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先日のこと。
お客さまが「尖閣」のことで憤慨していた。
「日本の領土が侵略されている時に民主党は何をしているのか!」
「軍隊がないからこうなる。このまま行けば日本全体が中国領土になる」
「今の若い奴らも軍隊で叩き直さなければだめだ」
 
私も客に合わせるしかない。
「そうですよね。ま、沖縄は残るでしょうがね」「う~ん。アメリカンだからなぁ」
「軍隊を作っても、イマドキの若い連中ですよね。奴らまともに戦えますかね?」
「だからこそ軍隊教育だよ」
「どうしますかね?軍事教練の教官は。どこから持って来ますかね?アメリカからですかね?中国からですかね?」
「う~ん。今の若い奴らじゃねぇ」

外務省の要約では以下のとおりです。
(1)1957年~58年の「国際地球観測年(IGY)」に南極において実施された国際的科学協力体制を維持、発展させるため、1959年、日、米、英、仏、ソ等12か国は南極条約を採択した。同条約は南緯60度以南の地域に適用されるもので、以下の点を主たる内容としている。
(イ)南極地域の平和的利用(軍事基地の建設、軍事演習の実施等の禁止)(第1条)
(ロ)科学的調査の自由と国際協力の促進(第2、3条)
(ハ)南極地域における領土権主張の凍結(第4条)
(ニ)条約の遵守を確保するための監視員制度の設定(第7条)
(ホ)南極地域に関する共通の利害関係のある事項について協議し、条約の原則及び目的を助長するための措置を立案する会合の開催(第9条)
(2)南極における領土権問題
 現在、南極地域で実質的な科学的研究活動を行っている国の中には、南極の一部に領土権を主張している7か国(クレイマント:英、ノルウェー、仏、豪、NZ、チリ、アルゼンチン)と領土権を主張しないと同時に他国の主張も否認する国(ノン・クレイマント:米、ロシア、我が国、ベルギー、南ア等)がある。また、ノン・クレイマントの中でも、米、ロは現状では領土権を主張しないが、過去の活動を特別の権益として留保している。南極条約においてはクレイマント、ノンクレイマント双方の立場が認められ、基本的立場の違いはあるものの、対立を表面化させずに共通の関心事項について対処するよう努めている。
(3)我が国は、1960年8月4日に南極条約を締結し、以後、南極条約協議国(Antarctic Treaty Consultative Parties)の一員としての責務を果たしており、同条約発効以前より実施している観測等科学的調査活動は国際的にも高い評価を受けている。
 
ウィキペディア
南極は気象条件が厳しいため人の定住が困難であり、長い間未踏の地であった。しかし1908年イギリスが南緯50度以南、西経20度から80度に至る範囲の諸島の領有を主張したのを切っ掛けに、他の国も南極の一定区画の地域の領有を主張するに至った。国際法における国家領域取得根拠としては先占 (occupation) があるが、南極はその気象などのため実効的支配が困難であり先占の法理をそのまま適用するのは無理があるとして、先占がなくても一定の範囲で領域の取得を認めるとするセクター主義が主張された。
セクター主義には反対する国家も多く国際法として確立しているわけではなかったが、科学技術の進歩によって実効的支配の可能性も否定できなくなり、領土の獲得競争が展開されるのは必至となった。それを阻止し、南極地域(すべての氷棚を含む南緯60度以南の地域)の継続的な平和的利用のために締結されたのが、本条約である。
南極は気象条件が厳しいため人の定住が困難であり、長い間未踏の地であった。しかし1908年イギリスが南緯50度以南、西経20度から80度に至る範囲の諸島の領有を主張したのを切っ掛けに、他の国も南極の一定区画の地域の領有を主張するに至った。国際法における国家領域取得根拠としては先占 (occupation) があるが、南極はその気象などのため実効的支配が困難であり先占の法理をそのまま適用するのは無理があるとして、先占がなくても一定の範囲で領域の取得を認めるとするセクター主義が主張された。
セクター主義には反対する国家も多く国際法として確立しているわけではなかったが、科学技術の進歩によって実効的支配の可能性も否定できなくなり、領土の獲得競争が展開されるのは必至となった。それを阻止し、南極地域(すべての氷棚を含む南緯60度以南の地域)の継続的な平和的利用のために締結されたのが、本条約である。

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領土問題は、①戦争か②友好と利害のバーター、以外に解決しないものだと感じています。戦争を起こしたいと思うのでない限り、それ自体としては意味がない。
国内事情によって騒ぐのはお互い様。日本側の主張の唯一の「優位」は「実効支配」のみ。
尖閣は「日本の支配」、竹島は「韓国の支配」、北方領土は「ソ連の支配」という現状を前提に共同して解決を探るしかないでしょう。世界にはもっともっと深刻な「国境・領土問題」が存在します。
今も続く「沖縄の米軍支配」とは、百万県民の存在という質的な違いがあることをどう語れるかでしょう。
 
東京新聞の記事を転載します。
 
 
2010年11月2日 東京新聞 23面 こちら特報部
日米同盟強化が狙い?
前略 中国は)尖閣問題について「棚上げ政策」を取つてきた。日本側も、中国側の「棚上げ政策」に乗っかる形で実効支配を続けてきた。これが最も端的に表れているのが、二〇〇〇年六月発効の日中漁業協定だ。
 旧協定では、それぞれの領海(沿岸十二カイリ約二十二㌔)の外側は、両国の漁船がその国の取り締まりのもとで自由に操業できた。それが日中両国が一九九六年に批准した国連海洋法条約に基づき、領海線から二百カイリ(約三百七十㌔)に経済的な権利が及ぶ代わりに、資源管理などの義務を負う「排他的経済水域(EEZ)」を設定する必要に迫られた。
 だが、東シナ海は双方のEEZが重なる上、尖閣問題が絡む。このため、現協定では、日中のEEZを画定しないまま、尖閣諸島を含む北緯二七度以南は従来通り、双方が自由に操業できる水域に指定。領土問題を棚上げした
 現協定は九七年の署名以降、二年半ほど発効できない状態が続いたが、これは、北緯三〇度四〇分以北の海域で、両国が相手国の許可なく操業できる範囲をどのように定めるかでもめたためだ。

 では、今回の事件を漁業協定との関連で検討するとどうなるか。衝突は一、二回目ともに領海内。領海内は、漁業協定は適用されず、外国人は操業できないとする外国人漁業の規制に関する法律の対象だ。停船させて立ち入り調査したのは領海外だが、公海上であれは、追跡することは国際法上認められている。

 ただ、日本政府は従釆、中国漁船が尖閣諸島周辺の領海内に侵入しても追い払おうとはするが、「実力行使」は避けてきた。事実上、領海内でも、漁業協定が「準用」されてきたともいえる。元外務省国際情報局長の孫崎享氏は「日本は領海内であっても漁業協定の精神で対処してきたが、今回は二れを逸脱している」と指摘する、つまり態度を変えたのは日本の方だという。
それは、なぜか。
孫崎氏は、民主党政権が日米同盟の強化を狙って方向転換を図ったとみる。「日米のタカ派は事件を契機に、日本の防衛予算の強化を狙っている。民主党の議員は過去の経緯を知らず、前原誠司外相らタカ派の意見に引きずられている」
中国出身で現政府に批判的な評論家石平氏も「中国は海洋権益を拡大しようとしているが、このタイミングで尖閣カードを切ろうとしたとは思えない。中国には予想外の出来事だった」と推測する。同時に「編集したものを一部議員にしか見せないのでは説得力がない。中国に反論する余地を与える」と批判する。
 とはいえ、ビデオの取り扱いがどうなろうと、中国は、領有権を強硬に主張し続けるとみられる。それだけに孫崎氏は、いたずらに中国を刺激するよりも、「棚上げ論」こそ日本の国益にかなうと主張する。
 「中国政府が自国漁船の出漁を抑えなけれぱ、尖閣近海に中国漁船が押し寄せる。日本はすぺて逮捕するのか。中国の協力なくして問題は解決しない。事態の沈静化を図って中国を棚上げ政策に戻すぺきだ」        
― 
デスクメモ

普天問移設問題が 中国脅威論が幅を利かせれぱ、必然的に日米関係の強化へと世論ぱ傾く。迷宮へと入り込んだ今、親米の菅内閣には、またとない追い風だ。奇妙なことに北の脅威までも揺さぶり攻撃を始めた。きな臭いご時世だ。こんなときこそ気を落ち着けて、誘導に乗せられる愚だけは避けたい。(充)

 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

1      狭山と組織論

石田郁夫さん

 全国狭支連代表の石田郁夫さんに会いに行ったのもこの頃だ。関内駅の近くに、石田さんは住んでいた。
当然、党の「担当者」はいるはずだ。内戦下、「系列の1本化」が強調されてもいた。「会いに行ってはいけない人」と思いながら、私は「知性」に餓えていた。
自己紹介して、来た訳を弁明した。革マルの擬装と思われないか、ひやひやした。快く受け入れてくれた石田さんにホッとした。頭の中が内戦でいっぱいの時の事だ、話題作りにギクシャクしながら、石田さんのリードでいろいろ話が出来た[1]
 伊豆七島・新島の米軍射爆場反対闘争に、共産党のオルグとして活動した話は興味深い。骨肉相食む村人たちの葛藤があった。
反対闘争の傍ら、石田さんは村人に豚?の飼育と、避妊の運動を提唱していた。豚の飼育、それは村人が、射爆場なしでも食える為の村おこしの問題だ。闘いが長期に及ぶ時、次世代の人たちにとってより深刻なテーマとなる。反対運動の死活はここにかかっている。後年私は、沖縄・読谷村で同じ事を学んだ。農民・住民運動の何たるか、深い啓示だった。
併行して石田さんは、村の婦人を集めて、コンドームの使い方を講演した。ハタチそこそこのうぶな学生を、オバさん達がからかう。「あんちゃん、もちょっと、そこんとこ教えて」。戦後の農村生活や、その文化の近代化をリードした『家の光』、学ぶ事は山ほどある。
 
 『満州大日向村』は、今なお残る、残留孤児の原点だ。数百万の開拓移民団のモデルとして、天皇制軍部は、この村の成功を謳っていた。石田さんは、その実態とその後に光を当てた。
 大日向村は、実は私の母の郷里だ。私は石田さんに言った。あの秩父農民蜂起もまた、敗走の中、大日向村で仲間を募り、そして消滅した。大日向村について語り合った。
 

「部落委員会方式」批判

 狭山闘争の高揚の中で、同志会(全国部落青年戦闘同志会)の隊列は、ひときわ注目を浴びていた。「同志会」の白ヘルメットの姿に、私たちは心を震わせた。
 狭山闘争を大闘争に転換させた、浦和地裁占拠闘争はあまりにも有名だ。「その時」、私は4・28沖縄闘争の長期拘留のただ中、そのニュースを聞いた。
 狭山差別裁判の、第1審の裁判長は内田。無実の石川一雄さんに「死刑判決」を言い渡した奴だ。私は拘留中に別件の再逮捕で、1時浦和に移された。その時の、拘留理由開示裁判での裁判官が内田だった。
 私が「差別裁判」と確信を持ったのは、その判決文だった。部落差別の意識が、判決文ににじみ出ていた。
 同志会はまた、独自の運動論や組織戦術を自ら創出する力量を備えていた、中核派としても稀有な存在でもあった。「党」の理論そのものを塗り替える力を持っていた。沢山保太郎さんはもちろん、多くの人材を擁していた。
 同志会と全国部落研連合の共同署名論文に、私は眼を開いた。それは「党組織論」の領域でも、新しい提起をしていた。
 戦前、水平社運動は共産党の壊滅の後も、軍への糾弾闘争を闘うなど、軍国主義下での闘いを継続した。共産党は、被差別部落民の党員を地区党に所属させ、中央の部落委員会は諮問委員会程度にとどめる、という組織戦術を強要しようとしていた。これを「部落委員会方式」という。
共同署名論文は、これを「党による差別」と断じて、部落民自身の独自の系列指導を提起した。解放同盟としての全国的展開を重視する、ということでもある。
 
私は、「党」がどうしてこの共同署名論文を受け入れたのかを知らない。その経緯を知らない上で、私はここに、レーニン組織論の修正を感じていた。「ユダヤ人ブントを解体し、1人1人党に入れ。ユダヤ人は地方の党組織の指揮下に入れ」――レーニンの党は、ここから出発したはずだ。レーニン組織論が強調されればされるほど、その「修正」への回答が欲しかった。しかしついに、回答は出なかった。
中核派は本来、綱領・戦略・戦術論に加えて、「組織戦術」を重視する党でもある。組織戦術を下位の狭い技術と見下すのを拒否して、組織内問題や組織戦術が提出する諸問題を、綱領・戦略にまでフィードバックすることを課題とした。上から下から現実を捉える「らせん的」展開論だ。
それは第3次分裂以前に遡る。いいかえれば、あらかじめ全知全能の中央指導が存在するとするスターリン主義の「上意下達」への批判として、反スタの立脚点としての意味がある。
さらに第3次分裂は「地区党か産別党か」の対立とされる。実際、教師を中心として登場した反戦派労働者は、産別としての展開以上に、「地区党に分割されて所属する」ことになった。そういう中での同志会問題だ。「70年」を前後して誕生し、独自の組織系列を形成した多くの「諸戦線」、そのあり方は、やはり「70年代」の中核派の独自性を現している。
 
政治局員はそれぞれ全党的諸課題の責任を負っていた。

WOB(労働者組織委、労対)SOB(学生組織委)FOB(女性解放組織委、女解)、弾圧対策、そして「諸戦線」。諸戦線の担当政治局員は、長く梶さんが務めた。その下に、諸戦線委員会が開かれた。同志会、入管闘、障害者解放委、在本土沖縄青年委、被爆者青年同盟、反軍……女解は系列的にはここに入る。労対とその下の産別組織委員会や女解などは、地区党に所属する成員への指導機関だ。後に同志会や反軍を除いて、諸戦線はほぼアリバイ的なものになってしまったけれど。
 

 国鉄戦線が、党中央直轄指導になったのは92年の秋の頃だ。分割民営化との闘いの立ち遅れが叫ばれ、「重視」への転換でも影響力は伸びなかった。最後に行き着いたのが、「直轄」だった。立ち遅れの理由が、路線主義的な硬直化と内戦下の疲弊にあったのか、それとも組織論そのものか。私は聞いていない。
 本社・編集局に移っても、誰に聞いたらいいのか分からない。「党」は近くて遠い。
 
コラム 狭山差別裁判 
63年5月1日の女子高校生誘拐・殺人事件。警察の威信をかけた捜査の中で.石川一雄さんを別件で逮捕.再逮捕した。一審死刑,2審・最高裁で無期懲役。
部落解放同盟は、見込み捜査が作り出した差別事件とし,「無実・差別」を訴える糾弾闘争を展開した.76年には、19都府県の小・中・高1500校で10万人が同盟休校.日比谷で1万5千が集会。79年にも、東京・明治公園で5万人.大阪でも1万5千が再審要求。社会党・総評・新左翼諸派や市民運動・宗教者を結集する大運動になった。
94年12月21日,石川さんは31年ぶりに仮釈放となった.現在も再審請求中。
70年代半ば、中核派や新左翼の最大の運動も、「沖縄・狭山・三里塚」だった。革マルは「狭山無差別裁判」などとやゆして敵対し、露骨な差別観・エリート主義をマン展開した。共産党も「無実・差別」を否定した「公正裁判」要求運動で、弁護団を残して大衆運動から脱落した。共産党による八鹿高校差別事件も糾弾闘争の焦点になった。関連して7章

 
 

「レーニン主義」を生んだ人々

 この頃私は『ロシア革命群像』を読みふけった。レーニンと共に闘った多くの革命家たちの、人生・闘い・主張が簡潔にまとめられていた。
 もともと私はトロツキーを多く読んで来た。そのトロツキーすら消えていく。「トロツキーを媒介して……」が反スタではなかったか。それが「レーニン」「レーニン」「レーニン」。
 1人の革命家だけを讃え、学ぶという流れにも、うんざりしていた。数十万とは言うまい。数百人、数千人の偉大な指導者たちが、闘い・議論し、育て上げていく。レーニンはその頂点にいたに過ぎない。私はこの考えが、いたく気に入った。
 サヴィンコフの『マフノ運動』にも考えさせられた。通称「緑軍」。「赤軍と白軍の内戦」史観に、1石を投じていた。赤軍に属さない農民軍を「反革命」とする事は、「判断保留」にしておこう。
 『天上の弦』。朝鮮戦争で、「死のローラー」のはざ間で苦しむ人々の物語だ。「正義と悪の2元論」はやめよう。


[1]狭支連。狭山を闘う中核派系の大衆組織。関連して7章

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