カテゴリ:☆☆私本『狂おしく悩ましく』の本体 > 第1章 横浜時代

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子育てと保育園

 誕生予定日が迫って、私は自宅に帰った。反戦の仲間にまわしてもらった他人名義で、部屋を借り一緒に住んだ。おかげで産湯をつかわせる事が出来た。触れば壊れそうなカタマリだ。妻に励まされて体を拭きあげた時、言いようのない恍惚感があった。小さな唇に手を当てると、わんわんと泣き出した。体の中から甘酸っぱい何かが動きだす。
 「己の欲するところに従いて則を超えず」――私の好きな言葉だ。この心で子どもの名前を考えてみた。妻も共鳴してくれた。
 木造長屋の隣のオバさんは「下町の人」そのものだ。子どもが泣けば首を出し、事あるごとに手を差し伸べてくれる。若い夫婦2人きりの子育てを心配で心配でしょうがない、という感じだ。
 しかしそろそろ限界だ。私たちは部屋をたたんだ。私は神奈川支社に戻り、妻は職場の近くに移った。支払いは全て済ませたつもりだったけれど、1件漏れて「住んでいたのは誰だ」と騒動になってしまった。ごめんなさい。
 私は昼間のうちに、定期的に家に通った。まだ妻は職場だ。オムツを洗濯する。伸ばし、干す、たたむ、それだけで何時間もかかる。
保育園に通うようになってからは、送り迎えも加わった。子どもを外で遊ばせながら洗濯だ。「仕事や組合で遅くなるから代ってくれ」――ポケベルで暗号表を作り、やり取りしながらスケジュールを調整し合う。
 
保育園の送り迎えは「決死」だった。山の高台に昇って、私は周囲を点検する。私が敵なら、どこで見張るだろう。どうやって襲うか。入念な襲撃プランを練り上げる。そして、敵の虚を衝くプランを作る。
 鉄パイプを近くに隠し、投げつけるべき木や石の塊をあちこちに置き、そして息子を抱き上げる。最悪の時は放り投げて逃げるしかない。柔らかそうな芝生や地形を選んで、ポイントを繋いでコースを組んだ。マンガ『子連れ狼』が連載中だった。「この子は雨ん中、骨になる……」。
 

「バイク、バイク」

 県内で日教組の集会があった。私は、ビラ撒き動員だったが、生憎な事に妻のスケジュールとかち合った。
 「ままよ」。バイクの荷台に段ボールを2つ載せ、折り紙の帆船のようにした。これなら落ちないし、風も防げる。そこに息子を抱き上げて縛り付けた。信号のたびに、居なくなっていないか泣いていないかと振り返った。気が気でないとはこんな事か。
意外な事に、子どもは大喜びだった。景色が飛び寄り飛び去っていく。嬉しい興奮がよく伝わって来た。
会場の近くの知人宅にバイクと子どもを預けて、革マルの宣伝隊と睨み合う。「もし衝突になって、パクられたらどうしよう」。心臓がドキドキだ。
子どもを妻に渡す時、バイクの話をしたら、激しく罵られた。しかし後日、バイクを見ては「バイク、バイク」と叫ぶようになった。結果オーライか。
 
2歳の頃だったろうか。約束の時間をとっくに過ぎても、妻は帰って来ない。私は子どもを柱に縛り付け、鍵をかけて部屋を出た。次の任務が入っていた。もうこれ以上待てない。
しばらくして、妻からポケベルで「至急帰れ」の連絡があった。慌てて帰ると、妻は真っ青だ。妻が帰った時、子どもの姿は見えなかった。ドアが開いていた。子どもは自分でひもを解いて、鍵を開けて外に出たのだ。「とうちゃん、とうちゃん」とべそをかきながら道を歩いているのを近所の人が保護してくれていたという。助かった。私も青くなったり力が抜けたりした。弁明のしようもなかった。それにしても、子どもの成長って早い。
 

通信簿と悪童

 学期末には、テストの採点や通信簿作業を手伝った。教師の仕事の多さには呆れ返った。1人1人の評価について、妻は私に教えるように、口に出してまとめていく。成績と努力点。「なるほど、通信簿とはこうやって出来るのか」。
 担任クラスに3人の悪童がいた。妻はよく、3人の名前を挙げて愚痴っていた。ある時、私が緊急の用事で小学校を訪ねた事があった。校門の前で中を覗いていると、子どもたちが寄って来た。偶然、彼女のクラスだった。私は言った。「お前の名前は○○でラーメン屋、お前は××、お前が△△か」。「えっ、オジさん何で知ってるの?」。「バカな悪ガキだって先生が泣いていたぞ」。「えー、先生の知り合いなんだ」。
 

泣きやまない

 時間調整に行き詰まって、時に子どもをセンター(神奈川前進社)に連れて行った。スヤスヤ寝入っている子を同志たちに預けて、会議に参加した。
 会議中に呼び出された。子どもが泣いて、泣き止まないという。あわてて戻って抱き上げた。「とうちゃん、とうちゃん」とべそをかいている。「うんうん、分かった。そばにいるからね」。しばらく抱いていると、ようやく収まった。母親がいれば、私のことは見向きもしないのに、こんな時は慕ってくれる。「2番手の親」でも、親は親だ。
 
 この頃大きな集会では、集会託児所が必ず設置された。当たり前の事で、むしろ遅すぎた。女性の会議出席を保証するために、「保育士」動員もあった。けれども、子どもと付き合える人が少ない。これでは「仏作って魂入れず」だ。時々、泣き叫ぶ子どもを見て、あやして治める役を買って出た。自慢じゃないが、その辺の母親以上だ。
妻が、保育園から帰って来て文句を言う。「いい旦那さんですねって言われた。何か、私が悪い妻って言われてるみたい」。は、は、世間から見ればそうなんだ。
 

 

1      結婚生活

妻の職場

73年の秋だろうか、私たちは結婚した。相手は同じ埼玉大の同い年の女性だ。7110月、1年4ヵ月の長期拘留を経て保釈された私は、物理学科の古参教授の、M先生のお宅で御厄介になっていた。直後の失恋もあり傷心の中にいた。授業料未納分を含めて、生活費を先生や物理教室の諸先生方が工面してくれた。
 これからどうしよう?と思い悩みながら旧友と会い、バイトをした。彼女は、そのM先生宅に下宿していて知り合った。神奈川の女子短大から、途中入学で埼大に移ったという。「活動歴」は無いが私の事は知っていた。
 4月に私が横浜に移ったすぐ後に、彼女も同じアパートに移って来た。小さな会社の事務員として働いていた。
 
 「結婚の条件」として「教師になる事」を求めた。私は活動する。先行きは不明だ。だから女性として自立できるようにして欲しい。「教師は合わない。出来そうもない」と言う彼女を無理やり説得した。その代わり、試験勉強には付き合う事になった。
妻の赴任した学校には、ユニークなノンセクトの活動家たちが、日教組の分会内でフラクを作っていた。時折、私の家が会場になる。私もそばで聞いていた。日教組のストで槙枝委員長の逮捕が取り沙汰された時は、組合ビラの焼却など一緒に手伝った。
 
 ある時、メンバーの1人が本を出した。その中に、分会の姿が赤裸々に綴られていた。そこには、私の知らない妻の姿があった。
 
 金沢文庫の新居はDK。まだ新築で清潔だった。棚の取り付けなど大家との話は、主として妻が進めたけれど、そこに私の知る妻と違う顔を見つけた。私は、金銭がらみの交渉が出来ない。
 週に1日ほど、私は家でくつろいだ。ガウンを着て、机に向かう。「これが安逸というものか」。たまには炊事を受け持とうと「ロールキャベツ」にも挑戦した。妻の指導を受けながらヘトヘトだ。「自分の為にする」事は苦しいだけだ。
 
年末年始、「2人でどこかへ行こう」と話し合ったけれど、社防・年始ビラなどが入っていた。そんな事が重なるうち、とうとう私も切れた。「今年は任務を受けない。2人で正月を迎える」。独り者や生真面目な同志に押し付けて、2泊3日の温泉旅行だ。
 

妻が襲われた

 73年、9・21をもって、中核派は「戦略的対峙段階」に突入した。すでに春には(?)革マルによる学生の下宿・アパートへの襲撃が始まっていた。
 74年の5月か。労働者宅への、最初の攻撃を受けたのが私のアパートだった。この日、反戦の会議が私のアパートで開かれていた。会議が終わり、途中まで送って行っているさ中、すれ違いに革マルが襲って来たのだった。[1]
同志たちを送って戻る道。木刀を振り回して叫んでいる若者がいた。「何だ!」「近くの家が襲われた!」。慌てて家に帰ると、ドアは開け放たれ妻が頭から血を流してうずくまっていた。震えている。「ヤラレタ!」。
「ドアが叩かれたので、××さんだと思って開けたら……」。「どこをやられた……?」。幸い傷は大した事はない。しかし、頭の内出血は心配だ。
十数分後には、救急車とパトカーが到着していた。近所の人たちがワンサと集まって見ている。戦場には慣れている私はいいが、妻はショックと動転……。妻を救急車に乗せて見送った後、大家さんと会話した。「詳しくは後で……。鍵が欲しいんですが」。大家さんに戻ってもらいスペアキーをもらった。よし、これで鍵は押さえた。公安も来ていた。「あとで現場検証だ~」と嬉しそうに叫ぶ。
 
部屋に戻って、内側から鍵をかけた。乱れた部屋で、奪われたものは何かを点検する。名簿類を盗られた事はなさそうだ。もともと名簿は作っていないが。会議の直後だったから、水溶紙に会議メモがある。まずこれを溶かそう。
次は、護身用の鉄パイプだ。これをどうしよう。戸袋の上の天井の羽目板をはずして、屋根裏に入った。奥の方に隠す。もともと「いざ襲われたら」と準備していた所だ。ここまで見られはしまいと思うが、動悸は治まらない。
まだ何か残っていそうだ。同窓会名簿をどうしよう、何かの口実にされるかもしれない。裁判闘争の被告団名簿もある、焼いてしまえ。「黒田さん、開けて下さい」。大家さんが叫び出すのを聞きながら、台所のガス台で焼く。真っ赤な炎が収まって、ホッとしてドアを開けた。
夜が明けて、捜索隊がやって来た。「ドンドン」と戸を叩いて「開けろ!開けろ!」と叫ぶ。
 「このヤロー!何を燃やしたんだ!」。ヤクザもどきの私服が飛び込んで来て押さえ込まれ、突き飛ばされた。6畳間と奥の4畳半に私服が散った。「奥は現場じゃない!」と立ち塞がっても、「ふざけるな!」と羽交い絞め。部屋の写真をバチバチ。本棚から一冊一冊取り出して、表紙の写真を撮りまくる。
 数時間後、私服たちが退けた後で、隣の人と話した。「お騒がせして……」。「いろいろありますからね」……。
 

病院通い

入院中の妻との面会は実際、大闘争だった。金沢区の市立病院は、金沢署から奥まった所にあり、交番まであった。病院入口と、病室前に、私服が張っている。私が行くと寄って来て、「話を聞きたい」と囲む。「俺は被害者の家族だ。出て行け!」。押し問答するうちに看護婦さんたちが駆けつけて来て、「ここは病院です。出て下さい」と私服に求めた。凛とした気迫に圧されて、私服も引き下がった。
 病室では、妻が……。彼女の同僚も見舞に来てくれた。売店で着替えの為の買い物をして……。「また来る」と出る。
 病院を出ると、たちまち私服に囲まれた。「任意同行」と腕をねじ上げる。蹴りも。両手をスーツのポケットに入れて、「無抵抗だ!」と叫び続ける。両腕を引き出されもみ合ううちに、スーツがビリビリになった。交番で囲まれて2時間、ようやく放免された。こんなことを数回繰り返すうち、恩師らに記念にもらったイギリス製のスーツも、引き裂かれてボロボロになってしまった。
襲われた自宅も使えない。病院にも通いづらい。脱出しかない。彼女だけが住む新しい部屋を借りて、病院を訪れた。
 担当の看護婦さんに申し込んだ。「事情で退院させます」。看護婦さんもうなずいてくれた。情況が分かっているのだ。お礼の品を置くと、「それは困ります」と応答。虚礼廃止の運動もある。でも今回は……。無理やり置いて、タクシーを呼んでもらった。「ありがとう、ごめんなさい」。
妻の学校でも大騒ぎになっていた。新聞にも出たから、父母・保護者たちも知ってしまった。「針のムシロ」の中、フラクの人々が守ってくれた。助かった。
当時私はキーパンチャーの「支店長」。ここにも革マルの影が及んで来た。『解放』紙上でも、事件は出た。
数日後、女性社長に呼ばれた。「残りの1ヵ月、出社に及ばず。金は払う」。革マルのナーバス手紙が机の前に置いてある。「黒田と職場の皆様へ」という宛名の封筒の中に、「人殺し・スパイ・権力の手先……」というおどろおどろしい文字が並んでいた。「若い子たちを預かっている。分かってくれ」。支店に別れの電話をすると、中心的女性が応対した。「あれ、本当なの?」。「うん、本当」。「いろいろあったけどね」。夜間高校の女性たちともこれでお別れだ。
 


[1]対峙。毛沢東の持久戦論に学ぶもの。防御・対峙・総反攻の3段階からなる。71年の「12・4反革命」以降、相互絶滅戦争論へと転化する。72年11月以降の早稲田解放闘争で追い詰められた革マルは、集会への結集場所への、鉄パイプでの襲撃を開始。翌年春?には学生の下宿への襲撃を始めた。中核派は「権力・革マルとの「2重対峙」の下で、主として対革マル戦に力を投入する」ことになる。(2重対峙=対革マル戦)

関学Ⅱ部学友会

 73年秋か? 私は、関東学院大学Ⅱ部(夜間)のオルグ(組織化担当)についた。当時すでに神奈川の中核派には、横浜国大と関学Ⅱ部しか残っていなかった。天田さんに、「どちらが拠点化出来るか競え」とハッパをかけられる。金沢文庫のアパートに移り、昼は仕事、夜は関学という生活が始まった。
 関東学院はスポーツの世界では有名だが、他方神学部は関東有数だ。クリスチャン左派の巣窟にもなっていた。昼間は中核、革マルが交互に入るという激戦区。近くの横浜市大は革マルの拠点化していた。
Ⅱ部学友会は中核派が握っていた。会長は親分堅気の奴。目配りの良くきく行動派タイプだ。会長とは息が通じて、彼の自宅でも会議の後に、学生結婚中の彼女も交えてよく酒を飲んだ。
Ⅱ部生には、生活感に満ちた面白い連中が多くて、ホッとする場でもあった。横須賀の夜間は海自の隊員が多く通い、学生大会にも出てくる。居ながらにして、自衛官との交流が出来る。当時、千葉大では「自衛官=スパイ」として、入学阻止闘争が盛んだったが、ここではそんな事は思いもしなかった。自衛官あっての関学だったのだ。大小の地場産業の子女が通うここは、国立や有名私立と風土が違う。学友会のビラは「すべてのⅡ部学友諸君!すべての自衛官諸君!」の呼びかけから始まる事になった。
 
 中央集会の行動隊の選抜には、みんな尻込みする。「黒田さんよー。こいつら無理だよ、馬鹿だから」。会長さんに説得されてあきらめる。
 けれど面白い事が分かった。Ⅱ部の学内集会には、彼らは「武装」してやって来る。水道屋さんは、工事用のヘルメットとツルハシで登場した。彼らは、Ⅱ部学友会という「自分たちのもの」を守るためには闘う意欲がある。けれども「中央」のためには闘いたくないのだ。「これがⅡ部生か」。
 学園祭で踊りまくる。パチンコ屋の息子、水道屋の息子、土建屋の息子……。そして右翼、自衛官、みんな一緒だ。
 
反共労働運動
追浜駅前で、関学と横浜市大の学生にビラを撒く事もあった。ここでの敵は、日産追浜工場の右派労働運動だ。彼らは自社の労働者のビラを妨害するだけでなく、駅前では誰彼構わず襲いかかった。
 「富士労働者学校」で鍛えられた、筋金入りの反共労働運動は戦闘的だった。特に学卒者とみれば、たとえ職制だろうと反発した。Ⅱ部生とて容赦なかった。「腹を割って話せる奴か、否か」。「自分たちを踏み台にする奴か、否か」。
 殴り合いの中で、反共労働運動の底に流れる怨念のすさまじさを思い知らされた。「若い根っ子の会」や「ゼンセン同盟」のパンフや機関紙を読んだのもこの頃だ。
 
革命的権威主義
「革命的権威主義の確立を」と叫ばれたのはこの頃だろう。私も、Ⅱ部で報告・討論した。その後、会長のアパートで3人で一杯やっていた。話が蒸し返された時、私は「反権威主義」について力説した。会長さんが反問する。「黒田さんよ~。さっきの話と逆じゃあねえか。どっちが本当なんだ」。「さっき強調したろ。『公式的見解』だって。今のは俺の私見だ」。「権威」は、実績の後について来るものだ。
「革命的権威」とはなんだったろうか?「70年」は、中核派や新左翼諸派にとって社会党・総評の枠組みとその庇護を使い切って、さらに自立的な大運動を展開する過程でもあった。戦後の「平和と民主主義」の中からそれを止揚し乗り越える革命的主張を生み出した。そして何よりも「唯一正しい無謬の前衛党」の共産党を凌駕する地平を切り開いた。
中核派はまだ「党」ではない。けれども「革命的左翼」の主流だとの自負がある。「反帝・反スタ」の綱領的優位性の確信がある。本多さんの「レーニン主義の継承か解体か」は革マルとの対決の論理ではあるけれど、背後には全共闘やベ平連的な前衛否定との攻勢的な対決姿勢がある。レーニンの権威を再確立しよう、レーニンの党へと進もうという意味だろうか。反スタ確立の道筋となったトロツキーを「スタに負けた奴」と切り捨てる。
三里塚では全学連現地闘争本部(現闘)を一手に握り諸党派を差配していた。主流派として振る舞い、前衛党として振舞い他党派を見下せということか?
けれども、私にとっての{主体性}とは、「すべての権威を拒否する」ことだ。正しいか否かも、それが正しいか否に関らず、「私」が正しいと心から確信できなければ、「正しい」ことにはならない。他人に対する説得も、彼や彼女が自分の中から答えを出すのでなければ意味もない。人に与えられた正しい答えは、困難に直面したら消えてなくなるものだ。そして何よりも「応用」が出来ない。
現実には、私たちは内外の権威と共存する。だからこそ、徹底した「反権威主義」に踏まえてこその「権威」ではないか。「革命的権威主義」を大声で無媒介的に叫ぶのは見ていて恥ずかしい。

ゴム会社のスト

 反戦に移って、最初に「同盟員」オルグに成功したのは、戸塚の日立労働者だった。彼は炭鉱生まれの喘息持ちだった。労務に配属され、「合理化の先兵をやらされている」と苦しんでいた。当時はやりの「行動科学」だ。ベルトコンベア作業の女子工員の脇で、「1分間何個の処理が効率的か」を調べる。トイレの時間まで秒単位だ。
 日立にビラを撒く時は、「これぞと思う相手には、1人に2枚を渡せ」と教えられた。門前に立つ労務の前で、ゴミ箱に1枚。もう1枚をこっそり持ち帰る。社宅も同じだ。「健康管理」と称して、抜き打ち的に労務のガサが入る。社会性のあるものは全て、下宿する友人に託していた。「職場工作」は、小林多喜二の世界そのものだ。
 
 当時、「4大生」は1割を超えた頃だろうか。「優れた高卒の人材」が、企業の研究所や工場に配属されていた。彼らは、左翼にとっても「金の卵」だ。
 
 ゴム会社では、組合結成の通告と同時に、ストに突入した。私が獲得した数人の男女がその執行部だった。みんな20代そこそこだ。戦術はユニークだ。数日おきに1時間ほど、断続的にストを打つ。
 ゴムや合成樹脂は、高温に熱して型枠に入れて徐々に成型する。途中いくつもの作業が加わる。少しでも怠れば、不良品になってしまう。「なるほど」と私はうなった。
 他方で、営業職のメンバーは「争議中は話せない」と上司に通告していた。営業はストップ。当然、歩合給はガタ減りだ。「それも良し」だった。
 長期の闘争に、執行部もみな疲れていた。最も苦しんだのは、組合員の「戦闘性」だった。朝の出勤時、闘う組合員は正門前を占拠した。会社幹部・職制たちを取り囲んで吊るし上げる。会社側が暴力事件をでっちあげるか、実際に暴力事件に進むか、その寸前だった。「統制がとれない」。
 週に2回ほど、仕事の後に私も駆け付けた。私たちは協議した。私も「後退」を知らない。煩悶しながら「一時休止、妥結」への道を選んだ。
委員長が行方不明になった。残された人々も自問自答を重ねた。そして「次の闘いに備えよう」と確認し合った。
 

県評青婦協[1]

 神奈川県評の青年婦人部は、中核・解放(社青同)・革マルの三つ巴の主戦場になっていた。不二家鶴見工場の中核派、水道の解放派、動労の革マル、それが代表格となり、青婦の主導権を競っていた。
川崎の富士通。千人を超す白ヘルの構内デモが、県下の労働者を揺り動かしていた。確かここでも、研究所メンバーが中心だった。
 
 私は、「良き日」の青婦協の交流集会を知らない。平和を論議し、歌を唄い、ファイアーストームを囲んでフォークダンスを踊る。「歌と踊り」は民青の専売特許ではない。彼らはただ、その位置づけを異常に高めただけだ。反戦であれ、革命であれ、若い男女が集まれば当たり前だった。当時、田舎から出て来た多くの若者は、労働組合の活動の中で「文化」に接した。新宿駅地下の、反戦フォーク広場に集った数千の若者たちが、機動隊と激突を続けたのもそんな中だ。「商業文化」が始まったばかりだった。
 
 中核・革マル・解放の各派のヘルメット集団が、互いに竹竿を突き出して構え合う。一触即発の中で、ファイアーストームがバチバチと火の粉を散らす。異様で幻想的な光景だった。青婦協運動はこの抗争の中で、事実上消滅してしまった。
 

相模原

72年、相模原米軍補給廠のゲート前は、県内外の労組の赤旗で埋め尽くされていた。その数、数万?が、県評の下に結集していた。市民・住民団体が膨れ上がる。むき出しの戦車を載せたトレーラーが、横浜へ向けて号を走る。そしてベトナムで人を殺す。人々が戦車の前に座り込む。
 労働者の動きは早かった。一報が入るや否や、個人で、職場で、現地に駆け付けていた。どこの組織も、執行部は大衆の後から追いかけた。反戦青年委員会も同じだった。数日経って、私は「党」の方針を聞こうとセンター(前進社神奈川支社)に行った。センターは一人の留守を残して出払っていた。「何をしている。現地に行け!」
 
 白ヘルメットの反戦青年委員会の隊列は、反戦旗を撒き付けた竹竿を構えて、「革マルせん滅、米タン粉砕」とデモを繰り返す。革マル部隊と激突した。流血・混乱・興奮――相模原の町中が熱かった。
戦車は百日間にわたって阻止され続けた。
 

寿共同保育所

 神奈川にも「女性解放」のうねりが広がった。女性たちが主催した党員集会は、大荒れに荒れた。女性たちの糾弾に応えて、男の指導部たちが、自己批判と決意を表明する。その自己批判が、更なる糾弾の的になった。
 私たちは、戦後民主主義の下で育った。「男女の差別はない、あってはいけない」と教えられてきた。「平等だ」。けれども社会の現実は、そんなものではない。
 そしてまた、改めて見直せば、職場・大学・家庭・地域、そして私たち自身の中に、厳然と差別と差別心がある。「男らしさ、女らしさ」の「常識」は、身にしみついている。そして、全身全霊を投げ打っての「実力闘争」と「決戦」が、それらの問題をごまかしようのない現実として突きつけた。
 学生出身の常任の一人が立った。「私は今後、夕食の手伝いをする」。誇らかに決意する彼に、たまりかねて天田さんが「そんな次元の問題じゃない」と叫んだ。多くの男たちもしらけきった。「当たり前の事を今さら言うな」。
 
 各地で共同保育所が作られた。私たちはいずれも20代。共同保育所をテコに、生活のあり方、夫婦のあり方を見直そう。女性たちが生き、働き、闘える環境を創り出そう、そんな思いを共有していた。「活動家の妻は、生活を支えるのが当たり前」という歴史を変えなければいけない。
 
 中でも、横浜・寿共同保育所は異色な存在だ。山谷・釜ヶ崎と並ぶ寄せ場労働者の街、「寿」。関内駅近くの簡易宿泊街のど真ん中に、彼女ら彼らは保育所を開いた。
 メンバーの子どもと共に、街の子どももいた。彼女らは、寿と共に生活し、寿に守られて保育所を守る――という道を選んだ。革マルによる発煙筒投げ込み事件もあったけれど、ビクともしなかった。「本格的に攻めて来たら、街の人に囲まれて、一人残らず袋叩きだ」。
 女性教師たちを主力としていた。男性の中心は、長く寿に関ってきた人だ。寿の運動体や住民との親交も深い。三里塚には、貸し切りバスで大挙参加している。
 
 寿共同保育所と「党」の対立を知ったのは、子どもが生まれた頃だ。私がわずかに知る対立点は2つある。
 1つは、「男性は出入り禁止」という党の方針だ。男たちは革マルのターゲットになる。もう1つは、「共同保育の思想」だった。
 寿では、共同保育所で平等主義を強めていた。また、一歩進めて「家族の枠組み」を激しく問い直そうとした。交替で保育を担当する母や父は、「母さん、父さん」という言葉を避けて子どもたちに名前で呼ばせていた。その内容・傾向をめぐって、深刻な対立が生まれていた……らしい。(共同体運動への傾斜を強めていた、ということか)
 


[1]県評。県労働組合評議会。当時労働組合運動主流派だった総評(全国労働組合総評議会)の県別協議体。社・共とともに反戦・平和などの政治運動を担った。89年に解散。

 

1      横浜南部地区委員会

この『前進』は配らない

 横浜南部地区委員は皆、若かった。当時私は24歳になる頃だ。古参幹部も30歳前だ。ペンネームはあえて「黒田」と名乗った。会議では多数決による「決議」が原則だ。基本はしゃんしゃんだけれど、時として中央方針に反対して激しい議論も起こった。
70年」は、階級闘争のうねりの中で、次々に新しい課題が形になった時代だ。民族問題・沖縄闘争論・女性解放・市民・住民運動……。新左翼諸党派にとっても、「綱領」そのものを根底から作り直す事が迫られていた。それを具現化しようとすればもっと大変だ。1度や2度の議論でけりがつく問題ではない。
 障害者解放闘争についての『前進』論文だったと思う。私は、「一体この筆者は、障害者の側から論じているのか、それとも健常者の側から論じているのか、サッパリ分からない」と言った。論争の中で、「今号の配布を俺は拒否する。シンパにも渡さない」と宣言した。先輩の真似をしたのだ。地区委員会指導部の天田さんが怒声で応えたが、翌日には互いにケロリとしていた。
 

「第2の7.7」と地域入管闘

 横浜南部では、私は「地区入管闘」の一員でもあった。70年7・7の華青闘(華僑青年闘争委員会)による糾弾に、革共同は「7・7自己批判」で答えた。華青闘は中国派(毛派)だ。党派闘争の赴きもある。それを乗り越えての自己批判だった。そして入管法(出入国管理法)改悪に対しては、「政治決戦」として闘った。
 しかし華青闘は、「政治決戦主義」への批判を強めた。「入管法改悪がたとえ阻止されたとしても、入管法体制はある。入管改悪法粉砕、入管体制粉砕だ」。そして、日常の中での民族差別への運動を求めた。
 「第2の7・7自己批判」の下、各地で地区入管闘が結成されていった。その頃、横浜市戸塚区の日立工場で「採用差別」事件が起こった。日立は「朝鮮籍」を理由に内定を取り消した。戸塚工場前で、私たちは弾劾のビラを撒き続けた。マスコミも取り上げた。
 
 ある時、私が書いたビラについて、地区入管闘の会議で徹底糾弾を受けた。日立工場の女性労働者は、「黒田さんのビラには『血債の思想』が無い」。私の必死の弁明は、女性たちの怒りを倍加させた。ようやく市職のキャップがとりなしてくれた。私はビラの最後に、中国人文学者の魯迅(ろじん)を引用していた。
『墨で書かれた虚言は、血で書かれた事実を覆いきることは出来ぬ。血債は必ず同一物で償還されねばならぬ。支払いが遅れれば遅れるほど、利息は増されるのだ』
「血債の思想」という言葉はここから生まれたものだ。
 
 横浜中華街。旧正月の夜、私たちはよく遊びに行った。龍神を追い、爆竹を路上に投げつけ、うろついた。中華街の小さなブティックは、『前進』を置いてくれた。場違いのようだが、ここでは絵になった。
 
朝鮮総連や韓国居留民団のそれぞれで闘いと内紛がうねっていた。もみくちゃになりながら、みんな必死に考え、闘った。
地域入管闘は、職場・地域の社会生活に根付いてこそその本来の役割を果たす。行政・企業を動かし、民衆の差別・排外を克服して受け入れる基盤作り、労組・地区労や商工会議所・町内会と連携した「世話役活動」にも精通しなければならない。共に糾弾闘争に参加することに留まることは出来ない。
課題はとてつもなく大きい。課題に即した党派政治の枠組みもゆくゆくは課題となる。それが「第2の7.7自己批判」なのだと思う。
対革マルの内戦激化の中で、「在日との接触の厳禁」が指示され、地区入管闘も解体されていく。
当時の入管法は、戦前から日本に住む人々までもさじ加減で「国外退去」を可能にしている。「煮て食おうと焼いて食おうと勝手」な非人間性に貫かれている。在日のある人は、「過激派と接しようとすまいと、オレたちは入管体制の下にある。破防法も同じだ」と言った。
後日、日立の採用差別での原告勝訴の記事を見た。
 
コラム 7・7自己批判
70年安保・沖縄闘争の中で、諸党派とともに華青闘が隊列に参加していた。その統一戦線の会議の場で華青闘が「抑圧民族の傲慢な姿勢」を徹底的に批判し、共に闘う仲間と認めることは出来ないと退場した。中核派は批判を受け入れ、「抑圧民族と被抑圧民族」の区別を明確にする立場を確立した。7・7は1937年7月7日の盧溝橋事件、中国侵略の本格的開始の日。
「たとえ闘う人間であれ、共産主義者であれ、その存在として、私たちは抑圧民族の一員として刻印されている」。この認識は、沖縄県民に対する「ヤマトンチュ」、被差別部落民に対する「一般民」等々として普遍化された。「差別者の一員として、差別主義と対決しのりこえる」という。
「知らないことの罪」「無関心と言う罪」、「踏まれたものの痛みは踏まれなければ分からない」等々。
「非抑圧民族の生活と闘いから学ぶ」、そこから自らを発見しなおすこと。糾弾を受けつつ成長する。非抑圧の解放主体としての存在を承認する。
けれども私たちの世代は、青年期に郷里を離れ、日々の巨大な変化の中で、親子間・世代間の継承を欠いた断絶の世代でもあった。乗り越えるべき歴史や自らのアイデンティティの不確かさを、どう見つけ出すことができるだろうか
 
 

 

1      稼いで生きる

反戦への移行が決まって4月、横浜の寿に行き数日間を過ごした。簡易宿泊所(ドヤ)に泊まり、朝の人夫寄せを待つ。路上ではあちこちで焚き火がたかれ、人々の顔はススで真っ黒だ。
 大衆酒場に入るとオジさんから声をかけられた。「学生か?」。タバコを差し出してくれるが、「持ってる」と断る。「受けとけ、顔づけだ」。 金を稼いでアパートを借りた。自分で稼いで人で生きる、―嬉しかった。年4ヵ月の拘留生活のさ中、働き詰めだった母を失っていた。母には甘えっぱなしだったから、自分で稼いで生活する事は、せめてもの親孝行でもある。
 
当面はアルバイトだ。戸部駅近くのガソリンスタンドで働いた。当時、潤滑油は高かった。オイル交換では全身が油だらけ。客がいろんな銘柄を注文するのに、入れる油は1種だけ。店長に尋ねても「黙ってろ」。
トラックの配達で、米軍基地にもよく行った。車を見ればフリーパス。本牧の広大な敷地の中をいろいろ見て知った。「何だ、ゲリラなんて簡単じゃないか」。
数ヵ月後、1ヵ月の予告解雇の金をもらって辞めた。公安が来ていた。[1]
次に入ったのは倉庫兼梱包業。同年代の人が数人いたから、「喫茶店に行こう」と声をかけた。「あそこは女か学生が行く所だ」と言うのを「騙されたと思って」と連れ出した。翌日からは逆に連れ出されるようになった。みんな、この空気が大好きになった。けれどヵ月後、突然中止になった。小遣い銭を使い果たして、みんな文無しになってしまった。ここも首になった。
 

非破壊検査技師

 「そろそろ正業に就きたい」。非破壊検査技師の募集に飛びついた。下請け・孫請けだけれど、当時は40人近く。急成長途上の業種だった。社長も30前後、みんな若い。
 鋼板の傷み、「疲労度の検査」なら、なんでもござれだ。石川島播磨の造船所では、巨大なタービンを調べた。超音波探傷・カラーチェック・レントゲン、方法は様々あった。
 石播では、本社の第1組合の労働者と一緒に作業をした。何千人かの左派的労組から99%の組合員が脱退し、第2組合に移っていた。反戦の同志に聞くと「共産党だ」とにべもない。しかし、この大工場でたった数人、胸を張っている姿には頭が下がった。
 
 1~2ヵ月かけて、山中の民宿に泊まり込む事もあった。上司と一緒に24時間、寝食を共にするのは辛かった。日常会話につきあうネタも、準備もない。
 発電所の頃だ。ある日、風呂場で同僚と睨み合いになった。酒宴の席、上司に盛んにおべんちゃらを重ねる脇で、私は沈黙したままだった。2人だけの入浴中、「ヤルか?」と挑発されて困った。一対一の喧嘩はした事がない。喧嘩を理由に首になるのも嫌だ。でも仕方ない。「外でやろう」。2人して、近くの神社で向い合った。私たちは、山籠りのはけ口を求めて殴り合った。宿舎に戻ると、部長が驚いて聞く。「2人して何をしたんだ!」。「階段から転げ落ちて……」。それで収まった。
 山から下りて2週間して、そいつにまた呼び出された。「何だ、又やる?」。そいつは辞職したばかりだった。最後にお前に話しておきたいと言った。長く、暴力団にいた事。足を洗って正業に就こうとした事。だから必死でゴマをすった事。うーん、人生いろいろだなと言い合って別れた。
昼休みには、よく麻雀もやった。社長・部長・課長の3幹部に、誰かが引き込まれる。下手な私は、よくカモにされた。巻き上げられた金を元手に、私たちは部長におごってもらった。
ある日、仕事場で部長が大声で言う。「頭に来た。自民党は許せねえ」。課長が応じる。「今度の選挙は、共産党だ」。社長命令で、みんな共産党に入れろ、となった。共産党の大躍進はこうして生まれた。
 

ガスプラントのスト

職場の同僚は、みんな20代だった。「やっぱりストだ」という話が、最古参を中心に持ち上がる。「だけど労組はイヤだ」。
72年春、親睦会を結成してストをやる事に決まった。その時私は、川崎のガスプラントの現場にいた。班長が事前に、元請けの課長や担当に頭を下げて回った。「ストが終わったら、仕事を続けさせて下さい」。
巨大なガスタンクを空にして、1ヵ月ほど整備点検する作業だ。1日延びても損失は膨大だ。それをたかが下請けが、数日間も止めるのだ。
職場の中には数人、どうしても反りの合わない奴がいた。1人は元九大生。バリケードと全共闘が嫌で大学を中退したという。闘う側でも中退は少ない。「左」の臭いを嗅ぎ分けて、最初から睨み合いだ。
もう1人は東京の私大卒。金を貯めて八百屋を開くのが夢だ。行商から始めていくのだという。私大氏は、よく私の班長になる。新子安のビクターの敷地は広い。真夜中に2人でいると、「いつ襲われるか」という思いに駆られる。
 

原発労働者

 水戸の原発行きを命じられた時は戸惑った。学生として大宮で、横浜に来ては新潟・柏崎で反原発のデモに参加していた。「物理学徒として、原発にどう向い合うのか」とクラス討論もした。「でも、マアいい」。貴重な体験を逃す手はない。
2重3重の鉄条網、宇宙服のような作業着、話以上だった。規則上、1回30分以上の作業は禁じられていた。それを1日3回位か。狭い空間だ。細管は分厚いサビで覆われているから、エコーの反応も不規則だ。時間があまりにも不足している。宇宙服では作業ははかどらない。そんな中で、仕事の誇りに燃えて私たちは熱くなっていた。時に、邪魔な防塵マスクをはずしても、傷の有無を確かめよう。
 時間が余る時、私たちはゴルフに興じた。海にも行った。大量の熱湯が海に注がれている。魚たちの居場所がなくなっている。
報告書作りの時、私は先輩に議論を吹っ掛けた。2つの報告書が必要だった。お国向けの正式な報告では「問題なし」。企業向けの裏報告で、初めて問題点を指摘する。そのサジ加減次第では、次の発注も打ち切られる。悩ましい。
 
またも解雇
「党」[2]の任務には応じていた。よく、真夜中になって連絡
が入る。「社防(前進社の防衛隊)に穴があいた」「集会動員が足りない」。穴埋め役にはイヤになった。学生出身で小会社の私は、格好の人材なのだ。
作業現場へは、「直行」だ。「6時半に関内駅集合」。それを連絡なしにすっぽかす。とうとう同僚が腹に据えかねた。社長に呼び出されて、即日クビになった。
市職の指導部に相談した。「何言ってるんだ。公安の介入だ。処分撤回闘争だ」。水道の先輩も同意見だ。「違うんだけどもな」と思いながら、ビラを作り会社の内で撒いた。部長に突きつけた。
しばらく後、行きつけの喫茶店のママに言われた。「あんたの事を噂してたよ」。部長たちが、「頭のいい奴の考える事は分かんねえ」と愚痴っていたという。狭い街だ。社長たちは、とっくの昔に私の経歴を知っていた。知った上で私を守ってくれていたのだ。「分かんねえ」のは私自身だ。
 
「支店長」という名の雑役
73年、今度はプログラマーになった。オペレーターも兼ねていた。試験までは、私は優等生だった。けれど、現場では、私のプログラムは動かない。同僚がスイスイと動かしているのを見て驚いた。同僚は、元請けのヒラ社員にペコペコ頭を下げ、おべんちゃらを言い続けていた。酒席にはべり、お酌する。悔しいが真似るしかない。隠してあるマニュアルを見せてもらうには、それしかない。
秘密裏に進めた組合結成のいざ当日、私は「解雇」を言い渡された。委員長候補が動揺して密告したのだ。クビを呑むか、もっと条件の良い他社への斡旋を呑むか。私は後者を呑んだ。緊急の指名動員が多すぎて、闘う時間なぞ無い。
数年後、たまたま社長と出くわした。「委員長」が私に悪口を言う。社長が「いや、君には信念がある」。
こうしてキーパンチャーの会社の「支店長」に収まった。夜間高校の女子高生とそのOBの職場。支店長はお茶を淹れたり、女性間の取りまとめをするのが仕事になる。私は体のいい「髪結いの亭主」だった。
 
ある時、菓子折をもらって、「女の子」に「掃除のオバさんに渡して」と頼んだ時、「掃除のオバさんとは何よ!」と言い返された。「分かった。言い直すけど何と言ったらいい?」。言い返した本人も言葉に窮した。「オバさん、だけでいいのよ!」「掃除の、は要らないのよ!」


[1] 公安。一般に、対象者の住民票を定期的に点検し、大家・不動産屋に面接する。→会社回りする。本人に直接当ることもある。逆に言えば、住所を変えずに転職すれば職場は割れない。公安の能力も一般にはその程度だ。
[2] 「党」。この時期も以降も中核派は自身を「党」とは規定していない。「党たらんとする」だ。けれどもまた「革命党にとって‥」という論理は常にキーワードでもあった。ここでは便宜的に「」付きの「党」を使うことにする。

全国全共闘。安保・沖縄と大学闘争を2大スローガンに,全国約200の大学全共闘(全学共闘会議)の全国組織として結成された.山本議長(東大)と秋田副議長(日大)の下,民青・革マルを除く新左翼8派によって書記局が構成された.
全共闘は60年代中盤以降の大学闘争のなかで,諸党派の分立と無党派ラジカルの台頭を受けて,各大学で結成された。
直接民主主義にもとづく組織運営と行動による共闘を基本とし、全員加盟制の学生自治会とは趣を異にする。全共闘によるバリケード封鎖→学生大会での無期限スト、が多く見られた。〈自己否定〉,〈大学解体〉などを掲げる思想運動でもあった.70年代に入って崩壊した.
今日、東大闘争だけが象徴にされるけれど、本来は日大・東大の2つにして1つ。日本刀を振り回す体育会を支配の手段とする大学当局と対決した日大闘争は、「積極的な自己肯定・自己実現」の思想でもあった。

第1章 横浜時代

 

1      魂の救済

 私の父は生来病弱で、その分一層スポーツの世界に憧れていた。48歳で亡くなった父は、終世、聖と俗のはざまで苦悶していた。「清濁併せ呑む」は、父の遺言のようなものだ。
 熱心な禅宗宗徒でありながら、世俗との折り合いに腐心する。父は戦後の農業技術指導要員として、群馬の山麓地帯を1軒1軒回っては、養蚕指導をした。出されたお茶は、必ず頂く。酒を出されれば断らない。最低限のマナーを守るため、下手な世間話を一生懸命する。
母もまた、若くしてガンで入院を繰り返した人だ。苦しみの末、立正佼成会に入った。ここには、同病相哀れむ世界がある。父の死後、生命保険の外交員や派遣の家政婦をして、私たちを進学させてくれた。
バリケードの日々には、東京への仕事の行き帰りに大学に寄って、仲間たちにお土産を届けてくれた。人のいない所で初めて「もう止めて」と何度も懇願された。
 私自身、おそろしく観念的な人間だ。心身が私の中で分裂し、一つ所に収まらない。高校の恩師に、「お前は珍しい奴だ。他人が共通の常識としている事に疑問を持つ」と言われた。高校の同級生には、生徒会や「授業放棄」の先頭に立った私を、「自信満々に見えた」と言われたけれど、それは自己分裂の激しさやコンプレックスの大きさの反映にすぎない。
 大学に入ってすぐ、私は学生運動にのめり込んだ。デモに出る、クラス討論をガンガンやる。2年生、3年生のクラスにも乗り込んで他流試合をやる。中核派の理論はかじった程度だけれど、私には吐き出したい事が山ほど/
 黒田寛一や戦後主体性論争史はよく分からない。けれども彼らは、私と同じような苦しみを共有して答えようとしている。私は、ようやく解決の糸口と「仲間」を得た。
 先輩の活動家たちは、格好良かった。フケだらけの長髪をフイッと流すその仕草も、「精神の深み」を表現するようで最高だ。特に、女性たちが輝いている。言い寄る民青にゲンコツを喰わせた女性の話は、いかにも魅力的だ。
「百万の敵ありとても」。もう、私に恐いものはない。横須賀で、立川で、機動隊の警棒に殴られる体の痛みと恐怖は、失われた身体感覚、実存性を体の芯から蘇えらせてくれる。私は、私と人間を信じていい。信じられる。この世界で生きていきたい。 
「死闘の7か月、私は常に先頭にいた。逮捕数は20余回、起訴もされた。切り拓いたもの、経験したものがあまりに多く、大混乱に陥りもしたが、もう戻る気はしなかった。たとえ、失ったものがどんなに大きかろうと。
 

2      私の10・8羽田

 1967年10・羽田。私は前夜から法政大に泊まり込んで、闘いに備えた。「佐藤訪ベトナム阻止、日本帝国主義の戦争加担粉砕」――私たち自身が侵略戦争の加担者となるのか否か[1]
 3派が対機動隊でゲバ棒を持つのは初めてだ。角材にベニヤを付けて「プラカード」を作る。いざ出陣。私は行動隊として、長い梯子を数人で抱える。
 弁天橋で山崎博昭君が死んだ。翌日の新聞は「学生の暴挙」を非難する記事でいっぱいだ。民青は早くも「山崎の死は、学生が占領した護送車に轢かれたもの」と断定している。[2]
 私は久しぶりに授業に出た。チャイムが鳴り級友たちが動き出した時、私は立ち上がって呼び掛けた。「クラス討論をしたい」――1人残らず着席し、私の次の言葉を待っている。みんな、私が羽田にいた事を知っている。
 私の発言が終わるのを待って、次から次へ級友たちが発言する。闘いへの批判、非難、質問。みんな真剣に考えている事が分かる。次の授業は潰れた。
討論のまとめに、私はクラス決議を提案した。級友の提案で、有志だけ残り「決議」を出す事になる。私が提出した決議案は反故にされてしまった。私は妥協に妥協を重ねてしまう。「有志決議」に格下げされた。それでもいい。一刻も早く決議を公表したい。民青の「学生責任」論の大洪水に打ち勝たなければいけない。決議は、羽田闘争への正否は分からない、けれど山崎君の死をかけた思いを真剣に受けとめたい、というものになった。
埼大北浦和キャンパスの中心の広場には、学生たちが集まっていた。みんな決議文を1文字も見落とすまいと読んでいる。そこここで熱い会話が続く。民青が圧倒的多数を占める教育学部の女性が飛んで来た。「これでいいのなら、私はやれる。民青に勝てる。勝ってみせる」。妥協して良かったのだ。それが正しかったのだ、と私も確信した。この決議文が民青との「分水嶺」になる。私は闘う。けれども、クラスの思いはそれとして大切にしよう。
 
 「死闘の7か月」の過程、大久保キャンパスへのバス代値上げが公表された。2千を超える学生たちは、バスを拒否して自発的に歩いて通う。約40分、木枯らしの中、雨の中、民青を除いて落伍者が出ない。「何かが始まっている」。
 私の理工学部で3年、4年生のクラスで民青の自治委員のリコールが進んだ。1学年8クラス、中核派の中心活動家は、私のクラスを中心に数人だ。見た事も無い先輩たちに推されて、私は理工学部・自治会委員長になった。
 
 66年の3派全学連の結成時、埼玉大は中核派の三大拠点の1つだった。私は3派を選んで自動的に中核派になった。けれど「7か月」の後、赤ヘル、黒ヘルが登場してきた。みんな昨日までの中核シンパ(同調者)たちだ。「何で○○派なのか」を問う。「友人が△△大の○○派だったから」、「弟が××派だから」。3派なら何でもいい、いや8派でもいい[3]。信頼できる人間関係のツテを頼りに活動家になっていた。「まあ、仲良くやろうや」。時にはゲバルト(=公的・政治的暴力)で黙らせ、時には情報を交換し合い、渾然一体となって民青と対決する。
 
 翌年6月のアスパック闘争の後、活動家たちは呆然自失状態に陥った。佐世保・王子・三里塚、その先頭を走り抜いて心身ともに疲れ切っていた。何よりも得たものが大き過ぎた。労働運動の右派系労組の大隊列が、佐世保では共にデモをしていた。学生の闘いを守り、機動隊と闘う巨万の人々――孤立を前提として闘って来た私たちは、それをどう捉えていいか分からない。「もっと考えよう」、全身に広がる倦怠感に打ち勝てず、私たちは長い休眠に入って行った。

 

革共同への加盟書

 696・15当日、私は4・28の指名手配で逮捕された。1年4ヵ月の拘留の後、私はようやく保釈された。71年春、中核派中央指導部の梶さんと会い、反戦への移行を求められた。[4]私の代の埼大中核派は、6911月決戦で全滅した。代わりに東大闘争で保釈されたOが、中核派を再建した。経歴からいえば私がずっと上だ。やりにくいから……という理由もある。私も拘禁症状を患っていた。獄中で母の死をみとれなかった想いもある。働いて生きよう、という気持ちが勝った。母には甘えっぱなしだったから、自分で稼いで生きることは、せめてもの親孝行でもある。
私は、芝工大事件[5](滝沢紀明さんの死)について糾した。梶さんは「当時、九州にいたので詳しくは分からない」と逃げた。糾明する事を条件に、移行を呑んだ。
 「革共同への加盟書」は大学ノート数冊分になった。入学以来の私のすべてを振り返り、一定の総括の視点も書いてみた。もともと私は「3派の1つとしての中核派」だった。何にせよ、自分の党派の選択を他人に決められたくない。分派闘争であれ、党派闘争であれ、「囲い込み」は望ましくない。それは「主体性の否定」だ。
 全共闘運動の、「前衛党の指導」という古典的命題を拒否したその解放性は、私たちの世代が得た共通の貴重な体験でもある。異論を排せず去るものは追わず、東大闘争の「連帯を求めて孤立を恐れず」は私の心にフィットする。
 私は党や「ボルシェヴィズム」に暗さを感じる。けれども今の時代のこの日本、やはり党派でしかあり得ないというリアリズムが私にはある。
梶さんに「決意書」を出してほっとした。とにかく言うだけの事は言った。あとはゆっくり休みたい。


[1]死闘の7か月。1967年10・8羽田闘争から翌年4月までを指す。2つの羽田闘争と佐世保・三里塚・王子でのゲバ棒での大衆的実力闘争。3派全学連とともに青年労働者は反戦青年委員会に結集して闘った。3派とは、中核派(白ヘル)、共産主義者同盟(ブンド 赤)、革命的労働者協会(解放派、青)。主義者同盟(ブンド 赤)、革命的労働者協会(解放派、青)。第4インターほかの諸派も参加した
[2] 断定。共産党は、マルクス・レーニン・スターリンを教祖とし、トロツキーの暗殺を当然としていた。トロツキー系の思想や運動を権力の別働隊として、あらゆる手段で排除・抹殺することを当然とした。「日本共産党は世界の共産党の中でもっともトロツキストに対して厳格」と自負していた。
[3] 全学連。全日本学生自治会連合。68年3月当時、自治会総数750のつち、3つの自称全学連があった。民青系205、3派76、革マル22、他にフロント系17、民学同系14など。いずれにも非加盟は299。
10・8当日はそれぞれ法政(中核600)・明治(解放)・中央(ブンド、解放と合わせて1600)・早稲田(革マル300)などから2500人が出撃した。都内の大学から1500、関東・全国から1000。大学別には京大78、専修64、埼大60、大市大57、同志社・広大は各55など。出撃拠点の参加学生数は不明(衆院などでの後藤田証言から)。他に立命館は111(主として空港ロビー座り込み?構造改革派?社会党本部泊?)。当時、埼大の学生総数は3000人弱。
[4] 反戦。反戦青年委員会。もとは1965年に結成された日韓条約反対の青年組織。社会党青年部・社青同・総評青年部や他の青年組織などの共闘組織。次第に新左翼系の主導する運動になり、3派全学連の崩壊後もしばらく続いた。この頃は党派的に細分化され、「中核派系の労働者」やその運動体という意味で使っている。
[5] 芝工大事件。私の埼大中核派の滝沢紀明さんが芝工大で死んだ事件。「内ゲバによる最初の死」。詳細は第2章の「滝沢『虐殺』事件をめぐって」参照

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