40 焼きまんじゅう
本社に帰って1週間か、「休養」の時間をもらった。でも、気力が回復しない。活動を再開して間もなく、「刈谷さん、恋をしてる?」と尋ねられた。「ため息が熱いよ」。答えられる事はない。
任務の無い日に外に出ると、私は相手かまわず電話をかけまくった。「今何してる?うん、それで?」。旧友・知人の消息と今の生活を知りたかった。そして彼ら彼女らの目から、今がどんな世の中なのかを確かめたかった。しばらく本や活字はいい。
時には、前橋や遠くまで足を運んだ。日帰りや1泊では、上州弁は戻って来なかった。帰りには焼きまんじゅうをたらふく買い込んで、本社の大食堂で焼いた。「どうだ、上毛名物はうまいだろう」。夕食のテーブルに並んだ同志たちに、配って回った。とりあえず、それが「荒本の総括」だ。
荒本から戻った女性は、「関西弁で喋るわ」と宣言した。2人して、関西弁丸出しで激しくやり合う場面に、皆、目を丸くしている。
荒本から帰って私は、議論が出来なくなってしまった。この思い、あの想い、これを伝えられない。何をどう言ったらいいのか、分からなくなっていた。
私が本社以外の人と話せるのは、ほとんど社防室だ。私にとって「社防」は、かけがえのない場所だ。D隊(ドライバーー)も、「社防室で一服」の1員だった。確か千葉県出身で、一途な人だった。ある日、「刈谷さんって、質問するといつも間が開くんだよね」。まどろっこしそうだ。そう、私は何をどう答えればいいのかが分からない。ひと呼吸入れて、「今」の自分を押しのける。もうひと呼吸して、答えを待つ。私の中で思念の波がひと巡りする。まどろっこしいけれど、それしかないのだよ。
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私は細部にこだわった。画龍点睛の点、この点の無い議論は初めから撥ねつけた。軽蔑と無視、これを最大の武器にして、相手を選別した。検証の無い議論は容赦なく切り捨てた。共に成長し合えない奴とは、同席するのも苦しい。
「真理は細部に宿る」。三里塚反対同盟の、故・戸村一作委員長の言葉が蘇える。
共同保育論
社防室で、戦線から動員されて来た女性と談笑していた。女性が、「共同保育についてどう思いますか?」と聞く。彼女は、30前後だったろうか。「10・8世代」の出産の後、後続の女性たちもその年齢に達していた。しかしこの世代、女性たちの比率は減る一方に感じていた。杉並を別にすれば、彼女たちのネットワークもありそうにない。
戸惑いながら私は、「共同保育運動」の意義と歴史を語った。70年代初期、女性解放の機運が盛り上がり、現実化の視点が共同保育であった事、横浜や群馬の実情などを話した。私自身の、現状への苛立ちをも語った。本社に来て10年、最近の実情は何も聞いていない。
時々質問を交えながら、彼女も目を輝かせて聞いた。社防室にタバコを吸いに来た若手も加わって来た。初めてこんな話を聞いた、という感じだ。
「支部に、産みたいという女性がいる。どうしたらいいでしょう?」。私も応えた。「新しい共同保育運動が今、必要なんだと思う。このままなら、女性たちの党離れは止まらない。女性の獲得と、その活動の保証という問題は、第1級の組織問題だと思う」。そこまでは良かった。
「問題はそれを『党の利益』と、どう結びつけるか、なんだよね」。「えっ?」。「実際にはメリットの他に、デメリットもまた大きいんだ。とりあえず『大混乱』が起こる、それをどう克服出来るかだね」。「ふーん?」。「でもそんな言い方をしていたら、女性離れも止まらない」。
堂々めぐりの議論にしてしまった。「女性の問題」は事実上、FOB(女性組織委員会)の専管事項だ。男たちは口を挟めない。そしてFOBは、事実上活動していない。そんな中で、私に何が言えるだろう。
保育の現場で
地区が関わる保育所が、ある時、集中弾圧を受けていた。逮捕やその救援で人手不足になり、動員要請があった。私も動員された。行ってみると、広場にブランコと滑り台、木造の1軒屋。外見、どこにでもある無認可保育所だ。こういう所があること自体、初めて知った。その中味は何も知らないままだ。
少し早く着いたので、保育部屋で待たされた。カゴの内に数人子ども達がいる。待つのもつらい。「子どもと遊んでいいですか」と許可をもらう。あやしているうちに、だんだん可愛くなる。息子を、離れるまで3年、必死に子育てしたから子どもも安心して笑う。戦士から子育てへ、体中の血が入れ替わるのが心地いい。一瞬、脇腹が痛くもなったが、すぐ消えた。
翌週も動員だった。行ってみると「手違いで、今日は大丈夫」と言われた。丸1日あいたので、映画でも見ようかと思った。けれど、昨日見た壁の汚れが気になった。台所の片隅、ホコリだらけの壁と換気扇、せんえつながら「掃除していいか」と聞いた。
掃除は予定を越えて半日がかりになってしまった。お礼に昼食を御馳走になった。暖かな日差し、子どもと遊びながら食べると、体全体がおいしいと言っていた。
数日後、編集局の会議で私は表彰された。保育所からの礼状が読み上げられた。一般に「党」の動員の人は、「指示」がないと動かない。その中でただ1人、「刈谷さんだけは」自分から次々に仕事を探していた……という趣旨だった。苦虫を噛み潰して聞いていたが、少し、嬉しかった。
でも、「党員として」の評価には関係ない事だ。路線転換が叫ばれて久しく、「部局主義の克服」や、「積極的な問題提起の必要」の御託宣もくり返された。しかし「党」、特に本社の体質は変わらない。「指示の無い事はするな」とする軍令主義下で打ち固められた不文律は変わってはいないのだ。時代の変化もあるかもしれない。
印刷工場内でできた若いカップルは、近くに部屋を借りて通う事になった。自転車や、1人で徒で出る事も認められた。少しずつ、少しずつ本社生活も変わって行く。
女たらし
社防室。隊員のコミック君が突然言い出した。「刈谷さん、あんたほんまに女たらしやな!」。「えっ?何の事?」。「さっきから見てると、女性にばっかり声かけとるぞ」。社防隊長は受付を兼ねている。その一部始終をこいつは見ていたらしい。「おまけに見境なしや。誰彼構わずやないか。まー、選り好みせんことで許したるけど」。
ふーむ。そう言えばそうかもしれない。工場や救対を除けば、本社は本当に男の世界だ。男たちが集ってぼそぼそ話している。ぼそぼその中に、会議での報告事項の本当の狙いや事実があったりするのだけれど、女性たちはその輪に入れない。そんな空気も嫌だったし、とにかく日常生活に「女性との会話」が無い事が堪えられなくなっていた。せめて、会話の3分の1は女性であって欲しかった。それが知らぬ間に行動に出てしまったのだ。
コミック君は工場や本社中に、この発見を吹聴して回った。工場のジャズさんに、「あら、女たらしさん」と声をかけられてしまった。面目ない。まーいいや、これから俺は「革命的女たらし」だ。
前進社からタクシーで、一緒に出る事もあった。そんな時、私は女性たちに声をかける。「コーヒー飲もうよ」。「刈谷さんて下心が見え見えだからな」。「そんな事言わないで」。「奢ってくれるなら付き合ってあげる」。「分かった、分かった」。「ついでにケーキもね」。
断られたら言ってやる。「ふん、人妻と付き合ったってつまんねえしな」。「人妻とは何よ、人妻とは。だから本社の男は嫌なんだ」。
同年輩の女性たちは、人並みの服を着ている。けれど、年下の女性たちの姿はみすぼらしかった。そんな話を知人とした。次の機会に知人は、妻の衣類を大きな風呂敷に詰めて持って来てくれた。私はそれを背負って帰り、本社の玄関脇に並べた。3、4日すると全て無くなった。女性たちは少し、いい女になっていた。
「有難いだろう。俺のお陰だ」と、女性たちに感謝を迫る。「えーっ、刈谷さんなの。スケベ、捨てよっ!」。
生い立ち
「刈谷さん、そっちの言ってた通りだったよ」。帰省から戻ってきたK君が言った。「やっぱりね」。皆が出払った編集局の部屋で、タバコを吸いながら2人だけの時だった。
数か月前、たまたま互いの生い立ちを語り合うことがあった。K君は貧しかったその生い立ちを語り、「俺は水のみ百姓の子だ」と言った。「だから階級的なんだ」。
けれども私は違和感を持った。「Kの雰囲気には地主の臭いがする。下層出身には感じられない」。激しいやりとりになった。K君は帰省中に父母の生い立ちを問い直してきた。自身のアイデンティティが崩れたと言う。
「没落した良家の子」、「狭間にある」ことこそが私たちのアイデンティティだといえようか。
かつて元妻の父親の半生記を読ませてもらった。第1次大戦以来、幾度も幾度も浮沈を重ねてきたその半生は、私の現代日本観を一変させた。現代史を、激流の中で生きた多くの人々の青春や人生の群像として捉え直すと、全く違った実像が見えてくる。明治維新から盧溝橋まではわずか70年、それは人の一生の長さだ。明治の豪農運動の広がりは、今、各地に根付いたしきたりや行事・お祭りに生きている。
中核派の「7・7自己批判」も親・祖父母にさかのぼる「自分史・地域史」抜きの平板な「抑圧民族の一員論」に固定化(ドグマ化)するなら、逆に選民観・差別感を助長するものにしかならない。そう思う。