第6章 党改革と天皇決戦
32 清水さんの怒り
88年、2つの斎藤論文が『共産主義者』に掲載された。特別重要な論文として、全党に下される。それは、前年の杉並区議選での敗北を、表のトップ北小路さんの責任として、厳しく弾劾する清水さんの論文だった。「革命的直観」に高めるまで熟慮・熟達して指導せよ、北小路さんではダメだ、という趣旨だ。
論文にあわせて、トップに水谷さん、東京都委員会のキャップに、吉羽忠さんが着任した。杉並を抱える西部地区委員長も交代した。「党改革」は、人事・財政・作風の広範な領域で見直しを始め、展開される事になった。
中央――地方の実情が、改めて明るみになったのもこの頃だ。財政難、組織活動の行き詰まり、特に地方の惨状は目を覆うような事ばかりだった。関西で、首都圏で、現場メンバーによる中堅指導部への吊し上げや「下克上」が相次いでいる。「問題指導部」を更迭し時に棚上げして、現場の怒りを吸い上げよう。党改革は激しい痛みをも伴っていた。
党改革の嵐
吉羽忠さんの「党改革」は、本社でも衝撃的な改革を矢継ぎ早に進めた。各会議での「議長」の任命、指導的会議の議事録の作成と公開。「通報の義務」の確認(=上訴・直訴の権利義務)。
下級指導部や全成員が、上級機関の討議を議事録ではあれ、「傍聴」出来るという事の衝撃は実に大きかった。「1枚岩の党」「正しい方針を打ち出せる指導部の資質」――長年囚われた幻想が、上から打ち砕かれていった。[1]
成員達に、戸惑いと動揺が伝わる。救対の女性は言う。「私は今まで1度として党の方針を疑った事が無い。でも、疑わなければいけないんだと初めて知った」。横浜以来の女性は、「寿共同保育との闘いを私は前面で闘った。でも、こちらの側にも問題があった事が、今、分かった」。
「部局主義の弊害」が言われたのもこの頃だろうか。所属組織以外に関心も交流も無いセクショナリズム。この「官僚主義」を克服せよ。
上級・中堅指導部は、自分の言動が批判・点検の俎上に乗せられていく事を知り、動揺し、時に反発する。このまま進めば「成員による指導部の選出」になってしまうかもしれない。「人気投票反対」、「ボリシェヴィズムを守れ」。けれども「改革」は容赦なく続く。財政危機打開のため、本社員の「活動費」の減額、「家賃」・食費の値上げ、節電・節水……生活全般が問い直される。
「『前進』への批判の自由」も復活した。「読まれる新聞を」。その中味は「91年」にまとめたい。
本社総会で力強く、党改革を宣言した水谷さんを、「お前がやってきた事はどうなんだ」と工場長が激しくなじり、水谷さんが平伏する。本社改革の流れも一気に進みそうに思えた。本社での「食費値上げ」に、猛然と反発して撤回させたのは、城戸だった。編集局の中ですら、城戸の生活は貧しい。編集局での改革も、始まったかに思えた。
斜に構えながら私自身、久方ぶりに体が熱くなるのを感じた。今度は本物か?とも思った。地区や地方からの提言が次々と出てきた。実態は限られた領域にとどまってはいたが、風通しは急速に開けてきたように思えた。
しかし、「改革の目的はひとえに、集中制の回復」と論述されるに及んで、私は再び距離をあけた。期待するし応援はするが、私とは道が違う。所詮広くはあるが、「上意下達」のための改革だ。上級内での改革に終わる、それに世界観や理論的志向を復活させるものでもない。
結局、嵐のような党改革は、天皇決戦という逆流の中で消滅してしまった。どこまで深く浸透したかも分からない。その範囲も東日本だけ、西は静岡までで止まったままだ。杉並選挙に全国から動員されてきた人々が地区に戻って改革派の幡を上げたという事も一部にはあるらしい。
改革と編集局内論争 編集局の「自由」
党改革や紙面改革をめぐって、様々な格闘がある中で、キャップ指導と内容への批判も、多方面で激しくなった。
そんな時、若手が口を開いた。「実は驚いている。強圧的な指導とか、批判を受け入れない上部とか言うけれど、私からすれば、編集局は批判が出来る自由な場だ。私は過去、批判したり愚痴を言ったりしたら殴られてきた。こんな自由があるとは……」。
一瞬、沈黙が支配した。そんな見方があるとは……。確かに70年代、そんな事だらけではあったけれど。Fさんが、横槍に怒って「何を言ってる!」と攻撃した。人権派(市民派)の2人が、彼に応えて擁護した。官僚体質の根の深さと広がりを俎上に乗せようという方向だった。
「改革推進派」の分岐が見えて来たのはこの頃だろうか。
イ) 「自分のテーマ」の権益拡大にのみ、強硬に発言する人。FOBの大勢もここにあった。若手の女性を封じて……。「全学連委員長」君は、党をぶん回せない水谷さんを突き上げる。
ロ) 市民的権利に学べとするもの。人権派クリスチャンとの接点から……。
ハ) 労働運動重視への転換を求めるもの。
しかし編集局内での発言は事実上、ほぼ70年世代に限られた。対革マル戦と反差別のみで育った「第3世代」には、「革命党」をめぐる議論は異次元の話でしかなかった。それ以上に彼らは、自らの「発言権」が無いことをよく知っていた。地区ではもう少し若い人たちが発言していたらしい。
中野さんや小西さんの言動が、漏れ伝わって来るようになったのもこの頃だ。ゲリラや内ゲバへの違和感・批判を公然とする彼らの存在は、全く新たな領域であり、本社では想像する事も出来ない。