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暴かれる戦後最大のスパイ事件!清水丈夫の「擁護」する宮崎学など、公安庁スパイ事件の全容を解明。
発行年月 :
2002年05月


目次 : 
第1章 中核派機関紙『前進』の「小西反革命」規定の総批判(スターリンばりの「反革命」規定
    /歴史を偽造する清水丈夫氏
    / 大衆運動の引き回しをする中核派 ほか)
第2章 スパイ宮崎学を「擁護」する清水丈夫氏(スパイとの原則的闘いを放棄

    / 元公安庁調査官・野田敬生氏の内部告発/ スパイ工作原本は事前に中核派へ ほか)

第3章 革共同第「六回」大会と白井朗氏「除名決議」(「第五回大会開催」という歴史の偽造

    / 誰もが呆れる大会の封建的手続/ 革共同規約をこっそり「改正」 ほか)


【著者紹介】

小西誠 : 1949年宮崎県生まれ。1964年航空自衛隊生徒隊(少年自衛官)入隊。1968年三等空曹任官後の69年、治安出動訓練などに反対し、訓練拒否を呼びかけ逮捕・起訴されるが、81年無罪確定。現在、軍事・社会批評家

検証 内ゲバ    日本社会運動史の負の教訓

いいだもも(著/文 他), 生田あい(著/文 他), 栗木安延(著/文 他), 来栖宗孝(著/文 他), 小西誠(著/文 他)
四六判 345頁 並製
定価2,300円+税
ISBN978-4-916117-47-2   C0036
品切れ・重版未定(出版社情報)
奥付の初版発行年月 2001年11月
書店発売日 2001年11月20日

紹介

死者113人、負傷者役5000人以上を出した内ゲバ。
それは日本の社会運動に壊滅的打撃を与えた。本書は、
この負の教訓を検証し、その原因の解明の中から、21
世紀の社会運動の再生への道を示す。

目次

序 章 なぜいま内ゲバの検証が必要か—小西誠 5
 
第1章 革共同両派の内ゲバの歴史・理論と実態─小西誠 20
 第1節 内ゲバの前史 20
 第2節 海老原事件と革マル派・中核派 28
 第3節 「内ゲバ戦争」の本格化 39
 第4節 内ゲバの停止を求める文化人の提言 50
 第5節 革共同両派の内ゲバの理論 58
 第6節 中核派の対権力武装闘争への転換と内ゲバ 70
 第7節 新左翼運動と民主主義 74
 第8節 黒田組織論の批判的検討 85
 結 語 党派闘争の倫理基準 91

第2章 内ゲバ─その構造的暴力と女性・子ども─生田あい 95
 はじめに 95
 第1節 ブントの内ゲバ時代の背景 100
 第2節 内ゲバ時代の只中にキューバから帰国 106
 第3節 わたしの〈内ゲバ〉経験 110
 第4節 〈内ゲバ〉の中の女性・子どもたち 127
 第5節 連合赤軍事件と内ゲバ殺人 140
 第6節 内ゲバの思想・理論を考える 153
 本稿を終えるにあたって 183

第3章 内ゲバの主要因─新旧左翼の唯一前衛党論─栗木安延 186
 第1節 内ゲバの要因分析 186
 第2節 唯一前衛党論の批判 194
 第3節 統一思想の欠如 206
 第4節 大衆路線戦略の欠如 217
 第5節 内ゲバの日本的な要因 222

第4章 スパイ、転向、内ゲバで潰滅した戦前日本共産党—いいだもも 237
 第1節 日本の革命運動の伝統の革命的批判 237
 第2節 戦前共産党の発展と崩壊 250
 第3節 スパイに潰された日本共産党 261
 第4節 宮本「スパイ・リンチ」事件の党史的意義 272
 第5節 新左翼にも通じる共産党の内ゲバ 287

第5章 日本共産党の「五〇年問題」と党内抗争─栗栖宗孝 302
 第1節 「五〇年問題」の意義 302
 第2節 「五〇年問題の経過」(その一) 305
 第3節 朝鮮戦争と共産党中央委員らの追放、分裂の激化 318
 第4節 「五〇年問題」の経過(その二) 326
 第5節 新左翼に繋がる「内ゲバ」 330
 第6節 「内ゲバ」の主要要因 341

版元から一言

内ゲバの検証とは、気が重い課題だ。だが、この日本の
左派運動を壊滅的危機に追いこんだ内ゲバの検証・総括
なしには、運動の再生はないという思いで編集に取り組
んだ。この本を機に議論が活発に始まることを望む。

7・7自己批判にあたって、白井朗「マルクス主義と民族理論」


一部引用しました。

はじめに…80年代の赤黒系の運動をかじった人から言わせれば、何を今更言ってるんだ~という感じ…マルクスのいう「世界文学」を「主力言語への統一を主張した」と読んでしまうところでアウト(むかぁし「AALA(アジア・アフリカ・ラテンアメリカと連帯しぃ~って運動を見てきたから、そんなもん単なる「言語帝国主義」じゃないか)…まぁ、そういう読み方すべきと考えられてきた「マルクス・レーニン原理主義」の党政治局員が「反省して」書いたということに意義があるもの。

マルクスが書いたものには当然「時代の制約」がある。いろいろな民族・言語・習慣・社会形態について全て知って書くことは無理だった。だから「金科玉条」にしないことが大切。どこの民族が「資本制社会を進め」、「革命」を担うとマルクスが認定した(しなかった)からマルクスはダメだということにはならない。

レーニンは「抑圧民族と、被抑圧民族を分けて考える、被抑圧民族の権利を尊重することをロシア革命で掲げた。が、実際実行することができなかった。スターリンの「民族抑圧」は、じつはレーニンの時代から始まっていた…その路線が敷かれていたことは「反共」の側からのみならず「革命」の側からも多くの資料があり、研究がなされている。
「大ロシア主義」…レーニンが「何を言ったか」で留まっていて、「何をやったか」を見据えなかった…「白」としては大いに反省すべきである…ただ「赤黒」はそういうところから比較的に「自由」だったと思う(もっと酷いのもいたかも知れないが)。
(以下略)

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マルクス主義と民族理論
社会主義の挫折と再生

イスラームに対する欧米世界の偏見。ロシアによるチェチェン民族の弾圧。中国のチベット、ウイグル、モンゴルへの抑圧。深い歴史的起原をもつ現代世界の民族問題をどうとらえるか。新たな世界史観から民族理論を再検討する。

社会評論社刊
2009年4月20日

 

目次】
まえがき 9

序 章 世界の焦点・中東イスラーム世界の民族問題 15
[1]イスラーム世界と日本人 16
[2]日本帝国主義とアジア諸民族 19
[3]アメリカのイスラーム敵視 21
[4]石油帝国主義と産軍複合体 24
[5]ムスリム諸民族抑圧は最大の民族問題 27
[6]イラク戦争の不正義 30
[7]スンニ派とシーア派との対立 33
[8]アメリカの戦略的敗北 37

第一篇 民族をいかに捉えるか

第一章 日本人の場合 二、三の知識人の言説について 42

第二章 マルクス・エンゲルスの視点 51
第一節 「歴史なき民族」なるもの 51
[1]「労働者は祖国を持たない」の意味 51
[2]民族と国民との関係 56
[3]英語・フランス語・ドイツ語の三言語の統一を予想 58
[4]民族は人間存在に必須不可欠 62
[5]資本の本源的蓄積の認識の未成熟 64
[6]西欧文明の東欧への普及 72
[7]「歴史なき民族」 78

第二節 マルクス、アイルランド論へ 88
[1]「マンチェスターの受難」の衝撃 89
[2]フィニアンのたたかいの歴史的意義 95
[3]アイルランド民族独立がイギリス革命を促進 100
第三節 経済学者の民族問題アプローチ・渡辺寛批判 104
[1]農業問題と民族問題は資本主義の外部的矛盾 104
[2]アジアの民族の歴史への無知 109

第三章 バウアー・カウツキー論争の意義 114
第一節 バウアーの民族文化共同体説 114
第二節 バウアー、「歴史なき民族」を批判 121
第三節 カウツキーの言語共同体説 126
第四節 同じ歴史を歩んだ民族は一つもない 133
第五節 論争止揚の視点 137
第六節 エンゲルス「言語と共感」 145
第七節 カウツキーの民族解消論批判 149
第八節 世界諸民族の言語系統 156
第九節 人は母語の中に住む 160

むすび 民族の平等 163

第四章 レーニン・スターリンの民族観 165
第一節 スターリン民族論文の再検討 165
第二節 「資本主義が民族問題を解決」 175
第三節 帝国主義論による深化とその後の逆転 178
第四節 民族消滅論は言語帝国主義 184

第五章 アジア史の先進性──唯物史観と民族 189
第一節 民族形成の嚆矢は漢民族 189
[1]漢字の創成とと紙の発明 189
[2]近世・宋代における漢民族意識の成熟 194
第二節 唯物史観と民族 200

第二篇 大ロシア民族主義者・スターリン

第六章 スルタンガリエフの虐殺──ムスリム諸民族の抑圧 216
第一節 民族の崇高な権原 216
第二節 バスマチ運動弾圧の深刻性 223
第三節 イスラーム文化とチュルク諸民族 228
第四節 中央アジアのムスリム共産主義者 234
第五節 自己解放を否認するレーニン 241
第六節 一九一七年革命の真実の担い手 251
第七節 「グルジアのスターリン批判」 260
第八節 スターリンのムスリム諸民族抑圧 266
第九節 山内昌之批判 270

第七章 第二次大戦後の東欧諸民族の抑圧 276
第一節 ポーランド 278
[1]ポーランド共産党の悲劇 279
[2]スターリン、ヒトラーと握手 281
[3]スターリンのポーランド民族解体 284
[4]戦後ポーランドの発足 289
第二節 ユーゴースラヴィア 292
[1]ユーゴ解放全国委員会の勝利 293
[2]スターリンのユーゴー革命圧殺の失敗 296
第三節 ハンガリー 301

むすび 306

付論・ 日本人の民族性について 309
[1]イスラーム認識の欠如 309
[2]明治の開国いらいすぐに侵略と戦争へ 313
[3]他民族の文明受容の積極性 315
[4]新憲法の意義と五〇年朝鮮戦争 319
[5]自民族の歴史を学び豊かな歴史的意識を持つこと 326

付論・ チベットに自由と平和を。中国は虐殺を止めよ 329

参考文献 335

あとがき 341

 序章………………………………………………………………3

第一篇 マルクスーエングルスの民族理論…………………17
 第一章 『共産党宣言』と一八四八年革命の段階………19
     1―プロレタリアートは祖国をもたない」の意味 19
     2―マルクスは反動ロシアにたいする革命的民族戦争を鼓吹 22
     3―マルクスの「歴史的民族・非歴史的民族」論 26
     4―マルクスはいかなる民族運動を進歩的とみなしたか 31
 
 第二章 マルクス―アイルランド論の革命的転回………………………38
     1―一六四一年蜂起とクロムウェルによる過酷な弾圧 39
     2―大飢饉のはじまりとフィニアンの発足 41
     3―マルクスのアイルランド論 44
     4―アイルランド民族解放の勝利こそ槙粁 48
     5―農業・土地問題の戦略的位置づけ 51
 
第二篇 レーニンの民族理論…………………………………………………57
 第一章 ロシア革命勝利以前の時期………………………………………59
  第一節 帝国主義論確立以前の時期……………………………………59
     1―一九〇三年段階のレーニンの民族理論 59
     2―民族の牢獄、ロシア・ツァーリズム 67
     3―レーニンのユダヤ人ブント批判 74
     4―一九一三~一四年・中期レーニンの民族理論 88
第二節 帝国主義論の確立と一九一六年の三つの民族論文の到達地平…89
 I―レーニン『帝国主義論』の確立と民族理論の深化にとっての決定的意義 89
2―『社会主義革命と民族自決権』『自決にかんする討論の決算』『マルクス主義の漫画と帝国主義的経済主義について』の三つの論文の到達地平 94
     3―レーニンによる民族自決権の最大限の強調 101
     4―民族理論の内部にかかえこんだ矛盾 109
     まとめ 112

 第二章 ロシア革命の勝利と革命政権・レーニンの民族政策…………119
  第一節 ロシア革命の勝利と民族自決の宣言………………………119
     1-ロシア革命は生きている 119
     2-一〇月革命勝利の主導的理論 122
     3-民族自決の宣言 128
  第二節 ウクライナ民族の自決問題…………………………………131
     I―ウクライナ民族形成の歴史 132
     2―内戦とウクライナ民族の自決問題 135
3―三つのウクライナ共産党-ボリシェビキ、ボロチビスト、ウカピスト 140
     4―民族解放闘争勢力のロシア革命との合流の必然性 148
第三節 「グルジアのスターリン」批判 レーニンの最後の到達地平………156
       1-赤軍進攻は事実上のグルジア軍事占領 159
       2-グルジア問題こそ反革命スターリン主義の起源 162
       3-レーニンの遺書 171

第三章 スルタンガリエフのたたかいの歴史とその意義
   東方(アジア)の民族運動とロシア革命…………186
    第一節 スルタンガリエフとタタール革命………………………………188
       I-スルタンガリエフのアジア革命の提起とレーニン民族理論 188
       2-チュルク民族・タタール民族の歴史 193
       31一九一八年タタール三月革命の意義 197
       4-ロシア人ボリシェビキは中央アジアでムスリムを大虐殺 205
       5-チュルク諸民族共和国の完全独立をレーニンは拒否 209
       6-スルタンガリエフの内戦時の活動 213
       7-中央ムスリム委員部の活動の意義 214
    第二節 世界革命の一環としてのアジア革命………………………………219
       I-レーニン・スルタンガリ工フ論争 219
       2-一九二〇年コミンテルン第二回大会のレーニン・ローイ論争 231
       3-イラン・ギーラーン革命を見殺しにしたソヴェト・ロシア 239
       4-タタール自治共和国の樹立 247
       5-マルクスの宗教批判とイスラム教 254
    第三節 ロシア革命の変質と民族政策………………………………………260
       1-一九二三年四月ボリシェビキ党第一二回大会のソ連政治史における意味 260
       2-スルタンガリエフの除名と一九二三年六月民族問題協議会 268
       3-ロシア革命変質の画期としての一九二三年とトロツキー 274
       4-革命政権のユダヤ民族政策 282
 
第四章 言語共同体規定と民族の永続性 スターリンの「民族消滅論」批判……286
       1-言語共同体規定は民族の永続性を意味する 286
       2-スターリンの「世界語」による民族消滅論 294
       3-母語は民族の最高の文化財である 296
 
   終章 世界歴史における民族の形成
       東アジアと西アジアの先進性とヨーロッパの後進性………………………301
 
  注 あとがき 索引(巻末

序文は長すぎるので割愛します。

あとがき
本書の初稿はすでに一九八九年末には完成していた。一九八七年から執筆をはじめ一九八九年未に約六〇〇枚(四〇〇字)の執筆を完了した。当然すぐ出版しているはずのものが、さまざまな事情で刊行がこんにちまで遅れた。一九九七年夏から改めて全面的に書きなおし、約一年半かかって完成した。そしてある友人の紹介で社会評論社から出版の運びとなった。刊行を一番喜んでもらうはずだった友人は、一九九八年夏急逝された。霊前につつしんで本書を捧げる。
スルタッガリエフという人物についてはじめて知ったのは一九八一年で、当時新評論から出ていたエレーヌ・  カレール・ダッコース『崩壊した帝国』(現在は藤原書店『崩壊したソ連帝国』)のなかでかんたんにふれてあるのを読んだときであった。一読してこれはスケールのおおきな革命家だと直観して、当時唯一の専門的な研究書であったペニグセッ・ケルクジョ共著『ロシア・ムスリムの民族運動―タタールスタンにおけるスルタンガリエフ』  のフランス語原書を友人に依頼して入手し翻訳して貰い、研究にとりかかった。読めば読むほどスルタンガリエフの偉大さに感動するとともに、彼を抹殺したスターリンの反革命性に怒りを誘われた。そうするうちに東大教授・山内昌之氏による精力的な研究と紹介が一九八六年からはじまった。それにはおおいに学ぶところがあったが、やはりおのずと着眼点が相違していることは、本書を読んでいただければ判るだろう。ムスリム民族運動・  スルタンガリエフのアジア革命の提起を重要な軸として原稿を構成した。
 一橋大学教授・田中克彦氏の著書からは民族と言語の関係についておおきな刺激をうけ、民族をふかく考える重要な契機を得た。ここに感謝の意を表明したい。
 筆者の試みが成功しているかどうか、読者の率直な判断をお願いする。
 最後に私事にわたるが、初稿の刊行の挫折という困難のもとで、つねに私を励ましてくれ、こんにちの刊行まで支えてくれた妻・浄子に感謝の意を記すものである。
 
 一九九九年二月八日  白井 朗 

イメージ 1世界革命の挫折とレーンの民族理論




20世紀の革命史への照射
世界革命をめざすレーニンの眼は
なぜヨーロッパにしか向けられなかったのか!
ムスリム民族運動を抑圧した革命ロシア







 スルタンガリエフはボリシェビキ幹部として最初の粛清の対象となり、1923年の第12回大会の直後に逮捕され処刑された。この粛清こそスターリン主義の起源にほかならない。
 この偉大なムスリム出身の革命家の抹殺は、中東イスラム世界における世界革命の抹殺であり、ソ連圏内のムスリム諸民族への、ツァーリズム以上の過酷な民族抑圧の復活的な継続を意味するものであった。

社会評論社
1997年7月15日 初版第1刷発行

イメージ 1

白井さんの原文を載せてくれている。
反中核派の白井朗テロ批判考
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/tyukakuhaco/shirairomondaico/hantyukakuhanoshiraiterohihanco.html

 結末をまとめて、「党」に送った。
 あわせて、お別れの手紙を書いた。
 
 90年の「党改革運動」では、「通報の義務と権利」が大々的に語られていた。
 私はこの権利と義務をテコにして、数々の書状を書いてきた。しかし、通報の受け手が義務を果たしていない以上、私の権利も義務もない。以降、一切の指導を拒否する…という内容だった。

 同時に、私なりの組織論を書き連ねたのはこのときだったと思う。
 私との信頼関係で関与したWa氏への処遇は、私自身への処遇である。私が介入するのは、当然の権利・義務だ。私の関与を排除してWa氏との会見を拒否し続けた関西や「中央」の組織論はあまりにおかしい。「関西に隠れて」私からの報告を要請するのも姑息だ。党の現状がおかしいだけではなく、考え方自体が間違っている。こんな「党」に未練はない。

 内容的にはこんなことを書き連ねた。

 「緊急出頭」の時のAm氏の最後のことばに、「晩節を汚したな」といわれたが、それを「そっくりお返し」した。

 投函するのに数日待った。自分の腹を確認したいと思った。

 もっと正面きって関西に乗り込むことができなかったのか?
 「糾弾会」を逆に要請して臨むことはできなかったのか? 知り合いも大勢いたし、少々袋叩きに合っても何かになったのではないのか?
 自分は単なる負け犬なのだろうか?
 自分を信頼して親しく付き合ってくれた人々への責任はどうとる?
 自分は単なる腐敗した日和見分子だったのではないのか?

 あいつならこうしたろうか? あるいはもっと正面からやっていただろうか? あるいはこいつなら?

 「党による人民への襲撃・強盗」行為に立ち会いながら、むざむざと屈することへのやるせなさ…。

 ようやくすっきりした。私は私なりにやってきたのだ。「責任」はおいおいとるしかない。
 とりあえず、自由を取り戻したのだ。これからは、自分の意思と判断で生きることができる。それこそが「イスト」としての最低の生き方だ。良かった!      (了)

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