カテゴリ:☆☆私本『狂おしく悩ましく』の本体 > 第9章 野にありて

ガチャバンの会
 6月だったろうか?私はようやくアパートを借りる事が出来た。バイク便で働き、コミック君に20万円借りて、新居に移った。家財道具をどうしよう。
そうだ、佐野雄介君のリサイクル店がある。「障害者」差別と闘ってきた雄介君。彼の自立の拠点が「ガチャバンクラブ」だ。随分安いという。1石2鳥だ。トラックを借りて買いに行こう。
あらかじめ、欲しいものを連絡しておいたから、準備して待ってくれていた。戸棚、洗濯機、冷蔵庫、そして数多くの小物。応対してkれたSさんが言う。「党の人で買いに来てくれたのはあなたが初めてよ」。「えっ?安いから来たんだけど」。「でも初めてよ」。
一体どうなっているんだろう。杉並、世田谷、西部。私と違い動員でも来て、みんな知っているはずなのに。私より何倍も大衆的な広がりを経験しているはずなのに。そうだ、私自身「安い物を買いに行く」事に1度は戸惑ったっけ。戸惑った上で来た私と、やめてしまった人の差は何なのだろう?
「戸口から戸口までのイデオロギー」という言葉もあった。中核派は変わってしまったのだろうか?いや違う、中核派は結局、変われなかったのだ。実生活での「差別・被差別」の交わりを恐れ、忌避する、萎縮する。現場を見ない。現実を見ない事で、中核派は中核派たり得たのに違いない。
 

ゴヘーさんの死

 ゴヘーさんが泊まりに来た。工場を出て、今、飯場で暮らしているという。梅雨時の事だ、「土方殺すにゃ……」のこの時期、仕事にあぶれて暇を持て余している。金も無い様だし私も1人だから、夕食を作って一緒に食べよう。
 親方はピンハネで食っている。雨の日は出面(でづら)を渡して「休業補償」する。親方にたかって泥酔するまで飲み明かす。そんな日常をゴヘーさんは楽しんでいる。やっぱりゴヘーさんの「心の故郷」は、ここにある。
 

 ゴヘーさんと会ったのは本社の工場だ。「大組み」係の新参者、少し変わった奴だなと思っているうちに、自然と仲良くなった。元は柏崎・刈羽原発の反対運動をしていたという。反原発運動の構造を生き生きと話してくれた。私は手頃な生きた教材として、ゴヘーさんの話を聞くようになった。

漁民・農民・そして市職、それぞれの行動原理をよく見る人だった。ゴヘーさんはそのどれでもない、町工場の労働者。差別と偏見の中で闘って来た人だ。彼の友人たちがまた、変わった人ばかりだ。
私の伊方原発のインタビュー記事の、「平家の落人部落伝説」という言葉をゴヘーさんは殊のほか褒めてくれた。「この言葉で…地形が分かる。山間の峡谷、その奥の人も寄れない土地、それが平家の落人部落だ」。うーん、そうか、書いた私が唸る番だ。
日本企業によるマレーシアでの工場廃棄物から出る「死の灰」、2人で集会の取材に行った。ゴヘーさんの記事が『前進』に載る。私は、ゴヘーさんを元気づけただけだ。
2人して流行りの女子プロレスを見に行った。若い女性ファンの中で「やれー、やれー」とオジさん達が一緒に叫んだ。
 
 何週間か私のアパートに居候したある日、旧知の女性と3人でカラオケに行った。初めてのカラオケで、音痴を恥ずかしがりながらゴヘーさんも歌う。沢田研二だったっけ。都内では当たり前の、こじゃれた服装の女性を眩しそうに見るゴヘーさん。その戸惑いの表情が忘れられない。翌日仕事から帰った時、ゴヘーさんが消えていた。刺激が強過ぎたのか、私の「別の世界」に違和感を持ったのか。
新宿大ガードの近く、柏葉公園の脇の路上でゴヘーさんは死んでいた。公園で路上宿泊していた夜、酔っ払って路上に寝ていた所を車に轢き逃げされたらしい。犯人は見つからない。公園の路上宿泊の人に、ゴヘーさんの話を聞いた。柏崎の日々を熱く語っていたという。ゴヘーさんはどこに居ても「中核派」だった。
 
 追悼集会に、ゴヘーさんが残していったジーンズ上下を持って行って飾った。懐かしい工場の人たちの顔があった。順番が来て、私もマイクを握った。
「ゴヘーさんの死は、いかにもゴヘーさんらしい最期だと思う……。今私たちは、労働運動路線の中にいる。けれどマルクスの規定によれば、ゴヘーさんはルンプロだ。労働運動路線も、ゴヘーさんの存在をすくい取る事は出来ない。私たちはこの事をどう捉えたら良いか?」。
「そうだ、その通りだ!」。新潟の席から同感の声が聞こえた。
 

東京清掃

 その頃私は、東京清掃の役員と会っていた。新宿西口の喫茶店に、清掃氏は新築の都庁から歩いて来る。その頃、東京清掃は、都労連集会でも最大動員を誇り、その戦闘性は注目の的だった。
 清掃氏は、経済学を学びながら、清掃局の事務員になった。同期の数人、あえて清掃局に入り、労働運動を始めた人の1人だ。旧社会党の社会主義協会派系の、親中核とみておこう。協会派とは理論も言葉も違う、けれどその良さは、三池炭鉱闘争をもリードした現場密着型だ。
 「国鉄家族」という言葉があった。親子代々、国鉄職員という人も多く、全体としても家族的な仲間意識が強い。外からは容易に入れない。清掃現場も同様だという。しかしそのちゅう帯は、国鉄どころではない。仕事の差、「社会的地位」……。
 清掃現場は、70年代の美濃部都政の同和行政の遺産もある。当然、狭山闘争は組合的課題になるらしい。何度も話すうちに、「人材不足」が課題になる。「中核派には人材はいないかな」。「うーん」。
 
 労対宛てにレポートを書いた。さっそくメンバーがやって来て、喫茶店で話し合った。獄中闘争を闘う星野文昭同志の盟友だ。彼自身、長期の獄中闘争を勝ち抜いて復帰していた。
 盟友さんは、「清掃氏は、革マルかそのシンパと認定されている。組合本部方針も、許し難い裏切りだ」と言う。中核派は、東京清掃の本部を敵視するビラも撒いていたらしい。
 私は、都労連政治の複雑な枠組みを説明した。「共産党との主導権争いがキーポイントだ。革マルとの、つかず離れずの『共闘』は、その枠内から位置付けられている。当局との合意の内容も、現状では最善だ」。盟友さんとはいろんな話をした。中核派の「自己中」の思い込みこそ、改善されなくてはいけない。
 中核派は、「東京清掃の闘いを支援し連帯する」という立場に転換した。とはいえ「使える奴を提供」する事もなく、清掃労働者にとって、外部の「クソの役にも立たない」存在に変わりはない。「社民との統一行動」は、口先だけで終わっていく。

阪神・淡路大震災と企業組合

以下は、知人への手紙をそのまま引き写しておきたい。
私が最終的に中核派から離脱した事件だ。中核派の「社会的無能性」と「反社会性・無道義性」の問題としておこう。
 
 95年の阪神大震災に際して、「新社会党」でK氏の弟子である、W氏を藤掛さんに紹介し、さまざまな活動に協力してもらいました。震災関連では、一時、彼の果たした役割はずいぶん大きい物でした()
その後、W氏は「企業組合」(96)の展開に大きく関わりました。被災者運動代表のHsさんを中心にした、「被災者が食うための」企業組合です。
 
企業組合は事あるごとに内紛をくり返しましたが、その原因は常に現地担当者の側にあったと言って過言ではありません。W氏は、最初の担当者・Ikの専横振りと身勝手さへの企業組合の女性たちの怒りを「Ik問題」として、「関西の党」にくり返しレポートし、最後的に責任体制を変更させました。「神戸の靴産業の生きる道」として始まった「セラピーシューズ(健康靴)」では、協力業者を探し出し、マスコミを引き入れて活路を開きました。地元の福祉活動家のNさんは、その人脈と名望をフルに使って企画を打ち出し、「市場」を開拓しました。
しかし、「党の担当者(Ikとその後任のFj)による引き回し」は収まらず、9712月、「企業組合」は、女性4人の代表格のFさんと在日のSさんを追放するにいたります。きっかけは、企業組合の財政的破綻にあったことも大きい。けれども、見方によっては、企業組合が「一時期・一定の成功」を収めた故の問題、でもあるようです。少しの成功ですぐ傲慢になり、「自分の成功」に酔い他人を見下す、ということです。
 
「高山・入管闘」も、「階級的でなく民族性に固執するSさん」(担当者の上級指導部のMi)の追放に同意します。関西も東京の「党」も、W氏との面談すら拒否するようになっていました。「取れる物だけ取ったら不要」ということでしょうか。
私はすでに活動を停止していましたが、W氏にとっての「中核派」は私です。W氏に「取り持ち」を依頼され、藤掛氏の後任の東京の担当者のSaを引き出して、事態を説明しました。3人で、お2人を追放する総会を傍聴しました。お2人のIk・Fjへの怒りの言葉を聞きました。
 
この過程で、Ikの「お客へのセクハラ問題」などが発覚しました。「またか!」とうんざりしながらW氏らは「Ikを企業組合から外せ」と要求しました。けれども関西の党は「はずしたらIkが潰れる、常任を守る」(Fj)と拒み続けます。「セクハラ」の原因ともなった資格外のIkの「全身を診る医療行為」にも居直りを続けました。
W氏とN氏は「もはやこれまで」と、企業組合との協力関係を打ち切ると決断します。Sa氏も、「俺も支援を降りる」と明言しました。この席で、協力業者へも「関係を再検討する、事実上打ち切る」よう提案することが話し合われました。業者との関係や「市場」は、W氏やN氏が自ら勝ち取ってきた信頼関係・地位で保証してきたものだからです。Sa氏もここまでは同調しました。然し後には……。
 
○民事訴訟
99年3月に、「企業組合」が、業者を「損害賠償」で訴えるにいたりました。「訴状」の大半は、W氏らを「組合破壊分子」「妨害活動」として罵る言葉に埋めつくされていました。内容上は私もSa氏も被告=業者側になります。
私は業者側=W氏らの立場に立ち、「訴えるならW・刈谷を」と主張しました。「協力業者を訴えるなど、恩を仇で返すに等しい」。訴訟の進行は逐一、政治局(天田・中野・Sa氏あて)にレポートしました。藤掛氏を通して、「何かあったらすぐ報告しろ」という指示も受けていました。彼らも訴訟以外の何事かが起ることを危惧していたようです。
関西の決定を承認しつつ私の報告を求めるという天田さんらの2股の対応の背景には、当時激化していた国労臨時大会での「檀上占拠」をめぐる東西対立の火に油を注ぐことへの危惧がありそうです。「天田・Sa vs. 関西・ Mi」の人物構図がそのまま当てはまるからです。
98年2月、天田さんとの最後の会談で、私は「党の最終決定」を突きつけられ、また「関西地区党への不当な工作」の罪により、「謹慎処分」されました。私は、「党の正義の是非はおいて、社会正義の問題は残る」というのが全てでした。
1審では「一介の業者」さんが、弁護士の挑発に乗って、あらぬことを口走りました。「悪質な業者と可哀想な被災者」という構図が、裁判官の「良心」をくすぐったのでしょう。控訴審では、私もしぶしぶ、被告側証人に立つことを決意しました。「問題は東西の『党』の対立にある」、それでけりがつく。
私とSa氏の名前が被告側の証言に現れた時点で和解がなりました。関西も敗訴を覚悟したのでしょう。和解に乗り出しました。業者さんも「これ以上訳の分からない連中と争うと、仕事が身に付かない」と「社会の勉強代」として和解を求めました。
1審では、「8百万円」の賠償請求が2百万円の判決2002年の控訴審では「百万円」で和解しました。
 
「百万円を即刻払いたい。けれど当座の金が無い」ということで、私が労金から借金して工面しました。本来、私()が支払うべきものと思いますが、私に財力がないことが、こんな中途半端な対応になってしまいました。痛恨の極みです。
直後に、天田さんや中野さんらの4人に当てて報告書を送り、「“通報の権利と義務”の終わり、今後のいかなる指導も拒否する」と通告して、私の「中核派」としての「身分」も最終的に終わりました。
 × × ×  
自分の至らなさで保護者に叱られた子どもが、すねて、喚いて、駄々をこねる。妻に見捨てられた元夫が、ストーカーとなり「無心」する。そんな気もする。
 

レーニン的オーソドキシー

 ある時、ふっと分かって来た。本社生活での最後の数年間、私は「レーニン的オーソドキシー」の立場から議論してきたつもりだった。けれども批判してきたその1つ1つは、清水さんや水谷さんのブレティンやテーゼを筆者たちが忠実に引き写したものだった。
私は「オーソドキシー」を素直に、「70年」を準備した「古典的」で「原則的」な大衆闘争への回帰、と理解してしまった。しかし、これこそが「誤り」だったのだ。「古典的」な党活動や、大衆運動の核心に、「レーニン的手法」という魔法の小槌が欠けていた。
 
今、思い出した。私が編集局に移って間もなくのこと。月刊『武装』で、この「レーニン的手法」についての論文が連載されていた。党内闘争、対権力闘争での「レーニン的手法」こそ宝なのだ。レーニンは、党内闘争に勝ち抜くためには手段を選ばなかった。党内民主主義について論ずる時の、諸々の論点の差異は、ただ勝つためという1点で矛盾しない。労農同盟論も、「農民に土地を」のスローガンも、「権力奪取への執念」として見習え。やはり、「信念的信念」こそが鍵だったのだ。
 
うーむ。空港公団の家族の死も、神社仏閣の焼き討ちも、レーニンがやった事そのものだったという事か。レーニンがやった事に比べれば、まだ甘いという事か。
これが「3・14」への、清水さんの総括の核心だったのかもしれない。“本多さんは甘い”それを克服せよ、だろうか。レーニンから何を学ぶべきか、という視点が、全く逆だったという事か‥。参った、参った。
 

白井朗さんの除名

 01年、中核派の「第6回全国大会」で、政治局員の白井朗さんの除名の特別決議がなされたと聞いた。私も久しぶりに『前進』を読んだ。
白井さんが、「多少、多く本を読んだからといって」、「全責任をとる同志に敬愛の念を持たずに」、本を出そうとした。自己批判から逃げて、権力に投降した……。そんなところだろうか。
投降の「証拠」に、「自首して氏名を名乗った」ことがある。けれどもホテルでの出火だ。ここには白井さんの社会への責任という革命家としての姿勢・進退が溢れている。清水さんは人を跳ねても、自分が安全圏に逃げ去るまで数時間、被害者を放置するのを常とするのだろうか?
救援連絡センターから駆け付けた弁護士の選任を拒否して、「ブルジョア弁護士」に頼った、という。中核派のI弁護士を断ったという事か。ブルジョア弁護士とは、北陸の中核派の弁護をしてくれる人の事だ、と後に白井さんに聞いた。
 
「革共同は、分派闘争を否定した事が無い。革共同は、常に分派闘争の歴史だ」、ともある。
 「分派闘争」……なるほど、その通りだと思う。ここに「上からの」を加えれば、スッキリする。中核派は常に、上からの分派闘争の歴史だ。私は、「下からの分派闘争」を知らない。沢山問題は、「鉄パイプ」の後に知らされた。関西支社を占拠し、地方委員を囚にして中央と交渉しようとした……という外形的事実だけが知らされた。田川さんの時も同じだ。
唯一、女性解放問題での「革共同への袂別状」が読み上げられた記憶があるだけだ。
 
 本多さんの時代は、まあそれで良かったのかもしれない。当時の「常任会議」の出席者の多くは20代半ば、この年代の5歳、10歳の差はそのまま、理論・政治力で雲泥の差だ。社会経験などゼロに近い若者たち。疑問や反対が出ても、バシバシ叩けばそれで済む。専制的指導も大らかにやれたはずだ。
 唐突な路線転換、上からの軍令的転換、――転換の理由、その構想、清水さん、あなたは1度でも合意の為の説得をした事があるだろうか。
 筆者たちにも聞いてみたい。あなた自身は1度でも「上から」でない分派闘争をした事があるのか?あなたは、「上からの分派闘争」の前に、予めあなた自身の内に、それに備える中身を準備した事があるか?あなたが単なる茶坊主でなく、単なる出世主義者でない事を、確信を持って言えるのか?
 
白井さんとの再会
白井朗さんの『20世紀の民族と革命』(99年刊)と、2つのパンフを読んだ。1度会ってみたい、直接話してみたい。どう転ぶかは会ってからの事でいい。白井さんと会うために動いた途端、全身に震えがやってきた。下腹部からのキリキリした痛みが止まらない。「反革命」の汚名、「権力への投降、スパイ」のレッテル、そしてテロルへの脅威。
私は震えの中で悟った。「私はもう、中核派ではない。私は今、歩み出したのだ」。
 
 白井さんと会えたのは、1週間も後だったろうか。いろんな話をした。白井さんが、民族本の出版をめぐって清水さんと激しく対立した時、敗れて「自己批判」を書いた時、そして天田さんの手紙に引き寄せられて留守にしたアパートを襲われた時……。水谷さんの不可解な言動も、理論戦線の冬眠も、それで辻褄が合う。
その時私は、何も知らずに白井派の旗を掲げて最後の闘いをしていた。私はとんだドン・キホーテだったわけだ。とんだお笑い草だ。
 

2つのテロ

 02年12月、白井さんへの中核派によるテロがあった翌日、私はタクシーの同僚たちと朝食会をしていた。「白井さんがやられた」という電話が入った。やり取りを聞いていた同僚が「新聞に出ているって、大事件なんだ」と怪訝そうだ。私は「脱藩の浪士が藩の追っ手を受けている」とだけ答えて、席を立った。
 病院のベッドに横たわる、白井さんの痛々しい姿に目を覆う。けれど為すべき事も山とある。私は為すべき事を為すだけだ。[1]
 「鳩」が帰って来た。本社のメンバーがシンパたちに、白井せん滅を語っている。けれど直後には、本社も支社もかん口令が敷かれている。良いも悪いも質問すら許されない。「軍報」が出る気配も無い。なるほど、これが清水=中野体制か。
 もう1羽の鳩は、約束の時間に大分遅れてやって来た。私と会っている事を責められて、大分脅かされたらしい。彼の使命は、私に自己批判文を書かせて、逃亡させる事だ。私は健保と生命保険の話をした。「これさえあれば食うには困らない」。
「内ゲバには出ないんじゃ」と言う彼に、私は健保の仕組みを説明する。「謝った方がいいよ」と何度も説得されたけど、私は私だ。「もう会えないかもね」と恨みがましい彼の顔。犯人が中核派である事を疑う者は誰もいない。
 白井さんと角田さんへのテロ、その構想は何なのだろうか、私は考え続けた。共通するのは「中枢防衛」、そして共に元・中核派。共に「党内テロ」の延長線上にある。
 まず角田さんへのテロ。中核=宮崎関係を清算せよとする角田さん。宮崎スパイ問題を暴露した角田さん。宮崎が提供したのは金だけではあるまい。中枢そのものが、宮崎の掌中に有ったと見たらいい。いつか恐るべき事実が明るみにされるかもしれない。結論は待とう。宮崎学と中核派の問題だ。
 
 白井さんへのテロは、清水さんの「本の出版は俺に対する権力闘争だ」という言葉に象徴される。そして何ともグロテスクな発想の『清水著作選』(97年7月)
亡くなった陶山さんの遺稿集ならいい。それをも差し置いて、生きて現役の清水さんの『著作選』なんて誰だって笑ってしまう。あなたは本多さんや黒寛ではない。
 
 どうやら、文化人類学にいう「劇場国家論」が当てはまりそうだ。中核派の中で、清水さんの神格化運動が起こっているのだ。
「全責任を負う唯1無2の革命家」、彼はちまたでは「単ゲバだけの粗暴な人」とみなされている。野島さんはつぶれた。陶山さんは事実上、除名されたまま亡くなった。見渡せば茶坊主か不満分子。今やこの清水さん1人に、全ての難問がのしかかる。
全ての矛盾と混乱・怒りに応える、快刀乱麻の快刀であって欲しい、理論も政治も傑出した人であって欲しい。党の中堅の中から、神格化を求める声が集中しているのではないか。しかしまた、神格化そのものへの疑惑も生まれる。無理を承知の神格化なのだ。
 
この時、白井さんの「出版企画」は、「王様は裸だ」と言うに等しい。白井さんはまず、生ける神様に畏敬の念を示し、『清水著作選』の企画を提案し、しかる後に恐る恐る『20世紀の民族と革命』プランの可否を伺えば良かったのだ。
この当時の白井さんは、ようやく「政治局」に復帰して間もない。10年近く、「軍事小委員会」の専制的指導から隔絶され、革マル『解放』すらも届いていなかったという。松尾問題すら、知らされていない。党内の情況認識の欠如も、むべなるかな、とも言えようか。
 
右手に万邦無比な『著作選』、左手に党内テロの剣。清水=弁慶の仁王立ち。


[1] 清水=中野体制。2つのテロの特徴。、①鉄パイプを使わない。白井さんは「宅配便」に自宅に踏み込まれ、両手・両足を骨折。角田さんは、砂入りバッグ?で襲われた。②犯行声明を出さない。質問も許さない。統一戦線の会議では「中核派の犯行ではない」とシラを切る。③「不特定の犯人」への弾劾声明の署名者に、撤回を要求して脅迫的「説得」をする。

復古的社会主義

 私はタクシー乗務員になった。乗務員八百人という中堅企業だ。組合にも入らないつもりだったけれど、事情があって役員にもなった。私の経歴を知る共産党員たちを支え、補完する。
 ある時、「それで総括はしているのか?」と問われて、「結局は共産党と同じだった」とだけ答えた。彼らもまた、共産党の中で自立して考える人だ。ある人は元社会党、ある人は手のつけられない暴れ馬だ。これで思いは通じる。
 
ようやく、あの先制的内戦戦略の意味が分かって来た。やはり、「暴力、それだけ」だ。清水さんや野島さんたちは、機動隊せん滅の直線上に「革命の現実性」を見たのに違いない。「決戦・決戦・決戦」、軍を基軸にした決戦の為に、「党」をぶん回す。70年の地平を食いつぶして、真1文字に進む。
対革マル戦自体も、「上からの党内闘争」と常にリンクさせた。会議は上意下達の場に変わってしまった。メンバーに「空気を入れる」事が主題となる。地区の課題やメンバーの抱える問題を対象化して葛藤するという組織の基本的機能が「悪」となる。煩わしい課題を棚上げにしてしまう。私たちは、人参を追う馬のように、「欲しがりません、勝つまでは」で引き回される。そうあるべき存在だったのだ。それは実は「下部・現場」だけの問題ではなかった。政治局自体の変質と「単細胞・無思想化」そのものだった。
社会変革の綱領も、今ここに在る為の闘いも、政治判断として使える限り、口約束してもいい。しかしそれが、少しでも軍戦略や基軸路線の見直しを求めるならば、「戦場離脱」の軍法でさらし者だ。
 
実際には、70年の地平もある。「真1文字」は、紆余曲折したものになる。「70年」的なものとの闘いが、第1義的になる。ここでは、本多さんと清水さんの政治力、懐の深さの差が顕著に出るかもしれない。幾重もの統一行動や共同行動も、それが基軸を揺るがす時、あるいは清水さんの「型」に入らぬ時は、粉砕するしかない。「他党派解体のための統一戦線」が軸だ。時代の変化に背を向けて、純化、純化、「無内容化」だ。
 
 革命軍戦略を進める「党」とは、色濃い農本主義的な家父長制的組織観を土台としている「陰謀の党」だった。「閉ざされ切った環」だ。上からの党内闘争だ。
そこから見える社会主義社会の像は、清水さんたちの青年期の社会像を、確固たる社会認識として固定したもの以外にあり得ない。あるいは「暗黒の戦前」観だ。それ以外に何も無いではないか。
その結末は、スターリン主義顔負けの管理社会でしかない。マルクスの用語に従えば、復古的社会主義というべきか。「1枚岩」、実際には各人各様の「多様さや創造性のない雑居性」とも言えようか。
「第2の7・7」を党史から抹殺した、中核派の「血債の思想」は、本来のそれとは似て非なるものだ。エセ「血債論」は、ある時は革命軍戦略へ扇動し、またある時は党内反対派への鋭利な刃となる、基軸主義・路線主義の方便にすぎない。薄皮1枚剥ぐだけで融和主義、戦前の「協和会」へ辿り着く。さらに言えば、国際連帯を口にするが、日本人(中核派)を選民視した、極めて1国主義的「革命」論だ。
 社会党、総評が解体し、大衆運動の戦闘的復活の兆しはまだ見えない。危機の時代の巨大な空白の中で、この中核派でもなお、やり方次第では2倍、いや10倍程度の勢力回復の余地もあるだろう。孤独な若者たちの救済の場として、機能する事もあるだろう。「共生」の道を広げれば、まだまだ存在の意義はある。
その成功の、その日まで、中核派に持ち堪えて欲しい。「社会の風」が、湿った、淀んだ空気を押しのける。その時こそ、中核派の挽歌が歌われる。私は、中核派の「成功」の日を心して待ってみたい。

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