荒川事件を追っているうちに何度も思い出したのが「マル学同臨時書記局員」としての体験だ。
 大学1年の冬、たぶん11月頃のこと。
 埼大のリーダーの呉△さんに、「しばらく中核派の書記局に行け」と言われる。
 「えーっ。」「そんなとこ、俺には無理だよ」と無条件に断る。第一、「他党派と比較すれば中核派とは何か」、ということなどてんで理解していない私だ。が「臨時だから。一月もしたら帰れるから」と諭されてしぶしぶ飲んだ。
 書記局がどこにあったのかは覚えていない。小野田譲二さんの本から類推すれば外堀を挟んだ法政の向かいあたりにあったのだろうか?

 もともと書記局メンバーは皆、顔見知りを超えた親しい人々でもあった。
 月に1度??秋山さんを筆頭に、書記局全員が埼大をのぞきに来る(巡察?)。その目的は知らない。けれど皆さん私のことは知っている。デモへは百%出席し、わずか10余人のデモに慶応の内△と並んでスクラムを組みことも少なくなかった。
 埼大では3年生の藤△さんを除けばたった一人の?逮捕経験者でもある。秋山さん、青忠さん、谷△さん、吉△さん、丸△さん、岡△さん。この頃のマル学同の書記局はこれくらいだったと思う。岩さんは?
 巡察のたびに、秋山さんは必ずというくらい、「黒田、勝負しよう」としこを踏む。体型的にはともに少し小さめだからそん色ない。「弱そうな俺を選んでか。よし俺の力を見せてやる」。ま、勝ったり負けたりのいいところだった気がする。
 そんな仲でもあったから、軽い気持ちで受けたのだと思う。

 書記局会議は実務的な報告と打ち合わせに絞られ、期待した政治討論や理論的やり取りはなく、つまらない。でもま、お手伝いだから良いや。

 そのうち、「高経に行け」と言われて驚いた。
 「高経も今、難しいところにある。組織指導をやれ!」「えっ?そんなのできないよ!」
 映画『圧殺の森』のイメージはあまりに激しい。こんな闘争の只中に乗り込んで「指導」など、おこがましい、に尽きる。栄光の先輩たちに肩を並べて、よそ者の私が「指導」なんてできるはずがない。同学年や先輩たちの信頼を得られるはずがない。
 しばらくの問答の末、「ビラ作りや看板作りなら手伝えるかも」という条件で折り合い、派遣を飲んだ。たぶん1週間?一月?期間を覚えていない。

 高経には、付属中学や前高の同級生が多数進学していた。
 派遣から帰ってしばらくしてから、多くの同級生が闘争に参加し、または周辺にいたことを聞いた。あの時あの場所で、もう少し表に出て、あるいはつなぎを取って多くの人に会っていたら、私の交友関係は飛躍的に広がっていたろうにと思うとそれが残念だ。

 彼らのほうは私のその後をわずかながらでも知っている。
 4年生のときの長期拘留しかり、何よりも群馬での兄の役割を通して、群大・高経に進んだ同級生は私のその後を身近に知っていた。

 高経から戻ってしばらくして臨時書記局の任期も終わり、もとの埼大に戻った。

 あれから20余年、当時の書記局メンバーと会う機会があった。
 「覚えています?俺が臨時で行ったこと?」「ああ、覚えているよ。がっかりしたよ」
 1年生や2年生をを書記局員として取り込み、書記局を拡大する構想がその後実現されていく。
 私はその最初の候補者だったのらしい。
 「死闘の7ヵ月」のただ中、まだ2年生の末には、疲れきった埼大に、書記局から会議のたびに派遣されてきた岡山大生がいた。全国の高揚した情勢を煽り、行け行けどんどんに引きづられて数か月。ついに埼大はどん底までダウンした。そして知ったことは、中核派だけでなく諸党派も高揚し、それぞれが分裂し、ノンセクトの新たな潮流も台頭した新しい時代がやってきていたと言うことだった。
山のようなつごうの良い事実に固められた情報操作。本当に固められたウソ、そんなことに気がつくのはだいぶ歳を経てからた。
 【ブログ注】2016/07/03の未公開記事です。棚卸のつもりで。