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24      下獄と本社生活

下獄

 85年の7月か。77年の5・29鉄塔決戦で1年有余、横浜・上大岡の刑務所に下獄した。通称「笹毛」。前科は2犯だけれど、救対の指導通りなら実刑はなかった。しかし元々、木の根団結小屋などへの義理で闘ったものだ。裁判方針でも、彼らに付き合った結果だ。
 救対メンバーの「養子」になるという方針は蹴った。当時、受刑者は親族以外との接見を許されていなかった。たとえ獄中の接見確保の為の方便とはいえ、「私の姓」を変える気はなかった。私は亡き父母の子だ。私は「私」だ。獄中体験の先輩にも相談して、共感を得た。
 かつて5・29の半年を超える拘留中、私は妻に手紙を書き続けた。当時の決定に従って、手紙は救対の点検を介して妻に届けられた。手紙の中で私は、子どもの誕生日に自弁で弁当をとり、祝った事を書いた。それを評して、救対指導部が「こいつはゲロする、転向する」と断言したと後から聞いた。こんな奴らの顔を獄中でまで見たくもない。
「実刑を避ける」事に汲々としていながら、「仮出獄拒否」の大原則、これも納得できるものではない。結果的には悩む必要もなかったが……。
 私は懲罰房の常習者だった。脇で作業する同囚と話しては、「ヘラ()を働かせた」と挙げられた。作業中の会話、脇見、サボは懲罰房送りだ。階級も下がってしまう。その傍ら、毎日の会話をせっせと書いて、大学ノート数冊分になった。仲の良かった窃盗さん。元デパートの店長さんとは、シャバで2回ほど飲んだ。姉の子育てのために中卒で働いたテキ屋系の暴力団組員とは、「団結の必要、労働組合の必要性」で一致した。
 厳寒の木工場では、1m先を歩くイレズミ男の体温に温められた。朝鮮大学卒業の組員とは、金日成の世襲制を論じ合った。「日本の天皇制と同じではないか。北には、他に人材はいないのか?」――「もちろん居る、居るはずだ」。
 私の受刑者番号は2千*番だった。「笹毛の2千番台」は、「政治犯」の事だと懲役は知っていた。「お前ら『担当』(工場の看守)とは反目(はんめ)だろ」。木工場に出て間もなくのこと。5分の休憩時間に、ヤクザ、詐欺師やみんなが私の所に寄って来た。三里塚では機動隊との大激戦があり、直後には浅草橋駅が炎上していた。「お前らすげーな」。私は一躍、英雄中の英雄になった。
 よく、「鳩」が飛んで来た。他の工場から「第10工場の2千番とは誰か、党派はどこか」と問い合わせが来た。互いの安否を伝え合う。工場対抗の運動会では、お互いに対立する応援団員だ。互いに目を合わせながら、「フレー、フレー」。
 学習用にはレーニン10巻選集と、フィリピン本を持ち込んだ。ノートをとった。レーニン本は後日、「レーニンを読まないレーニン主義者」との闘いの武器になる。フィリピン国立歴史図書館長、レナト・コンスターティノ氏の「フィリピンの歴史」全17巻は、フィリピン問題の域を超えて、歴史や社会認識や闘いの視座を教えてくれた。
 出獄後、療養を兼ねて運転免許合宿に行った。本社からも遠いし、「社会人並み」の資格も取れる。1石3鳥だ。
 

D隊に志願

 本社を支える礎は、印刷工場とD隊(ドライバー)だ。私は時間を作って週に1~度、D隊に志願した。「前進社」の100m先に、1台のワゴンが常駐し、私服が張り付いている。歩いて出ようものなら、どこまでも追いかけて来る。時には「職質」と称して「任意同行」が強制される。もちろん革マルの追尾もある。
 だからホロトラに乗り込んで出る。尾行の車を切って、解散地点で1人1人散る。「出社戦争」「散」だ。「出社」の用語がおかしいけれど、「本社生活」を中心に考えての言葉だ。
 本来のD隊に、コースプランを点検してもらい、最初は助手席に乗ってもらって走り回った。「刈谷さんの車には乗りたくない」と言う声もあった。「急発進・急ブレーキ・急カーブ、みな酔っちゃうよ」。「知った事か、こっちはペーパードライバー様だ」。せっかく取った免許証。多くの人が免許を取りながら、尻込みしてフイにしていった。
 
 気休めが欲しい時は、工場に出向いた。「印刷工場メンバーは労働者扱い」という位置づけで、おっとりした生活空間が曲がりなりにもある。世間話をしたりテレビを見たり様々だ。
編集局と工場の情報格差は余りにも大きい。よく質問もされた。けれどあまり多く話すと、工場内の「指導部と被指導部のバランスを崩す」と苦情も入った。口を噤むしかない。
 

お互い様

 その日の社防隊員は、全逓の女性だった。当時20代半ばか。活動歴も数年という。
特定郵便局だと言うので、日頃の疑問をぶつけてみた。「閉局間際に人が駆け込んで来た時は、どうしてる?」。「受けますけど、それが?」。「その結果、残業になるとしても?」。「ええ」。「何で?」と重ねて聞くと、「お互い様、じゃないですか?」。元学生が割り込んで「ただ働きだ、追い返せ!」……無視、無視。
 「実は」と、私は4・28不当処分[1]の話をした。あの時の「物留め闘争」の話、そして闘いの頂点での労働者の声。「魚や肉が腐った臭いをしだした。やった!勝った」。 初めての話だと言う。今度は彼女の質問に答えた。最後はお互いに「有難う」。
「お互い様、か。融通し合うか」。忘れていた言葉だ。けれど、この本社生活で、私はこの言葉を使えるだろうか。「任務、任務」とセクショナリズム、「お互い様」なんてどこにある。
 

井戸端会議

 本社の中で、女性の比率が高いのは救対、そして工場だ。事務局も「比率」は大きいけれど、絶対数が少ない。被指導部の女性たちは、救対を中心に井戸端会議に花を咲かせていた。その1人は、俗世間の雰囲気を持ち込んでいた。おしゃべりと世話好きな女性だ。
 井戸端さんは結婚相談所も開いていた。「刈谷さん、いい女性を紹介してあげる。好みのタイプはどんな人?」。この件ばかりはお断りした。「こんなにいい男が独り者、男を見る目の無い女なんて百人くれてもごめんだ」。
 
 編集局の大先輩が見合い結婚した。新婚旅行から帰って、彼は叫んだ。「俺は本当に幸せだ。この幸せをみんなに知って欲しい。マイクを持って叫びたい」。みんな心から祝福した。
 結婚した相手の女性は「女性解放」で結集した若い人、もっともラジカルな女解主義者だった。面白い選択をした、と感銘した。
 
 井戸端さんは社内に、世俗の風を吹き込もうとしていた。指導部に対しても、世俗の視線から辛辣に批評した。
 「救対に出入り禁止」事件があったのも、この頃だ。本社指導部が、若い女性にすり寄って嫌だと言う苦情があった。指導部さんが救対部屋を覗くと、女性たちが寄ってたかって「しっ、しっ」と追い出すのだという。何人かの同志が「しっ、しっ」と追い立てられた。「アイツは女に飢えている」という話も、井戸端さんに聞いた。1人の女性を追いかけるのは仕方ない。けれどアイツは振られた直後に、もう別の女性に言い寄ってる。「これで3人目よ」。笑ってしまった。けれどチョンガーとしては、軽く笑えない。
私も、人に頼まれて「興信所」をしてやった。まず、独身か否か。それから趣味は……。思いを募らす若い男が、女性と2人になるチャンスすらない。この程度なら許されるだろう。「報告書」を渡したら、彼はそれを持って指導部に相談しに行った。
後から、「他人の組織に口を出すな」というクレームが来た。「お前の知った事か!」。


[1] 全逓4・28処分。78年、前年から続いた闘争に対する処分で61人が免職。当局と結んだ全郵政による組織破壊に対する組織攻防は、時には暴力にも及んで逮捕者が続出した。79年の年賀状配達を混乱させた「物だめ」闘争は闘いの頂点になった。2007年に、処分無効の最高裁決定が出た。

   25   若者と学生

若者のエイサー

 印刷工場の若手は、エイサーに打ち込んでいた。沖縄闘争で得たものの1つは、「自身の文化を継承する沖縄」への共感でもあった。印刷工場に、沖縄の女性がいた事もあろう。議論の苦手な若手たちは、踊りの内に、自身の表現手段を見出したようだ。師匠は確か、戦旗派だ。
 沖縄出身の新城せつ子さんの杉並区議選でエイサーはデビューした。時ならぬ太鼓と鐘に人々が集う。晴れ舞台で舞い終えて、みんな紅潮していた。
 コミック君は、アニメと宝塚にはまっていた。「コミックが自分の表現方法」と言う彼には『コミューン』の挿絵を描いてもらう。
困ったのはその実直さだ。ある時私が、「革共同は年功序列の社会だからね」と自嘲した。若者たちを前にして、工場指導部のKさんが笑いながら、「そうだよ。年輩者には礼を尽くさなければいけないよ」と返した。後日、何の折か、年功序列を批判した時、「だって、刈谷さんは言ってたじゃないか」とてんこ盛り君に食ってかかられた。「もっと空気を知れよ」。それが難しい「時代の子」なのかもしれない。
 
私は時々、会議をボイコットして、「三国志」や「信長の野望」にはまっていた。物事を考えようとすると、「戦力5・体力3・知力4……」というように、デジタル化した数値に置き換わってしまう。これがゲーム脳か。
 

立退き料

 社防の任務中、戦線から動員された女性に問われた。「刈谷さん、立退き料って何ですか?」。彼女が住むアパートが、近く立て直しになる。立退き料を払うから移ってくれと言われている。けれど指導部たちは、居座れと言う。ゴネれば何倍も取れる。「地主や家主は金持ちだ。どんどん取れ」。彼女の困惑ぶりが分かった。「ゴネずに出た方がいい」。ホッとした顔になる。
 私はかつて本多さんが言った事を教えた。週刊誌に、「学生の無賃乗車についてどう思うか」と言う質問への、諸党派幹部のコメントが載っていた。私たちは、あの頃ピーピーだったから、よく駅のホームから逃げ出したものだ。けれども「『搾取や収奪』と、踏み倒す事を正当化するのは良くない。泥棒や強盗を推奨できるわけがない」。そんな感じだった。
学生時代、私も、1杯のコーヒーで何時間も粘った。けれど働き出してからは、そのまま居続ける事は出来なくなった。居続ける時は、追加注文する。「踏み倒せばいいんだよ」、横ヤリを入れる学生出身者たちを無視して、語り合った。彼女も働く女性だ。
 彼女の瞳が異様なほど輝いてきた。後でほかのメンバーに、「一体、何を話したの?彼女の瞳孔、開きっぱなしだったよ」と問われた。
 
 数日後、彼女が別件でやって来た。私は別の若手の女性と話していた。目を輝かせて寄って来た彼女を一瞥しながら、今目の前にいる人に話を合わせ続ける。しょんぼりした彼女を目の端で見送る。この世代、1対1で目を向けて語り合う以外、心を開け合えない事が多い。そういう人を中核派は獲得しているのだけれど、フォローが出来ていない。「共生の運動」、そんな中で自立していって欲しい。
 

戸板で出動

 学生たちの動きには、新鮮さもあった。前進社の小部屋に陣取って、そこから法政に出動した。
 時折体調を崩す女性は、一緒に行くと言って聞かなかったらしい。学生たちは「戸板に乗せて」彼女と共に闘う道を選んだ。体調を崩す女性は多い。共同生活と「軍事行動」の中で、彼らは互いを労り合う事を学んでいた。
 学生活動家のタイプも様変わりしていた。反帝・反スタや、革命論争などはあまり語れない。他方で、「差別」に敏感な人が多くなった。「共生の精神」は若者の心にフィットしていた。やはり「サブカルチャー」の世代だ。
 「私は今、学生たちにオバン攻撃を受けている」。23歳だったか。オジさん達は「えっ、まだ若いじゃないか」。私も口を挿む。「バカだね。ハタチ以上はみんな立派なオバンじゃないか」。「年増娘と同じだ」。
 大きな穴あきジーパンの女子学生に声をかけた。「その格好で北小路さんの部屋に行きな。ミニの方がもっと良いけどね」。「うん、オジさん達を再教育しなくっちゃ」。
 

いじめ雑感

 真冬の社防勤務はつらい。「1点」に立つ屋上の見張りは、防寒着を2枚重ね着しても、体の芯まで凍り付く。社防室のストーブで、甘酒を温めるのが日課になってきた。熱い甘酒をフーフー吹きながら、会話がはずむ。
 今日の隊員は、元民青の地区キャップだったという学生(女性)だ。民青の活動と実態を詳しく聞いた。意外と着実な学習と、討論を重ねている。
 「いじめ」について話が及んだ。小学校時代の、自身の「いじめられた」体験を彼女が話し出す。何人かの人が、心から彼女の苦しかった体験に思いを馳せる。「いじめは絶対にいけない」。
 私は少し気になった。「人の心を傷つけてはいけない」という流れが、文部省批判に広がって行った時、「ちょっと待って」と押し止めた。
「いじめそのものについて、もっと考えよう。みんなはどんな体験をしている?」。……少しして私は切り出した。「確かに世に言う『いじめ』は良くない。けれど、子どもの成長にとって、いじめは欠かせないと思う。適度に傷つけ合う、適度に血を流し合う事は必要だ。その事なしに、僕らはどうやって他人の心や自分の心を知る事が出来るだろうか」。
「えっ?」、虚を衝かれたように、彼女が応答する。「いじめをそういう風に見る人に初めて会いました」。私、「あるべき人間関係とか、互いに傷つけ合わない社会とか、そんなものはあらかじめあるはずが無いでしょ?社会主義だって同じでしょ?」。
みんな黙り込んでしまった。多分私は事実上、学生指導の在り方を批判している。後のフォローが気になってくる。「1人っ子世代」が社会問題にもなっている。彼らも多分、同じ様な環境だろう。
「さあ、時間だ。1点に交代頼みます」。任務は怠りないように気を引き締めて、頼むよ。
 
 元中核派の先輩が言う。「いじめは、学校の事だけじゃないよね。会社で、職員室での『いじめ』、今の大人の社会そのものが『いじめ』社会なんだよね。日の丸・君が代強制は、立派ないじめだよね」。うーん、一番肝心な事を忘れていた。
 
編集局でも話題にはなった。女性たちの話に、男たちは「昔からあったよな」と、昔話にしてしまう。そして、腕白坊主だった男が、話の中心になる。女性たちが「今のは違うのよ」と言うけれど、座は白けるだけだ。最後に女性への反撥の言で終わった。私は少し離れて、素知らぬふりだ。

   26   フィリピン新人民軍

「季刊『共産主義者』に、フィリピンについて書かないか?」。出版局のマオさんに言われて、私は飛びついた。「面白い」。完成したら原稿料として1万円がもらえる。それを当てにして本を買い込んだ。神保町のアジア文庫には、実に多くの本がある。私は岩波映画に通いながら、神保町界隈を歩くうちにここを見つけた。
 原典として、私の獄中ノート、フィリピン共産党の本、フィリピンの土地問題研究と、中国革命の関連、そして『世界から』。とりあえずこれで良いとしよう。かつて、レーニンやトロツキーの民族問題や、農民問題についての論述や論争も読んだけれど、とても使える代物ではない。
コンセプトは、中核派の「民族解放=革命戦争論」、その社会的基礎としての「農業=農民問題論」、その検証としよう。革命論として、その社会変革の綱領と戦略を解いてみたい。
私の腹の中には、韓国・朴政権がある。朴体制の展開したセマウル運動(新しい農村運動)の中で、社会が様変わりし、外資導入の「成功」でアジアNIESのトップに踊り出ている。けれども中核派は、まともな論評すら出来ていない。
日韓問題に、私が発言できる余地はない。それならば、フィリピン問題の研究・試論で、裾野を形作るのも1つの道かもしれない。共に「開発独裁」という新しい課題を抱えている。
あまり立派な出来ではなかった。けれど、「今でもこんな問題意識を持っている人がいるんだ」という驚きと、共感の反応は確かにあった。目先の事、「路線」や「基軸戦略」に埋没するだけでなく、革命を正面から考えたい。その限りで、私の存在価値もあるはずだ。
 
 86年の「マニラの春」、「ピープルズパワーの勝利」については、水谷さんと一致した。ここには米帝の仕組んだクーデター、「予防反革命」としての要素が間違いなくある。アメリカは反乱軍の鎮圧に空軍を動員する事を許さず、クーデターの勝利を誘導した。その背後には2つの要因があった。
 1つは、フィリピン共産党=新人民軍と農民・農業労働者の闘いが、反マルコスの1点で都市中間層の共鳴を得ていた事にある。ここにクサビを打ち込め、だ。すでに共産党は、いくつもの地域で「半解放区宣言」をしている。このまま行けば、勝利の日も遠くない。ここまでは一致する。
 もう1つ、より重要な事は、アメリカの膨大な軍事・経済「援助」の返済が滞った事だ。力あるマルコスから、弱体な「傀儡政権」に換え、IMFの「構造調整政策」で乾いた雑巾から無理やり絞りとる。「破産国」と認定されたフィリピン経済は、転落への途を辿った。「夕張」は、ここから始まった。
 水谷さんは、この急変に出遅れたフィリピン共産党を「スターリニズムのため」と断罪せよと言う。けれど私は拒否した。85年、反核のあの気運に空を切った我が中核派に、そんな資格はない。国鉄戦線、また然りだ。小泉ブームに、私たちは有効に対決し得たろうか?
 

「君に会いたくて」

 フィリピン共産党の使者がやって来た。交流、そして資金援助の要請。しかし中核派の対応は冷たい。これが「闘うアジア人民と連帯し……」の党なのだろうか。「血債」は、韓国・朝鮮と中国・台湾に対してだけなのだろうか。
 
農村で闘う元学生の活動家。彼らもやはり、都市の文化生活を渇望する。「コーヒーが飲みたい」。地元の豆を炒って、コーヒーもどきを楽しむ。それが、新人民や農村の「コーヒー文化」を形作っていく。
 共産党議長のホセ・マリア・シソンが、マニラで逮捕された。「逮捕」のニュースに、「殺されなかった」と私は少しほっとする。フィリピン刑法は、アメリカ仕込みだ。「逮捕」が公表されてしまえば、刑務所でも日本より格段の自由がある。獄中で、彼は詩を書いた。「私は君に会いたくて、戒厳下のマニラに行った。君に会いたくて」。そんな内容だった。新人民軍が身近になった。
出獄して彼は、合法政党「人民党」を立ち上げた。水谷さんは「転向だ」と断ずる。けれど全く違う。情勢の急変に対応しようと、共産党は格闘していた。合法と非合法の、両面での闘いの不断の模索だ。水谷さんのような見方こそ、後の共産党の血みどろの内部抗争の源流だ、と私は思う。
 
コラム バナナと日本人
浅草橋戦闘の獄中被告から「バナナを拒否しよう」というアピールが届いた。この時代、フィリピンの半植民地状態の1つの象徴はアメリカ・デルモンテ社の巨大農園で作られるバナナだった。その最大の輸入国は日本。
「農民の土地解放への闘いに応えたい」という想いは大事だ。けれども私の答えは「ノー」だった。「いったん生産・消費のルートが出来てしまったら、あとは食い続けること」。問題を告発している鶴見良行氏自身が書いているけれど、「先進国の消費者の移り気」こそ、農園で働く人々の生活を何倍もの力で右に左に振り回す。
巨大農園から自立して砂糖生産に挑む農民を支援する「ネグロスキャンペーン」がその後始まった。「持続可能な成長」が合言葉になる。もっと突っ込んだ議論をしたいと思いながら、議論の土俵が見つからないままに放置してしまった。
 

信念的信念

 70年闘争は「男中核」の全盛期だった。ボサボサの長髪をかき上げ、「精神の深み」を思い描く。3派全学連は、鶴田浩二や高倉健にも憧れていた。女性たちは、長髪とジーパン、そしてミニ。民青と3派はその風体でもよく見分けられる。
対革マル戦争時の、アジテーションのキーワードは「中核派根性」。清水さんの専売特許だ。私もまた、「根性」をくり返した。「根性」が「魂」に変わったのは、いつ頃だろう。「根性」は余りに古すぎる。封建思想や職人たちの、寡黙で勤勉で、文字を読まない鬱屈した心情が醸し出される。右派労働運動や、体育会の強い所では、反動的な「根性」論がのさばっている。「精神棒で根性を叩き直す」奴らとの思想闘争として、「根性」問題は大きい。
 そこで生まれたのが「魂」だ。魂とて「大和魂」はある。けれど私たちは戦後世代だから、あまり深刻ではない。「根性」にせよ「魂」にせよ、とにかくそういう領域を言葉にしたかったのだ。
 
「信念的信念」は、私が編集局に移ってからだ。さすがの水谷さんも最初、これには弱っていた。言い換えれば「四の五の言わずに、百万遍念仏を唱えろ」と言う事だ。「百万の敵ありとも、我行かん」でもある。さらに言い換えれば「男1匹ど根性」。
 親分気質の突撃部長の清水さんとナイーブな知性派の水谷さん。好対称ではあった。
 
「中核派は、地方都市出が多い」と言われていた。私たちは、急速に崩れゆく地方都市の生活様式と、アメリカ的生活様式、その独特な矛盾と融合の中で、時代のアイデンティティーを求めていた世代なのだと今、思う。10・8以来の激闘は、「若者文化」を花開かせ、そして新しい生活様式への模索を浮き彫りにしていた。「私のプライド」がフィットする。
 その模索の中での「根性」と「信念」。瞬間、瞬間の政治的功罪は別として、中・長期的に見る限り、あまり褒められたものではない。
 

組織戦術論

 組合現場で奮闘する、ノンセクトや他党派と付き合って、革マルの組織戦術の一端が見えて来た。
 まず高校教師の中に、革マルは根を張っていた。これと思しき教え子達を育て上げ、拠点大学に送り込む。仮に法政大学に進んだ時は、「インナー(スパイ)」の役割を荷う。表に立つメンバーの他に、公安や中核派に認知されない人間を多数、温存する。卒業・中退の後、表のメンバーは動労書記に送り込まれる。認知されない人間は、他の戦略拠点に就職する。
 学校事務職になれば、教師に組織を伸ばせる。現業系の事務職に入れば、急速に組合の指導的地位に手が届く。こうして「革マル中の革マル」に組織され、訓化された組織・フラクションが出来上がる。
 
対する中核派はどうだろう。なけなしの学生を戦場に押し立て、彼らの進路を奪ってしまう。党の常任や専従しか道は無い。いやむしろ、敢えてそうして来たと思える節がある。労働運動など、「1点突破、全面展開」でいい。いつだったか『前進』の紙面にこのフレーズが載った時、私は驚いた。中核派とはこれを批判して、ブントと闘って来たのではなかったか……。革命軍戦略とは、ブント主義だったのか。
 
 対革マル戦の主戦場となった全逓。職場のカウンターの中を追い回す鉄パイプ。双方ともムチャクチャな乱戦をくり広げた。
 神奈川でも全逓は、行動隊の金城湯池だった。左翼各派は拠点化を競い合った。独立自尊で一本気な集配係達は、党派に結集するや否や、行動力において他の職場・産別を抜き去る。
 組合役員の話を聞いた。「中核派の主張には共感する。けれども中核派は、いい活動家を引き抜いては使い切り、最後には潰してしまう」。「活動家を中核派から引き離し、隔離しなければ、全逓の労働運動は潰れてしまう」。
 
 相模原で、横須賀で、地区労の隊列の中に、三浦半島教組の旗が翩翻とひるがえる。横須賀地区労は、社共分裂や総評の後退の中でも、反戦・反基地の大衆動員力を維持していた。その真ん中に立つ三浦教組。ここには中核派の影響力も伸びている。
 ある時、三浦教組を含む活動家の交流会の席に、私も加わった。会話を聞きながら、時に質問もした。第一印象は「普通の良い先生」の雰囲気だ。気負いが、無い。
 三浦教組では、教育実践に組合として取り組んでいた。いじめ・非行・「落ちこぼれ」。その1つ1つを丁寧に取り扱い、共に格闘する。その大衆的基盤の広さは、ここにあるのだろうか。目と鼻の先の横須賀には、知人も教え子もいる。横須賀の米軍基地との闘いは、ここに住む人たちの生活のための闘いでもある。三浦教組は、地区労の動員を水路に、動員要請をはるかに上回る動員を続けた。組合活動全般の中から、大衆性を持った活動家が、次々に生まれてくる。
 三浦教組の中で闘う中核派は、中央との確執を抱え悩みながら闘っている。この闘いをどう「党」に返したらいいのか。これは「中核派の本来の姿」なのか。それとも、中核的でない「あだ花」なのか。私も、同じ悩みだ。
 

路線主義の体現者

「革命軍戦略」の下、「三里塚Ⅱ期決戦勝利・革命的武装闘争」路線。80年代は、大衆運動的には、三里塚基軸路線1色だった。例外的に、杉並選挙や動労千葉、部落解放運動くらいのものか。在日に関わるものは、運動的には凍結されたままで、時折イデオロギー的管制高地を司っていた。
学生から編集局に移って来た男女各1人、彼らと話していて、「路線主義」の実像が見えて来た。横国大出身の彼は、よく勉強もしていた。入管体制の現状を延々と語る。話の後半には、路線的に「2重・三重の縛りをかけて」締めくくる。大衆運動的ブレとの闘いだ。第1章・当面の課題、第2章・三里塚、第3章・対革マル戦、第4章・党建設、を最後まで見事に語る。実践的には、三里塚と軍関連活動以外に、何もしてはならない、という党の立場を見事に表現していた。
 
入管戦線の表の顔のAが、高山さんの工作で飛ばされて、横国大君は高山院政の下で入管のキャップになった。たまたま2人でいた時、同じような論を彼は延々と論じた。私は、「入管体制って、在日にとっては日常生活上の事なんだよね。日常生活の中で在日と付き合う事なしに、共に闘うって事にはならないよね」と言った。
「えっ、そういう見方は初めて聞いた」と彼は驚いた。「刈谷さんはそこまで考えているんだ」。驚いたのは私の方だ。入管キャップが、「第2の7・7自己批判」を知らない。「地域入管闘」を知らない。
 この頃もう、反スタも主体性論争も宇野弘蔵も消えてしまっていた。「思想」といえば、「血債の思想」だけ。「思想性」など語る人もいない。たまに語るのは、許された人たちだけだ。革命論、統治形態論etc.など、聞いた事もない。それが「路線主義」の極致だった。
「ふまえ、踏みにじる」という言葉が心中に湧く。革命軍の勝利するその日まで、凍結は解除されないのだろうか。

28      攻防の中で[1]

86年、東京サミットを爆砕する横田・迎賓館への迫撃砲。爆弾闘争も始まった。皇居・警察・自衛隊・成田。
 

革命軍万才運動

 本社中にステッカーが貼られている。「革命軍は人民の味方だ」「革命軍万才!」――いったい何だ、これは。学生を中心に、キャンパスや街頭に貼っているのだという。「何を奇妙な事を」、私は思う。
 「革命軍軍報」はそのつど大衆的に撒かれている。『前進』や大学のビラでそれを「転載」すると言う形式で「合法性」を担保する。軍報で、その政治目的や暴露は十分できている。マスコミがそれを報道する。ここはフィリピンでもタイでもないのだ。詳しく知りたければ、前進社や、中核派が支配する大学の自治会室に行けばいい。そこで十分討論もできる。何かトンチンカンなステッカーだ。
 責任者は梶さんと松尾らしい。梶さんは「半地下」の人だ。裏と表をつなぐパイプであり、清水さんの代理人でもある。どうも中央そのものが取り組んでいるらしい。
 
「刈谷さんちょっと来て」。声を潜めたOさんに呼ばれる。編集室の隣の、破防法研究会の小部屋に籠って話が始まった。「これ見てどう思う?」。新聞に大きく、「中核派が住民に脅迫電話。その数、数万か」……だったと思う。「うーん」、即答できない。Oさんは事件の全体像を知っていた。この電話作戦に動員された、誰それ達。その責任体制も、彼女は掴んでいた。
 「迫撃砲」戦闘の直後から、作戦は始まった。個人名の載る電話帳を切り分けて、1人1人に配る。そして、発射地点周辺の地名にある住民宅へ、片っ端から電話して「説得」する。「私は、中核派革命軍です。革命軍は人民の味方です。日本帝国主義国家権力に、手を貸さないで下さい」。
 目撃証人になるな、という「説得」だ。これに、例のポスターを張り巡らせば、その効果は数倍になる。住民の生活のすぐそばに、革命軍の眼が光る。まるで赤い暴力団だ。証人宅を被告暴力団の組員が戸別訪問して「説得」に当たれば、立派な脅迫ではないか。まして内ゲバの中核派、暴力団さえ舌を巻く凶暴さは誰もが知っている。
「住民を敵に回した脅迫よ」、彼女が断定して憤る。「……」。「他人に言っちゃだめよ」と再び「指示」されて、席に戻る。
 フィリピン新人民軍なら、この作戦の企画者は、革命的に処刑されるだろう。しかも公開の場で。
 

転向のすすめ

1986年、岩手で圧力釜爆弾関連で6人が逮捕された。爆発物取締罰則の重罪適用に衝撃が走る。5戦士は完黙で闘い抜くけれど自白・転向もでた。続く12月には「地下」を支える名義人名簿を、ゴッソリ権力に奪われる事件が起こる。事件は党の内部でも秘密にされ、現場の成員には知らされず、名義人などへの弾圧から初めて明るみになった。名義提供やその候補者に上げていた人々には、謝罪と対応で多くの人が動いた。私も旧知・友人に頭を下げて廻るはめに落ち入った。
 
対応の指針は「自白・転向のすすめ」にあった。警察が来たら私の名前を挙げ、関係を断つと明言する事。それ以外に無い、という指導だった。彼らに転向を求め、私たちは「非転向」で闘う。友人たちの困惑と怒りの顔を忘れる事が出来ない。彼らは、中核派による暴行を受けてなお、協力してくれた人だ。
他にも、名簿と巨額な金品が奪われる事件が続いた。現に名義人となっている人、そして、「依頼の可能性」を持つ人々の名簿が、敵の手に渡ってしまった。
新たな名義を作るため、中核派性や左翼性を押し隠した名簿作成の為の「友達運動」もあったが、さしたる成果を生まなかったに違いない。「革命的詐欺」など成功するはずがない。
今この時、何人が住居を失い、何人が住居を持つか、私は知らない。しかしいずれ早晩、多くのメンバーが逃げ疲れて、地上に浮かぶに違いない。
ガサも日常化し、労働者・シンパ宅・知人宅へより広がる。本社では女性を標的に、全裸にして「身体検査」をする攻撃との死闘が続く。
 


[1] 「踏まえ踏みにじる」。革マルの議論の仕方を中核派がやゆした言葉。「○○という痛苦な現実を否定的現実として踏んまえ、△△に向けて革命的に前進するのでなければならない」。踏まえて、党作りにいそしむ、何もしないで居直る。

29      「勝共の謀略」事件

 87年7月、広島大の構内で教官(総合科学部長)が殺害され、マスコミは連日、事件の真犯人捜しに夢中だった。
『前進』に、勝共連合(統一教会=原理研)犯人説が載った。たぶん直後の会議で、水谷さんが苦笑しながら釈明した。「中国・四国地方委員会からの強い要請を断り切れなかった」と言う。
大学全体が興奮状態の中、勝共が「犯人は中核派」という大キャンペーンに乗り出した。「中核派ならやりかねない!」という空気に追い詰められて、中核派も「勝共=犯人」説で反攻に出た。「9割方、勝共だ」という意思一致がうまく進まない。『前進』の権威で説得したい、そんな事だった。何人かの編集局員が「それは無謀だ」と批判したと思う。
結局犯人は、助手の私的犯行とされた。『前進』はデマと知りつつ、勝共犯人説を公認してしまった事になる。けれど、より根本的な事は「火付け、殺人の中核派」というキャンペーンに、中核派の拠点校で負けてしまった事だ。対革マルも対権力も「無制限・無制約」、「中核派はそんなチャチな事はしない」と笑い飛ばせない、という主体の側の疑心暗鬼こそ、「犯人=勝共」説の底にある。この危機をどう克服するのか。「ボタンのかけ違え」は、最初に戻る以外にないのではないか。
 

「原理」の凶暴さ

 もう1つの問題は、またもや「決戦」主義が、脇腹を衝かれて立ち往生した、という事だ。1985年、政府が提出した「国家秘密法=スパイ防止法」案は、マスコミ・野党の猛反発で廃案に追い込まれていた。けれども法成立への衝動は高まっている。政府の別動隊として、スパイ防止法制定の「国民運動」を買って出たのが勝共だ。
この間の動きを見ておこう。86年、「天皇在位60年式典」に勝共は正式参加している。昭和天皇の死(Xデー)への準備は、すでに始まっていると見ていい。
87年、勝共は北朝鮮を標的とした、スパイ防止法制定運動の全国展開を猛然と開始した。国立大では、事務局長の権限が拡大され、教授会の力が弱められていた。青学・上智をはじめ、文部省のバックを受けた勝共派教官達が、教授会・理事会を支配する事態が進む。黒ヘル・民青そして教官達の、勝共の大学支配や自治会をめぐる抗争が展開されていた。
89年「勝共議員連盟」の集いには、国会議員232人が参加。90年の総選挙には、大阪3区から、自民党公認で立候補している。
勝共の手法はデマと奸計の全面展開だ。権力をも籠絡し、動員しようとする民間反革命だ。広大中核派は、これに1対1対応して、やられてしまったのだ。大衆運動の場で、他流試合の場で……。
 
勝共とは何か。「韓国生まれの反共謀略集団」は、キーワードだ。日本の植民地統治と「死のローラー」を経験した朝鮮戦争、この絶望的体験の淵から生まれた「反共原理」の特性を、しっかり捉える事が大切だと思う。その破滅願望とメシア志向の激しさ、何よりもそれをつなぐ「神とサタンの世界戦争」への能動的な志向……。世界を焼き尽くす神の業火、死の淵から現世の救済が訪れる……。
「韓国生まれ」から目をそらしてはいけない。勝共は、愛国主義や日本の核武装化を主張する。天皇制の反動的復活の先兵でもある。同時に内部では、朝鮮侵略の歴史に血の債務を要求する。
この内と外の落差こそ、勝共の勝共たる由縁だ。平和の名による寄付金の私物化も、霊感商法という強迫・詐欺も、彼らの極端な禁欲生活によって浄化される。
「原理講論」は、イブ(女性)とサタンの性交による「血統の汚れ」を、人間の、特に女性の原罪と見なしている。性交はただ「血統を浄めるため」だけでなければならない。性や結婚という人の世の喜怒哀楽の葛藤から目を避けて、純血教育(運動)や、神の御心に身を委ねる合同結婚式と「ホーム」の生活。ここに「新保守主義」「グローバリズム」と呼応する、いわゆる極端な「キリスト教原理主義」との類似点・共通性を感じるのは、私だけか。
 
勝共とのオルグ合戦が展開されたと聞いた。どちらを選ぶか、悩む学生もいたという。その中身を私は知らない。けれども両者の争点に、互いの「血債」論があったろう事は想像できる。ここで果たして、「血債主義」は有効に闘えたか、それを知りたい。自らの「原罪」をはらすため、あえて韓国人男性との結婚を選ぶ女性に、何を言ったらいいのか?
もう1つ欠いてならないのは、このいわゆる「原理主義」と、根強い保守・反動の、「連続と不連続」の関係だ。統一教会のスパイ防止法や純血教育運動の本が、保守の財界やマスコミで珍重されている事を見落とせない。他方、後日の事になるけれど、勝共議連は急速に影が薄くなる。「韓国生まれ」の特性ゆえだ。勝共の天皇制は、文鮮明にひざまずく天皇だ。けれども、勝共を必要とする風土は少しずつ広がっている。
 

中曽根の「右ウィング」

私は今、改めて思う。勝共の台頭と大学支配との闘いは、中核派が全国の大学で復権し、その指導性を発揮する決定的なチャンスだったはずだ。私たちは、この決戦性を「決戦」として捉える事が出来ずに自滅してしまったのだ。その責任と誤りは、どこにあったのだろう。
その大学支配の実態を知り得たのは、私たち10・8世代だ。カンパで、情報で、日頃教官達と交流していたのは私たちだ。見て見ぬふりをして来た私たちOBこそ、まず責任を問われるべきだろう。あえて言えば、法政大OBこそ最大の戦犯だ。そしてまた、勝共との闘いは、「大人たちの闘い」でなければならなかった。
出来合いの思想や路線に寄りかかるのでなく、たとえ中央方針が不在でも、現場から捉え返す「思想性」や「戦略観」の欠如こそ、この時期最大の壁となった。確かにこの時期、学生戦線は、85年の痛手を引きずったままで退潮の中にある。「1人の学生を獲得するために、百人の反戦を消耗する」状況だ。問題は、「1人の学生よりも、千人の学生の闘いを支える指針を」という視座の確保ではなかったろうか。
田中角栄の「数の政治」は、1田中派の数だけではない。「本籍・田中派、現住所・△△派」という議員を多数配置していた。「本籍・中核派、現住所・△△派」を大量に抱え、統一戦線戦術を駆使することも、1つの途ではなかったか?

最後に、勝共との闘いは、中曽根・構造改革路線との1大対決軸だったという事だ。中曽根が公言した「左右のウィングに手を伸ばす」戦略の、「右」とは御用右翼の事ではない。まさしく勝共の事を中曽根は言っていたのだ。「左ウィング論」に矮小化した認識こそ、過ちの元凶だ。

結論はやはり、革命軍戦略にある。「革命軍万才運動」を頂点とした、大衆運動での「待機主義」「召還路線」、その克服なしに、開かれた運動などあり得なかったのではないか。

30      日の丸と沖縄

沖縄国体

 1988年、沖縄国体をめぐって、沖縄は大揺れに揺れていた。会場に「日の丸」が揚がる事に、県民の怒りと拒否反応はすごかった。
 ソフトボール会場となる読谷村(よみたんそん)の山内徳信村長は当初、「日の丸」を拒絶した。読谷村は日本で最大の村だ。「町への昇格」を断り、「村」であり続けている。沖縄戦で読谷村は、米軍の艦砲射撃に蹂躙された。知花昌一氏は口を閉ざし続ける体験者達と、深い付き合いの中から、「チビチリガマ」の「集団自決」の経緯を調べて告発していた。
 日の丸を揚げないのなら、会場を移すと公言するソフトボール協会に、村の思いは激しく揺れた。山内村長は断腸の思いで「日の丸」を受け入れた。山内村長は、米軍の血なまぐさい訓練に抗議して、村職員を職権で動員して基地闘争を牽引するなど、県民の平和運動の先頭を担っていた。他方で、返還後の基地跡地を真に活用して、村おこしと反基地を結びつけて来た人だ。「返還されても困らない」闘いだ。
知花昌一さん、知花盛康さん達は、村長の愛弟子のようなものだ。しかし、彼らは「何とかしたい」と議論し合っていた。
 
その時私は、カメラを抱えて両・知花さん達を注視していた。昌一さんがメインポールに近付き、登り始めた。日の丸を引き下し、ライターで火を点けた。慌てた公安デカが数十人、どどっと押し寄せる。村人や支援が間に入り、押し合い、もみくちゃになった。
 私はその始終をカメラに納めた。プロ・アマ多くのカメラマンがいたけれど、日の丸を引き下す姿を描き切ったのは、私1人だった。カメラマンがポールに駆け付けた時、私は反対に走り、押し寄せる公安の群れをすり抜けて、ポイントを確保した。私は「戦場のカメラマン」だ。
 
 知花昌一さんの裁判は、常に右翼との激突でもあった。中核派は、襲いかかる右翼から昌一さんを守るために身を挺した。メガネを壊され、歯をへし折られ……。
 昌一さんの波座(はんざ)スーパーは、村の人に守られていた。市場でも同じだ。昌一さんの店も放火された。けれども、チビチリガマの像を壊した右翼は、村民に謝罪したと聞く。右翼もまた、地域社会の中で生きる県民であり、親族や隣人の怒りに堪えかねたのだった。
 
 何度も取材に行った。昌一さんと思いを一にする村議・町議さんのインタビューもした。せっかくの事だから、日程を延ばして県内観光もした。バイクを借りて海岸線を1周する。図書館に通って、沖縄の古い民話も読み耽る。同じ物を本社で読んでも、心のひだに沁み込まない。青い空・白い道・けだるい蒸し暑さの中で、初めてゴーヤも旨い。
 
沖縄闘争は、三里塚基軸路線に一石を投じていた。現闘の岸は、「三里塚基軸の不変の確認」を突き付けていた。何度も基軸性が再確認された。しかし結局、危惧は現実のものになった。89年天皇決戦と、それをめぐる党内の暗闘を経て「5月テーゼ」へ結実していく。
 

沖縄と「独自の軍事大国化」

『日米安保体制と日本帝国主義の独自の軍事大国化』が刊行されていた。日本が、日米安保の殻を破って「独自の軍事大国化」へ突き進む。日本の国益をかけた「軍大化」との対決に全力をかけよ。確かに「日米安保」論は残っているし、戦争に向けた「戦争国家化」との対決という新しい領域も示してはいた。
 しかし、いつもの「天下り」「垂れ流し」の中では、『前進』トップ論文を始め、「独自の軍大化」だけが躍っている。これに「現代戦争テーゼ」を加味すれば良い。
 
沖縄闘争をめぐる数々の長大論文も、第1章は独自の軍大化論、第2章は沖縄の課題となる。沖縄論の中でも、安保体制についてはほとんど触れられない。
 
 私はジリジリして、沖縄担当の高田隆さんに言った。「軍大化論の妥当性はおいて、第2章に日米安保を入れるべきだと思う」。やはり埼大の先輩で編集局の最古参。古い読者は彼のペンネームを見つけて、その論文に飛びつく、という有名ライターだ。
 沖縄の反戦の闘いは、米軍基地との闘いだ。それは日米安保との闘いでもある。これ抜きに、軍大化論と県民の闘いを単純に「接ぎ木」しても、樹液は流れない。闘う人は混乱するだけだ。もっと言えば、日本が「独自の」軍大化に突進するならば、米軍基地は自然に無くなるか、自動的に縮小する。あえて闘う必然性はない。
沖縄闘争論の中に「安保」の文字が復活するのは、随分先になった。知花昌一氏達の県民側の声に、しぶしぶ変えた、というのが真相ではないか。
問題は「象のオリ」だけではなく「象の皮膚」だ。
 
「沖縄奪還論は、今も有効だ」と『前進』は言う。「沖縄の自決」も出ては消える。これもまた、沖縄の声への政治的対応か。けれど中身は一切無い。中核派は「本土・沖縄は同一民族」論だ。けれども「同一」と「単一」の異同に踏み込むことからは逃げている。いやそれ以前に、「日本民族」を論ずること自体を拒否している。「帝国主義の内部では民族的共感よりも階級対立が本質的であり民族を語ること自体、転向だ」ということか?
私は思う。もともと沖縄闘争は復帰闘争以来、「国家」・「国民」という巨大なテーマを内包する運動だ。「復帰」とは「民族の分断」「異民族支配」を問題にした闘いだ。沖縄の歴史は、沖縄自立論であれそうでないであれ、「民族」を問い続ける。ここから逃げてはいけない。それは沖縄側の民族性にとどまらない、本土側にとっても重要なテーマでもあるはずだ。
 
右の「単一民族」論批判の場で、国内の在日・沖縄・アイヌモシリの存在を持ち出すだけという現状は寂しい。日本民族内部の民族=民俗の多様性・複合性、「俺たち仲間」の複合的あり方を生き生きと捉える民族=民俗論、マルクスを乗り越える民族論の再構築こそ、「中核派」の課題ではないか。
 

沖縄奪還論への思い

私が「3派の中でたまたま中核派」から、「3派の中の中核派」を選んだのは、6970年の獄中であった。獄中から、革マルを含む諸党派に手紙を出して、機関紙・誌を送ってもらった。
知らない事ばかりだった。党派による言葉使いの違いや概念の違いに戸惑った。頭の中は大混乱した。反戦連合の件もあったから、アナーキズムにも心が動いた。
その中で中核派を選んだのは2つの理由だ。1つは、「今まで中核派だったから」……これは無視できない。
もう1つは、「沖縄奪還」論だった。私にとってこれは「本土復帰」運動に応える唯一の答だった。言い換えれば、社共的な復帰論とさして差異のない、ただ戦闘的表現であるにすぎない。私は、唯一、この変哲のないスローガンを掲げた中核派に共感したのだ。他党派の言う「沖縄解放」論は、「復帰」に応えることから逃げているように思えた。他党派に比べて、中核派の、わずかだが大きな政治的熟練の差――「党派選択」以外に、選択肢を持たなかった私は、中核派を選んだ。
ただこの「奪還」論には、奥行きのある議論がなされていなかった。情勢論や任務論の中で、「なぜ奪還か」「いかなる奪還か」について深く考えさせるものはなかったと思う。「2つの11月」の政治内容は、あまりに希薄だったと思う。
 
党派の指導部になろうとする意欲を、私は持っていなかった。私は「現場」から離れるつもりはなかった。「党派選択」よりも、私には働いて生きるという選択の方が大事だった、とも言える。
 

革命的合流論

 694・28破防法を適用された、新橋・山手線の大衆的実力闘争。これは全国全共闘による沖縄闘争だ。中核派はこれに先立って、「とにかく1冊でいい、沖縄についての本を読め」という指示を出していた。
 
 当時の議論には、沖縄独立論もある。また、本土側には「核付き復帰はいらない」という声もある。沖縄県民の圧倒的なうねりは、すべてを変えたい、と一緒くただ。
 共産党は、反米愛国論だから大きな混乱はない。また、瀬長亀次郎氏を筆頭とする沖縄人民党は、共産党の友党だ。「分断の歴史」にも詳しい。
 けれど、新左翼諸党派は大混乱している。「領土問題」として考える時、日本の領土拡張を主張していいのか。沖縄県民が果たして、「日本民族」であるのか。党派の代表も20代半ばだ。みんな混乱している。
 中核派の主張も実は、その辺の矛盾を抱えている。「返還」前、泊港や晴海で、「渡航証」を拒否した実力での上陸が決行された。その「本土人民と沖縄県民の合流」論で、他党派に1歩先んじたけれど、中身は乏しい。それを日本帝国主義打倒、つまり革命に直結させて乗り越えようとしている。けれど「本土と沖縄の関係がどうあるべきか?」への、答えにはならない。
 分からないながらに闘いぬいた。それが私の、694・28だ。私もまた、この闘いで「指名手配」され、1年4ヵ月の拘留を強いられた。食うために基地に働き、基地内で実力で対決する全軍労、県民の苦悶と闘いの地平に、私もまた、打ち震えた。
 

「近代日本」との対決

 沖縄の熱い闘いが続く。けれども本土の運動は冷え込んでいく。数波に及ぶ沖縄の県民ぐるみの闘いも、本土にはなかなか波及しない。社共・総評という動員と決起の水路が壊れたことの痛手は改めて大きい。やはり本土側からは、沖縄は異国なのか?「沖縄からの片思い」か、とも思う。他方で、沖縄からの発信は、確かにある。平和教育などで、「沖縄」を身近にしている人々も多い。しかしその人々と「党派」の関わりは、互いに疎遠のようだ。
沖縄返還はそれ自体としては、民族的運動のはずだ。それが何で左翼の運動になってしまったのか。「愛国・民族・国民」、もっと深く考えよう。社会主義への過渡期の日本で、沖縄をどう位置づけられるか?
復帰後、「沖縄の本土化」が急激に進む。自衛隊の移駐、本土資本の進出、政党の系列化、そして文化としての同化と、沖縄経済の停滞。他方で、地域政党としての社会大衆党を軸に「沖縄的政治地図」は独自性を保つ。沖縄文化も、根強く息づいている。
 
日本の近現代史を解く鍵は、「黒船の来航」にある。井上清氏や、羽仁五郎氏の提起した問題は大きい。
1910年の日韓併合、朝鮮・台湾の植民地化の前、「外地」とは沖縄そして北海道を指した。「日本」の中でお上が西から東へ移り、天皇制国家に服属=帰順した順に、地域間の序列が出来てゆく。
外地=辺境は、日本の中で最下位に落し込められた。途中に東北弁の蔑視がある。沖縄での「方言札」は、程度の差こそあれ、本土・内地でもあった。「標準語」は地方文化を破壊し、蔑視する。
沖縄の分断差別(2等国民視)とは、現代日本の(本土自体の)地域間の分断と序列、そして極端なまでの自治の欠如、という事ではないか。「お国」・「お上」意識の根深さを、どこから克服していくべきだろう。沖縄からの「片思い」は、この全体構造を照らし出しているのではないか。「沖縄は日本の尻尾、この尻尾から日本を動かす」。古波津さんの言葉だ。
アジアの民族解放闘争がそうであるように、近代合理主義そのものを克服する1つの「精神革命」が広汎に生まれない限り、分断・差別は越えられない。精神革命とは、観念体系そのものの変革と共に、制度・政策そのものを創造的に造り出していく事だ。
沖縄の事・日本の事・文学・映画、そして漫画をもっと読もう。沖縄の体験交流も広がっているようだ。さし当たって第1歩は、現地闘争の「日帰り」をやめる事。1日余分にとって自分の足で歩く事。そして自らの「本土」を蘇えらせる事。街に、職場に、食卓に「沖縄」が溢れて来た。新しい本土=沖縄関係が生まれそうだ。
 

自決とは何か?

いま、政治制度ですら、「沖縄・北海道開発庁」がある。社共ともに、副委員長に沖縄が座る。この点、中核派はあまりに異常だ。
70年代初期の中核派は、こうした諸課題に、まがりなりにも答える姿勢はあった。その原点にもう1度帰ろう。「自決」を欠いた「奪還論」は、果して有効だったのだろうか?今も?
 
私は思う。沖縄の「自決」とは、政治的には高度な自治か、独立→連邦だ。独立・沖縄との相互の「完全な内国民待遇」を考えても、少しもおかしくない。財政援助も同じだ。在本土の沖縄出身者も百万に達しそうだ。「特殊な自治」も考えておこう。
自決とは何か?この点をあいまいにする所から、中核派の腐敗が始まったのではないか、これがターニングポイントだったのではないか、という私の思いは強まる。
 
忘れてはいけないのは、日本全体での全般的な自治・自決の創出だ。「1極集中」の矛盾をどうするか。地方の活性化の為の、様々な工夫を見直そう。それと一体の、沖縄の特殊でより高度な自決だ。自決を通した融合、を構想したい。
この制度の確立も、「革命的激動」なしには考えられない。いくつもの激動の遺産として、「自立」が確立されていくのではないか。EUの統合も進んでいる。「国家・国民」の在り方も、実に多様だ。「エスニック」の概念も広く確立されつつある。
 
あまりにも当然と思えるこの「自治・自決」論が、何故、語れないのだろうか?問題は、中核派の「国家論」にありそうだ。単に情勢認識だけではない。中核派には、「一層の中央集権化」こそ、社会主義国家の鍵だとする暗黙の確認がある。「1国1党原則」もある。極度に集権化した党の窓から見る時、「自決」や自治などは、俗物のたわ言でしかなくなっていく。中核派の理論の底流に、沖縄の日本への同化論が感じられるのは、私だけだろうか。「関西の文化」にすら無関心な人々が、沖縄の「民族性」を果たして許容できるだろうか?
マルクスもレーニンも、中央集権国家論者ではある。さらに、ともにエスニックの同化論だ。けれど、マルクスの時代のドイツは、領封分立だ。今日の日本の、極端な集権に対しての弁ではない。
 自決を「離婚」になぞらえたレーニン。共産党という保護者の承認があれば、「離婚の自由」もある。身1つで、時に多少の手切れ金で出て行ける、という事だったろうか?家庭内離婚も財産分与も無かった。それでも「離婚の自由」論が画期的だった時代だ。
 

31      80年代の諸問題

松尾真の失脚

 89年、学生戦線の人事が変わった。SOB(学生組織委員会)の議長から松尾真が外れる。全学連委員長も獄中の鎌田君から変わる。人事の一新。編集局の会議で、清水さんのレターが読み上げられた。松尾の業績を讃える長文だ。理由は「療養のため」だったっけ。けれども転属先が書いていない。「失脚?」という囁きが広がるが、理由も何も分からない。
 
 私は個人として、松尾が大嫌いだ。初対面の労働者に、のっけから「お前」呼ばわり。機先を制して優位に立とうとする言動、他人の弱点を見定めようとするねめ回すような目つき。全身から表す人間性への嫌悪の情……。猜疑心の塊で、心を開く事を恐れる奴。
 確かに彼は有能だった。『前進』の原稿は定時に、1行の誤差も無くピタリと収める。敵性資料を読み込んで、レッテルを貼り、切り捨てる。その切れ味と粘っこさは抜群だ。難癖を付ければ、論理に深みが無い事くらいだ。答は読まなくとも分かっている。
 学生指導は「管理技術」そのものだ。学生が昼間出払っているうちに、彼はしっかり休憩と睡眠をとる。ヘトヘトになって戻った学生をこっぴどく非難して思考を奪う。そこにバシバシ注入する。学生たちは、自己解体の甘美な思いを味わうわけだ。嫌な奴は叩き出せばいい。偽悪趣味の「怪物性」も、<鬼面人を驚かす>。若者たちはこれでイチコロだ。10歳も差のある、権威ある指導者と学生の関係は、「畏怖」よくて「畏敬」と言えようか。敬愛とは言えない。カリスマの直系の弟子達は、選ばれた民として他者を見下す。私は、新興宗教の折伏・調教の現場に立ち会っているような気がしてくる。
 こんな人間を最高幹部に据える中核派そのものに、ようやく閉じかけた古傷が痛みだす。
 
 SOB議長としての松尾時代はそのまま、80年代の中核派の革命軍戦略であったのだろうか。革命軍の追撃砲の1発1発が、数千、数万の人民を、直接中核派に結集させる。85年の2つの蜂起戦も、万余の大結集を呼び起こすはずだった。地道な大衆運動などいらない。学生が大量に結集すれば、情勢も一変するという見方だ。何という妄想。清水=松尾が相補完してこの妄想を「現実」としたのだ。
あの自民党本部の放火・炎上への評価が、私と逆だったのかと思い至る。あの成功がいけなかったのだ。90年、全学連大会には、「30歳の学生たちを含めて50人程度。松尾と共に、大学戦争も敗退した。革マルの前に、もはや為す術も無い。
松尾と梶さんが中心となった革命軍への募兵運動という大衆運動、それはつまり大衆運動からの召還主義、待機主義の戦略化だ。いったい私たちは、いつの時代に、どの社会で戦っていたのか?松尾真が悄然として消えて行く。結局彼もトカゲのしっぽに過ぎなかった。ちっ居?除名?
 

空港ゲリラと航空労働者

 88年9月、成田空港そのものにロケット弾が飛んだ。軍報(速報)が出た。
 何故だったろう。私は軍報第2報の筆者と話していた。筆者はどう書こうかと悩んでいた。「空港と、空港に絡まるその一切を革命軍は攻撃する」――切り口上はまあいい。しかしロケット弾は、標的からそう遠くない所で炸裂していた。近くの飛行機は、まだ乗客を乗せる段階ではない。革命軍も人の犠牲は避けているはずだ。しかし万が一の事もある。
 私もその事を危惧していた。「万一」の事があれば、三里塚闘争は決定的な危機に追い詰められる。筆者もそう思っているようだ。私は、知人の話を紹介した。三里塚闘争に共鳴する知人は、出来るだけ成田を使わないよう心を配っていた。筆者も飛び付いた。軍報第2部には、「心ある人々は、成田空港の利用を避けている」という1文が入った。
 
 その頃私は、航空関係労組の役員と会っていた。私は「三里塚闘争は、航空労働者を敵視しない」と保証していた。空港関連のゲリラ戦の中で、しかし私は、彼らとの接点を強めたかった。動労千葉のジェット燃料輸阻止闘争の話を、私は詳しく話した。そして、航空氏らの闘いを詳しく聞いた。
 パイロットは管理職であり、同時に「労働者」だ。客室乗務員は「寿退職」の規制を打ち破り、永年勤続の権利を闘いとっていた。
 ロケット弾のしばらく後、会う機会が出来た。旧知の女性が「一緒に行きたい」と言うので同行した。私は改めて、航空労働者に被害は出さない、と断定した。途端に女性が叫び出した。「死ねばいいのよ、あんな奴ら!」。仰天して、「この人は関係者だぞ」と何度も抑えようとした。けれど女性は激昂していった。「殺せばいいのよ!」。叫び続ける彼女を力ずくで連れ出した。彼女は、私の言い方に激しく怒り、憤怒の余り、頭が真っ白になっていた。
もう2度と、航空氏と会う事は出来ない。彼女があまりにも特異な人だったからか、それとも軍報が誤っていたのか、多分、両方だ。うーん、もしかしたら、私の方があまりに非・党的なのか……?
 湾岸戦争以来、交通・港湾などの20団体・労組の主催する大規模な反戦集会、その中央に航空労組連絡会の旗が翻る。けれども私は近付けない。
 

労組交流センターの結成

 89年、総評が解散し、「連合」に飲み込まれた。右翼労戦統一だ。共産党系の組合を排除し、産別単位で分裂が進む。全労連、そして全労協に分断されてしまった。中核派は、この労働組合運動の危機に乗り遅れまいと、労組連から労組交流センターを結成し、新たな「ナショナルセンター」を模索していた。党の指導系列も、中野さんが主催する交流センターの会議が、一定の位置を得る。2元的ではなくとも、「1.元的」と言えようか。ようやく、遅まきながら、「労働者の党」への光が見え始めた。
 交流センターへの参加を呼びかける、組合回りも活発に行われたようだ。元・富士通の常任さんは、「反応が無いんだよな」とぼやいていた。「どこの誰かも分からない人間が行っても、相手にもしてもらえない」。しばらくしての話、「『実は元・富士通』と言ったら、途端に親しくなった」。
当たり前の事が、今、分かったのか、と言いたくなる。けれども、そこまで渇き切っていたのだ。しかしまだ、労働者出身の、学生出身幹部への卑屈さはぬぐえない。軍令と序列化――「大会」がないから、互いの姿が見えない。
 

ゲリラに反対

「刈谷さん、中野さんはいつも『ゲリラなんかやめちまえ』と言っているんだよ。『テロもやめちまえ』だよ」。長く動労千葉に出入りしている若手のDC君が言い出した。出払って他の誰もいない編集局の部屋で、2人だけで話していた時の事。
 動労千葉は、いくつかの中核派を代表する組合の中でも、抜きん出ていた。中央の方針(「路線」)として、「三里塚Ⅱ期決戦勝利=革命的武装闘争」が打ち出されている中では、いくつか例外的に大衆運動の展開を位置づけられ、いわば許されているうちの1つだ。
 80年代の末から、党内での中野さんの地位も急速に上がっていく。この時はその途中だったと思う。その中野さんの言葉だ。DC君の言葉に、私は一瞬凍りついた。いつもと違って何も意見を言う事が出来なかった。同じ言葉を私が吐いたら、吊るし上げどころでは収まるまい。
 私はDC君に、「もっと多く話してくれ」と頼んだ。動労千葉の組合員の前だけではないという。労組交流センターの中心活動家の会合でも、中野さんは同じ言葉をくり返しているのだという。
 党内では11・29浅草橋戦闘の被告を中心に、このゲリラに沈黙する中野さんへの憤懣が渦巻いていた。労組の指導者としては、あまりに当然なこの沈黙への「党員」の怒り、私はこの「党」の本部の中で悶えていた。DC君の話を聞き終えても、私は何の感想も意見も言えなかった。けれども、心の中で何かがはじけた。
 

自作出版事件

 88年か?編集局の○○が、無断で家を借り引き籠るという事件が起きた。置き手紙があり、『資本論への疑問』という本を出したいためだとあった。居場所はすぐ分かり、即刻連れ戻された。
 日を改めて仕事明けの土日、別の場所で全員合宿が行われた。水谷さんが経過を報告し「全員の問題として検討したい」と提案した。「共に考える」というポーズは新鮮だった。
「経済学者」の藤掛さんに、ゲラを渡したが読まずに、「くだらない」と切り捨てられた、という経過をも述べた。編集局に戻すという意味合いに聞こえた。
 おもな発言者は「経済」の島崎、Fさん、委員長君、そして私だった。島崎は「宇野経が分かっていない」となで切った。第1人者の自分を差し置いてふざけるな、という気負いだ。
 本人の弁明も許された。「剰余価値の搾取論はおかしい。労働力商品論でなく、貸借関係で論じるべきだ」というのが骨旨だった。Fさんは「獄中のメンバーの闘いが分かっているのか」とくり返し断じた。「女性労働者の怒りを知れ、隠れて貯金した事が許せない」とも。
常々、理論的討議や思想の不在を感じていた私は、嫌になった。割って入って発言した。「見出しと前文しか読んでいないが、いくつか答えて欲しい」。
イ)   宇野経についてどう思うか。どの程度学んだか。
ロ)   冒頭の商品とは、歴史的商品と論理上の商品をめぐって議論があるが、どう思うか。
ハ)   「剰余価値の搾取を否定して」というが、そうすると全体としてどう変わるのか。単なる用語の付け替えか。概念を替えると、どう認識が変わるのか、変わったのか……など。
 
所を得たり、と答えがあった。
イ)   宇野経はやった事もない。
ロ)   冒頭は、「商品」でなく「資本による生産」だ。
 アァ……と思った。理論を語るに、これでは……。以前、所有制度の歴史を語り合って、「領有権などと言うが、そんなものは所有制にあるもんか」と反発された事もあった。その結果、会話が途切れた。会話が下手すぎるのか、学び方がおかしいのか……みんな……。
 
 Fさんが割り込んで、再び、同志としての「モラル」を追及した。委員長君は、「党の方針に従え」と喚く。私は、「被告」に弁明の機会を与えようと、何度か発言=質問したが、他のメンバーに踏みにじられて終った。流れは決まった。水谷さんは、黙ってやるに任せている。吊るし上げと短期日の役務――処分は意外と軽かった。もちろん、「出版」などあり得ない。労対担当さんが、「うんちくのある質問だったけどね…」と感想を言ってくれた。
 

錯 乱
 80年代に入ってからのこと。本社の1員が、警察に「保護」される事件が起こった。
 彼は出社後、数時間もたった後に、山の中で、革マルの包囲網を発見した。立ち木に登って「革マルだ。110番を!」と、村人にくり返し叫んだ。警察が駆けつけるまで木にしがみついていた。
 警察から解放されて後も、彼は、自分が包囲・襲撃される事態だったと言う認識を変えられない。けれどまた、「ドロボーだ!」と叫ぶべきところを「110番を!」と叫んだことには非難が集中した。「俺が殺されてもいいんか!」と彼は血相を変えて反論する。
 
長期の下獄の後、拘禁症状がありありとしていた。神経が痛んでいる。まともな現状認識ができないのはやむを得ない、休養こそが必要なのだ。
下獄体験は、「類に生き類に死す」という安直な理念を木っ端微塵にする。自由を奪われ、断絶と屈従にあえぎ、懲罰に怯える日々なのだ。「学習の機会」はその付け足しに過ぎない。「英雄視」は、安逸な日々を送る人々の自己欺瞞の側面が強い。
 

軍事空港論の終り

 沖縄取材の中から、「巨大空港と抗担性」についての記事をものにした。0年の初期だったと思う。沖縄県評や、平和運動のリーダーの話を聞いていた。巨大空港の軍事的必要性、それはジャンボ機のためでなく、滑走路が何ヵ所破壊されても、まだ戦闘機が使える長さという事にある、と彼は力説した。これが「抗担性」だ。平和運動のために軍事研究は必須だ。
 当時のサブ・キャップは、編集局の軍事研究担当でもあった。水谷さんは潜っている。協議の末、この話を大々的に取り上げた。実質は、現闘が展開する「三里塚軍事空港」論の、その中身を批判するものだ 。 C130(ジャンボ輸送機)のためではない。しかしそれは、記事では言えない。記事について、現闘からも「党」中央からも、反響は何1つ無かった。
しかし直後から、「三里塚軍事空港」論は消滅した。
 突然、「アジアのハブ空港としての三里塚空港」粉砕論が始まる。日帝の存立そのものを断て、という訳の分からない議論が展開される事になる。
「中核派にとっての三里塚闘争の理由」が無くなってしまった。私の意図は、「軍事空港」の否定ではなく、その中身だった。デマで農民を管理する現闘・岸の面子、それ以外この転換は考えられない。こっそりと、記事の本意を聞く人々もいた。反対同盟農民や同志、読者には改めて申し訳ない。
 

 うんころじー

 革マル批判は私の担当ではない。1度だけ、沖縄闘争の連載でコラムを書いただけだ。『解放』紙上で、「国を愛する」「郷土を愛する」という言葉がこっそり挿入されていた。『前進』は得たりとばかり、「帝国主義への屈服」と大論文を何回も載せた。けれど喚けば喚くほど、中核派の「愛国心」批判の空虚さが目に付いた。ホームランを打っているつもりが、かすってもいない。
 コラムの中で私は、「国」の言葉の持つ多様な意味を並べた。「革マルはこの多様さを隠れ蓑にして、愛国心論をこそっと持ち込もうとしている」と断じた。これでワンヒットではないか。
 
 『解放』紙上で、「うんころじー」の大特集が続く。革マルの幹部が次々と、「うんころじーに学んで」と書いている。「己の腐敗を切開し……」だ。いつまでも、いつまでも「うんころじー」が続いた。革マルが、全党を挙げて「うんころじー」の大運動にのめり込んでいる。
 私は奮い立った。「黒田哲学」がうめいている。今こそチャンスだ。「クソに溺れた犬は撃て」。けれども『前進』は、素知らぬ顔で通り過ぎるだけだった。
「うんころじー」とは何か。「肥溜めの中へ浸かれ。泥とクソにまみれよ」と言うに尽きる。言い換えれば、「実存の深淵に降り立て」となる。黒田哲学は実存主義に投降し、こっそりそれを密輸して、崩壊を補強しようとしている。ま、実存主義者が聞いたら怒るかもしれない。「実存主義とはそんなに浅いものではない」。
 
 革マルをよく知る人は言う。「革マルとは、ある意味で、カルト・『神学的集団』だ。実践や現実認識の破綻では、ビクともしない」。そしてまた、「革マルとは、ある意味で修行僧のような集団だ。世俗を蔑視する、ストイックなニヒリストでもある」。黒田寛一が、終世独身だった事は衆知の通り。組織としても、結婚を「ブルジョア的腐敗」として忌み嫌う。一時、組織上の序列でも、「独身」の条件が付いていたと聞く。
 革共同の第2次分裂は、「地区党か産別党か」の対立だと一般に言われている。けれど、中核派の公史では実践的に踏み込むか、サークル的理論討議に明け暮れるかの対立だったとしている。
 革マルは、「プロレタリア的人間」へと自己完成する事にこだわり、実践を相対的に「下位」のものとする事で、分裂していったのだ。
 革マルの、革マル的特性とは、擬似人間革命にある。その擬似革命性ゆえに、東大安田講堂での裏切りを「哲学的純化・矮小化」と、白色テロによって乗り切ろうとした。
 革マルの「純化」はいわば「聖なる者」への純化である。けれど、黒田哲学もまた本来、「社会主義運動」である。聖化が進むほど、その補完として俗なるものの比重は大きくなる。現実に革マル組織が「成功」し、実践の世界に全般的に直面した事が、この矛盾をもはや堪え難いものにしたのに違いない。
それに人は、いつまでも「書生」ではいられない。大人になるという事は、俗世間で生きる事だ。「等身大」の自分を逃れる事が出来なくなる。それが「クソ壺にまみれよ」ではないのか。
 私たちは今、改めて黒田哲学を拾い上げ、止揚し乗り越えていくべき時ではないだろうか。
 戦後の主体性論争の歴史を今、私は語れない。田中吉六、梅本克己、武谷三男(物理学者)、梯明秀(経済哲学)、鶴見俊輔……。 黒田哲学は、それらの人々の血のにじむ悪戦苦闘の上にある。中核派は、この哲学を原典中の原典として誕生した。黒田哲学を乗り越える事は、中核派の「党存立の課題」のはずだ。
 鉄パイプと「政治」による、「黒田哲学への勝利宣言」とは、いったい何なのだろう。「マルクス主義と実存主義」の葛藤の歴史を改めて学び直したい。出来る事ならば……。
 

「形態変化」論

 革マルが、「帝国主義の形態が変わった」と言い出した。これを捉えて『前進』は、「帝国主義論の否定、転向の証拠」として、くり返し非難する。「変わったって!? 変わったって!? 変わっていないぞ」と。これには参った。変わったに決まっている。
 かつて中核派は、「1930年代危機」の研究の中で、ニューディール政策、ナチスの経済政策を分析して、世界史的な社会主義への移行期――「過渡期とその変容」論を展開した。
あれからまた20年たっている。世界は余りに大きく変わっている。現実の変化に踏み込んで、革マル的な「変化」論と対決するべきではないのか?現実よりも、革マルとの論戦が優先する、しかもレーニンの世界に閉じ籠もって反撃する、政治局の革マルへのコンプレックスは、それ程のものなのか?

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