での「当事者性」を付与されていることだ。もちろん「核使用の恫喝」も「本当の当事者は中国」ということも見逃せない。
  この辺の全体的な認識は今回も「ピスカトール」に学びたいとも思うし、関連して中央派の「『前進』春季特別号論文と、分裂の定着以来初めてとも思える関西派による批判も近く参照したい。

「防衛戦争」の論理

 初期において多くの情報を公開したというアメリカの情報戦略が功を奏した。今や「事実の森にウソを隠す」戦略が大手を広げて展開される。

アメリカの情報と立場・方針に即して(日本政府の政策にも即して)語られる場合も多そうだ。
 そんな「専門家」たちの話では、米欧の軍事援助が功を奏して、ロシア軍はひとまずは全土制圧を目指した攻勢を阻まれたが、戦局はいっそう泥沼化と長期化に向かっているそうだ。
 米欧の帝国主義を意味する「国際世論」に乗って「自由と民主主義の戦争」論が幅を利かせている。しかしながらそれ自体はあまりにも的外れだ。
  以下、「防衛戦争」の議論のために大きく迂回しながら始めたい。
  ひとまずの結論は、「防衛戦争」はそれ自体として擁護されるべきテーマであり、民主化他のその中身の可否はいわば「上乗せ・相乗部分」だということだ。
資料
ウクライナ概観 在ウクライナ日本大使館作成
ウクライナのオリガルヒ - Wikipedia
アゾフ連隊
 
ベトナム反戦世代として
  私は(私たちは)
70年をはさむベトナム戦争(アメリアのベトナム侵略戦争)の世代だ。だからあえてその認識をベースにする。

さらに私たちの父母は太平洋戦争(朝鮮植民地化と中国侵略戦争)の世代だ。「あの歴史を繰り返してはならない」という想いがあの激しい闘争の時代を作った。それは直接運動に加わらなかった同世代の多くの人にも共有された。そしてまたさまざまな課題と運動を派生・前面化した。
 ここでは「戦争世代」の人々の「平和のための軍事問題研究」の意義を再確認しておきたい。

米軍の沖縄配備のあれこれも日本の再軍備の実像も、彼らの営為なくして的確な認識や対応は無かったと思う。

戦時下の人の生き死に、戦争と青春・戦争と青春の領域は小説やドラマで繰り返されても来たけれど、総体としてまだまだ不十分だ。そして「だから戦争はいけない」んだけれど「けれど、不条理の中で生きるということ」自体、ある意味でより普遍的なテーマでもあるはずだ。
  「
アポリア」(解決困難な難題)という言葉が重い。

4 「対革マル戦争」(内ゲバ)の体験者として

同じことを私たち「内ゲバ世代」も担うべきだと思う。

けれども内ゲバも内内ゲバも外ゲバも、真正面から総合的にとらえ直す努力は一部を除いて乏しい。

「正義」や「不正義」や「巻き込まれて」云々は確かに不可欠な要素だが、「戦争の論理」「内ゲバの論理」を生き生きととらえ直すことは、同じことを繰り返さないためにも大事だし、それはそれで「倫理的にいけない」だけでない「生きるという問い」「闘うということ」に迫ろうとする一つの道だ。


 なぜこの場でこんなことを言うのか?

その一つは、「正義と不正義の限定性」だ。「正義の為にはどんなことも許される」という「無制限・無制約の…論」とは決別したい。「卑怯者、去らば去れ」の英雄主義も時と場合による。というよりも「正義」の名による最悪の選択を私たちはあまりに多く体験しすぎて来た。
  それが(大局的には)正義であれ不正義であれ、それぞれの個々人や、それぞれの場所ヾでの実相ははるかに違った様相を呈している。話を広げれば、「正義の中の不正義」や「不正義の中の正義」という話はじつに有り余るほどで、歴史を振り返れば振り返るほど「実りある」振り返りのテーマでもあるはずだ。

 「最前線で戦ってきた戦士たち」が、その後次々に粛清の憂き目にあってきた「革命党」の歴史もあいまいにはできない。中核派では良きにつけ悪しきにつけ大事な局面局面で歴史を体現した人々が次々に追放され離反した歴史を土台としている。
 さらにまた「負けること」「逃げること」「降伏すること」をも、現実の闘いの場では、あらかじめ起こりうる一つの選択肢として備えて欲しいからだ。
 敗北への備えなどあるかという話もあろう。しかしまた、人は折々の選択をそんな風にして重ねてきたのだとも振り返る。

 当ブログはそもそも、「2重対峙・対革マル戦」の総括の序(入口)を目指したものですが、やはり主としてその中の出版部分(本体)が我ながら一番生きていると感じます。その中のまとめのまとめが以下になります。

本多延嘉書記長 追悼の集い 私の発言

私たちの世代は、積極的に参加した人も、恐れあるいは嫌悪した人も、70年代からソ連の崩壊・総評・社会党の崩壊時の、それぞれの側からの生き証人なのだろうと思います。

5 原発問題

ロシア軍がウクライナの原発を砲撃し支配したという。

怒りは激しいが、同時に原発を戦場にしての戦闘が長引かなかったことに胸をなでおろす。

ウクライナにとって原発は、国内の電力供給は大事なかなめだという。原発を抑えられたら、経済・社会のインフラそのものが抑えられたと同じだともいえそうだ。ウクライナにとってロシアからの自立・独立の希望の証としての原発という面は大きいという。

胸が痛む問題だが、まずはウクライナ側があまり抵抗もせずに屈したことを喜ぶ。「核戦争」そのものだからだ。

ここでは「国敗れて山河あり」。「日本は負けて良かった」だ。


   6 色んな支援の在り方

いずれの選択にせよ、どんな場合でも可能な限り支えたい。

眼前のその人が「戦う」にせよ「白旗」にせよ。ウクライナ人にせよロシア人にせよ!

戦後の回復はもちろん、難民を難民として。

いろんな支援には、ウクライナのロシア人やロシア国内外のロシア人も当然含まれる。

それぞれの支援も互いに理解し合うことも大事だ。

 今のようなロシアで「反戦」を貫くことには多くの困難が伴いそうだ。私たちもそんな覚悟がいる。その覚悟を支える思いと仲間・制度が要る。それは第一級のテーマだ。

 国際競技からロシア人やベラルーシの選手たちが排除されているそうだ。
 ウィンブルドンテニス ロシア人 - 検索 (bing.com)
 マックの撤収は大いに讃えられているようだけれど、ベトナム反戦時代に「コカ・コーラを飲むのを止めよう」と叫んだ共産党・民青に対して、私たちは不意を突かれながらも大いに笑った。それ以上に、喫茶店や名曲喫茶は私たちのかけがえのないたまり場だった。かつての同志たちと会うと、意外に(?)演劇やバンド出身の人も多い。ロックやソウル…。日大芸闘委は映画だそうだ。
7 当面の結論
 ようやく本題の入り口にたどり着いた。けれども今回はここまでにします。
 さしあたりの結論は、岸田内閣の「防弾チョッキ」を含む軍事支援や介入には反対します。難民の受け入れは、あまりに「人道」を無視した非人間的なものであり、避難・大幅な拡充を求めます。
  危機に乗っかった「軍拡・核共有論」のばっこには全面的な対決が望まれます。
  ただ同時に、「国民に正面から危機と全対策を呼び掛ける」という大胆さを欠いた「無策・乗っかり型」の「自発的従属化」「永続敗戦国」の延長上では「有効な結果」は何一つ生まれないだろうことも自明です。
  参院選後の「与党にとっての黄金の3年」を見据えて、選挙で、国民投票で、何としても…
  コロナと戦争による物価高や「生きずらさ」は待ったなしですし、諸国の内外の分裂の進行もあります。
 当初の予定では以下のような議論を目指しています。
 
 ウクライナの抵抗と「武器」
 9 後発国の選択、第3勢力論の歴史
10 国際反戦闘争
11 『前進』春季論文と『未来』による批判

 日々の生活もその付き合いもある。それはそれで欠かすことはできない。ほとんどなんもできないけれど、それはそれで繋がるものもあることも信じたい。
  当地の駐輪場のお客さんたちは中高齢者が大半だけれど、子育て中の父母・保護者もいる。同じ保育所に通うベトナム人やネパール人、それにごく少数の中国人もいる。在日2世たちが数多く育っていることを実感する。それぞれ色んな課題を抱えながら日々を送っている。そんな関りからも想像力が生まれると期待しています。

 「リアルな現実」と「バーチャル」。
実態・実相に迫れない議論は虚しいと痛感しつつ、…

ウクライナ概観 略史(在ウクライナ日本大使館)歴史とともに、オリガルヒや政治制度と選挙などにも言及しています。ウキペディアも急速に拡充されて来ていますが、信頼性も含めるとこちらの方が良さそうです。

新谷のり子 フランシーヌの場合 歌詞&動画視聴 - 歌ネット


 
 こんなブログで引用・紹介されるのはご本にははた迷惑なのだろうと思いつつ。あえて…
  【ブログ注】誤字誤植だらけでしたので直しました。
 【ブログ注】新谷さんの唄は、近く別の記事に移します。

リトル・パレスティナ 
を観た。まだロシアの侵攻が始まってすぐの頃だ。
 ウクライナの現状とパレスチナの現実。
 状況は似ているのに、「国際世論」も「世論」も雲泥の差だ。
 ここに「国際社会」というものの真の姿が見えてくる。
 
 とはいっても、ウクライナの問題にパレスチナ問題を「ぶつける」のは望ましくない。
 日常の会話で3分、5分「の会話」が限界ならば、世間話や相手の抱えている緊急の用件もある。職場では日常業務の用件や軽口の会話が優先だ。労働現場の要請を知らぬふりして『前進』業務に明け暮れた昔を苦々しく思い出す。
 映画·映像の力は素晴らしい。そこから生まれた想い・想像力こそが「有効性」を発揮できるのだと思う。
 その圧倒的な力も実はちょっとしたヒトコマひとこまの挿入や音とのコラボなどによって心に残る色合いが変わるのだという。
 お茶菓子の有無やその味わいいかんで勉強が進むか否かが決まるとは誰の話だったっけ。

 字幕に追われて画面に追いつけない。少なくとも2回、繰り返しみたい、とおもう。

 なかなか解けない疑問に直面したまま疲れ果てている時、友人の紹介で映画ひまわりを観てきました。
直近の戦況
 その間に、ウクライナの戦局は、とんでもない「予想に反した」方向に進んでいます。
南東部のマリウポリでは、ロシア軍の攻囲に耐えてきた準国軍の「アゾフ連隊」が最終的に降伏し、ロシア側支配地域に連行されました。
 他方で東部では、米欧の兵器や情報の支援を受けて、ウクライナ軍が、場所によっては国境まで押し返していると報じられています。しかしまた直近では、東部ではやはりロシアの攻勢が山場を迎えている。
 包囲される前に撤退か?市街戦を覚悟するか?
 米欧からの最新式の大量の兵器が間に合ってウクライナ側の逆襲が始まるのはもう少し先だとか?

 「米国によるのロシアの誘い込み」論は、けっこう本物だったと痛感します。とはいえロシアの軍事侵略はなんら免罪されるものではありませんね。ロシア軍による虐殺や「非人道的行為」は許してはならないと思います。「国際的戦争法規」や赤十字などは、やはり貴重な賜物でしょう。
 ゼレチンスキーの「リメンバー・パールハーバー」の真珠湾奇襲とは何であったのか?改めて問い直したいとも思います。「ハルノート」が日本を追い込んだことも事実でしょうが、中国大陸からの撤退を拒否して戦争に打って出たのは明らかに日本の軍部・天皇国家でした。歴史修正主義者が幅を利かせている今日、そしてスターリン主義ソ連の参戦で歪められた「第二次大戦=民主主義対ファシズム」観を改めて覆すことも今後の大きな課題の一つでしょう。

 しかしまた、超近代兵器による「武器による戦争」の恐ろしさはまた別の物。現状の戦争は「低強度紛争 - Wikipedia」に当たるそうですが、それ自体ずいぶんと概念が変わっているとも聞きます。

 米欧による対ロシアの「経済制裁」は事実上、ロシアの人々への「空襲に等しい」。米軍による東京大空襲やわが前橋でのそれを改めて思い出しました。現代の戦争は互いに互いの国民を標的にしてこそという「戦争的合理性」を前提に考える時、そのおぞましさにも慄然とします。
 そして戦争は常に「社会的弱者を真っ先に襲う」ということも明らかになっています。
 経済制裁による諸国・人々の疲弊に対する説明と政策が見えない中、「経済制裁による世界の減衰」や政治の大混乱も真正面から向き合うべき多くの課題を抱えた大問題だといえそうだ。

名作映画「ひまわり」に隠された”国家のうそ”
ひまわり 上映館・上映スケジュール<全国>|映画の時間映画ひまわり に関するニュース
(WEBから)今のウクライナのいなかの戦線で現地の中年のおばさんが進駐してきたロシア兵の「あんたたち何しに来たの?」って言いながらポケットにひまわりの種をねじ込み「あなた方がここで死んだらここにひまわりが芽を出すことになるわ!」と言ったと聞いてソフィアローレン、マストロヤンニの名作「ひまわり」を思い出した。究極の反戦映画だね!(以上引用)

ひまわりのストーリーは別のところでご覧ください。
ここでは、
①主人公たちの愛を引き裂く徴兵制度。「正義の戦争」であれ、「不正義の戦争」であれ、夫婦や家族を引き裂く現実。「精神病」を演じて徴兵忌避を策した若夫婦。「徴兵」と戦場。(ここではムッソリーニ時代の話ですが)
⓶ウクライナの雪原を敗走し、雪に覆われて死んでいく兵士たち。その中でもなんとか生きたいと抗う群像。
③凍死寸前の「敵国兵士」をきゃしゃな体で両脚を抱いて必死に救い出そうとする女性。いったい何が彼女の心をあれほどまでに動かしたのだろう?数歩歩くたびに心配そうに生死を確かめてはホッとして微笑む。
④戦後数年、帰らぬ夫を探しにソ連をさまよう妻。イタリア人であることを捨ててロシアで生きる元兵士。
⑤生きていた夫と現地の妻子。妻と現妻との無言で心からの語り合い。元妻と夫の熱く悲しい別れ。激しく悲痛なそしてたくましい選択。
 改めて、日本の戦後に遅れて復員してきた兵士たちの物語を思い出した。
 私たちの世代は、戦争に抵抗できなかった父母の世代を激しく否定して「子どもたちの戦争責任」の立場を確立した。けれども、それぞれの父母たちの無言の生きざまが、曲がりなりにも戦後の「(直接の)戦争のない」70有余年の歴史を築いてきたのだと改めて思いいたる。戦時下の青春を生きた人たちの想いの底に触れようともしなかったのかとも?この齢になると50年・70年という年月がいかに大きなものかということも、けれどまたほんの直近の過去だということも同時に感じる。歴史観…
 戦争とは残虐で恐ろしいものだ。人も自然も社会も激しく破壊して変えてしまう。
 けれどまた、あらゆる力や可能性を「戦力」に変えようとする以上、誰もが思いもしない様々な力と可能性をも秘めているともいえよう。そしてそこに生きる人がいる以上、そこに世界がある以上。
70年代のラブシーン 
 そう、映画としては冒頭の、であったばかりで恋に陥る若い男女の海岸でのラブシーンはさすがイタリア作品。砂浜で激しく抱き合って後、起き上がるとぱたぱたと軽く衣装をはたいただけでサバサバする女性の姿。短い新婚生活では、料理ができる北部イタリア男と、それを手伝う「田舎の女」のいききとした互いの呼吸。言葉での会話に続いて息の合う共同作業。何か21世紀にしてようやく日本でも見られる光景のような気がして。
 50年前に、この姿に感動した同世代の想いに今ようやく気が付いたような気もする。映画・演劇・歌と楽曲。時間がない、金がない。それを理由になんと惜しい、貧しい精神生活だったのか?理由はいくらでもあったけれど、「痛苦」「悔恨」を今からでも埋めたい。
 長くなったので、「動物農場」は次の機会にします。

  • https://www.ghibli-museum.jp/animal/story

    映画『動物農場』公式サイト 伝説のH&Bが半世紀前に描いた、永遠不変の権力の寓話。ジョージ・オーウェル原作『動物農場』、ついに日本解禁。公式サイトでは作品解説から、最新情報まで …




  • 友人のメールを転載します。
    【以下転載】

    日本在住のウクライナ人でソプラノ歌手のオクサーナ・ステパニクさんの「アヴェ・マリア」を聞いて(YouTube)、戦場と化した祖国への祈りの歌と思えて涙があふれそうです。この曲を拡声器を使ってウクライナの戦場に流し続けたら、あるいはロシア兵も武器を置くのでは・・・それほどに音楽の力を感じるのです。
     
    * 歌われている「アヴェ・マリア」はカッチーニの作品となっていますが、実はロシアのウラジミール・ヴァヴィロフ(1925~73)が作曲し、有名なカッチーニの名前を使ったと言われています。


    戦場に音楽を・・・今日、ウクライナ西部リビウ市の街中で「音楽には団結させる力がある」とピアノを弾き出した若者がいました。ブラボー!
    ヘーゲルは人間の歴史の目的は自由の実現であると書いたようですが、いまウクライナで起きていることの本質的な問題はまさに「自由」の問題だと考えます。香港の自由を奪った中国と同様の構図が見えてきます。
             実存(仮名 70代)
    Ave Maria Caccini - Bing video
    オクサーナ・ステパニク - Bing video
     
     
    この「アヴェ・マアリア」は初めて聴きました。静かに耳を傾けると本当にすばらしい。
    大音響で戦場に流す。マルレーネ・ディートリヒの「リリ・マルレーン」を連想しましたが、もっと気高い。元東欧在住(80代)


    ウクライナ・ロシア民謡や歌
    ウクライナ民謡 有名な歌曲 (worldfolksong.com)
    ロシア民謡 - 検索 (bing.com)


    この際、香港・周庭さんやデモシストの苦闘を思い浮かべて。
    不協和音 - Keyakizaka46 - YouTube
     不協和音 歌詞 - 検索 (bing.com)

    歌声運動関連 
      私は民青の歌はほとんど歌えます。学生時代は寮生で、民青の圧倒的な拠点。関東甲信越寮連の中心的寮でした。1年生の頃は昼は中核派の学内活動、夜は民青主催の寮生大会や色んなイベントに参加していました。で、歌声運動の色んな側面を体感してきました。
     歌声運動は、下らない「プロレタリア文学論」を体現するものから、少しはましなものまでさまざま。組織化・囲い込みでは結構成果を挙げていた。
     それはそれとして、今や少しでも「大衆的広がり」を目指すなら、共産党や全労連への関りは欠かせない。地域や職場で、彼らの歌を一緒に歌えることも「お付き合い」としてあった方が良い。ま、今の時代、元や若手の人々も時代の歌曲に染まっていることも…

    そうそう。
    ベ平連や新宿駅地下のフォーク広場。
    ジグザグデモや角材でのゲバルト、一面では多くの人びとの参加を阻むもの、という側面は否めない。
    その上、「飯炊き」やから救対や二軍に多くの女性を追い込む面があった。
    私の知る幾多の女性たちが開放的な「フランスデモ」に参加し、名曲喫茶やディスコに入れ込んでいた。あるいは「政治課題」を飛び越えた色んな世界に飛び込んだ。闘いの精華は、「心」「文化」「世間」への「飢え」「飢餓感」を底から呼び起こしていた。
    「全学連大会での女性たちの糾弾」は今から見ればあまりにも遅かった。
    それと合わせて、いろんな「再評価」が問われそうだ。

    戦争体験者の想い?
     そうそう、同じ軍歌でも「軍艦マーチ」などと違い「情けのある軍歌」や歴史になぞらえた歌も多数歌えます。小学時代のみんなに慕われたⅠ先生に、授業中にくり返し歌わせられたもの。気が付くのが「遅かった」。
     戦争体験者たちに沈黙のままこの世を去らせることを強いたのも、私たち当時の若者たちの責任でもあったと、今にして思います。体験者たちが自身で整理できないままに、「おぞましい戦場の実体験」をありのままに呟く、ということに怖気をかきたてらる。そんなことに止まっていた。「日本の反戦・厭戦の限界」とも思います。

    スマップのトライアングル
    が密かに流行っているとか?
    https://sp.uta-net.com/movie/35862/

    5
    年末には思い出すものですね。

    10.8羽田の後の68年ごろでしょうか?
    法政の旧友から教わった替え歌は実に面白かった。
    「キラリ╮光ったヘルメット
    燃えるこの身はデモの中
    反帝反スタ~??
    その名は 中核全学連」
    二番は民青全学連でした。

    網走番外地 唄:高倉健 」のメロディです。

    旧友は実は経済学部政経のミネ。詠み人知らず。
    しかしまぁ、この頃の法政には実に面白い連中がバッコしていましたね。
    羽田の時に3派の解放派を叩き出した後も他の諸党派や黒ヘルはまだ学内で活動していました。
    サークル活動も活発で、学生運動を支えるの分厚い層を形成していました。
    埼玉では活動家はまずクラス代表になり、飲み会その他のイベントを呼びかけて、学生同士の交流の場を作ることに心がけることから始めました。寮生の私たちは、民青主導のスケートや山登り?にも喜んで参加していました。

    同じく。
     スーダラ節 植木等 (1961)
    の替え歌
    「①ちょいと一回のつもりでデモりゃいつの間にか活動家
    気がつきゃ全学連の中央執行委員
    これじや就職できるわきゃないよ
    分かっちゃいるけど止められねぇ」
    ②「軽いつもりでブンドを造りいつの間にやら????
    気がつきゃ革共同に自己批判させられ
    これじゃ革命できるわきゃないよ
    分かっちゃいるけど止められねぇ」

    自虐·自嘲·諧謔·風刺…自分たちをクールに笑うのも、一つのスタイルだったような。そう、ここにも共産党=民青との対比があったような。共産党の「正統派」を唄う黒い歴史はつい先日まで。戦中派や皇国少年がまだ30代の時代。

    ついでに女性たちにも人気のあった歌を載せましょう。替え歌ではありません

    圭子の夢は夜ひらく 」😃🎵
    個人的な想い出もあります
    「明日はジョージかケンボウか」

    「恨み節」梶芽衣子 」 解説不要ですね。

    ジュリーは省略

    コロナ下で学生生活もいっそうたいへんだという昨今ですね。「学生を救おう」という運動や世論も起こりました。
    お金がなくとも「学生さんだからね」と顔見知りの食堂などは「出世払いでいいよ」と寛大に対応してもらえた世の中も今は昔。
    蒼玄寮の先輩の前輝さんなどは三年生頃まではバイトの収入を大阪の実家に仕送りしていました。

    時は下って80年代の東北大の寮OBの弁。
    「新歓では新入寮生に浴びるほど飲ませた。そのために上級生は巡回班を組織して夜中中各部屋を
    廻った」「泥酔した奴には吐かせて、いざという時には…」
    近所の人々も病院・個人医もトンペイOBだったりして暖かく見守ってくれていたんでしょうね。

    近頃は高齢者の「歌声運動」も再燃しているとか?

    ところで、団塊ジュニア世代のある女性のかつての弁が今も印象的です。
    「明治大学はいいよ。安いジーンズ一本あればそれで四年間過ごせる。うん、法政も同じだね。
    でも上智や慶応じゃあ無理。浮いちゃう」
    たぶん我が埼玉も地方の公立として明治に準じる気もするけど、果たして?

    さて、今年の紅白の酉はMISIA。
    氷川きよし『歌は我が命』は改めて印象に残りました。
    「ジェンダー」は日々の隣人や「仲間」付き合いの在り方や自己表出そのものですね。「戦略・綱領」での議論も大事でしょうが、日々の「党生活」の基礎でもありそうです。
                   
    成人式の頃には徐々に再開したい、そう念じています。

    今年もよろしく
    白土 

    Ps たぶん、この項は後で編集し直すことになりそうです。
    【追】改定·増補の③になりました。
    【補足】たぶん完成ですが、コメントや助言をもらえれば増補や新章にしたいと思いますのでよろしく。

    埼玉県議会で沖縄戦戦没者の遺骨等を含む土砂を埋立てに使用しないこと等を求める意見書が成立!
    関連情報などの投稿・協力をお願いします。

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