カテゴリ:☆☆私本『狂おしく悩ましく』の本体 > 第3章 体験的戦争論

 

1      大会戦の現場

 1975年の、新橋駅と東神奈川の2大会戦は、「常勝革マル」の神話を最終的に打ち砕く、転換点となった。革マルは「あとひと押し」論で、中核派を壊滅できると勢い付いていた。1つの焦点が、政治集会そのものの粉砕=防衛だった。解散過程の人々があちこちで襲われ、死者まであった。集会を安全に成功させ、帰路を保証できるか否かが正念場だった。集会後、大部隊で移動し、1時間や2時間も行った先で解散する。時には暗い山道を1人1人バラバラになって散る、という事もあった。
移動中の部隊そのものを襲撃したのが、上記の2大会戦だった。新橋駅は東京南部と神奈川の合同部隊、東神奈川は神奈川の部隊が狙われた。私は共に行動隊として出くわした。
 
 東神奈川では、私はレポ(斥候・偵察)だった。神奈川駅で部隊は下車した。ホーム上で隊列を整える間に私と相棒は階段を駆け上る。
と、改札の外に「Zヘル」の大集団が座り込んでいた。まだこちらの到着に気付いていない。鉄パイプをそれぞれ脇に置いて整然としている。勢い余って、私は集団の中に飛び込んでしまった。「革マルだ!革マルだ!」、声を限りに叫びながら、敵の手を振りほどこうと足掻く。不意を突かれた「Zヘル」も慌てて立ち上がる。見ると相棒は手にした傘で乱闘しているが、「声」がない[1]
 叫び続けようやく脱出して、階段を下りホームに戻ると、既に戦闘の陣形は出来ていた。中核旗を巻き付けた竹竿のやりぶすまが、階段に向かっていた。先頭で駆け下りて来たJAC(革マルの「全学連行動隊」)数人が、したたかに打ち据えられていた。後続は階段で止まり、ホーム上の白ヘルと向かい合う。
 そこまで見届けて、私はホーム上の部隊の最後尾に走った。さっきの一瞬で、体力は使い果たしていた。それ以上に、「挟み撃ち」が心配だった。
 

集団戦の総括

神奈川支社は湧いていた。戦闘後、「迎え撃ち、前進して散る」という大方針の下で、前衛戦を闘った常任幹部は意気揚々だった。「勝てた!」という思いは皆の共有物だった。三々五々、集まって来た反戦(職場労働者)たちも興奮していた。後日、革マルが例によって「ウジ虫に教育的措置」などとエセ勝報を流したけれど、現場の空気は隠せない。
 
ただ、『前進』紙上の勝利報道には、一部の中からブーイングが出た。私もその1人だった。「神奈川常任集団の英雄的闘い」が繰り返し書かれていた。そして、当の神奈川の常任たちが鼻高々に振りまいていた。
「官僚たちめ、自画自賛もいい加減にしろ」。集会参加者には家族連れもいた。障害者もいた。逮捕者も大量に出ていた。反戦も、多く逮捕されていた。彼らを「守り切れなかった」という思いがあった。こうした痛手を忘れて、自画自賛しまくる官僚たちに、腹が据えかねた。日頃、「大衆運動主義者」と罵倒される私たちは、怒りのやり場がなかった。
 
しかしそれ以上に、忘れたくない事実があった。私が最後尾に走った時、数人のメンバーが声を荒げて叫んでいた。「大衆運動主義者」たちは、「下がるな!構えろ!」と繰り返し叫んだ。にわか仕立ての「しんがり隊」が結成されていた。しんがりが、「革マルせん滅、革マルせん滅」とコールする。竹竿でホームを叩く。後ろから前へ、コールと地響きが広がった。それが地鳴りのように大きくなった時、階段状のZヘルが散を乱して引いて行くのが見えた。
後方が大挙して動く時、威力は数倍になる。その逆も真なりだ。後方の動揺は、数倍になって前衛を襲う。前衛と本隊の絶妙なコンビネーションこそが命だ。
同時に、革マル必勝の戦法の「挟み撃ち」への備えが出来た事だ。私たちは「その日」のために、「後ろで闘おう」と話し合っていた。「その時、お前はどこに居た」という問いに、「しんがりに居た」と胸を張らせない空気に、虚しさが生まれた。「大衆運動を知らねえ奴らは、軍事も知らねえ」。「こんな奴らのために死にたくねえ」。ため息が漏れた。
 

技術に頼った革マル

 革マルの敗北の主因は、「レポ」(レポーター、偵察・連絡)がたまたま機能しなかった事にあるのだと思う。「内戦」初期、革マルの「技術」は圧倒的だった。伸縮性の鉄パイプの開発も、無線開発と運用も、革マルから輸入したものだ。
多分、この日レポのトランシーバーが巧く機能しなかったのだ。この時代、私たちもよく機械の扱いに失敗していた。
「一瞬の差」「先制第1撃」の失敗は決定的だった。あるいはまたこの結果として、挟み撃ちの別動隊が機能しなかったのかもしれない。「技術に頼った革マル」は「上手の手から水が漏れる」のたとえを身をもって味わったのかもしれない。
 最も大事な事は、職場労働者への侮りが、冒険主義的な作戦に走らせた、という事だ。革マル派と違い、中核派の反戦労働者は、「2つの11月」の鉄火の訓練を受けていた。職場支配をめぐる資本との闘いも熾烈だった。戦いを知り、闘い方を知る、腹の据わった労働者部隊の底力が、最後の勝敗を決したのだ。


[1] Zヘル。革マルのヘルメットで「全学連」の略。白ヘルに赤テープ、前面に「Z」と書いて中核派と区別した。

 

1      間一髪

――ある時のオペレーション
その日私たちは、革マル派幹部の職場付近に展開した。数人がバラバラに散り、ターゲットの退勤を待った。 私はベンチに座り、所在無げに上を向いていた。もちろん眼の片隅には全てが入っている。
1人の男が私の脇に座った。周辺をキョロキョロ見渡している。雰囲気が悪い。そこへもう1人の男がやって来て、ボソボソと話し始めた。「あそこに1人、向こうに1人……」。「鉄パイプは持っているか?」。「分からない」。……「もう少し様子を見よう。必要なら応援も頼もう」。
 「デカだ」。私たちは張り込みのただ中で、作戦をしようとしていたのだ。今ここにターゲットが出て来れば、オペレーションは始まってしまう。
 一息、空気を吐いて、緊張を解こうとした。やおら立ち上がって、仲間の前を通り過ぎた。身振りで「ついて来い」と合図する。物陰に入った所で事態を説明した。1人1人別々に、間をおいて移動した。
 数日後、同じターゲットを別の場所で待った。「今日こそは!」という思いだった。と、そこに先日の男が現れた。今度も発見したのは私だった。そして私だけ認知されなかった。敵が本庁の公安でなく、各警察署のデカだった事が幸いしたのだろう。本庁なら顔見知りも多い。そうでなくとも顔写真を頭の中に叩き込んでいる。
 そしてもう1つは「空気」だ。「革命的内戦」の戦意が、メンバーの体から発散されていた。私は「普通の人」になる事を日頃から心がけていた。私から見れば、「今日が当日」か否かも、一目で分かる。「空気」が、彼らから立ち上っていたのだ。
 

「人民の海」

オペレーションは中断した。最初からやり直すことが必要だった。メンバーを入れ替えて、「200mの包囲陣」に変えた。公安が出張っているからと言って、大方針は変わらない。人数を増やして、「動態調査」に臨む。退勤時のパターンを掴めばどうとでも出来る。退勤を2時間ずらそうと抜け道を取ろうと、組み合わせには限りがある。
尾行に成功したメンバーが、何度も突然見失うという事が続いた。突き合わせると、駅の一角で見失う。
 現場周辺を調べると、そこには国鉄職員の通用口があった。「ウーン」と唸るしかなかった。ここは動労革マルの拠点区。「スト支援」の時など、「支援」が構内に入り込んで集会もする。ターゲットは、動労革マルの職場支配に守られて脱出していたのだ。「人民の海」の言葉が思わず口に出た。
 それでもある時、長時間の尾行に成功したことがあった。しかしスナックに入ったまま出て来ない。「裏口から抜けたか」と思いながら、痺れを切らして店のドアを開けた。そこでは、店員と談笑しているターゲット。私は中へ入って、近くに座った。ターゲットの人物像に興味もあった。もちろん「機密」を口走るかもしれない、という本来の目的もあった。狭い店内だ。私たちは店長を中心に、同じ輪の中にあった。
数週間後、ターゲットの「せん滅」の「軍報」が出た。職場のすぐ近くで、「赤色テロ」は発動されていた。
 
革マル機関紙『解放』は、「やったのは中核ではなく、『権力の謀略』」と叫び立てた。職場の長から警察に保護申請が出されていたのに、やられるはずがない」――身勝手な理由だと、私たちは笑った。
 

「誤爆」?

 ある事件、「赤色テロ」の報に湧く中で、商業新聞は「巻き添えか?」の記事を載せていた。入念な下見のオペレーションだったか、と疑念が湧く。この時期、「とにかく手数を」が合言葉だった。革マルの攻勢は味方を委縮させ、集会・デモへの参加も激減させていた。そのつもりが無くとも、腰の引けた反撃には一般の人を見誤った「誤爆」(巻き添え)を数多く生んでいた。[1]
 調査班が結成され、私も加わった。とにかく現場に行こうと決めた。夕方遅く、近くを歩いていると、車がスーッと来て停まった。途端に私は数人の男たちに囲まれた。「しまった」。職務質問に曖昧に答えていると、たちまち車に押し込まれ、警察に連れ込まれた。
ここまで来たら仕方ない。私も腹を決めた。私は大声で叫んだ。「何だよー。俺は何もしてねえよー」。調べ室の机に突っ伏して、私は大泣きに泣いた。「女に会いに行っちゃいけねえんかよー」。
「住所さえ、教えてくれたら返してあげるから。分かった、分かった、君は何にも悪くないんだよね、脅かして悪かったね」。調べの警官がなだめに入った。
 私は、10分以上も泣き続けて、住所・氏名を言った。やがて所在確認が取れ、2時間後に解放された。
住所・氏名は、前もって調べておいた赤の他人のものだった。本庁の公安が手間を惜しんで面通しに来なかったせいで、私は助かった。
 ただ、「再調査」は停止するしかなかった。
 

「ナーバス」作戦

 「○○せん滅」の軍報を合図に、中核派は一斉に「ナーバス」攻撃に打って出る。「ナーバスになる」→「心が傷つき易くなる」→「脅迫する」という意味合いだ。これも革マルから学んだ手法だ。
 革マルは「ナーバス」を本人だけでなく、知人・職場全体に押し広げて恐怖と反動的感情を引き出す事を常としていた。家族宛ての脅迫効果は絶大だ。こうして1つのテロを何十倍の効果に高める。
 中核派は、さすがにそこまではしない。襲われた本人を中心に、革マルと目される労働者の職場に、脅迫電話を繰り返す。「次はお前だ」「特に退社時は気をつけろ」「寝る時は靴を履いていろ」。時には白旗を揚げる者もいる。「自己批判書を前進社に送れ」と指示する事もある。
 
 革マルの労働者への「軍報」が出た時の事。襲われたのは、軽度の身体障害者だった。有能な大衆バッターとして注目されていた。赤色テロは、鉄パイプを使わない「鉄拳制裁」だった。こんな事は、内戦の歴史で1回きりだ。
 事実を確認し合って、一斉ナーバスに入る。その報告を聞いて、嫌な思いが湧く。「障害者だから、1度目は軽くしてやったが、2度目はないと思え。障害者だと甘えるな」だったか。障害者への「鉄拳」が、健常者への鉄パイプの数倍の打撃を与えている事をこいつらは分かっているのか。この言葉が、その職場の中に広げられた時、職場の人間がどう動くか?「平時」なら中核派から叩き出すべき奴だ。今でも……。
 けれど、私は口に出せなかった。これが戦争だ。維新史の中で「土佐の人斬り半平太」の伝もある。何よりも、私は「司令官」ではない。「戦争責任」を分有して行くしかない。
 まあいいか。だからこそ、トロツキーの「永続革命」論を抱えていけばいい。
 
偶然という事は、よくあるものだ。ある日、喫茶店でシンパと会っていた日の事。外へ出て驚いた。パトカーに十数人の警官。周りは黒山の人だかり。慌てて逃げ出した事があった。
 別の日は、たまたま街を歩いていて、電線工事の現場にぶつかった。工事夫と眼があった。顔なじみの同志の作戦中だった。
 


[1]謀略論。73年から始まった革マルの世界観の根幹。すべての事象を権力の、革マル排除の為の謀略と見なすこと。教祖・黒田の直感により、謀略の企画・実行者は特定される。

 

1      戦争論について

 本多さんの『戦争と革命の……問題』だったろうか。クラウゼヴィッツの『戦争論』に学べ、という指導があった。学習会も開かれた。
 クラウゼヴィッツは、プロイセンの参謀として、敵の大天才・ナポレオンの戦争指導を分析・理論化して、近代戦争論を確立した。
 主なテーゼとして「戦争は政治の手段」である事、同時に戦争独自の科学的領域がある事、は有名だ。「戦争自体は、殺し合い」に尽きる。ここから様々な戦略も生まれてくる。国民皆兵という近代特有の戦争を科学しよう。
 
 けれども、学習会で学んだ『戦争論』は、実戦の場では、全くと言っていいほど生かされなかった。殺し合いの現場では、付け焼刃は効かない。どんな理論も思想も、自家薬籠中の物としない限り、無化する。身の丈に合った闘いをする以外にない。地肌がさらけ出される事になる。
 
 革マルが常套手段とした「はさみ討ち」。何度やられても、対策は講じられない。デモや解散過程で、α隊(行動隊)を前後に分けるようになったのは、いつからだったろうか。
『戦争論』には、「はさみ討ち」「包囲」の戦術もあった。いったん敵を包囲すれば、10倍の敵をもせん滅できる。独ソ戦、国共内戦の戦史も同じ事を描いている。『戦争論』を百万べん唱えながら、学べない体質とは何なのだろう。
けれどそこにこそ、中核派の良さもあったのかもしれない。行動隊の意思一致も、大半は情勢や革マル批判だ。通常の会議では下されない生の話を、ここで私は聞いた。「政治で勝つ」「体を張って主導権を確立する」。
その良さが、戦争のクソリアリズムの前に消えていく。ある人が言う「中核派の革マル化」だ[1]
 

横国大の戦場

 74年1月、神奈川最大の戦場の横国大で、中核派は集団戦で革マルに圧勝、革マル側に死者が出た。赤色テロを含めて多くの同志たちが指名手配を受けた「セブン弾圧」があった。戦闘主力が、県反戦の労働者であったことは明らかだ。
 経済・教育両学部の、自治会争奪戦が焦点だった。その日、先に登場した方が、その日の勝者になる。互いにレポを飛ばしながら、数百m離れて睨み合うという日々が続いた。
 革マルに先を越された日のこと。たまたま両者の距離が近付き過ぎた。「引け」という隊長命令。こちらが引くのを見て、勢い付いた革マルが追いすがる。
 私は怒りに震えた。我が隊長殿は、1人先頭で逃げて行く。隊列は百mも開いてしまう。遁走だ。ゼイゼイ息を切らしながら、取り残された同志。それを見て数人が戻った。革マルもこの日、やる気はなかったので助かった。隊長は全学連書記長だ。
 
 鉄塔決戦でも同じような場面があった。歴戦の反戦労働者たちは、進退自在に闘う。逮捕された同志が何人となく奪還された。この時も、後を継いだ全学連書記長が、声も届かない安全地帯で「指揮」をとった。
「学生を育て上げる」という中央指導は問うまい。しかし現場指揮は、責任を負う事を自覚しろ。「あの闘いを指揮した」と、出世の踏み台にさせるな。戦争の中で、「戦争」そのものを腐らせていった「指導」。あれは一体何だったのか。 関学オルグの頃、学生に相談された事もある。革マルの学内集会のレポを頼まれた、と学生は困っていた。彼自身、すでに尾行が付いていた。革マルも中核も、乱暴な指導者が多い。ただ、それに応ずるシンパ学生もまた多かったのも事実だ。
 
横国大で数年、一般学生・ノンセクト黒ヘルとして偽装して闘ってきた学生たちが、公然と姿を現した時、私は驚嘆した。彼・彼女はムンムンした「中核派」の臭いを見事に消し去っていた。「アッパレ」。よくやり抜いたものだ。けれども、その教訓は何だったのかは、私自身、聞く事もなかった。
彼らは本社や戦線に配属されていった。改めてふり返ると、もったいない事をした。そのまま、戦略的産業に就職できた人たちだ。
 

2      「常在戦場」の臨戦態勢

深夜、アパートのドアをドンドン叩く音がする。ビクッとしてはね起きると、ドアの外には地区の常任が険しい顔で立っていた。
「すぐに着替えてここを出ろ。Yの動きが異常だ。今夜、下宿への一誠襲撃があるかもしれない。お前はセンターに、彼女は知人の家に泊めてもらえ」。あわててタクシーをつかまえて飛び乗る。
革マルの学生アパートへの襲撃が始まって以来、こんなことが何度もくり返された。けれどもそんなときに限って、何事も無く終わった。
次第に懐疑的になる。「いい加減にしろよ。どうせガセネタだろう。どこでそんな兆(ちょう)があったんだ」。ふてくされながらしぶしぶ従う日々がくり返される。「どうせ、非常呼集の演習だろう? 防空演習のようなものだろう」そう思う。けれども「万が一」という恐怖と、指示に従わずにやられたときの「畏れ」が身を縛る。
 
戦時下の犠牲
街を歩いていると、こちらを見つめている女性がいる。センターや本社への入社経路だけでなく、いたる所で不審な動きがある。革マルのレポか?いやそんなはずがない。そう思いつつ体がこわばるのを感じる。数人の男が近づけば、あわてて道をはずして小走りに離れる。
 
知人を喫茶店に呼び出して話していても眼はぎょろぎょろと周囲を見つめている。
本社からの出社の時だ。マイクロバスを停めて「散」に移ろうとするとき、仲間の女性がドアに手を挟んで大怪我をしてしまった。「戦争」に気をとられて、当たり前の動作ができなくなっている。
 
そしてついに死者が出た。法大戦争の戦友が、死んだ。きのうまで共に戦っていた群馬のメンバーだ。戦場からの「散」の後、埋め込んでおいた車で夜の街道を走らせている時、交通事故を起こしたのだという。たぶん、居眠り運転だろうという。何日も何日も寝不足で、眼を真っ赤にしながら、動員に応えてきた人だ。立哨の任務中にもよく居眠りをしていた。
そして名城大の学生たち。革マルが制圧する名古屋で、急速に勢力を拡大しながら、大阪で集団生活をしていた学生たち。連日マイクロバスで、長躯、名古屋に登場しながら頑張っていたという。そのバスが高速道路で故障し、点検中に後ろから大型車に激突された。多くの死傷者が出た。
「戦場」以外のところで死傷者が続出し、仲間の中でわけの分からぬ相克が激化する。「これが戦争か」と痛感する。
 
チョウと キリ、ミリ、テツ
(兆)チョウ。アパートや職場などの周辺とその経路で、革マルの襲撃の予兆を発見すること。ただちにアパートを移る。職場を休む。時には待ち伏せて迎撃する。
(切り)キリ。尾行を切る。幹部の場合、数時間、時には数日かけることが原則。
(ミリ)。留守中に革マルが侵入していないかを確認するための細工。机の上に本を置き、旗からの距離をミリ単位で計っておく。玄関に新聞をしき、その下にソバを数本置くこともあった。
(鉄)テツ。アパートのドアに鉄板を張って補強するなど
散)サン。公然拠点から移動すること。ホロトラなどから降りたあと、数人ごとに分かれて隊長の指揮のもと、数分歩いてタクシーに乗る。下車後、原則として一人1人に散る。兆を見つけてのアパートの引越しも「散」


[1] 大衆運動主義への非難と共に、他方では軍事技術に熱中する者を「軍事主義」と制する空気も政治局に有ったという。「軍事主義」が制するには時間と何かが必要だったのだ。

↑このページのトップヘ