カテゴリ: ☆☆今井公雄さんの頁

孫引きの形になりますが…
津村さんからの無断借用です。
コピペのため、一部文字化けしています。
【以下転載】
……… ……… ………

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 HP管理者 津村

 

小野田襄二の批判今井公雄

 小説家の今井公雄氏のホームページに「左翼過激派の20

その文学的考察」と題する新左翼運動20年の総括が昨年から連載されております。

 最新(07年3月)号では、その第5章で中核派に対する4つの

批判をとりあげ、その1つとして小野田襄二の批判が検証の対象

になっております。

 今回、今井公雄氏のご了解をいただき、小野田にかかわる部分

について本HPに掲載出来ることになりました。快く転載をご了

解してくださった今井公雄氏のご厚意に感謝します。また、小野

田書店では原文そのままに掲載しているつもりですが、全体をご

らんになりたい方は、

 今井公雄のホームページ、今井公雄のホームページ}

を訪れてください。

 

5章 4つの批判

1. 小野田襄二の批判

1) 「体験的政治論」まで

 中核派の学生担当政治局員だった小野田が組織を離脱したのは10

・8羽田闘争を直前にひかえた67年の10月のことである。離脱した

理由はいろいろとあるが、つまるところ、中核派に統一戦線論がな

いこと。正確にいえば、中核派の統一戦線論が革マル同様の「他党

派解体のためのものでしかなかったこと」に対する絶望が最大の理

由だった。離脱後の小野田は、彼を支持する仲間と語らって小規模

なグループを結成し「それなり」の活動を続ける。中核派にとって

みれば初の分派が結成されたものとみてよい。その結果は初の内ゲ

バによる犠牲者を生み出すことになる。69年9月に芝浦工大大宮校

舎内で中核派の学生が襲われ、転落死するという事故が起る。のち

に陰々滅々となる内ゲバとは異なり、この事件は逃げ損なった結果

の事故死であるとはいえ、内ゲバが死者を出したという意味では初

のケースだったのは確かである。襲撃したのが小野田グループだっ

たことは明らかだったようで、この事故を機に小野田は学生運動の

現場から去り、絶望的な「総括」を試みることになる。その成果は

前述した「体験的政治論」に結実するわけだが、その中身に入る前

にそこに至るまでの小野田の思想遍歴について少し振り返ってみる。

 

 

?期:6769/『遠くまで行くんだ』に依拠して手当たり次第に切

れ端を粗製乱造している。いってみれば革共同=マルクス主義との

見栄も外聞もない格闘期である。マルクス経済学批判を試み、その

手だてとして宇野経済学のおさらいをしてみたり、黒田批判を試み

るなどをしているが、見るべき論攷はない。

 

?期:7580/『劫{カルパ}』と『現代思想』(創刊号で廃刊?)

に依拠して「吉本隆明論」(2〜4号)と「体験的政治論」(5号・

6号)を書くことに専念した時期である。

 同人誌だった『遠くまで行くんだ』と異なり『劫』を純然たる個

人誌にしただけでなく、1号と2号以外は右の2つの論攷だけで構

成されており、ぶれがなくなり焦点が定まっていることに特徴があ

る。?の時期があってのことだが成果は如実に表れており、小野田

が思想的にもっとも充実した時期でもある。その自負があって、

『劫』に連載した2つの論攷に取り組むことをもって小野田は「思

想家」として再出発することを決意している。

 

 小野田の吉本批判にここで紹介すべき中身はない。が、「マチュ

ウ書試論」批判の過程で田川建三に目を通したことは大きな意味を

もつことになる。近代がキリスト教文明によって形成されたことに

ついてつかむことができたからだが、そのことは「体験的政治論」

に直結することになる。

 

 田川の作業で評価されるべきなのは小野田が「一冊だけを読んだ」

とする前掲書ではない。イエスを革命家として描いた『イエスとい

う男』(80年3月)であり、そのようなイエス像を描くことを可能

にした『マルコ福音書 注解』(72年1月)である。せっかく田川に

目を通しながら前掲書1冊で済まし両書に目を通さなかったのは

「思想家」としては致命的な弱点であり限界でもあり、そのことが

のちの小野田を規制することになる。「マチュウ書試論」批判のカ

ギはマルコ伝にあるからだ。が、それでも小野田は次のように言い

切れる立場を獲得することができた。その成果はあとで紹介する

「体験的政治論」に結実することになる。大事なところなので、小

野田が吉本批判からなにを学び取ったのかについて、いま少し引用

しておく。

 

 マルクスは、こういう人間の出来具合いをしかと見届けなかった。

そして、この世には、「支配と被支配の関係がある」というたしか

に冷厳な現実を現実だと言い張った。(略)

 階級社会であるとか、疎外されているとか、搾取されているとか、

現実の秩序を悪と断ずる心情でみている。マルクス主義から、現実

の秩序を悪と断づる心情を取り除いたならば、マルクス主義はその

根拠を失うであろう。

 

 こう言い切った時点ですでにマルクス主義からの訣別は果たされ

ており、それは以下に紹介する「転向声明」につながっている。

 

 ところで、マルクスの思想は、「自分で自分に対処する」ことを

奪い、しかも心理的障碍感覚を強迫し、助長させる。秩序から疎外

された感覚に向かって、「現実の秩序が疎外されていること」へ眼

を向けさせようとする。その結果、何が起こるか。全てが、現実の

秩序の疎外に帰着され、個人の責任が抹殺され、人間を秩序の奴隷

に仕立てることだ。失敗者が成功者を妬むこころは、人間から取り

除くことのできない卑しさであろうが、そういう卑しさから克己す

ることの代りに、妬みを助長させ、ついには憎悪にまでかりたて、

それをもって、人間の実存だと語り出す。怨みとか、嫉妬とか、憎

悪というものに、倫理的動機を与えた点で、マルクス主義は、キリ

スト教の申し子に違いないのだ。

 

?:03/『革命的左翼という擬制』を公刊。

 同書の6割を占める冒頭の2つの章は、かつて小野田が書いた

「革共同との訣れについての省察」という副題をもつ?期に書いた

「体験的政治論」を要約する形で再録したものである。基になった

論攷は原稿用紙に換算すると約700枚。それだけでゆうに1冊の

本になる長大なものを同書では3分の1程度にまとめている。ただし、

そのまとめ方はほめられたものではない。原文にあった若さゆえの

生気がみなぎっている部分がことごとく抜き取られている一方で、

還暦を過ぎたものの優位性が生かされた手直しがされていない。ひ

とことでいえば旧稿にみなぎっていた己との間で必至に格闘する姿

勢がかけらさえもなくなっているからだ。同書は、捨てるべきもの

を残し、残すべきものを捨ててしまった「愚書」の典型である。

 

2) 「体験的政治論」に見る中核派批判

 小野田は、「体験的政治論」のあとがきでこの論攷をものにする

ために精根尽き果てたことを告白し「神よ、私に力を授け給え。私

は神にすがりつくしかありません。」とむすんでいる。また、「私

も、思想家という人種のはしくれとして人生を歩み出すことを覚悟

して五年経った。四十歳に達して、漸く、一つの事をそれなりに物

にしえたような気がする。」とも書いている。にもかかわらず、こ

の論攷を書いてからあとの小野田はおよそ「思想家」らしい仕事を

することなくあたら才能を浪費しつづけ、現在に至っている。その

こともあって「体験的政治論」は誰からも検証されないままに見捨

てられている。憑かれたような文体であるうえに700枚の長文で

ある。そこにもってきて、前述したような愚書として再版したこと

から顧みる人がいないのはやむをえないところがある。

 右のことに、左翼過激派がこの国の歴史に果たした功罪はすべか

らく小野田が戦線から去ってのちに顕在化したものであるという問

題が加わる。評論家家や学者としてならいざしらず、自らが関与し

なかった政治について政治家であることを放棄したものが「体験的

政治論」を語ることはできない。小野田には酷になるが、その現場

にいなかったものには、その経験がないゆえに「体験に基づく政治

論」を語ることはできない。その場にいなかったものには、語りよ

うにも語るべき糧がないのだ。

 このように多くの弱点を抱えてはいるものの中核派批判、総じて

左翼過激派批判としては、私が見たかぎりではもっとも本質に迫っ

た問題提起を小野田はしている。で、いささか長くなるが「体験的

政治論」の紹介を兼ねて小野田の批判を検討する。

 

a.小野田の前提

 先にもふれたように、中核派という組織はボリシェビキ党を規範

として全てを律することを目指した組織であり、ボリシェビキがそ

うであったように党首である本多書記長あっての組織であった。し

たがって、小野田の批判も必然的に本多書記長が抱えていた問題意

識に絞られることになる。なにぶんにも700枚を超える長文であ

る。本多書記長にかぎっても小野田は多くのことについてふれてお

り、その全てについて検討する余裕はないし、その必要もないと思

う。で、ここでは2つの問題に絞って小野田の批判を見ることにす

る。が、そこに入る前に小野田がこの論攷を書いた前提となること

について紹介しておく。それは、政治がもつ困難さについてである。

小野田は政治がもつ困難さについて次のように指摘する。

 

 何といっても政治というものが難しすぎたのである。何故、政治

というものは、これ程難しいのか。この十余年、私は考え続けた。

実は、政治というものは、哲学、芸術、数学、自然科学といった、

自立度の高い、いわば第一義的文明ではないのである。まさしくそ

れらとは逆に、政治というものは自立度を欠いたものであり、その

ことごとくを他の文明に奴隷的に寄り添うほかない文明なのだ。政

治というものには、本来的に固有な領域は無いのであって、われわ

れが、政治に切り刻まれていった事も、仕方なかったのだ。政治と

いうものを、政治に飛び込んだ人間の想い入れを排して、社会的客

観としてとらえれば、機能、もっと露骨に言えば円滑機能にすぎな

いのであって、政治の実質というのは、全て他の文明に依存してい

るのだ。

 

 「政治」というものの本質にかかわる指摘としていえば、右の指

摘が十全なものであるとはいえない。政治が「円滑機能」であるこ

とは確かだが、それが全てとはいえないからだ。にもかかわらず、

小野田はここできわめて重要なことを喝破している。それは、政治

の「難しさ」にからむ問題として政治が学問や芸術などのような自

立度の高いいわば「第一義的文明」ではないことを指摘しているこ

とである。言い方を換えると、政治を批判する場合に忘れてはなら

ないこととして、現実の政治がなんらかの独立した体系をもつもの

でないことを、小野田は指摘しているのだ。議論を先取りしていえ

ば、そうであるゆえに小野田は中核派批判を「体験的政治論」とし

て書いたのである。加えていえば、第2部と3部が予告したままで

未遂に終わった根拠もここにある。

 

b.小野田批判のキモとなるもの――その1

 小野田の中核派批判にはキモとなる箇所が2つある。1つは以下

に紹介するマルクス主義を革命理論として成立させた根源にある恐

慌必然論である。

 

 小野田はこの問題に対して「マルクス主義革命家が、現代資本主

義論を打ちたてるにあたって、帝国主義戦争必然論、恐慌必然論を

打ちたてたのは、実に、そのことによってのみ、革命を具体的に展

望しうるという点にある。」とし、「だが本当に恐慌は必然なのか。

ましてや帝国主義戦争は必然なのか。必然でないと困るといった当

為を取り除いた上で、なおかつ必然であるなどといえるのか。」と

問題をたてる。そのうえで小野田は世界恐慌も帝国主義戦争も、第

2次世界大戦を経たあとは期待できなくなったことを指摘する。世

界恐慌も帝国主義戦争も期待できないとすれば、マルクス主義を信

奉する革命家はどうすればよいのか。

 1つは全てをスターリン主義のせいにすることであり、もう1つ

は革命を彼岸化することであったと小野田はいう。

 

 それでは、われわれは、戦後の資本主義の蘇生という現実にたい

して、どのような理屈をたてたのであろうか。革共同のたてた理屈

とは、スターリン主義による革命の裏切り論にほかならない。つま

り、資本主義が変貌したのではなく、革命の敗北――革命のスター

リン主義的変質が、戦後の資本主義の蘇生を可能ならしめたという

解釈である。

 

 私は、反帝反スタなる標語の語呂合わせなどする気はないので、

事の要点のみ取り上げる。反スターリン主義の理論は、戦後におけ

る資本主義の驚異的発展という、それこそ革命の死活問題に取り組

むべきところ、それから眼をそらしたのである。革共同の職革は、

革マルとの分裂後、多かれ少なかれ、その事の思想的劣性に気づか

ざるをえなくなった。この負い目の意識が、六五年前後、一時的で

はあるが、岩田経済理論などという出来損ないの理論に傾斜すると

いう、世迷い事を生じさせもしたのである。

 

 上に見たように、中核は世界恐慌待望論の危うさについて懐疑を

抱えたまま、とりあえずはスターリン主義にその責任を押しつけて

はみた。しかし、そうはいかない事情があった。その事情について

小野田は次のようにいう。

 

 結局のところ、革命の敗北、階級闘争の敗北によって資本主義を

延命させ、繁栄させたという仮説が正しいとしても、そのことは資

本主義が自らの生命力を失ったということとは別の事を意味しはし

ないか――いかなる事を原因にしようとも、ともかくも、装いを新

たに整備しなおす力を資本主義は保有しているということを否定し

ようがないのだ。

 

 このことは、反スターリン主義理論への懐疑をもたらさずにはお

かない。何しろ、革共同の職革は、先進国において革命は全て失敗

し、後進国においてのみ革命が成功したという冷厳な現実に苦しみ

つづけた。だから、先進国における革命の敗北が、スターリン主義

の裏切りなどによって説明のつかぬことを、だれもが胸の中で感じ

ざるをえなかった。誰もが、反スターリン主義理論などで片がつく

ものではないことを肌で感じ取っていったのだ。こういう懐疑には

出口というものが無い。まさか、第三革命論というような、知性を

欠いたみえみえの理論にとびつく訳にはいかないからだ。結局、萎

縮と臆病にかりたててしまうのである。このような時、どこか無責

任になり切って、懐疑をあっけらかんと跨ぎこしてしまえば、随分

と救われたのだが、気質という奴は悲しいものだ。他人にできる事

でも、そういう訳にはいかない。

 

 ここの小野田がいう「懐疑をあっけらかんと跨ぎこ」すというこ

とは、どういうことか。それは、60年ブントの指導部がやったよう

に、そもそもが革命などというものはじめから幻想だと割り切るこ

とにほかならない。しかし、60年ブントを乗り越えるものとして出

発した革共同には、それはできない相談だった。ここからの道は2

つに分かれることになる。一つは革命を彼岸化する道であり、もう

1つは現実の革命をクーデタと考え、その技術の問題に切り縮める

道である。黒田は前者を選び、本多書記長は後者の道を選ぶことに

なる。黒田には、本当に恐慌は必然なのかという懐疑的問いそのも

のがない。このようを問い自体を、客観主義、プロレタリア的自覚

の欠如、場所的立場の欠如などというシンボルの操作によってと一

蹴されてしまうからだ。一方の本多書記長には、本当に恐慌は必然

なのかという問いがあった。が、そうであるがゆえにその種の懐疑

については封じ込めざるをえなかった。思想家にとってそれはして

はいけない禁じ手だが、革命家はそうしないことには身が持たない

逃げ道になる。

 

c.小野田批判のキモとなるもの――その2

 私が知るかぎりの本多書記長は己を知っている人物だった。そう

信じて疑わないできた。だから、銀座の喫茶店で面談をしたあとに

「この柳の数だけ(敵の指導者を)吊さなければならないんだ。」

といわれたおりにも私は本多書記長が本気でそう考えているとは思

わなかった。東大安田砦攻防戦のあとにおこなわれた地区委員会の

会議で本多書記長の言として「機動隊員と組み討ちして落下死する

ぐらいの覚悟がない。」ということが強調されたおりにも、それは

建前を述べたに過ぎないものとして受け止めた。私が知るかぎり、

そうした発想をする人だとは思えなかったからだ。そうであっただ

けに、なぜ、学生運動にあそこまでこだわったのかについては不可

解だった。爆弾闘争を本気でやろうとしたことに至っては、不可解

を通り越して錯乱としか思えなかった。その疑問に対して小野田は

かなり明解にこの論攷で解を出している。小野田がおこなった本多

批判の2つめのキモは、レーニンを規範にすることにおいて信仰の

域に達していた本多延嘉の実像である。

 

 小野田は私が先に愚書であるとした『革命的左翼という擬制』で

本多書記長を教わることが多かった人物として描くと同時に、「醜

い」「この矮小さ」「狭さ」ということばを使ってその実像を抉り

出している。この「愚書」に意味があるとすれば、「醜く、矮小」

ですらあった本多延嘉の実像を白日の下にさらけ出し、等身大の本

多書記長の姿を示したことにある。以下、小野田が描いた本多書記

長の実像について見てみよう。

 

 本多書記長は、党派抗争において、暴力的威圧、ましてやリンチ

というものを毛嫌いしていた。それは彼の生理であり、もともと革

共同というのは、リンチに限らない、およそ政治にまつわる血なま

ぐささや徒党的発想を生理的に受けつけない体質をもっていた。

 ところが、全く馬鹿馬鹿しい限りであるが、本多書記長は、己れ

のこのような気質というものを、政治指導者としての欠点であると

考えていた。本当にそう考えていた。

 

 では、なぜ本多書記長はそう考えたのか。それは次のような本多

書記長の資質がなせるわざだったと小野田はいう。

 

 本多書記長の最も優れた政治資質というものは、「革共同などに

革命党としての資質などありはしないのだ」と、革共同をも、自己

をも突き放したところから、政治を構想するところにあった。その

意味では、新左翼運動が生んだ稀有のアジテータではない政治家で

あった。正確には、アジテータたることに本領をおかぬ政治家であ

った。と同時に、そのことは、本多書記長をおそろしく苦しめた。

 革共同への絶望と背中合わせにしながら、そして自己の政治資質

への絶望を噛みしめながら、しかし、手持ちの駒でやるしかないの

――これが、自ら書記長と認じた彼の宿命の場所であった。実は、

このような場所に立たされた彼が、政治的野心家でも、政治的ロマ

ン家でもなかったことが、彼をおそろしく苦しめたのだ。

 己に欠けるものを自認した指導者は、それを補佐役によって埋め

ることが問われる。小野田によれば、本多書記長はそれを清水丈夫

に求めたという。

 

 私は、清水政治局員の政治の型というものを、どうにも認めるこ

とができなかったのである。……ところがである。この点において、

本多書記長と私とでは、歴然たる意見の食い違いがあった。本多書

記長は、清水政治局員の政治資質を政治局にとって必要な政治資質、

いやそれ以上なものとして、清水政治局員だけにある貴重な政治資

質と考えていた。しかも、自らの政治資質の欠点を補うものを清水

政治局員のなかにみていた。

 

 小野田がここでいう清水の「政治の型」とは、党派党争において

は相手に弱みを見せるべきではない。弱みを見せないためには相手

を先に攻めるとする発想を指している。この発想から清水は3派全

学連による統一行動の上に党派闘争を位置づけ、解放派の指導部に

対してテロをもって先制したわけだが、本多書記長はその現場に居

合わせることによってそのことを追認したのだ。局外にいて俯瞰す

るかぎりで力を発揮する本多書記長だが、こと現場で陣頭指揮に立

つとなると無能この上ない資質の持ち主であるにもかかわらず、で

ある。小野田によると「本多書記長が仁王のように聳えるようにな

ったのは」67年の杉並都議選あたりからで、このあたりからヒステ

リックになり、常任活動家への恫喝が始まったという。先に挙げた

東大安田砦攻防戦のさいの発語は、小野田の指摘を裏付けるものと

して考えれば得心がいく。

 

(お断り 行・列文字数、改行・段落など構成は HP管理者 津村

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 【以上転載】

6章 1921――革命の絞殺

1.
 E・ゴールドマンの回想

《私たちのアピール〔後出〕が功を奏さなかったことは、トロツキーが到着し、クロンシュタットへの彼の最後通牒が発せられたその日〔三月五日〕に明らかとなった。労働者と農民の政府の命令によって、彼はクロンシュタットの水兵と兵士に、あえて「社会主義の祖国にはむかう」ものはすべて「雉のように射殺される」であろう、と宣言した。叛逆した艦船やその乗組員はソヴェト政府の命令にただちに服するか、武力に屈服するかが命ぜられた。無条件に降服するものだけがソヴェト共和国の慈悲をあてにしえたであろう。
 事態は急を告げた。巨大な軍隊が間断なくペトログラードとその近郊に流れこんだ。トロツキーの最後通牒は、「貴様たちを雉のように撃ち殺してやる」という歴史的な威嚇をもったブリカース(命令状)のようなものであった。そこでペトログラードにいるアナキストの一団は、ボリシェヴィキにクロンシュタット攻撃の決心を今一度ひるがえさせようという最後の努力を試みた。彼らは、たとえそれが望みないことであっても、ロシヤ革命の華であるクロンシュタットの労働者や農民に対して明日にも行なわれようとする虐殺を防止するために力を尽すことが、革命に対する義務であると考えたのだ。

 三月五日、彼らは防衛委員会に抗議文をおくり、クロンシュタットの企図が平和的であること、その要求が正当であることを指摘し、共産主義者にかの水兵たちの勇敢な革命的な歴史を想起させ、同志や革命家たちを傷つけないでこの問題を解決する方法を軽示したのである。
 その文書は次の通りである。

 ペトログラード労働および防衛ソヴェト委員長ジノヴィエフに与う。
 たとえ罪を犯すことになろうとも、今は黙視しているわけにはいかなくなった。最近の諸事件はわれわれアナキストをして、現在の状態におけるわれわれの態度を声明させざるをえなくした。労働者と水兵の騒擾と不満の表明の精神は、われわれの重大な注意を喚起した原因から生じたものである。

 寒気と飢餓が離反を生み、討論と批判の機会を少しも持たないことが労働者や水兵をして彼らの苦痛を爆発させつつあるのだ。
 自己擁護者の一味はこの不満を彼ら自身の利益のために利用しようと思い、そう努力している。労働者や水兵の背後にかくれて、彼らは自由貿易やこれに類似した要求を含む国民議会のスローガンをまき散らしている。
 われわれアナキストは早くからこれらのスローガンの欺瞞を暴露してきた。そしてわれわれは世界にむかって声明する。われわれは社会革命のすべての友とともに、またボリシェヴィキと提携してあらゆる反革命的な企図に対し武器をとって戦おうとするものである。
 ソヴェト政府と労働者および水兵との確執について、われわれはそれが武力に訴えることなく、うちとけた親しい革命家らしい協定によって解決されなければならないと信ずる。ソヴェト政府側が流血に訴えることはこの状勢にあっては労働者を何ら威嚇し沈黙させるものではない。否、むしろそれはただ事態を悪化させ、協商国側と国内反革命の魔手をのばせるのに役立つだけである。
 さらにもつと重大なことは、労農政府が労働者および農民に対して武力を用いることは、国際的な革命運動に反動的な結果をもたらし、いたるところでおびただしい損害を社会革命に与えるものだということである。
 ボリシェヴィキの同志よ、今考えなおしてもけっして遅くはない! 断じて砲火に訴えるな。諸君は今や最も重大かつ決定的な行動に出ようとしていることを反省せよ。
 われわれはここにおいて次のように提案する。五名うち二名はアナキストであることから成る委員会を組織すること。平和的手段によって紛争を解決するために、委員をクロンシュタットへ派遣すること。現在の状態ではこれが何よりも焦眉の手段である。それは国際的な革命的意義を有するであろう。

 一九二一年三月五日 ペトログラードにて

    アレクサンドル・ベルクマン
    エマ・ゴールドマン
    ペルクス
    ペトロフスキー

 クロンシュタット問題に関するある文書が防衛ソヴェトに通達されたとの報告を受けたジノヴィエフは、そのために個人的に代表を送った。その文書を彼らが討議したかどうか著者は知らない。とにかく、それについて何らの処置も講ぜられなかったことは確かである。
 最後の警告には革命軍事ソヴェト議長トロツキーと赤軍司令官カーメネフが署名した。支配者の神聖な権利をあえて疑うことはここでも死をもつて罰せられた。
 トロツキーは約束をたがえなかった。クロンシュタットの人々の助けで権威を得た彼は、今や、「ロシヤ革命の誇りと栄光」へ負債を十分に払う位置にいた。ロマノフ体制の最良の軍事エキスパートや戦術家がトロツキーの意のままになり、そのなかには悪名高いトハチェフスキーがいた。トロツキーは彼をクロンシュタット攻撃の司令長官に任命した。そのうえ、虐殺の技術の訓練を三年間受けた大量のチェカ部隊がいた。命令に盲目的に従う、特に選ばれたクルサンティと共産主義者がいたし、いろいろの前線からの最も信頼された軍隊もいた。命運の定められた市にむけて集結したこうした力をもつてすれば、「叛逆」はたやすく鎮圧されると予想されていた。ペトログラード守備隊の兵士や水兵が武装解除され、包囲された同志との連帯を表明した人々が危険区域から移動した後には特にそうであった。

 インタナショナル・ホテルの室の窓から、私は彼らが小さなグループになってチェカ部隊の強力な分遣隊にとりかこまれて連れて行かれるのを見た。彼らの足どりは、はずみがなく、手は横腹にぶら下がり、頭は悲しげに垂れていた。
 当局はペトログラードのストライキ参加者をもはや恐れなかった。彼らは飢えで少しつつ弱まり、精力も衰えた。彼らやクロンシュタットの同胞に敵対して広められたウソは彼らの志気をくじき、ボリシェヴィキの宣伝が浸透させた疑惑の毒素が彼らの精神を破壊した。彼らの運動を無私にとりあげたことがあり、彼らのために命を投げ出さんばかりであったクロンシュタットの同志を援助する気力も信念も彼らには残されていなかった。
 クロンシュタットはペトログラードに見放され、残りのロシヤから切り離された。クロンシュタットは孤立し、ほとんど抵抗もできなかった。「クロンシュタットは最初の一撃で屈服するであろう」とソヴェトの新聞は表明した。それらはまちがっていた。クロンシュタットはソヴェト政府への叛逆もしくは抵抗しか思いつかなかった。最後の最後まで、クロンシュタットは流血を避けることに決めていた。クロンシュタットはいつも理解と平和的な解決を訴えていた。しかし、いわれのない軍事攻撃からやむなく自己を防衛するために、クロンシュタットはライオンのように戦った。痛ましい日夜、包囲された市の水兵と労働者は、三方からの絶え間のない大砲と飛行機から非戦闘員の居住区へ投げつけられる爆弾に抗してもちこたえた。彼らはモスクワからの特別軍による要塞を強襲するボリシェヴィキのくり返しての攻撃を英雄的に撃退した。
 トロツキーとトハチェフスキーはクロンシュタットの人々よりもはるかに有利であった。共産主義国家の全機構が彼らを支援し、中央集権化された新聞はでっちあげられた「叛逆者と反革命家」に対して悪口を広めつづけた。彼らには際限のない補充があり、クロンシュタットの猜疑心のない人々に対して夜間の攻撃をカムフラージュするために凍結したフィンランド湾の雪と混同する白衣でおおわれた人々を持っていた。クロンシュタットが持っていたものは、ひるむことのない勇気と、彼らの運動の大義および彼らが独裁からロシヤを守る救済者として戦う自由ソヴェトに対する変ることのない信念だけであった。彼らには共産主義者という敵の突進を阻止する砕氷船さえなかった。彼らは飢え、寒さ、夜を徹しての不寝番のために疲れ切っていた。しかし、彼らは責任を果たし、死にものぐるいで圧倒的な不利をものともせずに戦った。
 重砲のとどろきがやまない日夜、恐ろしい不安のなかで、銃砲のうなりの間に、残忍な血の水浴に反対する叫びやそれを停止させようとする呼びかけの声は一つとして聞かれなかった。ゴーリキー、マキシム・ゴーリキー、彼はどこにいたか。彼の声は聞かれなかった。「彼のところへ行こう」と私は何人かのインテリを説得した。彼は、自分の職業の人間に関するときでも、彼が判決された人々の無罪を知っているときでさえ、個人的な大事件ではけっしてわずかでさえも、抗議したことがなかった。彼は今抗議しないであろう。それは望みがなかった。

 インテリ、かつては革命のたいまつの奉持者、思想的指導者、作家や詩人であった男女は私たちと同様どうすることもできず、個人的な努力が役立たないことで無気力になっていた。彼らの同志や友人の大部分はすでに投獄されるか亡命していた。処刑されたものもいた。彼らは人間の価値がすべて崩壊したことですっかり挫折したのを感じていた。
 私は知りあいの共産主義者に向かって、何かするように懇願した。彼らのなかには自分たちの党がクロンシュタットに対して犯しつつあるとはうもない犯罪を認めるものもいた。彼らは反革命という告発が全くのでたらめであることを認めた。誤認されたリーダーのコズロフスキーはつまらない男で、自分の命にびっくりして、水兵たちの抗議にかかわることができなかった。水兵たちの性格は純粋で、彼らの唯一の目標はロシヤの繁栄であった。ツアーの将軍どもと共通した運動を行うどころではなくて、彼らは社会革命党のリーダー、チェルノフが申し出た援助を辞退さえしたのである。彼らは外部の助力を望まなかった。彼らが要求したのは来るべき選挙でクロンシュタット・ソヴェトへの自分たち自身の代表を選ぶ権利であり、ペトログラードのストライキ参加者に対する正義であった。





 これらの共産主義者の友人たちは私たちといっしょに幾夜も議論に議論を重ねながらすごしたが、彼らは誰一人としてあえて抗議の声を公然とあげようとしなかった。私たちはクロンシュタットがもたらす結果を実感しないのである、と彼らはいった。彼らは党から除名され、彼らとその家族は仕事と配給を奪われて、文字通り飢餓によって死刑を宣告されるであろう。あるいは、彼らはあっさりと消息を断って、誰も彼らの身に何が起ったかは少しもわからないであろう。しかし、彼らの意志をまひさせたのは恐怖ではない、と彼らは私たちにうけあった。それは抗議ないしはアピールが全く役に立たないということであった。共産主義国家の戦車の車輪を止めるものは何もなかった、まさに何もなかったのである。車輪は彼らを平伏させ、それに抗して叫ぶヴァイタリティさえ彼らには残っていなかった。

 私たちサーシャ〔ベルクマンを指す〕と私も同じ状態になり、これらの連中のように軟弱に黙従するかもしれないという恐ろしい懸念に私はつきまとわれた。それよりも好ましいものは何もなかったであろう。牢獄、亡命、死刑さえも。それとも脱出! ぞっとするような革命の見せかけと僭称。
 私がロシヤを離れたがるかもしれないという考えは以前は絶対に思いつかなかった。私はそれをちょっと思いついたことでびっくりしたし、ショックであった。私がロシヤをカルヴァリー〔キリストが十字架にかけられた場所〕にする! けれども、機械の歯車、思いのままにあやつられる生命のないものになるよりも、むしろその手段を選びさえするであろうと感じた。


 クロンシュタット砲撃は十日間というもの日夜休むことなくつづき、三月一八日の朝突然停止した。ペトログラードにもたらされた静寂は前夜の間断なき砲声よりももつと恐ろしかった。それは誰をも重苦しい不安におとし入れた。何が起ったのか、なぜ砲撃が絶えたのか知ることはできなかった。午後おそくに、緊張は無言の恐怖に変った。クロンシュタットは征服された数万人が殺害された市は血に浸された。多くの人々、クルサンティや若い共産主義者の墓場ネヴァ川は彼らの大砲で氷がこなごなにされてしまった。英雄的な水兵や兵士は最後まで自分の部署を守った。不幸にして戦闘で死ななかったものは敵の手中に落ちて、処刑されたり、ロシヤ最北の凍原地帯に送られて、徐々に苦しめられたのである。
 私たちはろうばいした。ボリシェヴィキに対する信頼の最後の糸が切れたサーシャは街を絶望的に歩きまわった。私の手足は鉛のようで、全神経はいいようもなく疲れ切っていた。私は弱々しくすわって、暗闇を見つめていた。ペトログラードは黒いとばりのなかでただよっていた。気味悪い死体であった。街の灯は消えかかったローソクのように黄色に明滅していた。



 三月一八日、不安な一七日間の睡眠の不足した後のまだものうい翌朝、私は多勢の足音で目がさめた。共産主義者が行進し、楽隊は軍歌を演奏し、「インタナショナル」を歌っていた。かつて私の耳にこころよかったこの旋律が今では人間の燃え立つような希望の葬送歌のようにひびいた。

 三月一八日、パリ・コミューンの記念日。パリ・コミューンはその二カ月後に三万人のコミュナールの虐殺者のティエールとガリフェによって粉砕されたが、一九二一年三月一八日にはクロンシュタットでそれが踏襲された。

 クロンシュタットの「清算」の十分な意義は弾圧三日後にレーニン自身によって明らかにされた。クロンシュタット包囲が進行中であったときにモスクワで行なわれていた第一〇回共産党会議で、レーニンは意外にも彼の発案になる共産主義歌を、彼の発案(インスパイアド)になる新経済政策賛歌に変えたのである。
 自由貿易、資本家への譲歩、農場と工場労働者の私的雇用、これらすべては三年以上も俗悪な反革命とののしられ、投獄や死刑にすら処せられたのに、今ではレーニンによって独裁の栄光ある旗にしたためられたのだ。相変らず厚かましくレーニンは、党内外の誠実な思慮深い人々が一七日間に知ったこと、「クロンシュタットの人々は本当のところは反革命家を欲さなかったが、私たちを欲しもしなかった」を認めた。純真な水兵たちは「全権力をソヴェトヘ」という革命のスローガンを真剣にかかげていたが、レーニンとその党はこのスローガンを堅く守ると厳粛に約束した。それは彼らの許しがたい犯罪であった。そのために彼らは死なねばならなかった。彼らはレーニンの新しいスローガンを植え付ける大地を肥沃にするために殺害されねばならなかったが、このスローガンは古いものを完全に逆転したのである。その傑作が新経済政策、NEPである。
 クロンシュタットに関するレーニンの公けの告白によっても、敗北した市の水兵、兵士、労働者の捜索は中止されなかった。彼らは幾百人となく逮捕され、チェカは再び「ねらい射ち」にいそがしかった。


 とても奇妙なことに、アナキストはクロンシュタットの「叛逆」と結びつけて言及されなかった。しかし、第一〇回会議でレーニンは、最も仮借ない戦争がアナキスト勢力を含む「プチ・ブル」に対してなされねばならない、と宣言した。労働者反対派のアナルコ・サンジカリスト的な性向は、これらの傾向が共産党それ自身のなかで発展したことを証明する、と述べた。レーニンがアナキストに対して武力に訴えたことはただちに反応があった。ペトログラードのグループは急襲され、多数が逮捕された。そのうえに、チェカは私たちの陣営ではアナルコ・サンジカリスト派に属する『ゴーロス・トルーダ』の印刷所と発行所を閉鎖した。私たちはこのことが起るまえにモスクワ行きの切符を買っていた。私たちは大量の検挙について知ったとき、もし私たちも追われているのなら、もう少し滞在しようと決心した。しかし、私たちは干渉されなかったが、それは多分ソヴェトの監獄には「ならずものども」だけしかいないことを示すために、二、三のアナキストの知名人を自由にしておくことが必要であったからであろう。
 モスクワでは六人を除いてすべてのアナキストが逮捕されていたし、『ゴーロス・トルーダ』の書店は閉鎖されていた。どの市でも私たちの同志に対するどんな告発もなされなかったし、彼らは審問されたり裁判されたりしなかった。にもかかわらず、彼らの多くはサマラ刑務所へすでにおくられていた。まだブチルキやタガンカ監獄にいる人々は最悪の迫害と肉体的な暴力さえも受けていた。このようにして、私たちの若い仲間の一人、若いカシーリンは看守の面前でチェカ部隊になぐられた。革命の前線で戦ったことがあり、多くの共産主義者に知られ、尊敬されていたマクシーモフと他のアナキストたちはぞっとするような状態に反対してハン・ストを宣言せざるをえなかった。

 私たちがモスクワへもどって最初に要求されたことは、私たちの仲間を根絶するために協定された戦術を告発するソヴェト当局に対する宣言に署名することであった。


 私たちはもちろん署名したが、私と同じく、いまではサーシャも、まだ獄外にある一にぎりの国事犯たちのロシヤ国内での抗議は全く役に立たぬと力説した。他方、たとえ私たちがロシヤの大衆に近づくことができたとしても、彼らから効果的な行動を期待することはできなかったであろう。長年にわたる戦争、内戦、苦労は彼らのヴァイタリティを侵食し、テロルは彼らを沈黙させ、従順にした。私たちのたのみはヨーロッパと合衆国である、とサーシャは断言した。海外の労働者が「一月」の恥ずべき裏切りについて知らねばならないときが来た。あらゆる国におけるプロレタリアート、他の自由な急進的な勢力の覚醒した意識が、信念のために仮借ない迫害に対する強い叫びに具体化されねばならなかった。それだけが独裁の手を止めたであろう。他のものは何もそれができなかった。
 クロンシュタットの殉教は私の仲間に代わってすでにこのことを大いになしとげていた。それは彼がボリシェヴィキの神話を信じていた最後の形跡を打ち破った。サーシャだけでなく、かつては共産主義者の方法を革命期には不可避的であると擁護していた他の同志たちも、ついに「一〇月」と独裁との間の深淵を見ざるをえなくなったのである。
 彼らの知った深遠な教訓の費用がさほど莫大なものでなかったらば、私とサーシャが再び同じ立場で手を結んだということ、これまでボリシェヴィキに対する私の態度に敵対的な私のロシヤの同志が今では私と親しくなったということを知って、私は安堵したであろう。苦しい孤立のなかであれ以上模索しなかったこと、アナキストの間で最も有能な人間として私が過去に知った人々のなかでさほど疎外を感じないこと、三二年間の共通の運命を通じて私の生命、理想、労働を共有した一人の人間の前に、私の思想と情緒を押えなかったことはなぐさめであろう。だが、クロンシュタットには黒い十字架が建てられ、現代のキリストたちの血が彼らの心臓からしたたり落ちている。いかにして個人的ななぐさめとすくいをいだくことができるであろうか。》
〔右に引いたのは、A・ベルクマン『クロンシュタットの叛逆』に付記として掲載されているE・ゴールドマンの事件当時の回想の終わり部分である。同書は、戦前と戦後に1回づつ復刻されているがいまは入手困難な状態にある。それを木田冴子氏が訳文も含めてていねいに復刻したもので、宮地健一氏のホームページから借用した。ちなみに、付記を書いているゴールドマンは著者ベルクマンの同志であり、妻でもあったロシヤ生まれのアメリカ人アナキストである。〕



 クロンシュタットについて書かれたものはかなりの数に上る。が、管見のかぎりでいえば、アナキストないしはサンジカリストのものが大半で、元ボリシェヴィキやラッセルのような外国人のものはない。その意味では一方の視点からしか書かれておらず偏った見方であるという指摘も可能だが、たとえそうであったとしても、私は彼らが書いたものほうに正当性があるものと見ている。そこには、全身全霊を賭けて戦いながらも敗れたものでなければ書けない真実が明かされているからだ。長々とベルクマンの著作からを引用した理由はそこにある。
 引用しなかった箇所に、クロンシュタットを指して白衛軍の手先であるとするボリシェヴィキの宣伝にふれている箇所がある。が、同書は、叛乱を前にして選出された15名の臨時革命委員会は、つぎのような職種の持主によって構成されていることを明かしている。
1、ペトリチェンコ (旗艦「ペトロパヴロフスク」高級書記)
2、ヤコヴェンコ (クロンシュタット区電話交換手)
3、オスソソフ (「セヴァストポル」機関兵)
4、アルヒポフ (技師)
5、ペレベルキン (「セヴァストポル」職工)
6、パトルシェフ (「ペトロパヴロフスク」職工監督)
7、クーポロフ (高等看護卒)
8、ヴェルシニン(「セヴァストポル」水兵)
9、ツーキン (電気工)
10
、ロマネンコ (格納庫番人)
11
、オレーシン (第三工業学校管理者)
12
、ヴァルク(木挽工)
13
、パヴロフ (海軍水雷敷設夫)
14
、バイコフ (荷馬車夫)
15
、キルガスト (潜水夫)
 見ればわかるように帝政に深くかかわったと思われる職種の持主はこのメンバーのなかにはいない。むしろ、その職種を考えれば革命でなければ選ばれることがなかったであろう職種の人物で構成されていること見えてくる。基地勤務者が圧倒的に多く乗員が少ないこと、8番目にあるヴェルシニンという水兵の所属に「セヴァストポル」とあるのも、なぜ黒海艦隊乗員がバルト艦隊の基地にいるのかという点でいささか奇異に感じないこともない。だが、一般的に考えれば基地勤務者のほうが活動に有利であることから知名度が高かっただろうこと、同様にヴェルシニンの場合もなにかの事情で革命前にクロンシュタットにきて、そのままとどまった著名な活動家だったと考えれば理解できなことではない。
 他方、ボリシェヴィキないしはボリシェヴィキよりの著者が書いたものには多くの資料を挙げ、一見すると真実を語っているかのように映る。しかし、そこにはいわゆる勝利者の視点、あるいは勝者から提供された資料にのみ依拠して書かれているという致命的な弱点がある。ドイッチャーの一連の著作やカーのものを含めて、ロシア革命が革命とは呼べないものであることを明かしていないのはそのことによる。レーニンまでは正しく、スターリンからが問題なのだというロシア革命観がいまでも根を張っているのは、右に指摘したような現場に近くにいたものでなければ書けないリアリティに欠けているからである。


 ゴルバチョフ後のソ連はレーニン・スターリン時代に無実の罪を着せられ、国家反逆者として扱われてきた人物の名誉回復を相次いでおこなった。にもかかわらず、ことクロンシュタットに関しては手つかずのままに放置されてきた。ソ連共産党を名乗るかぎり、レーニンには手を付けられないという禁忌は、守らざるをえないものとしてありつづけてきたのである。その最後の禁忌は、91年の無血クー・デタによってソ連を最後的に崩壊させ、初代ロシア連邦大統領を名乗ったエリツィンの登場まで、破られることはなかった。94年、エリツィンは大統領令によってクロンシュタットの反乱者の名誉を回復した。
 ソ連が崩壊し、公文書保管所に保存されてきた秘密文書がつぎつぎと明かされている。半世紀以上も闇の中に包まれてきたボリシェヴィキの真実の姿が、21世紀を迎えたいま、やっとのことで明らされはじめているのである。
 このことはそのまま中国にもいうことができる。このところ中国では数多くの騒乱も起きている。文化大革命を含め、それらの真相は中国共産党の独裁が崩れないかぎり明かされないことを意味している。

2. あらかじめ仕組まれていた絞殺



 ロシア革命はクロンシュタットに始まり、クロンシュタットの絞殺によって幕を閉じたといっても過言でない。
 では、なぜそういえるのか。そこには西欧の辺境にあり、きわめて遅れた形で近代を迎えたロシアの特異性がある。
 20世紀という戦争と革命の時代を前にしたロシアは、国民の80パーセント以上を農民が占める遅れた農業国家だった。当然のことながら識字率もきわめて低い。こうした条件を抱えるなかで先進国と肩を並べて大国として国力を発展させ、維持していくカギとなる人材の供給源のひとつが水兵だったのである。陸軍と異なり、近代海軍は技術の塊ともいえる艦船に依拠している。巨大かつ複雑な艦船を敵との交戦という異常事態の下でふだんと同様に機能させるには、熟練した技能だけではなく協同作業をおこなうにふさわしいだけの規律性と協調性が問われる。陸軍は徴兵で成り立つが、海軍が志願兵を原則とするゆえんである。
 協調性については脇にひとまず措くとして、規律という点では伝統ロシアの風土にはなじまない。けっして自分勝手ということではないが、すべてがおおらかで細かいことにはこだわらない(というよりも本能的に拒絶する)体質がロシア人にある。かくして、豊饒が天の恵みであるなら厄災も天が戒めのために与えた警告として受け取ってきたのがロシアの農民だった。
 そうした風土にあって、水兵は優れた技能をもつ規律性を備えたロシアにおける精鋭だった。加えて、彼らは外国の風土と文化にふれる機会が多い。おりから西欧を渦巻いていた思潮に接しても、それらを理解する能力ももっていたのは彼らだけだったのである。バルトと黒海を基地とする2つの艦隊の若い将校と下士官が革命の主力になった背景はここにある。

 黒海艦隊の基地はペテルグルク、モスクワの両首都から遠く離れたクリミア半島にある。それに対して、クロンシュタットはペテルブルグ市内にある。この地勢的条件がクロンシュタットを革命の主役に押し上げた第一の要因である。ロシア革命を語るさいに欠かせないのはソヴィエトであるが、2次の革命にさいして、いずれもクロンシュタット・ソヴィエトが発源地になっていることがその証左である。トロツキーが「ロシヤ革命の誇りと栄光」と賞賛したゆえんもここにある。

 しかし、そのソヴィエトの発源地クロンシュタットで、ソヴィエトを名乗る組織の平和的要求を、ボリシェヴィキは大量の軍隊を動員して圧殺した。それは文字どおりソヴィエトという優れて革命的な組織の絞殺にほかならない。にもかかわらず、ボリシェヴィキは彼らの独裁国家をソヴィエト連邦と名乗りつづけた。国名としてソヴィエトを名乗りつづけることが即革命国家の証であることを、レーニンほど熟知していた人物はほかにいない。このことを考えるとき、レーニンもトロツキーも、できることならクロンシュタットの要求をのみたかったものと思われる。いままでのボリシェヴィキ観はすべてこの視点に立っている。じじつ、主観的にはそうだったと私も思う。
 だが、彼らはそうしなかった。ここで分かれるのは、彼らがその道を選ばなかった理由である。しようとしても諸般の事情が許さなかったのか、それともそうしたくはなかったのか、である。
 全体主義としてのボリシェビズムという思想を考えるとき、あらゆる証拠は後者であることを示している。国家を抑圧のための機関であると考える点では、レーニンもトロツキーも完全に同じ考えをもっていた。ここから、それに敵対する可能性があるすべてを排除することが彼らにしてみれば至上命題だったのである。ここで可能性とは、暴力をもって己の意志を相手に強要する思想と武力をもっているということである。思想だけで武力を備えていない場合も排除しなければならないと考えるのが全体主義の特性だが、それはあとの作業でよい。まずは、両者を兼ね備えている集団の排除が先である。


 当時のロシアには、その可能性をもつ集団が4つあった。1つは、旧軍に連なる部分、いわゆる白衛軍である。2つめはウクライナに伝統的に存在する戦闘的な農民集団であり、この指導者としてマフノがいた。3つめはコサックである。4つめがクロンシュタットとセバでストポリに根拠地をおく水兵たちだった。ボリシェヴィキはこれらの集団を順に排除し、最後に残ったのがクロンシュタットだったのである。クロンシュタットの排除に成功すれば、首都から遠く離れたセバストポリが追従したところ容易に制圧できる。こうした判断から、マフノ軍団の壊滅を果たした2012月を待って、レーニンとトロツキーはクロンシュタットの絞殺を決意した。
 先に私は「主観的には」と書いた。たしかに主観的には譲歩をしたかっただろうとは思う。が、それをした場合のはね返りこそ、彼らにしてみれば、なにを措いても避けなければならない課題だったのである。一歩の譲歩が、この場合は命取りになる可能性を十二分に含んでいた。彼らは、それほど多くの血を流していた。ひとつの譲歩が、ここでは希望の星になる可能性をたぶんに含んでいたのである。
 マフノ軍団を制圧したいま、クロンシュタットだけが排除しなければならない最後の集団だった。できればやりたくはなかっただろうが、やってしまえばあとは時間が解決するというボリシェヴィキ特有の思考が、この蛮行を可能にさせたのである。

 もう1つ証拠を挙げる。それは新経済政策(通称ネップ)と呼ばれている市場原理の導入(内実は飢餓に対する国民に対する譲歩策)が、クロンシュタットの制圧を待って実施に移されていることである。クロンシュタットの制圧は3月18日、ネップの実施は21日であることがそのことを示している。これはボリシェヴィキの政策の失敗を一時的にことするための妥協策であり、ボリシェヴィキの本音ではなかったことが明かされた資料によって明白になっている。資料によれば、レーニンはカーメネフに「ネップがテロルに終止符を打つと考えるのは最大の過ちである。われわれは必ずテロルに戻る。それも経済的テロルにだ」と書簡を送っていたのである。

 もともとがクロンシュタットの叛乱は、ゆうに1冊の本になるだけの内実を備えている。それを、要点を漏らすことなくかつ簡潔に書くことは、それ自体がそれなりの時間とエネルギーを要する作業である。今回はその時間をもてなかった。そのことをふまえ、この章についてもつぎに書き直すさいに全面的に改めたいと考えている。


 7章 1922――反ボリシェヴィキ知識人の国外追放


1. 引き続きベルジャーエフ


《ソヴェート機構は当時にあってはまだ完璧に組織化されていなかった。それはまだ全体主義的とは呼べず、幾多の矛盾を蔵していた。多数の人々に支給された学界用配給切符の実施いぜんに、著名な十二人の著述家が特配切符を受取った。世間は彼らのことを冗談に――不滅者と呼んだ。私はこの十二人のなかの一人であった。しかしなぜ私が選ばれた人々の仲間に入ったのか、つまりどうして私が食糧に関して特権者に数え入れられたのか、私にはまったく不可解なことになった。配給切符を受取ったちょうどそのときに、私は逮捕されて、チェ・カーに監禁されたのである*。当時は旧ロシアのインテリゲンチャの代表者、カーメネフ、ルナチャルスキー、ブハーリン、リャザノフはまだクレムリン宮殿にいた――そしてコミュニズムに同調しなかった著述家や学者等、インテリゲンチャの代表者たちにたいする彼らの態度は、チェ・カーの役人たちの態度とは異なっていた。彼らは恥じていた、そして知的ロシアの苦難にはげしくこころを動かされて、煩悶していたのである。
* N・Aの逮捕の前夜、彼と私は公共事業にかりだされた。N・Aは病気にかかっていた。彼は高熱を発していた。朝の五時にわれわれは起床し、点呼にならばねばならなかった。零下三十五度であった。石油ランプに薄暗く照らされた天井の低い、寒く暗い部屋のなかに「ブルジョワジー」の一群が集められた。人々はみな番号で呼ばれた。寒さに震えているみなりの貧しい人々。蒼白くやつれた顔。武器の触れ合う音。号令者の兇暴な怒声。これらすべてがさながらダンテの「地獄」の一場面を偲ばせた。点呼ののち、われわれは縦隊で行進しなければならなかった。そして、氷を「かち割り」、鉄道線路の雪かきをするために、数露里はなれた田舎へまるで重罪人のように兵隊にとりまかれながら追い立てられるのであった。重い足をひきずって駅に到着したとき、男は女からひき離された。男たちは重い鉄挺で氷を「抉りだし」、女たちは氷塊を車輌に積み込まねばならなかった。一車両ごとに二人の女が配置させられた。私といっしょに働らいたのはまだうら若い少女であった。私は決して彼女の顔を忘れないであろう。彼女は短いブラウスをつけ、軽い靴をはいていた。いま彼女は霜やけで紫色になった両手を震わせながら、これらの氷塊を持上げるのであった、そしてそのあいだ彼女の眼からたえず涙があふれでた。薄暗くなってから、われわれは積込作業をおわった。私はN・Aのところへ行った。彼は蒼ざめ、疲れ果てていた。彼はほとんど立っていることもできなかった。われわれは終日なにも口にしていなかったのである。仕事のおわったあとで、各人にひときれの黒パンが配給された。》
《われわれが死ぬほど疲れ切って帰宅したとき、日はとっぷり暮れていた。私は小型の暖炉を焚きつけるために、大急ぎでN・Aの寝室に入った。燃料は、私が母の領地から運びこんでおいた古代家具であった。N・Aは?のテーブルと安楽椅子を割った。われわれは強いて彼をベットにつかせた。真夜中に騒々しいノックの音がきこえた。それはちょうど誰かが扉を打ち破ろうとしているかのようであった。すぐに私はとびおきた。私のまえには一人のチェ・カーの役人に引率された武装した兵隊たちが立っていた。「ここはベルジャーエフの住まいだね?」 その役人はたずねた。N・Aに警告するため、私は大声で叫んだ、「チェ・カーの役人よ!」兵隊の一人が私の口をふさいだ。チェ・カーの役人はN・Aの部屋を教えるように私に命令した。われわれが彼の部屋に入ったとき、N・Aはすでにおきあがっていて、落着いた声でいった、「家宅捜索は無用です。私はボリシェヴィズムの反対者です、そして私の思想をかくしたことはありません。私の論文のなかに書いてあることはみな、私が講演や集会で公然と語ったことばかりです。」それにもかかわらず、チェ・カーの役人はあらゆる書類をかきまわした。家宅捜索は早朝までつづいた。それから彼はうさんくさく思った書類をえりわけ、調書につぎのように記入した、「ベルジャーエフは、キリスト教徒であるがゆえに、ボリシェヴィズムの反対者であると声明した。」そののち、あたたかい衣類をいくつか持参することを許されて、この病み疲れ、さいなまれた人はルビヤンカの刑務所へとひきたてられて行った。 エフゲニア・ラップ》(『わが生涯』)

 22年夏

 7章 1922――反ボリシェヴィキ知識人の国外追放

《しばらくのあいだ私は比較的平穏に暮らすことができた。一九二二年の春いらい情況は変った。反宗教的戦線が形成せられ、反宗教的迫害がはじまった。一九二二年の夏をわれわれはズヴェニゴロドスク都のボルヴヒですごした。そこはモスクワ河畔の魅力に富んだ土地で、近隣には当時トロツキーが住んでいたユスホフ家の領地アルハンゲルスコエがあった。ボルヴヒをとり巻く森林はまったく素晴らしかった。われわれは茸がりに熱中した。われわれはおそろしい政体のことを忘れた。事実また田舎ではそのようなことはなにも感じとれなかったのである。或るとき私は一日の予定でモスクワへでかけた。はからずもその日の夜、この夏を通じて私がわれわれのモスクワの住まいですごしたただ一度の夜――家宅捜索が行なわれ、私は捕えられた。ふたたび私は、爾来ゲ・ぺ・ウと呼ばれたチェ・カーに拘禁された。私はおよそ一週間そこに拘留されなければならなかった。予審判事のまえへ連れて行かれた私は、彼からソヴェートロシアを退去して、外国へ立ち去るように通告された。ふたたびソヴェートロシアの国境を踏むときは、射殺されなければならないという宣言に、署名させられたのち、私はふたたび釈放された。外国旅行の準備がととのうまでに、それからおよそ二カ月が経過した。コミュニズムへの転向を絶望視された著述家、の一団が外国へ追放された。これはのちに二度とは適用されなかった異例の処置であった。私は故郷から追放されたのである――政治的な理由からではなくして、イデオロギー的な理由から。君は追放されるのだと聞かされたとき、郷愁が私を襲った。私は亡命者になりたくはなかった。私は亡命者たちからのけ者にされているのを感じた、もともと彼らとは共通ななにものをももっていなかったのである。しかしまた同時に、よりいっそう自由な国に行けるだろう、そしてよりいっそう自由な空気を呼吸することができるだろうと、私は感じた。私は私の追放が二十五年以上もつづきうるとは思っていなかった。》(同書)
2.
 レーニン倒れる

5月:レーニン、脳梗塞で倒れ右半身不随となり、執務の現場から離れる。
12
月:2度目の脳梗塞。
2008.10.25
〔未定稿〕


【注】「私の20世紀」了。技術上の問題で読みにくさが残。あしからず。

4) 宗教を否定する宗教としてのボリシェビズム

《社会現象としてのボルシェヴィズムは、通常の政治運動ではなく、一つの宗教と考えることができる。世界にたいする重要で効果的な精神的態度は、宗教的態度と科学的態度とに大別できるであろう。科学的態度は試行錯誤的で、断片的であり、証拠のあるものは信じ、ないものは信じないという態度である。ガリレオ以来、科学的態度には重要な事実や法則を確認していく能力があることがますます立証されており、そのことは気質、利益、政治的圧力の如何にかかわりなくすべての有能な人々の認 めるところである。太古の時代より世界におけるほとんどすべての進歩は、科学と科学的気質によるものであった。ほとんどすべての主要な悪は、宗教によっている。
 私が宗教というのは、独断として抱かれている信仰の体系を意味する。その独断は生活の振舞いを支配し、証拠を超越し、あるいは証拠に反し、知的ではなく感情的ないし権威主義的な方法で教え込まれる。この定義では、ボルシェヴィズムも宗教である。その教義が証拠を超え、あるいは証拠に反する独断であることは、後で証明することにしよう。ボルシェヴィズムを認める人々は科学的証拠を 受けつけなくなり、知的に自殺してしまう。ボルシェヴィズムのすべての理論が真実であるとしても、この知的自殺ということには変りはない。その理論を偏見抜きで検討することは、許されていないからである。私のように、自由な知性が人類の進歩の主要な原動力であると信じるものは、ローマ教会と同じくボルシェヴィズムに根本的に反対せざるを得ない。
 ボルシェヴィズムは、宗教の中ではキリスト教や仏教よりもイスラム教と同列におくことができる。キリスト教と仏教は本来、神秘的な理論、冥想好みの個人的な宗教である。イスラム教とボルシェヴィズムは実際的、社会的、非精神的で、現世の国を獲ちとることに関心を持っている。この両者の創始者は、聖書でいう荒野の第三の誘惑に敗けたことであろう。イスラム教がアラブ人にしたことを、ボルシェヴィズムがロシア人にすることになるかもしれない。シーア派の初代教祖アリーが、予言者ムハメットが勝った後ではじめて集まってきた政治家たちの前に膝を屈したように、真の共産主義者が今ボルシェヴィキの隊列に集まりつつある人々の前に屈することになるかもしれない。もしそうなれば、壮観華麗をきわめたアジア帝国が発展の次の舞台となり、後に歴史的に回顧すれば共産主義はボルシェヴィズムの小さな部分でしかなかったということになるかもしれない――ちょうど禁酒が、イスラム教の小さな部分でしかないように。革命勢力が帝国主義的勢力であるかどうかはともかく、一つの世界的勢力としてのボルシェヴィズムが成功すれば、遅かれ早かれアメリカと絶望的な対立に陥ることであろう。そしてアメリカは、ムハメットの部下が直面させられたどのような勢力にもまして堅固で強力である。しかし共産主義理論は長期的にはほとんど確実にアメリカの賃金労働者の間で前進を遂げるであろう。したがってアメリカは永遠にボルシェヴィズム反対という訳にはいかなくなるであろう。ロシアでボルシェヴィズムが倒れることになるかもしれない。しかしそうなっても、他の国で再び出現してくるであろう。それは、困窮の立場に立たされた工業人口にはお挑むきに適しているからである。その悪い点は主として、困窮の立場に起因したという事実によっている。問題は、善と悪をより分け、絶望のあまりまだ残忍さに駆られていない国で善を採るようすすめていくことである。》

 本書は48年に第2版が発刊されており、そこでラッセルは「いま書くなら、いくつかのことでは違った言い方をするであろうが、すべての主要な点で、私は一九二〇年の私のロシア共産主義観を今もそのまま持ち続けている。」と記し、「それ以後のロシア共産主義の発展は、私がかつて予想したものと似ていなくもない。」としている。それから60年を経ったいまでも、彼は同じ感想を記すことになるのではないかと思う。


6) 農業(民)問題の無策

《文明世界は遅かれ早かれ、ほとんど確実にロシアの実例に従って社会の社会主義的改造を試みようとしているかに見える。私は、その試みは次の数世紀間の人類の進歩と幸福にとって本質的に重要なことだと信じているが、同時にその移行は恐るべき危険を伴うとも信じている。移行の方法についてのボルシェヴィキ理論が西欧諸国の社会主義者の採用するところとなれば、その結果は長期の混乱であり、社会主義にも何か他の文明の体系にも至ることなく、ただ暗黒時代の野蛮に逆戻りするだけだと、信じている。社会主義のため、さらには文明のためには、ロシアの失敗を認め、かつそれを分析することが至上の命令であると、思うのである。他ならぬこの理由のために、ロシアを訪問した多くの西欧の社会主義者が必要と考えている秘匿の陰謀に、私は加わることができないのである。
 先ず、ロシアの実験は失敗だったと私に考えさせる事実を要約し、次いで失敗の原因を探し出すことにしよう。
 ロシアにおけるもっとも初歩的な失敗は、食糧をめぐる失敗である。かつては穀物やその他の農産物では魔大な輸出可能の余剰を生み出していた国、非農業人口は全人口の一五%でしかない国では、都市に充分な食糧を大した困難もなく供給できて然るべきである。しかし政府は、この点ではひどく失敗している。配給は不充分、不定期で、市場で投機的価格で非合法に買った食物がなければ、健康と活力を維持できない。輸送網の崩壊は食糧不足の有力な原因ではあるが主要な原因ではないと考える理由を、私はすでに述べておいた。主要な理由は農民の敵意であり、それはさらに工業の崩壊、強制徴発の政策によっている。小麦と小麦粉については、農民が自分と家族に必要としている最低限以上に生産したものを、政府がすべて徴発している。代りにある一定額を地代として取り立てていたならば、農民の生産意欲を打ち破ることもなかったであろうし、あれ程までに強い農産物を隠匿しようとする動機を生み出すこともなかったであろう。しかし、この計画では農民は富裕になることができ、いわば共産主義の放棄を告白することになったであろう。だから強制的な方法を用いた方がよいと考えられるようになり、それは当然に破滅をもたらすことになった。》

7) 工業政策の不在失敗

《ボルシェヴィキの不評は、第一に工業の崩壊によっているが、その不評は政府がやむなく採った政策によって一層大きくなった。ペトログラードとモスクワの普通の住民に充分な食糧が与えられなかったことから、政府は、ともかくも重要な公共の仕事に従事している人々には能率を維持できるだけの栄養を与えるべきだという決定を下した。お偉い人民委員はもちろん、共産党員一般がイギリスの基準でも贅沢な暮しをしているというのは、根も葉もない中傷である。彼らは彼らの支配下の人民とは違って、厳しい餓え、それに伴う精力の衰弱にさらされていないというのが事実である。この点では彼らを非難できない。政府の仕事は遂行しなければならないからである。しかし一つにこのようにして、階級間格差を追放することを意図していたところで、それが再現してきたのである。私はモスクワで、明らかに腹を空かせている労働者と話したが、彼はクレムリンの方を指して、「あそこでは喰うものはふんだんにある」と言った。彼は、国民の間に広く拡がっている感情を表明したにすぎなかったが、それは、共産党員の理想主義的な呼びかけに致命的な打撃となるであろう。
 ボルシェヴィキは、評判が悪いがために軍隊と非常委員会に頼らねばならなかった。そしてソヴィエトを中身のない形式だけのものにせざるを得なかった。プロレタリアートを代表しているという主張は、ますます見えすいた嘘になってしまった。政府のデモや行進や集会の真只中にあっても、本物のプロレタリアは無感動で幻滅したような顔で傍観している。異常なまでの精力と熱意のあるプロレタリアならば、資本主義下の隷属よりもはるかに進んだこのソヴィエトの隷属状態から自分を解放するために、むしろサンジカリズムやIWWの思想の方に向かうであろう。苦役労働者並みの賃金、長時間労働、労働者の徴用、ストライキの禁止、怠業者にたいする禁固刑、生産が当局の予想を下回った時には、ただでさえ不充分な工場の配給をさらに減らすという措置、政治的不満のあらゆる気配を密告し、不満を煽動するものを投獄しようと狙っているスパイの大群――これが、今でもプロレタリアートの名で統治していると公言している体制の現実なのである。
 同時に、国の内外の危機のために大規模な軍隊を創出することが必要となった。軍は中核部分だけが党員で、一般の兵士はほとほと戦争には嫌気のさした国民から徴兵制で集められている。もともと国民は、ボルシェヴィキが平和を約束したから、彼らを政権につけたのである。軍国主義は、必然的な結果として苛酷で独裁的な気運を生み出す。政権の座にある人々は、自分たちの指揮下には三百万の武装兵力があり、自分たちの意志にたいする民間人の反対は簡単に粉砕できることを意識しながら、彼らの日々の仕事をこなしていく。》
《十月革命以降のロシアとボルシェヴィズムの全発展過程に、ある悲劇的な宿命性が漂っている。外見的に成功しているにもかかわらず、内的な失敗は次々に不可避的な段階をたどって進んでいった――この各段階は、充分な鋭さがあれば初めから予見できたものであった。ボルシェヴィキは外の世界の敵意を挑発することによって、農民の敵意、遂には都市の工業人口の敵意あるいは徹底した無関心を挑発せざるを得なかった。これら多様な敵意は物的な破滅をもたらし、物的な破滅は精神的な崩壊をもたらした。この一連の悪全体の窮極的な根源は、ボルシェヴィキの人生観にある。その憎悪の独断論、人間の本性を力によって完全に変えられるとするその信念にある。資本家を傷つけることが社会主義の窮極の目標ではない。しかし憎悪に支配された人々の間では、それが活動に熱意をこめていく一要素となる。世界中の敵意に直面するのは英雄的行為であるかもしれない。しかしその英雄的行為の代償を支払わねばならないのは、支配者ではなくて国民である。ボルシェヴィズムの原理の中には、新しい善を築こうという願望より古い悪を倒したいという願望の方が大きい。破壊での成功の方が建設での成功よりもはるかに大きかったのは、この理由からであった。破壊したいという願望は憎悪によってかき起てられている。それは建設的な原理ではない。ボルシェヴィキ的精神のこの本質的な特徴から、ロシアを現在の殉教的苦難にさらそうとする意欲が発生した。まったく別の精神からしか、より幸福な世界は作り出せない。》
《ボルシェヴィキの哲学は、漸進的な方法にたいする絶望によって非常に大きく助長されている。しかしこの絶望は忍耐力のなさの現れであり、実は事実の裏付けのあるものではない。近い将来、立憲的な方法によってイギリスの鉄道、鉱山で自治を獲得するのは、決して不可能なことではない。これはアメリカの経済封鎖を発動させたり、内乱やその他の破滅的な危険――現在の国際状況にあっては、本格的な共産主義革命が生じれば、そのような危険を覚悟しなければならない――をもたらすような政策ではない。産業自治は実現可能であり、社会主義にむかっての大きな一歩となるであろう。それは社会主義の多くの利点をもたらすと同時に、生産の技術的停滞をひき起すことなく社会主義への移行をはるかに容易にしていくであろう。
 第三インターナショナルの提唱している方法には、もう一つの欠点がある。それが唱えているような革命は、実際には国家的な不運の時でしか決して実行可能ではない。事実、戦争での敗北が不可欠の条件のようである。その結果この方法によっては、社会主義は生活条件が困難な国、道徳的退廃と社会組織の解体のために革命の成功がほとんど不可能になっている国、人々が激しい絶望の気分に襲われ、工業建設にとって非常に不利な状態にある国でだけ開始されることになるであろう。もし社会主義にも公正な成功の可能性がなければならないとすれば、それは繁栄している国で開始されねばならない。しかし繁栄している国は、第三インターナショナルの用いている憎悪と世界的動乱の議論によっては容易に動かされないであろう。繁栄している国に訴えかけるには絶望よりも希望に重点をおき、繁栄を失うような災厄に見舞われることなくいかにして移行できるかを示すことが必要である。これには暴力や破壊活動の必要性は小さく、より多くの忍耐と建設的な責任が必要であり、決意を固めた少数者の武力に訴える必要も小さいであろう。》

 破壊に比べると建設ははるかに困難であるだけでなく、根気が問われる作業である。気が遠くなるほどのこらえ性がなければ果たせない事業なのだ。何百年もかけてつくられてきたものを、わずか10年や20年で一変させることが、果たして必要だったのだろうか。それほどの急激な変化をロシアの人民は望んでいたのあろうか。すべては急ぎすぎにある。それ以前に、そんなことが可能であると本気で考えたとすれば、人間という生きものに対する無知としかいいようがない。

8) 観念論の極地としてのボリシェビズム

《政治理論を哲学理論の上に基礎づけようとするのは、もう一つ別の理由からも望ましくない。哲学的な唯物論がいやしくも真実であるとすれば、それはすべての所で、常に真実でなければならない。それにたいする例外がある、例えば仏教やフス派の宗教改革運動は例外であると、期待してはならない。そのため、ある哲学の帰結として政治をやっている人は、その哲学の政治への適用において絶対的で全面的であり、歴史の一般理論はせいぜい、全体として、主要な点で真理であるとしか言いようのない性質のものであることを認められないであろう。マルクス主議的共産主義の独断的性質は、その理論の哲学的基礎とされているものに支えられているのである。そこには、カトリック神学に見られるような固定された確実性がある。近代科学における常に変化する流動性、懐疑的な実際性がない。》
《すべての政治は、人間の願望によって支配されている。つき詰めていえば唯物史観には、政治意識のある人は皆、唯一つの願望――自分の持ち分の財貨を増大させたいという願望に支配されているという前提が必要である。さらに、彼がこの願望を実現する方法は通常、彼自身の個人的な持ち分だけでなく、自分の階級の持ち分を増大させようとすることであるという前提を必要としている。しかしこの前提は、真実とはほど遠い。人々は権力を欲する。誇り、自尊心の充足を欲する。対立の相手にたいする勝利を欲し、勝ちたいという無意識の目的のためには対立関係をデッチ上げたりもする。これらすべての動機が純粋に経済的な動機と交錯しており、この交錯の仕方が実際には重要なのである。》

 ボリシェヴィキの思考の根底には、マルクス主義者はあくまでも善でありブルジョアジーは悪の塊であるとする救いがたい観念がある。そこにはいさいの人間にかかわる観察がない。多くのボリシェヴィキが類い希な善意の人間で構成されていたことについては疑いの余地がない。(そのことはラッセルも認めている。)だが、たとえそうであったにしても、その多くのなかに優れた組織力をもつ権力欲の塊のような人物が紛れ込んでいないとする保証はないし、根拠もない。レーニンという卓抜した指導者が没すると同時に、そのことが明らかになる。

(5章終わり)


2) レーニンという人物

《モスクワに着いて間もなく、私はレーニンと英語で一時間対談した。彼は英語をかなりうまく話す。通訳が同席していたが、その助けはほとんど必要がなかった。レーニンの部屋にはまったく飾り気がない。大きな机、壁の数枚の地図、本棚が二つ、二、三の固い椅子の他に来客用の安楽椅子が一つあるだけであった。彼が贅沢はもちろん、安楽ささえも好んでいないのは明白であった。彼は非常に親しげで、一見単純で、倣慢そうなところは全然なかった。誰であるかを知らずに会えば、彼が強大な権力を持っていることにも、彼が何らかの意味で著名であることにさえも気付かないであろう。これ程までに尊大さのかけらもない人物に、私はかつて会ったことがなかった。彼は来客をじっと見つめ、片方の目を細める。それがもう一方の目の人を見抜く力を驚くほど強めるように思える。彼は大いに笑う。はじめは彼の笑いはたんに親しく陽気であるように思えたが、私は次第に気味悪く感じるようになった。彼は独裁的で平静、恐れを知らず、私利私欲が異常なまでに欠け、理論が骨肉化したような人物である。唯物史観が彼の生命の源という感じである。自分の理論を理解してもらいたいと願う点で、誤解したり反対したりするものに怒る点で、また説明するのが好きな点でも、大学教授に似ている。私は、彼が多くの人を軽蔑しており、知的貴族であるという印象を受けた。
 私が尋ねた最初の質問は、彼がイギリスの経済的、政治的状態の特殊性をどの程度まで認識しているかであった。暴力革命を支持することが第三インターナショナル加入の不可欠の条件であるかどうかも知りたかったのだが、他の人々が公式にその質問をすることになっていたので、私は直接には訊かなかった。彼の答は、私には不満足であった。彼は、イギリスでは今、革命の可能性はほとんどないこと、労働者はまだ議会制政府に愛想をつかしていないことを認めた。しかし彼は、この愛想づかしが労働党政権によってもたらされるだろうと考えていた。例えば労働党指導者のヘンダーソン氏が首相になったとしても、重要なことは何も行なわれないであろうし、その場、組織された労働運動は革命の方向に向うと、彼は信じている。この理由から、彼はイギリスのレーニン支持者が議会内で労働党の多数を得るために全力を尽くすよう願っている。彼は議会選挙に棄権するのは賛成していない。誰が見ても議会を軽蔑できるようにするのを目的に、選挙に参加することを奨めているのだ。われわれ大部分のものにとってイギリスで暴力革命を試みるのはおよそあり得ないことで、望ましいことでもないように思えるが、その理由は彼には取るに足らぬことで、たんなるブルジョワ的偏見のように思えるのであろう。イギリスではおよそ可能なことならば流血なしで実現できると私が言ったところ、彼はこの意見を空想的だとして軽く一蹴した。イギリスについての知識や心理的な想像力があるという印象はあまり受けなかった。むしろマルクス主義の全体的傾向が、心理的想像には反対なのである。マルクス主義は、政治における一切のものを純粋に物質的な原因に帰属させるからである。
 私は次に、農民が大多数を占めている国で共産主義をしっかり充分に樹立できると思うかと尋ねた。彼は困難であることを認め、農民が食糧を紙幣と強制的に交換させられていることを笑った。ロシア紙幣が無価値であることが、彼には喜劇的なことのように思えたのであろう。しかし彼は、農民に提供できる商品があれば、事態は自然によくなるだろうと言った――それは間違いなく正しい。この点では、彼は一つに工業の電化に期待を寄せていた。電化はロシアにとって技術的に必然なことだが、完成するには一〇年かかるだろうと、彼はいう。党員はみなそうだが、彼は熱意をこめて泥炭による発電の大計画について語った。もちろん根本的な対策としては外からの封鎖の解除に期待しているが、他国に革命が起らなければ、封鎖解除は完全かつ長期的には実現できないだろうと考えていた。ボルシェヴィキ・ロシアと資本主義諸国間の平和は常に不安定なものにならざるを得ないと、彼は言った。協商国側は厭戦気運と各国相互間の不一致のためにロシアと講和するようになるかもしれないが、その平和は短期的にしか続かないと確信していた。平和と封鎖解除については、彼はわれわれ代表団よりもはるかに熱意がなかったし、その点ではほとんどすべての指導的党員も同じであった。彼は、世界革命と資本主義の廃止がなければ真に価値のあることは何も達成できないと信じていた。資本主義諸国との貿易再開は価値の疑わしい一時しのぎの措置と考えていると、私は感じた。
 彼は富農と貧農の間の対立、貧農にたいして行なわれている政府の富農反対の宣伝について語った。そのため暴力行為が起こっていることを、彼は面白いと思っているようだった。彼は、農民にたいする独裁は長期にわたって続けねばならぬといわんばかりの口調であった。農民が自由貿易を望んでいるからであった。この二年間、農民はそれ以前よりも多くの食糧を持っていることを統計で知っていると言った(これは充分に信用できることである)。「それでも彼らは、われわれに反対しているのだ」と、彼はいくらか物悲しげに付け加えた。農村では共産主義ではなくて、農民の土地所有が創出されただけであるという批判者にたいしては、どう返答したらよいのかと、私は彼に尋ねた。それはあまり真実ではないというのが、彼の返事であったが、何が真実であるかについては何も言わなかった。
 私の最後に尋ねたのは、資本主義諸国との貿易がもし再開されるとすれば、資本主義的影響力の中心部が各所に作り出され、共産主義の維持をもっと困難にしないであろうかという質問であった。熱烈な共産党員ならば、外の世界との商業的交流は異端の浸透を招き、現存体制の硬直性をほとんど維持できなくしてしまうとして恐れているのではないかと、思っていたからである。私は、彼がそのように感じているかどうかを知りたいと思ったのである。彼は、貿易が困難を作り出すだろうということは認めたが、戦争の困難よりは小さいだろうと言った。二年前には彼も彼の同志たちも、世界中の敵意に対抗して生き延びることはできないと考えていたと、彼は言った。彼らが生き延びたのは、さまざまな資本主義国家間の嫉妬心と利害の分裂、それにボルシェヴィキの宣伝によるものだと、彼は言う。ボルシェヴィキが大砲にたいしてビラで戦おうとした時、ドイツ人は笑ったが、しかし事態はビラも同じように強力だということを証明したと、彼は言った。西欧の労働党や社会党がその事態の中で一役果したことを、彼は認めていないと、私は思う。イギリス労働党の親ソ的な態度のために、イギリス政府はこそこそやれること、また否定してもあまり空々しい嘘にはならないことしかできなくなり、こうしてロシアにたいする本格的な戦争は不可能になったことについては、彼は知らないようであった。
 彼は、イギリスのタイムズ紙の社主ノースクリッフ卿の反ソ攻撃を大いに楽しんでいた。ボルシェヴィキの宣伝に貢献したというので勲章をさしあげたいとまで思っていた。強奪という非難はブルジョワにはショックかもしれないが、プロレタリアートには逆の効果があると、彼は言った。
 誰であるかを知らずに彼と会ったら、彼が偉大な人だということに気付かずに終っただろうと、私は思う。あまりに強く自説にこだわり、偏狭なまでに正統的だという印象を受けた。彼の強さは彼の正直さ、勇気、不動の信念から来ていると、私は想像している。彼の信念は、いわばマルクス主義の福音にたいする宗教的な信仰である。マルクス主義の福音の方が利己主義的でないという点を別とすれば、この信仰がキリスト教殉教者の天国への願いの役割を果しているのである。彼は、ディオクレティヌス帝の迫害のもとで苦しんだが後に勢力を得てから復讐したキリスト教徒と同じく、自由にたいする愛着をほとんど持っていなかった。おそらく自由への愛着は、人間のあらゆる苦しみを治療できる万能薬があると心から信じる態度とは両立しないのであろう。そうとすれば、私は西欧世界の懐疑的な気質を喜ばざるを得ない。私は社会主義者としてロシアへ行った。しかし疑いを持たぬ人々と接して私自身の疑いは千倍にも強くなった。社会主義そのものにたいする疑いではなく、信条を固く抱いてそのために広く不幸をもたらすのは賢明なことかという疑いである。》

 レーニンという人物は不可解な人物である。趣味はなにかと問われれば「マルクス主義と革命」と答えるのではないかと思えるほどに無趣味であり、かつ私心がない。快活であり、尊大なところを人に感じさせない点でも希有な人物である。しかし、私には「彼は大いに笑う。はじめは彼の笑いはたんに親しく陽気であるように思えたが、私は次第に気味悪く感じるようになった。」とラッセルは記している。このラッセルの直感には、さすがだと思わせる鋭さがある。

4章 引き続きベルジャーエフ

1.

《ソヴェートロシアで過した私の生涯のまる五カ年のあいだ、小ヴラス横町のわれわれの家では(私の記憶に間違がなければ)毎火曜日に集会が開かれた。そこでは講演や討論会*が催された。この時期には私はまた公開の席上で、あとにもさきにも経験したことのない大聴衆のまえに登場した。このような或る集会のことを私はとくによく記憶している。アナーキストのクラブ(当時はまだ許されていたのである)がキリストに関する討論会を開催しようとした。彼らは私の参加を望んだ。主教や司教もまた招待された、しかし彼らは姿をみせなかった。出席者はトルストイ信奉者や復活についてのN・フョードロフの埋念をアナーキ的コミュニズムと結びつけようと試みたフョードロフ信奉者、そのほかに単純なアナーキストや単純なコミュニストであった。人々で満ち溢れた広間に入ったとき、私は沸騰点にまで高まって極度に緊張している雰囲気を感じた。そこには多数の赤軍兵士や水兵や労働者がいた。それは革命時代の雰囲気、しかしまだ十分に完成しておらず、まだ十分に組織化されておらぬ雰国気であった。それは一九一九年のはじめのころのことであったか、或るいはたぷん一九一八年末のことであったろう。
* N・Aは、このテロの時代には他の人々との精神的連繋は絶たれてはならず、精神生活は死に絶えてはならないという意見をもっていた。すべての集会が、それがどこで開催されようと、禁止されていた時代に、私たちの家では講演が行なわれ、種々の問題が論議された。もちろんボルシェヴィストを除外してのことだが、極左にはじまって極右におわるさまざまの党派に所属している人々が毎火曜日に集まってくる、こんなことはモスクワで私たちの家一軒であった。冷えきったサロンに、招待された人々は短い毛皮の半外套をっけ、フェルトの長靴をはいて腰を下ろしていた。敷物の上には一面に雪溜りができた。凍えている出席者をすこしでもあたためようと思って、私は白樺の皮でつくった熱い茶を出し、それに人参を細かくすりつぶしてこしらえた小さな菓子を添えた。砂糖はなかった。或るとき友人の一人がルミャンツェフ博物館からフランスの新聞をもってきた。その記事のなかで筆者のP氏は、ボリシェヴィキ革命の時代にロシアには言論の自由が支配していることを指摘し、その証拠として、つぎのようにのベていた。毎火曜日に高名な哲学者ベルジャーエフの邸に多種多様の党派の代表者が会合して、えぞいちご色の絹布で張られた豪華な安楽椅子によりかかり、金めっきの古代茶碗からお茶を飲み、そのうえ小型の素敵な菓子を食べながら、こころおきなく多種多様な問題を論じている、と。この記事の筆者はたいへん素朴で、素晴らしいコミユニズムの神話に感激したあまり、もっとも幸運な場合でも、この記事のためにN・Aが逮捕される危険のあることを夢にも考えていなかったのである。これらの集会こそ彼の逮捕の機縁を与えたのだと、私は信じている。たぶん同じ筆者の手になったと思われる記事が「イズヴェスチャ」にのったことがある。それにはつぎのように書かれていた、木曜日の或る晩、N・A・ベルジャーエフの邸で、レーニンはアンチクリストであるかいなかの問題が論議され、彼はアンチクリストではなくして、ただその先駆者にすぎないという決論が下された、と。 エフゲニア・ラップ》(同書)

2.

《私は、私がソヴェート極力の側からとくべつに迫害されたということはできない。それにしても私は二度逮捕され、チェ・カーとゲ・ぺ・ウに――ながいあいだではなかったが――収監され、そして、これははるかに重大なことであるが、ロシアから追放されて、それいらいほとんど二十五年のあいだ外国でくらしている。最初に私は一九二〇年にいわゆる「戦術中央本部」の事件に連坐して拘置された。この機関とは私は直接の関係をもっていなかったが、私の親しくしていた知人が多数逮捕されたのである。これは結局大きな裁判沙汰になったが、それに私は捲き込まれずにすんだ。かつて私がチェ・カーの内部刑務所に拘留されていたとき、真夜中の十二時ごろに尋問のために呼びだされた。私は暗い廊下や階段を数限りもなくひきまわされ、ついにあかるく照らしだされた、絨毯の敷かれてある清潔な廊下に達し、そこから床に北極熊の毛皮の拡げられている大きなあかあかと照明された書斎に入った。事務机の左手に私に面識のない一人の男が赤色の屋形勲章をつけた軍服姿で立っていた。彼はブロンドで、細いとがった髭をもち、灰色の、濁った、憂鬱そうな眼をしていた。彼の外貌や身のこなしは教育のよさと洗練さをあらわしていた。彼は私に腰をおろすようにすすめて、いった、「私はジェルジンスキーです。」このチェ・カーを創設した男の名前は血にまみれたものと取沙汰されて、全ロシアがそのまえで震えていた。移しい拘禁者のうち、ジェルジンスキーみずからによってとり調べられたのは私一人であった。私の尋問は厳粛な性格を帯びた。この尋問にはカーメネフが姿をみせ「チェ・カーの議長代理であるメンジンスキーもまた立会った。彼とは昔からすこしばかりの面識があった(私はぺテルブルグで彼と出会ったことがあった。当時彼は著述家で、芽の出ない長篇小説作家であった)。私の性質の顕著な特徴は、人生の危険に満ちた、のみならず破局的な瞬間にも、すこしもうちひしがれず、またすこしもたじろがないで――むしろ反対に、躍動を感じて、ただちに攻撃に移ることである。おそらくこれは、私の体内に流れている軍人の血の仕業であろう。私は尋問の際には自分を弁護しないで、問答の全体をイデオロギー問題にひきこむことによって、攻撃をかけようと決心した。私はジェルジンスキーにいった、「私は私の考えていることを卒直にのべることが思想家、著述家としての私の品位にふさわしいことと考えます、このことに御留意願いたい。」ジェルジンスキーは答えた「それこそあなたからわれわれが期待するものです。」そこで私はまだ私に質問がむけられないさきに語ろうと決心した。私はおよそ四十五分間語った。それはまぎれもないひとつの講義であった。私ののべたことはイデオロギー的な性質を帯びていた。私は私がどのような宗教的・哲学的・道徳的根拠から共産主義の敵なのかを、示そうと努めた。同時に私は、私が人間として非政治的であることを頑強に主張した。ジェルジンスキーは注意深く耳を傾け、ただときおり簡単な所見を挿んだ。たとえば彼はこんなことをいった、「理論においては唯物論者、生活においては観念論者の人がいる。また逆に、理論においては――観念論者で生活においては唯物論者の人もいる。」私のながい議論はその誠実さのゆえに、あとで聞くと、彼の気に入ったとのことである。しかしそのあとで彼は特定の人々に関係をもつさまざまの質問を私にむけた。これらの人々に関してはなにひとつ言うまいと私は固く決心していた。私は旧政体のもとにおける尋問にすでにいささかの経験があった。もっとも不快なひとつの質問にたいしては、ジェルジンスキー自身が答を与えて私を困惑から救ってくれた。逮捕された者の多くが自分で自分に不利な申立てをして、その結果彼ら自身の供述が告訴の主因をつくったことを、私はあとで知った。尋問のおわったのち、ジェルジンスキーは私にいった、「私はあなたをただちに釈放します、しかしとくべつの許可なしにモスクワを離れることは禁止されるでしよう。」それから彼はメンジンスキーの方をむいて、「おそくなった。このあたりには迫剥が徘徊している。ベルジャーエフさんを自動車でお宅までお送りできたらよいのだが。」自動車はみつからなかった。しかしオートバイが私を私の手荷物といっしょに自宅まで送ってくれた。刑務所を出るとき、いぜんに近衛騎兵の曹長であった刑務所長が自分で私の所持品をつみこみながら私に訊ねた、「われわれの所はお気に召しましたか?」チェ・カーの監獄行政ははるかに苛酷で、革命の監獄規律は旧政体時代の監獄に比べて非常に俊厳である。われわれは互に完全に遮断されていた。このようなことは昔の監獄ではおこらなかった。ジェルジンスキーはきわめて信念の強固な、公明な人物という印象を私に与えた。彼は卑劣な人間ではなく、彼の本性はたぶん決して酷薄ではなかったと、私は信じている。彼は狂信者だったのだ。彼は魅入られた人間という印象を与えた。彼には或る不気味さが漂っていた。彼はポーランド人であった、そして彼の挙措には或る洗練さが窺われた。彼はかつてカトリックの僧侶になろうと欲したことがあった、それから彼は彼の熱狂的な信仰をコミュニズムに移したのである。逮捕があってからしばらくして、「戦術中央本部」の裁判が開始せられた。それは公開して審理された。傍聴が許可されたので、私はすべての公判に出席した。被告席には私が個人的関係を結んでいた人々の姿も見出だされた。この裁判は私に陰鬱な印象を与えた。一切が演出であって、すべてはすでにあらかじめ決定されていたのである。被告のうちの数人はなみなみならぬ威厳を示した。しかしまた不面目な、卑屈な振舞をした人々もいた。判決はとくべつにおもくはなく、執行猶予が下された。》(同書)
5章 1920――一外国人が見た「革命」直後のソ連

1.
 B・ラッセルのソ連観察

 ボリシェビズムを革命とのからみで批判した西欧の知識人が書いたものとしては、A・ジイドのものが有名である。親ソ連的な小説家として知られていたジイドだが、36年に訪問したソ連の観察からそこで見たものが喧伝されているものとは真逆のものである知り、帰国後の36年に『ソヴィエト紀行』(36)を公刊。さすがはジイドという評判をうる。と同時に左翼からは罵倒に等しい批判が浴びせられ、即座に『ソヴィエト紀行修正』(37)を書いて反論している。早い時期のボリシェビズム批判である。しかし、世界は広い。ジイドのほかにも慧眼の士はおり、ジイドに遡ること16年も前に(ということはスターリン体制が確立する以前に)17年の10月にロシアで強行されたクー・デタが、およそ革命の名に値しないことを告発していた人物がいる。B・ラッセルである。
 ラッセルはベルジャーエフと同じ伝統的な貴族であるが、若いころから資本主義に対しては批判的であり、広い意味の社会主義者でもあった(自らは公然と社会主義者を名乗っている)。そこでマルクスの資本論をつぶさに検証したうえで20世紀直前のドイツに赴き、著名なマルクス主義者との交歓を通じてマルクス主義なるもの、あるいはマルクス主義者なるものを透徹した目で観察している。そこで獲得した視座をもってラッセルは革命直後のロシアを訪れ、ボリシェヴィキがおこなったクー・デタがおよそ革命の名に値しないことを明かしている。
 ラッセルは、新生ロシアを西欧に向かって宣伝してもらうというボリシェヴィキ政権の思惑の下に、イギリス労働党代表団の随行者として20年5月初旬にソ連入りし、6月中旬に出国するまでの約1カ月半、ロシア各地を旅行した。基本的行動については労働党派遣団と行をともにするという条件を除けば、かなり自由に行動することが許されたものだった。
 とはいえ、国境入りしてからの旅程は、「社会革命や万国の労働者などのスローガンを一杯に書きつけた特別の豪華列車で運ばれた」ものであり、「どこでも兵士たちの出迎えを受け」「軍楽隊はインターナショナルの歌を奏し、市民は起立して脱帽し兵士たちは捧げ銃で敬礼し」、「各地の指導者が祝辞を述べ、われわれに同行していた著名な共産党員が答辞を述べ」、「列車への入口は、きらびやかな軍服の堂々たるバシキール騎兵の兵士たちが護衛」するというものであり」、「要するに一切のことが、われわれ一同にイギリス皇太子であるかのように思わせるよう取りしきられていた」。
 視察行はおおむねこのような条件の下におこなわれたものではあったが、ラッセルは代表団の一員ではないという優位性を生かし、通訳の助けをかりて「街路や農村でたまたま出会った普通の人々と多く会話を交し、普通の非政治的な男女の目には全体制がどのように見えているのかを知ることができた」。
 ペテルブルクとモスクワでの滞在には多くの時間がとられたものの、政府要人とも直に接する機会を得て彼らの見解と人柄もうかがうことができた。レーニンとはほとんどふたりだけで1時間ほど話し、同席者はいたがトロツキーとも会い、カーメネフとは一夜をともに過している。野党の政治家と会う完全な自由も許されており、メンシェヴィキやさまざまな党派の活動家ともボルシェヴィキの同席なしに自由に意見を交換している。
 ラッセルは、この視察行を終えた直後に『ボルシェヴィズムの実践と理論』(邦訳は『ロシア共産主義』河合秀和訳)を上梓した。以下に紹介するのは、同時代の外国人が描いたリアルタイムの「新生ロシア」の実態であり、忌憚ない見解である。

1)
 プロレタリア独裁の実態

《ロシア支持のイギリス人たちは、プロレタリアート独裁とはたかだか新しい形態の代議制政府ぐらいのもの――ただし働く男女だけが選挙権を持ち、選挙区は地理ではなく部分的に職業で定められているが――と考えている。彼らは「プロレタリアート」は「プロレタリアート」であるが、「独裁」の方はまったく「独裁」という訳ではないと考えている。これは真実の正反対である。ロシア共産党員が独裁という時、彼はその言葉を文字通りの意味で使っている。しかしプロレタリアートという時には、その言葉には独特の意味がある。プロレタリアートの「階級的に自覚した」部分、つまりは共産党を意味している。(レーニンやチチェリンのように)全然プロレタリアートではないが正しい意見を持つ人々がそれに含まれており、賃金労働者ではあるが正しい意見を持っていないものは、ブルジョワジーの手先として排除されているのである。》

 プロレタリアといいプロレタリアートというからわかりにくくなるが、これを労働者、労働者階級といえば話がわかりやすくなる。早い話がボリシェヴィキの最高指導部(政治局員)で労働者出身はひとりもいない。あとでふれることになるが、クロンシュタットで反乱を起こしたのはほぼ全員が水兵とその家族であるが、ボリシェヴィキに対して武装して反攻したゆえにプロレタリアートではなく「ブルジョワジーの手先として排除」されることになる。

2)
 すでに死滅しかけていたソヴィエト

《私はロシアに行く前は、代議制政府の新形態についての興味ある実験を見に行くのだと想像していた。私は興味ある実験は見たが、代議制政府の実験を見たのではなかった。ボルシェヴィズムに関心のある人は誰でも、村の集会から全ロシア・ソヴィエトにいたる一連の選挙のことを知っている。政府各省にあたる人民委員部の権力はこの選挙から発生すると考えられている。リコール、職業による選挙区等々によって、人民の意志を確認し記録するための新しい、はるかに完全な機構が工夫されたと、われわれは聞かされていた。われわれが研究したいと思っていたことの一つは、この点でソヴィエト体制が議会主義よりも本当に優れているかどうかという問題であった。
 われわれはそのような研究をすることはできなかった。ソヴィエト体制はすでに死滅しかけていたからである。どう工夫しても自由な選挙制度では、都市でも農村でも共産党は多数を得ることはできなかったであろう。そこで政府候補者に勝たせるための色々な方法が採用された。第一に、投票は挙手で行なわれ、政府に反対投票を入れるものはみな要注意人物になる。第二に、共産党員でない候補者は印刷物を出せない。印刷工場はすべて国家の手中にあるからである。第三に、非党員の候補者は集会で演説できない。会場はすべて国有だからである。もちろん新聞はすべて政府のものである。独立の日刊新聞は許されていない。このようなあらゆる障害にもかかわらず、メンシェヴィキはモスクワ・ソヴィエトの千五百議席中四〇許りを得るのに成功した。いくつかの大工場では選挙連動を口伝てで行なうことができ、候補者の名を知らせることができたからである。現実にメンシェヴィキは、争った議席はすべて獲ちとった。
 しかし、モスクワ・ソヴィエトが名目的にモスクワの主権者であるとはいうものの、それは実際には四〇人の執行委員会を選出するための選挙人団にすぎない。この執行委員会から、次いで九人の幹部会が選ばれ、それが全権力を持つのである。全体としてのモスクワ・ソヴィエトは時たましか集まらない。執行委員会は週に一度集まるといわれているが、われわれがモスクワにいる間には開会しなかった。逆に幹部会は毎日集まっている。もちろん政府が執行委員会の選挙に、さらには幹部会の選挙に圧力をかけるのは簡単なことである。自由な言論、自由な新聞が絶対的に完全に抑圧されているために、効果的な抗議はおよそ不可能であることを想起しておかねばならない。その結果、モスクワ・ソヴィエトの幹部会は正統派の共産党員だけで構成されている。
 モスクワ・ソヴィエトの議長カーメネフは、リコールは非常に頻繁に行なわれていると、われわれに打ち明けた。モスクワでは、一月平均三〇件のリコールがあるという。そのリコールの主要な理由が何であるかと私が彼に尋ねると、彼は四つの理由を挙げた。飲酒、前線への出動(したがって議員としての義務を果せなくなる)、選挙人の側での政策の変更、すべてのソヴィエト議員がすることになっている半月に一度の選挙人への報告を怠ったことである。リコールが議員に圧力をかける政府の道具になっているのは明白であるが、この目的で利用されているかどうかを知る機会はなかった。
 農村地域では、用いられている方法はいくらか違っている。村ソヴィエトが共産党員から成るようになるのは不可能である。一般的に言ってもそうであるが、ともかく私の見た村では党員がいないからである。しかし私が村でヴォロスト(村より一つ上の地域)やグーベルニアで村人たちはどう代表されているのかと尋ねたところ、いつも全然代表されていないというのが答であった。私はそれを実証できなかったが、おそらくは言い過ぎなのであろう。しかし、もし彼らが非党員を議員に選んだら、その議員は鉄道のパスを入手できず、だからヴォロストやグーベルニアのソヴィエトに出席できないだろうという主張には、誰もが同意した。私は、サラトフのグーベルニア・ソヴィエトの集会を見学した。議員は、都市労働者が周辺の農民よりも圧倒的に多数になるよう代表制が仕組んであった。しかしそれを考慮に入れても、非常に重要な農業地帯の中心地にしては、農民の比率は驚くべく少なかった。
 全ロシア・ソヴィエトは憲法上の最高機関であり、政府各省に当る人民委員部はこのソヴィエトにたいして責任を負うが、めったに開会されず、ますます形式的なものになっている。私が知り得た限りでは、現在のところその唯一の機能は、憲法がソヴィエトの決議が必要としている問題(特に外交政策にかんする問題)についての共産党の事前の決定を、討議なしで批准することである。
 真の権力は一切、共産党の手中にある。党員は人口約一億二千万のうち、約六〇万を数える。しかし、たまたま党員と出会ったという経験は私には一度もない。私が街や農村で出会って対談するようになった人々は、ほとんど一人残らず支持政党がないと言った。唯一つ別の答が返ってきたのは数人の農民からで、彼らははっきり自分たちは帝政主義者だと言った。農民がボルシェヴィキを嫌う理由は非常に不充分だということを、言っておかねばならない。農民は以前よりも暮し向きがよくなったと言われており、私が見たすべてのことがその主張を確認していた。村では誰一人――男か女か子供かは問わず――、栄養不良らしい人を見かけなかった。大地主は土地を奪われ、農民は利益を得たのだ。しかし都市と軍隊はやはり食糧を必要としており、政府は食糧と交換に農民に与えられるものとしては、紙幣しか持っていない。そして農民は、その紙幣を受け取らざるを得ないことに腹を立てている。帝政のルーブルにはソヴィエトのルーブルの一〇倍もの価値があり、農村ではその方がもっと広く流通しているのは、異常な事実である。帝政ルーブルは非合法であるが、それを一杯入れた札入れは市の開かれているところでは大っぴらに目についた。農民が帝政の復活を期待しているという推測は下すべきではないと、私は思う。農民はたんに習慣と新奇なものを嫌うということで動かされているのだ。彼らは経済封鎖については一度も聞いたことがなく、したがって、彼らの欲しがっている衣服や農機具を何故、政府が彼らに与えられないのかを、理解できないでいる。土地は得たし、近隣の外のことには無知であるから、彼らは自分たちの村が独立することを望み、政府の要求には何であれ腹を立てるのである。
 共産党の内部には、もちろん、官僚制に常にあるようにさまざまな派閥がある――これまでのところ、外からの圧力のために分裂は妨げられてきたが。官僚制の人員は、三種類に分類できるようである。先ず迫害の歳月の試練を受けた古参の革命家がいる。これらの人々が、最高の地位の大半を占めている。牢獄と亡命のために彼らは強硬に、かつ狂信的になり、彼ら自身の国とむしろ疎遠になった。彼らは正直で、共産主義は世界を再生させるという深い信念を抱いている。彼らは自分たちでは感傷はまったくないと思っているが、現実には共産主義と彼らが創出しつつある体制については感傷的である。自分たちの創出しつつあるものが完全な共産主義ではないという事実、また農民たちは自分自身の土地を欲しているだけで、共産主義は大嫌いであるという事実に、彼らは直面できない。彼らは腐敗や泥酔を官吏の間で発見した時には、容赦なく罰する。しかし彼らは、ささやかな腐敗の誘惑がきわめて強いような体制を作り上げており、彼ら自身の唯物論からして、このような体制のもとでは腐敗が横行することを承認すべきなのであろう。
 官僚制の中の第二の部類は、おおよそ最高の地位のすぐ下の政治的職務を占めている連中で、ボルシェヴィズムの物質的成功のために熱心なボルシェヴィキになった立身出世主義者から成っている。ほとんど帝政時代からひき継がれた警察官、スパイ、秘密機関員などの大軍もその中に算えねばならない。彼らは、誰も法を破らずには生きていけないという事実のおかげで儲けている。ボルシェヴィズムのこの側面を例証するのが、非常委員会である。この機関は事実上、政府から独立しており、赤軍よりもよい食物を当てがわれているそれ自身の軍隊を所有している。この機関は、投機や反革命活動の容疑で誰でも裁判なしで投獄できる権限を持っている。これまでまともな裁判なしで何千人も銃殺してきた。今では名目上は死刑を課する権限は失ったが、実際に完全にその権限を失ったのかどうかは、決して確かでない。それはいたるところにスパイを放っており、普通の人間はそれを恐れながら暮している。
 官僚制の第三の部類は、熱心な共産主義者ではないが、政府が安定していることが証明されたために政府を支持して結集してきた人々である。彼らが政府のために働くのは、一つには愛国心のためか、そうでなければ、伝統的諸制度の邪魔を受けずに自分の理想を自由に発展させていく機会を楽しんでいるからかである。この部類には、実業家として成功しそうなタイプの人々、アメリカで独立独歩、トラストの大立物になった人々に見られるのと同じ才能を有しているが、金銭のためではなく成功と権力のために働く人々がいる。疑いもなくボルシェヴィキは、この種の才能を持った人々を公務に登用しながらも、資本主義社会でのように彼らが財を蓄えるのは許さないという問題を解決するのに成功している。おそらくこれは、戦争の分野を別とすれば、これまでのところ彼らが収めた最大の成功であろう。このことから、次のように推測することができよう。ロシアが平和を維持することを許されたなら、驚異的な工業発展が起ってロシアをアメリカのライバルにするという推測である。ボルシェヴィキは、彼らのすべての目標で産業主義者である。彼らは、資本家に過大の報酬を与えることを別とすれば近代工業のあらゆるものを愛している。彼らは労働者に厳しい規律を課しているが、それは、これまで欠けていた勤勉と正直の習慣を何としても自国の労働者に与えることを企図したものである。それが欠けていたばかりに、ロシアは最先進工業諸国の一つになれなかったのだと、いうのである。》

 ボリシェヴィキは「すべての権力をソヴィエトへ!」というスローガンを掲げて権力を奪取し、翌18年には憲法を制定。国名を「ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国」と名乗る。ラッセルのロシア訪問の2年前のことである。22年には国名からロシアが外され「ソヴィエト社会主義共和国連邦」となり、24年に1回目の憲法改訂がおこなれる。以降、36年と77年に改訂されるが、国名から「ソヴィエト」が外されることはない。建前のうえでは、あくまでもロシア語でソヴィエトと呼ばれる自発的な評議会が立国の基礎とされている。が、実態はといえば、ラッセルの報告が記しているとおりであり、その後もより形骸化される一方で2度にわたる革命で示したソヴィエトの生き生きした姿はどこにも見られなくなる。


分量が多いので分割して転載します。

私の20世紀


191722

 ロシア革命の経験は、私のながらく抱懐していた思想、自由は民主主義的ではなくして、貴族主義的である、ということの正しさを証明した。自由は蜂起する群衆の関知するところではなく、また必要なものでもないのである。彼らは自由の重荷に耐ええない。このことをドストエフスキーは深く理解していた。西欧におけるファシズム運動もまたこの思想を理解したのである。ファシズム運動は大審問官の徴{しるし}のもとに――パンのための自由の放棄、のもとに立っているのである。ロシア・コミュニズムにおいては、権力への意志が自由への意志よりも強いことが実証された。コミュニズムにおいては、帝国主義的要素が革命的、社会的要素よりも優勢である。       ――A・ベルジャーエフ


1章 ウェーバーのロシア革命論

1.
 その概要

 ロシア革命は2つの革命から成っている。05年の1月および12月の蜂起と17年2月の蜂起および10月(いずれも旧暦)のボリシェヴィキによるクー・デタである。前者を第1次革命、後者を第2次革命と呼ぶが、前者が体制側に押し切られて権力奪取に至らなかったのに対して、後者のクー・デタは帝政を打倒したあとの臨時政府(中身はどうあれ革命政権である)の権力を簒奪し、いらい74年にわたってロシアを支配した。そのことがあずかって、ふつうは17年の10月クー・デタをもってロシア革命ということが一般的である。
  マックス・ウェーバーのロシア革命論としてまとまった残されているものは4つある。そのうちの2つは、いわゆる第1次革命に関するもので、分量的にも大きい。原注も含めると邦訳で140ページと330ページになるもので、ウェーバーならでの本格的なロシア革命論である。あとの2つは、いわゆる第2次革命の2月蜂起にかかわるもので、分量的にもさほど大きくない。内容的には第1次大戦末期のドイツの対外政策、とくに和平政策推進の観点からロシアで起こったこの政変をどう評価するかという視点から述べた時論的色彩の濃いものである。
 第1次革命について論じたもののうち早く書かれたものの標題は「ロシアにおける市民的民主主義の状態について」(邦訳では第一論文と略称している)、あとに書かれたものが「ロシアの外見的立憲制への移行」(第二論文と略称)で、いずれも『マックス・ウェーバー全集』第1部第10巻に収録されている。
 17年2月革命について論じたもののうち1つは「ロシアの外見的民主主義への移行」(第三論文と略称)であり、17年4月に発表されたもの。もう1つは「ロシア革命と講和」(第四論文と略称)で同年5月に発表されたものであり、いずれも『全集』第1部第15巻に収録されている。邦訳は雀部幸隆と肥前榮一を中心とする名大グループによっておこなわれ、第一、第三および第四論文を『ロシア革命論』(97)、第2論文が『ロシア革命論』(98)に名古屋大学出版会によって刊行されている。

2.
 刊行が遅れた理由

 ウェーバーにロシア革命を論じたものがあることはごく少数の研究者には知られており、邦訳もあった。が、いずれも部分訳であることもあって、ウェーバー学者のあいだでも議論の対象に挙がることなくここまできたというのが実情だった。この事情は欧米でも似たようなもので、ウェーバー没後60年を記念して『全集』の刊行が始まり、前述した10巻と15巻の刊行があって議論が始まったようである。
 当初は人類の希望の星とまでいわれた「ロシア革命」が、そのうたい文句とは裏腹にとんでもないものであることが『全体主義の起源』で明かされたこと、加えて91年にソ連崩壊という20世紀最大の事件があったことを考えれば、これは不可解なことだといえる。
 では、なぜ、刊行がここまで遅れてしまったのか。
 つめていうと、その理由は書いた本人がこの論文を時論的な「編年記」呼んで、厳密な学術論文でないゆえんを機会あるごとに強調していたことにある。大先生が自らそういっているんだからということで、弟子たちがそれに引きずられたということに尽きる。大学者によくあることだが、忠実な弟子はいても師と同じ目線をもつ弟子は、そうおいそれとはいないということである。
 結果、死後60年を期して全集を出すということがあって、はじめてこの論文は日の目を見ることになったというのが実情であるらしい。

3.
 動機

 この論文を書いたおりのウェーバーの主要な研究対象は、東エルベ農村労働者問題だった。つまり、ロシア同様、深刻な農業・農民問題を抱えていたドイツの国内に彼の関心はあったといえる。そのウェーバーの関心を、ロシアに引きつけたのは05年のロシア革命だった。ロシアがドイツと同じように深刻な農業問題を抱えていたこともある。ロシアの民主化が進めば、うしろからの脅威がいくぶんかでも緩和されるとする彼に特有の民族意識もあっただろう。しかし、そのこと以上にウェーバーが抱懐していたのは、彼独自の理念だった。
 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でアメリカの可能性を論じたウェーバーは、アメリカに若々しいあるべき民主主義の姿を見ていた。と同時にロシアを、それが遅れた国であるゆえに資本主義の「悪」に汚されていないものを見ていた。この2つの国が世界をリードする時代に期待し、そこに資本主義があるべき未来の姿を見ていたのである。そこに起こった05年の革命は、ウェーバーにしてみれば、なにをさておいても取り組むべき課題だったのである。だが、国内メディアが報じるロシアの情報は、拝外主義的なバイアスがかったものであり、彼の慾求を満たすものではなかった。どうしても事件の経過を自分の目で確かめようとしたウェーバーは、マリアンネ夫人の証言によると数週間でロシア語を修得したという。類い希な能力の持主だったとはいえ、なみの集中力では不可能なことである。ウェーバーの意気込みを感じさせるエピソードである。(以下、稿を改めて書くことにする。その理由について別記を参照のこと。)

【付記】
 以下、稿を改める理由について書くことにした理由について要点を書く。
1)
 ウェーバーのロシア革命論は、分析の中心に80パーセントが農民で占められているロシアの現実に視座を据える。そこにはロシアにおける「非西欧的原理」の典型ともいうべきロシアに固有の原始共産主義的共同体=「オプシチーナ」と呼ばれる体制の問題、伝統的な地主階級の協議機関であるゼムストヴオが築いてきた正と負の遺産の分析、ふつうは農民的小営業と訳されるクスターリと呼ばれる家内制手工業など、ロシアに固有の農村にからむ構造の詳細な分析がある。
 右に挙げた3つの歴史的存在は、いずれも正負の2つの側面をもつ一筋縄ではいかないものである。最小限度、この3つについて、基本的な認識を頭に入れないことにはウェーバーがなにを提起しようとしているのかがわからない。また、レーニンが採用した政策や方針の裏側も読み取ることができない。
2)
 ロシア革命は多くの革命家や思想家を輩出した。が、ウェーバーと同じような視座を据えてロシアを分析しているのはレーニンだけであり、彼のほかに農業・農民問題に真正面から取り組んだものはいない。
 ロシアの将来が農業問題にあるという視座の据え方で両者は同じだが、分析する両者の抱懐する思想のあり方には相容れないものがあり、当然のことながら導き出される方向性にも違いが出てくる。ここから、互いに相手を意識することになり、直接ではないものの両者のあいだには激しい議論が交わされている。この議論は、最終的にはレーニンが主張する独裁を是認するか否かというところに収斂するものであるだけに、両者の主張についてそれなりに得心しないことには軽々に論じられない側面がある。その準備が、今号の私にはもてなかった。
3)
 そうであるなら、中途半端な形で書くことなどはせずに、いっそのことこの章を外してしまうことも考えた。しかし、私が試みようしているのは、ロシアとロシアを震源地として開花した全体主義としてのボリシェビズムの検証にある。そのことを考えると、最大の問題である農業・農民問題から取りかからないことには武器をもたないまま戦に臨むことになる――と私は判断した。それだけウェーバーのロシア革命論は重みをもつものであると私には映ったのである。だから、それだけは避けなければなるまいと考えたことが1つ。もう1つは、前にふれたことだが、まずは全体を素描してグランドデザインを描くための材料を確保し、しかるのちに時間不足のために書こうと試みながら留保してあるものを盛り込むことによって全体をふくらませるという作業に入る。そのことををもってつぎに稿を進める――という当初の方針を貫くためにも、時間が許す範囲内で書けるだけよいから、まずは書いてしまうべきだと判断したのである。

2章 1917年の「革命」

 では、1710月の「革命」とはいかなるものだったのか。このクー・デタの現場に立ち会った生き証人の観察と「革命」の翌年に生まれたロシアの知識人の見解を紹介しよう。

1.
 同時代人の観察

《革命の一年まえにモスクワで秘密の政治集会が開かれた。これらの集会には知識階級の左翼の分子もまた参加した、しかし過激な者は参加していなかった。穏健な社会民主党員と社会主義革命家および左寄りの立憲民主党員、いわゆる「カデット」が出席するのをつねとした。E・クスコヴァとS・プロコポヴィチが中心人物であった。A・ポトレソフはヴェーラ・ザスーリッチと腕を組んでやって来た。彼女は当時すでに高齢に達していた。ボリシェヴィキ派のスクヴォルツェフ・スチェパーノフ、のちの『イズヴェスチヤ』の主筆、も二、三度出席した。私はこれらの集会に積極的に参加し、ときおりは議長席にもついた。さまざまの革命的、野党的傾向を代表しているこれらの人々はすべて、自分たちが統御することも、自分自身の意識にしたがって操縦することもできぬ自然力的、運命的な力に支配されていると思っている、このような印象を私はうけた。いつもそうであるように、私はこの団体との連帯感をまったくもたなかった。実際、私が能動的に振舞ったときでさえ、私はよそ人であり、遠くかけ離れた者であった。二月革命がはじまったとき、私はこれらの団体のどれにも親近を感じなかった*。革命が勃発したとき、私は私自身を無縁、無用の余計者と感じた。私ははなはだしい孤独を感じた。革命的インテリゲンチャの代表者たちが臨時政府のなかで出世欲にとりつかれ、掌をかえして顕栄の官吏になったことが、私の嫌悪を非常にそそった。人間の豹変性は私の生涯のなかでもっとも苦渋にみちた印象の一つである。私はこの現象を敗北後のフランスでもふたたび観察した。「自由を愛する」二月革命のあまたの事柄が私を反撥させた。恐怖に満ちた一九一七年の夏のあいだ、私はとくにいやな思いをした。私は当時の数多くの集会に出席し、その環境のなかで限りなく不幸を感じ、ボリシェヴィキの力の増大を明瞭に感得した。私は二度とそこを訪れなかった。革命が二月の段階で停止しようはずのないことは、私には火をみるよりあきらかであった。革命は無血的で同時に自由愛好的でありえようはずがなかった。奇妙に聞こえるであろうが、一九一七年の夏と秋よりも十月革命いごのソヴェート時代の方が、私には快よかったのである**。すでに当時私は内的な震憶を経験しており、諸事件を独自に解釈することができるようになって、きわめて積極的に働きかけはじめていた。私は多くの講義を行ない、講演会を催おし、執筆にはげみ、論争し、著作家連盟のなかで非常に積極的に活動し、「精神文化のための自由アカデミー」を設立した。前線でロシア軍の大規模な逃亡がはじまったとき、私は大きな衝撃をうけた。おそらくこの場合には、私が古い軍人家族に属し、私の先祖たちがゲオルギ勲章凧用の騎兵であったことと結びついている伝統的感情が、私の内部に燃えあがったのであろう。しばらくのあいだ私は名状し難い苦悩におちこんだ。私は旧軍隊の将軍たちとの連帯性を宜明する用意があった、しかし実際には、そのようなものは私には縁もゆかりもなかったのである。そののち私の内部に一つの決定的な深化過程がおこった。私は諸種の事件をより多く精神的地平において体感した。そして私は、ボリシェヴィズムの経験を通過することがロシアにとって絶対的に不可避であることを、認識した。これはロシア民族の内的運命の瞬間であり、その実存的弁証法である。ボリシェヴィキ革命いぜんにあったものへの逆行はありえない。旧秩序再建のすべての試みは無力、有害である、たとえそれが二月革命の諸原理の復元であったとしても! もし可能なものがあるとすれば、それはヘーゲル的意味における「止揚」だけであろう。しかし意識のこの深化は私にとっては決してボリシェヴィキの暴力との和解を意味しなかった。一九一七年の十月には私はまだはげしい感情の嵐につつまれていて、十分に精神的ではなかった。なんらかの理由で私は短期間ソヴェート共和国の構成員、いわゆる「予備議会」に所属させられたが、これは私にはまったく似つかわしくなく、きわめて愚かしいことであった。私はそこであらゆる色合いの革命的ロシアに通暁した。そこには多くの昔の知人がいた。そこでいぜんの被迫害者、かつては非合法的に、或るいは亡命者として生活し、そしていまは――権力のあたらしい坐についている! そういう人々に再会することが、私を苦しめた。私はどんな国家権力にたいしてもつねに嫌感を感じた。私は、非常に戦闘的な気分になっていたので、数人のいぜんの知人にはもはや挨拶もしなかった。のちになって私はこれらすべてのことに超然たる態度をとることを学んだ***

*
 二月革命の日々N・A(ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ベルジャーエフ)の革命活動はつねに非凡な、英雄的な行動としてのみ示された。私はいまもあの日のことをありありとおぼえている。ぺテルブルグから革命勃発の報知がとどいた。モスクワの通りを人々の群れが行進し、口から口へありそうもない噂が伝わった。市の雰囲気は灼熟していた。いまにも爆発がおこりそうな気配であった。N・A、私の姉妹、それに私は、馬場をめざして押し寄せていた革命大衆に加わろうと決心した。私たちがちかくまで行ったとき、馬場はすでに大群衆によってとりまかれていた。馬場に隣接した広場では隊列を組んだ軍隊がまさに火ぶたをきらんとして行進していた。威嚇的な群衆はしだいしだいにちかづき、びっしりと広場をとりかこんだ。恐ろしい瞬間であった! いまにも一斉射撃の音が炸裂するかと思われた。私はその瞬間にふりかえって、N・Aになにごとかをいおうとした。彼はそこにはいなかった。彼の姿は消え失せていた。私たちがあとで聞いたところによると、彼は群衆をかきわけて軍隊のところまで達し、そこで一場の演説を試み、射たないように、血を流さないようにと、兵士たちに勧告した……軍隊は射撃しなかった。彼がその場でただちに指揮官によって射殺されなかったのが、こんにちでも私にはまるで奇蹟のように思われる。(エフゲニア・ラップ)
**
 十月の日々、つまりボリシェヴィキ革命がおこるまでの会期間中、N・Aはいいようもなく暗鬱な気分におちこんでいた。私たちの多くの友人が感激に満ちて「ロシアの無血革命」という言葉を使ったり、ケレンスキーの美辞麗句を褒めそやしたり、自由と正義の政体の開始を期待したりしたとき、彼が洩らした皮肉な微笑を私は忘れることができない。彼は無血革命が血まみれに終らねばならぬことを知っていたのである。彼は口数がきわめてすくなくなり、悲しげであった。ただときおり、有頂天になって革命を信じている話相手に答えるとき、怒りをこめて、のみならず憤怒を爆発させて、邪悪な革命的要素を糾弾することができた。すると話相手は身をひいた、N・Aを反動者とみなしたからである。

 或るとき私は家にひとりでいた。呼鈴がなった。客間の敷居ぎわにA・ベールイが立っていた。挨拶も交わさずに、彼は興奮して訊ねた、「私がいまどこにいたかご存知ですかで」答も待たずに彼は言葉をつづけた、「私はみましたよ、彼を、ケレンスキーを……演説をしていたのです……なん千人という聴衆……彼は 演説を……」そしてベールイは恍惚となったように両腕を天にさし上げた。「私はみましたよ」、彼はつづけた、「一条の光が空から彼のうえに降り注ぐのを。私は(あたらしい人間)の誕生をみました……――――人間――です。」

 そのあいだにN・Aは客間に気づかれずに来ていて、ベールイの最後の言葉を聞くと同時に、はじけるよ うな哄笑を爆発させた。ベールイは彼に燃えるような眼差しを役げつけ、いとまも告げずに部屋から走り去った。それからながいあいだ、彼は私たちのところに姿をみせなかった。 E・R
***
 十月の日々、ボリシェヴィキによるモスクワ包囲の際、私たちの家は射程圏内にあった。弾丸が家の窓下で炸裂した。N・Aは平静に彼の書斎にこもって、或る論文を書いていた。炸裂するたびに女中(当時はまだ使用人を雇うことは禁じられていなかった)が金切声をあげたので、物凄い悲鳴が家中を満たした。N・Aは書斎からでできて、しずかに訊ねた、「どうしたというんだね?――べつに変ったことはないのに……」或る晩私たちは彼の書斎に集まった。私たちの上の部屋に同居していた一人の大佐もそこに居合わせた。とつぜん――猛烈な爆裂音。家全体が震動した。それは獰猛な巨人が家を土台から揺さぶったような感じであった。「迫撃砲が命中したんだ」、大佐が叫んだ、「はやく地下室へ!」私たちは階段を駈け下りた。N・Aはしかし一緒ではなかった。彼はまず愛犬をさがし、それを腕にかかえでから地下室へおりて来た。天井がいまにも頭上におちかかってくるのではないかと片唾をのみながら、私たちはそこに数分間とどまっていた。物音一つ聞こえず、あたりはしんかんと静まりかえっていた。翌日大佐づきの女中がN・Aの書斎の上の部屋に不発の留弾をみつけた。E・R》(『わが生涯』A・ベルジャーエフ)
〔E・Rはエフゲニア.ラップのイニシャル。姉のとともにベルジャーエフと生活を共にした同伴者で、『わが生涯』はベルジャーエフの死後に彼女が編集して上梓されたもの。多くを語ることをしなかったベルジャーエフに代わって、このような補注がいくつかのところでおこなわれている。〕

2.
 革命後世代の見解

《独裁を打ち立てるときに、新型の牢獄の設置を遅らせるどんな理由があったと言うのか。いや、言いかえると、新旧のいずれにせよ、牢獄の設置は絶対に遅らせてはならなかったのである。すでに十月革命後まだ数カ月も経ないうちにレーニンは、「規律を上げるために、最もきびしい、苛酷な措置を取るよう」要求した。ところで、苛酷な措置というものは、いったい、牢獄抜きでできるものだろうか。この件に関してプロレタリア国家はどのような新しい措置を導入することができるのか。イリイッチは新しい道を手さぐりで捜した。一九一七年十二月、彼は試みに次のような一連の罰則を提唱した。「全財産の没収……本法の違反者すべてを投獄し、前線に送り、強制労働に付すこと」この事実からわれわれは《群島》の指導原理、すなわち、強制労働が十月革命後のすでに最初の月に提唱されていたことを確認することができるのである。
 山蜂のぶんぶんと飛びかう香り豊かなラズリフ(ペテルブルク西北三四キロにある別荘地)の草原にのんびり暮しながら、イリイッチは早くも未来の懲罰制度のことを考えなかったわけはないのだ。すでにそのとき彼はぬかりなく計算して、われわれを次のようになだめているのだ。「多数者である昨日までの賃金奴隷が少数者である搾取者を抑圧することは、比較的容易で、簡単で、かつ自然なことであるので」以前の少数者による多数者に対する抑圧と比較すると、「流血もより少なくてすみ……人類にとってより少ない犠牲ですむはずである」と。亡命した統計学者クルガーノフ教授の計算によると、この「比較的簡単な」国内における抑圧は十月革命から一九五九年までにいたる間に……なんと六千六百万人の犠牲者を必要としたのである。もちろん、われわれはこの数字の正しさを保証できないけれども、他の公式数字を持ちあわせていない。》(『収容所列島』木村浩訳)



著者のコメント


「問われているものは何か」

 『新日本文学』に載せる予定で準備した草稿である。主体となる側に深い内省がないことには、議論は発展しない。こんなことはわかりきったことなのに、詰めて考えることをしない精神風土がこの国にはある。中途半端な妥協やあきらめが大手を振って罷り通るの状態は少しも変わっていない。それはほとんど宿痾といっても過言でない。竹内は、そのような風潮に対して果敢に挑戦した知識人のひとりである。竹内の問題提起を引いて論じようと考えたのは、それが最盛時の新日文に向けて行われたものだったからである。文中、新日文の会員のなまえが出てくるが、その中の何人かは有力会員として現存していた。野間宏、菊池章一などがそれである。書いている最中は、それらの会員が呼応してくれることに対して期待がなかったわけではない。だが、私はこのノートを掲載することを止めた。限られた誌面を争う会員の様に愛想が尽きたことが最大の理由であるが、これらの人たちが私の提起に対して反応してくれるという期待がもてなくなったからでもあった。この時期になると、私はこの会に何かを期待できるとは思えなくなっていた。そのような状況下で活字にすることに、意義がもてなくなっていたのである。
       04.06

 問われているものは何か
 ――継承すべき課題


  1 竹内好の問総提起


 いきなり国民文学論争が飛び出したのでは、面食らうのが当然である。なぜ、いま、国民文学論争かということも含めて、まずはわたしの問題意織から述べる。
 多くの人に読まれるものがいいとは限らない。一部の読者しか持たないものの中にもいいものは、ある。だが、それが作者と読者の間に暗黙裡に成立していた「馴れ合い」を含むものであるなら、あらかじめ多数の読者を獲得できないものであるに過ぎないといっても過言ではないだろう。逆の言い方をすれば、多くの読者を獲得しているものには、それだけの必然性があるという言い方もできる。
 かつてこの国の文学に一つの橋頭堡を築いていた新日本文学会が、いわゆる「文壇」から歯牙にもかけられないほどマイナーな存在になり下がってしまった原因の一つとして、創作方法における閉鎖性とある種の自己満足を、わたしは感じていた。『通信版』での提起は、こうした不満から、その原因を共同の討論で明らかにしたいという問題意識にもとづいて行ったものだった。
 なぜ多くの読者を獲得できないのか、多くの読者を獲得するためには何が必要なのか、という問題意識からいろいろと漁る中で突き当たったのが、竹内好であり、なかでも彼が五十年代に提起した「国民文学」に関する問題提起だった。
 竹内によれば、国民文学という形を取って問題が提唱された時期は、次の三回あったという。
  近代文学の初期(成立期)――二葉亭から透谷をへて啄木に至るもの
  第二次大戦中の「日本ロマン派」の主張を中心にするもの
  一九五〇年代初期に竹内などが提唱したもの
 の時期は、明治維新により欧米列強に比べて一世紀以上遅れて近代国家としての体裁を整えたこの国が、帝国主義のコースを取るか共和主義のコースを取るかをめぐって行われた綱引きの結果、体制側の勝利に終わり、帝国主義的近代化とは別のコースを目指した運動が挫折したことを契機にしていた。
 の時期は、中国古代の王政を範とする復古革命の挫折を契機にしている。ただし、ここにはもう一つの挫折もある。それは、帝国主義的角逐の過程で、その最弱の環であるロシア帝国が革命によって崩壊したことを受けて澎湃として起こった世界革命の波がある。そして、この波がスターリン主義の手で纂奪され、その影響をまともにかぶった左翼運動党の敗北がある。ここには二重の挫折があったともいえる。
 の時期は、米軍占領下の反植民地的状態からの脱出を目指した革命の挫折を契機にしている。
 竹内は、この三回の契機がいずれも革命の敗北を契機にしていることについて触れ、次のようにいう。

――
国民文学は、いつも革命の挫折の後に唱えられているように見えるが、それは法則として認めていいものであるかどうか。(「文学の自立性など」)

 国民文学論争は、右に述べたような省察を前提として、竹内が口火を切ることによって開始され、この国の知識人の総体を巻き込む論争に発展した。しかし、後でも触れるが、分裂していた日本共産党の珍妙な妥協が55年に成立することを機に、巨視的に見れば、55年体制と呼ばれる流れの中に放り込まれ、そこで行われた議論は、今日では完全に忘れ去られ、議論の端の上ることもない。
 竹内が疑問として提起したように「革命の挫折の後に唱えられる」ものとして「国民文学」があるとするならば、80年代を迎えた現在を「革命の挫折後」といえるかどうかが問われなければならないだろう。しかし、80年代以降、なかでも70年代から80年代にかけての総括を果たすことの困難さが、いままでそれを阻んできた。極端な言い方をするならば、この国の知識階級は、自らが歩む先をつかめないままに右往左往しているというのが実情である。このような状況に、高学歴社会と呼ばれる高度大衆社会が混迷状態にさらなる追い打ちをかけている。

 80年代に前後して登場した左翼反対派は、しばらくして「新左翼」と呼ばれるまでに社会的に定着し、一時期は権力と対決する構図を持った。しかし、それが今や見る影もないほどに社会的な影響力を失っている。日本共産党が革命を担う勢力ではないことが明らかであることを考えるとき、「新左翼」が「サヨク」といわれ、運動の実態を伴わない過去のものとしてしか扱われない現状は、「革命の挫折後」以外の何ものでもないと筆者は考える。
 80年代への突入を前にして、事を起こした当人たちも含めて誰もが予想しなかった形で一連の東欧革命が起こった。起きてみてあらためて知らされたことだが、歴史というものはつねに非情であり、また、結果的にはきわめて合理的である。いままで見えなかったものが見えるようになってきたという意味で、89年という年はそれまでの何十年かを凝縮した年だったのである。
 本論に戻していえば、80年代以降、今日に至る時期は、スターリン主義からの決別を目指し、かつ、それを自認していた左翼運動自身が、打倒すべき対象にしていたスターリン主義から依然として決別してはいないことが明らかになった時期でもある。スーリン主義からの決別という場合、何をもってその指標とするかについては議論が分かれるところなので、ここでは誰もが共有できることとして国際主義に問題を絞ってみる。
 国際主義を計る指標は、いうまでもなく「被抑圧民族との連帯」にある。ここでの最大の難問は、帝国主義本国の肥大化が、抑圧民族の内部で階級対立を希薄にするものとして進行することにある。本来的にあるはずの階級対立が見えにくくなる結果、本来なら抑圧されている側に意織の転倒が生まれる。結論を急いでいえば、この間のこの国の左翼運動は、以前的に抱えていた抑圧民族の問題にわずかに手を伸ばしたに留まり、新たに急増した「経済移民」といわれる人たちにまで手を伸ばすところに至っていない。そういうなかで、「経済移民」の数は年を追って増えているのである。スターリン主義にもっとも欠けていた国際主義を実現するという意味での敗北は、明らかである。
 このように考えるとき、90年代に突入した現在、国民文学論争で提起された課題を検証することの意味は小さいとはいえず、あながち的外れであるまいと思うのである。

2 竹内が国民文学を提唱した前提

 竹内が国民文学の必要性を初めて提起した52年は、前年に単独講和が締結され、世界が冷戦体制に突入した時期で、この年にはメーデー事件(5月)、破防法公布(7月)、警察予備隊の保安隊への改編(10月)と反動化攻勢が相次ぎ、「逆コース」という言葉が流行した年でもあった。
 平和条約が締結され、形の上では独立国になったとはいえ、アメリカ占領軍は事実上日本を占領している状態にあり、民族の自立(自決)が当面する緊急の課題として知識人の問題意織に上っている時期でもあった。ちなみに、日本共産党は占領軍を解放軍とするそれまでの規定から、日本をアメリカの半植民地と規定する綱領に変更し、この時期に発表している。この綱領をめぐって、書記局を握っていた主流派(所感派)とこれに反対する国際派との間に主導権争いが起き、新日文はその争いの影響をもろに受けた。竹内の危機意識は、こうした反体制勢力の分裂・不統一を背景にしたものだったことを、ここでは押さえておきたい。

 竹内が国民文学を提唱した前提には、次のような認織があった。

1)
 前記の時期の敗北に関する透徹した反省
 一九一七年のロシア革命が及ぼした影響は、昨年の東欧革命の比ではなかった。世界中のありとあらゆる階級と階層に属する人間が、その衝撃に巻き込まれたわけだが、もっとも影響を受けたのは知識人だった。そのことはこの国においても例外でなく、トルストイの小市民的な観念論に共鳴する中から出発した白樺派の人道主義が、プロレタリア文学に大きく傾斜せざるをえなかったのは、時代背景を考えるならば当然のことだったといえる。
 竹内は、新日文が戦前のプロレタリア文学を出発点にしていること、そして、そのプロレタリア文学が白樺派に基礎を置いていることを指摘したうえで、この両者の関係が未分化のままなし崩し的に移行したことに触れて、次のようにいう。

――
「白樺」の延長から出てきた日本のプロレタリア文学は、階級という新しい要素を輸入することに成功したが、抑圧された民族を救い出すことは念頭になかった。むしろ、民族を抑圧するために階級を利用し、階級を万能化した。抽象的自由人から出発し、それに階級闘争をあてはめれば、当然そうならざるをえない。この民族切り捨ての爪立ちの姿勢にそもそもの無理があったのだ。……そのため、ひとたび何かの力作用によって支えが崩れれば、自分の足で立つことができない。無理な姿勢は逆の方向に崩れる。極端な民族主義者が転向者の間から出たのは不思議ではない。

 十五年戦争下の転向が、語の本来の意味の転向という形を取らずに、この国独自の形態を取らざるを得なかったことの背後に、竹内は右のような発生の由来を見たえうで、敗北(失敗)の経験を無にしてはならないことを次のように説く。

――
国民文学というコトバがひとたび汚されたとしても、今日、私たちは国民文学への念願を捨てるわけにはいかない。それは階級文学や植民地文学(裏がえせば世界文学)では代置できない、かけがえのない大切なものである。それの実現を目ざさなくて、何のなすべくものがあるだろう。しかし、国民文学は、階級とともに民族をふくんだ全人間性の完全な実現なしには達成されない。民族の伝統に根ざさない革命というものはありえない。全体を救うことが問題なので、都合の悪い部分だけを切り捨てて事をすますわけにはいかない。かつての失敗の体験は貴重だ。
――
「処女性」を失った日本が、それを失わないアジアのナショナリズムに結びつく道は、おそらく非常に打開が困難だろう。ほとんど不可能に近いくらい困難だろう。しかし、絶望に直面した先に、かえって心の平静が得られる。……特効薬はない。一歩一歩、手さぐりで歩き続けるより仕方ない。中国の近代文学の建設者たちを見たって……他力に頼らず、手で土を掘るようにして一歩一歩進んでいるのである。かれらの達成した結果だけを借りてくるような虫のいいたくらみは許されない。たといそれで道が開けなかったところで、そのときは民族とともに滅びるだけであって、奴隷(あるいは奴隷の支配者)となって生きながらえるよりは、はるかにいいことである。(いずれも「近代主義と民族の問題」)

 ここにおける竹内の認識は、戦争に敗けた日本人の戦争総括は、敗けざるを得ない戦争を許した文化の敗北として追究されなければならない、という認識を前提にしている点で、大岡昇平の「文化によって勝つ」という認識と呼応している。

2)
 社会革命の挫折に係わる問題提起
 社会革命の挫折は、基本的に近代的市民社会の未成立=自我の未成熟に起因する。ロシアと中国で日の目を見た社会革命が今日もがき苦しんでいることは、そのことを裏付けている。近代的市民社会も未成熟なままに、しかも曲がりなりの社会革命も実現せずに、帝国主義のしっぽに連なろうとした結果、この国ではいろいろの形の歪んだ国民意識を生みだすことになったわけだが、文学という領域に絞っていえば、純文学(竹内によれば文壇文学)と大衆文学との乖離という形を取ったことはその現れの一つだった。その原因として、竹内は、近代文学が文壇=中世的ギルドを軸に存在し続けたこと、新日文もその例外ではなかったという。

――
民主主義文学を称するグループの戦後の動きは、一貫して、文壇という基本構造の破壊、それによる文学の国民的解放を目ざすのではなくて、文壇におけるヘゲモニーの争奪、あるいは別の文壇勢力を作るという方向に限られていた。それが今日のような文学理論の貧困をもたらしたのである。
――
一部は戦後文学と重なりながら、しかしそれとは別に戦後の文学の流れを代表する「新日本文学会」という集団があって「民主主義文学」をとなえている。これは綱領をもち、全国組織をもつ唯一の文学結社である。敗戦直後に組織され……ある程度その組織化に成功したが、間もなく伸びなやみが出てきた。……これには「新日本文学会」自体にも弱点があった。日本共産党の動揺につれて動揺し、内部分裂をおこしたりしたからである。日共は、戦後の再組織にあたって平和革命をとなえ、コミンフォルムの批判にあってそれを撤回したが、その後の理論的確立をまだ行えないでいる。この動揺が「新日本文学会」にも反映したのである。文学者の組織と政党との関係、および過去のプロレタリア文学と今日の民主主義文学との継承関係の理論的探究がいまだ十分になされていない。それがこの会の弱点である。
――
日本の文壇とよばれるものは、特殊なギルド的社会であって、一定の資格を公認されなければ参加できず、参加することによって身分的特権を取得する方式になっていた。そしてこれが日本独特の私小説の発生地盤でもあった。……文壇は今でも残っているが、その形は昔とすっかり変った。資格の公認も、文壇内部の身分的序列も、いまでは文壇の権威が決めるのではなくて、ジャーナリズムの商業主義が決めるのである。……ギルドの解体は、徒弟志願者がいなくなったことで証明される。むかしは文学青年という形でそれがあった。むろん、いまでも文学青年はいるし、むしろふえているが、これは徒弟志願者ではない。……金銭欲あるいは名声欲に駆られて作家を志願するのである。……文壇に代わる正常な作家養成のコースが生れるまでは、この変態現象はつづくだろう。

 最後に引用した箇所が、次のような指摘で結ばれていることに注目して欲しい。

「新日本文学会」が伸びなやむのは、それ自身が新しい文壇形成をめざしていて、コマーシャリズムに対抗する有力な組織原理を発見することができないでいるからではないかと思う。まず文壇の解体を承認し、独自の作家養成コースを作るべきである。今日の権力支配の下で、それは不可能に近いくらい困難であろうが、それなしに新しい文学は生れてこないであろう。(「文学における独立とはなにか」)

 事は、わが新日文に係わることである。竹内が「次のような分析などは割りに公平な見方である」という道家忠道の指摘を見ることは、無駄ではあるまい。
 道家は、日本の文壇文学の主流である私小説は、同じ後進国であるドイツにも似たようなものがあるが、内容的にはまったく違っており、その違いはいわゆる「文壇」というものの存在にあるという。

――
日本の「文壇」という独自なものを見逃しては、私小説は理解できないのではないか。私小説のようなあのような一般的に興味のない対象を扱うものが栄えるのは、一つにはそれがいわば楽屋話的な意味をもつからである。お互いに知りあい飲みあうごくせまいサークル、ほとんど小説家同志と評論家と雑誌記者そしてそれらの志顔者とからなるようなグループの間だからこそ、日常茶飯事的な些末な「私事」も興味がある。そこには「典型化」によって広い大衆にうったえるという要求も地盤もないのである。また描かれている主人公が、描く主体自身から完全にへその緒を切られていないという独特の形態も、読者層と作者層とがほぼ一致するというような社会構造に根本の理由があると思う。しかもそこには一種の特権的な意識、開放感、そして「近代人としての過大な意識」がある。この「文壇」に入場を許されるのは一つの「出世」であったという事実を見逃してはいけない。これは本質的に、一人の師匠を中心にした短歌や俳句や長唄の流派とちがわぬギルド的な社会である。或は生産者が同時に消費者であるようなお針の師匠的な、家内工業的なものですらある。こういうものが、一面で高度資本主義を成立させるような社会の中で「近代化」されて、或る機能を果しているところに問題がある。私小説の基盤としてこのようなものがあり、それが現在の「進歩的」な文学運動にも全く無くなってしまわない点を注意せねばならない。もちろんこのような狭い文壇文学の中でもある高さや進歩はあるが、それは専ら形式的洗練とか、主観的「心境」の練磨とかいう風に、俳句や短歌などと同じ方向に進んだものである。この枠をこえて、より大きな視野へと努力する思想的な文学や社会的関心の強い文学は「素人」の文学として「純文学」からはねとばされてしまった。一方別の層では粗野な類型化をもった「分りやすい」大衆文学が、軽蔑されつつも雑草のように強くはびこる。(道家忠道「最近の日本文学研究について」)

3)
 文学における独立(自律)に関する問題提起
 以上、筆者なりの整理を挟みながら竹内の見解を紹介してきた。ここでは、本題に入る前提として竹内が提唱する国民文学の内容に触れてみたい。
 竹内によると、かれの「国民文学」という概念は、日本民族が民族として十分に自立してはいない(近代的な意味での民族自律が果たせないでいる)という認識が出発点にあるように思われる。このことは世界一の経済力を誇るところまで登りつめたこの国の現状と照らし合わせて考えるとき、優れて現在的な課題であるといえよう。数こそ大陸のようには多くはないが、明らかにこの国は内部に少数民族を抱えている。加えて、「経済難民」と呼ばれる他民族の大量移入は、年を追うごとに加速しており、いまやかつてこの国の歴史が経験したことのない規模で多民族国家にならざるを得ないという現実に突き当たっている。
 歴史的に存在する少教民族を含めて、他民族との平和的な共存が併立する国家的基盤が形成されて、はじめて21世紀的な「日本民族」というものが民族として自立しうるのではなかろうか、というのが筆者の考えだが、以下では、こうした前提に立って文学の独立(自立)という課題に対して、竹内がどう考えていたかについて検討してみる。
 竹内が「文学の独立」というとき、今日見られるような事態はかれの想像の外にあった。しかし、西欧的合理主義をすべての規範とする近代主義を否定し、アジアから学ぶことに真摯だった竹内は、この国に存在する少数民族を含めた「平和的共存」が可能な国民的意識の形成を指して「民族の自立」という用語を意識して使っていることは、これまでの紹介だけでも明らかだと思う。かれが「国民文学」というとき、そのような意味での国民に受容される文学を問題にしていた、とわたしは考えるのである。

――
文学における独立とは何か、という問題になるわけだが、それをあきらかにするためには、文学における植民地性、という反対概念を考えたらいい。日本の文学が植民地的であることを、私は認める。しかしそれは、占領によって急に植民地化したわけではなく、すでに早く、植民地化への抵抗を放棄したことによってはじまっているのである。だいたいの時期でいうと、「白樺」以降がそうであり、新感覚派以降、それが顕著になり、戦争中に十全の奴隷性を発揮したことによって、戦後に完全に植民地になったと考える。……私は個々の事象についていうのではない。作家なり批評家なりが、もし私小説的方法によらなければ、方法どころかイメージまで外国に借りなければならぬ一般状況をさしていうのである。つまり、創造性を失っているのである。文学における独立とは、この創造性の回復を戦いとることでなければならない。(「文学における独立とはなにか」)

 ここで竹内が「植民地化への抵抗」というとき、それは自国が植民地化されることに対する抵抗だけでなく、他国を自国が植民地化することに対する抵抗を意味している。反植民地化闘争の放棄が、自国をも植民地化するという竹内のこの指摘は、見事に三十年以上を経た今日を射抜いている。世界一の金持ち国とはいうものの、戦後日本が作り得た文化といえば、ソニーのオーディオ機器やトヨタの自動車に代表される商品群とインスタントラーメン以外には、何もないのである。方法どころかイメージまで外国、とくにアメリカから借りなければ商品としての文学も成り立たない現実は、最近の村上春樹の小説世界が雄弁に物語っている。
 経済面では一定の独自性(しかし非常に歪んだものでしかないが)を発揮しているように見えるこの国も、こと文化という意味では際限なくアメリカ文化に侵されている。巷に溢れるカタカナの氾濫はものの見事にそのことを象徴しているが、これに対して国民は、無抵抗・無防備のままにこの〈植民地化〉を受容させられている。これではマズイとは思いつつも、どこからも反撃の声は上がってこないし、成す術もなく手をこまぬいているのが実情である。気づいてみたらこうなっていた、という状況の真っただ中にいることを、わたしたちは深刻なものとして考えてみる必要があるのではなかろうか。
 明治維新が革命であったか否かについては、かねてから多くの議論があるが、植民地化の拒否ということを文化の自立という次元まで貫いたという意味では世界史に誇りうる事業だったとする説を、六月号の『月刊Asahi』で司馬遼太郎が説いている。
 司馬は、われわれの先人が幕末から明治のかけて短い時間に何万という造語を試み、そのようにして造り上げた日本語を成熟させるために維新後三十年の歳月を必要としたことを指摘する。その血の滲み出るような努力を単なる「猿真似」と呼んで片付けてよいものだろうか、というのが司馬の問題意識だが、大和言葉しかもたなかった古代にも、われわれの先人は当時もっとも進んだ文明を象徴する漢字を移入することによって、独自の文化を形成する基盤を作った経緯がある。近代西洋が作り上げた方法と概念を移入するに当たって、かつて先人が移入した漢字と漢字によって形成される概念を拡張させて「明治日本語」は創出されたのである。独自の文明を築くことを成し得ていないという意味では、猿真似に猿真似を重ねたといえなくもない。が、そのような試みを成し得なかった漢字圏の中国と朝鮮に、かつての借りを返すほどの意味を持つ重要な試みだったことに疑う余地はない。
 カタカナ語の氾濫に象徴される昨今の欧米文化の垂れ流しは、現代の知識人が幕末や明治の知識人はおろか、古代人ほどの気概さえ喪失していることの証左でなくて何であろうか。

4 権力と芸術および芸術家の関係について

 知識人の気概の喪失という問題は、芸術家である文学者の気概の喪失として、自分に引き寄せて考えることをわれわれに迫る。そこで、ここでは竹内の芸術(家)観に触れてみる。
 竹内の芸術(家)観はきわめてラジカルである。竹内は、芸術家はつねに革新的であらねばならず、「革新という全的な否定行為に出る」ために芸術家は「失うものを何ももたぬもの=本質においては革命家」でなけらばならないという。次に紹介する叙述はその典型である。ここでかれの念頭にある「芸術家像」が、かれが尊敬してやまない魯迅であることは疑う余地がない。

――
芸術家は、自己をふくめての一切がかれに〔とって〕不満であるときに、芸術家となる。芸術家は全体に関するもので、部分に関するものではない。観念的なコトバなり、何かよりかかるものがあれば、芸術家になれない。〔なぜなら〕かれは失うべきものをもっているから。(「文学革命とエネルギイ」)

 そういう芸術家が現れない理由を竹内は、「なぜ日本の文学には革新がないか。これは、イデオロギイ的にはいろいろ説明がつくだろうが、私は、伝統が弱いからだと思う。しかし、伝統が弱いということは、一方からいえば、伝統が意織されぬくらい深くしみついているという、伝統の構造的な強さを意味している」からであるいう。ここで竹内がいう「伝統の構造的な強さ」とは、ほかならぬ天皇制の存在であることは言を待たない。
 ここまでなら誰でもいうことであり、あえて紹介する必要がないことだが、竹内の特徴は権力と芸術の関係を次のように捉えていることであり、われわれが、今、考えなければならないポイントでもある。

――
権力との関係での芸術の不安の種は、ほぼ三つある。一つは大衆社会状況の成立である。もう一つはファシズムであり、最後の一つはコミュニズムである。この三者は、相互に関連して、補いあう部分と反発する部分とをもっているが、古典近代のイメージを内部から破壊するはたらきの点では一致しており、あらわれた時期もほとんど同時である。芸術の自由の主題は、今日では、この三者に対する態度決定にほとんどしぼられており、古典近代のイメージをそこでどう調和させるかが、それぞれの芸術のジャンル、流派、風潮、および芸術家の個性の選択事項になっている。(「権力と芸術」)

 筆者は、この論文の発表が一九五八年の四月であることに注目する。58年といえば共産主義者同盟が発足した年であるが、第一次羽田闘争は翌年のことであり、論文の執筆時点では、共産党が「唯一の前術党」としての神話を誇っていた時期である。この時期に、反共主義者ならいざ知らず、竹内のような人物がコミニュズムをファッシズムや大衆社会状況と並ぶ、芸術との関係では「対立関係にあるもの」として捉えていたことは、驚異に値する。
 「竹内好全集」第九巻に添えられた「月報11」で、さねとうけいしゅうは次のようなエピソードを紹介している。

――
一九五八年、中国は日本の文化人を大勢招待した。安倍能成が団長になり……中国研究家には倉石武四郎・竹内好があった。竹内だけは招待に応じなかった。なぜだろう? 招かれていったのでは、自由な発言ができないからではなかろうか? 安保反対運動のある集まりのとき、わたしはかれに、そういって、きいてみたことがある。かれは肯定もせず、否定もしなかった。

 さねとうの問いに対して、沈黙をもって応えざるを得なかった竹内の心境は複雑だったはずである。国交回復する以前の中国は、ごく限られた者だけが訪問を許されるという時代であり、スターリンの鎖国政策が「鉄のカーテン」と呼ばれていたのをもじって、中国の鎖国政策は「竹のカーテン」と呼ばれた時代のことである。中国に関しては誰よりも愛着を持っていただろう竹内にとって、招待されながらそれを断るということは、迷いに迷った末の決断だっただろうし、並外れた勇気が要ることでもあったに違いない。
 筆者は、このエピソードに、魯迅から最良の近代知識人の在り方を学び取った竹内を、見る。
 周知のように、魯迅は、中国の近代化を計るためには、西欧の中世以前の状態にある中国にあっては魂の革命が必要であると考え、文学を通じてそれを実現しようとした人物である。積年にわたる特殊中国的な迷蒙は深く、絶望的であったことから、そこから脱却する道を西欧の近代化に求めた魯迅は、ある意味では近代主義者としての側面を色濃くもっている。漢字を愚民政策を象徴するものとしてとらえ、表音文字に代えることなしに中国の民衆は解放されないとする魯迅は、漢字と漢字が生みだした文化そのものを否定しかねない主張を展開したことなどが、それである。しかし、魯迅は、単純な近代主義者ではなかった。優れた国際主義者がそうであるように、かれは優れた民族主義者でもあった。若い文学志望者に向けて、古典などは続むなという一方で、自らは、古典の中から生きた民衆のたくましさを、渾身の力を振り絞って掬い上げようとした人だった。魯迅が「阿Q正伝」一作で国民作家としての地歩を築けた根拠と、その地位が今日に至るもゆるぎない根拠は、ここにある。

 国民文学論争は、立場の違いを超えた多くの文学者が参加した論争だった。竹内の提起に伊藤整が応じる形でスタートした論争に、当時所感派に属していた野間宏が『人民文学』誌上から反論を加え、国際派が占拠していた『新日本文学』からは蔵原惟人や菊池章一が反論をしたほかに、臼井吉見や福田恒存までの名の知れた文学者のほとんどが、この論争に参加している。新日文についても、野間宏、小田切秀雄、菊池章一、猪野謙二などの現会員が論争に参加している。そのことを考えるなら、かれらの主張も紹介しながら内容を検証するのが本来のあり方であるに違いない。そのことを承知のうえで、筆者は竹内のみに依拠して論を進めてきた。この節のテーマにからむことでもあるので、その理由を以下で簡単に述べることにする。
 野間の批判に対して、竹内は「いちばん充実していて、掘下げが深い」ことを認めている。菊池の批判にも「よく調べていて相当の力作である」と評価している。その一方で、竹内は、次のような事情を指摘する。

――
国民文学が提唱されたのは、前に述べたように、文学の一般的危機の認識の上に立って、それを救う(したがって人間の自由を救う)ためであったが、同時に、民族的危機(政治的危機)からの脱出の願望がそれに重なっていたのである。そのために国民文学論は勢いをえたが、一方ではそのために議論が複雑になった。それが野間対竹内の論争にも尾を引いているし、野間、竹内を一括した菊地氏の批評にも尾を引いている。……この二つの雑誌(「人民文学」と「新日本文学」)は、日本共産党の中の二つの流れに対応する形になっていた。その傾向は、俗な言い方をすれば、「人民文学」がヨリ政治主義的、「新日本文学」がヨリ文学主義的であった。その当然の帰結として、国民文学というかけ声にとびついたのは「人民文学」の方であった。……「新日本文学」の方は、政治をそのままナマの形で文学論にもちこむのは誤りだと考えていたので、……「人民文学」への対抗意識ないし反感から、ますます「国民文学」を敬遠するようになったのである。(「文学における独立とはなにか」)

 竹内が指摘するように、当時の党員文学者の発想は、一人の表現者である以前に「彼が属する綱領的立場」を優先するというものだった。そのことは、議論を複雑なものにしただけでなく、尻切れトンボなものにしてしまう結果にもつながっている。竹内の次のような指摘は、そのことを何よりも雄弁に物語っている。

――
この叙述〔野間が綱領を引用して叙述した部分〕はあきらかに、日本共産党の綱領の知織で書かれている。文学の自律性についての、確信に満ちた、ひびきの高いコトバとくらべると、まったく別人のようである。文学者としての野間氏は、このような没個性の文章が書ける人ではないが、それがこのような文章を書き、その矛盾を自覚していないことに、私は党員芸術家の悲劇を見る。……私は綱領を引用して悪いというのではない。文学的に処理されていないのがいけないのである。(「文学の自律性など」)

 当時の論争と無縁な筆者のような立場から見るかぎり、真に自立した表現者としては、竹内好の存在しか見えてこないのである。ここで問題なのは、非党員文学者は竹内のみでなかったにもかかわらず、竹内がかくも見事に自立することができたのは、なぜ可能だったのかということである。
 筆者は、先に「竹内が魯迅から最良の知織人のあり方を学んだ」と書いた。医者として人間を個別に治療することによっては、絶望的なほどに迷蒙な民族を解放することはできないと自覚した魯迅は、何よりも精神における解放が果たされなければならないと考え、魂の医者であることを選んだ。この覚醒の過程における苦悩の深さは、かれの生涯を厳しく規定している。優れた詩人であり、小説家であった魯迅であるが、生涯に書き残した作品と呼べるものは二十巻の全集(学習研究社版)のうちでわずか三巻、七分の一程度にすぎず、しかもそれらの多くは初期の段階で書かれたものであり、その精力の大半は、かれ自身が雑文と呼んだ短評を書くことに費やされている。この事実は、魯迅が自らの表現を、絶えず〈現実〉に置いていたことを物語っている。この節の冒頭で、筆者は竹内の芸術(家)観を紹介して、それを竹内が魯迅から学んだことを指摘した。野間のような優れた文学者ですら、党員であることの制約から逃れられないことを、竹内は魯迅を学ぶことによってつかんでいたのである。
 55年代の日共以上に、30年代の中共は「唯一の前衛」であった。そういう時代にあって、魂の解放という大事業を果たすためには、党がもつ物神性から自由であるという条件が、魯迅にとっては欠かせないものだったのである。魯迅と同様に、外野から見るかぎり秘密党員としてしか映らないところまで日共に近づきながら、竹内は、肝心なところでは断固として譲ることなく、明確な一線を画すことをやめなかった。この自律の精神こそ、いま、われわれが学ばなければならないことなのである。
 愛択革が、「文学運動のペレストロイカ、その民衆性」と題して五百号で提起した問題提起は、11回大会以降、「前衛党」との関係で緊張感を喪失した新日本文学会が、衰退の一途をたどり低迷を続けていることに対する、問題の核心に迫るこれまでにはなかった提起なのである。

 三十年以上も前に、竹内が「伸び悩み」を指摘した新日文は、現在、より深刻な状況にある。伸び悩みなどという奇麗事では済まされないほど深刻である、といっていい。新日文だけが危機であるなら、さして驚くに値しない。が、その危機は、この国が置かれている状況を受動的に反映したものであることから、危機の深さは、魯迅が抱えていたものと比べてより深くはあれ浅くはない、と筆者は考えている。特効薬などを期待できないからには、竹内流に表現すれば「手で掘るように」してでも、この現状を突破しなければならないのだ。
 現在の「新日文」がマイナーであることに疑う余地はない。問題は、マイナーであること自体ではなく、マイナーであることに安住する傾向が問題なのである。あえて挑発的な言い方をすれば、三十年以上も前に竹内に指摘されたギルド的存在から、現在に至るも新日本文学会が抜け出ていないことに問題があるのである。
 まずは、次の指摘を読んでいただきたい。

――
私は、読者の数が芸術的価値をはかる規準だといっているのではない。短い時間をとれば、この両者は一致しないのが普通である。先駆的な芸術は、その先駆性のゆえに当代に認められないが、そのことは芸術家の光栄であって、卑俗な芸術家よりかれが劣っていることにはならない。一時的な人気は作品の価値を左右しない。流行は人為的に作り出されることが非常に多いから。ただ、この逆は成立しないので、読者が少ないから作品の価値が高いということには絶対にならない。よくフランスの例などを引いて、すぐれた作家は大衆の低い理解力を問題にしないということで純文学を弁護する批評家がいるが、この類比はまちがっている。純粋の創作衝動というものは、つねに現状の否定から出発するから、そこには孤立意識がつきまとっている。現状との妥協において読者に媚びることは芸術家としての自殺行為である。だがそれは、読者を変革することによって多数を獲得しうるという期待を含むものであって、いわばその少数者は可能的多数者としての少数者であるから、日本の場合とちがう。日本の純文学の場合には、現状を変革するという期待を含まぬ、自足圏内でなれあっている少数者にすぎない。おなじように見える孤立の意識でも、まったく反対だ。むしろ日本の場合は、孤立の意識とはいえないもので、多数に媚びることができないから少数に媚びている程度のものだ。したがって、日本の純文学は、一般的にいえば通俗史文学よりも通俗的である。
 問題を吉川英治に戻していえば、かれの作品がよくよまれるのは、その芸術性においてよまれるので、芸術性と離れた大衆性においてよまれるのではない。多数の読者に媚びるのが通俗作品で、少赦の読者に媚びるのが芸術作品であるという区別は、文壇ギルド内部でしか通用しない価値判断である。
――
民主主義文学と自称する陣営にいる批評家は、吉川を反動ときめていて、それと戦わねばならぬことを口癖にしている。しかし、だれが、いかにして戦うのか。戦うためには敵を知らなければならぬが、かれらは吉川を研究しているだろうか。太宰治はデカダンであり、吉川は反動であるという風に、かれらはレッテルをはることは知っているが、どうも研究しているようには見えない。日本でいちばん続まれる吉川英治を捨てておいて、自分たちの仲間だけでいちゃついているやり方を見ていると、かれらは本気でファシズムと戦う気がないのではないかと疑いたくなる。
――
日本では、批評は文壇というギルド社会に従属している。文壇は純文学という手工業製品を自家消費のために単純再生産している。批評家はその職人に寄食して職人的な勘で、仲間同志のコトバでいいあっている。こういう自足的な、閉ざされた社会の内部にいるかぎり、外とのつながりは出てこない。純文学という商品の特徴は、それが自家消費のための生産であること、生産者が同時に消費者である点にある。その純文学に寄食するのだから、批評にも独立性があるわけはない。
――
ギルドの内部にいる批評家は、その寄食性のために、大衆のもつ芸術的感覚というものが正しく見えない。そこで、芸術性と大衆性を別のものとして表象するようになる。芸術的にすぐれていることと、よくよまれることとは、本来的に一致しないと独断している。芸術性をもつ純文学と大衆性をもつ大衆文学という観念上の区別は、このような分裂した意識の自己表現である。(いずれも「吉川英治論」から)

 長い引用を重ねたが、正直のところ紙副が許すなら全文を引用したいというのが筆者の実感である。それほど竹内の指摘は、鋭く現在の新日本文学会の弱点を指摘していると思うからである。このことを逆にいうと、この三十七年の間、新日本文学会は、ここで指摘された問題点に取り組んでこなかったことを意味している。もっとも、まったく取り組んでこなかったというと、事実に反する。確かに、7712月号の『新日本文学』は「なにが大衆の文学が」と題する特集を組んでいる。季刊になってからも、89年春号でいわゆる「大衆文学」が批評の対象になったことは事実である。
 筆者が問題にしたいのは、大衆文学を十年間に一度しか取り上げてこなかったことではない。前者に色濃く表れており、その色彩が薄れているとはいえ、後者にも見え隠れする「国民的規模で読まれている文学」に対する軽視の思想である。かつて吉川を反動と決め付け、レッテルを張ることによって「敵を知ること」を怠った過ちが、深刻なものとしてとらえられてはいないのだ。あらかじめ批判することが前提にあり、敵からも学ぼうという姿勢がないのである。「ない」と断定することに対して「いやそうではない」という声が聞こえてきそうである。
 7712号の編集後記は、次のように特集を企画した意図を述べている。

――
文学に〈純〉も〈大衆〉もない、文学それ自体であるはずのものだ。という説は、ひるがえせば、いわゆる〈純文学〉と〈大衆文学〉が、ひとつの差別として存在していた証拠であって、これは日本の近代文化形成の事情に発する。……〔よく売れている小説には〕小説の持つべき原初の力が、そこに生きているのではないか。それをどのように回復し、そうしてこの商品社会を突き抜けてゆくべきかという展望を求めて、まずはその雑然たるエネルギーへの注目として、この特集を組んだ。

 この編集後記の誤りは、純文学と大衆文学という「差別」の発生の原因を、日本の近代文化形成一般の問題にずらしていることにある。事実は、これまでの叙述で明らかなように、ギルド的な性格を持った「文壇(ないし新日本文学会を含む文壇的なもの)」が、文学というものを一種至高な存在に崇めたてることのなかから生み出された「差別」であり、近代文化の形成期一般に解消すべき性格のものではないのである。

 [通俗文学・大衆文学に対して]多く売れることを期待せず、純粋に芸術的な意図の下に作られる文芸作品。
 これは、新明解国語辞典の「純文学」の項にある記述である。手元にある他の辞書にはこのようにあからさまな記述はないだけに、純文学なるものの本質を見事に突いている。志を持たない文学が感動をもたらすことは、ないといってもよかろう。しかし、竹内が指摘するように、逆は必ずしも真にはならないのだ。「売れないこと」と「文壇に所属するか否か」をモノサシにして「志の有無」を計り、売れるもの=大衆に迎合するものとして切り捨ててきた結果が、「純文学」などというおかしなものを生み出してきたのである。このことについての反省がないから、「雑然たるエネルギーに注目」するにとどまり、そのエネルギーが秘めている「原初の力=芸術的力」を究明するところまで発想が届かないのである。そのことは、この特集が「雑然たるエネルギーに注目」し、いろいろな書き手を扱いながら、いわゆる「純文学」の側から見てもっとも不可解な、それゆえに魅力的な深沢七郎にページを割くことができなかったこととも密接に関連している。
 司馬遼太郎論にしても同じことがいえる。まずは、8ポ三段組みとはいえ、筆者自身が「国民文学」と表現せざるを得ないほどに国民的規模で続まれている司馬を、わずか二ページで批評すること自体が不遜なのだ。司馬を二ページで検証するなど、吉川を二ページで検証する以上に困難である。原稿を依頼するほうにも、依頼されたからといって書くほうにも、敵を知りつくすという姿勢が欠けらもないのである。だから、加藤周一や菊地昌典などの司馬の史観に対する異議申し立てを支持し、ぜいぜいのところ「問題は司馬史観そのものよりも、司馬文学を読むわれわれのなかの史観の空白を考えなおしてみることに集約されなければならないようである。」という程度のおそまつなことしかいえないだ。では、89年春号はどうか。十年前に比べれば、編集者にも執筆者にも、いわゆる「大衆文学」と呼ばれるものに対する偏見はない。そういうものから何かを学ぼうという姿勢が感じられることもたしかだ。しかし、それは不発に終わっており、その限りではまだ完全に乳離れしているとはいえない。

                      1989.10

 

突破力




 かつては郊外の里山だったものを造成した分譲地はまだ空き地が目立つ。このところの東京周辺の宅地造成は驚くものがある。「戦争」が始まるまではこういう光景を見ることもなかったし、関心もなかった。それが、このところ必要に迫られて頻繁にお目にかかるようになった。こういう光景を見るにつけ、思い出されるのは敗戦でソウルから引き揚げて移り住んだ母親の郷里ののどかな山村の風景である。山があり、したがって川があり、こどもにとっては遊ぶ場所にこと欠かない自由な世界だった。ここにだってかつてはそういう世界があったにちがいない。
 あらためて周囲を見回す。周辺の取り付け道路は整備が終わり、一部見晴らしがきかないところもあるが、高いところに陣取れば周囲はほぼ360度見渡すことができる。いい場所を選んでいる、と男は思った。ドライバーは視野が広い大口径の双眼鏡で下の道路を見渡している。
 4月の暖かさを増した陽光が差し込み、汗ばむほど車内は温かい。

 こどもたちはみな裸。すっぽんぽんである。上流ゆえに両岸は切り立った崖になっており、川は眼下を蛇行している。ところどころに小さな砂州があり、こどもたちはそこに服を脱ぎ捨てて水遊びをしている。橋の上からなんということもなしにそうした光景を眺めていた視野に、つるんとした白い尻が飛び込んできた。その尻がポカッと浮き出た瞬間にのっぺりした裂け目が見えた。もぐりそこなって、尻だけが水面に浮かび上がったのである。いらい、ほんの一瞬だけかいま見たその裂け目は、男の潜在意識のかなり深いところに定着することになった。いまの妻との結婚にしても、その深淵を探ってみたいという動機がなければしていなかったかもしれない。だから、気を許して寝物語でその「白い尻」のことを問わず語りに話してしまった。あれは失敗だった。男としては、話すべきでことでなかった、と男は思う。
 同級生である妻は、卒業後に私立の女子校に就職した。70年代に入り内ゲバが激化すると、公安が学校に干渉を始め、周囲の妻を見る目が極端によそよそしいものになり、居づらくなった。理事長に離職を促されたときには、すでに保護者のあいだで問題になっており、自分の力ではなんともしようがないと校長がいうまでになっていた。同僚で彼女をかばうものはひとりもいなかった。妻は自分で小さな商社の事務員の仕事を探してきたが、こちらのほうは1年ともたずに辞めざるをえなかった。男は、組織に所属する弁護士を通して、弁護士事務所の事務員として働く場を用意した。

 敵対する党首を暗殺した日からあと、それでなくとも会う機会が限られていた逢瀬にさらなる制約が加わることになった。何カ月ぶりに会ったときに、男ははじめて妻のほうから迫られた。それまでは、そういうことをしなかった妻が、自分のほうから求め、あられもないほどの大声を上げ、腰を激しく使った。思い切り放出した。気だるい充足感とえもいわれぬ解放感があった。男は、深層で追い求めてきたあの白い尻の裂け目の深淵が、そこにあったことをこのときにはじめて知った。つぎの逢瀬でも妻は同じように激しく求めてきた。が、男は必死の思いでこらえ、かろうじて放出寸前に陰茎を抜いた。怒張した陽物は湯気を立てていた。直前でいきなり抜かれてしまった妻の深淵からも湯気が立っていた。物憂げなかすれ声で「心配しなくてもいいのよ。」と妻が声をかけてきた。男の抜茎を排卵日を恐れてのことだと誤解してのものいいである。目の前にいる女と結婚したことを、男は悔いた。師が実践しているように、有能な秘書をじっくり時間をかけて探せばよかったのだ。同じとはいわないまでも、男がやろうとしていることを理解するだけの能力の持主を待てばよかったのだ。そうしなかった結果がこのていたらくであり、すべてはあの「白い尻とほの見えた裂け目」がしからしめていることを呪詛した。
 前の逢瀬でことが済んだあとのことだった。「みんな志なかばで死んでしまうのね。」という妻が思わずつぶやいたことばが強力な制動力として働いていた。後ろめたさでもある。この間に死んでいった仲間を妻は知らない。妻がいう「みんな」とは、彼女が知っているごく限られた古い仲間である。しかし、この間に死んだのは20代前半の若い学生だった。いずれもあの割れ目の深淵を知ることなしに逝ってしまった。妻がいうとおり「将来社会の萌芽形態」をみることなしに、そういう意味では「志なかば」で。

 「きたようです。」運転席からの声で男はわれに返った。柄にもなく感傷的になっている自分がおかしかった。がらにもなくみょうな気分になっている己を振り切った。
 南北に通っている新しい道路の上手から姿を見せたグレーのライトバンが目に入った。車はゆっくりと下りてきて、眼下を通り過ぎ、しばらく進んだところで止まり、助手席からひとりの男が下りてきて左手をかざして造成地をながめている。「まちがいありません。」ふだんは融通が利かない男だと思うが、こういうときは頼もしく思える。左手をかざしたときは尾行は見当たらないというシグナル。右手をかざしたときは要注意のシグナルであると事前に決められている。その間、車はスイッチバックを始め、男が乗り込むのを待ってもときた道を引き返し、男がいる位置から見ると30度ほど前で止まった。すべて指示どおりに動いているのを確認し、双眼鏡を納めながら
「ではいきましょう。」
 車はゆっくりと坂道を下り、ライトバンを追い越したところで停止した。
 助手席から先ほど手をかざして眺めていた男が下りてくる。黒っぽいサラリーマン風の服にネクタイを締めている。上着の左胸のあたりをしきりに気にしながら前後を確認し、ドア越しに運転席に目顔で合図を送る。運転席のドアが開き、ドライバーが出てくる。その男が近づいてくるのを確認し、こちらのドライバーも外に出る。近づいてきた男は内ポケットから紙片を取り出しドライバーに手渡す。ドアを開け、戻ってきたドライバーはトランスミッションの上にある備え付けの灰皿のふたを開け、ライターで火を付ける。紙片がすぐに燃え上がり、灰になった。それを確認したドライバーがいう。
「移ってください。」
 その声を待って男はドアを開け、外に出た。
 ふたりの男が近づいてきて、両側から挟むようにうしろで待つ車にいざなう。ひとりが先に後部座先に乗り、男はそれにつづく。内懐から伸縮式の警棒を取り出し、床に置く。もうひとりの男が周囲を見回してから男の隣に割り込むように入ってきた。ドアを閉めロックし、同じように警棒を内懐から取り出して床に置いた。
「いきます。」
 車はゆっくりと発進した。




 6月にジャカルタで開かれた国際学連(IUS)執行委のおりとは状況が大きく変わっていた。前年の61年8月にはソ連が核実験を再開。4月に入ってアメリカが実験を再開し、このままいけばイギリスとフランスも追随し、世界中が核実験競争の渦に巻き込まれる様相を見せていた。そうしたなかで8月にレニングラードでIUSの第七回大会が予定されていた。
 革共同政治局はこの大会に向けて3つのことを決めた。ひとつは同じ時期に開催が予定されている東京の原水禁世界大会に対し全学連が米ソ両国の核事件に抗議する大衆行動を展開すること。これに呼応してモスクワの赤い広場でも示威行動をおこなうこと。レニングラードの大会ではソ連核実験擁護の執行委案を批判すること、である。
 難題は赤い広場でおこなう示威行動の中身だった。類例がないことだっただけにことは慎重を期す必要があり、計画が綿密に練られた。政治局からは鈴木が英語に堪能であることから選ばれた。全学連を代表して根本と高木がゆくことに決まったが、高木は別に行動することになった。IUS書記局に常駐している石井と連携して後方支援をするためである。念のためにということでロシア語を話せる学生が物色され、Kが追加された。デモをするのは3人。高木は石井とともに拘束されるであろう3人の救済に当たることに決まった。

 モスクワに着いた鈴木はホテルで外国人記者を捜した。デモといったところで赤旗に「全学連」と白布を縫いつけただけのものを持って歩くだけのことである。ほかの国なら取り締まりの対象にはならないだろうが、この国ではそうはならない。すぐさま、KGBが駆けつけてきて拘引されること必至であり、何歩歩けるかが勝負になることが予測された。それだけに、カギは、その様子を写真に撮らせて世界中に配信させることにあった。赤地に白なら、白黒写真でもハッキリと写る。漢字の「全学連」の意味がわからなくてもいい。そういう示威行動がモスクワの赤の広場でおこなわれたことを世界中が知ることが大事なのだ。事前の打ち合わせでは日本の通信社を候補に挙げたものもいた。が、本多は言下に「それはダメだ。」と切り捨てた。日本の通信社では発信力がない。APやロイターでないことには受け取るほうに相手にされないという。そう本多に主張されると異論を挟むものはいなかった。
 ロビーには所在なげに雑談しているそれらしい人間がいる。Kがいかにもヤンキーらしい陽気な人間と話を交わしている。親指と人差し指で輪をつくり、「脈あり」のサインを送っている。ふたりのところに近づくと、Kが「APの記者だそうです。」といった。ここで話すのはまずい。どこにKGBが聞き耳を立てているかわからない。握手を交わし、「ゼンガクレン」の代表としてきていることをいってから、「夏のモスクワは美しいとは聞いていたがきょうはまさにそういう天気だ。ついては時間があれば少し外の空気を吸ってみないか。」といってみた。それだけで察してもらえるとは思わなかったが、相手の男ほうは乗ってくれた。「ゼンガクレン」がきいたことはしきりに「ゼンガクレン」を繰り返すことでわかった。アメリカ人にしてみれば、この極東の敗戦国を騒がせている「ゼンガクレン」とはそもなにものなのか興味津々なのだ。
 歩きなら単刀直入に用件を話した。男はしきりに「ひじょうにおもしろい(very interesting)」を連発し、ぜひとも乗るという。細部の打ち合わせは彼らの部屋でおこなった。カメラマンには写真を撮ったらすぐに現場を離れてほしいと念を押した。配信するさいにはビラをまいたことにしてほしいこと伝え、案文を渡した。話は筆談でおこなった。その雰囲気に彼らも飲み込まれようで秘密を共有する共犯者の気分になった。打ち合わせは短時間で済んだ。

 予想したとおり、旗を広げ、ものの数歩も歩き出したところで制服が駆け寄ってきた。鈴木は目でカメラマンの姿を追った。フラッシュがたかれ、指で丸をつくりながらカメラを持った男の後ずさりしていく姿が目に入った。「勝った!」と思った。
 へたをすると十年、ひょっとすると二十年は拘留されることを覚悟しての行動だった。が、結果は意外なものだった。1週間の拘留ののち、「わが社会主義共和国連邦」の「平和を求める気高い理念」の名をもって3人とも釈放された。レニングラードに送られ、そこで待つ高木と石井に合流した。大会では、執行委員会のソ連核実験擁護提案に抗議し、凱旋帰国した。事前の計画は予想した以上の幸運に恵まれ、写真は全世界に配信された。




 60年闘争のカギとなる国会突入を前にしてのことである。ブントの労対責任者として黒田に電話した。動労青年部の部隊を登場させてもらえまいかと依頼するのが用件だった。結果は拒否された。が、電話で筆名を名のった鈴木に対して「森だけではわからんよ、マルクス主義芸術理論家森茂と名のりなさいよ。」と黒田にいわれた。ひとをくすぐらせるものいいである。このひとことで鈴木は黒田の掌に落ちた。モスクワから帰国すると、いっときの凱旋気分は党内のもめごとで吹き飛んだ。わけがわからいうちに議長派と書記長派に分裂し、組織は割れた。弟がそれにからんでいることは明らかだった。が、鈴木は黒田をとった。ブントからは数多くの活動家が革共同に合流したが、黒田に従ったのは鈴木をのぞけば根本ひとりだった。年功と知名度から書記長の椅子を与えられ、結党宣言を議長にかわって書いた。が、その椅子は荷が重かった。生来が書斎肌の鈴木は動く政治は得手でない。つまるところ、半分自分から身を引く形でその椅子を譲ることになった。それでも理論家として得手な分野で動けたうちは居場所があった。しかし、それができたのも68年まで。運動の激化にともない自前の印刷所をつくってからは、そこにしか居場所がなくなった。

 いままでの革マルにはいなかったタイプの活動家が出てきた。これが、男をめぐる一致した評価だった。とくに黒田の期待は大きいものだった。黒田が説く理論をなぞる「理論家」はいたが、彼が不得手とする経済学について進んで挑戦するものはいなかった。男は最高指導部のメンバーのひとりひとりの性格や得手不得手などをじっくり観察していた。そして、だれもが名のりでないのを見て、後退戦の先頭に立つことを買って出た。黒田が定めた党是に忠実に、他党派からは敵前逃亡と罵られ、下部から指弾されることにも怯まなかった。その突破力は党首の信頼をかちえるに十分なものだった。抜擢に次ぐ抜擢がおこなわれ、数年で先人を追い越し、実質的な指導権を確保した。気づくと、ことば遣いを含めた態度をもって鈴木の前で君臨していた。
 目の前では根本が踏み絵を突きつける。弟の情報を出せ、そうするのが「プロレタリア的人間の論理」のあるべき姿ではないかいう。この種の理屈をこねることが不得手なこの男にしては柄にもないことだった。膝詰めの談判はこれが二度目だった。その根本自身も踏み絵を迫られてのことである。つぎはないだろうことは、隣で腕組みをしながら黙って座っている男を見れば一目瞭然だった。鈴木がどう対応するかだけでなく、根本がどう振る舞うかも同時に監視しているのだ。
 振り返ってみると、革共同への合流が正しかったと確信できたのはあのあたりまでのことだったかもしれない、といまの鈴木は思う。こと芸術にかかわる理論については一家言があるという自負をくすぐられ、同様に理論家であると称する黒田とは波長が合うものだと錯覚したのがボタンの掛け違えだった。居場所はときの経過とともになくなっていた。気づけば上のほうで決められたことを活字にするだけの部署にいた。従業員として動員された学生を管理するだけの存在になっていた。かつては自分もそこにいた部署でなにが、どう議論されているのかわからないまま、ただひたすら活字を拾い、輪転機を回す作業に明け暮れる日々がつづいていた。
 少し考えさせてもらえまいかというのが精一杯の抵抗だった。しかし、それは抵抗といえるほどのものでないことはすぐに判明した。これまでの閲歴を考え、それに兄弟という事情を顧慮すれば、頭からは否定できないという手続の問題として42時間の猶予が形として与えられたものでしかなかった。いちど堕ちたからには世捨て人として生きるほかに術はない。問われるままに弟について知っていることをすべて話した。いちど話し始めると、いわなくてもいいことまで「自白」している自分に気づき、暗澹とした気分に陥った。救いはただひとつ。「心配は要りませんよ。必要なのは彼が持っている資料だけなんです。むろん、いきがかりから適当な教育的措置はしますけど。」という男の保証だけだった。
 男は約束を守った。
 本で読むイエズス会修道士はこういう男ではなかったのか、と鈴木は思った。だとすれば、勝負はやる前から決まったも同然然だった。「負けた。」と思った。
 弟が持っていた資料を奪ったことも、相手もやっていることであるからには非難されるいわれはない。しかし、男が書いた「軍報」の文体にはなじめない。というより、なんともいえないざらざらした違和感をおぼえた。その危惧はすぐに現実のものになった。〝ブクロ官僚一派への葬送の辞〟として書かれた論文がその危惧を裏付けた。「それを読む部外者を唖然たらしめるほど品が悪いものがある」と立花隆が指摘したものがそれだった。こういうお行儀が悪い文章を書かかせたら、男は天下一品であることを示した。




 なにをするのかについてはここにくる日までなにも教えてもらえなかった。前の日になってはじめて告げられた。そういうものだと疑問は感じなかった。
 二階にある事務所ではふたりの男が待っていた。キャップとおぼしい年かさの男が起ち上がり、「庶務課長の関口です。待っていました。」
 そういって握手を求められた。名を名のりながら握手を返すと、隣に立つ同年代の男が紹介された。
「きみと一緒に防衛を担当してもらうCくんです。」
 関口はくわしことはその男から聞くようにといったきり椅子に座り、机に向かってなにごともなかったかのように事務を執り始めた。それであいさつは終わりだった。入れ込んでいただけに拍子抜けした。その一方で、革命組織であるからには諸事につけこのように事務的であることが問われているのだとIは自分にいい聞かせた。
 校了には間があるためか工場で活字を拾っているひとの数はまばらだった。活字台にとりつき、活字を拾っている長身の男とCはなにやら話をしていた。話は簡単に済んだようでCは丁寧に頭を下げると戻ってきた。
「きりがいいところまで済ませるから休憩室で待っようにとのことです。」
 衝立で囲った休憩室で待つことになった。慣れているためかCはゆったりとソファに腰を落としている。が、慣れないIは緊張で落ち着かない。男が入ってきた。バネ仕掛けの人形のように直立不動の姿勢で起ち上がった。
「作業中だったもので待たせて済みませんね。区切りがいいところまでやっておかないと気持ちが悪いもんですからね。どうぞ楽にしてください。」
 Cが「工場長の鈴木さんです。」と男を紹介をし、ついで自分のことも簡単に紹介してくれた。男は被っていたタオルを無造作にとり、手をぬぐいながらもしっかりと相手を見て「鈴木です。」といった。反射的に差し出した右手を両手で包むように握られた。インキが爪のあいだにしみこんだその手は労働者の手をしていた。雲の上の存在として仰ぎ見ていたひとから面と向かって声をかけられ、吉本隆明に「若きマルクス主義理論家」として高く評価されたあの森茂に「一緒にがんばりましょう。」と両手で握手されたのである。党首がいう「プロレタリア的人間の論理」をこのひとは率先してやっている。そう思うとIは感激のあまり声がふるえた。

 ひと息つく暇もない緊張の毎日がつづいた。やることとおぼえなければならないことが多すぎた。着いたその日に見張りの不寝番をやらされた。息つく暇もなく、Cから数冊の地図帳を渡され、いくつかの課題を与えられた。行き先を示すコードの読み方と地図帳の使い方を頭にたたき込むことから始まり、S車と呼ばれる装甲を施した車の助手席に座り、ナビゲーターをやるという実地訓練もやらされた。OJTということばがいわれるようになった時期だった。ふつうの企業などでやられているとは思えないほど性急かつ激越な実務に就きながらの学習だった。
 Cはときおり激しく咳をした。顔色も悪い。まだ率直に尋ねられる関係にないので遠慮したが、どこかからだがよくないことは推察できた。ほかに代わるものがいないことから、気力で乗り切っているらしいことが伝わってきた。そう思って振り返ると、工場長を待つあいだもしきりに咳をしていたことを思い出す。工場長が吐いた「あなたを頼りにしていますからね。」ということばも気になった。単なるリップサービス以上の意味があってのことではないかと思った。とまれ、一日でも早くCに替わって車両班の責任をもてるようになることが自分に課せられた任務なのだと考えた。そう考えると、Cが必要と思われる以上に「教育」を急いでいることの意味も見えてきた。

 時間に追われる日々がひと月ほどつづいた。工場内の人間関係もうっすらとではあったが透けて見えるようになってきた。そういうある日、S車の点検を告げられた。理由は告げられなかったが、雰囲気から推してかなり重要なことであることが推察できた。段取りの打ち合わせを始めようとしたところでCが呼ばれた。できるところから先に始めていることを名のり出た。
 工場長は「わかりました。」といい、工場の隅にある倉庫に向かった。「火気厳禁」とある扉が開くと、印刷工場特有の揮発油の臭いが鼻をついた。
「これでいいと思います。」といって使いかけの溶剤を渡してくれた。
「揮発性が強いからくれぐれも火には気をつけてください。密閉したところで長いあいだ使うことはしないこと。それから気持ちが悪くなったら作業はやめてください。これは必ず守ってください。ウエスは棚にあるものを適当に使っていいです。」

 ガラスはすべて割れにくい風防ガラス、内側は視野を確保するために金網だが後部座席は鉄板で補強されている。要は運転者の視野を確保することなのだ。しかし、風防ガラスは傷つきやすいようで細かな傷に埃や油が付着していた。Cがいった点検とはこの汚れを取り除くことだと得心した。渡された溶剤を使って拭きにかかった。まっさらなウエスがすぐに油とほこりまみれになった。5つあるドアを全部開けておいても10分もすると気分が悪くなった。できる範囲で先にやっていますといったときにCが示した表情の意味が飲み込めた。あれだけ咳き込んでいるのだ。この作業はできることなら避けたかったにちがいないと思った。
 頃合いを見計らったわけではないだろうが、車の掃除が一段落しところでCが現れた。運転席に座り、ハンドルを手にして視野を確認する。
「いいと思います。」
「これはどうしますか。」
 使い終えたボロ布と溶剤を入れた段ボール箱を抱えてみせる。
「そうねえ。また使うかもしれないから荷台におくことにしましょうか。」




 車庫を出てものの5分もしなうちに大型トラックが現れ、先を塞ぐようにして止まった。
「きたか。」と思った。車を後退させようとしたところを間髪入れずうしろからトラックに退路をふさがれた。それでもCは脱出を試みようと車を前進させた。大型トラックをかわそうと急ハンドルを切ったものの縁石に乗り上げ脱輪した。後方から7、8人の男たちが得物を手に襲いかかってきた。Cはハンドルに覆い被さるようにしがみつきながら警報を鳴らしつづけている。
 男は時計を見た。9時10分を少し過ぎたところを針は指していた。周囲を見回すとまだ灯りがついている。すべてが想定の範囲内のことである。勝負はこの10分か15分、長くても20分を超えることはあるまいと確信した。
 運転席の窓にツルハシを打ち込まれ、たまらなくなったCが後部座席に待避してくる。時計を見る。5分は警笛を鳴らしつづけていたことになる。よく頑張った。助手席ではIが姿勢を低くしながら懸命に耐えている。いずれにしても耐えなければならないのはあと10分だ。それまで待てば敵は退散するはずである。条件を考えれば襲った側もそれ以上の時間はかけられない。
 後部に回った部隊の窓を打ち壊す音が響き、車が激しく揺すられた。壊せないと見てやけになって横転させようとしているものだと男は判断した。ここまでもったからには勝ったも同然だと思った。ツルハシが打ち込まれ、穴が穿たれた。激しい打撃を受けて鉄板を止めていた螺旋が緩み、風防ガラスとのあいだに隙ができたためだろうとみた。あとで対策を考えなければならないことだ。車の外では指揮官とおぼしい男の声がなにやら叫んでいる。と、穴から筒状のものが差し込まれ、床に落ちた。激しい煙と同時に花火のような火が噴きだした。2本目は差し込まれたまま猛烈な火を噴射し、天井に張られた化学繊維に引火した。と同時に荷台から火が吹き上がった。
 天井の張り物に火がついたまではわかる。が、荷台から上がった炎は?
 どうしてそうなったのか。その理由だけはわからなかった。
 熱さを感じる前に呼吸が苦しくなり、意識が薄れていくのをおぼえた。その瞬間、男は謀略だと思った。それにしてもなぜ? と不審に思いながら足元に視線を移した。両側からふたりの人間に覆い被さるような格好で庇護されている男の視線の先を、炎をともなった液体が這っていく。むき出しの床に螺旋止めした鉄板の隙間にその液体は吸い込まれるように流れ込み、あとを追って炎が落ち込んだ。
 男は死を意識した。多くのことが頭をよぎった。

 敵党首の暗殺は議長の至上命令として打ち出された。協議は紛糾した。積極的に反対を唱えるものこそいなかったが、予想される反撃を測りかね意見を集約するのに時間がかかった。相手の内情について熟知しているわけでない。そうであるのに、このたぐいの議論は無意味である。至上命題として命じながら党首は例によって会議に顔を出さない。議長不在の会議である。勢い、議論を主導する責任は男の肩にかかった。最終的な断を下す議長が不在のまま、議論はいたずらに時間を費やすことになった。最終的には党首に直筆の書簡を書いてもらい、その権威を借りて全員の意思を集約させた。綿密に検討した策戦は敵の弱みを突いたものであり、図に当たった。敵は首謀者の名を挙げて報復を宣言した。指名された3人のガードを固めるための作業に追われることになった。主要メンバーのガードを固めた分だけ被害は周縁に拡大した。それ相応の犠牲は想定の範囲内のことだったが、数の拡大は組織の動きを痩せさせた。中途半端な停戦工作も頓挫した。負のスパイラルに陥ったことを知らされた。乾坤一擲といえるなにかの策を講じる必要に迫られた。こういうときこそ攻めに転じないことには組織はもたない。そう判断して反撃に転じなければと考え、もうひとりの敵将の謀殺を指示した。その策戦が動き始めたときに、水本潔が水死したいう報知が届いた。
 1月6日ひとつの水死体が江戸川に浮かんだ。所轄の市川署は警察医立会のもとに死体の腐敗の状態から推して死後1週間から10日と判断した。同署では指紋を採取しようとしたが長時間水に浸かっていたための指がふやけており、採取用インクがのらず採取できなかった。外傷などが見当たらないことから覚悟の入水自殺と判断し火葬場へ運ばれた。翌日、市川署の鑑識課係員が火葬場へ出向き、シリコンラバーを使って指紋を採取したあと死体を火葬した。指紋照合により水死体が水本であることがわかり、家族に連絡したのは発見から10日後のことだった。すでに火葬に付していることから鑑識主任は遺留品を示すとともに遺体の写真を見せたところ変わり果てた息子の写真をを見せられた母親は「これは潔じゃない。」と叫んだという。
 動顛した母親が変わり果てた息子の写真を見せられ、現実を直視できずに叫んだ可能性は否定できない。が、肝心なのことは市川署が死体を火葬してしまったところにあった。組織の総力を挙げての謀略論を展開することに決まった。松崎を説得し、動労を巻き込み、国会対策と知識人対策に奔走した。緩慢だった動きに弾みが出てきた。すでに進められていた解放派幹部笠原の謀殺については忙しさにかまけて担当部署にあずけ謀略論の指揮に専念した。策戦は予定どおり進められ、笠原謀殺は成功をした。が、彼らの反撃を甘く見たのは誤算だった。

 荷台が燃えているのがわかった。「自分の責任だ。」と思った。「また使うかもしれない」といわれ、安易に荷台においてよいといったCに同意したことをIは悔いた。多少経験にいおいて勝るとはいえ、相手は同じ年であるだけでなく病人なのだ。中央の最重要部署に場を与えられ、働き始めてからまだひと月しか経っていない。このまま死ぬのはなんとも悔しいと思った。工場長のインキがしみこんだ手が頭をよぎった。

 カギは動労なのだ。時間に追われていたからといって原稿を書く時間をとらなかったことが悔やまれた。いよいよということになれば印刷所で書けばいいと考えたことの失敗だと思った。前にやれたからといって、状況を考えれば同じようにできる保証はない。一年前に襲撃されたことを軽く見過ぎたことも。
 意識を失う前に男の脳裏に浮かんだのは、水面からぽっかりと浮がび上がった少女の白い尻だった。




 臨時にしつられたとおぼしい死体安置所には、一見するとは誰であるか判別できない4つの真っ黒な遺体が並んでいました。私には右端のものが彼であることがすぐにわかりました。ほかの方たちも同じだったようで関口さんのおかあさんは迷わず関口さんの遺体に向かって「誠司。」と叫びました。遺体にすがりつき、ほんとうに悲しいときにはひとはこういう声を上げるのかと思いました。まさに慟哭ということばのほかに表現しようがない声でした。
 事件の翌月に人民葬と称する集まりがおこなわれました。一連の謀略を糾弾する集会だとのことで遺族を代表する形で水本さんのおかあさまと私が壇上からあいさつすることになりました。これまでに何度となくこのたぐいの集会に参加したことがあります。しかし、それは客席からのものであって壇上に上がるのははじめてのことでしたので戸惑いました。彼が私になにをしゃべることを期待するだろうかなどといろいろと考えてみましたが、まとまらないまま当日を迎えました。会場の裏手にある控え室では水本さんのおかあさまにはじめてお会いしました。大変緊張していらっしゃるようでした。ごあいさつはしましたが、どう声をかけてよいやら見当がつきませんでしたのでそれ以上はことばを交わしませんでした。集まりが始まり、椅子に座ってからは文字どおり針のむしろの思いでした。水本さんのおかあさまも同じだったと思います。おかあさまは「水本の母でございます。よろしくお願いします。」とおっしゃっただけで椅子に座られました。私としてはいろいろとお話ししたいことがあったはずでしたが、いざ何百人ものひとを前にすると口の中がからからになり、水本さんのおかあさまと同じようにいうのが精一杯でした。

 彼は問題に直面しても逃げない人でした。必要とあればどこへでも行きました。なにか大きなことがあると、その中心に彼が入っているだろうといつも思っていました。事態を知ったとき、「もしかしたら彼が入っているかもしれない。」ととっさに思いました。その一方で彼は大変慎重なひとで、交通事故にあわぬようにとふたり一緒のときには離れて歩くようにするひとでした。無意味な死に方は絶対したくないと考えるひとでした。身元確認のために警察署にいったおりに工場長の鈴木さんから事件の一年前にも同じようなことがあったというお話をお聞きました。そのときは間一髪難を逃れたということでしたが、なぜそのような危ないところに普段はあれほどまでに慎重だった彼がいったのかが気になるようになりました。
 編集作業で頻繁にお付き合いするようになった方にそれとなくお尋ねして謎が解けました。機関紙の号外を出す予定だったとのことでした。いつもなら原稿を渡すだけ済むはずのころですが、あのときは彼の原稿が遅れたために印刷所で泊まり込んで間に合わせざるをえなかったとことでした。彼らしくないと思いました。しかし、前にもいちどだけですが同じようにして原稿を間に合わせたことがあったことを聞き、それほど彼の肩に全部がかかっていたことを知りました。ひと一倍責任感が強いひとでしたから得心はしましたが、それほどまでして守らなければならいものだったのかということになると、私にはわかりません。ついていけなくもなります。
 ついていけないといえば、「みんな志半ばで死んでしまうね。」と私がいったときのこです。彼は「場所的に考えねばだめだ。ボクは死んでいった人たちのことが忘れられない。」といいました。「場所的」という言い方は彼のというよりもあのひとたちの慣用句です。そもそもわかりにくいことばですが、私にはこういうときに使われると意味がわからなくなり、ますますついていけなくなります。
 振り返ってみると、私たちが夫婦といえる生活をした期間は何年もなかったように思います。それでも平和だったときにはこどものころのことなどを話してくれたりして、それなりに楽しかったし、思い出すこともたくさんあります。その一方で、いま考えみると、すれ違いの芽はそここにありました。
 私にはよく哲学論争をふっかけてきて閉口しましたし、私があまり勉強しようとしなかったことも彼は不満だったろうと思います。彼は「我々のノート」というノートをつくり、自分の思索の結果をつづったものを私に渡すのですが、私にはわからないことばかりで私が書くものとはまったく噛み合いませんでしたので、いつの間にかやめてしまいました。部屋が散らかっていたり、私がなにもせずにごろごろしていたりすると「離婚したいほど嫌だ」といわれたことがありましたし、私がお金の計算をしていると「くだらないことに時間をかけているなあ。」といわれたこともありました。
 母親にはかなり前に「覚悟しといてくれ。」といっていたようです。水本くんのおかあさんの話をしたときのことですが、「自分が死んだら誰が夢を見てくれるかなあ、母はきっと見てくれるよ。だけどあんたはダメだね。」といわれました。
 いわれたそのときはあまり気になりませんでした。が、こうして彼が逝ってから15年も経ってみると「あのひとはなんで私と結婚したのか。」と考え込むことばかりが思い出されます。
 こどもをつくらないというのは納得ずくでしたことでした。いまになってつくづく思うのはそれで正解だったと思います。私はふたり姉妹であっただけでなく中学も高校も私立の女子校でしたし、大学を卒業してから就職したのも女子校でしたので男の子との付き合い方をほとんど知らないできました。もしこどもができたとして、女の子ならなんとかやっていける自信がありますが、それが男の子だとするとどう接したらよいのか見当がつきません。ましてや彼のようなこどもだったらと思うと、どうしたらよいものかまったくわからないからです。彼や水本さんの母親のようにできる自信もありません。じじつ、いまの私は彼の夢を見ることがありません。

 人民葬の話と同時に彼の著作集を出すというお話をいただきました。活字になったものがあるので、それらをまとめて一周忌までに出す。もうひとつ古いノートや手紙などをまとめたものも出したいということでした。そのお手伝いだけは私にやらせていただきたいとお願いしました。浄書に一年ほどかかりましたが、おかげで血なまぐさいニュースを耳にせずに済みました。こちらのほうは一周忌には間に合いませんでしたが、三周忌に彼の家族とお会いしたときに私が寄せた文章について「あなた方ふたりの暮らしぶりがわかり久しぶりに楽しませてもらったわよ。」と彼の母親からいわれ、苦労したことが報われたと思いました。彼の著作集ができ上がるまでは、血なまぐさいことがあっても意識的に目をふさぐことでなんとか過ごせました。しかし、その作業が終わり、彼の三周忌を済ませてしまうとそうはいかなくなりました。彼のときは三人でしたが、そのあとに5人いちどきに殺されたというのに、メディアは騒がなくなりました。
 勤めていた学校に居づらくなり、辞めたあとは彼の紹介で弁護士事務所に仕事を見つけてもらいました。ふつうの弁護士事務所でないことは予想していましたが、私のようなノンポリがいられる場所ではありませんでした。彼の仲間で投獄されているひとたちからは事務所宛に検印が押された手紙がきます。いちどきにくる数はさほど多くはないのですが、中身によっては急ぐ必要があるものがあるようで、そうしたものも含めてYさんが全部目を通したうえで私が青焼きをとります。いまのように便利なコピー機が普及していなかった時期だったので数が多いときには半日仕事になることもありました。私は教員以外の仕事したことがありませんでしたから、最初からお茶汲みや電話番をやるつもりでいましたのでそういうことで不満があったわけではありません。ここは私のいるところではないと思ったのは、Yさんだけでなく事務所にいるひとのすべてが私とは別の世界のひとだと痛感させられたことでした。弁護士の渡邊さんとは学生時代に面識があり、気安く話しかけてもくれるのですが肝心なことになると私だけが外されました。で、本ができたのを機に辞めさせていただきました。新しい勤め先には公安の刑事さんがきました。が、それも1、2年のことでいまはふつうの暮らしができるようになりました。彼が生きていたらどういうかわかりません。でも私にはいまの平穏な生活のほうがあっているのではないかと思っています。彼の妻であったときを忘れたいとは思いませんが、かといってことさらに誇るつもりにもなれません。できることならこのまま誰に知られることなく生きてゆければと考えています。




 20世紀も残すところあと数年で終わる。モスクワの赤い広場でデモをやったときから40年経ったいま、考えてみるとあのころだけが華だったのかもしれないという気分に駆られる。日本での常識に照らしてもそう簡単に釈放されるとは思えなかった。それが、わずか1週間足らず拘留されただけで無罪放免になった。
 フルシチョフ体制は万全だと思われていた。じじつ、『イワン・デニーソヴィチの一日』は62年末に国内で公刊されていた。ただし、それは表面的なことで、内実は崩壊の危機が裏側で進行していた。そのことを世界が知るのは著者が国外での公刊を決意した『収容所列島』の公刊を待たねばならなかった。本はパリで公刊されるや時間をおかず邦訳された。ことはそれほど深刻であり、ソ連がどこにいこうとしているかは世界中の注目を集めていた。にもかかわらず、その前後の10年ほど、私には本を読む時間がなかった。指導体制から外されているとはいえ、機関紙の印刷をあずかる位置を与えられている身にあって、そういした余裕がなかったのである。
 いくらか時間に余裕がもてるようになったときには『列島』の全巻が文庫版で訳出されていた。それを読んで、拘留されたところが有名なルビヤンカであることを知った。そこでは拘束されたものだけでなく取り調べにかかわるものも含めてすべてが人格をもたない世界が支配していたこともあらためて知らされた。
 同書によると、拘束されたものは身につけたものの全部をはぎ取られ、つづいてからだじゅうの穴という穴をすべて調べられた。それが終わると、ボックスと呼ばれる畳一畳の広さもない箱形の房に入れられ、取り調べを待つ。取調室はボックスに比べれば広いがそれでも2㍍×4㍍ほどのもので、机と椅子が一脚づつあるだけの小部屋である。被疑者はそのボックスと独房を往復しながら調べを受けることになる。そこで書かれていることはすべて私が経験したものだった。
 夢中だったことに加えて拘留が短時日だったこともあって、私はそうしたことのすべてを忘れていた。A・ドルガンが書いたものは、忘れていたことを私に思い出させた。
 ドルガンの場合はアメリカ大使館員の身分をもつとはいえ、ロシア国籍ももっていた。が、私の場合はそうではない。KGBの大佐に対して私はもっぱらそのことを主張した。互いにおぼつかない英語をもってしての会話である。それでも彼がいうことはわかった。要は、「反ソビエト扇動およびプロパガンダ」について規定されている国事犯事項の80条の10に該当するというのだ。無茶苦茶な論理だった。そう考えて反論したが、押し問答にもならなかった。そういうことになっているからそうなのだと言い張るのみで議論にならないのである。かくしてドルガンは15年の懲役刑に処せられ、刑期を終えてからも流刑され、つごう20年の拘留生活を強いられた。あのアメリカの大使館員がである。
 ドルガンの回想記を読んで慄然とした。アメリカ大使館員ですら20年だったとすれば、日本人のわれわれはどうだのか。写真は撮ってもらっていたし、世界中に配信されていた。おりからの国際世論も追い風になっただろうことは予想できる。が、しょせんは小国日本の極小政党がやる救援活動である。1年や2年で釈放されるとは思えなかった。あれが2年あとだったら、まちがいなくそうなっただろうと思う。しかし、もしそうなったとすれば、スターリン体制以外の時期にかの「収容所列島」を経験した唯一の日本人ということになる。そうすれば、私の人生は全く別のものになったにちがいない。私が「革命家たりうる度胸も節制も持ち合わせていない」ことが証されたいま、貴重な経験をした一表現者としていきるのもけっこう楽しかったかもしれない。
 このように「もし」と考えると、想念がめぐった。私たちの救出をよそに内輪もめがされたとは思えない。だとすれば、組織の分裂はなかった可能性がある。もし、分裂が不可避だったとして、どちら側の組織が私たちの救出のために動いたんだろうかとも思う。

 弟の訃報に接しながら、私は葬儀には顔を出さなかった。出さなかったというよりも、出せなかったのである。組織が分裂し、書記長に就任した段階で私は親兄弟の縁をすべて断った。そのことで実家からなにかいわれることはなかた。が、弟を売るということになると話は別になる。弟を襲撃した情報が私から出ていることは養家で知らぬものはない。実家でも同じである。そうした条件があるなかで、顔を出すわけにはいかなかった。会葬の通知は昵懇の仲だった弟の妻を通じて私の妻の手元に届いていた。しかし、一周忌のあとに妻が出したはがきに返事はこなかった。妻はしばらくは賀状を出していたようだった。それにも弟の妻からの返事はなかったようである。
『収容所列島』には、党と国家の方針を信じて肉親をKGBに売り渡した例が活写されている。そのようにしたのは貧しいロシアの無学なひとたちだけではなかった。党の要職にあるものほど生き残るために妻を売り、夫を売った。身を守るためにそうしなければならなかったとして、そのようにして守ったものを抱えて生きる残りの人生とはなんであったのか。やった当人はいい。だが、巻き込んでしまった妻はどうなのか。そう考えると、私の犯した罪は深いし重い。いちど堕ちたからには、底まで堕ちないことにはなにをしようにも始まらない。いまの私はそう考えている。了。(2010/2/21

 

下記「試作もくじ」の中では「ある元過激派の手記」と「私の20世紀」のみ転載する。

他に「突破力」「問われているものは何か」、「小野田譲二の批判」「司馬遷(新日文)」を予定しています。

 
 試作もくじ
 
 標題
 著者のコメント
 公表した時期
 
 
 
  標題のもとに書き始めた手記。〇六年三月号で公表している。1部のみであとを書いていないのは「左翼過激派の20年」に本格的に書くことにしたことが理由である

 2006/3-5
 
 
 
 
 
 自分史の試みとして書いたもの。全体で九章までの草稿がある。が、そのうちの二章までを〇六年八月号で公表した。今回の点検でわかったのは六章以降は未定稿なこと。だが、五章までは完成している。なぜ、五章までを公表しなかったのかについては理由を思い出せない。 

 2006/8
(別巻)
 
 
 
 
 
 
 
 
  同じ標題で覚え書きめいたものを書いており、それは未公表。小説家なんだから小説として書くべきだと考えたことが理由である。公表したのは〇六年九月号だが、書き始めたのはだいぶ前のことで、構想そのものは九十年代の早い時期に固まっていた。この調子で書き続けることも考えたがそうするには基礎的な知見が決定的に補足していることを知らされ、途中で放棄した。中身としては、処女作の「序章」を受けた「第一章」として書いたものである。
 2006/9
 
 


  六年九月号から〇七年三月号で公表したもの。その前に七月号で番外編(然るべき本編の予告編)を公表している。この号の中身については過半を本編で使っている。文字どおり「予告編」だったといってよい。

 2006/9-07/3
 
 
 
  八年十一月号で公表したもの。公表したのはこの?部(191722)だけが、書きかけの草稿は1950年ころのものまである。時間が許せば、つぎに取り組みたいと考えている課題である。
 2008/11


2章 1950年代という「時代」(その2)

断わり書き

 この手記を書くにさいして私は「序にかえて」で次のようにことわりを述べておいた。

(小野田の手記の)どこの、どれが、どうお粗末なのか、どの部分の、なにが、どのように正鵠なのかについて書くには、いましばらくの準備が必要だ。準備不足のいま、それらについてはおいおい書くことにして、以下、小野田が提起している問題の核心だと思うことについてふれ、この手記の序にかえたい。

 ここで私がいいたかったのは、本来なら小野田が提起したことの中身について書くべきところであるが、その準備がいまはない。で、「とりあえず」は私がこれまでに考えてきたことと小野田の提起と関係があると思われることについて書き連ね、準備が整い次第、本論に入る――ということだった。前号で私的な体験を書き連ねたのは、時間を稼ぐための苦肉の策だったのである。準備不足はいまでも変わりない。が、いつまでもこの種の体験談を書くことが本意ではない。そこで無謀を承知のうえで6月号からは本論に入ることに決めた。とはいえ、標題に据えた「過ぎ去りし日々を問う」とした問題については依然として課題として残っている。で、この課題については別の形で書くことにし、今号は50年代とはどういう「時代」だったのかについて簡潔に述べ、とりあえずのしめくくりにする。

1950年代はどういう「時代」だったのか。

 前章では1939年にこの国に生を受けた私・今井公雄の個人的な体験を通じてこの国の50年代の素描を試みた。それはひとことでいうと、近代における最後の世界戦争が終わり、世界が再編成される時期だったといえる。戦争の終結からあとの5年間(つまり40年代の後半)のこの国についていえば、経済的には絶望的な貧困が支配していた。遅れて植民地争奪戦に乗り出した日本はいくばくかの植民地を確保し、2流であったとはいえ列強と肩を並べる強国に成り上がっていたが敗戦でそれらの全てを失った。その結果、最貧国に成り下がらざるをえなかったのである
*1。それにつづくこの国の50年代とは、国勢再起の助走を始めたところで米ソ2極対立の渦にまともに巻き込まれ、国論が真っ二つに分裂した時代だった。*1 50年代の全学連活動家だった森田実は『前後左翼の秘密』(汐文社)の中でこの絶望的な貧困が多くの有為な青年を過激派に走らせた根底にあったことについてふれている。

 右に指摘したことを如実に示す事件を50年代後半から拾い上げてみよう。(はソ連、はアメリカ、が日本に関連する事件)

57年〉57・2 南極観測船「宗谷」が2週間にわたって南氷洋に閉じ込められたが、ソ連の砕氷船オビ号が救出。①57・9 リトルロックで黒人高校生の入学をめぐり空挺部隊が介入。②5710 スプートニク打ち上げ①5712 同2号にはライカ犬が搭乗。58年〉58・1 ソ連に遅れること3ヵ月でアメリカがエクスプローラー打ち上げに成功。
    エサキダイオード海外で反響を呼ぶ。③58・3 スバル360登場。③5812 東京タワー完成。59年〉59・1 キューバ革命、ソ連が月ロケット打ち上げに成功。①59・6 全学連14回大会でブントが制す。唐牛委員長の誕生。③59・7 児島明子ミスユニバースに。③59・8 ブルーバード発売。③59・9 キャンプデービッドでフルシチョフがアイゼンハワーとトップ会談をおこない、どちらの体制が優位かを競争しようと提案する。

    小澤征爾が国際指揮者コンクールで1位を獲得。

    東京地評、全学連国会突入。③5912 在日朝鮮人帰国運動で第1陣が北朝鮮に帰国。


 右に列記した事件を俯瞰すると、この時期の特徴が明白になる。

 第1に、技術力という点でソ連がアメリカに比べて優位に立っている(かの)ように見えたこと。第2に、黒人問題に象徴されるようにソ連に比べてアメリカのほうがより問題を抱えている(かの)ように見えたこと。第3に、この時期になって日本も列強に追いつく機運が現れ始めたこと。この3つである。


社会主義労働者国家信仰

 前項でふれたことを踏まえ、前章に倣って右に列記した事件にさいして私が感じたことを連ねてみる。
 まずは宗谷が南氷洋に閉じ込められたのをソ連の砕氷船が救出した件。
 57年といえば11月にフジテレビの開局が発表され現在の8局体制がほど整った時期である。いまとちがってリアルタイムではなかったが映像が茶の間に入ってくる走りの時期で、ソ連が提供する救出劇の映像は衝撃的な訴求力をもっていた。新聞に掲載される写真とちがって14インチの画面に映し出されるモノクロの画像は、そうであるゆえに視聴者の想像力を駆り立てるものだった。
 閉じ込められた宗谷が写る画面の上方、水平線の彼方に米粒大のオビ号が姿を現しゆっくりと接近してくる。画面は少しづつ大写しになり、オビ号の動きが手に取るように見えるようになる。オビ号は船首をもたげ氷の上に乗り上がる。次ぎにゆっくりと船首を下げる。腹を見せていた船首が沈み、分厚い氷が見事に砕ける。オビ号は休むことなく尺取り虫に似た動きを繰り返しながら宗谷に近づいていく。その跡には砕けた氷塊の間に海水が見え、水路が開かれているのが素人目にもわかる。
 テレビの黎明期のことである。ほとんどの国民がこの映像に釘付けになったはずである。宣伝効果という点では3重の花丸だったといっても過言でない。2,600㌧の宗谷と12,840㌧のオビ号の差は、観るものにとってそのまま国力と技術力の差として映ったのである。
 この映像が誇示した日ソの差は、人工衛星の打ち上げをめぐる米ソの差によってダメ押しされる。ソ連は5710月にスプートニク1号を打ち上げ、12月にはライカ犬を載せた2号を打ち上げる。宇宙船の丸い窓枠にちょこんと両足をのせて無邪気な表情をしているライカ犬の愛くるしい姿を写真メディアはこぞって報じた。アメリカはこれに遅れること3ヵ月後の58年1月にエクスプローラーを打ち上げる。が、追いついたと思ったのも束の間で、1年後の59年1月には月ロケットでも後れをとる。それだけではない。同じ1月にはアメリカの裏庭であるカリブ海でキューバ革命が成立、ダメ押しされる。

 こと生産力という点にかぎっていえば、全てに計画的である社会主義経済のほうが人々の欲望に則って無際限に生産する資本主義経済よりも優位にあると考えたのは当然だった*2。私もそう考えたうちのひとりだった。だから、2つに分割させられたドイツと朝鮮についても同じで、西ドイツよりも東ドイツ、南朝鮮よりも北朝鮮のほうが経済的には優位にあると考えていた。こうした認識はひとり私だけのものではなく、広く世間一般にも受け入れられており、5912月には在日朝鮮人の帰国運動で第1陣が北朝鮮に帰国することになる。帰国運動に参じた在日朝鮮人は南の出身者のほうが圧倒的に多かったにもかかわらず、こぞって北への「帰国」を望んだ背後には理想の国・社会主義労働者国家とする信仰の存在を抜きにしては語れない。
*2 目標を定めておこなう国家総動員態勢には計画経済のほうが効率的であり、いわゆる自由主義経済が不向きであるのは理の当然である。しかし、計画経済が全体主義を必然化することにまで思いが至るには、90年代のソ連崩壊まで待たなければならなかった。

アメリカの暗部と日本復活の兆し

 私はアメリカこそ民主主義の総本山であると教えられた第1世代に属する。中学の英語の教科書は『Jack&Betty』といい、アメリカのものを直輸入したとおぼしい中身にあふれていた。独立戦争と並んでニューディールの成果を誇らしげに述べた記事が載っており、それを疑うことなく教えられた世代の走りだった。
 こういうことがあった。高校3年のときだった。学研が出していた受験誌から私が属していた新聞部宛に試写会出席の依頼がきた。紙上でおこなっている映画評のために封切り前の映画を観て、紙上討論に参加するというものだった。封切り前に観られるということで、私は映画好きのYとふたりで参加した。映画はローレンス・オリヴィエ主演の『オセロー』とジョン・ウエイン主演の西部劇『捜索者』。合評会ではもうひと組参加した女高生はほとんど発言せず、もっぱら私とYがしゃべりまくった。話が原住民差別に及んだときのことである。アメリカ人はああいう差別はしないはずだという私の発言を司会をしていた編集者が咎めた。「アメリカの人種差別はきみが考えているほど生やさしいものではない。」
 沈痛な面持ちで押し殺したように吐かれたその表情に、私は「無知ほど怖いものはないということ」と「そうしたものであると教えられていること」に対する無念を看てとった。そういうことがあった直後だっただけに、戦前の軍国小国民ほどではなかったがアメリカ民主主義を素直に信じていた私にとって、リトルロックがもたらした衝撃は大きかった。
 アメリカで、黒人解放を目指したはずの南北戦争から百年になんなんとするのに依然として黒人が差別されていることが暴露されたのは、50年代の後半に入っ

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