カテゴリ: ☆☆私本『狂おしく悩ましく』の本体


  • 【ブログ注】
    当ブログでも軽く触れたことがありました。
    以下はその抜粋です


    29      「勝共の謀略」事件

     87年7月、広島大の構内で教官(総合科学部長)が殺害され、マスコミは連日、事件の真犯人捜しに夢中だった。
    『前進』に、勝共連合(統一教会=原理研)犯人説が載った。たぶん直後の会議で、水谷さんが苦笑しながら釈明した。「中国・四国地方委員会からの強い要請を断り切れなかった」と言う。
    大学全体が興奮状態の中、勝共が「犯人は中核派」という大キャンペーンに乗り出した。「中核派ならやりかねない!」という空気に追い詰められて、中核派も「勝共=犯人」説で反攻に出た。「9割方、勝共だ」という意思一致がうまく進まない。『前進』の権威で説得したい、そんな事だった。何人かの編集局員が「それは無謀だ」と批判したと思う。…【以上転載】

    【ブログ注】
     追い詰められて『前進』紙上でいわば「カウンターキャンペーン」をして、結局は『前進』の評価を地に落した、ということだったね。結局は自己批判すらできなかった。
     根本的な問題は、右翼や極右との対決を、中核派はしたことがない。避け続けた、ということなのだと思う。 
     そう。山谷での右翼・暴力団との対決にも、中核派はそ知らぬふりを押し通した。靖国との対決にも及び腰だった。
     民間反革命の「ファシスト・カクマル」との戦争にあれほど生死をかけてきたのに、あれはいったい何だったのかと思いを致すね。結局は対権力(垂直的対決)と「水平的対決」としての「左翼内」での内ゲバが全てだったのか?「反スタ」も何かちんまりしたものになっちゃったし。
     真逆なのはオウムへの関りだった。人権派弁護士たちが「オウムへの破防法適用も反対」と動いた時、「オウムを擁護するのか」と脚を引っ張った。破防法に反対する人々は「中核派は自分の為にだけ破防法に反対したのか」と驚いた。

    【ブログ注】
    当ブログの過去記事を読んでもらうと長くなるので、「統一教会・自民・維新」の検索結果は別記事に移しました。
  • 引用してくれています。
    サブタイトルは

    み~んなそろって、闘争勝利!でもやっぱりメットは、白でしょ

    67年10・8羽田からの活動家で、前進社の神奈川支社から本社で編集局員までやった人の、90年代初めごろまでの記録である。まぁ、いろいろとあったんだなぁ~といことが分るが、「対カクマル戦」→「先制的内戦戦略」…すなわち革命軍戦略になっていく過程で、どんどん党が硬直化していき、「上意下達」「軍令主義」に陥ってきたことが分る。

    もちろん個人の記録だから、主観や思い違い等があると思うが、いろいろ学ぶべきことも多いものだ。
     
     

    投書

    豊田直巳さんの疑問を読んで

    SM

     ①エンゲルスは、共和制の国ぐに・または非常に大きな自由のある国ぐにでは、社会主義への平和的発展を想像しうることを認めています(レーニン、『国家と革命』)。「革命は、暴力でやるものではない。少なくとも、議会制民主主義が成立し、言論や結社の自由、表現の自由がそれなりに保障されているような社会では、武装闘争が革命を主導するなどということを考えることは出来ない」。日本革命的共産主義者同盟(JRCL)の高島義一(右島一朗)さんは、『かけはし』の2003年8月11日号で、そういう意味のことを述べています。私は、これらの考えを支持します。
     ②でも、ビルマの軍事独裁政権は、ひどすぎます。ビルマの軍事独裁政権は、非暴力のデモに参加する人びとに対して、暴力を振るっています。非暴力のデモに参加する人びとを殺りくしています。「合法的な集会やデモ、ストライキなどによって、民衆の主張を打ち出し、世の中のあり方を変革する条件を持たない社会、すなわち警察や軍隊の厳しい弾圧によって合法的な意思表現が許されていない社会――そのような社会においてのみ、武装闘争が選択肢になることを、ゲバラは明確に言っている」。太田昌国さんは、『チェ・ゲバラ プレイバック』(現代企画室)の中で、そういう意味のことを述べています。ビルマのような国では、人民が武器をとって立ち上がることも、頭から非難されるべきではないのではないでしょうか。「ビルマVJ 消された革命」(アンダース・オステルガルド監督作品/2008年/デンマーク映画)を観て、私は思わずそう思いました。もちろん、どのように闘うかは、ビルマの人民が決めるべきことです。ビルマ人民に「武器をとって立ち上がれ」などということを、私は要求しているわけではありません。
    ③「不当な暴力は、許されない。だが、正当防衛なら、許される。革命的非暴力主義者は、革命的暴力(やむにやまれぬ暴力)は認めている。『娘と話す 非暴力ってなに?』(ジャック・セムラン著、山本淑子訳、現代企画室)を読めば、そのことが分かる」。私は、そう書きました。「武器も持たず、むざんに殺されようとしている人びとを助けにいく場合は、暴力を用いても正当化出来る。「人道に対する犯罪」又は「虐殺」と呼ばれる、組織的な恐ろしい犯罪の犠牲者を守る場合だ」。ジャック・セムランさんは、『娘と話す 非暴力ってなに?』(山本淑子訳、現代企画室)の中で、そういう意味のことを述べています。レイプされそうになった女性が男性を撃退するために暴力を振るうようなことまで非難するのは、間違っているのではないか。アウシュヴィッツに囚われた人びとを解放するための暴力まで非難するのは、間違っているのではないでしょうか。日本軍国主義をアジア太平洋から撃退するための暴力まで非難するのは、間違っているのではないでしょうか。私は、そう思います。
     ④では、「不当な暴力」か「正当な暴力」かは、誰が判断するのでしょうか。普段は、それは裁判所が判断するのかも知れません。でも、裁判所の判断が常に正しいとは限りません。それに、独裁政権に対して人民が武器をとって立ち上がったとします。「独裁政権下の裁判所」が人民の抵抗を「やむにやまれぬ暴力」として肯定するようなことは、ありえないでしょう。でも、歴史と人民は、「独裁政権下の裁判所」とは異なる判断をするかも知れません。歴史と人民は、革命を支持するかも知れません。歴史と人民が、人民の抵抗を支持する例は、たくさんあります。
     ⑤内ゲバには、私は絶対反対です。『かけはし』派が中核派に報復するなら、私は『かけはし』派を支持しません。「三里塚『3・8分裂』と第4インターへのテロによって、中核派は『革マルと同じ』と忌み嫌われる党派になってしまった」(元中核派・編集局員 黒田・白土・刈谷著、『狂おしく悩ましく――『前進』編集局員の事件録』)。そう主張する人もいます。でも、良心的な内ゲバ殺人集団など、そもそも最初から存在しえないのではないでしょうか。存在しえなかったのではないでしょうか。内ゲバそのものが、間違っているのではないでしょうか。間違っていたのではないでしょうか。私は、そう思います。
     ⑥レーニンは、『プロレタリア革命と背教者カウツキー』の中で、「ソヴェト権力は、もっとも民主主義なブルジョア民主主義の百万倍も民主主義的である」と主張しました。「北朝鮮」(朝鮮民主主義人民共和国)のどこがブルジョア国家の「百万倍も民主主義的」なのでしょうか。中国のどこが他のブルジョア国家(ただのブルジョア国家)の「百万倍も民主主義的」なのでしょうか。私は、疑問に感じます。レーニンは、「ソヴェト権力は、もっとも民主主義なブルジョア民主主義の百万倍も民主主義的でなければならない」と主張するべきだったのではないでしょうか。「ソヴェト権力は、民主主義的である」ではなく、「ソヴェト権力は、民主主義的でなければならない」と主張するべきだったのではないでしょうか。
     左翼は、暴力に甘過ぎたのではないか。民主主義を軽視し過ぎたのではないか。革命党派といえども、「間違った判断」を一〇〇パーセント防ぐことは出来ないのではないか。民主的左翼は、この問題をどう考えるべきか。私には、良く分かりません。
     ⑦豊田直巳さん。「『やむにやまれぬ暴力』も正当化されない」(『かけはし』2010年8月2日号)を読みました。ご指摘ありがとうございます。「日本革命は、暴力でやるべきだ」などいうことを、私は主張しているわけではありません。豊田直巳さん。分かりにくい文章だったら、ごめんなさい。勉強不足のために、何か間違ったことを言っていたら、ごめんなさい。
    (2010年8月1日)

    お奨めの言葉
    Aさん とにかく体験談が面白い。そのなかに考えさせるものを包み込んでいる
    Bさん 主題は「生活感と主体性」
    Cさん 「大人になれなかった中核派」という平凡な結論に共感する。
    Dさん 本社の中に60年代的な気風を漂わせていた人がいたのを思い出す。
    Eさん 国家・民族=民俗、「沖縄の自決」論。新旧の問題意識が息吹いている。
    Fさん 若い私には、「これだったのか」と思えるものがある。

    イメージ 1

    イメージ 1

    イメージ 1

    ↑このページのトップヘ