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野球部の想い出① 宝塚歌劇団から

下級生への「締め」ケジメの行事 中学時代の想い出

ジャニーズの性加害や宝塚歌劇団のパワハラなどが話題になっている。

ともにエンタテイナーの世界だし同根とも言える。ただ背景には幾分かの違いもありそうだ。

ここでは私の昔の忘れられない記憶。「縦社会」「上下のケジメ」

 

中学に入ってすぐ、私は野球部に入った。

当時は部活は義務制。運動部か文化部のどちらかに入れと指導された。

ま、実際には名目だけの入部で実際には「帰宅部」という幽霊部員も多かった。

私自身は進んで入った。小学校時代に楽しみにしていた町内会の野球大会が何かの都合で中止にされたこともあって、ぜひともやりたかった。

1学年100人の男子のうちほぼ半分、50人近くが野球部を選んだ。

ただ、数か月もしないうちに大半が辞めて他の運動部に移ってしまった。1年生では10数人が残った。運動神経が良かったり、独立心の比較的強い連中がバスケや水泳や陸上部に行ったようだ。選択肢が広がったのだ。

2-3年生はほぼ10人程度だったから、例年のことのようだった。

1年生は基本、球拾い。練習場もさほど広くも無いから、手が空けば半腰で「ガッチコーゼ」「ナイスバッティング」などと叫ぶのが「練習」。

それに加えてマラソンとダッシュ。立教野球部などに行った先輩たちがしょっちゅう顔を出して締める。腹筋とうさぎ跳びなどが際限なく続く。練習とは苦行か?で、みんな嫌になってしまったのだ。

 

当時の3年生の部長は○○興業の社長の息子。運動神経もずば抜けていたがそれ以上にイタヅラ・やんちゃ坊主だった。

大学の先輩たちの姿が見えると「オーイ!体育館の陰に隠れろ!」などと指令して全員一目散に走ったりした。そして全員無事に逃げおおせたりもした。

この学年は強かった。夏の市内大会には優勝。県大会でも3位に食い込んだ。

その夏の大会が終わって3年生が引退し、2年生がトップになる。

忘れもしない。部室に一人ひとり呼び出されて、後輩への『指導』が始まった。私は何番目かに呼び出された。部室の電気は消されている。2年生たちが暗がりに広がり、囲んでくる。「オメエ、××」「テメエ△△」。雨あられと周り中から罵声・非難の声が飛んでくる。「謝れ」「反省しろ!」

ついには「キサマ、生徒会の役員をいいことにして練習をさぼりやがって」「すこし成績がいいからと言ってでかい面しやがって」

尊敬していた先輩たちから投げつけられた罵詈雑言の数々に、涙が止まらなくなった。泣きながら抗議した。「先輩のみなさん、俺のことを理解して応援してくれているとばっかり思っていたのに、なんで突然そんなことを言うんですか!」。「オレは本当に、一人ひとりに家族のような気持ちでいたのに!」

ワンワン泣きじゃくりながら、抗弁し続けた。

「もう良い、分かったら今後気をつけろ」の一言で帰された。

そして次のメンバーが呼び出された。

 

憤然として帰ってきた同級生もいたし落ち込んでうつ向いていた友もいた。ただ、泣きながら抗弁したのは私だけだったらしい。

それが附中野球部の連綿と続く伝統であり、2年生の天下を確立するための代替わりのシメの儀式だったことはすぐに分かった。
  この学年は市内大会の3位だった。

 ***

その1年後、同じころ、私達も同じ儀式をやることになった。

私もその一員に加わった。新部長が音頭を取り、「外交担当の」主任の私もそれなりの役目を負った。

ただ、今度は同じようには行かなかった。1年生のリーダー格が激しく反発して収拾がつかなくなったのだ。「泣かせろ」「泣くまでやれ」。でも泣かないで抗弁を続ける。「分かった。帰れ」

そして数日後、1年生全員が「退部届」を出してきた。「2年生が卒業するまで、野球部には戻らない!」と宣言したリーダー格の高●たちは、徒党を組んでどこかで自主練を始めたらしい。春になり、新1年が入ってくると、彼らもまた新2年生たちに引き込まれて、すぐに退部してしまった。

 

夏の大会に向かって、新3年生は10人だけで練習する羽目に陥った。私は当初、ピッチャーに指名された。まずは足腰を鍛えろと、マラソンや50メートルダッシュを繰り返す。捕手の平●が付き添ってくれると、残りは8人。バッティング練習も守備練習もままならない。直前には1人が転校して定員ギリギリだった。そしてボロボロのままで市内大会は予想通り緒戦敗退となった。

 

敗退の翌日には、12年生が復帰してのびのびと練習を始めた。あの高●、今でも頭が上がらない。前高時代も同じ高校だったのだろうと思うが、想い出に浮かんでこない。たぶん私のいる所には顔を出さなかったのかもしれない。
  それにしても私自身の記憶では、その後に「号泣」したことも「涙なみだ」になったことも他にない。「泣けない体質」はどこから来たのだろうか?

 

【追伸①】3年生の大会1か月前くらいか?突然、新ショートが開眼した。下手の代表格でやる気のなさを絵に描いたようなグレが、とつぜんファインプレーを続発し続けた。「何が起こっているのか?」。…70歳を超えた同窓会で、積年の疑問をぶつけてみた。「フクが家に来てくれたんだ。話し込んだ。それで…。あいつは俺の命の恩人だ」。ふーん?そんな奇跡のようなことがあるんだ?人間って捨てたものじゃないね。

【追伸⓶】ⓐ野球部を嫌った同級生たち

ⓑ部活を嫌って私営の卓球場に通ったもっちゃん

©少年チームを拒否して自前のチームを作ったカミさん

東国原英夫氏 宝塚歌劇団は「上下関係はたけし軍団より凄い .

「詰める」の使い方は?

締める(シメル)とは? 

謹賀新年と言いたいところですが相変わらずです。

朝日歌壇から
  年頭のあいさつ代わりに、朝日からのコピペにしました。【以下転載】……… ……… ………

 第39回朝日歌壇賞が載っていた。2022年の入選歌から各選者が一首を選んでいる。掲載の順に…

 ★手始めに線量測る畑仕事十二年目の福島の春(須賀川市 近内志津子)
 〔作者のひと言(以下同じ)〕
 野菜が美味しく住みよい福島。震災で一変。今も苦しんでいる現実を知って欲しい。
 原発に頼らない暮らしを願っています。
  ⇒馬場あき子選

  

十亀 (3)★戦争は祈りだけでは止まらない 陽に灼かれつつデモに加わる(東京都 十亀弘史) 
   ウクライナの戦火はは消えず、日本は一気に大軍拡へ。
   しかし、変えることができます。戦争反対の行動を、もっと、です。
   ⇒佐佐木幸綱選〈評〉
          戦争が近づく気配がする今。祈りと行動の差異に光をあてて鋭い。

 ★青森は上空通過のミサイルもウクライナでは通過なぞせず(御所河原市 戸沢大二郎)
   ⇒高野公彦選:

 ★虐待という言葉まだ知らぬ子は「ママごめんね」と餓死をしました(岡山市 牧野恵子)
    虐待された子が飢えて死ぬ寸前に、なんで謝る必要があるのか。
    あまりにも悲惨なので歌を詠まずにはいられませんでした。
    ⇒永田和宏選〈評〉

    誰もが言葉を失う悲惨な現実。だからこそ詠っておかねばならない。
  【以上転載】……… ……… ………
  
 そう。元爆取の十亀氏の作が、昨年の秀作として選ばれている。
祈りと行動の差異」については、70年代初頭に被青同(被爆者青年同盟)が強調した議論を思い出す。
原爆・核と向かい合うことを心に新たにしたことを思い出す。
十亀氏の新しいコラムが『前進』紙上で始まったらしい。
  ま、ひとまずは、話のネタとして…

もう少しおやすみです。

あるみさんの議論は面白い。
 
アキヒトを「ただのおっさんにした」という視点がいい。
 
 ただ思うのは、〈あまり深い議論〉はしないことが大事だ。
 彼を支持して投票した人々の中には色んな反応があるのだろうけれど、その色んな反響のうち「党派的議論」や「無党派」左翼以外の層を大事にすること(議論の基礎)が大事だと思う。
 
 今思い出すのは、全共闘時代の経験だ。
 クラスやサークル・生協で共産党や右翼と対峙していた時代、あまりおかしなただイデオロギッシュな議論は成り立たなかった。
 (それなりに大衆的基礎をもった)学生運動を展開するとき、今回のような行動はむしろ面白がられたと回想する。
 
 ベリケードをめぐって学内で民青と中核派が激しく争い、全学的にも注目と興奮が満ちていた5月、1年生が独自の動きを始めた。「なんでこんなにぶつかりあうのか良く分からない」。新入生たちは経緯や諸問題の所在も分からずにあれこれと動き出す。そして自分たちで独自に議論と行動を始める。
 
 「1年生連絡協議会」が結成され、千数百人の1年生のうち数十人が何度も集った。もちろん(公式には)2年以上は排除。
 民青は激しく反発する。「分裂主義!」
 そして中核派内でも反発が大きかった。
 
 だれがいつ、認識をひっくり返したのかは正確には思い出せない。
 多分、教養学部のTだったと思う。
 「1連協を評価しよう。うまく使いきろう」
 
 1連協の主要メンバーが次々に民青・中核派に連絡をとってきた。
 こちらは彼らの疑問や批判に耳を傾けて、対等に議論し、要求される議論やイベントに希望に従って参加する。(主は彼ら、中核派は従だ)
 
 ひと月後には1連協の主導権はまるごと中核派の物になった。
 
 さて、「蒙昧な地方・高齢者」が動き出す時、私たちの発想や行動はどんなものであるべきだろう?
 アキヒトたちが被災地に行き、「ひざまづいて」被災者との対話を進めるとき、私たちはどういう議論(のしかた)をすべきだろう?
 特に(今はすたれた)杉並の「革命的議員団」はどういう言動をすべきだろう?
 「天皇は来るな!」というデモをすべきか?
 多くのお年寄りと対峙して、スクラムを組んで避難所への立ち入りを阻止すべきか?
 
 それとも山本議員の行動を少し離れて見守るべきか?
 
 

画期的な米国務、国防長官揃っての千鳥ヶ淵墓苑訪問の意味は、「米国のアーリントン墓地に相当するのは靖国ではなく千鳥ヶ淵である」という、安倍政権へのメッセージ

米国の国務長官と国防長官がそろって来日したことが初めてで「日米同盟」の強化を強調する報道が目立つが、何が画期的だったかというと、この二人が3日の午前に国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑に揃って献花したことである。外国の要人としては1979年のアルゼンチン大統領以来だという。これは、米国の国立アーリントン墓地に相当するものは靖国神社だと主張する安倍首相とその政権にとっては屈辱的な出来事であろう。二人の千鳥ヶ淵訪問は実質的に、米国による公式な靖国神社否定とも取れる。来日の目的には、「中国と韓国を歴史問題で刺激するな」と釘を刺すこともあったのではないだろうか。
これについてなかなか報道が見つからないのだが、一番詳しく報道しているのがAFP.である。
「安倍晋三(Shinzo Abe)首相が5月に訪米した際、靖国神社を米国のアーリントン国立墓地(Arlington National Cemetery)になぞらえたことに対するけん制とみられる。」
「同行した米国防総省高官は記者団に対し、千鳥ヶ淵戦没者墓苑はアーリントン国立墓地に「最も近い存在」だと説明。ケリー国務長官とヘーゲル国防長官は「日本の防衛相がアーリントン国立墓地で献花するのと同じように」戦没者に哀悼の意を示したと述べた。」
ここからも、米国政府としては二人の千鳥ヶ淵献花に強い政治的意味を持たせていることがうかがわれる。
AFPの英語版の記事の方はもっと内容が多い。
Kerry, Hagel lay wreath at Japan’s national cemetery
重要と思えるところを抜粋して翻訳する。
Unlike Arlington, Yasukuni’s caretakers promote a view of history that is controversial even at home, with the accompanying Yushukan museum staunchly defending much of Japan’s wartime record.
アーリントンとは違い、靖国神社を管理する人々は日本国内でも議論を呼ぶ歴史観を宣伝しており、付属の遊就館という資料館は日本の戦時中の行為を擁護している。
A U.S. official told media Kerry and Hagel were paying tribute at Chidorigafuchi in the same way that “Japanese defense ministers regularly lay wreaths at Arlington”.
米国高官がメディアに伝えたところによると、ケリーとヘーゲルは「アーリントン墓地に日本の防衛大臣たちが献花するのと」同様に、千鳥ヶ淵に敬意を表した。
“This memorial is the closest equivalent. It honors Japanese soldiers, civilians, and support personnel killed on WWII battlefields but whose remains were never recovered by their families. It is a gesture of reconciliation and respect.”
高官「この墓苑が一番(アーリントンに)近いものだ。第二次世界大戦の戦場で死んだ日本兵、民間人、補助的業務に就いていた人々に敬意を表するもの。これは和解と尊敬の意思表示である。」
Seki Tomoda, an expert on international politics and diplomacy, said the wreath-laying could be Washington’s attempt to nudge East Asia over the hump caused by the Yasukuni issue, by conferring legitimacy and respectability on Chidorigafuchi.
国際政治と外交の専門家のセキ・トモダ(訳者注:友田 錫氏のこととおもわれる)は、献花は、千鳥ヶ淵墓苑に正当性と社会的地位を与えることによって、靖国問題でしこりを抱える東アジアを(解決にむけて)促す米国政府の試みではないか、と言った。
“What’s worrying America most is the fierce row among Japan, South Korea and China over the Yasukuni issue,” he told AFP. “Visiting a more neutral place may be a message from Americans… that they want the three countries to ease their confrontation. Yasukuni, unlike Arlington, is a religious facility… I think it’s impossible that Hagel or any other American leader would visit Yasukuni. Chidorigafuchi was an option (for the U.S.) in order to send a message.”
「米国にとって一番懸念なのは日本、韓国、中国の間の靖国を巡っての争い事だ」トモダはAFPにかたった。「より中立的な場所を訪問することによって、米国はこの3国に対立関係を緩和してほしいとのメッセージを送っているのかもしれない。アーリントンと異なり靖国は宗教施設である。ヘーゲルや他の米国の指導者が靖国を訪問するなど不可能であると思う。千鳥ヶ淵が(米国にとって)メッセージを送るための一つの選択肢だったのだ。」
(AFPニュース抜粋以上)
日本の報道がなかなか見つからないのだが、
時事通信の報道はこの「メッセージ性」に言及している。
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201310/2013100300100&g=pol&relid2=1_1
「同墓苑は宗教色がなく、A級戦犯が合祀(ごうし)されて閣僚の参拝が中韓両国との対立の種になっている靖国神社と異なる。米閣僚の訪問には、戦没者の追悼をめぐり、冷静な態度を維持するよう日本を含む各国に促すメッセージが込められている可能性もある。」
朝日新聞は行ったという事実と、「米国の閣僚が訪問するのは異例」との言及のみ。
http://www.asahi.com/politics/update/1003/TKY201310030096.html
産経新聞は異例さを強調し、外務省が「聞いたことない」と言ったことにより、外務省が懸念を持っていることを示唆している。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131003/plc13100312540004-n1.htm
見渡したかぎりでは日本の主要メディアの報道は非常に控え目で、報じていたにしても二人の訪問の意義を問うことはほとんどないように見える。安倍政権に気遣っているのだとしたら情けない。 @PeacePhilosophy
10月5日追記。政治外交評論家の天木直人氏はこの件に関し「靖国神社にこだわる安倍政権への痛烈な警告に間違いないでしょう。その事を指摘する日本のメディアがないところもまた日本のメディア安倍政権迎合そのものです。」とメールでのコメントをくれた。天木氏自身のメルマガでもこう書いています。「メディアのいかさまぶりの典型はケリー国務長官とヘーゲル国防長官が千鳥が淵戦没者墓苑を訪れたことの意義を正しく書かないことである。安倍首相はさぞかし腰を抜かしたであろう。これは米国が日本の戦没者に哀悼の意を表する場所は、靖国神社ではなく千鳥が淵だと言っているのだ。 米国のアーリントン国立墓地は、安倍首相が言うような靖国神社ではなく、千鳥が淵だと言っているのだ。痛烈な米国の安倍批判である。」
初出:「ピースフィロソフィ―」2013.10.4より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.ne/
〔opinion4632:131005〕
 
(注)元○派の大OB氏のHP

安倍首相は歴代首相の中でも最も日米同盟にそぐわない首相だ。こんどのケリー国務長官、ヘーゲル国防長官の来日を見てつくづくそう思う。今度の2プラス2協議が無意味であったからそう言っているのではない。所詮日米防衛協議など誰がやっても結果は同じだ。めまぐるしく変わる米国の安全保障政策に振り回されて、負担だけを日本が押し付けられるだけで終るのが常だからだ。私が安倍首相が日米同盟になじまない首相だと思うのは、ケリー国務長官とヘーゲル国防長官がそろって千鳥が淵墓苑を訪れて顕花したことを知ったからだ。これは衝撃的な外交事件だ。安倍首相はさぞかし腰を抜かしたことだろう。これは、米国が日本の戦没者を追悼する場所は、安倍首相が言うような靖国神社ではなく、千鳥が淵だと言っているのである。米国のアーリントン墓地に相当するのは靖国ではなく千鳥ヶ淵であると言っているのである。これ以上ない米国の安倍首相に対する警告である。安倍首相は米国の国益に沿わない首相と見なされている。それにも関わらず安倍首相はせっせと対米従属政策を進めようとしている。私が日米同盟にそぐわない首相であると思う理由がそこにある(了)
 

 
メガネ屋さんで見つけてうれしかったので…。
 
イメージ 1
 

イメージ 1少し遅くなりましたが、山口の若者のハンスト現場。経産省前の歩道に陣取っています。
テント脇には「9条改憲阻止の会」ののぼり。
数年前からの「6・15」陣形の発展した姿です。
「全共闘・全学連・全自連集まれ」の続き。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

改正派の発想との対決とともに、反対派の主流が「表現の自由」に焦点を当てていることの功罪を、正面から考えるべきかとも思います。私は学生時代の羽仁五郎の講演以来、主として「戦前回帰」と「限りなき自治」をキーワードに考えるものです。しかしまた70年以来の問いかけの中で、大きく揺らぐものもあります。
 「革命前夜」ではないこと、むしろ日本社会が「金持ち闘わず」にあること、社会の変化が急激なこと、‥‥。
 社会の矛盾の深さ、多様さを認識する契機としても考えていきたいと思います。
 後日、引用するアドレスをもう少し増やしていきたい。
 
現状認識1 改正派の動き
旧(現)条例 64年8月1日(昭和39年)
旧条例の概要(警視庁)
報道発表資料(都) 批判への反論
 
現状認識2 さまざまな動き
さまざまな声と動き(12月14日) ヤフーニュース
 
 ウィキペディア
  反対派の紹介を中心に、「都側」やマスコミの議論も紹介している。(経緯と憲法ほかの法的整理・対比)
  「青少年・治安対策本部は、4月26日付で25項目に及ぶ「東京都青少年の健全な育成に関する条例改正案 質問回答集」をホームページに掲載した。
 しかし、これらの反論はいずれも条文によらない見解にすぎず、実際に遵守される保障や法的義務は何もない。むしろこれらの反論は、反対派の「条文の記述が曖昧で、運用する側によってどうとでも解釈でき、恣意的な規制やお目こぼしが行なわれる危険性がある」という主張を裏付ける傍証と見なされている[
 
同「有害図書」
 
七尾養護学校の性教育(ウィキペディア)
  改正派の「性」に関する発想が分かるでしょうか?
 
現状認識3 
 
 
 柏市男女弓道△センター
日韓ベリタ

外務省の要約では以下のとおりです。
(1)1957年~58年の「国際地球観測年(IGY)」に南極において実施された国際的科学協力体制を維持、発展させるため、1959年、日、米、英、仏、ソ等12か国は南極条約を採択した。同条約は南緯60度以南の地域に適用されるもので、以下の点を主たる内容としている。
(イ)南極地域の平和的利用(軍事基地の建設、軍事演習の実施等の禁止)(第1条)
(ロ)科学的調査の自由と国際協力の促進(第2、3条)
(ハ)南極地域における領土権主張の凍結(第4条)
(ニ)条約の遵守を確保するための監視員制度の設定(第7条)
(ホ)南極地域に関する共通の利害関係のある事項について協議し、条約の原則及び目的を助長するための措置を立案する会合の開催(第9条)
(2)南極における領土権問題
 現在、南極地域で実質的な科学的研究活動を行っている国の中には、南極の一部に領土権を主張している7か国(クレイマント:英、ノルウェー、仏、豪、NZ、チリ、アルゼンチン)と領土権を主張しないと同時に他国の主張も否認する国(ノン・クレイマント:米、ロシア、我が国、ベルギー、南ア等)がある。また、ノン・クレイマントの中でも、米、ロは現状では領土権を主張しないが、過去の活動を特別の権益として留保している。南極条約においてはクレイマント、ノンクレイマント双方の立場が認められ、基本的立場の違いはあるものの、対立を表面化させずに共通の関心事項について対処するよう努めている。
(3)我が国は、1960年8月4日に南極条約を締結し、以後、南極条約協議国(Antarctic Treaty Consultative Parties)の一員としての責務を果たしており、同条約発効以前より実施している観測等科学的調査活動は国際的にも高い評価を受けている。
 
ウィキペディア
南極は気象条件が厳しいため人の定住が困難であり、長い間未踏の地であった。しかし1908年イギリスが南緯50度以南、西経20度から80度に至る範囲の諸島の領有を主張したのを切っ掛けに、他の国も南極の一定区画の地域の領有を主張するに至った。国際法における国家領域取得根拠としては先占 (occupation) があるが、南極はその気象などのため実効的支配が困難であり先占の法理をそのまま適用するのは無理があるとして、先占がなくても一定の範囲で領域の取得を認めるとするセクター主義が主張された。
セクター主義には反対する国家も多く国際法として確立しているわけではなかったが、科学技術の進歩によって実効的支配の可能性も否定できなくなり、領土の獲得競争が展開されるのは必至となった。それを阻止し、南極地域(すべての氷棚を含む南緯60度以南の地域)の継続的な平和的利用のために締結されたのが、本条約である。
南極は気象条件が厳しいため人の定住が困難であり、長い間未踏の地であった。しかし1908年イギリスが南緯50度以南、西経20度から80度に至る範囲の諸島の領有を主張したのを切っ掛けに、他の国も南極の一定区画の地域の領有を主張するに至った。国際法における国家領域取得根拠としては先占 (occupation) があるが、南極はその気象などのため実効的支配が困難であり先占の法理をそのまま適用するのは無理があるとして、先占がなくても一定の範囲で領域の取得を認めるとするセクター主義が主張された。
セクター主義には反対する国家も多く国際法として確立しているわけではなかったが、科学技術の進歩によって実効的支配の可能性も否定できなくなり、領土の獲得競争が展開されるのは必至となった。それを阻止し、南極地域(すべての氷棚を含む南緯60度以南の地域)の継続的な平和的利用のために締結されたのが、本条約である。

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