カテゴリ:☆☆私本『狂おしく悩ましく』の本体 > 第8章 路線転換と理論の崩壊

40      焼きまんじゅう

 
本社に帰って1週間か、「休養」の時間をもらった。でも、気力が回復しない。活動を再開して間もなく、「刈谷さん、恋をしてる?」と尋ねられた。「ため息が熱いよ」。答えられる事はない。
 任務の無い日に外に出ると、私は相手かまわず電話をかけまくった。「今何してる?うん、それで?」。旧友・知人の消息と今の生活を知りたかった。そして彼ら彼女らの目から、今がどんな世の中なのかを確かめたかった。しばらく本や活字はいい。
 時には、前橋や遠くまで足を運んだ。日帰りや1泊では、上州弁は戻って来なかった。帰りには焼きまんじゅうをたらふく買い込んで、本社の大食堂で焼いた。「どうだ、上毛名物はうまいだろう」。夕食のテーブルに並んだ同志たちに、配って回った。とりあえず、それが「荒本の総括」だ。
 荒本から戻った女性は、「関西弁で喋るわ」と宣言した。2人して、関西弁丸出しで激しくやり合う場面に、皆、目を丸くしている。
 荒本から帰って私は、議論が出来なくなってしまった。この思い、あの想い、これを伝えられない。何をどう言ったらいいのか、分からなくなっていた。
 私が本社以外の人と話せるのは、ほとんど社防室だ。私にとって「社防」は、かけがえのない場所だ。D隊(ドライバーー)も、「社防室で一服」の1員だった。確か千葉県出身で、一途な人だった。ある日、「刈谷さんって、質問するといつも間が開くんだよね」。まどろっこしそうだ。そう、私は何をどう答えればいいのかが分からない。ひと呼吸入れて、「今」の自分を押しのける。もうひと呼吸して、答えを待つ。私の中で思念の波がひと巡りする。まどろっこしいけれど、それしかないのだよ。
 

 私は、答えが湧いて来ない時には、質問に反問する事にした。「何故、そんな事を聞くの?」「どうして?」「どれが?」。思いもしなかった「疑問」の姿が見えてくる。質問の言葉と疑問は、往々にして違っていた。質問の本体やその原因が見えて来て、私はようやく動き出せる。「それであなたはどう思う?」、それで大半の答えは出た。私が何か言う事はない。私自身にも、闘う相手が何なのか一つずつ見えて来る。

 
 私は細部にこだわった。画龍点睛の点、この点の無い議論は初めから撥ねつけた。軽蔑と無視、これを最大の武器にして、相手を選別した。検証の無い議論は容赦なく切り捨てた。共に成長し合えない奴とは、同席するのも苦しい。
「真理は細部に宿る」。三里塚反対同盟の、故・戸村一作委員長の言葉が蘇える。
 

共同保育論

 社防室で、戦線から動員されて来た女性と談笑していた。女性が、「共同保育についてどう思いますか?」と聞く。彼女は、30前後だったろうか。「10・8世代」の出産の後、後続の女性たちもその年齢に達していた。しかしこの世代、女性たちの比率は減る一方に感じていた。杉並を別にすれば、彼女たちのネットワークもありそうにない。
 戸惑いながら私は、「共同保育運動」の意義と歴史を語った。70年代初期、女性解放の機運が盛り上がり、現実化の視点が共同保育であった事、横浜や群馬の実情などを話した。私自身の、現状への苛立ちをも語った。本社に来て10年、最近の実情は何も聞いていない。
 時々質問を交えながら、彼女も目を輝かせて聞いた。社防室にタバコを吸いに来た若手も加わって来た。初めてこんな話を聞いた、という感じだ。
「支部に、産みたいという女性がいる。どうしたらいいでしょう?」。私も応えた。「新しい共同保育運動が今、必要なんだと思う。このままなら、女性たちの党離れは止まらない。女性の獲得と、その活動の保証という問題は、第1級の組織問題だと思う」。そこまでは良かった。
 
「問題はそれを『党の利益』と、どう結びつけるか、なんだよね」。「えっ?」。「実際にはメリットの他に、デメリットもまた大きいんだ。とりあえず『大混乱』が起こる、それをどう克服出来るかだね」。「ふーん?」。「でもそんな言い方をしていたら、女性離れも止まらない」。
 
 堂々めぐりの議論にしてしまった。「女性の問題」は事実上、FOB(女性組織委員会)の専管事項だ。男たちは口を挟めない。そしてFOBは、事実上活動していない。そんな中で、私に何が言えるだろう。
 

保育の現場で

 地区が関わる保育所が、ある時、集中弾圧を受けていた。逮捕やその救援で人手不足になり、動員要請があった。私も動員された。行ってみると、広場にブランコと滑り台、木造の1軒屋。外見、どこにでもある無認可保育所だ。こういう所があること自体、初めて知った。その中味は何も知らないままだ。
 少し早く着いたので、保育部屋で待たされた。カゴの内に数人子ども達がいる。待つのもつらい。「子どもと遊んでいいですか」と許可をもらう。あやしているうちに、だんだん可愛くなる。息子を、離れるまで3年、必死に子育てしたから子どもも安心して笑う。戦士から子育てへ、体中の血が入れ替わるのが心地いい。一瞬、脇腹が痛くもなったが、すぐ消えた。
 翌週も動員だった。行ってみると「手違いで、今日は大丈夫」と言われた。丸1日あいたので、映画でも見ようかと思った。けれど、昨日見た壁の汚れが気になった。台所の片隅、ホコリだらけの壁と換気扇、せんえつながら「掃除していいか」と聞いた。
掃除は予定を越えて半日がかりになってしまった。お礼に昼食を御馳走になった。暖かな日差し、子どもと遊びながら食べると、体全体がおいしいと言っていた。
 
 数日後、編集局の会議で私は表彰された。保育所からの礼状が読み上げられた。一般に「党」の動員の人は、「指示」がないと動かない。その中でただ1人、「刈谷さんだけは」自分から次々に仕事を探していた……という趣旨だった。苦虫を噛み潰して聞いていたが、少し、嬉しかった。
でも、「党員として」の評価には関係ない事だ。路線転換が叫ばれて久しく、「部局主義の克服」や、「積極的な問題提起の必要」の御託宣もくり返された。しかし「党」、特に本社の体質は変わらない。「指示の無い事はするな」とする軍令主義下で打ち固められた不文律は変わってはいないのだ。時代の変化もあるかもしれない。
 
 印刷工場内でできた若いカップルは、近くに部屋を借りて通う事になった。自転車や、1人で徒で出る事も認められた。少しずつ、少しずつ本社生活も変わって行く。
 

女たらし

 社防室。隊員のコミック君が突然言い出した。「刈谷さん、あんたほんまに女たらしやな!」。「えっ?何の事?」。「さっきから見てると、女性にばっかり声かけとるぞ」。社防隊長は受付を兼ねている。その一部始終をこいつは見ていたらしい。「おまけに見境なしや。誰彼構わずやないか。まー、選り好みせんことで許したるけど」。
 ふーむ。そう言えばそうかもしれない。工場や救対を除けば、本社は本当に男の世界だ。男たちが集ってぼそぼそ話している。ぼそぼその中に、会議での報告事項の本当の狙いや事実があったりするのだけれど、女性たちはその輪に入れない。そんな空気も嫌だったし、とにかく日常生活に「女性との会話」が無い事が堪えられなくなっていた。せめて、会話の3分の1は女性であって欲しかった。それが知らぬ間に行動に出てしまったのだ。
 コミック君は工場や本社中に、この発見を吹聴して回った。工場のジャズさんに、「あら、女たらしさん」と声をかけられてしまった。面目ない。まーいいや、これから俺は「革命的女たらし」だ。
 前進社からタクシーで、一緒に出る事もあった。そんな時、私は女性たちに声をかける。「コーヒー飲もうよ」。「刈谷さんて下心が見え見えだからな」。「そんな事言わないで」。「奢ってくれるなら付き合ってあげる」。「分かった、分かった」。「ついでにケーキもね」。
 断られたら言ってやる。「ふん、人妻と付き合ったってつまんねえしな」。「人妻とは何よ、人妻とは。だから本社の男は嫌なんだ」。
 
 同年輩の女性たちは、人並みの服を着ている。けれど、年下の女性たちの姿はみすぼらしかった。そんな話を知人とした。次の機会に知人は、妻の衣類を大きな風呂敷に詰めて持って来てくれた。私はそれを背負って帰り、本社の玄関脇に並べた。3、4日すると全て無くなった。女性たちは少し、いい女になっていた。
「有難いだろう。俺のお陰だ」と、女性たちに感謝を迫る。「えーっ、刈谷さんなの。スケベ、捨てよっ!」。
 

生い立ち

「刈谷さん、そっちの言ってた通りだったよ」。帰省から戻ってきたK君が言った。「やっぱりね」。皆が出払った編集局の部屋で、タバコを吸いながら2人だけの時だった。
数か月前、たまたま互いの生い立ちを語り合うことがあった。K君は貧しかったその生い立ちを語り、「俺は水のみ百姓の子だ」と言った。「だから階級的なんだ」。
けれども私は違和感を持った。「Kの雰囲気には地主の臭いがする。下層出身には感じられない」。激しいやりとりになった。K君は帰省中に父母の生い立ちを問い直してきた。自身のアイデンティティが崩れたと言う。
「没落した良家の子」、「狭間にある」ことこそが私たちのアイデンティティだといえようか。
 
かつて元妻の父親の半生記を読ませてもらった。第1次大戦以来、幾度も幾度も浮沈を重ねてきたその半生は、私の現代日本観を一変させた。現代史を、激流の中で生きた多くの人々の青春や人生の群像として捉え直すと、全く違った実像が見えてくる。明治維新から盧溝橋まではわずか70年、それは人の一生の長さだ。明治の豪農運動の広がりは、今、各地に根付いたしきたりや行事・お祭りに生きている。
 
中核派の「7・7自己批判」も親・祖父母にさかのぼる「自分史・地域史」抜きの平板な「抑圧民族の一員論」に固定化(ドグマ化)するなら、逆に選民観・差別感を助長するものにしかならない。そう思う。
 

41      本社・天田体制の出発

91年新年号は、天皇決戦の勝利とレーニン的オーソドキシーへの回帰をうたう。本社POSBや編集局員が総動員されて、地区の学習会に参加する。「転換を強調せよ」という指示だ。私もその一員だ。
地区の古参同志が「レーニン的オーソドキシー」は元々中核派の原理だ、何が転換なのか、言っている事が分からないと言う。それを「実はこの間は違っていた。転換だ」。何とも陳腐な議論になる。「内戦の20年」、地域で職場で中核派の幡を掲げて頑固にかつ柔軟に運動を積み重ねてきた人こそ、「何が転換か」とこだわる。総括なき「転換」が、彼ら彼女らを置き去りにして進む。
 
 天田さんをトップに、表の政治局の4人体制が発足した。水谷・岸・高山だ。水谷さんは『前進』をはじめ、全てのアジ・プロの責任者。岸は、三里塚型選挙で全ての選挙の責任者となる。高山さんは、入管。関西の委員長代理と言うべきかもしれない。
 私は天田体制を喜んだ。彼の経歴も生活観も知っている。労組の書記を経て、神奈川の労働者的気風を守って来た。貫徹力もあるし、社会人的バランス感覚もある。学生書記局上がりの「党」と本社を変えてくれるだろう。
 けれど、社内には「天田暫定内閣」説が主流だ。「理論が無い、単なる実務官僚だ」。「短命だ」。POSBを始め、「俺たちが主流派、多数派だ」と言う声がささやかれる……。後で聞いた話では、「岸書記長」擁立運動もあったらしい。
 
 WOB(労働者組織委員会)が大幅に増強された。御隠居達も、労対スタッフに回帰している。それもいい事だ。労対か御老体かは知らないが、もっと前面に出て欲しい。余りに不安だらけだ。中核派の中核派たることを知る人は、この世代にしかいないのだから。けれど、彼らはやはりスタッフ止まりだ。転換も岩礁に乗り上げて、動けない日が続いている。
 
5月テーゼ
 私には「5月テーゼ」の言う、「大衆運動への傾斜的投入」の意味がさっぱり分からない。「レーニン的オーソドキシー」への回帰なら、「原則的な階級闘争」でいい。「侵略を内乱への総路線」、その「総路線」と合わせて語るべきではないか。
前進紙上で「A*B*C」とアルファベットの公式がくり返し展開される。A(大衆運動)、B(革命的武装闘争)、C(党建設)として、重心をAに、Bを小さなbにして‥。編集局の学習会でも、レポーターが悪戦苦闘する。
 どうやら「5月テーゼ」とは、「総路線」を否定し、党の「求心力」の維持にこだわりつつ、軍令的に重点的に力を投入する「唯一」論、と言う事のようだ。期待された「党改革」も、天皇決戦の過程で粉砕され、「悪しき文化大革命」の名で葬り去られてしまったようだ。「またまた単1路線か」、私はぼやく。「革命軍戦略は不変」という確認の下、「転換」が叫び続けられるけれど、皆、どこに向かおうとするのか分からない。
 五里霧中、実は「党」そのものが歴史的大敗走に喘いでいる。「大長征」の旅、実はこれは「勝利」の名の下の後退戦なのだ。あらかじめ展望されたものではない。行くあての無い旅路、「革命軍」戦士を守り切り、敗走が遁走にならないために「求心力、そして求心力」なのだ。
 もし仮に陣形が崩れれば、全党そして「党中央」は、一網打尽だ。中央を守る事が全てに先立つ。
 
 反戦共同行動委員会が結成された。全国入管研究交流集会、そして部落解放同盟全国連合会の結成。中核派の潜在的力量が、花開いていく。
 

アジア人労働者研究会

 韓国から、日本に出稼ぎに来る人々が増えて来た。アジアからも増えている。入管体制の下で、「法」に保護されない底辺労働者として働く人々。戦前の強制連行の再来として捉え、中核派の態度を確立していく。そのためにまず第1歩、それが「ア労研(アジア人労働者研究会)」の趣旨だ。
 高山さんを長として、入管闘の他に数人が加わる。編集局からは入管担当者を加えて3人、そして東京東部キャップ、関西FOBが参加した。
 ライオン丸の活躍で、貴重な資料が見つかった。高山さんの提起も新鮮だった。入管体制の再編は、同じ「外国人」労働者の中で、在日と「ニューカマー」に格差をつけ、在日をして「収奪者」の役割を荷わせる。在日の生き方が問われている。韓国学生運動の高揚の背後で、「左派」の中に金日成主義者が台頭している。要注意だ。
 私は、学習会では発言すべきものが無い。他人の言葉を自分の体内に取り込むのが精一杯だ。「では、海外進出する日本資本の現場はどうなっているか。その情景は?」という問いが出された時、私は初めて1度だけ発言した。深田祐介の『炎熱商人』などの3部作、内海愛子さん、鎌田慧……この場面では私の独壇場だ。
 
 「脱北者」達の証言が広く伝えられ出した。高山さんは、「KCIAの陰謀説」を紹介して否定的だ。後年私は、北朝鮮帰還者の悲惨な境遇を知った。それは早くから、在日の中で広く伝わる事実だった。
 

聖と俗

 「セレブな奥様はどうお思いでしょうか?」。高山さんが、Fさんに水を向ける。セレブさんは、「いやーねぇ」とお追従笑いだ。セレブさんと高山さんの会話は、いつもこんなだ。他のFOBも、陰では「高山の奴」と怒っているけれど、正面切っては言えない。いや、もっと高山寄りのFOBもいる。格が違う事、在日である事で彼は「聖域」にいる。
 中核派の指導部の中で、「聖」と「俗」の分業と融合、相互補完が成り立っている。「聖」は何と言っても水谷さん、そして北小路さん。表の顔ではあるけれど「政治力」としての影が薄い。「俗」の差別暴言に苦虫を噛み潰しても何も言えない。
 水谷さんの、清水さんへの絶対的「帰依」と、修道僧のような生活スタイルは、若くしてトップリーダーになってしまった人の不幸、とでも言うべきか。「地位」と、経験のギャップが埋まらない。
「俗」を代表するのが高山、そして何と言っても、松尾と岸だ。俗物的「本音」をむき出しに語る「怪物」ぶりに、しびれるファンも多い。俗物的政治力にも長けている。
 けれど、その俗物政治が、どれだけ社会に通用するものか、どれだけ成熟した大人の政治なのかとなると、私には疑問だ。若者の前、とっちゃん坊やの前でしか、その神通力は通用しないのではないか。
 レーニンとスターリンの相互補完し合ったボリシェヴィキも、こんなものでしかなかったろうか。小レーニンと小スターリン、ア労研から気持が遠のいていく。
 

官僚主義との闘い

 「党改革」も「労働運動路線」も一面、「官僚主義との闘い」だった。ある時、本社を出る車中で旧知のアトムさんと同席した。「刈谷、お前はいいよな編集局で。俺なんか手配師稼業そのものだ」。上意下達の動員指令だけで、嫌になると言う。私も応じる。「同じだよ、俺なんか情報を指示に従って右から左に流しているだけだ」。少し物を考えようとする人間にとって、自嘲こそが唯一の自己主張だ。
 
 「非合法・非公然の党」。その理想は3人、5人の少人数の細胞建設を土台とする。この細胞と政治局こそ党だ。政治局も、表と裏を分割し、裏こそ党の持続性と軍事を担保する。「非・非の党」は、各級指導部という「結節環」を結ぶ、連絡網の「脈環」活動を生命線とする。「解党主義」「合法主義」との闘いこそ、その生命力だ。
吉羽さんの党改革の核心は、「結節環」が自律的に考える事を通した「集中性」の回復にあった。「通報の義務」とは、上部に報告や進言し、協議する義務と権利。無気力化し、党の方針を口を開けて待つだけの「下部主義」が、全党を覆っている。上と下の伝言ゲームは、最後には異物になっている。それを補うのが、機関紙の役割だけれど、その機能も生きていない。
 
 「労働運動路線」への転換、「労働者党を目指す」立場への転換――そこから、吉羽さんの「党改革」の本質的限界が見えて来た。「侵略を内乱への総路線」、この「総路線」への移行なしの「党改革」は所詮あだ花でしかなかった。忠さんが更迭されたのは91年。彼はあの天皇決戦の指揮者として、軍令の党への回帰という任務をやり遂げた。それだけの改革だったのだ。
 

より良き官僚への思い

 私は党内を見渡してみた。気になるのは首都圏、特に東京の組織力・動員力の悪さだ。そしてその「お行儀の良さ」。
対する関西。人口比に比べて、東京への動員力が上回る。さらに抱える市議の数、そして解同全国連の荒本支部。関西人のむき出しの言動と政策力。これをどう考えたら良いのか。
 
 政策展開と組織戦術は一体だ。いや、「緊密な相互媒介性」というのが正しい。中核派の中でも、神奈川の「政治」は、わずかに残る県評と横須賀闘争の上に成り立っている。
 そうだ、「県の政治」を企画し、実現する事こそ打開の道ではないか。日本の自治は「3割自治」。勢い「中央闘争」に流されやすいけれど、「自治の確立」を戦略的視野に入れる事は出来ないか。「行き過ぎた集権の是正」という言い方でもいい。
 首都圏でも私の故郷の群馬や栃木、それに埼玉県北は、相対的に自立している。首都圏を小首都圏問題として別に立て、それぞれの県政治をもう1度構想できないか。「県政」を包括的に捉えた時、幾重もの統一戦線や共同行動が見えて来る。活発な議論も付いて来る。そのためこその、選挙や議員ではないか。同じ視点で、全国政治も見えて来るのではないか。「開かれた政治」・「開かれた党」への道こそ、官僚主義との闘いの道ではないか。
 
 私は、より良き党官僚を目指したい。幕末、維新の歴史、そこには「あるべき官僚」の姿もある。薩長藩閥政権の実務を担ったのは、幕臣出身の官僚達だった。我が小栗上野介や、榎本武揚たちの道、政権が変わろうと国策が変わろうと、様々な試案・腹案を準備し、結果的にそれを実現させていく維新期の官僚群。
それは「党内転向」をくり返す輩とは、似て非なる道だ。「刈谷、お前の特長は打たれ強さだな」。忠さんに言われた。モグラ叩きのモグラ、と言いたかったのだろうか。私はモグラでいい。
マックスウェーバーに学び、企業官僚達の葛藤に学び、現代史に学ぶ。そう見れば宝の山が足下にある。同じ官僚でも「使える奴」になろう。

42      城戸編集長の人事

 「5月テーゼ」が発表されたのは、まだ荒本選挙戦の中だ。あまり頭に入らない。そんなさ中、水谷さんが荒本に会いに来た。近くのファミレスで向い合った。
「5月テーゼ」体制として、編集局長の下に編集長を置いて『前進』・『武装』の現場指導とする。天皇決戦直後、サブキャップは逃亡していた。新サブの城戸を編集長に据えたい。ついては意見を聞きたい、と言う。
「人事と財政は、上から決めるんじゃないの?LCでもない俺の意見を聞く必要はないだろ」と問う。「いや、古参として君の意見を聞きたい」。「聞かれれば答えるけど、絶対に反対だ」……「何で?」。「城戸には定見がない、転向分子だ。労働運動にシンパシーを見せていたと思ったら、天皇決戦では労働運動ナンセンス論だ。その急先鋒が、また5月テーゼの信奉者、乗り移りもいいとこだ、党内転向だ。……ま、上への忠誠心だけは買うけどね」。「困ったな、賛成してもらうまでは帰れない」。
いかにも水谷さんらしい。城戸批判はそのまま水谷批判だけれど、頓着なしだ。「意見を聞く」が、カエルの面に小便だ。
もう何時間も経った。明日の任務もある。私は条件を出した。「条件を呑めば賛成してくれる?」。「いいよ」。無理難題を並べた。編集実務からは外してもらう事、新しい取材体制を作る事。そして私は、入管取材と労対取材の2つのポストを要求した。
「分かった、受け入れる」。あっけない結末だった。「これで全員が新人事に賛成してくれた」と言った。お互いに、まずはめでたしめでたしだ。
 
 本社に戻って後、改めて水谷さんと面談した。「君の意見は全員に伝えた。しかしLCの反対がある。労対は人もいる。新設する『アジア労働者研究会』だけにしてくれ。『前進』からは外すが『武装』を担当してくれ」。……ま、そんなものか。
 復帰後の初の会議では、改めて荒本の報告を求められた。けれど言いたい事も無かった。「来た、見た、勝った」だけ言った。「君に伝える歌が無い」。
会議の後で、荒本に第2次派遣で動員されていた若手に、「酔っ払ってムラの中で寝た、と言う方が面白かったのに」とちゃかされた。
 

紙面改革

 「5月テーゼ」に応える紙面改革が提起されていた。水谷さんも、重要問題は自身で報告・提起する。「どう改革するか」、今度は少しまともな「改革」になりそうだ。少し古い話も一緒にまとめてみよう。
 三里塚基軸の下、紙面での闘争報告も膨張していった時の事。「集会参加者の声」が、たまたま好評だった。私は、「集会・デモの記事・発言集・総括、そして参加者の声、この4点セットとして定式化しよう」と力説した。
「『前進』の用語は、分からない物が多すぎる」と言う要望には、そのつど、10行ほどの「革共同用語集」が付けられた。が、これはすぐ中断された。要望と批判が集中してお手上げだ。専制が揺らぐ時、小さな改良に人々は群がり、喰らい付く、良くも悪くも……だ。「まともに勉強しろ」という事で消滅した。
 私はと言えば、最大の標的は「長大論文の廃止」にあった。一般読者は知らないけれど、「学習指定論文・重要論文」の指示は、系列を通して下される。長大論文と指定論文は、必ずしも同一ではない。
 私は「指定論文は、より簡潔に」と考えていた。清水さんや水谷さんの直筆は措こう。同志会論文は、全編オリジナルな中味だからこれもいい。けれど「清水さんのブレティン(広報・研究論文……編集局では「教書」)は、ブレティン通りに出せ」と私は言った。一般に、清水さんは「要旨・ポイント」を書いたままで、それに編集局が枝葉を付けて体裁を整える。Fさんや城戸達がその作業をして、自身のペンネームを付けた。その作業を止めよう。そして清水さんの名前で出そう。
 これは言下に却下されてしまった。それなら、と私は提案する。大論文の荒筋と、その資料的部分を切り離そう。1つ1つを短くしよう。そして1番言いたい事を明示しよう。これも問題外だった。「大艦巨砲主義」の長大論文をやめるという目論見は、あえなく頓挫してしまった。そして戦艦大和は、海の藻屑となって逝く……。
 
 集会参加者の発表での「3倍化の法則」は修正されていった。1.5倍? 2倍? 忘れた。「方針を100%、いや200%、300%貫徹する」も、次第になくなった。
 
 「文字が小さくて読めない、大きくしてくれ。商業新聞に倣え」。党員・読者の老眼が進んでいる。「文字を大きく」は、当面する最大の課題だ。LCを中心に討議され、工場との調整も進んでいた。毎回のようにその報告がなされた。2ヵ月…3ヵ月……。
私はしばらく聞き流していた。ある時、「あれっ」と思う。出社の折り、週刊誌を数冊買い込んで、パラパラとページをめくる。「やっぱり」。
会議の席で私は言う。「週刊誌は、新聞より文字が小さいけれど、読み易い」。みんながせせら笑う。「また、刈谷がバカな事を言う」。
Eさんが助っ人に出て、急変した。「事実はそうだよ」。前日、彼に話していたお陰で、孤立を免れた。けれど何事もなく終わってしまった。「今さら言い直したら、準備を進めている工場が怒る」。やはり編集局は、「工場が怖い」。
 他党派の大衆団体の「発言があった」という文言が入るようになったのは、いつだったろうか。
 私は思い悩む。『前進』は何のためにあるのか?記事・報道はただ、中核派の成功を伝え、「この下に集まれ」と呼びかけるためだけか?
 獄中の星野さん。彼は『前進』を通して、「今」を捉えることが出来るだろうか?彼の現状認識を歪めるだけではないのか?
戦前、『赤旗』が非合法化された後もしばらく、その下部組織の共青同の『戦旗』は合法的だった。『前進』を小振りにして、統一戦線の機関紙に比重を移すのも、選択肢の1つかもしれない。
 

言葉へのこだわり

 紙面改革に併行して、私がこだわったのは、言葉だ。「集会参加者の○○名」の「名」を「人」に変えよう。「名」には古い嫌な感じが漂う。頭数、「員数」、人格の否定を感じる。軍国主義の「臭い」がする。「戦争党派だ、なおのこと『名』じゃないか」と反論される。「うん、うん」の反応だ。この時は、高田さんが応援してくれた。「刈谷の言う通り、朝日はそうなってる」。これでケリがついた。「朝日に倣え」が、水谷さんの原則だ。
 
 「パーセントではなく、ここはポイントだ」。私は言った。論文の中で、パーセントが並ぶ。筆者が「どっちでもいいじゃないか」と食ってかかる。「新聞を見ろよ、パーセントとポイントを区別してるだろ?」。
 「パーセントと、ポイントの違いを説明してくれ」と言われた。「昔の集会参加者は、男が4千人、女性が2千人。女性のシェアは33%。今は、男が千6百人、女性は4百人。女性のシェアは20%、女性の数は80減。シェアは13ポイント減」。分ったろうか。
 
 富山再審の連載が続いていた。私はこの記事が嫌いだった。やたらと権威主義的な文言が並ぶ。けれども「裁判所に読ませるのだからいい」と言う。そんなものに『前進』を使うな、と私は思う。
 4百字詰め3枚ほどの原稿に、「真実」が何十回も出て来るのも気になる。「真実、真実、真実……」。ここまで「真実」を安売りすると、全体が嘘っぽくなる。
 私が記事の校正(面担)になった時、救対にそんな話をした。「それなら直していい」と言う。私は五十近い「真実」を「事実」に直した。節々に「真実」を残す。救対を中心に、「刈谷が直した」事が話題になっていた。筆者は古くからの友人だ。けれど食堂で席を並べても、お互いにこの事に触れない。何事も起こらない。
 次号から全て元に戻っていた。編集局員は誰も、そんな事は話題にしない。
 
自分で何か書く時、私は常識的に通用する言葉にこだわった。「ステューデント・パワー」「ブラックパワー」と書く。水谷さんが渋い顔だ。「新左翼や3派」でなく「革命的左翼」と書けと言う。知った事かと無視、無視だ。
 
 いつからだったろうか。私は本社の同志たちを「さん」付けで呼ぶ事にした。学生出身者達は、互いを呼び付けする習いが定着している。上級生・下級生の序列そのままに、年下から呼ぶ時は「さん」だ。それはいい。気になったのは、地区から動員される労働者を呼び付けにする空気だ。
 ある時、ひと回りも上の労働者を「○○君」と呼ぶのを咎めた事がある。彼は「『君』は対等な言葉だ」と言い返す。「ここは小学校じゃないよ、会社では『君』は目下に使うんだ」。けれども全く通じない。
 別のメンバーにも言う。私より少し「上」の序列で言いづらいが……。「お前、俺はそんなこと言われたのは初めてだよ」。しみじみと言われた。素朴で人付き合いの下手な人だ。誰も注意してくれない。イランさんが決意を込めて、「さん」付けに変えた時、私は「君」で返してしまった。ごめんなさい。
 戦線のメンバーからは、別の苦情が入っていた。「親しくなったらすぐ『どこの大学』と聞くのをやめてくれ」。高卒もいることを本社の人間は忘れている。「さん」付けも、ひと回り下のメンバーが大量に入って来て、混乱してしまった。
 

『前進』改革のアピール

 水谷さんは、「『前進』を大衆の中へ」と、壮大な構想を準備していた。各地の運動を掘り起こし、「読みたい『前進』・使える『前進』」にして行こう、気宇壮大だ。何回目だっけ、こんな話。その都度、言う事が変わる人だ。
水谷さんが『前進』改革の長大論文を作成した。これを討議したい、と提起する。各地の要請に応えて記者を派遣する、どんどん要請してくれ、という事も柱の1つだ。
メンバーは「そんなの無理だ」と反発する。委員長君は吠えまくった。「人が足りない、人を寄こせ」。「組織はぶん回すもの」という信念の委員長君は、この時とばかり取り仕切る。この時だけは、誰もが同調した。私が編集局に来た時に比べ、編集局メンバーは2倍を超えていた。けれども、全く人手が足りないのだ。
「反対なら対案を出せ!」。水谷さんが激しく迫った時、沈黙がやって来た。
しばらくの沈黙を見て、私は「修正案」を提案した。「水谷案を叩き台にするのはいい。内容への批判もあるし、長すぎて『読みたい』論文でない。原案から削除する諸点を提案する」。
「○ページの○行から○行、削除」。
「△ページの△行から△行、削除」。
 水谷さんが撤回した。次の週、再び新たな提案がされ、私が「叩き台として応じる」と発言する。哄笑がそこここに溢れた。水谷さんの面子も台無しだ。壮大な展望は頓挫してしまった。
 
 会議の終了後、私は後悔した。この長大論文を出し、「何でもやります」と提案し、全党からの怒りと要望を引き出したら良かった。せっかくのチャンスを潰してしまった。後悔先に立たず、だ。

写真家さん

 5月テーゼに則って、月刊『武装』は『コミューン』に改題された。電車の中でも読める物に。内容も、独自の特集と小記事をとなった。キャップのコミューンさんと私の2人が担当だ。コミューンさんは、毎月本をしこたま買い込んで、精力的に書いた。いいバイト口を見つけて金回りもいい。
 彼は、表紙に「人の顔を」と、第1号は外信から買って来た。しかし高過ぎる。2号目以降は、私が街頭写真を撮って来ると申し出た。工事現場やあちこちを撮り、デパートの女性店員達の顔を盗撮して載せた。
反響は大きく、賛否両論。その中で、大阪の写真家さんからクレームの意見書が届いた。「労働者人民の血と汗と無縁だ」という趣旨に、私は笑った。写真家さんとは随分付き合った。写真についての造詣も深い。けれど、ちと古い。女性のパートに「血と汗」を求めるのは、無茶苦茶だ。
「こんな意見もある」と編集局長に渡した。その後、「LC会議で、以降、刈谷の写真はやめるという決定があった」とコミューンさんから伝えられた。「なんで俺の意見を聞かずに決めるんだ」。私は憤慨したが、もういい。「以降、写真には一切タッチしない」と宣言した。
 
『前進』新年号には、私も動員された。局長に1年の写真集を載せたいと提案した。結果として、「一面分」の紙面が空いたからと、特集が組めた。社防室で若い人らに意見を求める。「別に、写真特集ってあるのが常識でしょ」。
しかし翌年、編集長に拒否された。会議の席で「定番だよ」と言っても、「定番なんて誰が決めたんだ。写真集を載せない事は、LC会議で決めた事だ、決定だ」と返ってくる。「写真班の利益代表がLCにいない事が問題なんだ」と私。「利益代表とは何だ、利益だと!」と城戸。「分かった、じゃあ、革命的に正しい用語を言ってみろ」。私の反撃に城戸は黙り込む。こいつは本当に会話のできない奴だ。政治局だって分担して諸課題をカバーしているのに、組織論が分かっていない。翌日、スペースが空いたから、特集が載る事をコミューンさんから聞いた。「勝手にやったら!俺はやらねえ」。
 
写真班の強化のために、水谷さんに相談された。「写真家さんを呼びたいが」。私は「止めた方がいい」と応えた。「彼は独立自尊の人間だ、とても本社の枠に収まらないよ」。水谷さんは「だったらなおの事欲しい」と言う。私は応えた。「水谷さんの器じゃ無理だよ」。「そうか」。提案は取りやめになった。写真家さんには悪い事をしたのだろうか。
 

「寿」越冬ルポ

 92年の正月を私は、横浜・寿の簡易宿泊街(通称・ドヤ街)で迎えた。年末年始は『前進』業務はお休みだ。つかの間の平安、どう過ごそうかと考えた末、「寿ルポ」の企画を思いついた。伊方現地ルポ、天明一家のインタビューも好評だった。「荒本への年賀状代わり」だ。
 寿に長年住み込んでいて中核派になった「Tさん」とは面識もある。寄せ場の酒場で、一杯酒を引っ掛けながら語り合う。「中核派が支援してくれるんか?」と期待したTさんに、「いや、その意志はない」と明言する。私の意図は「『前進』を読める物にしたい」事に限定していた。「寿のためではなく、機関紙改革のためだけだ」と念を押した。むしろ企画自体、薄氷を踏むようなものだ。「最悪の場合」は楯になってもらうしかない。
 大晦日の日、越冬本部に行って「Tさんの知り合いです」と自己紹介して、1員に加えてもらった。Tさんに、「『前進企画』として許可を得る必要」を聞いたが、彼は「言わなくていい」と言っていた。半分、腰が引けていたのだろうか。本牧公園のパトロール、炊き出し、仕事は山ほどあった。
本社に帰って、いよいよルポの作成だ。予定枠の数倍を超える草稿をライオン丸に読んでもらった。「刈谷さんの最初の寿体験の所がいい」と言われた。
しかし完成稿では真っ先に、これを削る。私の「心の部分」は切り捨てる。寿の日常も切る。「同情」や「憐れみ」を少しでも感じさせたら終わりだ。「来た」「見た」だけにしよう。
確かに、Tさんという大看板もある。かつて三里塚へは、寄せ場から貸し切りバスで大勢が来ていた。けれどもやはり、「中核派」は「外」の連中なのだから。
 
 最初の反響は、ことのほか良かった。神奈川出身の仲間達は、「ようやく出た」と喜んでくれた。けれど、肝心のTさんが消耗していた。
 「このルポは持ち込めない」。小見出しに、「ドヤ街」という言葉を不用意に使ったのが致命的だった。心の機微に触れてしまった。
 寄せ場の人々が「外」の人に「ドヤ」と言う時、そこには「ドヤ住民宣言」「解放宣言」の思いも込められている。それは外の人間の「ドヤ観」との闘いでもある。まどろっこしいけれど、「外」の人間は安易に使えない。今更回収もできないし、公式に「失敗作」として回状を下すしかない。喜んでくれた人々にも、事情を話すしかない。
獄中の爆取被告は、寿に関っていた。その爆取さんからも、Tさんに弾劾文が届いていた。「寿をやる気のない奴に、寿を語らせるな」。さすがに爆取さんだ。的を射た批判はつらい。「中核派」として「寿」を語る事は、99%なぐさめに過ぎない。その事は分かっていたつもりだ。
後始末のつらい後始末役はTさんに任せよう。それしかない。
 Tさんの所には、その後何回か行った。神奈川の旧知の人々の消息も、ここでよく聞いた。寿で心の疲れを休め、英気を養って帰って行く仲間も少なくない。被爆者青年同盟の友野幽さんも、その1人だった。
 「いつの日かやり直そう」、Tさんと話し合った。けれども、私の中でも「寿」は、そこに行けばいくほど、一層遠くなって行く。
 「その日」が来る事なく、Tさんも亡くなった。合掌。
 
PS.
 今の職場の同僚には「山谷住民」の体験を持つ人もいる。職場の大争議の支援に来た人に、「寿」の臭いを感じた。聞いてみると、かつて山谷に常駐していたという。タクシー乗務員も「板子1枚」の世界だ。けれども生活実態が寿に近づけば近づくほど、寿との距離が遠くなる。。

43      理論への渇望

カンボジアPKO論

92年9月、戦後初の、と言える、自衛隊・陸上部隊のカンボジア派遣。前年4月には、海自がペルシャ湾に派遣されている。それは日本の反戦運動にとって新たな試金石となった。日本人・明石康が、UNTAC(国連カンボジア暫定機構)の事務総長に就いた。
『前進』は、「日帝の独自の軍事大国化」「侵略戦争」と毎号くり返した。しかし連日のニュースの洪水の中、「平和のための派兵」論に、明らかに分が悪い。切り返せていない。
清水さんからのブレティンによって『前進』は息を吹き返した。「戦前の満州国のような植民地国家を建設しようとしている。カンボジアの、日本による再植民地化」――「これでいける」。
 
 私に論文の役割が回って来た。カンボジアとは何か、ポルポト派とは何か。探しあぐねてようやく、ポルポト派の生い立ちを見つけ出した。米国防報告は、詳細で膨大なものだった。そして井川清氏のカンボジア和平の分析を見つけた。これで行けそうだ。
まずカンボジア和平とは、国際政治としては「平和」を意図するものだ。大局的には、米ソ対立の結末を受けて「過去のトゲ」を抜き去るもの。その脈絡から、中国・ベトナム戦争にも終止符を打つ。米中のポト派支援の歴史は「国際政治」上も余りに不評を買っている。不毛なポト派支援を止めて、カンボジアはベトナムの属国化でけりをつける、とすれば「再植民地化」論は空論だ。米中は、ベトナムへの侵略を居直って、対越和平に臨んでいる。
 
 ポルポト派の大虐殺は、擁護すべきものは1つとしてない。ただ、ポト派の出生と歪曲には、小国カンボジアの悲哀の歴史が伴っている。
カンボジアの民衆にとっては、この和平は待ち焦がれた「平和」の到来だ。内戦の下で、「平和」を求める僧侶達のデモが多発していた。「平和」そのものに反対する事は出来ない。
 問題は日本だ。国連とは何か、が分からない。明石康をどう捉えるかに私は苦悶した。ようやく「ジャパニーズ・プロブレム」のひと言を新聞記事の中に見い出した。カンボジア問題は「日本問題[1]」。これだ、これに違いない。けれどもその趣旨が全く出て来ない。
 日本はまだ、本格派兵の準備が出来ていない。ブレティンの言う「日帝の侵略派兵と、その戦略的無準備性」ゆえのあがきだ。
 私たちはベトナムに「血債」を負う。中核派(中央)は、解放戦線の闘いを無視していた。中核派の「アメリカのベトナム失陥」論は、ベトナム革命への評価から逃げている。ここで「ベトナムによる属国化」を浮き彫りにすれば、政治的表現としてバランスは悪くなる。世界認識としての「戦略的無準備性」は、私たちの方だった。どうしよう?
大局観を明らかにし、この無準備性下での反戦闘争の課題と思想を説く。これが本来の課題だ。
結果は無様だった。『前進』紙上の私の論文は、私の混乱を鮮やかに映し出した。しかし情勢認識としては、私の方が相対的には正しい事が明らかになった[2]
 

ポル・ポト派

ポル・ポト派(クメール・ルージュ,カンボジア共産党)によるカンボジア人民の大虐殺、そして社会の徹底的破壊はなぜ生まれたのか。ポト派による大量虐殺は10万弱。飢餓による死者は100万余。人口は700万人位だったろうか。
 
私は、ポト派はやはり、マルクス=レーニン主義的共産主義の一亜種として、あるいはその崩壊的逸脱として向い合いたい。
 カンボジアの共産主義は、フランス植民地支配に対決する民族解放の党として生まれた。第1次インドシナ戦争では、ベトナムを中心とするインドシナ共産党の下にある。ポル・ポトによる粛清を、私は3つの契機で考える。
 第1に、カンボジアにおける「プロレタリアートの不在」だ。レーニン、トロツキー、そしてスターリン。彼らの差異はおいて、共通するのは、植民地の民族自決におけるプロレタリアートの闘いを議論の中心に据えている事だ。しかし、フランス植民地のインドシナ、特にカンボジアに近代制大工業など存在しない。「革命的プロレタリアート」など生まれようがない。中国革命が異彩を放つ。
第2に、「国際主義」の歪みを生んだ歴史的背景。宗主国のフランス共産党が一貫して、植民地支配を擁護したこと。また、インドシナ共産党以来、カンボジアは常に、ベトナムの随伴者として翻弄されたこと。ベトナム民族解放戦線の勝利を保証した「ホーチミン・ルート」は、独立国カンボジアの主権を踏みにじり、その領土の奥深く展開された。
私は、この事実の是非を語る事は出来ない。しかし事実は事実だ。米軍によるカンボジアへの空爆では、数十万人が殺され、農業インフラも徹底的に破壊された。そして「撤退の為の増派」によるカンボジア侵攻は、カンボジアからすれば、ベトナム戦争の「巻き添え」でもある。
 私たちのベトナム反戦闘争も、とどのつまり、ベトナム止まりだった事を改めて思い知る。ポル・ポト派が、反ベトナムの極度の民族排外主義や、「原始共産主義」、極端な農業集産主義に陥る素地は、充分過ぎるほどあったのだ。
 第3に、中国の文化大革命[3]という文化・文明への憎悪と破壊の運動を、共産主義革命の見本としたことだ。確かに、『共産党宣言』を字義通りに読めば、そんなものかもしれない。「貧困の平等」や、文化・文明への憎悪は、一面において、あるいは文学的表現とする限り、私の心にも響く。スターリン下の大粛清も、社会主義建設の生きた「参考」になろう。
率直なところ私は、「共産党」の結成そのものが、過ちの原因だと思う。民族独立と社会正義を柱とした「社会主義」で充分ではないか。その中身は、中国・インドあるいはインドネシアから学べばいい。生まれたばかりの小国カンボジアを守り続けたシアヌーク体制と、その多元的自主外交も学ぶべきものは大きい。現実に即して模索するしかない。
ベトナム戦争の後始末は、米帝の「正義の介入」を暗黙裡に認め、米帝が南の傀儡政権に与えた軍事・経済援助の負債をベトナムが継承し返済するなどの中身になった。
 

サパティスタの綱領

 メキシコの辺地で、サパティスタが蜂起した。『前進』でイランさんが、『コミューン』で私が書いた。読者からの批判の手紙を受けて、小会議が招集された。私とイランさん、島崎と水谷さん。水谷さんはこの頃は、「現場の同志や読者の声を全て受け止める」立場だった。
 「サパティスタの綱領が書いていない。これは闘う人々を無視するものだ」という批判だった。『前進』には、これが無かったのだ。
 イランさんは、「あの綱領は、綱領になっていない」と断じた。私と島崎は、「いやー。優れた綱領だと思うけど……」。穏やかな言い方だったと思う。「何が欠けてる?」と言う質問に、イランさんは黙り込んでしまった。話が下手な人だ。
 綱領は簡潔なもので、外国資本の抑制を謳い、少数民族の利益に立って、女性政策にも触れていた。しかし、政府の打倒・帝国主義の打倒とは書いていない。多分、それが不満だったのだろう。
多数派の「メキシコ人」は、[5]先住民とスペイン系の混血の民だ。「メキシコ人とは何か」という「メキシコ革命」が、現在進行形だ。
 


[1] 日本問題。日本の課題。アメリカが大枠を示し、軍事力を揃える。あとは日本の金と裁量でやれ、ということか。
[2]正しいその後、米越の関係正常化が進む。ベトナムは国際社会に復帰し「改革・開放」「ドイ・モイ」が始まる。アメリカは湾岸戦争・イラク戦争のためにも、ベトナム戦争の傷を癒すことが不可欠だったということか?今ベトナムはBRICs4国に続くVISTA5国の筆頭。
[3] 文化大革命。各地で大量の殺戮が行われ、その犠牲者の合計数は、数百万人から一千万人以上ともいわれている。また「マルクス主義」に基づいて、宗教が徹底的に否定され、教会や寺院・宗教的な文化財が破壊された。特にチベットではその影響が大きく、仏像が溶かされたり僧侶が投獄・殺害されたりした。
[4] 生きた参考。正しくは、レーニンの「対農民戦争」それ自体もある。「農民の団結=反革命」論は根深い。
[5]メキシコ革命。たとえばメキシコの公用語はスペイン語。諸民族間の庶民の共通語をどうするか。近代日本の「隆盛」の基礎として、共通語の強制と軍事教練による所作の規律が上げられる。「口語体」運動の意味も改めて見直したい。メキシコは、明治以来最初に互いに対等な貿易関係を結んだ国でもある。身近な存在として受け入れることから始めたい。

国際主義と「祖国」

 「排外主義と対決し、『愛国心』の洪水と対決せよ」とする重要論文が出た。私は「この論文が『革命論』として論じている以上、ひと言ある」と切り出した。
「この論文は、『プロレタリアートは祖国を持たない』という『共産党宣言』を引き合いにして、国際主義を論じている。けれど、『宣言』の理解は逆だ。『宣言』は、今ある国家が労働者にとって、自分のものではないと言っている。結論は、だから自前の祖国を勝ち取ろう。そして世界革命を共に闘いとろうと呼びかけている。マルクスの読み方が間違っている」。
 いつもと同じく、城戸と1対1の激論だ。「何だそれは、お前はいつから愛国主義者になったんだ」。城戸の言う事はいつもこれだ。
『共産党宣言』では続けて、次のように書いてある。「持たないものを取り上げる事は出来ない。プロレタリアートは、まず政治権力を奪取し、国民的階級となり、自ら国民とならねばならない……やはり国民的である」。ここでの文章は明らかだ。マルクスの国際主義を言いたいのなら、他にいくらでもある。何故こんな曲解にこだわるのか?!
 
 城戸の主張は以下のように要約できる。「労働者は祖国をもたない国際主義的な存在である。階級闘争とプロレタリア革命によって、民族問題は解決される。民族抑圧問題の根源は階級支配だからだ」。「これを確信に据えて、排外主義と闘え」と。「共産党宣言に学べ」
マルクスの生きた時代を考えれば、自明ではないだろうか。時々の歴史の中で考えよう。
1870年の、普仏戦争の時のマルクスはどうだったろう。「プロシアの勝利を期待する」とした理由は何だったろう。マルクスは、ユンカー貴族の王国プロシアを押し立てた、まだ未成熟なブルジョアジーの、ドイツ国民国家のための闘いに期待した。それ無しにプロレタリア革命などありようがない、と。
私たちが「共産主義者」であろうとすれば、「国を作り換える、即、「ソビエト権力」の問題は避けられない。今ある国家の在り方をどう作り変えるのか。どういう国家形態を作り出すのか。どう動かせるのか。今日的にはどう関わるのか。「国家という原罪」と、向かい合う決意あってこそのイストではないか。無政府共産主義とマルクス主義の最大の分岐点は、国家論だ。
 
しかし大事な事は、このフレーズを引用して反戦平和を呼びかけたのは、他ならぬレーニンだったという事だ。<この『祖国』は、今はまだ労働者が自由に操れる『労働者にとっての祖国ではない』><『祖国防衛』に名を借りたこの戦争は、この国を牛耳るツァーリと資本家達の戦争だ>
第1次大戦のただ中での、交戦諸国の一方の中からの主張であるからこそ、意味がある。『帝国主義論』は、<なぜ、社会主義者達までもが、戦争に屈服し加担してしまったのか>を解き明かす書でもある。帝国主義の時代の、戦争の性格と「国際主義」の中身を問うものだ。
レーニンが、『宣言』を曲解してまで引用しようとしたのは、「マルクス主義者」達の多くが、マルクスの片言隻句をもって、互いに自国の戦争を正当化していたからだ。「対抗的こじつけ」と言っていい。「マルクス主義者」達の、こうしたつまみ食い的な「正統」争いから、私たちはもっと自由にならなければ終わりだ。
 私は思う。日本では、およそ左翼になる人間にとって、「祖国」とか「祖国愛」とかは聞くだけで反吐が出る。この日本の右寄りな社会と政治の中で、当然ではある。けれどそういう「力学」に負けて、その本質に迫ることから逃げ出したら、それは「革命家」としては屈服でしかない。
 愛国主義者に問われたなら答えればいい。「国は国民を守らない。働く者同士での殺し合いはごめんだ。この国のための犠牲はごめんだ。戦争は嫌だ」。
 

祖国敗北主義

 「革命的祖国敗北主義の復権を」とする論文にも、私が咬みついた。「革命的敗北主義という用語がくり返し使われている。略すなら、祖国敗北主義か、単に敗北主義が正しい」。
 またまた編集長が切り返す。「何言ってんだ。単なる敗北主義者でいいのか、ふざけんな!」。この論文は、編集長=城戸の全力を挙げた作品である事は知っている。
私は続けた。「いいか、帝国主義の『祖国』が戦争を始めた。この時プロレタリアートはどういう立場をとるか、という事だろう?」。「そうだ、分かっているか」と編集長。「この場面で労働者階級が闘う。闘って祖国が混乱する。その結果、負けてもいいのか、という問いへの答えだ。戦争の勝利か敗北か。負けてもいい。いや負けるために闘う。どうだ“敗北主義者”でいい、という事にならないか」。
「何言ってる、革命的に闘わないで何だ。単なる敗北主義者じゃないか」。「単なる敗北主義でいいんだよ。戦争するよりも、この日本が亡びてもいいっていう事が大事なんだ。<国破れて山河あり>でいいじゃないか」。
激論の中で私は切り札を切った。「それなら言ってやる。レーニンが『革命的』を付けたのは、ボリシェヴィキの中の『勝利主義者』との妥協だと言っている。スターリンとボリシェヴィキは、『封印列車』でレーニンが帰るまで『勝利主義者』だったんだ。あんたの主張は、勝利主義者だ」。
 「お前、レーニンのどこを読んでるんだ」と編集長。「城戸の主張は、スターリンそのものだ。レーニン10巻選集を読んでみろ」。ロシア君が「刈谷さんの言う通りだ」と保証してくれた。
ここでも他は、黙ったままだ。政治局も沈黙し続けたまま、これもやはり「重要論文」となった。
 

9条と平和

反戦・反改憲の運動の中で、中核派もいろんな平和主義を取り込もうと腐心する。岩井章氏の「戸締まり論」、非武装中立論を盛んに持ち上げたのはいつだったろう。城戸自身も書いていたはずだ。この論こそ「敗北主義」ではないだろうか。「あの戦争に負けて良かった。もっと早く降伏していたら」という思いこそ、私たちの立脚点ではないか。
問題は、利用主義だけの姿勢だ。自分で書いた事を自身の中で捉え返す、思想としての「誠実さ」の欠如だ。付け焼刃はすぐ剥げる。「乗り移り」「転向者」。私は誰と誰に、このレッテルを貼ればいいのだろうか。
 「日本の戦争」をめぐる、「国民的」分岐点がどこにあるのか、それを見究めるのが、「敗北主義」論争の課題なのだ、と私は思う。「9条を守ろう」という護憲運動そのものが、「敗北主義」ではないだろうか。
 そしてもう1つ。「日本はアジアの人々に迷惑をかけた。罪滅ぼしにもPKOに共感する」という思い。これもまた、「敗北主義」なのではないか?
 イラク戦争の中での、アメリカの反戦兵士の闘いを見よう。「平和」を語ること自体の激しさを思え。
全ての議論をこうした目線から始め、そして締めくくること。それが「敗北主義」の実践的立場ではないだろうか?「革命的△△主義」という空念仏で、無為無策に打ちひしがれタコ壺に閉じ籠もるのと、いったいどちらが良いだろう。
 
『党宣言』への<原理主義>
 2つの議論を振り返って、私は痛感する。「歴史認識の欠落、現実的問題意識の欠落」、これこそ深刻だ。議論が空回りしていて、何の役にも立たない。一体、ここで言う「排外主義」とはどんなものなのか?日本の精神風土の中では、欧米に対する「拝外思想」とアジアへの「蔑視」の事だ。それは「脱亜入欧」というイデオロギーと共に、現実の歴史の中で醸成されてきた。その根の深さに、多くの良心的な人々は日々葛藤し続ける。言いっ放しでスッキリしているのは、中核派だけだ。私たちが「日本人」である事、日本の文化を全身に吸い込んで心身を形成している事も同じだ。こういう現実を無視して、行き着く先は、どうやら<『党宣言』への「原理主義」化>のようだ。
 
 戦前の共産党員の幾多の転向を思い出そう。「日本の現実」「日本性」、そこから逃れて「国際主義」という非転向の「聖域」にしがみついた末、彼らは「日本性」から逃れきれない事を突き付けられて転向した。鶴見俊輔氏らの「転向論」の研究は優れていると思う。戦時下で、この戦争には反対だ、とあらゆる形で言い切れる中身を作り出すためには、もっと苦しまなければならない。
 もう1つ、私が今感じているのは、一種の<>原理主義>への傾斜だ。マルクス、エンゲルス、その人たち自身の理論の成長と飛躍点、そしてその後の、幾多の人々による「マルクス主義」の発展、こうした歴史を無視し、短絡した議論。マルクス、エンゲルス、レーニン、トロツキー、彼らの「人間的限界」と、「歴史的限界」を無視する議論こそ危険だ。『宣言』が、全てを解明した集大成であるかのような議論――<マルクス原理主義>とでも言うべき傾向、これこそ最大の敵なのかもしれない。「聖域」「タコ壺」に閉じ籠もって「転向」から逃れようとする議論、中核派の「引きこもり」化、それは本当の、本格的な転向への1里塚なのではないか。
 

社民解体論

 『前進』に、社民(社会民主主義)批判論文が、「学習重要論文」として掲載された。編集局でも学習会が開かれた。
「これは、スターリン主義の『社民主要打撃』論そのものじゃないか」。口火を切ったのは、元・関東交通労協の事務局長を務めた人だ。中核派でも最古参世代で、労組担当だ。発言には重みがある。
城戸が「何言ってんだ、ちゃんと読めよ」と切り返す。労組さんは、トロツキーに依拠して、社民主要打撃論の犯罪性を得々と展開する。ナチスに対する共同闘争を否定し、社民とナチスを同一視したスターリニスト、その誤りと裏切りは、反スタの大事な批判点だ。対する編集長は、「何言ってんだ」とくり返すだけだ。
ロシア君が続いた。「『社民解体論』は極左日和見主義。右翼日和見主義の『人民戦線戦術』と一対で、その理論と実践の粉砕は、反帝・反スタの綱領的課題だ」。
この論文の筆者は、杉並担当君ではある。けれど、逐一、水谷さんの指導と点検を受けた “水谷監修”だ。編集局の誰もがそれを知っていた。
私も続いた。「革共同は今、闘う社民との統一戦線を掲げている。“社民から離れて中核派の下へ”と呼びかける以前に、共に闘おうという統一行動の呼びかけだ。論文は党の方針を否定するものだ」。
他のメンバーはLCを始め、沈黙だ。会議は押し問答のまま終わった。当の水谷さんは奥の院に籠ったままだ。
同じ事がまたあった。同じメンバーが激しく追及する。「党の方針に反対なら、反対とハッキリ言ったらどうだ。編集局長自身、立場を明言させろ」。
論戦は一方的な勝利だった。しかし、何1つ変わらない。「政治局」も沈黙したままだ。これまた「全党の学習論文」として指定され続けた。
 
 会議の後で、若手女性が聞いて来る。「共同行動の対象となる社民って、誰の事ですか?」私には答えられない。「本社に居座って、何が分かるものか」というのが精一杯だ。私も、他党派やノンセクトの活動家達と付き合っている。けれど今の中核派にはつなげたくない。まだ無理だ。
 国労を中心とした全労協、社民党、新社会党、寸断され孤立しながら踏ん張ろうとする人々。そして知識人たち。労働運動や反戦平和の後退戦、そのしんがり戦のための共同綱領をどうしたら探り出せるか。
 
私はこの頃、他の潮流の研究会をいくつものぞいた。ここでは中核派は、「急進市民運動」に区分けされている。アメリカの市民運動は、日本に比べて、はるかに活力も基盤もあるけれど、この時期は急激に衰退している。左翼は、労働組合に「逃げ込んでいる」。なるほど。日本でも、竜宮城の日々から、私たちが帰還した「故郷」は、昔日の故郷ではない。私たちは、浦島太郎であることを、しっかりと自覚して歩むしかない。
 
社民の左派的切り取りという視点を克服する事。その上で、自由な論争を活発に組織する事。トロツキーの「別個に進んで一緒に撃て」という共同行動の原則を共に考えよう。私たち自身が変わる事なしに、眼前にいる味方も見えて来ない。
そうだ、陶山健一さんがいた。陶山さんが生きていたら、何を言い、何をしようとするだろう。
 

FOB論文

 92年頃のこと。久しぶりに『共産主義者』に、FOB(女性解放組織委員会)論文が載った。「女性解放闘争の推進を」という見出しに、私は飛びついて読んだ。斜め読みの後、熟読を止めてタバコ部屋に出掛ける。
 事務局の男性が寄って来て「ようやく出たね」と興奮気味に言う。神奈川から来た人で、元・金属労働者。本社では数少ない労働者出身だ。私も馬が合ってよく話した。
 「何が?」と応ずると、「いよいよ女性解放運動が出来るんだよね、みんな待っていたよね。これでシンパの女性にイスト(『共産主義者』)を渡せる」。
憤然として私は応えた。「何を読んでるんだ。ちゃんと読めよ」。「えっ?」。「論文の結論を見ろよ。どこに女性運動の課題が書いてある?何も無いだろ?『何もするな、女性運動を粉砕しろ、革命的武装闘争だけが女性解放だ』。それ以外に何が書いてある?!」。私の剣幕に、彼は呆気にとられたままだ。私は論文の書き方や読み方をまくし立てた。
「そうか、何もするなって事か。なーんだ、期待して損をした」。周囲には女性たちも数人いた。「やっぱりね」。恨みがましい顔を見合わせて、会話も途切れた。タバコをもう一服。何も無かったように散った。
 
 地区の古参の女性たちも、私と同じ読み方だった。彼女たちの怒りはもっとハッキリしていた。私が「FOB」と言うとその言葉を糾された。「男のためのFOBと言いなさいよ」。返す言葉もない。
 FOBには、若手の女性たちの不満も大きい。様々な集会で、「女性からの発言」を彼女たちは独占し続ける。
91年の杉並選挙で、立候補していた新城せつ子さんの応援弁士は、1020も年上の女性たちで占められた。新城さんと同世代の女性たちは、ビラ撒きや戸別訪問の下積みだ。彼女たちが次々にマイクを握っていたら……。私には、その結果を想像する資料は無い。しかし言える事は、新城さんを囲む同世代の女性たちの新しいうねりの芽、その可能性を摘み続けたという事だけだ。
 

44      ソ連崩壊と反スタの終り

 何の件だったろう。私の草稿に水谷さんがクレームをつけた。私の草稿で、スターリン主義発生に言及した1文があった。「民族の牢獄ロシア」で、大ロシア人の排外主義への屈服が、スタ発生の1契機になった、という趣旨だった。
水谷さんは「スタの発生は、『後進、孤立、遅延』じゃなかったっけ?」と言う。私は「別に矛盾しないでしょ。民族政策の反動性は初期スタの特性なんだから」。「白井さんも言ってるし」。「そうかな~?」。話は途切れてしまった。私は「指導」を無視して、そのまま出稿してしまった。
水谷さん、70年代入管闘争委員会の初代・代表にして、理論派の代表格である。彼の自信のなさそうな物言いが気になった。白井さんも、民族問題が重要だと強調している。水谷さん、どうなってるんだろう。
 
9112月、ソ連が崩壊し、レーニンの像が倒された。映像を見ながら、私の心は激しく揺れる。ポーランドのワレサ=連帯労組の闘い、「ベルリンの壁」を打ち壊したドイツの民衆……。スターリン主義国家が、ついに民衆の手で打倒された。「反スタ運動の勝利」とは言い切れないが、民衆の力の勝利だ。
 けれど今、日本への波及はどうか。からくも持ち堪えてきたソ連派だけでなく、「左翼」の遁走の合図にはならないか。今こそ、反スタを反スタとして打って出たい。後退する人々に希望を与え、踏み止まらせなければ……。
 
 前進社出版のソ連本『ソ連エリツィン体制と第2革命の展望』は、この思いを踏みにじるものだった。「ソ連の崩壊は、米ソ核軍拡競争に敗北したことにある」「敗北を自認したソ連指導中枢の分裂こそ、ソ連崩壊の原因だ」。
 確かにそれは重要な因子であるには違いない。けれど、反スタの見地からそこに押し込めていいものか?ソ連そのものの根本をえぐりだせ。
 「なるほど」と、改めて「ソ連本」の意義が分かったのはいつだろう。清水さんは、ソ連崩壊と中核派の現状を重ね合わせて語っているのだ。たまたま軍事的に敗北したに過ぎない。けれど、敗北と認めたら中枢分裂だ。敗北と認めるな。中枢分裂を起こすな。俺に責任をとらせるな。「転戦」と言いくるめれば、中核派は崩れない。「うーむ」。軍事の鉄則ではある。
 
 中核派の反スタは、スタの反革命性は、永続革命に敵対し背を向けた「1国での社会主義建設可能論」にあると定義している。官僚主義的腐敗は、2の次だ。スターリンの「1国社会主義可能論」とは、理論以前の問題だ。無為無策の自己合理化に過ぎない。この確認が出発点だ。
 後進帝国主義ロシアの革命は、西欧革命=世界革命との合流なしに、社会主義社会建設の条件をクリアできない。もともと社会主義とは、世界革命を前提としているけれど、ロシアの後進性は、一層、西欧革命の支えを必要としている。これがトロツキーの永続革命論であって、後年のレーニンも同調する事になる。スターリンも従っている。
 そのロシア革命の孤立、西欧革命の遅延、ロシア革命は危急存亡の縁に立っていた。その中で、スターリンがスターリニストとして台頭していった。
『レーニン最後の闘争』でレーニンは、グルジア民族政策を争点として、スターリンの排斥を呼びかけた。スターリンの「1国社会主義可能論」は、党内闘争の主導権をほぼ握る前後に、突如打ち出されていく。
 ロシア革命での「内戦」は、周辺民族の生活・社会を死のローラーで踏みにじり続けるものでもある。ポーランドへの電撃的進攻とその完敗、コサック問題、レーニンとトロツキー自体、民族政策の破綻をくり返している。それを反省せず居直ったのがスタなのだ。
 

資本主義化の途とは

 多分、清水さんのブレティンの件だと思う。「エリツィンは資本主義化へ、決定的に舵を切った。これを基調に据えよ」。
ロシア君が猛然と噛みついた。「それはエリツィンの主観に過ぎない。スタの社会構造は、簡単に資本主義化にはつながらない」。具体的な諸問題を挙げて論陣を張って行く。
けれども水谷さんは、激しく切り捨てるだけだ。その言わんとする事は、「頭が高い、清水さんへの畏敬の念が無い」に尽きる。たまりかねてロシア君が叫んだ。「エリツィンは共産党の階段を昇って来た。その基盤は、スタそのものだ。エリツィンにスタを解体しきる事は出来ない。刈谷さんがそう言っている」。
私は情勢を追っていない。けれどもロシア君とは何度も長時間話して来た。私はむしろ聞き役で、分からない点を見つけ出して2人で調べる、という事を楽しんでいた。黙りのつもりだったけれど、話を振られて参戦する。「水谷さんは、資本主義化のための必要条件を言っていない。スタ体制の何が崩壊しなければいけないのかを言うべきだ」。「クラッシュ(崩壊)、クラッシュ」の言葉をくり返した。
歴史が示した事は何だったろうか。エリツィンのロシアはどん底に陥った。確かにロシアは崩壊した。そしてエリツィン自身、失脚してしまった。この経済的崩壊を経て今、ようやくBRICsの1角に入る。産業としては、石油以外に国際的競争力は育っていないロシア。これが、「資本主義化」「発達した資本主義」といえようか。
それとも清水さんは単に、資本主義に隷属するという事を言っただけなのか。K氏は、中国の改革開放路線を評して「中国共産党は、資本の原始的蓄積と自由な商品について全く分かっていない」と批判している。清水さん、あなたにこの意味が分かるだろうか。スタの崩壊は、反スタの崩壊だった。そしてそれは、中核派の資本主義理解の水準を顕著にした。「資本主義とは何か」、清水さん、もう1度、1から学び直したらどうか。

45      問い返すべきもの

全国連婦人部の交流集会

 前進社3階の大会議室から、女性たちの怒声が溢れ出る。全国連婦人部によって、FOBと婦民全国協の女性たちが、部落差別を糾弾されている。全国連の婦人部交流集会で、傍聴団として参加した「共闘」の女性たちが、「天皇制批判のスローガンを入れよう」と行動し、大会を破壊しようとした事件だ。
 確かに全国連は、差別の元凶として天皇制打倒を掲げている。それを婦人部が、敢えて掲げない事に違和感を持つのも、ひとまずは分かる。けれども、他人の大会の現場で、そんな主張で行動するのは、あまりに初歩的な無知だ。
けれども、だ。単なる無知を越えて行動に及んだその背景は何か。編集局の会議でも明らかになって来ない。「部落民女性の闘いと葛藤を受けとめよ」では済まない。「女性こそ、部落民女性にとっての最悪の差別者」という根本的提起もある。「婦人部」という名称にこだわる理由を解き明かそう。「部落民女性にとって、女性解放よりも、部落解放が第1義的だ」という事、この事をどう捉え返すか、これが課題のはずだ。それは、中核派自身の課題だ。
解放運動に、共闘として関わってきた若手の質問に、私は「そもそも女性運動として参加することがどうなのか。俺ならおいそれと行かないよ」と答える。「そうか、問題はもっと深いんだ」と答えが返ってくる。打てば響く奴だ。
 
しかし私はなお、中核派の女性解放運動の凍結と退化こそ、問題の核心なのではないかと思う。要は、共闘の女性たちが、ムラの女性たちに、あまりに馴れ馴れしく、長年の同志たちのように振舞ってしまったという事だろう。その甘えがどこから来たのか?
年に数度の女性の日。女性たちのマグマのような思いが溢れだし、ハイになってしまった、自制がきかなくなってしまった、という事なのではないか。そんな気がしてならない。――「凍結の解除」、そのこと無しに、観念上の操作では一歩も進めない、そこまで来ている、という事ではないか。
FOBは、「革命的」な女性にとって、出世の階段だ。婦民全国協は「駆け込み寺」化している。婦民(本部派)を「反共」と断じた後の「女性運動」は、差別・被差別も、都市の女性と農家の「婦人」の抱える課題の差異も、「革命的」に解消してしまった。残るは「政治的マヌーバー(ごまかし)」の道以外の何だろうか。「三里塚基軸」、それならばこの三里塚でこそ、女性解放の豊かな発展の道が問われていたのだと思う。婦人行動隊への迎合的讃美こそ、女性運動の腐敗、原点そのものの解消、そして農村女性への内心の侮蔑感を促進したのではないか。
 
私はこの糾弾が、穏やかなものに終わる事を祈るような気持で見つめた。矛先を変えて欲しい。このまま進めば、消滅寸前の中核派の「女性解放」論そのものの息を止めかねない。その結果は、委縮し絶望した女性たちの、「革命化」しか想像できない。けれどもそれはそれで、無理な相談かもしれない。私自身、「対岸の火事」として眉をひそめるだけだ。
 
後日、別な話を聞いた。この頃、婦民全国協自体が、曲がり角にあったらしい。大衆団体としての全国協が、大衆団体としての原則性を失い、「党」による露骨な私物化の過程にあったという。とすれば、事件は、「全国連をも党の私物と見なした人」たちによって引き起こされたことになる。
 

国際政治の鳥瞰図

 元・全学連委員長は「国際政治の鳥瞰図(ちょうかんづ)を描いてみたい」と言った。その企画は『前進』の2面をぶち抜く大論文となって結実した。アジアを含む世界各国の、それぞれの外交政策がコンパクトに並べられた。読者達の驚嘆の声が届いた。「大成功」だった。
 しかし私の評価は違う。「あと3年後、同じ企画をやれたら、その時初めて論評してもいい」。理由はいくつかある。まずこの論文が各国の外交政策の「接点」に触れていない事。単なる並列にとどまっている。日米・日韓・米韓のそれぞれの接点で、外交がどう動くのかを予測させるものが無い。言い方を変えれば、これは静止画で動きが無い。
 2つ目は、果してそれが、各国の本当の外交政策なのかという解説・検証を、筆者自身が尽くしていない事を私が知っていたからだ。
『時事通信』と『世界週報』、その2つだけ、そのリード部分だけが、彼のアンチョコだ。国際政治学はおろか、アジアや世界の実情に、彼は全く無関心だ。それでもこんな驚くような大作が出来るという事の意味、それは措こう。
 アメリカの年次報告書、それは突き詰めて言えば、アメリカ国内の政治における権力闘争・政策闘争のプロパガンダでもある。国務省と国防省の報告書のニュアンスの差は大きい。
この当時、米軍の「アジア重視」について『前進』がくり返し論じた事がある。ついに、日米安保と日帝の軍事大国化が、世界史を決する唯一の軸となった……。しかし私が調べたら、「NATO.10万、アジア10万」への転換、という事だった。私はそれを『コミューン』に書いた。
 「検証」という作業抜きに、深みがあり「使える」ものは出来ない。このままではこれは、「敵性文書」に過ぎない。あくまで、「あえて言えば」ではあるけれど。
 
 やはり大好評のまま、単発に終わってしまった。中核派に、国際政治へのまともな認識はないままだ。「成功」が示したのは、この「不在」だ。
 

人権論争

Oさんと東峰君は、救対活動の教訓の中から、人権感覚を学ぶべきだとくり返し主張した。獄中の爆取被告の内藤同志は、元クリスチャンだという。それもあって彼の故郷のクリスチャン達が、内藤さんを守る会を自立的に作り上げ家族を守り、活発な運動を広げていた。2人はこの中で学んだらしい。「中核派には人権観念が無い」。
 人権論争の中で「死刑廃止」運動への関わりも論議に出された。かつて私は、東アジア反日武装戦線の公判に派遣された事がある。しかしすぐ派遣取りやめとなった。
 死刑廃止運動への共感を唱えるOさんや東峰君、それに対し「ふざけるな!」と恫喝する水谷さん。動揺の色を見せるFさん。私もしばらくは沈黙だ。「人権問題」そのものが、私には初めてと言っていい。
 水谷さんの論拠は2つあったと思う。1つは、あの闘争そのものを支持できない。それはいい。もう1つは「死刑廃止」そのものに反対だという事だ。中核派は「革マル3頭目の処刑」を目標としている。それと整合性が取れない。「戦犯ヒロヒトの革命的処刑」も同じだ。
 私は考えあぐねた末に発言した。「戦時と平時を分けて考えたらどうか」。革マルとの殺し合いの戦場は措こう。「暴力反対」論者だって、犯罪現場では実力で闘う。「非暴力直接行動」の思想を取り込めばいい。天皇ヒロヒトも、より本格的な内戦の場に引き出せばいい。どんな平和主義者でも、ムッソリーニの処刑・絞殺を非難はすまい。むしろ永山則夫氏[1]を「死刑反対」で救い出すべきだ。確かに自己矛盾はある。それは、自分で悩めばいい。
 木で鼻を括るような議論だけれど、少しは援護射撃になったろうか。
 

人権と内藤裁判

 「刈谷さん、ちょっと」。編集局員ではあるが、独立した部署のOさんに呼ばれて『破防法研究』編集部の小部屋に入った。「お金いくらある?全額貸して」。内藤裁判の弁護士費用が足りないという。水谷さんに請求するか、救対が出すのが筋だと思うけれど、とにかく貸した。何度かそういう事が続いた。
 「意見は言うな。私を応援しようと思うな」と釘を刺して、Oさんは経緯を語り始めた。爆取と闘う内藤裁判、彼女は今、救対や「党」を排除して自力で闘っている。傍聴からも救対を締め出している。「私1人でやっている」。
 編集局長がドアを開けて、無言で去る。「ほら、何を話してるか覗きに来たでしょ。スパイ活動よ」。何を言い出すのか分からなくなった。どうやら、何も聞かずに帰った方が身のためらしい。
 内藤裁判で、Oさんと弁護団は「無実の証人」[2]の出廷を求めている。しかし「党」は、「仮に内藤同志が死刑になったとしても、証人は出さない」と厳しいらしい。うーん。非公然の党中枢の生き死にに関与しているという事か。私は想像した。
 対立の結果、「党」は弁護費用を一切出さないと決めているらしい。彼女は時折、長期に姿を消して、自力で働いて金を作って帰って来る。この時も、百万を超える借金が残っているという。「うーん」。彼女が助けを求めたPOSBは、「分かった」と請け負って談判に行った。しかし帰って来た時は、彼女の説得役になっていた。
 結局私は、彼女の求めのままに、「見ざる聞かざる」を決め込んだ。話は聞く、金を貸す、それだけだ。内藤裁判は、無実=無罪の判決を勝ち取った。しばらくして彼女の姿は消えた、と後日聞いた。
 

「証人威迫」について

 何が争点だったのか、それが私の中で分かって来たのは、本社を出てからだ。彼女の言葉を考え続けた後だ。
 Oさんは戦士たちを「犯人」という言葉で表現していた。また、「証人威迫」を厳しく弾劾していた。これは「党」と、内藤裁判を支えるクリスチャン達の立場の相違をよく表現している。
 藤井裁判や垣端裁判での、勝利の記憶は新しい。私も動員された藤井裁判の目撃証人実験。私たちは、証人の記憶の正誤をデータで示していった。たった百人余の証人実験だったけれど、それは日本裁判史上初の実験だ。目撃証人の信頼度は、1回たりとも検証されていなかったのだ。ましてや有罪認定の「正答率」を検証された事も無い。藤井裁判はそこをついて、無実勝利を勝ち取った。それは内藤裁判でも共通な土俵だ。
 その上で「党」は、「無実の証人を除く、あらゆる手段」で無罪を勝ち取ろうとしていた。裁判闘争での動員も、その手段だ。法廷は獄中被告と交感できる大切な場所だ。しかし一般人の目撃証人が出廷する日に、普段を倍する傍聴者を動員したらどうなるか?廊下に溢れる「赤い暴力団」の間をすり抜け、満室の傍聴者の視線を背に受けた証人はどうなるか?
 クリスチャンの人たちはこれを「証人威迫」として、拒絶したのだ。証人に語らせ、事実を明らかにして無罪を勝ち取ろう。そのためになら、「過激派の仲間」と言われても本望だ。でっち上げ弾圧に苦しむ家族を支え、無実の社会運動を創り出す。裁判の公正を実現して行こう。
仮に被告が犯人であるならば、「確信犯」として獄に耐えるべきだ。自分たちもまたクリスチャンとして、「社会の獄」と闘っているのだから。
問題は、「党」が小手先の技術で裁判を捉え、裁判それ自体を社会改革の課題に据えていない事だ。内戦勝利こそ全て、クリスチャンは利用するだけ、という了見の狭さだ。中核派の司法への認識、それは「司法=治安警察」論だけだ。一体全体、我々が「無罪」を勝ち取れる司法とは、今、何なのか。その捉え返しが無い。
 ようやく見えてきた。「先制的内戦戦略」とは、戦後をそして今を見据えていない。変革の社会綱領を2次的なものに見下した、暴力的暴力の思想なのではないのか?
 

スキャンダラスな人々

 91年に亡くなった横浜・紅葉坂教会の岸本羊一牧師の遺稿集『スキャンダラスな人々』が、私たちに配布されたのは、多分翌年の秋だ。日本に於けるクリスチャンは、新しい価値観や生活観を生み出すものだったと言っていたと思う。
神への思い、自分への思いは、世俗の中で日々葛藤の連続だ。世間では、スキャンダルばかり引き起こす奴らと罵られる。であればこそ、日本のクリスチャンは「スキャンダラスな人々」に自ら成るべきだ、そんな趣旨だったと思う。組織におもねず、権威に従わず、自立した個人であろう。だからこそ「人権」に固執しよう、と。
 私たちの、あるいはまた、反日武装戦線の闘いに彼らは反対だ。決して同調し得ない。けれども弾圧には、彼らが身をもって対決し擁護する。その根底にそうしたものがある。それに学べ、と2人は言う。
 Oさんや東峰君の主張が、私にもようやく少し見えてきた。マルクス主義と人権論、その方法論は水と油だ。マルクスは「個」や「自我」をどう捉えていたのだろう。よく分からない。けれどマルクスは、それらを「ブルジョア革命の課題」と見なしていた。そしてブルジョア革命を推進し、その上に社会主義を展望していた。多分、ブルジョア的諸権利は、ブルジョアに学べば事足りたのだ。このへんはむしろエンゲルスに学ぶべきらしい。私は当面、2足のわらじを履く事にしよう。股裂き状態に、私が堪え切れればいいのだ。


[1] 永山則夫。『氷の上の魂』の著者。68年、          東京のホテルでガードマン射殺など連続射殺事件を起こした。97年処刑。
[2] 無実の証人。警察が「革命軍」と認定した裁判では、無実・無罪を勝ち取るには、数倍・いく層もの無実の証拠を要求される。それに対決して多くの無罪判決が勝ち取られてきた。非公然メンバーの場合は、同じ非公然活動家のアリバイ証言が不可欠となる場合が多い。

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