カテゴリ:☆☆続『狂おしく悩ましく』 > 元中核派の人など

【ブログ注】
 論考は九州の尾*さんが、ロシアの侵攻以来ひと月半後の4月22日に書き上げたもので、ずいぶんと「タイムラグ」もあります。ブチャの虐殺が明らかになったころの物。
 しかしまた、マリウポリの陥落(降伏)と東部ドンパスでのロシア軍の猛攻の頂点にある現在は、一面ではその提起の一番当てはまるときのような気もします。ブログの判断で見出しと段落をつけました【以下転載】

 今日は2022年4月5日です。ロシアが占領していたウクライナのキエフ近郊の都市でロシア軍によるジェノサイド・大量虐殺が起こっていると報道されています。戦争に関する報道は最初だけが真実だといわれてもいますが、ジェノサイドが引き起こされたようです。
 プーチン政権はジェノサイドそのものは否定せず、ロシア軍の関与は否定しています。プーチンは2月24日の開戦当日に、「ドネツクのロシア人を大量虐殺から救え」、「NATO軍の侵略からロシアを守れ、これはネオナチと闘う大祖国防衛戦争だ」と演説し、ウクライナ侵略戦争に踏み込みました。
 そこにはロシアとウクライナの民衆が共に生きる、平和な生活を実現する考えなど全くありません。
 ロシアによるウクライナ侵略戦争そのものです。
 侵略戦争は三光作戦【註】と女性へのレイプ暴行は必ず繰り返されます。それは侵略戦争の目的には民衆にとっての大義・正義がないからです。ロシア軍のウクライナでの「三光作戦」は人類への犯罪です。
 【註】(三光とは日本軍が中国侵略戦争で行った殺光・殺し尽くす、焼光・焼き尽くす、搶光【そうこう】・奪い尽くすのこと)
 同時に、わたしはゼレンスキーー政権やそれを支援するNATO軍や日本などにも責任があると思います。それはロシアの侵略に対してウクライナの政権と軍の戦争目的は「ウクライナの民衆を何としても」守りぬくという物ではないからです。もし民衆を守るのであれば、民衆とともに撤退するはずです。
 しかし、ブチャではウクライナ軍は軍隊だけが撤退し、逃げ出す余裕のある人たちだけが逃げ出し、逃げ出す手段とお金のない人たちはそこにとどまる以外にありませんでした。ウクライナ政権と軍は民衆と町々を無防備のままロシア軍の前に放置したということです。軍隊は民衆を守らないという歴史の真実がここでも繰り替えされました。ロシア軍がそこへ侵略してくれば何が起こるのかはわかっていたのに。ウクライナのぜレンスキー政権下の軍隊は民衆を守らなかったのです。
 民衆をひきつれて後退する、安全な場所に民衆を誘導するために軍隊は動かなかった。民衆を守るために全力を尽くすか否かでその軍隊の戦争の目的が明らかになります。
 ゼレンスキー政権の軍隊にも民衆の命と生活を守るという大義はなかったのです。ジェノサイドの責任はロシアと米日をはじめとする西欧の両者にあります。

 今回のウクライナ戦争は強盗どもの領土分割をめぐる強盗どもの戦争です。戦火の中に放置され虐殺された民衆の側にわが身を置き、戦争を止めるために、戦争をなくすための行動に立ち上がりたいものです。
 ……… ……… ………
 こう書きながら現に今起こっている戦争を、ジェノサイドをとめるために自分は何をしたのか。なにができるのかと悶々と考えています。これまで二けた足らずの難民しか認定しなかった日本政府は政府専用機に20人のウクライナ人を救出し今日帰国します。中東から欧州に逃げてきた難民には見向きもしなかった日本政府が突然の変身です。決して日本政府が人道主義者に変身したのではありません。ウクライナのようにならないために軍備の増強を、核武装をという声はあっという間に世論を飲み込みました。それが狙いです。

 戦争を繰り返してはいけないという思いをしっかりと胸に抱いて。………以下略

【ブログ注】
    東部ドンパス地域では「包囲される前に撤退か?」という解説もあったけれど、結果的には避難は間に合わないようです。
    ウクライナでも日本政府は「難民認定」をあくまでも拒否して「避難民」としている。
あくまでも今や批判と怒りの焦点でもある入管体制を護持するつもりのようだ。この国はどこへ行こうとしているのか?














二か月前の元反軍兵士の小西誠さんの提言です。その後の戦況やもろもろの変動の前のものとして、当時としては「画期的」な意見の一つでしょう。
今日的には南東部の要衝・マリウポリに当てはめれば、それなりの共感を呼ぶのかも知れません。
私自身はいま、大いに揺れに揺れて、それ自体で疲れ切っている…
【以下転載】……… ……… ………

ウクライナ主要都市の緊急の「無防備地域宣言」を!|小西 誠|
note

2022326 09:49

ゼレンスキー大統領および欧州の首脳への提言!

ウクライナでは、連日のように「火炎瓶を作っている女性ら」が、美談のように取り上げられている。あるいは、国民の戦争動員や義勇軍の勇ましい風景が、メディアで喧伝される!

だが、これらのメディアは「市民の戦争動員」ということの凄まじい結果を、誰も考えようとしない。それどころか、日本のマスメディアを始め、世界中のメディアが、「ウクライナ市民の英雄的抵抗」としてキャンペーンする。

――
市民らが、都市で武器を取れば「壮絶な、無差別の市街戦」になることは軍事常識だ。どんな強力な正規軍といえども、「市街地戦闘」には困難がつきもの。都市のビル(迷路のような建物)などは、絶好の要塞であり、トーチカである。

だから、ロシア軍の攻撃は、市街地戦では「無差別」になる(残念ながら「戦争の掟」)。

これを避けるには、市民の武装の放棄・解除はもとより、市街地からの「退去」以外にない。また、ウクライナ軍自体も市街地から退去しない限り、無差別戦闘は避けられない。古典的レジスタンスの「英雄的美談」を吹聴する時代は、すでに終わっているのだ。

このためには、具体的には、例えばキエフなどは「無防備都市宣言」を行い、全ての軍隊・軍事力の退去が必要だ。これは国際法に認められたもので、歴史的にも、アジア太平洋下のマニラなどで、実行された。

ウクライナの悲惨な市街地での、市民の殺戮を即刻止めるためには、繰り返すが無責任に「美談」や「悲惨」をキャンペーンするだけではいけない。

そして、ゼレンスキー大統領および欧州の首脳らへ!

ウクライナの美しい街、そして市民の犠牲を避けるために、ゼレンスキー大統領、そして欧州の各国首脳、さらに世界の知識人に呼びかける!

この戦争から、ウクライナの市民、そして街々を守るために、国際法にのっとり、キエフなどの主要都市に「無防備都市宣言」を出していただきたい。この宣言下の街々から、軍隊と武器を撤去していただきたい。

これは、「敗北」の勧めではない。「名誉ある撤退」の勧めである。1941年、フィリピン・マニラを守るために、マッカーサー将軍が執った英雄的行為である。東洋一という美しい街を守るため、マッカーサーは、マニラの無防備都市宣言を行い、コレヒドール島へ撤退したのだ(ウクライナの場合、例えば、リビィウへの一時的退去)。

I shall return.    I shall return To Kyiv .

この戦争の現下の戦況を考慮するなら、「知将」は、必ずこの「無防備都市宣言」の選択をするだろう!

*一刻も早く「ウクライナ主要都市の無防備地域宣言」を!
*ウクライナーロシア戦争の即時停戦を!

(参考文献『市街地戦』(陸自教範))

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
拙著『オキナワ島嶼戦争: 自衛隊の海峡封鎖作戦』の無防備都市宣言の引用から

「先島諸島の「無防備都市(島)」宣言
 以上、見てきたような、政府・自衛隊の恐るべき島嶼防衛戦――島嶼破壊戦に対し、先島諸島の住民らはどのようにすべきなのか。いや、これはもちろん、先島諸島の人々だけの問題ではない。「海洋限定戦争」を通して、日本全体が、ひいてはアジア太平洋地域が巻き込まれる戦争だ。

 ここに筆者は1つの提案をしたいと思う。それは国際法上でも認められ、かつ歴史的にも宣言されてきた「無防備都市(島)宣言」を先島諸島の住民たちが宣言するということだ。

 この無防備都市宣言は、「特定の都市」がハーグ陸戦条約第 25条に定められた無防備都市であることを、 紛争当事者に対して宣言したことを指すものである。正確には「無防備地区宣言」と呼ばれ、特定の都市、地域を無防備地域(Non-defended localities)であると宣言することをいうのである(ジュネーブ諸条約追加第1議定書第 59条)。

 こういう無防備都市宣言を行った地域に対し、紛争当事国が攻撃を行うことは、戦時国際法で禁止されている。そして、「無防備都市宣言」を行う場合、この地域からは全ての戦闘員、移動可能な兵器、軍事設備は撤去されなければならないし、また、この地域で軍隊や住民が軍事施設を使用することも、軍事行動の支援活動を行うことも禁止されるのだ。

 つまり、「無防備地区宣言」とは、宣言する地域が軍事的な抵抗を行う能力と意思がない地域であることを示すことによって、その地域に対する攻撃の軍事的利益をなくし、その地域が軍事作戦による攻撃で受ける被害を最小限に抑えるためになされるものである。

 歴史上、無防備都市宣言を行った地域は幾多の例があるが、もっとも有名であり、かつ成功した例が、フィリピン戦争でのマッカーサーの「マニラ無防備都市宣言」である。この戦争の経緯は省くが、1941年 12 27日、マッカーサーはフィリピンに侵攻した日本軍に対し、マニラ市の「無防備都市宣言」を行い、米比軍の全てをマニラから撤退させ、マニラ湾の入口にあたるバターン半島・コレヒドール島に立て籠もったのだ。ルソン島の北西部リンガエン湾などに上陸した日本軍は、このため、フィリピン上陸以来のわずか 10日でマニラに入城することになった。

 言うまでもないが、マッカーサーがマニラ市の「無防備都市宣言」を行ったのは、東洋一美しいと言われたマニラ市とその100万人にのぼる住民たちを、殺戮と破壊・戦禍から守るためであった。そして、マッカーサーのその宣言によってマニラ市は、破壊からも殺戮からも完全に守られたのだ。

 しかし、1945年、 攻守は一転逆転したことは歴史の示すところである。1945年 10月、マッカーサーの連合軍は、レイテに上陸し、その後日本軍が上陸した同じ場所、ルソン島リンガエン湾から上陸作戦を開始した(1945年1月9日)。

 だが、 山下将軍の傘下にあった海軍マニラ防衛隊と陸軍部隊は、マッカーサーと対照的に「マニラ死守」を宣言したのだ。この日本軍の「マニラ死守」による凄まじい、地獄のような市街戦によって、東洋一の美しさを誇ったマニラ市は、徹底的に破壊し尽くされたのだ。マニラ市内に残る約 70万人の市民のうち、およそ 10万人が戦闘に巻き込まれて死亡(過半は日本軍の虐殺)し、 マニラ市街は文字通り廃墟と化したのである。

 「無防備都市宣言」は、事実上、紛争相手国の占領を無抵抗で受け入れることを宣言するもので、「降伏宣言」という主張がある。確かにそれは一面としては正しいだろう。しかし、現代世界において、「無防備都市宣言」を行い、文字通りの無防備の島々に対して、軍事的攻撃を行った場合、それこそ国際世論全てを敵に回すことになるだろう。

 もちろん、無防備都市宣言は、この宣言を行うだけでは事足りない。沖縄・先島諸島の人々が、この宣言を契機に中国の各都市と平和交流・文化交流・経済交流を深めていくとき、その平和は本物となるだろう。つまり、 先島諸島で「無防備都市宣言」を行い、実際に自衛隊配備を拒むならば、これは戦争を食い止める根源的・現実的力となるのである。

[参考]
*ジュネーヴ条約追加第1議定書第 59条「無防備地区」……紛争当事国が無防備地区を攻撃することは、手段のいかんを問わず禁止する。紛争当事国の適当な当局は、軍隊が接触している地帯の付近またはその中にある居住地で、敵対する紛争当事国による占領のために開放されているものを無防備地区と宣言することができる。無防備地区は、次のすべての条件を満たさなければならない。
(a)
すべての戦闘員ならびに移動兵器及び移動軍用設備が撤去されていること、
(b)
固定した軍用の施設または営造物が敵対的目的に使用されていないこと、
(c)
当局または住民により敵対行為が行われていないこと、
(d)
軍事行動を支援する活動が行われていないこと。
*ハーグ陸戦条約の第 25条「無防備都市、集落、住宅、建物はいかなる手段をもってしても、これを攻撃、砲撃することを禁ず」と定められている。

 

 

 

 


目次をあえて公開したのはひとまずその構成を知ってもらうためだ。
 長くなってしまったので、お茶でも用意しながらお読みください。
  🍰 ☕ 
 ……… ……… ……… ……… ……… ………
まず3部に分かれる。
第1部は、45年集会での発言を採録したもので、いわば「オリジナル部分」。全体の半分弱がこれに当たる。
第2部と第3部は、すでに公開されたもの。元々は中核派の『前進』や季刊誌『共産主義者』や知識人:弁護団などの『破防法研究』で文字として公開されているものだ。

発行主体は誰か?
「江村編集」とあるが、集会を呼びかけた向井さんや「実行委員会」などが冠されてもいない。

 そうした事実を踏まえ「編集者の目指す方向性」についてあえて言っておきたいこともある。
 まず第1部。
 ざっと見て、編集者が強調したい発言は3つ。

 ①先ずは呼びかけ人の向井さんの発言(「3全総」)。
 本多さんの神髄=革共同の神髄は「地区党建設・労働運動」という発言は、実は70年前後の学生運動出身者にとってはいわば「寝耳に水」と言ったら言い過ぎか?
 ただ、発言の中身は向井さん自身の体験談や本多さんの思い出などが満ちていて、「違和感」は少ない。それに90年代以降に労対や労働運動に踏み込んだ人々には「ついに言ってくれた」という人もいるかもしれない。労働現場で活動する人には「何を今さら」かもしれない。
 さらに最近の中央派も「歯に衣」を着せながらではあるが、同様な領域に踏み込んで久しい。いわば「三全総に帰れ」。向井さんが意図してかしないでか、故岸・水谷氏らの『敗北』本ーー武装闘争=ロケット弾路線の継続論を批判している。ただ、こうした向井さんの発言はすでに集会実行委員会のブログで公開されていて今でも読める。hondanobuyoshi1975

 ②
次いで水谷(槙)けい子さんの特別報告「本多さん虐殺の真相」だ。
 槙さんは横国大出身の旧姓で、中核派の女性解放委員会の責任者も務めた人。水谷保孝氏の連れ合いでもある。
 革マル派が「本多書記長が交通事故にあい瀕死の重傷」という偽電話に始まり、ご家族をはめ込んだ大掛かりな謀略=演出によって本多さんのアジトを突き止めて凶行に及んだ全体像が語られた。

 政治局が押し隠し続けた襲撃の実像が初めて公開された。ただ実際には秘密は漏れるもの。今回の報告で実際に私が知ったのは、「横浜の病院の革マル医師」が一つの病室を抑えて家族と「包帯だらけの本人」の面会場所とした、ということだけだ。

 ③
水谷保孝氏の「本多暴力論」継承発言。タイトルの立て方も分量も向井さんの発言に匹敵する。
 02年の白井朗さんへのテロと沈黙への「自己批判」もある。私や牛〇さんがヤジを飛ばしたのは、この自己批判に対してだった。
 自己批判の要旨は、「仮に白井が間違っていたとしても、本多暴力論の正しい適用ではなかった」。この「上から目線」の「自己批判」にはあきれる他ない。
  そもそも「自己批判」は誰に対してなのか?まずは「被害者」に赦しを得て…自分のブログ『試練』でまともに書いて、それから公開の場で要旨を語る、のはず。
白土 当ブログでは90年前後の白井氏の民族問題の出版提案とその後のいくつかについて書いている。私としては「血債の思想」やスターリン主義批判のスタンスがここでついに理論的にもコペ転したと振り返る。(実践的には70年代~80年代に「棚上げ」=放棄されていた)
【補足 以下】         
水谷氏らが失脚した06年の「関西での党の革命」をメインに据えると、白井さんへのテロと隠蔽の構図は、その序奏とも言える。水谷氏が本気で自己批判するなら、その辺も含んで欲しいね。【以上 補足】          
 その辺も併せて、機会を改めて論じていきたいね。
 水谷氏の発言には革マルの反革命的言辞集みたいなものが付いていて、結果として向井さんの分量に匹敵する。これも何のためのものか?

 ④他の元中核派諸氏の発言などはそれぞれの今の立ち位置や思いを語っていて、それはそれとして貴重だともいえる。
 斎藤政明さんは奥浩平がいた─私的覚書 (RED ARCHIVES 03) | 齊藤 政明 |本 ...の著者
 高田武さんは「地下潜行/高田裕子のバラード (レッド・アーカイヴズ 04) | の著者
 伊藤隆〇さんの発言は当ブログにアップ済だ。伊藤さんの発言 : 『狂おしく悩ましく』
 原田誠之さんの「」も実行委員会でアップ済み。
   関連して私の芝工大事件=滝沢紀昭さんの死の経緯についての集会での「5文字の削除要請」発言は当ブログでアップした。

   白土 ただし、こういう形で出版するなら、実はまだ問題が残っている。当時の中核派メンバーも事件の被告人だったという事実も含めて明らかにする必要がある…

 「共産党による告訴事件での指名手配中…」についても、「反戦連合ほか」の人たちも手配されていて、実際に起訴されたのは実はそちらの人々だった。「闘う中核派VS 闘わない離脱グループが」…という構図からくる表現自体がが問題だ。
 あえていえばこの辺も削除の対象。この問題も、「内ゲバ」の問題を正面から振り返る時、避けて通れない。
梅 「非業の死者」は革マル・共産党そして連合赤軍関連を含まない。もちろん反日武装戦線は含むけど。救援連絡センターのそれとも区別される「一定の政治判断」があることは知っていた方がいい。
 以上のことは、場所を改めて続編にしよう。
白土 うん。色んな事件やいろんな角度から、時間をたっぷりとって話し合いたいね。
 
紅  在日の李さんは「7.7自己批判」について在日としての違和感をはっきり強く語った。(華靑闘=在日華僑と在日の立場の違い)
 各氏の発言は、あれから時と経験を経て、「今」の思いが満ちている。さしあたり「てんでんこ」で「不協和音」だ。先の3発言や水谷発言に集約できるものではない。むしろそこに今後に残したいものがあるとも言える。
 改めて発言集だけならたぶん全体の4割弱か。それだけにしておけば無難なものになったともいえそうだ。

第2部・第3部は、当時の本多中核派の地平を語っている。革マル派の蛮行の意味もよく分かる。歴史的文書ではある。
 しかし、この2・3部には何か根本的な怒りをもつ。
 ㋑それぞれの発言は、いわば「中核派との蜜月期の言葉」だという事実だ。
 その後の経緯の中で、ほとんどの人が中核派との関係を断つ、または断たれる。
 ㋺多くは故人になっているが、いま改めて公表するとしたら、掲載を拒否するか、最低一定の補足説         明をしたいはずだ。
 ㋩今の時代は、「著作権」、死後であれば遺族のそれが大事にされている。編集者としては常識と言      っていい。
   特に白井朗さんによる追悼文の転載にはびっくりした。白井さんの清水氏や本多さんへの「不忠」をテロの理由にした人が大々的に引用するとなんて…
 たぶん、発言集だけでは「売れない」ことからの「やらせ」というところか?
 『前進』は昔から「人権に無関心」と言われて来たが…
水谷氏の白井さんへのテロの「自己批判」は、この出版計画から逆算したものと考えると、いかにもガテンがいくね。

湯本発言の削除など
 ところで、ここには「湯本=白土発言」が無い。そのいきさつは?
白土 うん。「載せる」とも「載せない」とも連絡もなかったね。集会最後の江村氏の出版発言にも正直言って「絵空事」以上の感想もなかったけど。
垣沼さんも同じで無断で排除された。
 遙かなる一九七〇年代-京都 学生運動解体期の物語の記憶の著者。松岡 利康 他1名
 槙さんの第2発言も削除された。発言自体が闇の中になった。いわば「爆弾発言=元中核派の女性としての自己告発」でも。これを削除できるのは水谷氏以外にない。

水谷監修
 いろんな経緯からしてもそもそもこの企画は、水谷氏の「本多正統派宣言」みたいなもの。
 その意図はボロボロの結果だけれど、その思いだけが溢れ出している。
 「水谷監修」本と定義するのが正しい。
 改めて、第1部だけなら、意味あるものなのだろうけど。
 まっ、この記事が公表されるのが遅れた分だけ、本書の売り上げに寄与した、といえるのかもね。

【ブログ注】
技術的な問題がひとまずは解決しました。この欄で目次を公表します。


……… ……… ……… ……… ……… ………
タイトルの本が出版された。
肯定・否定に評価は大きく分かれそうだ。
まずは中立的に内容紹介から。
最初に目次から (目次の部分をクリックしてご覧ください⇒ダメかな?)
スマホの人はデスクトップ形式で開くと見やすくなるようです。上の👁️を押すと…

編集のつごうで続きは別の記事にします。
今後は「江村追悼本」や「江村⇒水谷『追悼本』」あるいは単に「追悼本」や「江村本」とします。
江村①B5
















えむらほんだし



江村本③

福島中②クリックして拡大してご覧ください。ポスターの写真だけです。

福島中

《本多延嘉書記長追悼の集い(2020年10月25日)での呼びかけ人発言》

本多革共同の真髄は三全総にある

向井拓治

はじめに

 本集会の呼びかけ人の向井拓治です。

本日お集りの皆さんにはほんとうにありがとうございます。このようにお集りいただけるとは思っていませんでした。大変嬉しく思っております。ありがとうございます。本多延嘉さんだけでなく、多数の非業の死をとげた仲間たちを追悼して、この会を進めたいと思います。
【以下略】

http://hondanobuyoshi1975.livedoor.blog/archives/7804265.html

東北地方委員会の記事へのコメントを移動しました。
「正道」さんお久しぶりです。と言いたいところですが、残念ながら顔がうかびません。
でも嬉しいです。
【以下転載】……… ……… ………

new!白土さん、お元気そうで何よりです。
神奈川時代にはご一緒させていただいた者です。

 NC-ELを巡る中央との対立は簡単に解決しそうもないどころか、塩川派との分裂と同じような構造をもって進んでいるようです。
 だいたい私に言わせればと言うか、本多さん指導下のNCは「改良闘争だろうと世話役活動だろうと、労働者と結びつき細胞建設が進むなら、階級の利益に反しない限り好きなようにやりなよ」というスタンスだった。その代わり、自分がイストとして組合主義に埋没しないためにレーニンを一生懸命読んだものです。
 そもそも労働運動はこれでなければいけない、なんて枠にはめた時点で、労働者を組織することも細胞を建設することも出来ません。
 いうなれば中央派の変節は細胞建設の重圧からの逃亡、敗北主義なのであり、それを糊塗するために党の役割を「階級的労働運動=動労千葉」に代替させ押し付けたと言っていいと思います。

 ELの提起でもう一つ重要なのは、情勢認識ですね。言うまでもなく、「段階―過渡―変容―再編―危機」という帝国主義世界の現状認識において革命情勢を語るのが本来の立場であり、ELのように「革命情勢はない」と言ってしまうと右翼チックになる。しかし、革命情勢がある、と言いながらその論証もそれに照応した革命党の任務も提起せず、すべてを新自由主義論で片付ける中央派はもっとどうしようもないですね。

 また、新しい情報が掲載されることを期待しています。
(正道有理 https://pd4659msub.hateblo.jp/archive)

【ブログ注】
サービスとして正道有理さんのブログを紹介します。

2021-03-09 15:47:58 返信編集

内閣調査室をゲシュタポと化した安倍のおぞましき政治支配

内調は安倍の私的謀略機関 このところ自民党の総裁選をめぐって、内閣調査室(内調)の暗躍がクローズアップされている。 自民党総裁選の有力候補と目される石破氏の言動や、誰を推すのかに注目が集まっている小泉進次郎氏の動向、そしてこのタイミングで野…





レーニン「なにをなすべきか?」学習ノート (第一回)

目次 序 レーニン組織論の形成過程(末尾年表参照) 1)「なにから始めるべきか」でレーニンが提起した三つの問題 2)「われわれの組織上の任務について一同志にあたえる手紙」 3)『なにをなすべきか?』の意義 ・プロレタリアートの組織性 ・「生きた人…

憲法前文は平和主義・国民主権という理念の変更を認めてはいない

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1
【ブログ注】
 記事「私の発言」の続編です。見出しは当ブログで付けました。当ブログの判断で未完のフルネームにしました。
【以下引用】……… ……… ………


伊藤隆×さんの発言(メモから。要旨)

☆略歴
 
1951年生まれ


19703月に麻布高校を出て、大学受験せず704月に大企業に正規入社し、同時に杉並反戦青年委員会に入って活動を開始。1975年に「裏」=非公然活動に移行。

3回全国指名手配を受ける。

1回目の手配は75年3・6に革マル派の難波力(「解放」発行責任者)が完全せん滅された事件。

「車を準備してくれ」と上から言われ、私の実家の車を借りて持って行ったところ、その車が逃走過程で検問絡みで乗り捨てられ、私が手配された。当時は盗難車の技術がまだ無かった。

2回目の手配は80年10・30事件で、革マル派学生5人が東工大の付近で××された事件で、中核派5人が指名手配された。非公然活動をしていたということで私も手配されましたが、私はまったく関係していません。
   (【ブログ注】××=バツバツと読む テロまたは「せん滅」の意。この場合、 「完全せん滅」=死亡の意) 
 1992年2月に潜伏場所にガサ入れがあり逮捕されたが1か月後に不起訴釈放。
 3回目の手配は1982,3年頃に革マル派労働者が重せん滅された事件で、私は部屋から一歩も外に出ない生活だったが指名手配されたというもの。

 

1992年後半に表に浮上した後、千葉県党の常任として活動。2000年頃にあった杉並都議選選対への「出向」を拒否したところ、千葉の常任を外され「本社あずかり」となる。

その後、白井朗政治局員と親交があったが、白井さんが中核派による襲撃を受け、白井さんのワープロに私の名前があったことから、革共同との関係は断ち切られた。

 「除名」でも「党員資格はく奪」でもなく、清水丈夫氏独断によるものと考えています。


「内ゲバ」と戦争への思い 

私は俗に言われる「内ゲバ」―中核対革マル対解放派の党派闘争は、全面的に間違っていたと強く思っています。100人を超す活動家が命を落としました。その中に本多延嘉書記長もいます。

先日東京新聞のコラム記事に「内ゲバ死者100人超。暴力団の抗争、山口組対一和会でも死者は30人位」とありました。

70年代以降、日本の新左翼運動はずっと低迷しているわけですが、党派闘争=内ゲバに一般学生、労働者が恐怖し、「活動したくても怖くてできない」という状況を作り出してしまった、1960年代、70年代世代の私たちの責任はとても重大だと考えています。

死者が出るような闘争のやり方、あり方には心の底から反対します。

戦争にはすべて反対です。侵略戦争にはもちろん反対ですが、民族解放革命戦争にも、今は反対する立場を取ります。

死者が何十人、何百人から、数十万人、数百万人出る「戦争」に対して、徹底して反戦運動、反戦闘争を対置して生きて行こうと考えています。

――以上―― 
  2020年10月25日㈰ 虐殺死から45年 本多延嘉書記長追悼の集い にて

 

 【ブログ補足】   以下は飛ばしても可です。
 当日の発言者のほとんどが「学生運動出身」という中で、高校から職場に飛び込んだ「異色の人」でもある。ただ、実は、こういう経歴の人は当時の中核派にはけして少なくなかった。
 もちろん「ふつうに」高卒で就職してから結集した人、学卒ではあるが本格的な結集は就職後という人も多い。「内ゲバ=対革マル戦」とその後の「ロケット砲」=「
対権力の革命軍戦略」の時代、そうしたひとびとの存在すら忘れたような時代が続いた、と私は思う。

 当日の司会の1人も同様な経歴のようだ。

 ②略歴2ー「3回の指名手配」
  「10・30」は極めて重罪適用の手配であり、本人たちはもちろん、中核派にとって死活的な課題となった。
  同時期に逮捕された人と時効切れで浮上した3人の計5人は、その後の党生活の中で全員離れた。事件は違うが高田武さんの著作『
地下潜行/高田裕子のバラード (レッド・アーカイヴズ 04) 』が出されている。

 れんだいこさんのサイトにも当時の雰囲気が出ている。
  http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/history/history10_1.htm

 ③思い
 伊藤さんの発言=想いに私も共鳴する。
 自らの「ふたつの戦争の体験的総括」をはじめ、ロシア革命での「内戦」を描いたトロツキーの著作や、中国革命の実態を知るにつけ、少なくとも、「安易に」「革命的戦争」に与することには激しい躊躇を覚える。
 「党内闘争」・
「党派闘争」そのもの、掘り下げれば「党派」というもの…。

 より一層、深い議論を呼びかけるものだ、と思う。

 

           

【ブログ注】

コロナ下で昨年も終えました。「地方の疲弊と地方の時代」は進行中。各地の話も伝わってきます。今年は「選挙の歳」でもありそうです。だいぶ時間が経ちましたが、斎藤政明さんの壱岐の島での選挙を載せてみました。

年始あけ、ゆったりした中でお読みください。この時点で斎藤さんは壱岐に移って10年とか。古くからの地元の住民と、島の外からやってきた「若い候補者」という組み合わせも意表を衝いて面白い。「ムラの選挙」ですがそんなところでこそ「何が常識か」じっくりと考えてもみたいところです。「コロナ下で浮き彫りになったこと」「コロナ下で緊急に求められているもの」「コロナ後の暫定的な社会像」もしっかり考えたいときですね。
 『ピスカトール』にも載りましたがもっと詳しい… 。昨年の作です。
 アップまでにだいぶ遅れまして申し訳ありません。

【以下転載】……… ……… ………

 

壱岐の市長選に挑む

67日に森俊介さんを応援した老若男女の手で「壱岐市長選慰労会」が催されます。島民にとってはこの上なく喜ばしいことに、森さんはこれからも壱岐に住み、事業を立ち上げ生活基盤を整え、4年後の市長選に挑む気持ちを固めました。この日の会で、森さんはその意思表明をします。今回の市長選の感想と4年後に向けた取り組みへの私見(メモ)です。老若男女との話し合いのたたき台になればと、彼ら彼女らに配布しているものです。ご紹介致します。斎藤政明拝

2020年4月12日 壱岐市市長選(投票率、約67%)

私たちが推した 森   俊介  7042

4選を目指した  白川 博一  7371

現職・白川(無所属、自公推薦)が森俊介さんに329票差で4

市長選を終えての感想とこれからの行動への私見(メモ)

白川市政がこれからさらに4年も続くことになりました。何とも無念で、やるせない気持ちです。が、ここで立ち止まっているわけにはいきません。この場に集う私たちの手で4年後には必ず森市長、森市政を実現しましょう。その話し合いの糸口になればと、本メモを作成しました。 先ずは、今回の森さん、それに4年前の武原さんの選挙戦で露わになったことをそれぞれ一つ取り上げる。

(A)(1)は、森VS白川の白川の陣形について

(A)(2)は、4年前の武原VS白川の市長選で露わになった壱岐に宿る心情について

 

(A)(1)VS白川の白川の陣形について

白川後援会(白友会)が新聞折り込みと各戸ポステイングしたチラシ「白友会だより」(A3表裏)は、これまでの、これからの、白川の、市政への立ち位置と取り組みのありよう、白川陣営の構造、それらの全てをあからさまにしていた。チラシの裏面には37日の白川の事務所開きでの発言者の氏名(写真入り)、肩書、各発言の要旨が紹介されている。発言者は、自民党壱岐支部長、公明党壱岐支部長、自民党県議、壱岐市議会議長、壱岐医師会会長、壱岐市老人クラブ連合会会長、国境離島民間会議会長、壱岐市漁業協同組合組合長会会長、長崎県建設業協会壱岐支部長の9名。白川の陣形を形作る政党と団体の長がこぞって登場する異様な有様に、今の壱岐の閉塞の状況の構造を、そしてこれからもこの息苦しい状況が続くと見た島民は多い。ちなみに、農協壱岐の会長は国境離島民間会議会長として発言しているので、ここに登場しない壱岐の主要な団体の長は商工会の会長のみといったところである。

壱岐に新しい風をと市長選に挑んだ森俊介さんは否姶なく、3期に渡って続くこの白川陣形に挑み、立ち向かうこととなった。

<余談>このチラシの表の面には、白川がこれから取り組む、論じるほどのこともない諸政策に、「青い海!澄んだ空!未来に残そう 子や孫に」のキャッチコピーが添えられている。社会的地位にある者を並べれば住民は平伏すとの思惑が溢れる紙面に、小学生が作るような(といえば小学生に失礼か)決まり文句を羅列したスローガン。チラシを見るたびに、寒々とした気持ちになる。

 

(A)(2)4年前の武原VS白川の市長選で露わになった壱岐に宿る心情について

4年前の市長選へ挑戦した武原ゆり子さんは、白川陣営の壁に加えて、さらに壱岐に宿る根深い心情とも闘わねばならなかった。 「壱岐日々新聞」に載った(武原さんの立候補を快く思わない同新聞社が作文したとも考えられる)「郷の浦在住の女性の投書」がそれである。大要は「壱岐の女性は日々、農業をし、子を育て、老親の世話をし、また地域の婦人部会員として敬老会の出し物の踊りの練習や地域の祭りの準備をしてきた。この苦労やそこにある楽しみを知らない島外からやって来た女性に壱岐の市政は任せられない」というものである。壱岐への移住は大歓迎するが、市政に口をはさむような活躍までは望まないという心狭い心情に依拠し、(投書の形で)島内の女性を島外出身の女性と闘わせる最悪の手法を用いて、「壱岐日日新聞」は武原さんの挑戦をおとしめる論を展開した。武原ゆり子さんの市政への挑戦は、白川との闘いのみならず、壱岐に横たわるこの根深い心情との闘いでもあった。 次に、(B)(1)~(5)で、上記(A)の状況に森俊介さんが挑戦した、今次市長選の渦中で見えたこと、感じたことをあげておく。

 

(B)()見えたこと、感じたことの全般的感想

今次市長選の感想を一言で言えば、森俊介さんは島の人々の心をしっかりとらえた。これに尽きる。35歳の森俊介さんはあるがままの自分を、それが今の壱岐市政に求められる核心であることを、キッパリと前面に打ち出した。森さんは、よそ者、若さ、会社の起業経験と経営の実績の三点を臆せずに大胆に掲げた。島民はその姿に、国からの種々の補助金を含めた市の年間予算(併せて約250億円を超える)を繰る市長・白川と彼の背後に控える陣形をベースにしたこれまでの市政とは全く異なる、しがらみにない新しい市政を感じ取った。森さんはさらに、白川の壱岐の市政は否定するも、壱岐の良さについては大いに評価し、その資源を生かす構想を高く掲げた。白川の壱岐市政はNOだが、壱岐はYES、これを鮮明に打ち出した。そこに彼の人間的魅力と発信力が加わり、これらの総和が、停滞から後退へとあえぐ壱岐の島民の心を短期間で捉えた。森さんはさらに、森市長、森市政が実現されればこうなるという姿を、島民との「意見交換会」という形で具体的に先取りして示した。2月の後半から島内各所で開いたこの島民の意見を聞く試みは、白川市政にはそもそもないものであった。森さんは、市政のよって立つ基盤は、白川が依拠するような陣形にあるのではなく、住民一人一人にあることを目に見える形で島民に示した。10人から40人の小さな規模で開催した島内4町各所での「意見交換会」を経るに応じて、「森って誰、何者?」から「森、いいじゃやないか」という声が上がり、やがてこの会の出席者を中心に、森さんを応援する行動が生れていった。以下で、その広がりを見ていく。

(B)世代による多様で活発な動き

(1)40代の「若者」が動いた

今次市長選の住民の動きの中で際立つものは、40代の40人ほどの(壱岐では)「若者」が誘い合って森支援に馳せ参じたことである。彼らは「ここで自分たちが森と動かなかったら壱岐に未来はない」とこもごも語り、集まってきた。彼等と打ち解けた間柄になって聞き知ったことであるが、昨年の12月半ばに森さんに市長選出馬を打診、口説いたのは、何と彼等だった。1月半ばに森さんから「出る」と聞いた一人は「10年に一度あるかないかの感動で体が震えた」と、その時の心情を語った。

話はそれるが、4年前の市長選の際、40代の面識のある「若者」から「自分には希望なんていうものはない。市長が変わっても壱岐は何も変わらない。投票してもしなくても同じ」と

いう言葉を聞いた。彼は農家を継ぎ、さらには現金収入を得るために、時には工事現場に出て働く、壱岐の根っこを支えている典型的な「若者」である。そんな彼の言葉に、これまでの市政は、彼に何の光も感じさせるものがなかったのだと、寂しい思いを抱いたものである。恐らくこの「若者」の気持ちは彼の世代に共通したものであったのであろう。4年前の市長選では彼の世代が選挙の前線に絡む姿を目にすることはなかった。もっと言えば、壱岐が2004年に市になってからの市長選挙で、今回のような「若者」の動きは皆無であったのではなかろうか。

話を戻すと、それが今次市長選では、件の彼の世代が「森と共にここで自分たちが動かねば壱岐の将来はない」と誘い合って立ち上がった。彼らの登場は、何よりも壱岐に宿る未来を感じさせてくれた。 彼らは皆、仕事をもっている。自営者もいれば勤務している者もいるので、事務所に勢ぞろいできるのは平日では夜の9時。その場で彼らは、森後援会のポスター張りから同チラシの全島各戸のポステイングに取り組む、相方、地域分担、それぞれに実施可能の日時を決め、ポスター、チラシを持ち帰り、行動に入った。

公示日の公設掲示板160余ケ所に森のポスターを張る作業は彼らが一手に引き受けた。

40代の活動に加え、20代、30代の男女数人も仕事の合間をぬって駆けつけ、後援会の宣伝カーの運転や事務所内での作業に加わっていたことも印象に残る一事であった。 

土日の事務所には終日、彼ら「若者」の楽しげな笑い声が満ち溢れていた。

 

(2) 女性が動いた

森さんの市長選出馬の名乗りに敏感に反応したのが60歳~70歳世代の女性たちであった。彼女たちの数人は武原ゆり子さんの選挙時の集会で見かけてはいたが、今回のように、女性たちが選挙事務所に大挙して日参し、連日に渡って集団で作業する姿を目にするのは初めてのことであった。都合40人ほどであろうか。この女性たちからも「ここで壱岐を変えなければ壱岐はもう終わり」という言葉を何度となく聞いた。全戸にポステイングするチラシを折り、全戸に郵送する12000通のチラシを封書型にし、公選ハガキ8000枚の住所を書く、これらの作業の8割方は彼女たちの手になるものであった。彼女たちはまた、公示前から投票までの10数日間は、島内の固定電話宅に、森さんの立候補の紹介、森さんへの投票依頼の電話かけをもこなした。選挙にかかわるこの女性集団のパワーの源は、森市政実現を通して壱岐の未来を切り拓こうとする希望にあった。彼女たちの奮闘ぶりを見るにつけ、武原ゆり子さんが先んじてなした挑戦が今ここに確実に受け継がれている、まいた種は見事な花を咲かせたと、感慨ひとしおであった。

 

(3) 70代の男性の奮闘 

選挙の要をなしたのは、ほぼ70歳前後の男性たち。彼らは、初登場の40代の「若者」たちの島内を駆け巡る行動、初登場の女性たちの献身的な実務作業とは一味違った分野で大いに力を発揮した。 

彼らは森さんを同道して、自分が住む地域の全戸の家庭を訪問し、森さんを住民と引き合わせた。地域の人びとから信頼される彼らが森さんを紹介し推薦したことは、地域住民の間に森さん立候補の話題を生み、次には森支持の会話が住民間で交わされる突破口となった。 

森さんの応援に集まった「若者」たちと女性陣をまとめ、その力を解き放ち、また各地の住民を森支持に向けていったのは、吉野誠治さんを始めとした70歳前後の老世代の男性たちであった。彼らは最も奥深いところで森さんの挑戦を支えた。

 

(4) 𠮷野誠治さん、武原ゆり子さんが切り開いた道を今や「若者」が進む。 

以上のB(1)(2)(3)に見る森さんの応援に動いた老若男女は総じて、8年前の市長選では2期目を狙う白川に挑戦した𠮷野誠治さん、4年前の市長選では3期目を狙う白川に挑戦した武原ゆり子さんを支持した、とみて間違いない。 

2氏の挑戦時に比べ、壱岐の人口は年年に漸減を続けており、今日では前2氏を応援した人たちの世代交代が加速しながら進行している。 

森さんの白川への挑戦は、この2氏の挑戦の流れをくむと言えるが、最大の違いは進行する世代交代下の挑戦であったことである。4年後にはこの世代交代はより加速して進む。 

こうした動きの中で今回、前2氏の挑戦時にはなかった、「若者」層が雪崩を打って森支援の行動に出てきたことの意味は計り知れない。森さんは前2氏が切り開いた道を進みながらも、この「若者」たちとさらに新しい道を切り開き、前へ進み、過去を越えたもう一つの世界を作り出した。 

ここに、これからの壱岐の希望を見出したい。森さんにはこの「若者」たちがいる。前2氏を応援した老世代男女は、今はこの「若者」に連なる位置に来た。

 

(5) 補足 コロナ下の選挙

今回の市長選はコロナ情勢下で闘わざるを得なかった。島内では314に最初のコロナ陽性者、45日には6人目の陽性者が明らかとなった。 

これで予定されていた、森さんの「意見交換会」は全て中止せざるをえなくなり、さらに以後は同会の設定そのものが不可能となった。また、3月後半に集中する各地域の公民館で開催される公民館総会、また各地の老人会総会が軒並み中止となったことで、森さんの挨拶の場がなくなった。私の属する老人会、公民館の各総会でも森さんの挨拶を組んでいたが、総会中止となり、それができなかった森さんは、「意見交換会」や各種総会の出席にかける時間とエネルギーを、公示前の戸別訪問に回せたと言えなくもないが、「意見交換会」や各種総会出席での交流が生み出すグループダイナミズムは生み出せなくなった。これは新人候補には痛手であった。 

白川はこの事態を逆手に取った。公示前も後も、島内放送で毎日3回「コロナ対策本部長の市長・白川です」で始まるコロナ対策報告を流した。電波ジャックで白川はコロナと闘う姿を島内全域に流し売り込みを図った。 

彼我ともに制約された選挙活動を余儀なくされた点では同じであろうが、新人候補には特段に重い制約下の選挙であった。 

投票率は前2回の市長選約80%10%強下回った。事前であれ当日であれ、投票所に足を運ばなかった多くは高齢者なのであろうが、この10%強の差がどちらの候補を利したのか。これは読めない。

(C) 2024年には住民の手で森市長、森市政の誕生を

(1)「森俊介さんを壱岐市長に 市民1000人委員会」を立ちあげよう

会の目的と内実はこの名称通りだが、ネーミングは考慮。例えば「森俊介さんと歩む 市民1000人の会」のようなものがいいのか。もっと泥臭い方がいいのか。名称はどうあれ、要は4年がかりで1000人の森支援者を作り、森さんを市長に押し上げる、恒常的な運動を開始しようということである。

*会の立ちあげの準備事項

呼びかけ文()

会員の年会費の確定()

呼びかけ文に添える連絡先(および気付け者の氏名)の確定 

この夏から一斉に署名取りの行動が開始できるペースで。

会員名簿の日常的集約と作成、会費の出入り管理(新規通帳)、それらの各担当者をおって確定などなど

 

(2)老若男女による三層四層の日常的な運動へ、途中に市議選あり

会の基本活動は会員の署名取りであるが、()

*なお、1年余り後の2021年の夏には市議選がある。()

 どの道を通るにせよ、全てのカギは、1000人の署名による森応援団の形成、実現である。

 

(3) 4年間で1000万円の基金を()

(4) いくつもの多様な森さんを囲む会を作ろう()

なお、これらの活動は、コロナの収まり状況のいかんにかかわる。状況に応じた活動が必要になる。

 

(5) 白川による次期市長の座の禅譲との対決 

白川には5期目(72歳になる)はない、白川は指名で市長の座を禅譲する、と見て間違いなかろう。巷間では山本県議に市長の座を譲るとされ、山本の後釜にはX市議ないしはZ市議を充てると噂されている。 私たちにとっては誰が市長選の相手になるかが問題ではない。4年後には、日本全体の劣化、白川市政の下、壱岐の閉塞、劣化はさらに進む。 問われているのは、相手が誰かではなく、深まる閉塞、疲弊する壱岐を変えられるのは森さんであり、森さんしかいないという声を、住民の共通の声にすることである。 

白川から市長選への出馬を指名された者が「出馬しても森には勝てない」という気持ちになる情勢を生み出しておくことである。()

これは必ずできる。森さんには7042票=7042人の人びとから支持が寄せられている。

補足

(1)()

(2)この集まりでは、市長選に際し、森さん、白川がそれぞれ発表した、市政の課題と政策に関しては触れなかったので、両者の政策の違いの核心をここで挙げておく。森さんは、壱岐の厳しい現況、壱岐の有する資源(可能性)を見つめたところから壱岐市政に求められる政策を提起している。対する白川は、国(官僚)が作った一般的な地域振興策のいくつかを援用して壱岐市政の政策にしている。両者の視点は全く異なっている。

 

その他の補足

コロナ情勢他(メールからコピペなど)先日の本多集会は、「帰島したらPCR検査を受ける」ことを条件に、老人会から上京を許されました。さいわい、「陰性」。壱岐島内のコロナ感染者として公表された人数は昨春8名。これでストップしていたが、年明けから7日までに一挙に52名の感染を発表。、半数が市職員とその家族で、彼らの忘年会で広まったのだそうだ。

(市民からは,り患した市職員に対して「だらしない」「高給取り」とささやかれているが、そうではない。市長と市の幹部が1218日に忘年会を開催。これを見て市職員が忘年会を開催、感染につながっている。組織は頭から腐るものである。)

 参考壱岐の地図
https://www.bing.com/images/search?view=detailV2&ccid=%2F83oIWgn&id=5DCFAB261C550253AD96D2BB522167527D8656AF&thid=OIP._83oIWgnzHx1BxqgrIaZ-gHaIL&mediaurl=http:%2F%2Fblog-001.west.edge.storage-yahoo.jp%2Fres%2Fblog-a4-e2%2Fgenkaiya%2Ffolder%2F1739162%2F40%2F16665440%2Fimg_0&exph=1500&expw=1357&q=%E5%A3%B1%E5%B2%90+%E5%9C%B0%E5%9B%B3&simid=608006153726984239&ck=082619FD67A9592F3AE109274FBB5BC6&selectedindex=0&form=EX0023&idpp=overlayview&ajaxhist=0&adlt=demote&shtp=GetUrl&shid=0161ddb0-0a5f-4ed4-bac1-74bebee237a3&shtk=5aOx5bKQ44Gn5pyA44KC5aSa44GP5L2%2F44KP44KM44Gm44GE44KL44Oe44OD44OXICgg6ZW35bSO55yMICkgLSDlo7HlspDjg5bjg63jgrAgLi4u&shdk=QmluZyDkuIrjga4gYmxvZ3MueWFob28uY28uanAg44Gr6KaL44Gk44GL44KK44G%2B44GX44Gf&shhk=TUftN0gN3VuaUX83QGhygm9gqGbZQVxOZyfeMQ2C%2BTw%3D&shth=OSH.hoNA1vaE%252FH8Z2ulSBpLvgQ





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10月25日 本多書記長追悼の集い 開かれる。

主催者発表では「参加者が46人、メッセージが4人」

詳細はhondanobuyoshi1975(livedoor.blog)

 

私も終わりの方で発言した。原稿を用意していなかったので、記憶によって採録したい。【補足】は今回付けたもので飛ばしても結構です。以下……… ……… ………

 

さっき水谷さんの発言中にヤジを飛ばした二人のうちの1人です。

「湯本」といいます。

〇滝沢さんの項目

まず主催者が用意した「追悼 非業の死をとげた仲間たち」のレジュメについて。

この中の「滝沢紀昭」さんの項目では「…転落死させられる」とありますが、ここから「させられる」の5文字を削ってほしい。

私は元中核派。埼玉大学出身で本社編集局の一員にもなりました。その後はいわゆる「白井朗系」「白井派」。ブログで『狂おしく悩ましく』というものを公開しています。

事件当時は埼大生でした。ま、69年4・28の件でこのころは東京拘置所に入っていました。当時の肩書では、滝沢さんがマル学同埼大支部のキャップで経済学部自治会委員長。私はサブキャップで理工学部委員長、でした。

事件についての中核派の公式的表現では、たしか「突き落とされて、虐殺」だったと思います。襲撃したのは「権力から金をもらって転向したスパイ」といいう感じだったと思います。

それに比べればここでの表現はやや和らいではいる。けれども「中核派の正史」を引きずっています。直前の望月さんの項では「墜落…逝去」です。事件としては望月さんの事件の方がはるかにひどい。けれどそれはおいて、ひとまずそれに近い表記にとどめたい。

事件としては前夜に中核派の首都圏部隊によるバリケードへの襲撃がありました。ま、それ以前には主として反戦連合側からのいざこざ・小競合いがありましたが詳細は省きましょう。とにかくこの「5文字」です。


  【補足】マイクの不調で最初から言い直しましたが、だいぶ省略しました。
    「湯本」ー「10・8世代」の皆さんには「湯本弟」としたほうが分かるかも。
        
「反戦連合」は「反戦連合ほか」に訂正します。発言そのものは変えられないので内容上の訂正です。

    以下の各項目の【補足】は末尾に書きました。

で、「本題」に入ります。

  組織内部からの変質と崩壊

2重対峙=対カクマル戦、そして革命軍戦略、言い換えれば内ゲバとロケット砲の時代です。私も十分な総括はできていません。ただはっきりしているのは、「組織の内部からの変質・崩壊」はずいぶん早くから進行していたという思いです。

そりゃそうです。襲撃され殺されるのも大変ですが、襲撃する、殺すというのはある意味でいっそう大きく跳ね返ってくる。「人の人生を抹殺すること、ひとの命を奪うこと、一つの命を抹殺すること」。今回はこの点を強調したい。現場逮捕・事後逮捕、長期投獄の恐れ。関係者への家宅捜索と「事情聴取」。跳ね返りも大きい。
 組織内での相互の機密保持が第一になる。個々の襲撃の是非もその実相も秘匿するしかない。議論もできない。何一つ「共有」できないままで鵜呑みするしかない。

軍事と軍令が日常活動の基本的な姿、それが日常の基本的な枠組みになる。だから人事と財政はキャップの専権事項になる。議論が起こっても、それが政策や理論の問題でも、この軍令体制に縛られる。複雑なあるいは難しい組織問題でも、抜擢されたキャップの思いつきや無限ともいえる裁量権が横行する。【補足①】

 

  三里塚・沖縄論の「定説」や「認識の深化」

この間三里塚や沖縄での中核派(中央派)の度し難い言動について考えています。…【三里塚については中略】…

沖縄県民がたたかう時、あるいは人として声を上げる時、「沖縄主義者」であるのは当たり前でしょう。常識。その「沖縄主義者」という言葉を、「追放・敵対」を正当化する「罵倒」として使うなどということを私には想像もつきませんでした。

言い訳のできない、どうしようもない裏切りとしか言いようのない数々です。けれどもこれは打倒された中央派旧執行部の腐敗や変質ということに止められない問題だと感じます。しかし60年代末に中核派が「三里塚・沖縄」に全力で取り組んで以来50年、残念ながら「農業・農民問題」も「沖縄・この構造的差別」の問題もなに一つ「論」として真正面から取り組み深めることをしてこなかった。中核派にはそもそも沖縄問題とは何か、ということでの「定説」いわば哲学的深化がなかった。初期の思いも「空洞化」「消失」していた、ということにありそうです。

その「付け」が回ってきたのだと感じます。【補足⓶】

 

  反スタということ

反スタとは何よりもまず、「活動家の主体性」だと思ってきました。「正否の基準」は一人一人にある。そして「指導部が誤ったり裏切ったりしたら、議論を起こし、党内闘争を展開し、時に分派を作り、時には分裂・自立する」というものだったはずです。

私は残念ながら、まともな議論すら起こせなかった。反スタの入り口で失格です。恥ずべき変質・転向=党内転向です。「自由のために闘う共産主義者」ではありえなかった。これが最大の問題です。無念です。

本多さんについては今回は略します。 


【ブログ注】

【補足⦿】〇滝沢さんの項目
 
滝沢さんの事件、言い換えると「芝工大事件」について、私自身は長く内に秘めて個人的な問題として処理してきました。けれど、事件の元被告の友人・知人との信頼と責任のためにも、今改めて積極的に語るべき第一級の課題だと感じています。今回改めてネットを検索すると、想像以上のブログで扱われています。

 
【補足①】   組織内部からの変質と崩壊
 「心のキズ、負担」は実行行為者と、「内部通報者」だけではない。あまりに多
くの人が苦しむことはさけられない。正しいか、必要かとも別の問題です。
 斎藤政明さんの本で、九州支社で革マルの逆襲を受けたときの「総括」をめぐる「中央」とのやりとりがでています。「中央」とはこの時福島平和さん【注 訂正済み】だったとのことですが、斎藤さんなりのリアルな現実認識・視点に対して中央はただ坊主懺悔だけをくり返し求める。「そうなんだろうな」とも思いつつ、中央のレベルですらこんなだったんだ、と思いを新たにしたものです。これが斎藤さんが壊れて離れていくひとつの要因だったようですね。
  https://www.amazon.co.jp/%E5%A5%A5%E6%B5%A9%E5%B9%B3%E3%81%8C%E3%81%84%E3%81%9F%E2%94%80%E7%A7%81%E7%9A%84%E8%A6%9A%E6%9B%B8-RED-ARCHIVES-03-%E9%BD%8A%E8%97%A4/dp/4784592229
 

ともかく「路線云々」前に、「中核派は当時の時点で、戦争できる組織・諸組織でも、諸個人でもなかった。多くの場合、あまりにも『無準備』だった。そして内部から変質した」というしかありません。もちろん、人により、所属により、地位により、その差や違いは大きかったはずです。
 そして「
対等なお互いの関係」の破壊的進行については特に、はっきり言って「上」で胡坐をかいた人には、その後も長いあいだ、自覚すらなかったのではないか?あるいは最後まで?とすら思えます。

【追加】私の発言では、以下の要旨もあったと指摘されました。
「早稲田の革マルによるテロ支配はもちろんですが、明治の解放派、法政の中核派によるそれも…」


 【補足②】   三里塚・沖縄論の「定説」や「認識の深化」
 
沖縄問題で思い出せるのは「同一民族」という言葉だけです。いつだったか今は思い出せません。覚えているのはある日突然『前進』重要論文にこの言葉が使われ、何度か繰り返されながら一度もその意味を語ることが無かったということだけです。「日本は単一民族」という中曽根発言のころでしょうか?

「同一民族」というゆえんは何か?「だからどうなのか?」何も語られなかったという記憶だけです。時に「重要路線」時には「戦術」として中核派としては「大動員」をかけながら、肝心な「論理」「思想」は空洞化していく一方だったな、と改めて振り返ります。「70年」から50年、この「無思想」「非論理」が続いてきた結果が今なのだ。そう思います。

【補足追加】集会ではすでに公表されている人々のほかに多くの人が発言した。「ゲスト」や自由発言などさまざまで、私としてはこのへんに啓発されるものがありました。

主催者のホームページで採録されることを期待しています。その時はまた、この続きを書きたいと思います。


  

 

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