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 百人を超える「浮上組」のうち、指導部はそれなりのポストを得た。
 けれども「地下」に潜行する以前の相互の関係からすれば、彼らの地位は「戦功」をも加味すればなお、それに匹敵するものではなかったようだ。
 
 また多くのメンバーは行き場を失った。
 
 それ以上に、この10余年の「表と裏」の二つの「党」が、それぞれの戦いと思いを共有する気の遠くなるような作業が残っていた。「全面的・総合的総括」のために巨大なエネルギーが必要だった。けれど‥。
 あまりに長かった清水さんを頂点にした「水紙政治」(対話なき報告書)を経て、「横や斜めの議論」に耐えうる互いの許容量の狭隘化はいかんともしがたい。「内的共感」は再形成されるゆとりもない。
 
  天田体制は「軍部」を徹底的に解体することを迫られた。
  浮上組の大半は、名目上のポストを与えられて、東日本全域に薄く広く拡散された。
  浮上組の間の相互の連絡や「酒の場」こそ危険要因になった。
  「書記局マフィア」を中心にした108世代の交換の場も忌むべきものだ。
  「指導系列を無視した情報の交換を非とする」ことが指導指針になる。
  長期の投獄から帰還した古参の人々も、「浦島太郎」だ。
 
  いわば「顔を持たない」無名の内務班あがりの人間が、改めて機関を制することになる。
  対外的にあるいは現場からの信望を得る人々は無力化する。
 
  梶さんに代わり、清水さんの秘書・名代として、Fさんが表の顔になったのは‥。
 
  ここでもまた、関西・西日本は独立王国として、ありつづけた。
 楠木グループとその後の浮上組という二つの流れがその後の矛盾を孕む。
 
 
 
 
 
 

血債主義 VS労働運動主義

対立の発生
95年?の『前進』の夏季特別号論文を契機に、互いに「血債主義」と「労働運動主義」とレッテルを張り合う党内論争が巻き起こったことを知った。その一端を整理してみた。
論争は首都圏と全国で、地方委員会・県委員会や労対の場で展開された。
当初の対立は、「たとえ孤立しようともアジアの人民の連帯が‥」をめぐって、公然化した。
首都圏では、ポスト10・8世代を中心に「労働運動派」が形成された。プレ10・8の産別の重鎮たちがそれを支えた。「血債主義派」は党機関員を中心に「浮上組」に支えられた。
言い換えれば、「大衆の中で」「現場の問題意識と向かい合う」vs 「革命的孤立」「求心力」の対立でもあったろう。
半ば公然と展開されたというこの論争は、ある意味、中核派の「解放性」、その可能性を示した最後のあだ花だったと言えるかもしれない。
 
決着の形
9?年、○○論文と政治局体制の確立・公表と共に、論争は終結した。
公表されなかったが事実上明らかにされた中野副議長。清水議長と天田書記長の公式な就任と共に行われたこの体制は、「清水=中野体制」あるいは「清水・中野⇒天田体制」と呼んで良いだろう。
 
その内容は、労働運動への転換と「国鉄決戦」特に「動労千葉支援運動」への特化だと言える。
中野さんの労組交流センター指導が大きな位置を占める(天の声)。党機関は天田さんの指導に服するが、天の声も直接届く。
あわせて、中核派系の「国労共闘」や「全逓中核派」の独自行動の幅を制約し、階級闘争の発展のために占める動労千葉の別格の優位性・主導性を、交流センター内でも不動のものとして確立する。
 
「労働運動派」の先頭に立った人々はその後、あるいは除名され、離党し、排除された。残った一部の人々は、その「有能性」ゆえに栄達の階段を上った。
他方で、「血債主義」は関西や浮上組・三里塚や戦線に根を張り続けた。首(こうべ)を垂れて政治局に残ることもできた。
東日本ではおおむね、決着がついた。
 
全逓問題
全逓中核派は、この時期ある意味最大の「ガン」となった。
プレ10・8世代が大量に存在した全逓では、70年台~90年代のこの時期も、勢力は減退したけれど、全逓労働運動内でも高い「権威」を維持していた。プレの人々は、「4・28ブツだめ闘争」とその不当処分に対する全逓内の運動でも、輝かしい実績で存在を占めた。職場に根付き、職場の同僚と共に進退する作風を維持していた。
 
全逓中核派の旗を高く掲げるとともに、同僚たちと飲み、遊び、苦楽をともにすることなしに運動はありえないと確信していた。同時に、新たに獲得された青年たちには、「動労千葉の物販を持ち込む」ことなどで浮き上がること、無用な対立を引き起こすことをいましめていた。
 
全逓中核派は、対革マルの内戦のもっともすさまじい戦場を体現していた。同僚たちにとっては、「中核派」とはただちに「鉄パイプの攻防」でもあった。「戦時下の疲弊・戦争疲れ」とでもいうべき状況だ。
全逓中核派はまた、多くの戦士たちを輩出し、浅草橋戦闘などでも多くの逮捕・指名手配をだしていた。プレや70年世代の後続の層は、不十分でアンバランスだ。
 
私は思う。集配係の実直な性格、「言葉ではなく行動以外に信じない」「職場の空気」を中核派は好都合に使ったのだと。70年代の苛烈な日々、動労千葉や国鉄を(革マルと)互いに「拠点」として戦域からはずす暗黙の了解の中で(非・戦闘地域化)、全逓職場での総力戦を選んだこと。それは、結果として両派の「利用主義」でもあった。やはり集配よりも機関手のほうが大事なのだ。
この時期、「70年」の全逓中核派は50歳に手が届く。ようやく獲得し、維持していた20代・30代とは親子ほどの年の差だ。ここで、青年たちとの対話はどうしたら形作ることができたろうか?
地区の指導部によって、事態への認識や対応は極端なほどの違いがあったようだ。
ある指導部は、「輝かしい全逓の戦歴」をさらに高めよと、「党的課題」への引き回し、垂れ流しに奔走する。
 
神田問題
プレや70年世代の人々など全逓活動家の多くは、多くの政治集会だけでなく革共同集会にも参加せず、職場と全逓産別の行動に力を集中する人々が主流を占めた。
労対の全逓担当の「神田」はこの動きを積極的にかばい、数年にわたる「全逓問題」の矢面にたった。
神田さんは、あの日大闘争での芸闘委。その指導部としての体験も踏まえて、広い大衆決起の何たるかを知り、また戦場での駆け引き・進退を体現する人だ。
 
彼が全逓の責任者の任を解かれたのは95年だったろうか?
「全逓中核派」の独立王国は費え去り、中野政治の下で、「動労千葉を支援する純粋中核派の革命的全逓運動」に変質していった。

旧版にないものがあります。参照下さい
 
 
全国全共闘(1章 私の「10・8羽田」)
安保・沖縄と大学闘争を2大スローガンに,全国約200の大学全共闘(全学共闘会議)の全国組織として結成された.山本議長(東大)と秋田副議長(日大)の下,民青・革マルを除く新左翼8派によって書記局が構成された.
全共闘は60年代中盤以降の大学闘争のなかで,諸党派の分立と無党派ラジカルの台頭を受けて,各大学で結成された。
直接民主主義にもとづく組織運営と行動による共闘を基本とし、全員加盟制の学生自治会とは趣を異にする。全共闘によるバリケード封鎖→学生大会での無期限スト、が多く見られた。〈自己否定〉,〈大学解体〉などを掲げる思想運動でもあった.70年代に入って崩壊した.
今日、東大闘争だけが象徴にされるけれど、本来は日大・東大の2つにして1つ。日本刀を振り回す体育会を支配の手段とする大学当局と対決した日大闘争の「破壊の思想」は、「積極的な自己肯定・自己実現」の思想でもあった。
 
7・7自己批判(1章 「第2の7・7」と地域入管闘)
70年安保・沖縄闘争の中で、諸党派とともに華青闘が隊列に参加していた。その統一戦線の会議の場で華青闘が「抑圧民族の傲慢な姿勢」を徹底的に批判し、共に闘う仲間と認めることは出来ないと退場した。中核派は批判を受け入れ、「抑圧民族と被抑圧民族」の区別を明確にする立場を確立した。7・7は1937年7月7日の盧溝橋事件、中国侵略の本格的開始の日。
「たとえ闘う人間であれ、共産主義者であれ、その存在として、私たちは抑圧民族の一員として刻印されている」。この認識は、沖縄県民に対する「ヤマトンチュ」、被差別部落民に対する「一般民」等々として普遍化された。「差別者の一員として、差別主義と対決しのりこえる」という。
「知らないことの罪」「無関心と言う罪」、「踏まれたものの痛みは踏まれなければ分からない」等々。
「非抑圧民族の生活と闘いから学ぶ」、そこから自らを発見しなおすこと。糾弾を受けつつ成長する。非抑圧の解放主体としての存在を承認する。
けれども私たちの世代は、青年期に郷里を離れ、日々の巨大な変化の中で、親子間・世代間の継承を欠いた断絶の世代でもあった。乗り越えるべき歴史や自らのアイデンティティの不確かさを、どう見つけ出すことができるだろうか
 
狭山差別裁判(2章 狭山と組織論) 
63年5月1日の女子高校生誘拐・殺人事件。警察の威信をかけた捜査の中で.石川一雄さんを別件で逮捕.再逮捕した。一審死刑,2審・最高裁で無期懲役。
部落解放同盟は、見込み捜査が作り出した差別事件とし,「無実・差別」を訴える糾弾闘争を展開した.76年には、19都府県の小・中・高1500校で10万人が同盟休校.日比谷で1万5千が集会。79年にも、東京・明治公園で5万人.大阪でも1万5千が再審要求。社会党・総評・新左翼諸派や市民運動・宗教者を結集する大運動になった。
94年12月21日,石川さんは31年ぶりに仮釈放となった.現在も再審請求中。
70年代半ば、中核派や新左翼の最大の運動も、「沖縄・狭山・三里塚」だった。革マルは「狭山無差別裁判」などとやゆして敵対し、露骨な差別観・エリート主義をマン展開した。共産党も「無実・差別」を否定した「公正裁判」要求運動で、弁護団を残して大衆運動から脱落した。共産党による八鹿高校差別事件も糾弾闘争の焦点になった。関連して7章
 
留置所(2章 留置所の歌声大会)
警察の留置場。正式には「代用監獄」。容疑者は、本来は拘置所に送られる。けれども自白偏重の捜査では、留置場が自白強制の手段として活用されている。
用便を足すにも上半身を看守にさらし、屈辱感・転落感覚を強制する。家庭生活や社会生活から突然遮断される犠牲や損害は計り知れない。
深夜に及ぶ長時間の取調べも、弁護士接見の妨害も、警察の留置場あってのこと。「逮捕=犯罪者」という裁判所と社会の常識もある。
争っても何になる。無実であれ何であれ、自白して早く生活に復帰しなければ、という思いは十分に理解できる。多くの国選弁護士もそう対応する。
代議士などの場合は直ちに、法務省が管轄する拘置所送り。少しはましだ。
運動時間。容疑者には、「捜査に支障がない限り、十分な人権が保障されなければならない」。1日1回の運動時間の保障も同じ。留置所では「タバコの時間」で代用される
 
チョウとキリ、ミリ、テツ(3章 「常在戦場」の臨戦態勢
(兆)チョウ。アパートや職場などの周辺とその経路で、革マルの襲撃の予兆を発見すること。ただちにアパートを移る。職場を休む。時には待ち伏せて迎撃する。
(切り)キリ。尾行を切る。幹部の場合、数時間、時には数日かけることが原則。
(ミリ)。留守中に革マルが侵入していないかを確認するための細工。机の上に本を置き、旗からの距離をミリ単位で計っておく。玄関に新聞をしき、その下にソバを数本置くこともあった。
(鉄)テツ。アパートのドアに鉄板を張って補強するなど
散)サン。公然拠点から移動すること。ホロトラなどから降りたあと、数人ごとに分かれて隊長の指揮のもと、数分歩いてタクシーに乗る。下車後、原則として一人1人に散る。兆を見つけてのアパートの引越しも「散」
 
バナナと日本人(5章 フィリピン新人民軍
浅草橋戦闘の獄中被告から「バナナを拒否しよう」というアピールが届いた。この時代、フィリピンの半植民地状態の1つの象徴はアメリカ・デルモンテ社の巨大農園で作られるバナナだった。その最大の輸入国は日本。
「農民の土地解放への闘いに応えたい」という想いは大事だ。けれども私の答えは「ノー」だった。「いったん生産・消費のルートが出来てしまったら、あとは食い続けること」。問題を告発している鶴見良行氏自身が書いているけれど、「先進国の消費者の移り気」こそ、農園で働く人々の生活を何倍もの力で右に左に振り回す。
巨大農園から自立して砂糖生産に挑む農民を支援する「ネグロスキャンペーン」がその後始まった。「持続可能な成長」が合言葉になる。もっと突っ込んだ議論をしたいと思いながら、議論の土俵が見つからないままに放置してしまった。
 
革マルの3・14(10章 政治なき戦争)
相次ぐ政治局員へのテロと本多さんの虐殺。それは「やり合い」の過程に突入した時の革マルの断末魔のあがきだった。「権力が(中核派の)首根っこをつかみ(革マルは)下の急所を蹴り上げる」と公言したおぞましいのもくろみは崩れ去っていた。尊大・ごう慢な「教育的措置」論や「お尻ペンペン」論は、革マル幹部たちは恐怖の反映だった。
「3・14」=「勝利・一方的停戦宣言」と「停戦」を求める文化人声明、そして「謀略」論は3身1体だった。
もしこの抗争を停めることができるとすれば、それは本多さん以外にありえない。そんなことは、革マル(黒田・松崎・土門=根本)自身が十分すぎるほど知っていたはずだ。それが分からないほど、革マルは、幻影・幻覚の中に現実逃避していたということか。解放派への襲撃と中原氏の虐殺は、新たな戦場を生んだ。
「人を呪わば穴2つ」。以降の革マル指導部は、黒田をはじめ、現場責任から逃亡し、怯えと夢想の穴倉に閉じこもってしまった。
革マルもまた、いくつもの節目を経て、変質と内部抗争をくり返している。革マルもまた「かつての革マル」とはほど遠いところに行ってしまった。元中核派と元革マル派、ともに集まって、「戦史研究」を始めるべき時ではないか。
 
本多さんの3・14(10章 1975年3・14)
69年4・27、破防法で逮捕された本多さんは、長期の未決拘留を強いられた。保釈出獄してすぐ、結婚して子どもをもうけたという。それは獄中での心身の痛みの癒しと将来へのステップでもあったろう。休養が必要だったはずだ。けれども「情勢」と「任務」が休養を許さない。
逮捕時の取調べで雑談を交わし「完黙」を貫かなかったと、政治局で自己批判を迫られたとも言う。「政治犯として堂々と立ち向かう」ことが「規律違反」だとしても、「転向・屈服」にはあたるまい、と私は今思う。「完黙・非転向の思想」自体が古すぎる。本多さんの失望も想像できる。
非公然下での軍事小委員会というトロイカで棚上げされ、本多さんは実権を失っていたとも聞く。
護身のためにピストルを渡そうとした人に本多さんは「いざという時、引き金が引けるか?」と断ったと聞く。ここに本多さんの体温・人となりを私は感じる。
 
69年、「破防法を引き出して、勝った」と叫んだという本多さん。戦前・戦後の共産党の屈服の歴史の壁を乗り越えたことで、その歴史的使命を果たしたと言うべきか?
 
証言 組織論の結末(同上)
 キャップが、「排他的で全一的」な指導をするのが理想とされた。その結果、転属や離脱でキャップがいなくなると、継承性が断たれてしまった。
 どんなに無能な人間でも、30余年も1つの部署で頑張ればそれなりの力がつく。時が経つほど、抜てきや天下りの新キャップには「全一的指導」ができなくなった。
 結果として、出る杭、いや「出てもいない杭」を徹底して叩きつぶすことがカギになる。有能な奴は、上におもねり、下を隷属化してぶんまわすことでのしていく。指導部間では、権益をめぐる暗闘が日常化した。
 清水さんの人事は極端なキャリア主義。30年以上も前の記憶で人を判断する。そのキャリアたちも全滅した。
 

27 全逓4・28処分。(5章 お互いさま)78年、前年から続いた闘争に対する処分で61人が免職。当局と結んだ全郵政による組織破壊に対する組織攻防は、時には暴力にも及んで逮捕者が続出した。79年の年賀状配達を混乱させた「物だめ」闘争は闘いの頂点になった。2007年に、処分無効の最高裁決定が出た。
 
28 「踏まえ踏みにじる」。(同 路線主義の体現者)革マルの議論の仕方を中核派がやゆした言葉。「○○という痛苦な現実を否定的現実として踏んまえ、△△に向けて革命的に前進するのでなければならない」。踏まえて、党作りにいそしむ、何もしないで居直る。
 
29 傍聴。(6章 党改革 党改革の嵐)実際に「傍聴」したのはわずかだったろう。自分の任務以外のことや上級機関の議論を知ろうとすることは「のぞき・スパイ」とされてきた歴史は余りに重い。
 
30 LC。(同 卑怯者は去れ)各組織・機関の指導部会議とその成員。
 
31 風見鶏。(7章 熊野の夜)アメリカ「ウェザーマン派」 (Weatherman)。、70年代に活動した急進的学生運動の1つ。ボブ・ディランの曲から付けられた。国会議事堂、刑務所、マスコミ、大企業などといった体制側に爆弾を仕掛け数多くの爆破事件を引き起こした。ベトナム戦争の終結時に解散。
 
32 日本問題。(8章 カンボジアPKO論)日本の課題。アメリカが大枠を示し、軍事力を揃える。あとは日本の金と裁量でやれ、ということか。
 
33 正しい。(同上)その後、米越の関係正常化が進む。ベトナムは国際社会に復帰し「改革・開放」「ドイ・モイ」が始まる。アメリカは湾岸戦争・イラク戦争のためにも、ベトナム戦争の傷を癒すことが不可欠だったということか? 今ベトナムはBRICs4国に続くVISTA5国の筆頭。
 
34 文化大革命。(同 ポル・ポト派)各地で大量の殺戮が行われ、その犠牲者の合計数は、数百万人から一千万人以上ともいわれている。また「マルクス主義」に基づいて、宗教が徹底的に否定され、教会や寺院・宗教的な文化財が破壊された。特にチベットではその影響が大きく、仏像が溶かされたり僧侶が投獄・殺害されたりした。
 
35 生きた参考。(同上)正しくは、レーニンの「対農民戦争」それ自体もある。「農民の団結=反革命」論は根深い。
 
36 メキシコ革命。(同 サパティスタの綱領)たとえばメキシコの公用語はスペイン語諸民族間の庶民の共通語をどうするか。近代日本の「隆盛」の基礎として、共通語の強制と軍事教練による所作の規律が上げられる。「口語体」運動の意味も改めて見直したい。メキシコは、明治以来最初に互いに対等な貿易関係を結んだ国でもある。身近な存在として受け入れることから始めたい。
 
37 永山則夫。(同 人権論争)『氷の上の魂』の著者。68年、東京のホテルでガードマン射殺など連続射殺事件を起こした。97年処刑。
 
38 無実の証人。(同 人権と内藤裁判)警察が「革命軍」と認定した裁判では、無実・無罪を勝ち取るには、数倍・いく層もの無実の証拠を要求される。それに対決して多くの無罪判決が勝ち取られてきた。非公然メンバーの場合は、同じ非公然活動家のアリバイ証言が不可欠となる場合が多い。
 
39 開発独裁。(同 開発独裁)今の中国も、この側面から見ることもできる。『帝国主義論』に依拠すれば、もはや「帝国主義」の概念に近いかもしれない
 
40 清水=中野体制。(9章 2つのテロ)2つのテロの特徴。、①鉄パイプを使わない。白井さんは「宅配便」に自宅に踏み込まれ、両手・両足を骨折。角田さんは、砂入りバッグ?で襲われた。②犯行声明を出さない。質問も許さない。統一戦線の会議では「中核派の犯行ではない」とシラを切る。③「不特定の犯人」への弾劾声明の署名者に、撤回を要求して脅迫的「説得」をする。
 
41 土台 (10章 内戦の構図)破防法の団体適用が回避されたことと並んで、自衛隊の治安出動も回避された。かわりに機動隊の警察軍化が進んだ。55年体制の内側からの解体の実像を改めて点検する必要がありそうだ
 
42 虐殺。(同 解放戦争としての総括軸)71年12・4、関西大への革マルの襲撃事件。中核派にとって対革マルで最初の死者。「バリケードへの襲撃」として革マルの反革命性の証拠とされる。三重でも1人死亡。
 
43 動労革マルもまた同じ(同 ファシスト規定について)。機関士だけの職能組合として分裂・発足した動労の前歴。そのエリート意識は、革マルによる支配と後退局面で、露骨にさらけ出されたと言える。
 
44 戦略。(同 勝利の為の戦略)革マルの、見境のない襲撃は、たしかに「まともな対応」の余地を奪った。破防法弁護団への襲撃、政治局員を狙い撃ちした陰湿さ。家族への脅迫と策謀。争議団そのものへの襲撃。動労を押し立てた反原発運動への襲撃的介入もあった。けれどまた、多くの無党派集団が立ち上がっていた。内戦への協力を惜しまなかった。この統一戦線を「人民の海」に転化するためにどれだけ苦しみ、煩悶しただろうか?
 
45 内ゲバ。(同 戦争法規に学ぶ)民主主義とは、果てしない抗争から生まれた。むき出しの主張と利害の抗争、策略と取引の場だ。であればこそ、少数派の拒否権・離脱権を含む。「離合集散、割れても末に会わんとぞ思う」。そのために幾重ものルールがある。
 
46 88年の事件。(同 松尾の革命的独裁)前記の要求事件。松尾追放運動の端緒。このHPは『ポスト学生運動史』(彩流社)で出版された
 
47 『検証 内ゲバ』(同) (小西誠氏ほか著)は一読に値する
 
48 思想性。(同 時代精神ということ)定型化された「思想」の背後にあるもの。思想を生み出しすもの。科学性・法則性などと同じ意味合いで。
 
49 横須賀の爆弾。(同 75年3・14)企画・推進したのは清水さんのようだ。露呈するや、「分派の独走」と、権力・党内に隠蔽した。現場責任をとらない「逃げの清水」という証言もある。
 
50 左翼スターリン主義。(同 私の精神形成)中核派の政治用語。当時急進的だった中国共産党を定義するために生まれた。戦術的には左翼、世界観はスタ。転じてブンドにも適用された。スタとは「歌と踊りと議会埋没だけ」という俗論的認識は、甘い。
 
51 9・11.(同 アジアの中の日本)直後の『前進』は、一定の距離を置いてこの事件を論じた。けれども以降、9・11を全面賛美する論調に転化した。その趣きは、革マル本体と瓜2つ。けれどもまた、中核派がアルカイダと実践的に「連携・連帯」する立場でないことも事実だ。口先だけの『革命性』『独自性』‥。 9・11の実行主体はいまだ不明だ。米政府も公式には「アルカイダとの証拠は無い」。私は、この大量殺害を「支持・共感」することと「広島・長崎」は両立しない、と思う。
 

脚注のまとめ

(10年前半以前の版には無いもの、短いものがあります。改めて比較しやすくしてみました。)

1 死闘の7か月。(1章 私の10・8羽田)1967年10・8羽田闘争から翌年4月までを指す。2つの羽田闘争と佐世保・三里塚・王子でのゲバ棒での大衆的実力闘争。3派全学連とともに青年労働者は反戦青年委員会に結集して闘った。3派とは、中核派(白ヘル)、共産主義者同盟(ブンド 赤)、革命的労働者協会(解放派、青)。第4インターほかの諸派も参加した
 

断定。(同)共産党は、マルクス・レーニン・スターリンを教祖とし、トロツキーの暗殺を当然としていた。トロツキー系の思想や運動を権力の別働隊として、あらゆる手段で排除・抹殺することを当然とした。「日本共産党は世界の共産党の中でもっともトロツキストに対して厳格」と自負していた。

 

全学連。(同)全日本学生自治会総連合。68年3月当時、自治会総数750のうち、3つの自称全学連があった。民青系205、3派76、革マル22。他にフロント系17、民学同系14など。いずれにも非加盟は299。

 

 反戦。(同 革共同への加盟書)反戦青年委員会。もとは1965年に結成された韓条約反対の青年組織。社会党青年部・社青同・総評青年部や他の青年組織などの共闘組織。次第に新左翼系の主導する運動になり、3派全学連の崩壊後もしばらく続いた。この頃は党派的に細分化され、「中核派系の労働者」やその運動体という意味で使っている。

 

5 芝工大事件。(同)私の埼大中核派の滝沢紀明さんが芝工大で死んだ事件。「内ゲバによる最初の死」。詳細は第2章の「滝沢『虐殺』事件をめぐって」参照

 
 公安。(同 稼いで生きる)一般に、対象者の住民票を定期的に点検し、大家・不動産屋に面接する。→会社回りする。本人に直接当ることもある。逆に言えば、住所を変えずに転職すれば職場は割れない。公安の能力も一般にはその程度だ。
 

7 「党」。(同 またも解雇)この時期も以降も中核派は自身を「党」とは規定していない。「党たらんとする」だ。けれどもまた「革命党にとって‥」という論理は常にキーワードでもあった。ここでは便宜的に「」付きの「党」を使うことにする。

 

8 県評。(同 県評青婦協)県労働組合評議会。当時労働組合運動主流派だった総評(全国労働組合総評議会)の県別協議体。社・共とともに反戦・平和などの政治運動を担った。89年に解散。

 

9 対峙。(同 妻が教われた)毛沢東の持久戦論に学ぶもの。防御・対峙・総反攻の3段階からなる。71年の「12・4反革命」以降、相互絶滅戦争論へと転化する。72年11月以降の早稲田解放闘争で追い詰められた革マルは、集会への結集場所への、鉄パイプでの襲撃を開始。翌年春?には学生の下宿への襲撃を始めた。中核派は「権力・革マルとの『2重対峙』の下で、主として対革マル戦に力を投入する」ことになる。(2重対峙=対革マル戦)

 
10 本多さん。(同 子どもを産もう)中核派の創立以来の書記長で代表。後述。
 

11 アコーディオン。(同上)携帯用の楽器として50年代の運動に登場した。「大衆性」の象徴でもあった。文化・芸術と「党」や政治の関係は、共産党結成以来の重大な議論の的でもあった。

 
12 反戦。(2章 鉄壁防御の要塞)この場合、中核派系の労働者と大衆団体のこと。
 

13 常任・専従。(同上)ともに専従活動家。常任が上位で県委員。それ以前は常任も非専従だった。

 
14 法大拠点化。10章「革命的独裁」参照
 

[1] スト権スト。(同 スト権ストと上尾暴動)スト権の合法化を求めて行ったスト。公社時代の国鉄ではスト権は与えられていなかった。国労・動労の最盛期であるとともに、退潮への契機となった。

 
16 狭支連。(同 石田郁夫さん)狭山を闘う中核派系の大衆組織。関連して7章
 
17 Zヘル。(3章 大会戦の現場)革マルのヘルメットで「全学連」の略。白ヘルに赤テープ、前面に「Z」と書いて中核派と区別した。
 

18 謀略論。(同 人民の海)73年から始まった革マルの世界観の根幹。すべての事象を権力の、革マル排除の為の謀略と見なすこと。教祖・黒田の直感により、謀略の企画・実行者は特定される。

 
19 (同 戦争論について)大衆運動主義への非難と共に、他方では軍事技術に熱中する者を「軍事主義」と制する空気も政治局に有ったという。「軍事主義」が制するには時間と何かが必要だった。
 

20 マスコミ。(4章 記者会見)70年闘争では、中核派は「マスコミ左翼」とヤユされた。白ヘルはテレビ映りが良い。マスコミをうまく使った

 

21 高石闘争。(同 動労千葉)72年の船橋事故で処分された高石運転士の処分撤回闘争。「事故の責任は当局にある!」。高石闘争は反合・運転保安闘争をレベルアップさせ、動労千葉は、「全国1」の労働条件を獲得した。

 

22 POSB。(同 改革と北風)諸機関・諸戦線・各地方委員会によって構成される。調整・執行と政策立案の両面の機能を持つ。

 

23 再共有化(同 3・8分裂の経緯)。反対した。その後98年、中核派は「脱落派の再共有化に応じた人びとを含む全国1200人の一坪共有者に訴える。その権利を絶対に守り抜くことは人民の正義であり、三里塚闘争勝利のために不可欠である」と、「一坪再共有化運動」に対する態度をそれまでの総括なく転換した。

 

24 寄せ場。(同 土木作業員の死)日雇い労働の求人業者と求職者が多数集まる場所のこと。大阪=釜ヶ崎、東京=山谷、横浜=寿などが有名。70年代、暴力手配師追放の運動が発展し、暴力団や警察との間で数千人規模の暴動(山谷騒動)が何度も闘われた。高齢化が進んでいる。関連記事、8章「寿越冬ルポ」

 

25 寸又峡事件。(同「報道」の腕章)68年在日韓国人2世の金嬉老(キム・ヒロ)氏による殺人を発端とする監禁事件。寸又峡温泉の館に宿泊客を人質として篭城し、警察官による在日コリアンへの差別発言に謝罪を要求した。テレビ等で実況され、社会的に衝撃を与えた。最後は、記者団に紛れた警察に逮捕された。大規模な弁護団が結成され、日韓の政治問題にもなった。99年に韓国への出獄を条件に仮出所。事件時、共産党は3億円事件とともに「犯罪者に共感を示すマスコミ」をくり返し非難した。

 

26 「教育実践」。(同 浅草橋戦闘)彼は子どもたちに童話の読み聞かせなど、さまざまな工夫を試みていた。けれどもそんな教材の点検や同僚・保護者との大事な時間すら無くなっていると苦しんでいた。指名手配を受けて突然姿を消してから、残された子どもたちの「先生大好き。帰ってきて」という声が聞こえる。10章53「私の精神形成」ほか参照

 

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