第1章 横浜時代
1 魂の救済
私の父は生来病弱で、その分一層スポーツの世界に憧れていた。48歳で亡くなった父は、終世、聖と俗のはざまで苦悶していた。「清濁併せ呑む」は、父の遺言のようなものだ。
熱心な禅宗宗徒でありながら、世俗との折り合いに腐心する。父は戦後の農業技術指導要員として、群馬の山麓地帯を1軒1軒回っては、養蚕指導をした。出されたお茶は、必ず頂く。酒を出されれば断らない。最低限のマナーを守るため、下手な世間話を一生懸命する。
母もまた、若くしてガンで入院を繰り返した人だ。苦しみの末、立正佼成会に入った。ここには、同病相哀れむ世界がある。父の死後、生命保険の外交員や派遣の家政婦をして、私たちを進学させてくれた。
バリケードの日々には、東京への仕事の行き帰りに大学に寄って、仲間たちにお土産を届けてくれた。人のいない所で初めて「もう止めて」と何度も懇願された。
私自身、おそろしく観念的な人間だ。心身が私の中で分裂し、一つ所に収まらない。高校の恩師に、「お前は珍しい奴だ。他人が共通の常識としている事に疑問を持つ」と言われた。高校の同級生には、生徒会や「授業放棄」の先頭に立った私を、「自信満々に見えた」と言われたけれど、それは自己分裂の激しさやコンプレックスの大きさの反映にすぎない。
大学に入ってすぐ、私は学生運動にのめり込んだ。デモに出る、クラス討論をガンガンやる。2年生、3年生のクラスにも乗り込んで他流試合をやる。中核派の理論はかじった程度だけれど、私には吐き出したい事が山ほど/。
黒田寛一や戦後主体性論争史はよく分からない。けれども彼らは、私と同じような苦しみを共有して答えようとしている。私は、ようやく解決の糸口と「仲間」を得た。
先輩の活動家たちは、格好良かった。フケだらけの長髪をフイッと流すその仕草も、「精神の深み」を表現するようで最高だ。特に、女性たちが輝いている。言い寄る民青にゲンコツを喰わせた女性の話は、いかにも魅力的だ。
「百万の敵ありとても」。もう、私に恐いものはない。横須賀で、立川で、機動隊の警棒に殴られる体の痛みと恐怖は、失われた身体感覚、実存性を体の芯から蘇えらせてくれる。私は、私と人間を信じていい。信じられる。この世界で生きていきたい。
「死闘の7か月」、私は常に先頭にいた。逮捕数は20余回、起訴もされた。切り拓いたもの、経験したものがあまりに多く、大混乱に陥りもしたが、もう戻る気はしなかった。たとえ、失ったものがどんなに大きかろうと。
2 私の10・8羽田
3派が対機動隊でゲバ棒を持つのは初めてだ。角材にベニヤを付けて「プラカード」を作る。いざ出陣。私は行動隊として、長い梯子を数人で抱える。
弁天橋で山崎博昭君が死んだ。翌日の新聞は「学生の暴挙」を非難する記事でいっぱいだ。民青は早くも「山崎の死は、学生が占領した護送車に轢かれたもの」と断定している。[2]
私は久しぶりに授業に出た。チャイムが鳴り級友たちが動き出した時、私は立ち上がって呼び掛けた。「クラス討論をしたい」――1人残らず着席し、私の次の言葉を待っている。みんな、私が羽田にいた事を知っている。
私の発言が終わるのを待って、次から次へ級友たちが発言する。闘いへの批判、非難、質問。みんな真剣に考えている事が分かる。次の授業は潰れた。
討論のまとめに、私はクラス決議を提案した。級友の提案で、有志だけ残り「決議」を出す事になる。私が提出した決議案は反故にされてしまった。私は妥協に妥協を重ねてしまう。「有志決議」に格下げされた。それでもいい。一刻も早く決議を公表したい。民青の「学生責任」論の大洪水に打ち勝たなければいけない。決議は、羽田闘争への正否は分からない、けれど山崎君の死をかけた思いを真剣に受けとめたい、というものになった。
埼大北浦和キャンパスの中心の広場には、学生たちが集まっていた。みんな決議文を1文字も見落とすまいと読んでいる。そこここで熱い会話が続く。民青が圧倒的多数を占める教育学部の女性が飛んで来た。「これでいいのなら、私はやれる。民青に勝てる。勝ってみせる」。妥協して良かったのだ。それが正しかったのだ、と私も確信した。この決議文が民青との「分水嶺」になる。私は闘う。けれども、クラスの思いはそれとして大切にしよう。
「死闘の7か月」の過程、大久保キャンパスへのバス代値上げが公表された。2千を超える学生たちは、バスを拒否して自発的に歩いて通う。約40分、木枯らしの中、雨の中、民青を除いて落伍者が出ない。「何かが始まっている」。
私の理工学部で3年、4年生のクラスで民青の自治委員のリコールが進んだ。1学年8クラス、中核派の中心活動家は、私のクラスを中心に数人だ。見た事も無い先輩たちに推されて、私は理工学部・自治会委員長になった。
66年の3派全学連の結成時、埼玉大は中核派の三大拠点の1つだった。私は3派を選んで自動的に中核派になった。けれど「7か月」の後、赤ヘル、黒ヘルが登場してきた。みんな昨日までの中核シンパ(同調者)たちだ。「何で○○派なのか」を問う。「友人が△△大の○○派だったから」、「弟が××派だから」。3派なら何でもいい、いや8派でもいい[3]。信頼できる人間関係のツテを頼りに活動家になっていた。「まあ、仲良くやろうや」。時にはゲバルト(=公的・政治的暴力)で黙らせ、時には情報を交換し合い、渾然一体となって民青と対決する。
翌年6月のアスパック闘争の後、活動家たちは呆然自失状態に陥った。佐世保・王子・三里塚、その先頭を走り抜いて心身ともに疲れ切っていた。何よりも得たものが大き過ぎた。労働運動の右派系労組の大隊列が、佐世保では共にデモをしていた。学生の闘いを守り、機動隊と闘う巨万の人々――孤立を前提として闘って来た私たちは、それをどう捉えていいか分からない。「もっと考えよう」、全身に広がる倦怠感に打ち勝てず、私たちは長い休眠に入って行った。
革共同への加盟書
69年6・15当日、私は4・28の指名手配で逮捕された。1年4ヵ月の拘留の後、私はようやく保釈された。71年春、中核派中央指導部の梶さんと会い、反戦への移行を求められた。[4]私の代の埼大中核派は、69年11月決戦で全滅した。代わりに東大闘争で保釈されたOが、中核派を再建した。経歴からいえば私がずっと上だ。やりにくいから……という理由もある。私も拘禁症状を患っていた。獄中で母の死をみとれなかった想いもある。働いて生きよう、という気持ちが勝った。母には甘えっぱなしだったから、自分で稼いで生きることは、せめてもの親孝行でもある。
「革共同への加盟書」は大学ノート数冊分になった。入学以来の私のすべてを振り返り、一定の総括の視点も書いてみた。もともと私は「3派の1つとしての中核派」だった。何にせよ、自分の党派の選択を他人に決められたくない。分派闘争であれ、党派闘争であれ、「囲い込み」は望ましくない。それは「主体性の否定」だ。
全共闘運動の、「前衛党の指導」という古典的命題を拒否したその解放性は、私たちの世代が得た共通の貴重な体験でもある。異論を排せず去るものは追わず、東大闘争の「連帯を求めて孤立を恐れず」は私の心にフィットする。
私は党や「ボルシェヴィズム」に暗さを感じる。けれども今の時代のこの日本、やはり党派でしかあり得ないというリアリズムが私にはある。
梶さんに「決意書」を出してほっとした。とにかく言うだけの事は言った。あとはゆっくり休みたい。
[1]死闘の7か月。1967年10・8羽田闘争から翌年4月までを指す。2つの羽田闘争と佐世保・三里塚・王子でのゲバ棒での大衆的実力闘争。3派全学連とともに青年労働者は反戦青年委員会に結集して闘った。3派とは、中核派(白ヘル)、共産主義者同盟(ブンド 赤)、革命的労働者協会(解放派、青)。主義者同盟(ブンド 赤)、革命的労働者協会(解放派、青)。第4インターほかの諸派も参加した
[2] 断定。共産党は、マルクス・レーニン・スターリンを教祖とし、トロツキーの暗殺を当然としていた。トロツキー系の思想や運動を権力の別働隊として、あらゆる手段で排除・抹殺することを当然とした。「日本共産党は世界の共産党の中でもっともトロツキストに対して厳格」と自負していた。
[3] 全学連。全日本学生自治会連合。68年3月当時、自治会総数750のつち、3つの自称全学連があった。民青系205、3派76、革マル22、他にフロント系17、民学同系14など。いずれにも非加盟は299。
10・8当日はそれぞれ法政(中核600)・明治(解放)・中央(ブンド、解放と合わせて1600)・早稲田(革マル300)などから2500人が出撃した。都内の大学から1500、関東・全国から1000。大学別には京大78、専修64、埼大60、大市大57、同志社・広大は各55など。出撃拠点の参加学生数は不明(衆院などでの後藤田証言から)。他に立命館は111(主として空港ロビー座り込み?構造改革派?社会党本部泊?)。当時、埼大の学生総数は3000人弱。
[4] 反戦。反戦青年委員会。もとは1965年に結成された日韓条約反対の青年組織。社会党青年部・社青同・総評青年部や他の青年組織などの共闘組織。次第に新左翼系の主導する運動になり、3派全学連の崩壊後もしばらく続いた。この頃は党派的に細分化され、「中核派系の労働者」やその運動体という意味で使っている。
[5] 芝工大事件。私の埼大中核派の滝沢紀明さんが芝工大で死んだ事件。「内ゲバによる最初の死」。詳細は第2章の「滝沢『虐殺』事件をめぐって」参照