1 鉄壁防御の要塞
前進社・神奈川支社は『出版サービスセンター』という看板も出していた。会話の中では「センター」。地方支社と並ぶ「支社」扱いだ。県委員会単独で支社を構える実力を、神奈川のみが持っていた。
県反戦[1](反戦青年委員会)は、その動員力だけでなく、大企業の青年部をいくつも握るほど、労働者性が豊かだった。私がアジテーションするたびに「チェッ、学生出身はすぐそうなる」とブーイングを受けた。私は働いていて「常任」ではなかったから、対等な関係で、もまれ叩き直された。私にとって、神奈川は中核派としての故郷だ。
センターは、桜木町から日ノ出町駅近くに移っていた。2階・3階と屋上を使えるようになった。1階の店とは別の階段だから、自由に使える。
この頃すでに、「職革(職業革命家)の党」への転換をしていた。常任活動家として、県キャップとなった天田さんの下、反戦の手で改造工事が進められていた。所有者に無断で壁をぶち抜く。階段の途中に鉄の門と壁を作る。まさに鉄壁防御だ。ガサにも強い。
屋上には、サーチライトと巨大なサイレンが設置された。襲撃があれば真っ先にサイレンを鳴らす。「何のためのサイレン?」。でも野暮な質問はやめよう。襲撃者はまず、近所の電話線を切断する。武器の差は格段に違うだろう。それに私たちは日々、「襲われたら、ドロボー、泥棒!と叫べ」と指示されている。これが、権力・革マルとの「2重対峙」のリアリズムだ。それでいい。
交代交代、動員された労働者メンバーたちが、常任・専従[2]の指導の下、徹夜の防衛についた。交代に仮眠をとりながら、翌日は眠い目をこすって職場に出勤する。平塚・藤沢・小田原・川崎、全県から駆け付ける労働者の生き様もすごい。私はここに3年間泊まり込み、会議をし、出動するという生活をする事になった。
高さ1mに満たない天井裏に、私たち若者は、男も女も雑魚寝した。ようやく男女が分かれたのは、大分後だった。若者同士だ、トラブルが起きないはずがない。ここから私は「白土」になる。
センターの生活
社防隊長の任務の1つは、交代で寝る社防(前進社防衛隊)を起こす事だ。労働者の出勤時に合わせて、送り出す事も大事だ。
みんな連日の疲れで、泥のように眠っている。「起きて、起きて」とささやいても、ピクリとも動かない事も多い。ついには大声を上げながらの往復ビンタにもなる。隣で寝ている仲間が先に目覚めて「うるせえ!」と怒鳴る。目を覚ました本人が、「何で殴るんだ」と怒り出す。取っ組み合いの喧嘩は珍しくない。
一時センターも、「飲酒禁止」の時期があった。酒の上のトラブルが絶えない。「飲むなら外で飲め。酒の臭いをさせての入社は禁止だ」。センター住まいの私にはきつい。酔いがさめない時、缶コーヒーを何本も飲み、寒気の中をうろつく。それでも誰も酒はやめない。「労働者がセンターへの出入りを拒んでいる」。無言・有言の力で酒が解禁になり、晩酌が再開された。
ひと息つきながら、グラビアをこっそり眺めたい。けれど、日常的ガサ状況ではままならない。私服の公安のオヤジが、これ見よがしにグラビアを取り上げる。皮肉に満ちたその仕草に、私は堪えられない。私生活を覗かれる生活は苦しい。しかし、プライベートを失う事に慣れる事の恐ろしさを知ったのは、あまりにも遅かった。
食事は「軍事問題」だ。「栄養のある食事を作ろう」。常任・専従の食当体制が強化された。「任務」だから、時間もかけていい食事にしよう。けれどやがて、大修正が加わった。「おいしい食事にしろ」。「△△は食当からはずせ」。ここでも労働者の有言無言の声が勝った。「労働者の気風」が少しずつ浸透する。「社会からの風」が砦の中に入って来る。
ガサとの闘い
この頃、ガサの日付は、概ね分かっていた。大規模な機動隊を引き連れてのガサだから、彼らの「集結地点」も限られている。レポを飛ばして発見すれば、準備する時間も充分過ぎるほどあった。
天田さんの小部屋には、山ほどの水溶紙と書類の束があった。水溶紙は洗濯機で、書類は屋上の焼却炉で燃やす。
「開けろ、開けろ」と大音量のスピーカーで叫ぶ所轄署長。ギャンギャンとうなりを上げる金属カッター。火花が飛び散り、黒煙がもうもうと上る。狭い階段に取り付けられたドアだから、2階・3階も煙で息もつけない。
守るべきものは、名簿はもちろんだけれど、「ブレティン」の束だ。「裏」から、本社や地方のトップから、方針・問題意識の詰まった書類が届いている。『前進』や、集会の外形では見えない、第一級の問題意識を公安は必死で掘り出そうとしてあがく。
重要書類は、ガサに備えてコピーをシンパ宅に埋め込んでおく。ガサがあれば、それを掘り起こす。それが押収されたこともある。労働者の自宅からシンパ宅、そしてその知人の家にガサが広がっていた。
上級レベルの文書は回復できるから、まだいい。しかし中・下級・職場からのレポートは復元できない。問題は、私たちの問題意識そのものが、消し去られていく事にある。日記そのものが禁止されたが、日々の想いや感じた事が、自分の中に残らない。頭も心も硬直化する中で、メモに取る事でわずかに心を動かし、「頭の柔軟体操」をする。それが出来なくなってしまった。勢い、口を開けばドグマか愚痴しかなくなっていく。
「総括の出来ない中核派」の純化して行く根拠の一つは、ここにあった。現場からの総括なしに、中級・上級の「総括」など絵空事だ。自画自賛以外に何が出来るだろう。
1人1人、そして組織全体がカラカラに乾いていく。「カラカラに乾いた砂漠に降る大雨は、一滴も砂に浸みることなく氾濫する」と聞いた。この砂漠化とどう向い合うか。それが「ガサとの闘い」なのではないか。
ホロトラで出動
初期のうち、センターから出る時はホロトラが基本だった。ホロトラはしょっちゅう検問にあった。「不審車両」の名目で停車させられて、車中を捜索される。1人1人身体検査を受ける。「凶器はないか」という口実だ。
「検問だ」と隊長が伝声管に向かって叫ぶ。荷台に座った水紙係が、バケツの中に水溶紙を投げ込み掻き回す。D隊(ドライバー)が警察と押し問答している間に、「証拠隠滅」をやりおおせる。
検問は時に、長時間になった。1人1人の顔写真を撮り、公安が人別する事もある。しかし車は発進できない。「免許証の提示」を求められ、それが奪い取られて公安の手中にある限り「免許不携帯」、時には「無免許運転の疑い」で逮捕もあるからだ。
検問が終わるとホッとする。けれどこれから丸一日かけて、電話帳や住所録を預け先に取りに行かなければならない。予期せぬ所で公安に襲われ、名簿を奪われる事もあった。私もやられてしまった。関係者宅にガサが入った。謝罪のしようもない。
私はよく、「助手席に座れ」と運転手によって指名された。長距離の移動の時、私は四方山話をする。運転手の「ほう。それで」に合わせて、話はあちこちに飛ぶ。みんな寝不足の中だ。「白土がいると目が覚める」。ムスッとして指揮を執る隊長だけでは、気も休まらない。私は体のいい「ホステス」役でもある。右左折やバックの時も、私なら指示するのに気を遣わないですむ。「重宝な奴だ」。
ある時、歩行者との接触事故が起きてしまった。運転手を残して全員散る。もちろん、119番、そして110番だ。