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第6章 党改革と天皇決戦

32      清水さんの怒り

88年、2つの斎藤論文が『共産主義者』に掲載された。特別重要な論文として、全党に下される。それは、前年の杉並区議選での敗北を、表のトップ北小路さんの責任として、厳しく弾劾する清水さんの論文だった。「革命的直観」に高めるまで熟慮・熟達して指導せよ、北小路さんではダメだ、という趣旨だ。
論文にあわせて、トップに水谷さん、東京都委員会のキャップに、吉羽忠さんが着任した。杉並を抱える西部地区委員長も交代した。「党改革」は、人事・財政・作風の広範な領域で見直しを始め、展開される事になった。
 
 中央――地方の実情が、改めて明るみになったのもこの頃だ。財政難、組織活動の行き詰まり、特に地方の惨状は目を覆うような事ばかりだった。関西で、首都圏で、現場メンバーによる中堅指導部への吊し上げや「下克上」が相次いでいる。「問題指導部」を更迭し時に棚上げして、現場の怒りを吸い上げよう。党改革は激しい痛みをも伴っていた。
 

党改革の嵐

 吉羽忠さんの「党改革」は、本社でも衝撃的な改革を矢継ぎ早に進めた。各会議での「議長」の任命、指導的会議の議事録の作成と公開。「通報の義務」の確認(=上訴・直訴の権利義務)
下級指導部や全成員が、上級機関の討議を議事録ではあれ、「傍聴」出来るという事の衝撃は実に大きかった。「1枚岩の党」「正しい方針を打ち出せる指導部の資質」――長年囚われた幻想が、上から打ち砕かれていった。[1]
成員達に、戸惑いと動揺が伝わる。救対の女性は言う。「私は今まで1度として党の方針を疑った事が無い。でも、疑わなければいけないんだと初めて知った」。横浜以来の女性は、「寿共同保育との闘いを私は前面で闘った。でも、こちらの側にも問題があった事が、今、分かった」。
「部局主義の弊害」が言われたのもこの頃だろうか。所属組織以外に関心も交流も無いセクショナリズム。この「官僚主義」を克服せよ。
上級・中堅指導部は、自分の言動が批判・点検の俎上に乗せられていく事を知り、動揺し、時に反発する。このまま進めば「成員による指導部の選出」になってしまうかもしれない。「人気投票反対」、「ボリシェヴィズムを守れ」。けれども「改革」は容赦なく続く。財政危機打開のため、本社員の「活動費」の減額、「家賃」・食費の値上げ、節電・節水……生活全般が問い直される。
「『前進』への批判の自由」も復活した。「読まれる新聞を」。その中味は「91年」にまとめたい。
 
本社総会で力強く、党改革を宣言した水谷さんを、「お前がやってきた事はどうなんだ」と工場長が激しくなじり、水谷さんが平伏する。本社改革の流れも一気に進みそうに思えた。本社での「食費値上げ」に、猛然と反発して撤回させたのは、城戸だった。編集局の中ですら、城戸の生活は貧しい。編集局での改革も、始まったかに思えた。
 斜に構えながら私自身、久方ぶりに体が熱くなるのを感じた。今度は本物か?とも思った。地区や地方からの提言が次々と出てきた。実態は限られた領域にとどまってはいたが、風通しは急速に開けてきたように思えた。
しかし、「改革の目的はひとえに、集中制の回復」と論述されるに及んで、私は再び距離をあけた。期待するし応援はするが、私とは道が違う。所詮広くはあるが、「上意下達」のための改革だ。上級内での改革に終わる、それに世界観や理論的志向を復活させるものでもない。
結局、嵐のような党改革は、天皇決戦という逆流の中で消滅してしまった。どこまで深く浸透したかも分からない。その範囲も東日本だけ、西は静岡までで止まったままだ。杉並選挙に全国から動員されてきた人々が地区に戻って改革派の幡を上げたという事も一部にはあるらしい。
 

改革と編集局内論争 編集局の「自由」

 党改革や紙面改革をめぐって、様々な格闘がある中で、キャップ指導と内容への批判も、多方面で激しくなった。
そんな時、若手が口を開いた。「実は驚いている。強圧的な指導とか、批判を受け入れない上部とか言うけれど、私からすれば、編集局は批判が出来る自由な場だ。私は過去、批判したり愚痴を言ったりしたら殴られてきた。こんな自由があるとは……」。
一瞬、沈黙が支配した。そんな見方があるとは……。確かに70年代、そんな事だらけではあったけれど。さんが、横槍に怒って「何を言ってる!」と攻撃した。人権派(市民派)の2人が、彼に応えて擁護した。官僚体質の根の深さと広がりを俎上に乗せようという方向だった。
 
「改革推進派」の分岐が見えて来たのはこの頃だろうか。
イ)   「自分のテーマ」の権益拡大にのみ、強硬に発言する人。FOBの大勢もここにあった。若手の女性を封じて……。「全学連委員長」君は、党をぶん回せない水谷さんを突き上げる。
ロ)   市民的権利に学べとするもの。人権派クリスチャンとの接点から……。
ハ)   労働運動重視への転換を求めるもの。
 
 しかし編集局内での発言は事実上、ほぼ70年世代に限られた。対革マル戦と反差別のみで育った「第3世代」には、「革命党」をめぐる議論は異次元の話でしかなかった。それ以上に彼らは、自らの「発言権」が無いことをよく知っていた。地区ではもう少し若い人たちが発言していたらしい。
中野さんや小西さんの言動が、漏れ伝わって来るようになったのもこの頃だ。ゲリラや内ゲバへの違和感・批判を公然とする彼らの存在は、全く新たな領域であり、本社では想像する事も出来ない。


[1] 傍聴。実際に「傍聴」したのはわずかだったろう。自分の任務以外のことや上級機関の議論を知ろうとすることは「のぞき・スパイ」とされてきた歴史は余りに重い。

改革の意見書

 私も意見書をいくつか書いた。まず「ワッペン問題」。
本社に入る人は、入り口で所属を言い、色分けしたワッペンを受け取って胸につける。赤は「常任」。POSB(政治組織小委員会)と編集局員、そして地区のキャップを意味する。赤を付ければ3階に自由に出入りできる。ここには、表の政治局や編集局、事務局などがある。「党機密」の詰まったフロアーだ。青は「その他の本社員」。黒は「その他の地区成員」。
私の提案は、赤と青を統一しようというものだ。2階にいる「青」の本社成員は、用事があっても、3階の編集局の部屋に来る事を嫌がっていた。「許されざる機密の部屋」に、一々許可を得て入る事の困惑、それは事実上成員の「隷属的身分」を意味していた。驚いた事に、本社歴10年の女性が、いまだに「マル青労同」であり、「革共同の同盟員」でない。その改善も併せて、ワッペンの併合を。
これは通った。晴れやかな笑顔で編集局の部屋に来る救対の女性たちの笑顔を見て、「良かった」と思う。
 
 次に、社防室の改善。2交替での社防体制の為、隊員が交互に仮眠をとる。夜間の社防の明けは職場だ。だからここは、生活空間でもある。少しは良い居心地を、と気を遣う。改善意見書を書いてアンケートをとった。社防に来る人や本社員に、意見書への賛否を署名入りで書いてもらう。工場のエイサー君は「刈谷さんって、やっぱり10・8の人だね」と言う。「自分なら、上部に直訴して決定してもらう」。でも、この「生活の改善」は、賛否両論が生まれるものだ。賛成が多数になって、少し改善が実現した。
 

軍の結婚生活

 私にとって、最大の問題が出て来た。元・群馬の女性に驚くべき事実を聞かされてしまった。
その女性の夫は、非公然に移行していた。年に数度、しかも1、2日しか会えない。会うために尾行を切る、気の遠くなるような時間と緊張がある。2人してようやく会えた時、会話すべき内容が無くなっている。性生活の為、夫の愚痴を聞く為だけの面会に、彼女は絶望して、面会そのものを拒否する事になった。
 けれど県の指導は、面会拒否を許さない。彼女は党から逃亡した。それを追いかけて「除名の通告」の為だけに、指導部がやって来た。
「軍の為の性奴隷」。私の中に黒い怒りが湧いてくる。だがまた、できる事なら触れたくない。これは非公然生活の破綻を意味している。「もう止めよう、それしか無い」という想いが渦巻く。しかしその対決を、私はやり切れるか?悩んだ末に、除名撤回への意見書を出した。
 意外にもあっけなく回答が出た。「除名は撤回する」。その通知の役割は私でいい。ただしその責任者は今、獄中だ。全容が分かるまで時間が欲しい。
免訴を求めて闘う奥深山さんの収穫祭に、私は志願して参加した。群馬の女性同志たちに、事の顛末を喜々として報告する。彼女たちは口々に「ただそれだけでしょ」。私も「うん、ただそれだけ」。しょんぼりうな垂れるしかない。
 

長谷川都議の誕生

 89年、都議選での長谷川英憲さんの当選は、党改革の頂点でもあった。「内戦を闘う党派」が当選した。私はこの勝利には、実体験として深く関わっていない。その上で、とりあえず3点のみ整理しよう。
 1つは、党改革そのものの勝利だという事。杉並では戸別訪問のローラー作戦に加えて、「フォーラム運動」が活発にくり広げられた。住民運動・市民運動の成果を集約する舞台作りだ。全国からの大動員でのどぶ板選挙もあった。
 2つめは、「マドンナブーム」。土井委員長を先頭にした、社会党の大躍進の風を受け、取り込んだ事。社会党はすでに「体力」を失っている。しかし、消費税への怒り、自民党への怒りは強まっている。
 3つめは、生活者ネットから離れたH区議の支持。彼女が公然と支持したことの大きさは、93年の長谷川陣営の惨敗によって逆証された。Hさんの高位当選と対照的だ。中核派は、せっかくの共闘を生かし続ける事なく、終わってしまった。あるいは、Hさんを推し立てても、共闘の陣形を育てる道を探ったのか否か。H陣営の、「2番目の候補」としての地位に甘んずることは、考慮に無かったのか。私には分からない。
Hさんらの背後に革マルが蠢いているらしいという報告もあった。けれど確たるものが無い。革マルの影に怯えているだけではないか?中核vs革マルを中心とした天動説と、一旦手にしたものにしがみつく「革命的独裁」が、表裏一体・悪循環をなしているように感じる。
 

杉並選挙の意見書

 都議選を前にして、杉並選挙でも、「改革の風」が吹いて来た。「どんどん意見を言ってくれ」。私は1日単位の動員の他は、杉並に行っていない。たったの数日で、感じる事は多かった。意見書を出してみよう。久しぶりに熱くなる。
テーマは2つあった。1つは「学校給食を守ろう」という、87年区議選での結柴演説。もう1つは「闘争と運動」について。
「結柴演説はいただけない」。駅頭で宣伝カーの上に立って、結柴候補は訴えていた。「お母さん達の声」に応えて、学校給食を守ろう、民営化反対。それは給食を作る人たちの、職場の問題でもある。彼は「お弁当屋さんは、食中毒の危険が多い」という事をしきりと強調した。私は周囲を見渡した。宣伝カーの前は弁当屋だった。「あーあ」と思う。これは「営業妨害」ではないか。世知に長けた他陣営は、この1点を衝いて「付け焼刃の結柴」をコケにするだろう。周囲を囲う党の代表や選対幹部たち、彼らは何も気づいていない。「何だ、こいつら」。でも、まあいい。これは止めておこう。
 
「闘争と運動」の方に絞ろう。結論は、杉並のビラから「闘争・闘い」の文字を大幅に削って、「運動」に置き換える事だ。杉並選のポスターは、「この街が好きだから」。両候補がにこやかに笑っている。
しらじらしい、見るからに胡散臭さを感じたのは、私だけだろうか。でもこれは、「住民の声」を受けて、という事か。だとすれば、「胡散臭さ」を掘り起こして、少しは真実味のあるものにしてみよう、と考えてみた。
「闘争」・「反対」ばかりが目についていた。これでは2人がいくら腰を低くしても、「やっぱり火つけ強盗か」と思われても仕方ない。「闘争」と「運動」の用法を挙げて、思いをめぐらせる。「闘争」は敵と格闘するイメージで、「運動」は長期に亘る「創造」だ。肩をいからせた「闘争」を止め、心を静めて「運動」を考える、そこから「杉並」が見えてくるかもしれない。
杉並が今「好きな」旧住民、長く住もうと決めて「杉並」にこだわろうとする新住民、この人たちを核として、杉並の街と生活を創って行く。そういう「運動」に歩み出したい。中核派の勢力誇示のためだけでは哀しすぎる。手始めに言葉から入ったらどうか。今は空念仏かもしれないが、そんな趣旨だった。
しばらくして言葉が変わっていた。「フォーラム運動」が根付いてきた。けれども、その経緯は記憶にない。共同購入運動の位置付けも不明だ。
 
 1級建築士だった知人から、住民運動の話を聞いていた。運動の提起に呼応する役人との提携、その有効性を豊かに語っていた。現代日本の極端なほどの官僚制度との関わりは、「弾劾」だけが能ではない。「マックス・ウェーバーを学べ」だ。
 私は思い続ける。ソビエト権力の基礎となる地区ソビエト。そしてそのまた基礎となる「革命的」町内会。「1点突破」は終わりにしたい。民衆自身が自ら統括能力を学ぶ場を作る事、それが「杉並の闘い」だ。
 村が壊れ、町が壊れている。人口の首都圏集中・一極化の中で、私たちは1人1人孤立している。町内会も、県人会も、「今は昔」だ。戦後政治を支えた農協も、その「包括的性格」の矛盾にあえいでいる。「ワン・イシュー」の市民的運動と、「何でもやります」という百貨店型の伝統的・包括的運動との、矛盾を解きほぐす運動には、私はまだ触れられない。「サブカルチャーの時代」・「管理社会」……社会を支える価値観の変動にどう向い合うか、私たちの世代自身の問題でもあると思う。

 

 33     天皇決戦「勝利の地平

 89年、昭和天皇が死んだ。戦争責任を「言葉の綾」と言いなして、恥多き死を遂げた。「下血」が続き、「崩御」がひたすらに引き延ばされていた。テレビは数日間「喪」に服し、多くの人がビデオショップに走った。90年は、1月から11月の即位の礼、大嘗祭に向かって動いて行く。全国で機動隊が街を制圧し、天皇制と日の丸が社会を覆い尽くす。もし、「何事もなく」終われば、それは人民の天皇制への、新たな隷属の始まりとなると思われた。
 
 中核派は、「全党・全軍」の力を結集して決戦に挑んだ。「1人残らず武器を持ち」、破防法適用をかけた、流血の決戦に勝利せよ。日和見主義者は去れ。この闘いは、党の生まれ変わりをかけた「党員としての再登録の闘い」でもある。
 即位の礼の当日、全国各地で革命軍は決起した。首都圏の交通はストップし、数千万の人々が歓呼の声を上げた。同時に革命軍は、全国の権力機構・自衛隊に革命的戦闘を決行し、燃え盛る火炎に狼狽する帝国主義者達は、近付く自らの死の予感に打ち震えた‥。
 91年、この勝利の地平の上に「レーニン的オーソドキシー(古典性・原則性)」へ回帰する。中核派は、「新たな長征」へ出発すると、高らかに宣言した。‥はずだった。
この天皇決戦への経緯を振り返ろう。
 

卑怯者は去れ

 90年に入るや否や、編集局会議でも決戦方針が確認された。「党機関のどんな要職の者であれ、あるいは労働組合のどんな地位であれ、例外はない。1人残らず武器をとれ。大衆集会は一切開かない。これは、党内に巣くう大衆運動主義者との、革命の成否をかけた決戦でもある。辞めたい人間は今すぐ党を去れ」。水谷局長の言葉に、会議は緊張にあふれた。
 真っ先にサブキャップが手を挙げ、発言を求めた。「党中央の、革命的大方針を断々乎として支持する。私は革命軍に、1兵士として志願する」。続いて何人かが発言した。「革命的方針を百%、いや2百%支持する」。みなLCメンバーだ。革命的熱気の中で、革命的戦闘的一致が圧倒的に勝ち取られた。
 
 数日後、街の喫茶店で古参LCとコーヒーを飲んでいた。私は「何とかなんねえのかね」と問いかける。「ん?」。「暴走する列車みたいだ、出来る事なら機関車に飛び乗って停めてみたい」。LC[1]が返した。「中核派だよ、今さら誰かが言ったって停まんねえさ」。2人して力なく笑い合った。
 
 公然部門の指導部が本社から消えて行った。ある人は地下へ、ある人は半地下へ。編集局でも、サブキャップが留守番として直接指揮をとった。半地下のキャップの指導を受けつつ、日常の全責任をとる。破防法が適用されれば、真っ先に編集局がやられる。彼はその「全責任」を負う決意だ。
 

方針転換

 8月頃だったろうか。突然、「労働者の大衆的な総決起集会の大方針」が打ち出された。ただちに会議が開かれ、LCを先頭に革命的熱気の下、大方針を支持する革命的決議が勝ち取られた。
即位の礼の当日、渋谷・宮下公園で、全国労働者集会を開く。「革命軍兵士も戦闘の後、1人残らず全員参加せよ」。「この方針は、帝都を焼き尽くす大決戦を少しでも緩めるものではない」事も確認された。
 後日、大嘗祭当日の市民・反軍集会が追加された。こうして、即位の礼と大喪の日、当日とその前後、革命軍と全党の武装する総決起で、戒厳令下は打ち破られた。
 神奈川・湘南教組では、組合員100%動員による抗議集会が実現した。革マルは、この集会に「即位の礼粉砕は、中核派の方針だ」と集中攻撃をかけていた。けれどもこの闘いの成功は、地区指導部の「ミス」の結果だと聞いた。活動家たちは宮下公園の中央動員に応じなかったとして批判されたという。
 
 「決戦後決戦」論の革マルが、中核派の大量逮捕を待ち構えていた。もし中核派が、当初方針を貫徹していたら、身の毛もよだつ<内戦>の再来となったかもしれない。
 

戦場からのレポート

 「**、ちょっと」と呼ばれて別室へ入る。「△△の所へ行ってくれ」、それだけしか言わない。△△と別室で向い合う。「今日からしばらく任務を変更する。キャップにも、何も言うな」。
 ゲリラに逮捕は付き物だ。そして「自白」も。自白による芋づる的逮捕への備えとして、△△が身を張る。裏と連携して、作戦を企画・遂行するのも、彼の役割だ。重罪事件の共謀共同正犯として、△△が逮捕されるのは時間の問題だ。何人もの人間が、△△の役割を担った。
 「党」にとって、軍に徴兵出来る人間は、数少なくなっている。常任・専従、そして学生の中から、パートタイムで動員するしかない。その中でも、△△の役割を担える人材は、より数少なくなっている。「軍」の他の裏組織も、総力決起に入ったらしい。
 
古い空きビルの屋上で男が2人、しきりに様子を窺っている。あるいは双眼鏡を片手に、前方を注視している。時々、手元のノートに何かを書き込んでいる。どうやら車の動き、特にパトカーの周回を調べているようだ。深夜の冷え込みのために防寒服を着込んだ姿は異様だ。
 突然、ビルの入口が騒がしくなる。「何か人の声がする」。「空きビルなのにおかしい」。数人の男たちの姿が、屋上に現れた。彼らが見たものは作業服の大きな塊が、片隅に丸めてあるものだけだった。
 
 官舎の近くで挙動不審の男が職務質問を受けていた。男がぶら下げているポリタンクを開けると、ただの水道水が入っているだけだった。
 
 JRの各駅で火炎瓶や発煙筒が、覆面姿の男女の集団によって投げ込まれた。集団は揃って目出し帽をかぶっていた。撤収して後も、駅を出てから数分、彼らは異様な風体のまま走り、あるいは歩き続けていた。目撃者によるモンタージュの作成は空振りに終わった。
 
 一連の戦闘は、1人の逮捕者も出す事なく終わった。挙動不審による逮捕事件もあったけれど。


[1] LC。各組織・機関の指導部会議とその成員。

34      「決戦」の示したもの

 しかしまた、85年のような大衆的・集団的武装闘争は、ついに実現しなかった。決戦方針は8月まで、明らかに集団的街頭武装闘争を呼びかけていた。混乱の中で、転換は充分に下されることなく、当日を迎えてしまった。即位の礼の当日、宮下公園に結集した成員の多くは、その途上で火炎瓶を受け取る事を決意していた、という。
 天皇決戦は、確かに幾多の迫撃砲戦闘をも展開したが、「決戦」としては挫折した。中央方針が崩れたのだ。
 

転換と腰砕け

 決戦の後、私は各方面から、その経緯や実態を聞く機会を得た。大衆集会への転換の理由は、3つの契機に整理されよう。
 1つは、党を支える労働者メンバーが異を唱えた事だ。この時、中心を占める70年世代は、40歳を超え、自宅に住み、家族と共に生きていた。『前進』は、労働者党員も含めて、「党」が「非公然」の下にあるかのように書き続けていたが、実態はとうの昔に変わっていた。
 「革命的中央方針を支持する各級レベルの決議」は、地区の末端で拒絶された。多くのメンバーが、あきれ果てた。「革命的徴兵」に、率先して志願した労働者が果たしてどれだけいたか?
 食品化学など、労組の産業別全国組織の中央役員達は、「労働運動の全否定」と受け止めて、離脱した。
 もう1つは、この方針がそもそも、革命軍の機能停止ゆえに打ち出された事だ。「破れかぶれの闘い」と言うべきか。「非公然体制の崩壊」の中で、「革命軍」の一部は公然拠点から出撃した。方向転換のための決戦、中央自身の腰が入っていなかった。
 3つめは、中野・小西両氏の決起だ。両氏が連携して、動揺する清水さんをひざ詰め談判して、説き明かしたのだ。
「勝利の地平からの大長征」のレールは、この時、敷かれた。公然指導部が吉羽さんから天田さんに代わったのも、両氏の強い推薦によるという。中野さんが急速に台頭し、小西さんが急速に離れて行ったのも、この前後の事情による、と聞いた。しかし中野体制の確立は、まだまだ先の事だ。
 「渡りに船」。2氏に飛び移って、中核派は2度と帰らぬ、と誓った「ルビコンの川」を再び渡って、故国に帰り着いた。「1人の落伍者も出さずに転換を」。なるほど、清水さん得意の「義経の八艘飛び」という事か。
 

神社の放火への反響

 革命軍は全国で決起した。「天皇制と天皇制に連なる一切」への総攻撃だ。伊勢神宮をはじめ、攻撃は有名神社や、村々の社にも及んだ。敵の「防衛ライン」はズタズタに切り裂かれた。
 
 新聞記事を読みながら、「参ったな」と思う。「浮くよなあ」。村の荒神様やお社などは、祭りの広場でもある。「公民館」の機能も持っている事くらいは知っている。これを放火して回ったというのだ。私は神社・仏閣が好きだ。その建築、そして由緒、それを調べるのが楽しい。
 本社が江戸川に移ってからの事だ。ある日、そのタバコ場で、東北地方委員会のキャップ連が激しく怒りを共有し合っていた。「昔からの支持者達に、もう中核は支持しないと言われた」。「俺もそうだ、絶縁だと言われた。どうしてくれるんだ」。
 ゲリラへの批判を公然と口にしてやり合う姿を、私は初めて見た。神官の息子に聞きに行った。「ただ火をつけて回ればいいってもんじゃねえよね」。どうしようもない暴挙――生活と文化破壊である事を確信出来た。
 ところで、国鉄ゲリラは、総武線をも襲ったろうか?即位の礼の当日に、京浜東北線と山手線は、2時間止まった。それは、分割・民営化と闘う国鉄労働者を視野に入れていたろうか?
 

本多ボナパルティズム論の清算

 決戦の初期に出された天皇制論文は、大いに不評を買っていた。社防室やあちこちで、不満がぶち撒けられていた。
「ボナパルティズムとは、ブルジョアジーとプロレタリアートという2大階級の『調停者』として、立ち現れる」。この「調停者」という言葉に、多くの成員が憤慨していた。その後の論文は、「専制的支配」・「反動支配」に変えられた。「調停者」が消えて行く。水谷さんが「受けが悪くて……」と報告した。
逆に、何人かが批判した。「調停者論こそ、本多さんの天皇制ボナパルティズム論の、核心ではないか。必要なら、ボナパ論とは何か、という事を論じればいい」。けれどもその後、ボナパという言葉も消え、「ファッショ的」が前面化していく。
ボナパる。暴力を支えにボナパる。武力をテコに、「中立派面」して介入する。何でそんな事が分からないか。「決戦」は、理論的転向と一体だった。
 

ボナパルティズム論

 まずは私の問題意識から。私は母によく聞かされた。「戦前は、民主主義じゃなかったからね。暗い世だったから」。けれども「婦人挺身隊」の話はちょっと違う。
 20代、まだ独身だった母は自ら志願して工場で働いた。親代わりの兄に連れ戻されても、また志願した。理由は、「家から出たかったから」だった。「戦後女が強くなった」背景として、この婦人挺身隊や、国防婦人会などの経験が語られている。吉本隆明は、これを「国家総動員態勢の持つ擬似的解放性」と呼んだ。「暗い世」だけではない。
 もう1つ、地主制の問題。「戦後の農地解放による、小作の解放と地主制の消滅」と人は言う。しかし歴史学者達は、「地主制は、遅くとも、総動員態勢下、戦時中には消滅は始まっている」という。農家の跡取りも含めて、戦争によって働き手を奪われていった。結果として地主と小作の関係は、小作による「売り手市場」になった、という事だ。支配階級内での、「権力」・「力関係」の移動、「相互の関係と社会の変化」。これをどう見るか。
 
 「天皇制ボナパルティズム」論は、中核派の独得な、しかも綱領的レベルの議論だ。それはやはり、中核派独特の「ファシズム論」と1対を成している。
 まずはファシズム論から入ろう。1920年代、イタリア・ムッソリーニのファシズムに続いてドイツのナチスが台頭した。これを総称して私たちは「ファシズム」と呼ぶ。スペインのフランコのファシズムもこれに準ずる。
多くの人は言う。暗黒支配・弾圧・ユダヤ人虐殺に見られる偏狭な凶暴性・戦争。それはおこう。大事な事は、活力ある民間反革命、その民間反革命と資本家階級の野合に視点を当てる事だ。「内戦論」である。
 世界史上、世界に冠たるドイツ・ワイマール共和国は同時に、左右の活力に溢れた民間勢力の大規模な流血――内乱に彩られている。数十万、数百万の人々が日常的な流血に加わった。全ての人々がそれを肌で感じていた。
 危機に追い込まれた「鉄鋼王」ら財閥・大独占は、政権を「汚らしいルンペン達」に預け、「左」のせん滅・一掃の役割を託した。これがナチス政権の誕生だ。親衛隊とユンカー国軍の相克は、この野合・矛盾を反映している。
ファシズムとは、とりあえず、「下からの擬似革命性を持った小ブルジョア急進主義が基礎」となる反革命運動としよう。
 石原をファッショ的と呼ぶのはいい。しかし「ファシスト」と言えば、ヒトラーが怒るだろう。「坊やと一緒にするな」。
 それに対してボナパルティズムとは「上からの権威主義的超越者」として、階級対立を押さえ込み、強権的に国民統合する。ナポレオン1世そして1830年代ルイ・ボナパルトに発し、1950年台のフランスのド・ゴール将軍の政権掌握を見本とする。一般には軍部の存在を想起しよう。
天皇制ボナパルティズム論とは、明治維新以来の「富国強兵」「近代化」と向かい合って、戦前・戦時体制を解こうとするものだ。地主・資本家・旧領主(華族)・小作・労働者、そしてそこにそびえ立つ天皇制官僚・軍隊。その関係をどう解くのか。
 天皇制国家の「上からの近代化」のスピード感、を見据える事だ。ここには労働者や小作人の要求・渇望を「吸い上げる」機能も含まれる。
 普通選挙法の成立は1925年。有権者は、満25歳以上の男子のみ、しかも治安維持法とセットではある。「進歩」と反動が同時進行している。労働者階級は、その活力、その「労働者としての自覚」という点で、あまりに未熟だ。圧倒的多数はまだ、体制内、あるいはブルジョア「民本主義」の影響下にある。都市では、人々は郷党主義や町会を通して社会とつながりを付け、戦勝と発展を通して「国民的融合」が進んだといえる。
単に、騙し騙されただけではない。「2大階級の調停者」(トロツキー)という論には、こういう視点が含まれている。軍国主義の時代、「天皇制ボナパルティズムの軍事ボナパルティズム的変動」。これは言葉だけにしておこう。戦後についても措こう。
 
『蟹工船』の最後の場面を思い出そう。軍隊の介入を、労働者は歓喜の声で迎えた。そして踏みにじられた。
労働者階級が労働者階級として、自ら成長するためには、何百回、何千回、この過ちを自らの身体で経験していく以外にない。中核派は果して、そういう闘いを想定しているのか。そのために、労働者と共に生き、且つ死ぬ用意があるのか。ボナパルティズム論とは、そういう問題なのだ。
 

象徴天皇制

 しかし最悪な問題は、また別にある。それは、この即位式攻防が、にも拘らず、戦後民主主義と「象徴天皇制」を土俵とした攻防だという事を無視する論陣を張った事だ。
編集局会議で私は、「天皇制と闘う我々の社会像」の必要性について発言した。「人民自身による共同性の回復」が、『前進』紙上に数行載った。けれど、ついに深められなかった。靖国と闘う人々の視座、それは「人権論争」で再浮上する。
全滅覚悟の大方針が先行して、その「決意」がゴリゴリと問われる時、悠長に問題を深める議論など、果して出来たろうか。そう言うのは、編集局の責任を居直るだけの事だろうか?アナクロでマゾヒスティックな天皇制論への転落も、仕方ないのではないだろうか?
 
明治以来の天皇が「着物を着ない」こと、洋服か古代衣裳しか着ないこと、「日本民族」本来の「伝統」を拒絶するこの姿に何が表されているか? 中世・近世史の中での天皇像(お公家さん)とは何か? ここに日本近代化の秘密が隠されている。

35      革命軍戦略の敗北

1人、また1人、ガサで逮捕者が無ければまた1人。地下からの浮上が始まっていた。この時代、非公然メンバーと見られれば、逮捕されていた。非公然のドライバー達は、免許証の更新時、江東運転免許センターなどで、「転び公妨」によって逮捕され続けた。警察官が自分で転び、「突き飛ばされた」とデッチあげる。釈放されて、再び地下に帰って行く。そんな中で浮上が進む。
前進社内の広間には、帰って来たメンバーが集い、私たちもそこに集まっていた。懐かしい顔を見つけて、近況などを話し合った。前進社内とはいえ、私たちは互いの秘密に近寄らないようにしていた。大勢の輪の中で、どうしてもギクシャクした会話になった。
それでも地下生活の実態は、おぼろげながらに浮かび上がって来た。惨たんたる逃避行であった。厳冬のキャンプ地で、管理人の目を盗んでバンガローに潜り込む。隠れ家を失った末の姿は哀れだった。辛苦を乗り越えて来た人々の英雄性には心打たれながらも、「革命軍戦略の完全なる敗北」は、覆いようが無かった。
 
そうであるとすれば、天皇決戦での「全党員がゲリラ戦士に」という初期の大方針は、敗北を糊塗するものに過ぎない。そして91年以来の、「革命軍戦略の勝利の地平の下に」とする路線転換とは、デマの塗り重ねに過ぎない。
あの91年・新年号論文のヌエ性、胡散臭さの正体は「敗北の隠蔽」であったのだ。“権力や他の全てが知るが、党員だけが知らない党機密”。私自身、あまりに迂闊だった。想像力の欠落・鈍化、こんな私に何が出来るのだろう。
 
 埼玉の先生は、教え子や父母達の、膨大な名簿を出していた。その人たちにガサが入る。彼はもう立てまい。「子どもの心と体」という、優れた教育実践をして来た人だ。教組の旗を振り、大結集・共闘の上に立つべき人。こんな人を弾よけにし、コマとして使い捨てる。誰だ、その責任者は!
 

「建党・建軍」論

 80年代、非公然部分の組織建設を教訓化する大塩論文の「建党・建軍」論は、公然・非公然の双方にとって、「あるべき組織」についての指標とされた。
 最初私は、「日常性全般を対象化」する大塩論文に、いたく心を動かされた。方針や認識の「垂れ流し」を排し実情に踏まえよ、とする主張は、私が中核派に結集して以来、抱えて来た問題意識と合致するものだった。「ようやくここまで来た」……そう思った。
 しかし本社の「日常」を考え、地区の「実情」を踏まえて、論文とつき合わせる時、「何か違う」という思いが強くなった。毎年、新年号に出るこの論文を、私は斜めに読み過ごす事が多くなった。いつもの『前進』と同じに、私は他人の「5倍」の速さで読み捨てた。
 
問題は、「自立した共産主義者の結集体」としての「党建設」論を、その根底で否定しきるものではないか、という事にあった。「各級指導部」による被指導部の「全1的掌握」が全てであり、その逆、あるいは横の斜めの「交通」は、全く否定されきっている。「指導部」が、自身を高めるために努力するのは当然だけれど、「被指導部」として指導部を育てる(指導部を指導する)、という視線はかけらも無い。これでは、人民・シンパに学ぶなどという事も絵空事になる。生活への視線の欠落した「指導部」の下で、「全1的指導」がどんな悲劇を生むか。「左翼の名をかぶせた究極の家父長主義的組織論」。そういう思いが強まっていた。
本社生活では、「指導と被指導」の間に、大きな「すき間」があるからこそ、わずかに息がつける。被指導部が、「指導部」を逆指導する余地が残るからこそ、もっている。
本多さんや清水さん達の時代と違い、中核派は今や、自然発生的な「年功序列」が崩れつつある。論功行賞や抜擢人事で、「全1的指導」を持ち込んだ時の軋み、破壊性――編集局で、事務局で、私は痛烈に体験してきた。
 
 浮上組の中に、1つのグループがあった。彼らの行動は常に一緒だった。まさしく「共同体」そのものだ。コーヒー1杯を飲むのにも、指導部があれこれ言い、メンバーは抗う事なく従順だった。結束の強さは余人の関与を許さないほどだ。
 違和感がムクムクと湧いて来る。「これではヤクザ以下ではないか」。これが、「転向者を1人として出す事の無かったグループ」の姿だったのか。大塩論文の描いた組織建設の見本が、これだったのか。
 
私は思う。そもそも、「地下に学ぶ」こと自体が逆転している。公然組織の中でこそ、「あるべき関係」を目指すべきなのだ。それを非公然に返していくべきだ。公然組織もまた、日々社会から学ぶ。もちろん「切迫した環境の下での凝縮された問題意識の醸成」こそ生命線ではある。
こんな論文を載せようとすること自体、とんでもない思想なのだ。
 
浮上して来た1人とロケット弾戦闘について話していた。私が「土木作業員の死」(4章)について話した時、「そんな事は聞いていない。悪質な手配師と聞いている」と返ってきた。私は絶句してつぶやく。「やっぱり。軍も地区も、そう伝えられていたんだ」。「革命的武装闘争」を統括する1つ1つの課題が、これほど歪められた年月。
数々のロケット弾が、大人数のすぐ脇に落ちたことも話した。「細心の注意を払ってはいた」と言う言葉で、わずかに救われた思いもあった。
 

先制的過ぎた

 1991年、江戸川への本社移転が秘密裏に進められた。池袋から十数分、準副都心の地を売り払い、下町のはずれに移った。新聞記事にもなり、数倍の広さと巨額の資金を得たと評された。
 全国から「仕事のできそうな人間」が動員され、長期間泊まり込みで工事を進めた。巨大な空き倉庫をそのままに、大改築を自力でやり遂げようという壮大なプランだった。
 1日の作業が終わると、雑談や情報交換に花が咲く。各地の実情は、お互いに知らない事ばかりだった。こんな時、「編集局の1員」として、私は別格の扱いと歓迎を受ける。「中央の公式情報」それ自体、地区には届いていない。長い情報統制の体質は、幾重もの段階で「統制」のフィルターを通して変形していく。「伝言ゲーム」そのものだ。何が「公式的」なのかも分からなくなっている。
 この日は最大の関心事、「路線転換と革命軍戦略の関係」になった。「ありていに言えば、革命軍を解散する事、武装闘争をやめる事」と私は話した。長大な路線論文はいつも、「何がポイントか」を分からないように書かれている。4ページにもわたる論文のたった1行だけに、「今回のポイント」が隠されている。私は「前進の読み方」を説明しなければならなかった。
 学生の1人が戸惑ったように言う。「僕はテロとゲリラで、中核派に結集したんです。どうしたらいいんですか」。「うーん、例えば『スウィング戦略』というのもある。ゲリラを止めた事で、権力が三里塚の土地収用に走ったら、激しいゲリラを再開するという趣旨だ」。納得できない、という顔だ。それはそうだ。
「結果として、先制的内戦戦略というのは、“先制的”過ぎたという事だと思う。頼りにすべき『人民の海』が、まだ小さな沼に過ぎないうちに始めた事、沼地を干からびさせてしまった事。だから、百歩も2百歩も退いて人民の海に戻ろう、そこから始めようって言う事だね」。みんな押し黙ってしまった。
私は、フランス・パルチザンやフィリピン新人民軍のエピソードを続けた。その民衆性、倫理性についても言及した。答は、やはり無かった。「そんな話初めてだ」。
私は彼らに、「典型的な裏切り者」と思われたのかもしれない。それもやむを得ない。公式見解を有り体な形で言えば、「転向」そのものなのだから。「情勢は来るものではなく作るもの」――その原点を否定した時、「革命軍戦略」の全否定となるからだ。
 

戦争の経営

 要町の旧・前進社。巨大な空間だけが残っている。昼は解体工事を見やり、夜となると寂しいほど静かだ。部屋の1角だけに灯をともし、ひと時の安らぎがある。数年ぶりの1人ぼっち。ようやく1人、誰に気兼ねせず考える時間を得た。「先制的内戦」とは何だったのだろう。あれこれと思いをめぐらせる。戦争陣形は?兵站は?とりあえず戦争の経営について考えてみよう。
 中核派の組織員は、とりあえず2千。表と裏の常任・専従の数は?本社、三里塚……。とりあえず4百~5百。4~人に1人が専従か。頭が重すぎる。専従の活動費・生活費・部品代・地代・医療・狭義の軍費――1人当たり、月30万円弱。やはり重すぎる。即刻行き詰まるのは見えているはずだ。そうだ、「前進社第2ビル」の、億を軽く超える借金はどうなった?引っ越しで手に入った金は、どこに?党勢の広がりは?……こんな力量で、革命軍戦略を本気で考えていた事を、どう説明できるのだろう。「蜂起は組織の規模に規定される」だっけ?今更こんなことを言われても、余りにもしらじらしい。
 
答えは、あの「国家論」や、「ボナパルティズム論」の解体にありそうだ。現代日本を戦前と同一視し、その戦前も暗黒1色と捉える。治安警察・警察国家観か。機動隊に軍事的に勝てば、その旗の下に巨万の人民が立ち上がる。それだけ?「ロシア革命を機とした予防反革命」とは、それだけなのか?いや、革マルという現代のファシスト打倒・1掃がある。民間反革命は、革マルと共産党だけ?
 
革命軍を守る闘いはあっても、その人をまた守る闘いが無い。「レーニン的オーソドキシー」も、「革命党の堅実で全面的な発展」(1974年本多論文)も、革命軍戦略の消滅の後に打ち出された言葉だ。ゴミ箱から拾い直した、と言うのが正しい。しかもまた、内容こそ違え、同じ形の「路線主義」。
革命軍戦略の全体構想と、その結果を見つめ直さなければ、もう動けない。私のリアリズムからして、「まさかそこまでは」が裏切られる連続だった。まさか、まさか。私は、自分のリアリズムで、同志や友人と話そうと努めて来た。けれど、「党」との差は埋まらない。私自身が壊れて行く。
 
私は、最悪のデマゴーグになってしまう。いや、すでにそうかもしれない。多分……。とすれば、私は結構「有能なデマゴーグ」なのかもしれない。

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