カテゴリ:☆☆私本『狂おしく悩ましく』の本体 > 第2章 神奈川支社

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1      転属と離婚

 1978年、互いのテロと三里塚ゲリラは128件、75年以降のピークを迎えた。この年私は編集局に転属した。転属の直前、妻が差し出した離婚届にサインした。神奈川支社に帰って、天田さんにその事を告げると、彼は絶句した。
 任務配置のスケジュール決定で、私は往々にして、「家庭の事情」を理由に、日程の変更を求めていた。週に2~3回、オムツ洗いや……。保釈金問題でも、「妻への負担はおかしい」と申し出たが、中央からは無視された。間に入った天田さんが、県の負担として月々返してくれた。私だけが事あるごとに、「家族」を主張していた。その私が、転属を前にして離婚した。
転属自体、私の意に反したものだった。天田さんによれば、「今まで何度もお前を指名して、中央から要請があったが、断って来た。行きたくないのも分かる。しかしこれ以上は断れない。しかも編集局だ、やりがいのある所だ。命令だ」。
私はもう断れなかった。そして、自動的に判をついたのだ。3つになった幼子の顔を見る事なく、私は家を出た。
 何故?本社は、私にとってあまりに異質な空間だった。任務で本社に行った時の殺伐とした空気、学生出身者特有の……生活感の欠落、社会性の欠如、そして芝工大事件をめぐる亀裂……。
同志的友愛の情で家族を支え合っていく事など、夢の夢に思われた。活動をやめる、という選択肢はなかった。職場を辞めた時から数年、「働く生活」への復帰も希求も断たれていた。「対革マル戦をやり切るまで」と心に念じるのが精一杯だった。
私と同時期、同じ部署から非公然部門に配属が決まったKがブーイングした。「何で……いつも損をするのは俺かよ」。私は多分、ニタリと笑って返したのだと思う。彼は、自らの意思をハッキリと表明する人格でもあった。
 
神奈川に移ったとき私は横浜南部の区の地区委員だった。しかし本社に移る時は、センター専従の班キャップだった。同じ専従活動家でも、県委員がなる「常任」ではなく、その下の「専従」だ。
 私と同期、就職せずに反戦に移行した「元学生」は、それぞれ県委員会の1員(常任)として、地区のキャップになっている。大分「差」がついた。内戦下、規律破りを重ねて自宅に通い続けて子育てをして来たから、そんなものだ。
 当初、横浜南部のキャップも、職業は労組の専従書記。県委員長は、医者だ。「職革(職業革命家、党の専従)の党」への移行が急速に進み、県委員長になった天田さんも、国立大を卒業して、それまでは労組の書記だった。その頃は、朝1番、我が子を保育園に連れて行くのが日課だった。世知に長けた人だ。
職を辞して「職革」になり、県委員(地区キャップ)になる人も少しづつ出てきた。専従になった当初、私は西湘地区の会議に出ていたが、キャップは同期学卒で職場体験を経ていた。
 

バイクと職質

 横浜は坂が多いし、バスも使い勝手が悪い。バイクに乗ると気分も爽快になる。『前進』を何部も積み込んで、シンパ宅を駆け回った。バイクは、関内近くの川辺に置く。人目も少ないし、センターへの出入りは徒歩でいい。けれど、ひと気の無い所だから、2日連続して放置すると、ミラーやパーツが奪われている事がよくあった。治安が悪い。
 ある日私は、バイクの置き場に近寄って、職務質問に遭ってしまった。明日は法政の動員だ。私がぶち込まれたら、大穴が開く。どうせこの地区のパトロールだ。私は、住所・氏名を言い、10分後、確認が取れて解放された。
 センターに帰り、天田さんに報告する。天田さんは怒鳴り付けた。「お前、同じ事をやったら除名だ」。私は「だって……明日は戦争だよ」と言ったが、もうダメだ。「戦争に穴が開こうが、何があろうが完黙は完黙だ」。

 原則的な、あまりに原則的な命令に、たとえ党の死活が係ろうとも、従うしかないのか?編集局に移行が決まる直前の事だ。他方で、保釈中のメンバーが地下にもぐり、「保釈逃亡」がマスコミでも話題になっていた。

 
いつだったろう?本社で、神奈川出身の女性と話していた。「私たち3人は、よく天田さんに怒鳴られていたよね」。えっ、そう?」。「うん、多分、天田さんのはけ口だったのだと思う。彼は労働者には怒鳴れない人だから溜まっていたのだと思う…」。うーん。
 

 

1      滝沢「虐殺」事件をめぐって

F先輩との口論

大学の先輩がやって来た。学生書記局から経営局長を経て、神奈川の常任に配属されてきたF先輩だ。
ある日、私がセンターの当直をしていた時、F先輩が懸案の議論をぶつけてきた。「白土、お前、Kと付き合っているそうだな」。「ああ」。「反戦連合とも、だそうじゃないか」。「そうだよ」。私は、彼らとずっと付き合っていたし、私の大事なカンパ源でもある。「どういうつもりだ。滝沢を殺した奴じゃないか。権力のスパイじゃないか。お前はスパイから金をもらっているのか!」。
 私も席を蹴って立ち上がった。「ふざけるな、『虐殺』とは何だ。内ゲバでの事故死じゃないか」。「俺は全部知ってるぞ。前夜に埼大のバリケードを襲ったのは、書記局だろう。バリケードを襲撃したのは関西大での革マルが最初じゃねえだろう。お前だろ!」。
 夜中の事だ。天井裏で寝ている人が、「うるさい!」と起きて来たけれど、もう止まらない。「埼大中核派は緊急集会で、バリケード襲撃弾劾の決議に加わっただろう。お前ら、他党派のヘルメットで襲撃するからそうなるんだ」。
F先輩がまくし立てる。「Tは公安から金をもらっていたじゃないか!」。私。「証拠は何だ」。「Nは金回りも良かった。それが証拠だ」。「親には金持ちも、貧乏人もいるじゃないか。お前はどうなんだ」。「Nは2万円も持ってた、それで充分だ」。「じゃあ教えてやろう。横浜の米軍基地で死体洗いのバイトをすれば、2~3万なんて2日で出来る。知らねえのか!」。労働者の中で、こんな議論はしたくなかった。けれども私はダメ押した。
「『前進』なんてデマ新聞じゃねえか。スパイとか何だとか、日共以下だよ。HさんもHさんだ。救援連絡センターなんて、信用できねえよ」。以来センターの中で、F先輩と私のにらみ合いが続いた。
 

拘置所の面会

1969年9月、滝沢さんの死が報じられた直後、反戦連合のメンバーが2人、拘置所に面会に来た。いや、正確には非中核のノンセクトだ。
ギョッとした。事件の一方の当事者だ。Hさんの「権力に金をもらったスパイ」論が、『前進』に載った直後でもあったと思う。「拒絶」が正解だろう。
 「どうする?会うか?」と問う担当看守に、「会います」と応えた。事実を知りたい。わざわざ会いに来た者への責務もある、と思った。
 金網を挟んで、向い合った。「よう、元気?」。何を言うべきか分からない。相手が、「事実を言いたい」と言った。私もうなずいた。
 「意図してやったのじゃない。それだけは分かって欲しい」。「前夜に中核がバリケードを襲った。1人が拉致されたままだった」。「フーン、ウン。分かった。政治的評価は別にして、事実は分かった」。それで精一杯だった。
 看守が会話を記録しているし、面会時間もわずか。『前進』への憤りや、○○・△△への憎しみが胸一杯になりながら、中核派と離れられない空しさが残った。
 「反戦連合」側の逮捕が迫っていた。彼ら自身も、逮捕された。
 中核派の面会は、来ない。
 

バリケードへの襲撃

事件の経緯は、前夜の9月17日から始まる。中核派の全学連書記局と中心メンバーたちが、バリケード封鎖中の埼玉大学に襲撃をかけた。理工学部の親反戦連合系のボックスにあるヘルメットをかぶり、武器を調達したという。目標はただ1人、反戦連合のリーダーで元中核派、天才的なアジテーションで人気の高いNだ。
 この頃、埼大・北浦和キャンパスのバリケードは、4ヵ月を超えて、中だるみ状態だった。泊まり込んでいる人数も少ない。内部を知り尽くしている滝沢さんの手引きによる襲撃の前に、彼らは一気に蹴散らされた。そこここで逃げ遅れた学生が叩きのめされる。中核派は標的のNを確保して、車に押し込む。埼玉の山中に連行する途中、人違いに気付いたようだ。拉致されたのは理工学部のTだった。ひと気の無い山道に放り棄てたらしい。
その頃、北浦和キャンパスには、急を聞いて駆け付けた学生たちが三々五々集っていた。当初、襲撃したのは革マルだと思われた。バリケードの破壊は凄まじかった。埼大中核派も、滝沢さんを除いて駆け付けて来た。彼らは何も知らされていない。襲撃を許さない、Tを何としても取り戻す。意志1致が進む。
 しかし後から戻って来た学生によって、「滝沢がいた、中核だ」という事が明らかになった。埼大中核派は、非難を1身に浴びて弁明する。「聞いていない、事実だとすれば自己批判する」。
 Tが拉致された先は、芝工大・大宮キャンパスだろうと目星がついた。今もこの瞬間、Tはリンチに遭っている。救出に行こう。志願者たちで行動隊を組織する。残った人も多い。けれど彼らも、「気持ちは同じだった」と証言している。
 熟睡中に、不意を衝かれた書記局や、芝工大中核派は追い詰められ、2階から4人が転落した。その1人、滝沢さんが死んだ。「内ゲバによる最初の死者」だった。
Nを捕えて書記局がやろうとした事は、何だったろう?反戦連合は、早稲田・法政・埼大の中核派と解放派が結成したものだ。彼らは、10・8前夜の中核派の、解放派の使者への凄惨なリンチの実態をよく知っていた。数時間に及ぶリンチ、両腕・両脚の複雑骨折……。早稲田での革マルによるリンチ。T奪還に動いた行動を誰が責められよう。
 
 知らぬは埼大中核派ばかり、だったのだ。
 
 北浦和で開かれた、中核派系の「虐殺弾劾・追悼集会」で、主催者を代表して、H弁護士が宣言する。「権力に金をもらい、スパイとなった反革命分子を許さない――」。それは、中核派の主張そのものだ。『前進』紙上で私は読んで、中核派への憤りが湧いた。
 
反戦連合のリーダーのNは中核派の当時、アジテーションの切れ味の良さで首都圏1だった。3年生を代表するNと2年生を代表する私のコンビで全学自治会の正副委員長になったこともある。Nから学んだことは果てしなく大きい。分裂の固定化の後、Nの個性の大きさに、滝沢さんも私も翻弄され、太刀打ちできなかった。
あえて言えば、Nをリーダーとした反戦連合・無党派・非党派との共同行動も、それならそれで良かったと思う。滝沢さんは朴訥で演出力や工作に向かない。中間派に影響力を行使した私がパクられた時点で、埼大中核派は終わった、という気がする。
 
 半年後、隣の独居房に居たのはやはり中核派だ。窓越しの途切れ途切れの会話で、私は中核派性を曖昧にする。「お前、中核派でなくなったんか」と責められる。
 

2      留置所の歌声大会

1977年5月29日、三里塚鉄塔決戦で、私は逮捕された。東山薫さん虐殺弾劾の大衆的ゲリラ、木の根労学共闘との共同闘争だ。
「起床!」の声がかかって、モソモソと起き出す。向いの女性たちがインターナショナルを唄う。「女のクセしやがって! お前らみたいな女が一番嫌いなんだよ!」。 感情をむき出しにして看守が叫ぶ。唄声に応じて、別房の仲間が唄い出す。留置所は10部屋くらい、各房に数人、女性は3つくらいに数人いた。私の部屋には、殺人犯(後に元日大全共闘だと言った)
そんな日々が続いた後の事。夜になると、ドロボーと看守の会話が続くようになった。看守が言う。「同僚が奴らに殺された。こいつらを殺してやりたい思いでいっぱいだ。警官であること自体が悔しい、機動隊に行きたい」。しんみりした語り口に、他は静まり返っている。
 ヤクザの生活にも共感を語る。「アイツらは、体を張っているヨ。バックなしで生きているよナ」。生活実感のない看守のやるせなさを訥々と語る。ドロボーとのやり取りが、心のオアシスのようだ。激動と激務の中で、心がボロボロなのだろう。
 ある日、私は「運動させろ!」と要求した。「ふざけるな!人殺しめ!」と激しい応え。「タバコか運動か!」。私も退かない。監視台から降りてきた看守と、鉄格子を挟んで睨み合う。
 突然、「分かった、やらせてやる。タバコはダメだ。お前らが一緒になれば、証拠隠滅になる。走れ!」。房と外壁の間の通路を、何周も何周も走った。「虐殺弾劾! 報復貫徹!」、小声で叫びながら私は走った。看守が「黙って走れ!」とわめく。突然降りて来て、蹴り付けて来た。「この野郎!」と睨み合う。ひと息ついて離れて、そしてまた走った。
 
夜、ドロボーが言う。「担当さん、唄いたいんですがね!?」。「唄え!」。ドロボーさんの唄は、鍛え上げた声で見事だった。節回しも絶品だ。
「過激派の声も聞きたいね」と言う彼に、看守が応じた。「やらせるか」。「白土、唄ってみろ!」。憎しみの声に私は戸惑った。「皆に唄わせてやるから……」。
どう見ても、私が最年長。しかも大半は初逮捕のようだ。必死に完黙を闘っている。迷った。唄うことで崩れる者もいよう、逆に力づけられる者もいよう。「インターはダメだぞ!」の声で腹を決めた。
私は唄った。腹の底から声を絞り出した。何を……今は思い出せない。次の指名は、同じ中核派の準若手だった。「いや~、俺は下手なんで勘弁して」。それで吹っ切れたのかもしれない。他のメンバーが、指名に応じて唄い続けた。最後は、例の「インターナショナル」の女性たち。「2人で唄います!」と唄った。確か、加藤登紀子の唄。「1人で寝る時にはよ~」。甘く切ない声に、しんみりした情感が漂った。看守がトリを唄って、終わった。
 
コラム 留置所
警察の留置場。正式には「代用監獄」。容疑者は、本来は拘置所に送られる。けれども自白偏重の捜査では、留置場が自白強制の手段として活用されている。
用便を足すにも上半身を看守にさらし、屈辱感・転落感覚を強制する。家庭生活や社会生活から突然遮断される犠牲や損害は計り知れない。
深夜に及ぶ長時間の取調べも、弁護士接見の妨害も、警察の留置場あってのこと。「逮捕=犯罪者」という裁判所と社会の常識もある。
争っても何になる。無実であれ何であれ、自白して早く生活に復帰しなければ、という思いは十分に理解できる。多くの国選弁護士もそう対応する。
代議士などの場合は直ちに、法務省が管轄する拘置所送り。少しはましだ。
運動時間。容疑者には、「捜査に支障がない限り、十分な人権が保障されなければならない」。1日1回の運動時間の保障も同じ。留置所では「タバコの時間」で代用される

 

1      狭山と組織論

石田郁夫さん

 全国狭支連代表の石田郁夫さんに会いに行ったのもこの頃だ。関内駅の近くに、石田さんは住んでいた。
当然、党の「担当者」はいるはずだ。内戦下、「系列の1本化」が強調されてもいた。「会いに行ってはいけない人」と思いながら、私は「知性」に餓えていた。
自己紹介して、来た訳を弁明した。革マルの擬装と思われないか、ひやひやした。快く受け入れてくれた石田さんにホッとした。頭の中が内戦でいっぱいの時の事だ、話題作りにギクシャクしながら、石田さんのリードでいろいろ話が出来た[1]
 伊豆七島・新島の米軍射爆場反対闘争に、共産党のオルグとして活動した話は興味深い。骨肉相食む村人たちの葛藤があった。
反対闘争の傍ら、石田さんは村人に豚?の飼育と、避妊の運動を提唱していた。豚の飼育、それは村人が、射爆場なしでも食える為の村おこしの問題だ。闘いが長期に及ぶ時、次世代の人たちにとってより深刻なテーマとなる。反対運動の死活はここにかかっている。後年私は、沖縄・読谷村で同じ事を学んだ。農民・住民運動の何たるか、深い啓示だった。
併行して石田さんは、村の婦人を集めて、コンドームの使い方を講演した。ハタチそこそこのうぶな学生を、オバさん達がからかう。「あんちゃん、もちょっと、そこんとこ教えて」。戦後の農村生活や、その文化の近代化をリードした『家の光』、学ぶ事は山ほどある。
 
 『満州大日向村』は、今なお残る、残留孤児の原点だ。数百万の開拓移民団のモデルとして、天皇制軍部は、この村の成功を謳っていた。石田さんは、その実態とその後に光を当てた。
 大日向村は、実は私の母の郷里だ。私は石田さんに言った。あの秩父農民蜂起もまた、敗走の中、大日向村で仲間を募り、そして消滅した。大日向村について語り合った。
 

「部落委員会方式」批判

 狭山闘争の高揚の中で、同志会(全国部落青年戦闘同志会)の隊列は、ひときわ注目を浴びていた。「同志会」の白ヘルメットの姿に、私たちは心を震わせた。
 狭山闘争を大闘争に転換させた、浦和地裁占拠闘争はあまりにも有名だ。「その時」、私は4・28沖縄闘争の長期拘留のただ中、そのニュースを聞いた。
 狭山差別裁判の、第1審の裁判長は内田。無実の石川一雄さんに「死刑判決」を言い渡した奴だ。私は拘留中に別件の再逮捕で、1時浦和に移された。その時の、拘留理由開示裁判での裁判官が内田だった。
 私が「差別裁判」と確信を持ったのは、その判決文だった。部落差別の意識が、判決文ににじみ出ていた。
 同志会はまた、独自の運動論や組織戦術を自ら創出する力量を備えていた、中核派としても稀有な存在でもあった。「党」の理論そのものを塗り替える力を持っていた。沢山保太郎さんはもちろん、多くの人材を擁していた。
 同志会と全国部落研連合の共同署名論文に、私は眼を開いた。それは「党組織論」の領域でも、新しい提起をしていた。
 戦前、水平社運動は共産党の壊滅の後も、軍への糾弾闘争を闘うなど、軍国主義下での闘いを継続した。共産党は、被差別部落民の党員を地区党に所属させ、中央の部落委員会は諮問委員会程度にとどめる、という組織戦術を強要しようとしていた。これを「部落委員会方式」という。
共同署名論文は、これを「党による差別」と断じて、部落民自身の独自の系列指導を提起した。解放同盟としての全国的展開を重視する、ということでもある。
 
私は、「党」がどうしてこの共同署名論文を受け入れたのかを知らない。その経緯を知らない上で、私はここに、レーニン組織論の修正を感じていた。「ユダヤ人ブントを解体し、1人1人党に入れ。ユダヤ人は地方の党組織の指揮下に入れ」――レーニンの党は、ここから出発したはずだ。レーニン組織論が強調されればされるほど、その「修正」への回答が欲しかった。しかしついに、回答は出なかった。
中核派は本来、綱領・戦略・戦術論に加えて、「組織戦術」を重視する党でもある。組織戦術を下位の狭い技術と見下すのを拒否して、組織内問題や組織戦術が提出する諸問題を、綱領・戦略にまでフィードバックすることを課題とした。上から下から現実を捉える「らせん的」展開論だ。
それは第3次分裂以前に遡る。いいかえれば、あらかじめ全知全能の中央指導が存在するとするスターリン主義の「上意下達」への批判として、反スタの立脚点としての意味がある。
さらに第3次分裂は「地区党か産別党か」の対立とされる。実際、教師を中心として登場した反戦派労働者は、産別としての展開以上に、「地区党に分割されて所属する」ことになった。そういう中での同志会問題だ。「70年」を前後して誕生し、独自の組織系列を形成した多くの「諸戦線」、そのあり方は、やはり「70年代」の中核派の独自性を現している。
 
政治局員はそれぞれ全党的諸課題の責任を負っていた。

WOB(労働者組織委、労対)SOB(学生組織委)FOB(女性解放組織委、女解)、弾圧対策、そして「諸戦線」。諸戦線の担当政治局員は、長く梶さんが務めた。その下に、諸戦線委員会が開かれた。同志会、入管闘、障害者解放委、在本土沖縄青年委、被爆者青年同盟、反軍……女解は系列的にはここに入る。労対とその下の産別組織委員会や女解などは、地区党に所属する成員への指導機関だ。後に同志会や反軍を除いて、諸戦線はほぼアリバイ的なものになってしまったけれど。
 

 国鉄戦線が、党中央直轄指導になったのは92年の秋の頃だ。分割民営化との闘いの立ち遅れが叫ばれ、「重視」への転換でも影響力は伸びなかった。最後に行き着いたのが、「直轄」だった。立ち遅れの理由が、路線主義的な硬直化と内戦下の疲弊にあったのか、それとも組織論そのものか。私は聞いていない。
 本社・編集局に移っても、誰に聞いたらいいのか分からない。「党」は近くて遠い。
 
コラム 狭山差別裁判 
63年5月1日の女子高校生誘拐・殺人事件。警察の威信をかけた捜査の中で.石川一雄さんを別件で逮捕.再逮捕した。一審死刑,2審・最高裁で無期懲役。
部落解放同盟は、見込み捜査が作り出した差別事件とし,「無実・差別」を訴える糾弾闘争を展開した.76年には、19都府県の小・中・高1500校で10万人が同盟休校.日比谷で1万5千が集会。79年にも、東京・明治公園で5万人.大阪でも1万5千が再審要求。社会党・総評・新左翼諸派や市民運動・宗教者を結集する大運動になった。
94年12月21日,石川さんは31年ぶりに仮釈放となった.現在も再審請求中。
70年代半ば、中核派や新左翼の最大の運動も、「沖縄・狭山・三里塚」だった。革マルは「狭山無差別裁判」などとやゆして敵対し、露骨な差別観・エリート主義をマン展開した。共産党も「無実・差別」を否定した「公正裁判」要求運動で、弁護団を残して大衆運動から脱落した。共産党による八鹿高校差別事件も糾弾闘争の焦点になった。関連して7章

 
 

「レーニン主義」を生んだ人々

 この頃私は『ロシア革命群像』を読みふけった。レーニンと共に闘った多くの革命家たちの、人生・闘い・主張が簡潔にまとめられていた。
 もともと私はトロツキーを多く読んで来た。そのトロツキーすら消えていく。「トロツキーを媒介して……」が反スタではなかったか。それが「レーニン」「レーニン」「レーニン」。
 1人の革命家だけを讃え、学ぶという流れにも、うんざりしていた。数十万とは言うまい。数百人、数千人の偉大な指導者たちが、闘い・議論し、育て上げていく。レーニンはその頂点にいたに過ぎない。私はこの考えが、いたく気に入った。
 サヴィンコフの『マフノ運動』にも考えさせられた。通称「緑軍」。「赤軍と白軍の内戦」史観に、1石を投じていた。赤軍に属さない農民軍を「反革命」とする事は、「判断保留」にしておこう。
 『天上の弦』。朝鮮戦争で、「死のローラー」のはざ間で苦しむ人々の物語だ。「正義と悪の2元論」はやめよう。


[1]狭支連。狭山を闘う中核派系の大衆組織。関連して7章

行動隊として(地位争い)

 都内の大学では、革マルの圧倒的力の前で、中核派として活動できるのは、法政大学だけだ。私は、神奈川の動員主力の1人として、法大に連日馳せ参じた。
 
 初めての動員の日、前夜から泊まり込んだ前進社で「レポ」を任じられた。早朝、法大の中に潜入し、革マルの動向を探る。私は身が震えた。裏の高校を通り抜けて柵を越え、法大の前に立った時、不意に人の顔が見えた。大声で叫んでいる。「革マルだ」。
 慌てて柵を越えた時、怪我をした。血が流れるのもかまわず走った。突然パトカーが現れ、中に押し込められた。救急車も到着した。パトカーから救急車に移されて病院に着いた時、私は脱兎のごとく逃げ出した。
 大学の中にいたのは、実は中核派の仲間だった。学生会館を砦に変えて、泊まり込んでいるのを私は知らなかった。「ガックリ」だ。
 
学生たちが学内に展開する間、行動隊は砦にこもって防御についた。レポ・糾察などの任務もある。行動隊は、中隊・小隊に編成されていた。全体の指揮者は、元日大。日本刀で襲いかかる右翼と、激闘を闘い抜いた日大闘争の英雄たちだから心強い。日大芸闘委は、ヘルとゲバ棒、そして全裸でバリケードの上に並んだ事で話題にもなっていた。
小隊長は動員メンバーの中から、指揮者が決めた。しばらくすると小隊長争いが激化した。なにしろ殺し合いの場だ。見ず知らずの奴の指揮で生命をかけるのは嫌だ。
「俺がやりたい」。整列の時、人より前に出る、先頭に並ぶ。先頭争いだ。ズイ・ズイと前へ出る人間が増える。
私は神奈川に帰り、天田さんに要請した。「行動隊への派遣の時は、神奈川のキャップは俺にしてくれ。今のままでは小隊長になれない」。了解された。
法大からの解散の途上も指揮権争いだ。「ここからは俺が上だ」「イヤ、帰るまでは俺だ」。
デモの時、私はいつも行動隊(「α隊」)だった。皆が好きな歌は。「われらは若い兵士、プロレタリアーの、プロレタリアーの」。中核旗を1人1人持ち、内戦を闘う兵士として進軍する。みんな寝不足だ。眠りながら歩く事を覚える。「戦士共同体」。私たちは、強いちゅう帯に結ばれた。
デモではβ隊(本隊)は3列、5列の縦隊を5列、10列にしようともみ合う。機動隊は、「規制!」の声で、殴る蹴る。ジュラルミンの楯で血を流す人も多い。雨中の時は、汗と熱気で白い靄がデモを覆う。キャップを先頭に、「ハネるな」の声が飛ぶ。私も時折ハネた。命令なんか知るものか。けれどアトムさんの指示には従うしかない。高卒で研究所に入り、街頭で、職場で、闘い抜いて来た彼には……逆らえない。
 
「黒田、お前ほんとにうらやましい」。横浜の仲間がしみじみ言う。「お前が白ヘルをかぶると、全共闘に見える。だけど俺の場合、どう見ても工事人夫だよ」。小顔でやせ形の私、大顔で太っちょの彼、言い得て妙だ。私は笑ってしまった。「中核派は格好良くなくちゃいけねえ」。
 

糾察と弁当の注文とり

 革マルのレポは、学内に潜入していた。「インナー」と言う。こちらの軍事配置を調べ、闘争スケジュールを見、学生活動家を特定する。
 糾察(偵察し尋問する)が、死活になった。「自治会の看板を見ている奴は革マルだ」「話しかけてくる奴は革マルだ」。立て看板をおとりにして、近付く学生をはじから糾察する。「逃げたら革マルだ」。逃すものか。女子学生とて容赦はない。泣こうが喚こうが、とことん追い詰める。
学生活動家の方からクレームが入るまで、ずいぶん続いた気がする。学生たちは恐れをなして近付かなくなっていた。
 
 昼食は牛丼など、「お持ち帰り」をまとめて買い出しに行った。いいかげん飽きてくる。私は、弁当を作っていく事にした。幸いセンター住まい、台所も米もある。商店街で使い捨ての折り箱も仕入れた。
「明日の弁当はどうする?」。砦の中で注文を取って販売をした。みんな話に飢えていて、これ幸いと、注文や苦情を並べてくる。安く作っても「もっと安く」。とネチネチ。それに飽きて止めてしまった。
 「党が誤ったらどうする」。それは、レーニン主義者にとって突き付けられる基本命題だ。私も含め多くの人が、「その時は分派を作る。分裂してもいい」と答えていた。
 党内闘争を闘う事、それには自立した生活が不可欠だ。金を稼げない奴は選択の自由はない。飼い殺しだ。金稼ぎや「社会人並み」に私はあくまでこだわる。
 
 中核派による法大拠点化とは、黒ヘルノンセクトとの奇妙な共存でもある。文連は黒ヘルでいい。自治会は中核派のものだ。黒ヘルの頭目は叩き出し、残る黒ヘルと談合する。黒ヘルは全学に展開していたから、革マルの学内潜入の情報を教えてくれる。黒ヘルを子飼いの同盟軍として、戦争もあった。黒ヘル側の怒りは伝わって来ない[1]
 民青との関係は難しい。いざとなった時のゲバルト力は、身に沁みている。適度にいたぶって虎の尾を踏まない。大学当局との関係も良好だ。自治会費さえくれれば、後はいい。
 

カンパ名簿の引き継ぎ

 本社や地下に移ったメンバーに、カンパ(資金集め)名簿をもらった。指導部は異動を決めると、時間の余裕を与えなかったから、それがどんな人たちかも分からない。「○○から引き継いだ者ですが」と言うと応対してくれる。多分、40代~50代が主だったと思う。
 
 ある時、ある大学の闘争について報告した。熱を込めて話し終えると、ひと言問われた。「えっ?私の夫が誰か、知らないの?」。また1人、カンパ網を失った。いや、もっと大きな形の芽を摘んでしまったのかもしれない。私も本社に移る時、同じように名簿を渡した。
 たまたま本社でそんな話をしていたら、「刈谷、お前珍しい奴だな」と驚かれた。学生や、書記局出身者達は、「アイツに出さずに、俺に出せ」と、「シンパ」を挟んで争うのが常だという。額も高額だ。どうりで懐が温かいはずだ。世代間・経歴の違いも大きい。収入に応じた「上納金」を引いても差は縮まらない
会社勤めを経験すると、この強引さが出来なくなる。しかも私のカンパ対象は高校の同級生。他党派の経験者も多い。埼大関係者は反中核や非中核だ。文句を言いながら金をくれる。大金をむしり取る事など、とても出来ない。
 
センターの1角から、全逓支部の会議の声が漏れてくる。メンバーが「上納金」の額で渋っている。「子どもも生まれるんだ」と釈明する声がする。キャップは、ボーナスの半額を出せ、と迫っている。「育児費や入院費、必要になったら地区財政から出すから、今は出せ」。そうであるべきだ。でも絵空事だと思いつつ、他人の組織に口は出せない。
 

スト権ストと上尾暴動

197511月、国鉄闘争の頂点となった国労・動労のスト権スト[2]。そしてその時、国労の背骨を打ち砕いた上尾暴動。
 私はその時、たまたま浦和にいた。ホームは乗客でごった返していた。ストに激昂する乗客たちが、説明する駅員に詰め寄り、罵る。袋叩き寸前だ。その時誰かが叫んだ。「駅員が悪いんじゃない。駅長の所に行こう」。喚声が上がった。「そうだ、そうだ」。乗客は駅長室になだれ込んで行った。けれども上尾では国鉄労働者が標的になった。


[1] 法大拠点化。10章「革命的独裁」参照
[2] スト権スト。スト権の合法化を求めて行ったスト。公社時代の国鉄ではスト権は与えられていなかった。国労・動労の最盛期であるとともに、退潮への契機となった。

 

1      鉄壁防御の要塞

 前進社・神奈川支社は『出版サービスセンター』という看板も出していた。会話の中では「センター」。地方支社と並ぶ「支社」扱いだ。県委員会単独で支社を構える実力を、神奈川のみが持っていた。
 県反戦[1](反戦青年委員会)は、その動員力だけでなく、大企業の青年部をいくつも握るほど、労働者性が豊かだった。私がアジテーションするたびに「チェッ、学生出身はすぐそうなる」とブーイングを受けた。私は働いていて「常任」ではなかったから、対等な関係で、もまれ叩き直された。私にとって、神奈川は中核派としての故郷だ。
 
 センターは、桜木町から日ノ出町駅近くに移っていた。2階・3階と屋上を使えるようになった。1階の店とは別の階段だから、自由に使える。
 この頃すでに、「職革(職業革命家)の党」への転換をしていた。常任活動家として、県キャップとなった天田さんの下、反戦の手で改造工事が進められていた。所有者に無断で壁をぶち抜く。階段の途中に鉄の門と壁を作る。まさに鉄壁防御だ。ガサにも強い。
 屋上には、サーチライトと巨大なサイレンが設置された。襲撃があれば真っ先にサイレンを鳴らす。「何のためのサイレン?」。でも野暮な質問はやめよう。襲撃者はまず、近所の電話線を切断する。武器の差は格段に違うだろう。それに私たちは日々、「襲われたら、ドロボー、泥棒!と叫べ」と指示されている。これが、権力・革マルとの「2重対峙」のリアリズムだ。それでいい。
 交代交代、動員された労働者メンバーたちが、常任・専従[2]の指導の下、徹夜の防衛についた。交代に仮眠をとりながら、翌日は眠い目をこすって職場に出勤する。平塚・藤沢・小田原・川崎、全県から駆け付ける労働者の生き様もすごい。私はここに3年間泊まり込み、会議をし、出動するという生活をする事になった。
 高さ1mに満たない天井裏に、私たち若者は、男も女も雑魚寝した。ようやく男女が分かれたのは、大分後だった。若者同士だ、トラブルが起きないはずがない。ここから私は「白土」になる。
 

センターの生活

 社防隊長の任務の1つは、交代で寝る社防(前進社防衛隊)を起こす事だ。労働者の出勤時に合わせて、送り出す事も大事だ。
 みんな連日の疲れで、泥のように眠っている。「起きて、起きて」とささやいても、ピクリとも動かない事も多い。ついには大声を上げながらの往復ビンタにもなる。隣で寝ている仲間が先に目覚めて「うるせえ!」と怒鳴る。目を覚ました本人が、「何で殴るんだ」と怒り出す。取っ組み合いの喧嘩は珍しくない。
 一時センターも、「飲酒禁止」の時期があった。酒の上のトラブルが絶えない。「飲むなら外で飲め。酒の臭いをさせての入社は禁止だ」。センター住まいの私にはきつい。酔いがさめない時、缶コーヒーを何本も飲み、寒気の中をうろつく。それでも誰も酒はやめない。「労働者がセンターへの出入りを拒んでいる」。無言・有言の力で酒が解禁になり、晩酌が再開された。
 ひと息つきながら、グラビアをこっそり眺めたい。けれど、日常的ガサ状況ではままならない。私服の公安のオヤジが、これ見よがしにグラビアを取り上げる。皮肉に満ちたその仕草に、私は堪えられない。私生活を覗かれる生活は苦しい。しかし、プライベートを失う事に慣れる事の恐ろしさを知ったのは、あまりにも遅かった。
 食事は「軍事問題」だ。「栄養のある食事を作ろう」。常任・専従の食当体制が強化された。「任務」だから、時間もかけていい食事にしよう。けれどやがて、大修正が加わった。「おいしい食事にしろ」。「△△は食当からはずせ」。ここでも労働者の有言無言の声が勝った。「労働者の気風」が少しずつ浸透する。「社会からの風」が砦の中に入って来る。
 

ガサとの闘い

 この頃、ガサの日付は、概ね分かっていた。大規模な機動隊を引き連れてのガサだから、彼らの「集結地点」も限られている。レポを飛ばして発見すれば、準備する時間も充分過ぎるほどあった。
天田さんの小部屋には、山ほどの水溶紙と書類の束があった。水溶紙は洗濯機で、書類は屋上の焼却炉で燃やす。
 「開けろ、開けろ」と大音量のスピーカーで叫ぶ所轄署長。ギャンギャンとうなりを上げる金属カッター。火花が飛び散り、黒煙がもうもうと上る。狭い階段に取り付けられたドアだから、2階・3階も煙で息もつけない。
 守るべきものは、名簿はもちろんだけれど、「ブレティン」の束だ。「裏」から、本社や地方のトップから、方針・問題意識の詰まった書類が届いている。『前進』や、集会の外形では見えない、第一級の問題意識を公安は必死で掘り出そうとしてあがく。
 重要書類は、ガサに備えてコピーをシンパ宅に埋め込んでおく。ガサがあれば、それを掘り起こす。それが押収されたこともある。労働者の自宅からシンパ宅、そしてその知人の家にガサが広がっていた。
 上級レベルの文書は回復できるから、まだいい。しかし中・下級・職場からのレポートは復元できない。問題は、私たちの問題意識そのものが、消し去られていく事にある。日記そのものが禁止されたが、日々の想いや感じた事が、自分の中に残らない。頭も心も硬直化する中で、メモに取る事でわずかに心を動かし、「頭の柔軟体操」をする。それが出来なくなってしまった。勢い、口を開けばドグマか愚痴しかなくなっていく。
 「総括の出来ない中核派」の純化して行く根拠の一つは、ここにあった。現場からの総括なしに、中級・上級の「総括」など絵空事だ。自画自賛以外に何が出来るだろう。
 1人1人、そして組織全体がカラカラに乾いていく。「カラカラに乾いた砂漠に降る大雨は、一滴も砂に浸みることなく氾濫する」と聞いた。この砂漠化とどう向い合うか。それが「ガサとの闘い」なのではないか。
 

ホロトラで出動

 初期のうち、センターから出る時はホロトラが基本だった。ホロトラはしょっちゅう検問にあった。「不審車両」の名目で停車させられて、車中を捜索される。1人1人身体検査を受ける。「凶器はないか」という口実だ。
 「検問だ」と隊長が伝声管に向かって叫ぶ。荷台に座った水紙係が、バケツの中に水溶紙を投げ込み掻き回す。D隊(ドライバー)が警察と押し問答している間に、「証拠隠滅」をやりおおせる。
 検問は時に、長時間になった。1人1人の顔写真を撮り、公安が人別する事もある。しかし車は発進できない。「免許証の提示」を求められ、それが奪い取られて公安の手中にある限り「免許不携帯」、時には「無免許運転の疑い」で逮捕もあるからだ。
 検問が終わるとホッとする。けれどこれから丸一日かけて、電話帳や住所録を預け先に取りに行かなければならない。予期せぬ所で公安に襲われ、名簿を奪われる事もあった。私もやられてしまった。関係者宅にガサが入った。謝罪のしようもない。
私はよく、「助手席に座れ」と運転手によって指名された。長距離の移動の時、私は四方山話をする。運転手の「ほう。それで」に合わせて、話はあちこちに飛ぶ。みんな寝不足の中だ。「白土がいると目が覚める」。ムスッとして指揮を執る隊長だけでは、気も休まらない。私は体のいい「ホステス」役でもある。右左折やバックの時も、私なら指示するのに気を遣わないですむ。「重宝な奴だ」。
 ある時、歩行者との接触事故が起きてしまった。運転手を残して全員散る。もちろん、119番、そして110番だ。


[1] 反戦。この場合、中核派系の労働者と大衆団体のこと。
[2] 常任・専従。ともに専従活動家。常任が上位で県委員。それ以前は常任も非専従だった)

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