カテゴリ:☆☆続『狂おしく悩ましく』 > 昔話

伝聞ですが。

80年代の神奈川には、ちょっと変わった人がいた。
 全逓の担当についた変人さんは、社会党系の組合執行部や他党派の核となるメンバーにのこのこと、唐突に会いに行っては語り合った。全逓職場には門外漢の元学生の中核派が、彼ら現場の他党派とまともな会話が続く、ということで「中核派にも面白いやつがいる」という噂が広がる。
 結果として、現場の中核派のメンバーにとっても活動範囲が大いに広がった、という。青年婦人協議会での主導権争いでも、社会党系の牛耳る親組織の容認を受けてずいぶんと有利な地歩を築いたのだという。

 彼の全逓メンバーとの付き合い方も一風変わっていたという。
 車座になって雑談と世間話をする。そんなときに、その一員となって耳を傾け、頓珍漢な話も交えて溶け込んだ話をできるようにつとめたのだという。仕事というものは、いちいちの作業や機能とならんで、いろんな人のいろんな想いで形ち付けられる。その現場での想いを織り込んで、主張も政策も練り上げられる。

 そんなことのできる常任は、この頃は神奈川ですらすでになく、指導し,問い質し、管理するのが任務という常識になってしまっていた。

 そんな中で(彼の下で)育った全逓メンバーが90年代の一翼を担った。
 けれど当の彼は、その頃には消えてしまっていた。
 県党の中で、(神奈川ですら)そんな存在は許されなくなっていたのだという。
 
 彼の後に似たようなことをした常任が生まれた。
 親身になっていろんな相談を受けて対応し方針化しようとした。
 けれども彼女も同じ道を辿った。
 後者の場合、問題は「左翼の基礎的素養」に欠けていたともいう。
 80年代の学生出身者には、反スタの素養や、左翼としての基本を学ぶ経験も無く、「路線・路線」で完結するしかない。そのことに違和感を覚えても、個人の問題意識や資質があってもどうにもならない領域があまりに多かったとも言えそうだ。
 地区や支部(現場・細胞)での世代間格差もありそうだ。
  「若い常任」として扱いが軽くなる。
 「路線主義」への縛りがいっそう体質的に局限化したただ中でもある。
 そして中核派をめぐる周囲の対応の変化も大きく変化していた。

 中央の指導の問題でもあるけれど、孤立した諸個人の集合体としての学生戦線でどう学ぶかどう学習指導するかは、第1級の難題だったのだろう。だからこそ、もう一つも二つも「路線」が練り上げられなければいけなかったのだ。

 というよりも、「路線=単一または一元」か、良くても「限られた数少ない許容幅」という「路線主義」が「綱領的大きさ」や「三全総」や「総路線」を排して全てを覆ってしまったこと。小さく固まってしまったこと。
 
 今の時代、中央派も大きく変わったようだが、広がりも深みも感じられない世界観も、人間観・社会観もしみだして来ないような「路線主義」も、その根本からの批判・脱却への格闘は感じられない。
 

  全学連・松尾委員長の離脱の経緯が知らされた。
  以下は私が簡略化した経緯だ。

  まだ「除名」前、それも06年に失脚する以前の梶さん(高木さん)から聞いた話。
  松尾さんが姿を消してから後、「松尾さんはどうして?」と聞いた。

  松尾さんはある日突然前進社から姿を消した。
  人を介して梶さんに「離脱したい」旨を伝えてきたのだという。
  で、何度か、外で、梶さんが会って説得し翻意を促そうとした。

  けれど結局は気持ちが変わらずに、最後は清水さんの裁可を得ることになったという。で、清水さんは受け入れた。最後は互いに「良かった良かった」ということになったらしい。

  外で会うときも、松尾さんは必ず、約束の時間を遅れて出てきたという。
  「拉致されるのがこわくて、周囲の様子を見てから姿を表した、ということだろうね」と梶さん。

  「なんで松尾さんは辞めたの?」という疑問には「結局、学者になりたかったんだろうね。そんな夢を捨てられなかったんだろうね」とか。

  【注】正確にはいえないが、松尾氏が離脱してから大学に進んだまでにはそう時間差もなかったと思える。今井公雄さんが逃亡してからやはり清水さんと(この場合は)直接面談して「秘密の正式離脱」するにはもう少し時間がかかったと思う。

  清水さんの人事にはこういう面もあったのだと、驚きでもある。
  ま、指導部や最高指導部には、それだけの裁量権と裁量の幅・ブレがあるというに過ぎないのかもしれない。驚くほうが政治や組織の「幼児性」を自白するようなものか?「政治を語る初歩」を改めて思い知る次第だ。

  関連する記事は当ブログでは以下。
 

31      80年代の諸問題

松尾真の失脚

中核派の現状と総括の中で、いろんな会話があった。

①ある女性は、「婦民からの分裂で良かったのは最初の一カ月だけだった」と述懐する。
 女性運動の実際の交流から断たれて、日々起こっていることや大事なイベントがまったく伝わらなくなったという。
 もちろん色んな情報は脇からは得ることができる。
 けれども大事なことは問題意識や公開されない色んな思いや実態でもある。
 女性たちのネットワークから飛び出したということはそんなことだったのだ。
 そう。婦民からの統制の背景には、3・8分裂と第4インターへのテロへの批判があったことも自明だ。革マルもチャンスとばかりに婦民を追い詰める。そんな中での処分と分裂だったということもはっきりさせるべき時だろう。追い詰められたのは婦民全国協だけではなかったということだ。

②ある男性同志の述懐から。
 「田島論文が出て、喜び勇んで知り合いの女性のところに行ったんだよね」
 「で、『前進』やイストを渡して代金ももらった」
 そしたら、相手の女性が何冊かの俺に本を渡して言ったんだ。
 私の文も載っているから参考までに読んで。それから本の発行日を観て!
 ただでもらって読んでみてびっくりした。
 田島論文の肝心なところはその本の引用だった。
 「参考文献欄があったかどうかは当時のことだから気にもしなかったけれど、引用したならちゃんと『引用』くらい入れるのが筋だと思った」
 そう『女・エロス』だったよね。

 話の前段では、私の中核派の女性解放論の経緯についての記憶の述懐があった。
  私の印象では、中核派の女性解放論は、時間的にブントにはるかに遅れている。
 フェミニズムもリブもオピニオンリーダーたちは私たちよりも5歳か10歳くらい年上だったと思う。
 前後して私も『女・エロス』などを読みふけった。
 衝撃だったし、何よりもそう、「エロス」を語っていたことだ。
 読んでいて引きずり込まれるものに満ちていた。

 怒りや悲しみや何やかんや、とにかくほとばしる魂のようなものがあった。
 「中核派はどんな文章の中でも『女性』以外の用語を使わない。でも色んなフェミニズムは時として『おんな』を使うのが特徴だった」「おんなたちから女たちへ」とか言うようにね。時としてアナーキーな叫びだったよね。それが心を動かしたのだけれど。
 
 田島論文の特徴は、女性解放であれ婦人運動であれ、マルクス・レーニン主義の枠に収まることを結論とするためのものだった。叫び(エロス)を抑制し、ブルジョア社会(資本)への対決を打ち出して、こんにち体感的に求められている「解放」の中身を脇に置く。そう、予定調和に収まることを前提としてその線に沿って、前衛党派として女性解放に立ち上がろうというのが趣旨だったと思う。

 被青同の『君は明日生きるか』に比べても、心へのインパクトの不足は否めなかった。

 ま、当時そんな感じももちながら、決戦論は不動という方針に従ったのだけれど。
 こんなことを書くと、いつものことだけれど、自身のいい加減さを吐露しているようで嫌になる。とは言えやはり書かなければならない。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥  

資料として
『女・エロス』社会評論社
女・エロス No.1 特集:婚姻制度をゆるがす1973
女・エロス No.2 特集:反結婚を生きる1974
ほか
「女・エロス」編集委員会
 アマゾンのHPから

http://www.amazon.co.jp/s?ie=UTF8&field-author=%E3%80%8C%E5%A5%B3%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%80%8D%E7%B7%A8%E9%9B%86%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A&search-alias=books-jp&text=%E3%80%8C%E5%A5%B3%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%80%8D%E7%B7%A8%E9%9B%86%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A&sort=relevancerank

以下は「かけはし」からの、またも無断で引用 。  
読書案内『もうひとつの全共闘』芝工大闘争史を語る会著/つげ書房新社/2500円+税                     かけはし2010.12.20号
敗北しなかった稀有な大学闘争

全共闘運動史の歪曲を超えて
 「今、?1968年?をめぐる歴史の掘り起こしが進んでいる。だが、闘争当事者の声はあまりにも少ない。それどころか、当時マスメディアの光りにあたった『記録』や『資料』だけを積み重ね、全共闘運動のほんの一面を取り上げて『批判』するたぐいのもので満ちあふれているといわざるをえない。堕落した新左翼諸派による『内ゲバ』、あるいは『革命』なき『革命幻想』におちいった『連合赤軍』や無差別テロを実行した『反日武装戦線』が、あたかも全共闘運動の必然的な結末であるかのような前提に立って、『負の遺産』の側からのみ全共闘運動を判定する『歴史』が闊歩している。ましてや、敗北しなかった大学闘争の記録は皆無であり、存在すらしなかったように扱われている。私たちには語らなければならない義務がある」(本書プロローグより)。
 本書は第一章 沸点にむかう芝浦工業大学、第二章 第一次闘争の展開(68年1~2月)、第三章 学外での闘いの経験から第二次闘争へ(68年3月~69年1月)、第四章 「四つの拒否権」の波及と大学立法反対闘争(69年2月~10月)、第五章 反動との闘いから暴力ガードマン追放へ(69年12月~71年11月)から構成されているドキュメントである。
 また全学闘活動家による多くの証言が時系列に沿って収録されていたり、エピソードなども各章末に掲載されており、その大学闘争史の内容を豊富化させている。

力関係は一気に逆転した!

 「芝工大は、スポーツ部門の『広告塔』によって学生を集め、集まった学生を徹底的に収奪し、運動部学生をそのための弾圧的な私兵として使う……そこに、民主主義のかけらもあろうはずがない」、典型的な右翼スポーツ反動大学だった。
 しかし、六八年一月、学費値上げ反対闘争を水路にして、学生の不満や怒りが一気に吹き出すことになる。そして一~二年生のクラス、学科闘争委員会を闘争主体とする大衆的な全学闘争委員会が出現する。
 だが全学闘に結集する学生のなかには、大衆闘争やストを組織した経験をもつ者は誰もいない。熱い塊となってストを死守する五百人の全学闘ピケット部隊、それをとり巻く五百人の学生。力関係は一気に逆転し、二千人結集の大衆団交にまで攻めのぼることになる(第一次闘争)。

改革派との攻防と四つの拒否権

 全学闘の出現によつて、大学当局が反動派と改革派に分裂する。教職員組合が結成される。暴力装置だった応援団は、中大応援団との乱闘事件で自滅的に解散する。こうした学内状況のなかで六八年十一月、第二次闘争が始まる。
 経理を公開させ十億円の黒字が発覚。全学闘は「学費値上げ白紙撤回と民主化の実現」を要求して、強固なバリケードを構築。反動派理事会はバリスト一カ月目で白旗を上げ、全学闘の要求を受け入れて総辞職してしまう。そして反動派に代わって、改革派が前面に登場する。
 こうしてバリケードの中で、六九年一月二十九日の大衆団交を迎える。改革派理事会は、全学闘が提案した「四つの拒否権」(予算・決算、教育上の決定、人事の決定に対する拒否権、管理介入権)を含む、すべての要求を丸呑みしてしまう。
 全学闘委員長「四つの拒否権を認めるということは、大学は革命の砦になるということだな」 理事長代行「大学は反体制の砦である。そうだろう」……。全学闘は闘争の具体的成果を獲得はしたが、新たな闘争局面を迎えることになる。
 五月から始まる全学上げての「大学立法反対闘争」は、大学の自治は学生の自治なのか、それとも「進歩的」教授会が主導する自治なのかをめぐる攻防の質が問われることになる。

内ゲバ主義に抗した闘い

 芝工大でドイツ語講師をしていた真継伸彦は、「大学革命論序説」のなかで次のように書いている。「芝浦工大全学闘には、党派間の暴力抗争は皆無であった。それが、私が評価する重要な理由のひとつである。全学闘と民青のあいだにも、一月二十八、二十九両日の対立(大衆団交破壊のために地区ゲバ民と体育会連合が襲撃)のほかに暴力行為はなかった」。
 六九年九月十八日、大学立法反対闘争から継続する大宮校舎のバリケード内にいた中核派の活動家が、反戦連合(元中核派)に襲撃され、埼玉大生が校舎から転落して死亡するという事件が起こる。長期化するバリストをめぐる対立と、この衝撃的な「内ゲバ事件」に乗じて学内反動派体制が復活する(70年2月)。

反動派理事会をついに打倒した
 七〇年五月の自治会選挙で全学闘派が民青候補に圧勝し、反動派に対する大衆的な反撃が再開される。十二月には二部自治会が結成される。
 全学闘―自治会の反撃を背景にして、独善的で強権的な大学経営を進めようとする反動派理事会に対する教授会、教職組からの反発が深まる。教授会は学長のリコールを決議し、教職祖は三波のストを決行する。こうした教職組の闘いに対して処分を乱発し、学内で孤立化する反動派理事会は「学生対策」として、日大闘争を襲撃した暴力ガードマンを導入する(71年2月~)。それはまさに、末期的な軍事独裁政権そのものであった。
 芝工大全学闘―自治会はその後、百人を超える大量逮捕の弾圧と多数の負傷者を出しながらも、不屈の闘いを継続させ七一年十月、反動派理事会を打倒するのである。
 芝浦工大全学闘の闘いは全共闘運動の金字塔である。そうであるがゆえに、体制主義者や俗物主義者はその闘いを「封印」しようとするのだ。本書によって、その「封印」は完全に解かれたのである。  (鶴)

もう一つの全共闘 単行本 – 2010/11/27

防備録
①雑感
 あの時代、いろんな闘い(闘い方)が有ったのだとつくづく思う。
 埼大にも「埼玉教育短大」が併設されていた。
 埼玉短大もあった。
 ともに何人かの中核派が生まれた。
 けれども当時の私の視野の片隅には、ようやく入ったに過ぎない。

 日大闘争ほど大きな大学でも無く、高経闘争よりは新しい。
 東大とはその存立の位置があまりに違う。

 私の大学では、私も含めて1人の処分もでなかった。
 数人の?自主退学を除けば、4年~8年でみんな卒業した。
 拠点クラスになった(教養部ではない)「教養学部」からは、その後の民俗学などの大きな流れも生まれたそうだ。

②クラス決議に拘って
 ことあるごとに「クラス決議」の積み重ねの上に、闘いを切り開く。
 情勢や主体の波に合わせ、クラス決議を生みだしながら、何度もうねりを作り出す。
 
 「個別大学のかかえる条件」や「個々の学生の資質と条件」への洞察と一定の答えや配慮は、
ほんらいあまりにも当然だ。けれどもあの時代…。

 70年の「7・7」とその後の「入管決戦論批判」を待つことなく、あまりにも当たり前な問題を否定した時代…。「自己否定」も「○○ではなくヒトとして生きる」思想も、根源的でもあるが時により人により、上ずった「一元化」論でもあった。そんな時代の中で7・7を前に、「女性解放」論や運動も生まれた。70年とは、公害やその他も噴出し、「公共性とは何か」「豊かさとは何か」が問われた時代背景をも基礎にして、絡み合って(?)進んだものだ。

 「血債の思想云々」とは、そういう総体をも問うものでもあったはずだ。
 
 (思想・・政治思想・戦略・戦術など。それぞれ別の次元だけれど)

 横浜時代に関与した関東学園大学2部学友会。

 そして後に知った中学時代の同級生たちの経歴とその後の数々。

 その人たちと当時の私の視野や条件は近いようであまりに違いすぎて、どうしようもないほどだ。

 同じ「中核派の同志」もまた、数年後、10数年後の生活と思いは違いすぎる。
 そしてまた、上級生・下級生、上を観る私には同級生や下級生たちの世界が見えない。
 文化人戦線や救援連絡センターに集まった60年世代・戦中派世代から私たちはあまり多くを学ばずにスルーしたようだ。

 それは私のせいか、運動のせいか?

③若さ
 いや、最大の問題は「若さ」といってもいい。
 もちろん「私の若さと言う罪」はある。同時に、30代、40代の百戦錬磨の将になって、大きく包み込む、そんな成長の仕方があったはずなのだと思うのだが。そんな指導者群になるための、そんな指導者群を作り出すための闘いだったような気もする。
 もちろんまったく違った経験からだ…。

 若さゆえの想像力と根源性は、若さゆえの無知と限界と背中合わせだ。
 どんなに優れた確信でも、「巨大なあいまいさ」を内包した確信とするしかない。

  
④滝沢さんの死を別の視点で見ると
 内ゲバも外ゲバも、当事者と他者ではあまりに立場の違いがあることを突き付けられる。
 芝工大闘争、芝工大の学生の視野から見ると…。
 連合赤軍や赤軍派をこれほどまでに正面から切って捨てる議論には、実ははじめてあったとすら言える。
 うーん。絶句。
 たしかに昨今の解放派のゲリラなどにはほとほとうんざりする。
 彼らとはほんとに「同席」したくない。
 ま、いろんな場面があるから、無条件に拒むともいかないけれど。

⑤早稲田解放闘争の砦・駆け込み寺。
 もちろん、安田講堂の攻防や多くの中央闘争にも関わっている。
 
 なかでも半年間だっけ、学内の教室を早稲田の仲間に解放し、寮を解放し…。
 寮の窓という窓を板で覆って、革マル派の攻撃に備えた…。個人テロへの恐怖と闘って、寮生や当局の協力を得て…。よくぞそこまでやりきれた!!
 『前進』社や法政にはできない事、同じ姿勢に立つ同じ学生の闘いでこそ、生きてくる。
 そういう意味でも、色んなバージョンがあったのだと思う。
 そんなこんなの結果として、昨今の集会には「芝浦工大」の旗が翻る。
 少なくない「○○大学全共闘」の旗も垣間見える。

⑥全共闘の総和か単一の結合か?
 異質の連合か同質化か?色んな議論が提出されている。
 
 ある人は言う。「いわば全国各地の地区ソビエトと、中央権力への蜂起の関係の、矛盾・対立の縮小版だったのかね?」
 ま、振り返ってみれば、70年は「権力奪取」には程遠い世界だったから、学生運動の延長にそんなことを語ること自体が間違っているとは思うけれど…。
 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 まとまらないまま、まとめようともしないままですが。「宿題」への第1次の答えとします。
 

 Bookの『狂おしく悩ましく』のために書いたのだけれど、載せなかったモノ。
 前進社出版物に見つからず、私の記憶を担保できなかったのではずしたけれど、最近ようやく出版物目録に見つかったのでアップする。 川武信夫さんの『共産党宣言』とは別の、ま、その土台になるべきものか?

 90年代のはじめ、『新訳‥‥』が発刊され、手始めに編集局で学習会がもたれた。
 刊行を代表する仲山がチューター(ティーチャ-、解説者)として参加し、高田さん(?)が報告した。
 仲山の話では、いくつもの原典に当たり改めて翻訳しなおしたこと、邦訳もいくつも読んで批判・検証した。理論委員会の多くの参加を得てできた渾身の力作ということだ。

 『共産党宣言』の学習会を改めてするのも変だなと思いながら、端の席で聞いていた。
 結構逐一的な解説だったので、ぱらぱらとめくりながら流し読みしていて「あれっ」と思う。

 「感想や意見」の時間で「偉大な成果」とか「改めて感動した」などの発言が続く。
 私の番になって指名されたので、「小さな疑問だけれど」と切り出してみた。

 「俺の記憶では、ここにある『千年王国』とは『神の千年王国』とか『ザ・千年王国』として使われていたはず。ちょっと感じが違うんだけど?」
 「えっ?そう?」と仲山が驚いて、水谷さんの顔を観る。
 ちょっと渋い顔をして水谷さんが答える。
 「うん。○○版や△版ではそうなっていると思う」
 仲山が凍りつく。

 一瞬の間をおいて東欧君が叫んだ。
 「なんだ。まるっきり逆じゃねえか!!」
 85年世代が党文献に反逆すること自体が「身の程知らず」だったけれど、それがその場の雰囲気を決めた。
 しらけた空気が広がり、学習会はそのまま終わってしまった。

 共産党宣言では、「約束された(空想上、幻想上の)神の千年王国」を〈地上に人間の手で〉実現しよう、というパラドックスの論法で語っていた。私もかつて学生時代にクリスチャン左派とそんな議論をしていた。
 そんな逆説的論法に気がつかずに、マルクスたちが「王国」や「千年王国」を語っていたと理解してそれに共感するマルキストなんているのか?(クリスチャンならどう訳しても誤解はしないだろうけれど)。他の基本組織ではどんな議論になったのかは分からない。

 ずいぶん時間を経た後に、「新訳…」について何人かの同志・元同志たちに聞いてみたのだけれど、記憶にないという。川武信夫さんの『宣言』しか記憶にないという。なお、ここでは「王国」は〈正しく〉訳されている。〈70年世代の限界の露呈かそれとも別か〉
私のBookの「新訳・共産党宣言」
で、タイトルは「新訳・」をはずすのが正しい。

マルクス主義原点ライブラリー

以下、 [ 野々村 ] さんのコメントをコピペしました。
 
【以下原文】
法大黒ヘルの首領・中川文人氏の電子書籍「サムライ・コミュニズム」にSOB時代の松尾が法政大学から10億円以上の裏金をせしめていた話が松尾のインタビュー付きで紹介されています。
これは初耳でした。しかし、思い起こせば、思い当たる節はあります。
これは松尾が単独でやっていたことなのか、清水の了承のもとでやっていたことなのか?清水が松尾の「円満退社」を認めたのは、この件があったからなのか?貴兄はどう見ますか?
 
関連記事は以下です。

松尾真の失脚

 

 

 私なりに、時折、「元中核派」と歓談する機会がある。
 10・8以前の中核派の世代もいるが、80年代~90年代の人もいる。
 
「路線主義」の時代
 後者と話すときに気になるのは、話の節々に「路線的」があまりに頻繁に出てくることだ。
 古くは「綱領的に」とか、「戦略的に」という言葉がキーワードになったと思うのだけれど、随分と感覚の成り立ちが違う。(過渡的綱領もあったが)
 
 「85年世代」に代表される70年代半ば以降の人々にとって、「中核派とは何か」「闘うとは何か」があまりに歪んで一面的だったこと。その責任と問題性をひとまずおいて、どのように受け止められてきたのかを検証したいと思う。
 
「団子生活と単一化」
 とりあえず、「路線」という言葉の発祥と実像だ。
古くは「戦略的総路線」という言葉があったけれど、いまいう「路線」とは「基軸的路線」または「単一な路線」と理解するほうが適切だ。

 この時代学生運動は、首都圏では本社や神奈川支社などに寝泊まりして、軍団として法政や横国に武装登場する日々だった。団子生活の中で、空いた時間に一本釣りのオルグにも向かう。もちろん「諸大学」も一部いたし、カミングアウトしていない黒ヘル潜入メンバーもいた。
 
 「85年蜂起」は結果として、数年後には「現役のいない法大支部」に行き着いた。全国の大学から二部に転入学させてもなお形もつかない事態を生んだ。85年世代のその後が気になる。
 
 清水さんの秘蔵っ子の松尾、彼の下でどう部隊を引き回すかが、「路線主義」の発祥ではなかったかと改めて振り返る。「三里塚基軸路線」もある。
 
 「路線とは団子化主義と一対」。一人ひとりの問題意識やしがらみを断ち切った一本釣り、他人が準備した統一行動の場に登場して中核派の軍団的・マス的優位性を対立的に認知させる手法、総じて「革命党の絶対的正しさ」の前に、自他共にひれ伏す(同化=異化・拝跪の)儀式・念仏だったのかと思う。
 中核派が「地区党・労働者党」を掲げて緒に就いたその直後から「反スタ」の深化を投げ捨てて「99%スタ」のまま突っ走ったとすれば(?脇に置いて?)、その節々から、改めて「路線主義」の全体像を描きなおすことも必要だろう。
 
 ただそれは「結果論に過ぎない」という側面も否定はできない。
 「当時はそれで仕方なかった」面もあろう。
 対カクマル戦とそれに続く「革命軍戦略」の真っただ中だ。その節々の検討も必要だし、反戦や地方・地区ごとに趣も変わる。
 
 「革命軍戦略」のための三里塚基軸路線、という路線主義、というのが正しいのかもしれない。
 
「生活の場」での勝負
 ただ思うに、90年代の「労働運動論争」が集約され、やがて「動労千葉特化」路線というあまりに空疎な「核心的一致」論だ。
 その源流が「路線主義」や(人によれば)「求心力主義」にあるとすれば、「血債主義」にせよ「労働運動主義」にせよ、実のある議論にはならない。
 「流し込み・垂れ流し」は、基礎があり、十分に熟練した人々がいてこそ、一定の意味がある。
 
 「綱領って何を語ること?」とか「戦略って何」とか、革共同の創成の基礎だったはずの「反スタ」や「労働者党」を、今日的にもう一度繰り返し吟味しなおす思いなしに、空疎な「言葉遊び」は終わりそうにない。
 「この世界」について、もう何一つ捉えられなくなってしまった中核派、「とにかくみんな一緒に」だけなら、綱領も路線もなく、ただ党派性だけを支えにすることも流れとしては理解できるのだけれど。
 
 逆に、職場や地域・産別などの「生活の場」で、当たり前の問題を当たり前の課題として、生活感に満ちた会話や相談ができないままで、世の不正や不条理をあげつらったところで、人間観も社会観も豊かにはならない。
 
 「思想的・路線的一致」論とは、さまざまな問題意識を拒否する「団子化論」だというべきではないか?たとえ現実の中核派が焦点を失い、ばらばら化しているとしても…
 
「血債論の利用主義」
 最後に、「思想的一致」の「思想」とは何と何を指すのか?
「血債の思想」「血債の論理」を核心的一致点としいわば「唯一化」てきた70年代以降の中核派、(それは多分に「政治思想」とか「短絡的・非実践的」な言葉遊びに堕して矮小化されてきた「血債の利用主義・ご都合主義」としても)そこから血債を取ったら、何が残るのか?
 
 恐るべき「イニシエーション」から自らを解き放ち、「世俗の人間」としての(運動主体自身の)自己解放を現世に実現するためにも、この「思想的・路線的一致」論をある種最大の標的として、折に触れて考えてみたいとつくづく思う。
 
これは私のブログから

*今回、16年4月、「非公表」のカテゴリーから移しました。
 

80年代半ばだったろうか。
携帯が普及し始めたころのことだ。
工場の食堂の携帯が鳴る。
鳴っては消え鳴っては消える。
ワン切りを受けて急きょ出動態勢がきづかれた。
 
金さんを中心にドライバーと防衛隊の計6人が集められ、車で出発する。
 
30分ほどキリをやって入ったのは環七沿いのファミレスだ。
「何でも好きなものを頼んでいいよ」とのお達しで、久しぶりにちょっと贅沢な外食の気分を味わう。
そこで10分ほど?待つと、呼び出し電話がかかってきた。
 
金さんがなにやら話してあとは食事会だ。
梶さんの防衛にも何度か駆り出された。
やはり「食事付き」。みんな、うれしそうに食事にありつく。
 
当たり前のことだけれど釈然としない思いはある。
上級幹部たちの財政は、どんぶり?
 
 

【4】「3・14とその後の日々」
 関西の決起を転機として、中野・天田ラインの動きは早かった。清水天皇を天の岩戸に押し込めて「第3のクーデタ」に突入。清水氏が身の安全を引き換えに側近を売り渡す。これを受けて水谷・与田らを一掃する大運動・大粛清が始まる。(第2のクーデタは不発に終わった「カウンタークーデタ」?)
 
 そう。その後の関西派の弾圧・追放などを見ると、「3・14=党の革命」論の空ぞらしさは印象的だ。
 高木を処刑し、秋山を復活させ、鈴達を引き上げ…この意味は何か?
 清水氏が、天田氏にがんじがらめに縛りあげられて、命乞いをしているように見える。
 で、そういう「勅許」を乱発している?
 
 清水復活の芽も無いわけではないが、それはそれでまた、大粛清を伴いそうだ。
 長生き戦争に勝った家康の教訓かね?
 ただ、清水氏の文章を読んでも、あまりに生気がない。「とっくに終わった人」じゃないか?
 党を潰しても、主導権争いに勝つ。「チキンレース」の覚悟なしに、この世界には踏み込めそうにない。
 天田・清水の党内権力にかけた執念は、あぜんとして、非難を超えて見惚れるほどのものではある。
 
 ***「いつ・どこで・だれが…」。
 正確に全体像を描こうとすると、すぐに生き詰まる。
 乞う協力。というか乞う発信。
 
 
 

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