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 ちょうどお客を降ろしてラジオのスイッチを入れた時、「人質事件」がアップされ、ニュースになっていた。
 こんな時はTBSラジオのニュース解説が少し深読みでいい。
 しばらく車を止めてラジオに耳をすました。

 だいぶしばらくして会社に帰ると、窓口のじいちゃんが騒いでいる。
 「刈谷さん、大変なことが起こっているんだよ」。「どうしたの?」
 じいちゃんは1人興奮して、イスラム国が「要求」した2億ドル?の話をする。
 私は答える。「いや、その額は『イスラム国を叩き潰すための人道支援』の額で大した意味じゃないらしいね。ま、そのうち10分の1か100分の1かで収まるか、それともまったく別な要求になるんだろうね」
 じいちゃん。「イスラム国ってどうしようもない奴らしい。原爆でも持って行って落としてやればいい」
 「参ったね」と思うが、小さな世間だし、このじいちゃんとも今後長く付き合わなければいけないのだからできれば穏便に落とし所を見つけたい。とはいえ周囲には何人かが無関心を装いながら聴き耳を立てていそうだ。
 「イラク戦争の時にアメリカの空軍兵士が叫ぶんだよね」と始めて見た。
 奴らはテレビ画面みたいなものを観ながら「イラク人達め、隠れていないで正々堂々と出て来い。堂々と勝負しろ」とか喚きながら、スイッチを押すんだ。と、ミサイルが飛んでって建物を丸ごとぶっ飛ばすんだ。なにが「堂々と」かね。どうせやるならお互いに刀か槍で体を張ってやんなくちゃね。
 と、脇で聞いていた(少し)若い同僚が、「観た、観た。そんな場面があったよね」と軽く割り込んできた。
 気持ちが通じればいい。互いににやりと笑って、日報の作業に戻り、洗車になる。
 とにかく今日の疲れを取り戻すためにゆっくり休まなくては。
 

 

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「いざダメとなっても何とか生きて行ける自信がある」(byふなっしー withe 阿川)
「ストレイシープの歳、都市。いや年。でも神や仏はいらない。カリスマもいらない。私が小羊」
(たまに期間や範囲の限定付きでいてもいいけど)(by 白土)
 
          2025年元旦 プライベートな年賀状からの転用だらず。ずら。だず。
 

色川哲郎氏がどんな人かは、ブログを参照してください。
諸方面の人物の論評などを転載もしていて、勉強になる。
 
色平 哲郎
10月16日 10時26分
色平 哲郎さんが大場 亮さんの写真をシェアしました。
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色平 哲郎
10月16日 08時55分
孫崎享氏の視点ー<2013/10/16>

原発と報道―大学生へ。マスメディアだけなら事実は知らされない。

私は15日、かなりしっかりした大学で講義した。

 その中で私は「皆さん、原発に関心ありますね」と前置きした上で、4つの事実を知っていますかと聞いた。約150人位、どれもほとんどの学生は知らない。

 各々は今後の原発政策を決める貴重な情報を提供している。

1:2005年2月23日、石橋克彦神戸大学教授の衆議院予算委員会公聴会での発言(地震が最も危険な要因)

2:キール海洋研究所発表の汚染水拡散予想図

3:福島原発一号機の現状(川内議員が入り、破壊は津波だけでなく、その前に地震で破壊されていた可能性ありの写真)

4:元宇宙飛行士秋山豊寛氏が事故後、即、福島を離れた理由(原発事故の人体への深刻度)

 これらの情報は当然ながら報道されていない。そのことは原発の現状認識を不十分なものとしている。

1:石橋克彦神戸大学教授の衆議院予算委員会公聴会での発言

① 「日本列島の大地震の起こり方に活動期と静穏期

② 現在、日本列島はほぼ全域で大地震の活動期

③ 「(大地震の際には)大津波。海岸の地形や何かによってはインド洋の大津波に匹敵する可能性

④ 「アメリカでは地震は、原子力発電所にとって一番恐ろしい外的要因。普通、原発の事故は単一要因故障といって、どこか一つが壊れる。で、その場合は多重防護システム、あるいはバックアップシステム、安全装置が働いて、大丈夫。地震の場合は複数の要因の故障、いろんなところが振動でやられる、それらが複合し、多重防護システムが働かなくなるとか、安全装置が働かなくなる、最悪の場合には炉心溶融とか核暴走

つまり、地震が一番警戒すべきだという情報が届いていない。

今。これを無視し、津波対策のみで再稼働しようとしている。

2:キール海洋研究所発表の汚染水拡散予想図

 安倍首相は汚染水は完全にコントロールと言っているが、2015年には米国西海岸に汚染到達。

 原発被害を過小評価しようとしている。

3:福島原発一号機の現状(川内議員が本年3月東電以外の人で唯一入る、破壊は津波だけでなく、その前に地震で破壊されていた可能性ありの写真をとって、報道機関に提供したがほぼ全ての報道機関が無視)

4:元宇宙飛行士秋山豊寛氏が事故後、即、福島を離れた理由(原発事故の人体への深刻度)

秋山豊寛氏はチェルノブイリ事故取材。大量の奇形児死産ホルマリンつけ目撃。原発事故の後遺症の危険を実感。よって原発事故後、福島で行っていた農業を捨て、即避難。

 個々の物は小さいかもしれない。

 しかしこれらを総合すると、事故の恐ろしさを過小評価する日本の中で、危険性を警告する報道がなされない。

 多くの国民は危険性を過小評価し、原発政策を促進しようとしている。 多くの国民はソーシャルメディアで自分で情報をとってくる必要がある。
 
孫崎亨氏は以下を参照

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これもどの程度正確かは議論のあるところ。
 
弥生期に数十万人として、‥現代の1県に平均1万人。
この頃の伝承を基にしたのがヤマトタケルだとすれば、肥後の国で「おーい」と読んでも、人っ子一人いなかった、というのもうかがえる。
邪馬台国の話と付き合わせれば、「人口の偏在」も浮き彫りになる。
 
「人が住める地域」は時代によって大きく規定されている。
大平野に人が集住するようになったのは、日本史上「つい最近」だ。
「社会の発展の結果」以前に、大地の活動がそれを許したという面もまた大きい。
 
これもまた、歴史観の土台になりそうだ。
 
 

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ウィキペディアから引用してグラフに直してみました。
 
弥生以前には、50%のシェアを占めていた奥羽(東北、主に東部)。
 
弥生期には中部(東山道・東海道)が発展。
 
奈良時代前後にようやく近畿が2割に達する。この時期、関東・中部・中国も同等。
 
院政から鎌倉初期に、関東・東北が発展する。
 
戦国時代は意外なことに、近畿が‥。
 
*ただ、人口統計学は、いまだに「科学」としては未熟で、推計には幅が広く、たぶんそれぞれの地域の人口は倍~半分くらいとして大まかに見たほうが良いのだろう。
とはいえ、歴史を学ぶのに、脇において空想をたくましくすることが必要だし楽しさが倍加する。
 
参照 近代以前の日本の人口統計
 

このカテゴリーは結局書かずに終わった。
「現役」の著名人の無残な姿を描くのも面白くない。
かといって、無名の「最高レベル」の幹部たちにも興が湧かない。
 
「体験」を公開します。
本文でまとめたことの準備校。削除したほうがすっきりするような気もするのですが。
 

9・19明治公園には少し遅れて参加しました。
四ッ谷駅で構内放送で「千駄ヶ谷駅は原発関連の集会参加者で構内がいっぱいです。ここから歩いて参加して‥」
 
明治・芝工大それと関東学院(エネルギー研)などのそれぞれのOB旗を見ました。
駆け寄って、挨拶しました。
もっと多くのOBグループが集まっていたのでしょう。
 
9・11は主として若者たちの行動でしたが、この日は50代・60代~が中心かも。
双方の緩やかな連携で一つの姿が浮かび上がればいいなと感銘しました。
 
青年館側は「市民団体ほか」の指定集合場所。「元かつ非中核派」のいくつかのグループに会いました。
 
現役の中核派系(中央派)の集団も中に埋もれていて、そこここでなじみの顔に合いました。
「やあやあ」とにこにこと近づくと、眼を逸らしたり知らない顔で無視された。
 
でもごくわずかだけれど、渋々話に応じる人も。
さらにわずかだけれど、「ブログ読んだよ。面白かったよ」という人も。
「仲間に教えてやったら面白そうに読んでいた」
 
この日、何冊か売れた‥。
 
 

イメージ 1少し遅くなりましたが、山口の若者のハンスト現場。経産省前の歩道に陣取っています。
テント脇には「9条改憲阻止の会」ののぼり。
数年前からの「6・15」陣形の発展した姿です。
「全共闘・全学連・全自連集まれ」の続き。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

No.34 奇兵隊1
 高杉晋作が下関で結成したのは、正規の軍である藩兵(正兵)に対して奇を行う兵、…すなわちゲリラ決行が目的の隊であった。上陸してきた外国軍と戦うには、陣を張って戦う軍隊方式よりも、不意打ちや神出奇没のゲリラ戦が有利であると考えたのである。
 当時はまだ武士道という厄介なものが残っており、正々堂々と闘うことが当然であったため、ゲリラ戦法に武士が喜んで参加する訳はないと晋作は感じていた。そこで憂国の志を持つ者は武士以外にも大勢いることを知っていた晋作は、その門戸を広く開いて、身分を問わず隊へ受け入れたのである。
 身分の区別無く平等に教育をする方針は、晋作の師である吉田松陰のものである。晋作もその影響を大いに受けて当然なのだが、彼が心の中で身分差別を完璧に排していたかどうかは、少々疑問が残る。
 奇兵隊は身分の別なく、皆平等に扱われていたかというと、そうではなかった。
 隊の規律には、「着服そのほか、かねてよりの御作法相守り、諸子、匹夫の差別相立て候様、隊長よりかたく取締まり仰せつけられ候事」とある。つまり、身分によって着る物やそのほかを、「差別相立て」ろと隊長命令があり、士分以外の身分の者を「匹夫」と差別をして呼んでいた記録が残っているのだ。
DATE:February 21 2000
 お茶飲み話TOPに戻る http://www13.big.or.jp/~kirin/img/ya.gif
No.35 奇兵隊2
 奇兵隊内では給料が支払われていたが、それも身分によって、十倍近くの差が生じていた。それどころか、身分問わずと看板を掲げながら、士農工商以外の被差別民達は、入隊すら拒まれていたのである。(逆に、被差別民ばかりの隊である「屠勇隊」結成の意見書を、吉田稔麿が藩に提出している。被差別民とも隔てなく交流した松陰の影響と、自らも身分差別を受けた経験によるものと思われる。)そして極めつけは、身分を偽って入隊した被差別民の者を、ただそれだけの理由で切腹させた史実も残っているのだ。
 もとは攘夷運動(外国からの防衛)のために結成された奇兵隊だが、その戦力は藩内の反対勢力の鎮圧と幕府軍を迎撃するために爆発し、圧倒的不利を乗り越えて、奇蹟ともいえる大勝利を納めた。
 奇兵隊はその後も東北や北海道などを転戦し、やがて帰藩する。
 すっかり正規軍と立場が逆転した奇兵隊を待っていたのは、藩による「兵の精選」という篩いであった。精選されたのは、当然士分の者達である。それ以外の者は脱隊させられたのだが、それに不満を持つ者達が結集して反抗すると、藩は追討軍をだして彼等を処分した。斬首された数は133人。輝かしい奇兵隊の歴史にこんな汚点が残ろうとは、その時すでに他界していた初代総督は知る由もない。しかしもしも晋作が生きていたなら、彼は果たしてどう行動しただろう。匹夫(士分以外の者)達に手を差し伸べ、ともに追討軍と戦っただろうか。それとも三味線を弾いて背を向けただろうか。
 
◎「歴史の教訓」と「史実」そして「ロマン」
 程よいバランスを計りたいと思います。それが不可能に近いのだけれど‥‥。白土kamui
 
また、「被差別部落民をも奇兵隊に取り入れていたという事実も特筆するべきである。」

1863年 奇兵隊結成

高杉晋作com
 
長州藩はアメリカやフランスの艦隊からの猛攻撃により、圧倒的な武力の差を見せつけられました。この難局を乗り切るため、長州藩主・毛利敬親は、隠遁中の高杉晋作を呼び出し、関門海峡の防衛についての対応策をたずねました。晋作は「奇を以って虚をつき敵を制する兵をつくりたい」との提案をしました。敬親は晋作のアイデアを承認し、下関の防衛を晋作に任せることにしました。これにより、10年の予定だった晋作の隠遁生活は、わずか2ヶ月で終わってしまいました。
平和な世の中に慣れてしまった武士だけでは、力にならないと感じていた晋作は、身分に関係なく広く兵士を募集しました。これは、吉田松陰の教えの中のひとつ、「草莽崛起(そうもうくっき)」という考え方によるものです。「草莽崛起」とは、すべての人が身分に関係なく世の中をよくするために立ち上がろうという思想です。吉田松陰の教えを忠実に受け継いだ高杉晋作は、奇兵隊の結成に草莽崛起の思想を取り入れました。
こうして集まった民兵組織「奇兵隊」を、下関の白石正一郎の邸宅で立ち上げ、初代総督に就任しました。
高杉晋作が立ち上げ、その後、討幕に向けて大活躍することになる奇兵隊ですが、晋作の奇兵隊総督としての役目は、わずか3ヶ月で終わってしまいました。長州藩には、武士だけで構成された正規軍がすでにありましたので、いうなれば新参者の奇兵隊とは、事あるごとに衝突していました。そしてついには、奇兵隊が正規軍先鋒隊の宿舎に押し入って、隊士を斬り殺すという事件も発生してしまいました。(教法寺事件)
これをきっかけに、高杉晋作は総督を解任されました。

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