カテゴリ:☆☆続『狂おしく悩ましく』 > 荒川s問題など

【ブログ注】
 O'Hanlonさんとの「コメント」でのやり取りをまとめました。
青の文字(ハイパーリンク付きのタイトル)はここでの応答です。
  O'Hanlonさん、ここにコメントをお願いします。
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水谷声明③の④いくつかの疑問

「争論 荒川スパイ事件」に高経大有志の声明がアップされた。
 
 冒頭で「荒川碩哉氏のスパイ問題について、高崎経済大学有志一同の態度を表明する」として………以下の文が続く。

 …【中略】…「中核派による荒川氏スパイ断定」が私たちに大きな衝撃を与えたことは言うまでもありません。
  それから1年半後の2014年12月、荒川氏が中核派の主張を全面的に弾劾する小冊子『スパイ捏造と財産略奪策動を弾劾する』(2014年12月1日 古挽社)を発行しました。私たちは、荒川氏の反論は具体的であり、説得力があり、中核派の主張には根本的な疑問があるという結論に達しました。

 …【中略】…中核派には挙証責任があります。荒川氏の説得力ある弾劾に対して、二年有余にわたり反論もできません。
  人にスパイの烙印を押し、断罪することは大変なことです。中核派は荒川氏をスパイとして認定し、監禁し、荒川氏の信用を傷つけ、心身に大きな打撃を与えました。
 強い怒りをもって抗議します。
  ここに荒川氏への「スパイ捏造」を非難し、同氏へのこれまで50年の変わることのない友情と信頼を表明するものです。

詳細は以下。

各地の会合・談合で、『敗北』本や「荒川スパイ事件」は関心の軸の一つにあるという。

  中央派の沈黙は逆に中央派への疑惑を呼び起こす。一昨年に『敗北』本関連で「荒川も及ばない…スパイ」という一句を上げたことを除いて、事実の公表を拒み続けている。というより、「口を閉ざす」。昨年も今年も新年号でも知らんぷりだ。

  岸・水谷両氏の「あらかじめスパイ」説の破綻とその後の沈黙…。「資料蒐集」も「試練」も関連する記事が無い。

  関西派(再建協、橋本派)の態度表明も大きい。関西派そのものはあくまで橋本氏の「個人見解」と限定しての表明だが、「首都圏委員会」は「組織」としての表明だ。

  酒席では、シロ説やクロ説が折に触れて入り乱れながら、クロ説のほうが分が悪い。
  時に荒川さん本人がふらりと顔を出す場面もあるという。「公然・非公然」に荒川さんを歓待する動きが生れているということか?

  中核派(中央派)そのものの「オール沖縄粉砕」論と行動への不信が、拍車をかけているようだ。(もっとも、ここでも「万年革命主義」者も少なくないわけで、単純でもない)

  ま、「荒川=シロ」説は「道遠しとはいえど、半ば定着」という程度が適切なのかもしれない。中央派にとっては「自縄自縛」状態が続く。

『資料蒐集』の「荒川自白文書(抜き書き)」には以下の項がある。
白井新党問題。
(荒川氏は次のように「自白」したという)
「新党構成メンバーを記したメモが発覚して、尾形史人が書記長になる人事案があると藤本か甘糟から聞き、人に漏らしたところ、水谷に伝わり「誰から聞いたのか」と追及され「川添」と答えたことがある。「他言無用」と注意された。
〔権力は〕白井新党には強い関心を持っていた。「同調者はいるのか」
尾形に直接ただしたところ、「何度か会ったのは事実。法大の先輩後輩ということが最初。新党構想は知らない。白井が勝手に書いたもの。いかにもメモ魔の白井さんらしい」
これらのことも〔公調に〕当然話したと思う。

〔この「白井新党問題」についての記述が事実だったとして、これをまとめなおしてみると、白井朗(最古参PB、のちに自己批判を拒否して逃亡)が、どういう意図でか「新党」を構想し、その人事案を書いたものが、不用意に露呈して問題になった、ということ。これだけでは不明瞭としか言いようがない。〕


*  文中の「川添」は岸氏のこと。文書は荒川氏の監禁中の「自白」と打ち出されてはいるが、「会話」の時期は02年の白井さん襲撃・テロ直後のことに違いあるまい。略奪した手帳やメモが元になる会話だといっていい。[ ]内は蒐集サイトの加筆らしいが、引用自体を含めて白井さんへの憎悪を全面にしている。
   ひとこと、「白井を襲撃して奪取(略奪)した文書」程度のことをなぜ言えないのか?襲撃当時は「かん口令」があったとはいえ、襲撃を企画・実行したKGBの当人が「知らない」はずがない!「両氏」が分析を担ったと見るのが普通でもある。
  「白井新党」をはじめ、「反党分子」の動きについてはまったく実情を分からず右往左往していたように見える。逆に離党した人々には中央の動きや情報が手に取るように分かっていた時期もあった。…のだそうだ。
 * とりあえず、「書記長」は残念ながら無かったという話。

転載します。

ついでに??中央派中央に望むのは、「岩本スパイ論」の撤回だ。
『敗北』本に岩本氏に関わる記事が登場したことと、岩本氏の「責任」は別物だ。

「68年革命」の一つの頂点でもあった東大闘争は、もともと医学部闘争に端を発する。
その医学部がなぜあれほどの闘いになったのか?
様々な議論の以前に、学生処分のでたらめがある。

〈学生の暴行〉を認定して処分された中に、現場に居合わせなかった人がいた。
処分自体の当否を置いて、〈人違い〉や〈アリバイのある人物〉をその実行行為で有罪とし続けた医学部当局の姿勢はあまりにひどい。そして東大闘争の最後まで、当局はその〈間違い〉を認めなかった。

 「岸・水谷は別として」「岩本はもともと反革命分子ではあるが」でもいい。
 
 「今回の『敗北』本に関しては無実であり撤回する」というような表明はできないものか??

 「スパイ規定」の大盤振る舞いが眼に余る。
 ま、中央派の地盤沈下自体が進んだ結果、どうでもいい話になってきそうだが…。
                (労働者派 了)

転載から。
改めて「甘糟=スパイ」論再考
両氏の「荒川=クロ説」から多くの「親・両氏」の人々が距離を置いたのも、あまりに唐突な「甘糟=スパイ」説にあった。

甘糟=和久井(涌井)グループも、最大の拠点は全逓や国労などを集約する東京南部地区委員会だったらしい。このグループは多岐にわたる産別や課題を集約するそれなりの大きさ・広がりを持つ運動でもあったようだ。もともと政治局員たる両氏が関心も無かった「右派」の世界に彼らはいた。

それらは両氏の及ばない現場性をも持っていたので、両氏にとっては「エセ左派」でもあったのだろう。「やっかみ」ともいえる。
06年の「3・14」で自派に組しなかった甘糟氏らへの「裏切り者」認識は無視できまい。「甘糟=スパイ説」があまりに唐突に叫ばれたのもそんな政略的思惑・思い込みからくるものに見える。考えてみれば岸氏も元はこの南部のキャップでもあったのだが。

『蒐集』の「抜き書き」でも、「反党」部分が異常に多い。「抜き書き」からアップするに当たっては「カネ」に絡まる部分は「割愛」しながらだ。さらに[ ]の追記部分には荒川氏や岩本氏、甘糟氏の関わるいわば「成功事例」に対する憎しみの念だけがクローズアップされている。この点では3人組と共有する感覚だと言える。繰り返しだが、自分たち以外の「反中央」分子の名前を列挙する意図は何か?

以下、補足として「抜き書き」から引用する。「やっかみ」論として…。

〔東工大グループは首都圏と全国の大学のノンセクト勢力のセンター的な位置をもっており、一時期それがNCに接近し、全学連との共闘関係が成立していた。だが東工大グループは、NCとの交渉力をもってノンセクト学生運動を強権的に牛耳るという陰湿な体質を深め、権力の弾圧を契機に自壊していった。〕注 太字は本ブログによる)

こうした成功事例は、東工大OB氏らの活躍によると言われ、荒川氏も関与していたとされる。その「成果」を吸い上げてボツにしてしまったのは誰か?
  問題はそこにありそうなのだが。ただ、誰であれ、この時点で中核派に公然と直結させようとしたのなら、失敗は自明だったともいえる。ではどうしたら良かったのか?本当の問いはそこにありそうだ。

さて元に戻って、「反党活動」の諸グループに関する記述が余りにも大きすぎるのは「原文」を反映したのか?それとも「抜き書き」氏の関心によるのか?

  ある「反党」分子氏によれば、一連の記述には「余りに通りいっぺんな」「誰でもかける作文」で「深みも凄みもない調査結果」という声もある。

   「抜き書き」はここでいう「原文」がどんなものかも語っていないし、この間の両氏のクロ説のでたらめさも合わせて正面から論ずるべきものではない。
   坂木氏の「問い」や「追及」と荒川氏の「反論」や「弁明」がどれだけ反映されているのかも、原文編集の過程でどんな作為が繰り返されたのかも分からないからだ。

その上で、抜き書き氏のこんなバイアスがかかっているとすれば、なんともいえないのだが…。 
ひとます「やる気も無いのにやっかみ」とでもまとめよう。

岸・水谷両氏の謝罪や自己批判の声は聞こえてはこない。

もしも、の話だが、『流砂』での「あらかじめスパイ」説を撤回するなら、「甘糟スパイ」説の白紙撤回も要求されよう。ま、もしも、だが。
 
 最後に、中央派中央が「抜き書き」の原文を公表することを強く求める。

                                  (労働者派)

順序が逆になったが、関西派(再建協議会・塩川派)の首都圏委員会が「荒川=シロ説」を表明。
16年2月10日付け。

『資料蒐集』に全文アップされた。

 橋本氏の表明もそうだが、中核派&中央派の対スパイ対応などへの反省を前面に押し出している。この点が『敗北』本の両氏との姿勢の違いといえそうだ。
 両氏の姿勢は上記アドレスから読める。

 以下は首都圏委員会の表明の前文から引用した。【以下引用】

 2007年までこの安田派中央の人々と同じ党に所属してきた我々にとって、こうした腐敗を他人事として語ったり見過ごしたりすることは許されない。
 我々は『未来』58号と『展望』7号において、白井朗さんに対する革共同中央の暴力的排除に加担したことについて自己批判を発表してきた。そこには、党中央から流される情報について主体的に検証することを怠り、白井さんに対する党中央のデマを容認し加担してしまったからである。白井さんへのこうした排除を許してきたことが、また、90年代終わりからの「スパイ」とレッテルを張って異論を唱える者を排除する革共同中央の堕落を容認してしまったものと痛切に反省する。
 他方、革共同中央は、『展望』1号の飛田論文で暴露したように、本当の権力のスパイについては、取り逃がし、その総括も行わないといったことを続けてきた。
 このことは一切が、官僚主義的自己保身と、人民に対しては単に操作する対象としか考えないその堕落した態度から生み出されたものである。
 共産主義者を名乗る者の中から起こったこの悪行悪風を絶ち、全人民の闘いを発展させるために、こうしたやり方を絶対に容認してはならない。

正確には橋本利昭氏の個人の責任で、という表現が公式には正しいのかもしれません。
『展望』18号(7月刊)の『革共同私史』で、
「私は、彼の名誉回復の闘いを断固支持する」とした。

詳細は『争論』を参照のこと。

以下、まずは『抜き書き』からの抜書き。
本題からずれているような、ずれていないような、の問題だけれど。

〔この「白井新党問題」についての記述が事実だったとして、これをまとめなおしてみると、白井朗(最古参PB、のちに自己批判を拒否して逃亡)が、どういう意図でか「新党」を構想し、その人事案を書いたものが、不用意に露呈して問題になった、ということ。これだけでは不明瞭としか言いようがない。〕

 「これだけでは不明瞭としか言いようがない」には同感だ。
 「自白録」の「原本」に白井さんの「新党構想」が一部引用されていて、それへの荒川さんのコメントという形なのだけれど、「記述されていたことの意味合いも事実かどうか」「不明瞭」だ。

 同時に、抜書き氏の記述自体も不明瞭なままだ。 
 
 普通に考えれば、このメモの元は02年の白井さんの自宅への襲撃で中核派が奪ったものだ。
 「不用意に露呈」した程度のものではない。
 知らない人は以下を参照して欲しい。


 本社にいて一定の地位にいる(左派の)人間が、本気で「白井へのテロは権力かカクマルがやったもの」と信じているのだろうか?最大の疑問だ。『資料蒐集』の担当氏もそう思っているのだろうか?
 あえて言えば、02年の白井さん・角田さんへのテロは、中核派のしかも「左派」が主導したことは今では「周知・公知」の話でもある。

  しかし、『敗北』本でも白井さん角田さんへのテロは事実の存在自体にも触れなかった。

  両氏に事実を語って欲しい。「中核派がやった」ということだけでいい。
 「時効」も過ぎたし責任と実行主体を語らなくてもひとまず良しとしよう。自己批判など期待しない。けれど、「中核派の真の歴史」を語ろうとするなら、最低限の義務ではないのか?こんなことでは、「10・8前夜のテロ」への自己批判も〈さもさもしい〉
 
 ただ、中央派内でもこんなレベルのメンバーは少なくないのかもしれない。
 中央派に望むことは、「二つのテロ」の実行の事実の確認だ。自己批判以前の話として。
 「鉄パイプを使わなかった」⇒「マスコミや当局がテロ認定をしなかった」⇒その意味や経緯も知りたいところだ。「左派」と中野さんと天田さん、そして清水さん。それぞれどんなスタンスに立ったのか?

 この抜書き氏のコメントを通しても分かること。それは、「自白録」の「原本」には、「反中央」のフラクや集団を槍玉に挙げて追及する趣が余りに多いことだ。しかもその内容が「不明瞭」だらけ。さらにいえば、「反党分子」の情報の掌握があまりにオザナリな、中途半端なものだということ。    

 「これで良く、専制が成り立つね」という人もいる。
 それが荒川さんの応対とどんな関連で編集されたものなのか?まったくの作為・作文と「事実」を歪めた編集との混在としか読めない部分も多い。
 
 天田さんら中央には、少なくとも当時は党員であった」「抜書き氏」の誤解や数々の疑問・コメントに正面から答えて欲しい、と願う。「風通し」を良くするためにも…。

 【追伸】ここまで書いてきて、二つのテロの自認とは「きわめてハードルが高い問題」であることを改めて思う。テロを非難した人らへの脅迫的撤回要求運動に踏み込んでしまった事実は消し去れない。署名した人らへの非難の数々は今も内外双方の当事者の内側に生きていそうだ。
 生れてしまった溝の大きさを改めて思う。問題は「中核派はやっていない」と信じたからこそこうした運動にのめりこんだメンバーに対する責任の取り方だ。テロへの是非と並んで、「やったことをやっていない、という」中核派の矜持に関わる問題。これはこれで大きな課題だ。

【追伸】二つのテロに先立って、01年の「第6回大会」で「白井除名の特別決議」。決議とテロの関係やいかん?
 02年3月には「小西誠=反革命」規定。小西さんは革命21に参加していた。外から見れば〈元核派が他党派に移ったことが反革命〉と読める。その革命21は「11月労働者集会」(路線)の共同呼びかけ団体である関西生コンが中心的柱。この関ナマ(革命21)からの撤回要求を中核派は拒否。集会の成功を『前進』は高々と歌うが、関ナマ側は記事にも載せない。この辺のいきさつも知りたいところではある。
  その結果、94年から始まる「新潮流運動」、99年からの「11月労働者集会」路線は、「新潮流運動」という中野政治の大局からすれば、破滅的結果に終わった。党内的責任の所在は分からない。
 中野さんの「新指導路線」「8・1路線」はこの翌年、03年に「党の解体的再編」をかけて始まる。
 『敗北』本ではこのへんのいきさつが分からないが…。

 
 「反党」「反革命」「スパイ」規定とテロ。この辺を見返り、「何が良くて何がいけないか」を、それ自体として議論する風土が欲しいと思う。
 
 


前同 転載します。

中野フラクについて

「荒川スパイ事件」は前記「中野フラク」絡みでもあるが、しかしまた「党の革命」以降のいわば「新地平」での事件でもある。貴ブログでの「両氏」との対峙も、両氏の「新地平」への無知・無理解への対応から導かれる「バイアス」にひきづられる側面には注意を喚起したい。
今回は「中野フラク」について少々。

このフラクが、政治局副議長に率いられたものである以上、少なくとも「公認」ないし「半公認」のフラクション(党員の半恒常的集合)であったことは前提だ。時期が異なるが、清水議長が主催する現場労働者の「諮問機関」が事実上「政治局」の上に立つ非公式機関になったことと対応する。

そのフラクの主たるメンバーに栗×氏はいた。各産別の指導部の一部と編集局などから選抜して構成され、政治局や政治組織小委員会(POSB)などの「党機関」を介さずに本社と交流センター・産別の現場に直接影響力を及ぼす陣形があったことは多くの人にとって当時も周知のことだ。
このフラクに荒川氏もいた。そして交流センター事務所から転落して死亡した荒木氏もいた。

『資料蒐集』がアップした「抜き書き」は資料価値としてはあまりにひどいが、抜き書きした本人か両氏が書き加えた[ ]部分には彼らの本音か思いが問わず語りに浮き彫りになる。以下引用する。

〔この種の権力への「情報提供」と「お金」の魔力、そして「階級闘争に絶望した」後の中野路線は本質的に矛盾はなく両立するのだと思う。〕

〔さらに「自己批判を深めよ」というような尋問・追及だったのかどうか、荒川の筆は自分をそういう裏切り・スパイ行為に及ばせた党内事情の歴史的詳述へと向かっていく。この領域においては、党の内情暴露的な様相を呈して、書いている荒川のある種の「高揚感」のようなものまで伝わってくる。〕

 〔荒川は、中野顧問の名代であるかのごとく、中野顧問の政策、行動、アイデア、などを紹介し解説し、その指導力に賛辞を送っている。そしてそれらを最もよく理解している者としての自分を誇らしく売り込んでいる。「どうだ」と言わんばかりである。
「新指導路線」を公調の担当者が庁内で説明したことを得意になって自分に報告した旨を荒川は書いているが、明らかに荒川自身が「それを伝授したのは俺だ」と得意になっている。〕

最後の「公調の担当者」云々はシロ説に立てばまったくの中央の作文だ。しかし「中野顧問の名代」云々は自称=エセ「左派」の共通認識でもありそうだ。とりあえず、「荒川憎し」の背景が浮き彫りになった。

両氏が鬼の首を取ったように荒川事件に飛びつき、あわせてあえて栗×事件を持ち出した理由はこのへんにあろう。
『敗北』本でほんの言い訳程度に語られる「高杉スパイ問題」に比べて分量ほかに極端な差があるのも、両氏がスパイ問題をそれ自体として語るより、「政略」ゆえに関わっている証左といっていい。
荒木氏についても触れておきたいが『争論』や『狂おしく』の記事を参照して欲しい。(労働者派)





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『狂おしく』ほかの関連部分
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.偲ぶ会の記事
  622日、荒木淳d(本名廣海晶)が亡くなった。
  722日には交流Cによる「お別れ会」がもたれた。
  『前進』85日号に、教労委員会の追悼文と、お別れ会の記事。
『労働運動・8月号』で公表された田中氏(労組交流センター共同代表)と教労部会の二本柳氏の追悼の辞は、心に響くものがある。荒木dの人となりを伝え、在りし日の彼の姿を彷彿とさせる。

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