カテゴリ: ☆☆私本『狂おしく悩ましく』の本体

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装甲車を占拠した中核派

私の履歴

1947   誕生(長野生まれの前橋育ち、兄1人)  
1954 群大付属小学校入学 
1959 父の死
1960 群大付属中学校入学
1963 前橋高校 入学
1966 埼玉大学 入学
           5月マル学(中核派)加盟
  10.21国際反戦デーで初逮捕?
1967  10.8羽田闘争(行動隊)
1968. 2月?民青執行部をリコール。理工学部委員長、全学副委員長
  3.28米軍王子野戦病院開設阻止で突入・占拠。初起訴
1969. .15。4.28沖縄闘争で事後逮捕
 9・18 芝工大で、滝沢紀昭氏が死亡。のち、同期の1人岡宮氏自殺
1970 ..19。母の死で仮出所。再収監
   10月?、保釈(M先生宅に寄宿・居候)
1971 4月、横浜で働く。ガソリンスタンド、非破壊検査技士

○×
1972  結婚

1973  解雇。プログラマーに転職
1974  キーパンチャー会社「支店長」。自宅を襲われ職場への脅迫文、辞職
     前進社神奈川支社の専従
1975 息子誕生
1977  5.29三里塚鉄塔決戦で逮捕・起訴
1978  本社へ異動(『前進』編集局),離婚(31才)
1985 三里塚で下獄(横浜刑務所)
1995   編集局を解任、退去(48才)
2002 中核派に最終的決別の手紙
現在        都内のタクシー乗務員
 
 

ダム破り溢れる水にサオ差さん
  紅葉燃えけり生命も萌ゆる

追悼・白井朗さん
09年7月25日、白井朗さんが亡くなった。ちまたでは「学究肌」と言われる白井さん、白井さんと再会して、私は人間と生活への豊かな関心を取り戻した。実にいろんな話をした。話すことが楽しくなる人だった。
しかしまた白井さんとの間に対立も生まれた。その理由のひとつは、お互いの知る「今の中核派像」の違いだった。80年代末に政治局の小委員会に復帰した白井さんにすら、清水さんは中核派の実態を知らせていなかったのだ。本稿は、その対立を埋めるための作業でもあった。白井さんとの最後の電話での会話は、「まだ書き上げていないのか」だった。
白井さんの遺稿集となった『20世紀の民族と革命』『マルクス主義と民族理論』(ともに社会評論社)は「社会主義の挫折と再生」を照らし出す。一読をお勧めする。

エピローグ
諸方面からの反響も、おおむねは好感を持って受けてもらえたようだ。「自分も手記を書く」「書き直す」という声がうれしい。「元中核派は口が重い」という時代から、お互いに重い口を開く過程に入ったのだろうか?
私の手記には「現場で責任をとって戦い抜いてきた人々の激しい思いと体験が欠けている」という声もある。
わずかながらだが、この手記への反響として知りえたこともある。三里塚の「3・8分裂」が大衆運動の現場でどう進んだのか、その諸相。第4インターへのテロに対して激しく批判した同志たちの存在。さらに、02年のテロに反対し、あるいはその拡大に反対した人たちの存在。
06年の「3・14」(関西の「党の革命」)と以降の中核派の分裂・対立は、ある面では過去を振り返ることで読み取ることもできた。91年の転換を「茫然自失と敗走の開始」と見ればいい。80年代の中核派の陣形を考えればいい。
「安田派中央」の変質ぶりは度肝を抜くほどだ。けれど、それとまともに対決も出来ずに敗退した清水さんにこそ、問題の核心があると思う。そしてこの期に及んでも、公然と反旗すら掲げられない古参の元・同志たち‥。
他党派の人からは、「それなのに何故、何時までも中核派に固執したのか?」と糾される。これこそ最大の難問だ。旧来の意味での「一所懸命」が私の特性だったのか。「地方都市出身の私」の精神風土ということか?
ある人は、「流浪感」という。「心の故郷」の不在か?
私自身、この手記を書くことで、自分自身のリハビリとした。恥をかき軽蔑される過程が必要なのだと思う。その中にこそ生きた証がある。                         2009・8・21
増補
今回、計6頁分を付け加えた。3章「定在戦場の臨戦態勢」、5章「錯乱」、8章「生い立ち」。あとは注とコラムで補った。本文は変えていない。
              2010・5・3

終わりに

中核派の風通しの悪さ、私のポジション、私自身の触覚の鈍さ――自分でやった事の意味や結果も、知らない事ばかりだ。今でも友人には、「刈谷は昔から、競馬ウマだったからな」と笑われる。「前しか見えない、前しか走れない」。
 おかげで仕事中、いろんなミスやトラブルを生んでしまった。頭のモードが切り替わらないと「地図・コース」が浮かばない。迷惑をおかけしたお客さんには、ごめんなさいと言うしかない。
 私を中核派から、「前へ」引き離してくれた友人・知人には感謝したい。特に白井さん、Wさん、そして「女性の視線」をくり返してくれた女性たち。また元中核派の多くの人々。
 
「党」の1員として私自身が関わって来た犯罪、――私はまだ答えられない。私が立ち上がる時、私は「答」を出さなければならない。果してどんな答えがあるだろう。
 しかしまた、私は私の歩んできた道を悔いてはいない。たとえ誤った道であったとしても、そこには他に得難い、熱い日々があった。やはり巨大な歴史ではあったのだ。私は「フランスの内乱」のマルクスに習いたい。パリ・コミューンがたとえ無謀な闘いであったにせよ、その限りない教訓を学ぶ。そうありたい。
 
 私はここ十余年、葛飾区四つ木に住んでいる。知る人ぞ知る四つ木。知らない人には墨田区の社会教育会館で、丸1日つぶす事をお勧めする。仮に私が無為のままここで終えたとしても、この地に生きたという事、それ自体として意味はあるのかもしれない。これも会縁(えにし)だ。今しばらくは、己の足下を掘り続けよう。いつの日か「私の言葉で世界を凍らせてみせる」。
私がしてみたいテーマは「警察社会主義」だ。警察とそのOBたちの政治的・社会的役割を捉えてみたい。中曽根臨調を支えた後藤田、そして動労革マル・松崎を「弟分」と呼んだ秦野がいる。近年では建設族のドンであり、「死刑廃止」の亀井がいる。私の住む葛飾は、平沢勝栄が牛耳っている。
平沢は「パチンコ議連」「日朝議連」「日韓議連」のボスだと聞く。朝鮮総連の本部事件での元公安の役割と、平沢の立ち位置はどう結びつくか?在日や被差別、底辺労働者と全般的に向い合うのは、警察や暴力団だけか、という思いが消えない。
「中核派」は、今でも私の心の故郷だ。「故郷は遠きにありて思うもの」、いい詩だ。    2009・6・1

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