タグ:人類学と考古学

  全学連・松尾委員長の離脱の経緯が知らされた。
  以下は私が簡略化した経緯だ。

  まだ「除名」前、それも06年に失脚する以前の梶さん(高木さん)から聞いた話。
  松尾さんが姿を消してから後、「松尾さんはどうして?」と聞いた。

  松尾さんはある日突然前進社から姿を消した。
  人を介して梶さんに「離脱したい」旨を伝えてきたのだという。
  で、何度か、外で、梶さんが会って説得し翻意を促そうとした。

  けれど結局は気持ちが変わらずに、最後は清水さんの裁可を得ることになったという。で、清水さんは受け入れた。最後は互いに「良かった良かった」ということになったらしい。

  外で会うときも、松尾さんは必ず、約束の時間を遅れて出てきたという。
  「拉致されるのがこわくて、周囲の様子を見てから姿を表した、ということだろうね」と梶さん。

  「なんで松尾さんは辞めたの?」という疑問には「結局、学者になりたかったんだろうね。そんな夢を捨てられなかったんだろうね」とか。

  【注】正確にはいえないが、松尾氏が離脱してから大学に進んだまでにはそう時間差もなかったと思える。今井公雄さんが逃亡してからやはり清水さんと(この場合は)直接面談して「秘密の正式離脱」するにはもう少し時間がかかったと思う。

  清水さんの人事にはこういう面もあったのだと、驚きでもある。
  ま、指導部や最高指導部には、それだけの裁量権と裁量の幅・ブレがあるというに過ぎないのかもしれない。驚くほうが政治や組織の「幼児性」を自白するようなものか?「政治を語る初歩」を改めて思い知る次第だ。

  関連する記事は当ブログでは以下。
 

31      80年代の諸問題

松尾真の失脚

中核派の現状と総括の中で、いろんな会話があった。

①ある女性は、「婦民からの分裂で良かったのは最初の一カ月だけだった」と述懐する。
 女性運動の実際の交流から断たれて、日々起こっていることや大事なイベントがまったく伝わらなくなったという。
 もちろん色んな情報は脇からは得ることができる。
 けれども大事なことは問題意識や公開されない色んな思いや実態でもある。
 女性たちのネットワークから飛び出したということはそんなことだったのだ。
 そう。婦民からの統制の背景には、3・8分裂と第4インターへのテロへの批判があったことも自明だ。革マルもチャンスとばかりに婦民を追い詰める。そんな中での処分と分裂だったということもはっきりさせるべき時だろう。追い詰められたのは婦民全国協だけではなかったということだ。

②ある男性同志の述懐から。
 「田島論文が出て、喜び勇んで知り合いの女性のところに行ったんだよね」
 「で、『前進』やイストを渡して代金ももらった」
 そしたら、相手の女性が何冊かの俺に本を渡して言ったんだ。
 私の文も載っているから参考までに読んで。それから本の発行日を観て!
 ただでもらって読んでみてびっくりした。
 田島論文の肝心なところはその本の引用だった。
 「参考文献欄があったかどうかは当時のことだから気にもしなかったけれど、引用したならちゃんと『引用』くらい入れるのが筋だと思った」
 そう『女・エロス』だったよね。

 話の前段では、私の中核派の女性解放論の経緯についての記憶の述懐があった。
  私の印象では、中核派の女性解放論は、時間的にブントにはるかに遅れている。
 フェミニズムもリブもオピニオンリーダーたちは私たちよりも5歳か10歳くらい年上だったと思う。
 前後して私も『女・エロス』などを読みふけった。
 衝撃だったし、何よりもそう、「エロス」を語っていたことだ。
 読んでいて引きずり込まれるものに満ちていた。

 怒りや悲しみや何やかんや、とにかくほとばしる魂のようなものがあった。
 「中核派はどんな文章の中でも『女性』以外の用語を使わない。でも色んなフェミニズムは時として『おんな』を使うのが特徴だった」「おんなたちから女たちへ」とか言うようにね。時としてアナーキーな叫びだったよね。それが心を動かしたのだけれど。
 
 田島論文の特徴は、女性解放であれ婦人運動であれ、マルクス・レーニン主義の枠に収まることを結論とするためのものだった。叫び(エロス)を抑制し、ブルジョア社会(資本)への対決を打ち出して、こんにち体感的に求められている「解放」の中身を脇に置く。そう、予定調和に収まることを前提としてその線に沿って、前衛党派として女性解放に立ち上がろうというのが趣旨だったと思う。

 被青同の『君は明日生きるか』に比べても、心へのインパクトの不足は否めなかった。

 ま、当時そんな感じももちながら、決戦論は不動という方針に従ったのだけれど。
 こんなことを書くと、いつものことだけれど、自身のいい加減さを吐露しているようで嫌になる。とは言えやはり書かなければならない。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥  

資料として
『女・エロス』社会評論社
女・エロス No.1 特集:婚姻制度をゆるがす1973
女・エロス No.2 特集:反結婚を生きる1974
ほか
「女・エロス」編集委員会
 アマゾンのHPから

http://www.amazon.co.jp/s?ie=UTF8&field-author=%E3%80%8C%E5%A5%B3%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%80%8D%E7%B7%A8%E9%9B%86%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A&search-alias=books-jp&text=%E3%80%8C%E5%A5%B3%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%80%8D%E7%B7%A8%E9%9B%86%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A&sort=relevancerank

蒐集に掲載されていたので反論を読みました。中心はスパイ規定に対する反論ですが、それしかないでしょうね。清水さんに余程頭にきているのか、決め付けがすぎるきらいがありますが、党派の宿命と言うべきか新左翼の宿命と言うべきかこれは、誰それが書いた文章で間違いない!と言う決めつけは良くある話です。
その上で、もう少し第三者を意識した批判をしてほしかったと思います。Fの土俵に乗ってしまった観がしてしまいます。そうなると一言で言えば、不毛な論争にしかならないと思います。
少しだけ触れていますが、もっと出版の意図を前面に押し出して、実りある、将来に役立つ論争を巻き起こすことこそが主眼だということを訴えた方が良かったのではと思います。
 
たぶん、会議の中身が上意下達の連絡会のような、そして新たに下ろされる方針に対して翼賛発言・おべんちゃらばかりが垂れ流されるような会議になっているからこそ、討論そのものに現役は飢えているのではないでしょうか?
 
Fの論文?に対する批判は、スパイ規定にたいする反論のみで十分です。あとは本に対する感想や批判をどんどん寄せて欲しいことや論争を巻き起こしていこうとかの呼び掛けでまとめて欲しかったと思います。Fでも、内容に対する批判をすべきだと、大人の対応というか、無内容なレッテル貼りは相手にしないで終わるべきだったと思います。
水谷本にも、様々な問題があるわけですから、ここが1つの始まりになるような方向に持っていって欲しいと思います。
そうしなければ、まだまだ彼らが吐き出さなければならないことは、山ほどあるはずですが出て来なくなってしまう気がします。
例えば、3.14Ⅱをあれほど批判するなら、沢山さんをテロって叩き出したことをどう総括しているのか?少なくとも明かにする必要があると思います。
(ポセイドン)

もう一つの全共闘 単行本 – 2010/11/27

防備録
①雑感
 あの時代、いろんな闘い(闘い方)が有ったのだとつくづく思う。
 埼大にも「埼玉教育短大」が併設されていた。
 埼玉短大もあった。
 ともに何人かの中核派が生まれた。
 けれども当時の私の視野の片隅には、ようやく入ったに過ぎない。

 日大闘争ほど大きな大学でも無く、高経闘争よりは新しい。
 東大とはその存立の位置があまりに違う。

 私の大学では、私も含めて1人の処分もでなかった。
 数人の?自主退学を除けば、4年~8年でみんな卒業した。
 拠点クラスになった(教養部ではない)「教養学部」からは、その後の民俗学などの大きな流れも生まれたそうだ。

②クラス決議に拘って
 ことあるごとに「クラス決議」の積み重ねの上に、闘いを切り開く。
 情勢や主体の波に合わせ、クラス決議を生みだしながら、何度もうねりを作り出す。
 
 「個別大学のかかえる条件」や「個々の学生の資質と条件」への洞察と一定の答えや配慮は、
ほんらいあまりにも当然だ。けれどもあの時代…。

 70年の「7・7」とその後の「入管決戦論批判」を待つことなく、あまりにも当たり前な問題を否定した時代…。「自己否定」も「○○ではなくヒトとして生きる」思想も、根源的でもあるが時により人により、上ずった「一元化」論でもあった。そんな時代の中で7・7を前に、「女性解放」論や運動も生まれた。70年とは、公害やその他も噴出し、「公共性とは何か」「豊かさとは何か」が問われた時代背景をも基礎にして、絡み合って(?)進んだものだ。

 「血債の思想云々」とは、そういう総体をも問うものでもあったはずだ。
 
 (思想・・政治思想・戦略・戦術など。それぞれ別の次元だけれど)

 横浜時代に関与した関東学園大学2部学友会。

 そして後に知った中学時代の同級生たちの経歴とその後の数々。

 その人たちと当時の私の視野や条件は近いようであまりに違いすぎて、どうしようもないほどだ。

 同じ「中核派の同志」もまた、数年後、10数年後の生活と思いは違いすぎる。
 そしてまた、上級生・下級生、上を観る私には同級生や下級生たちの世界が見えない。
 文化人戦線や救援連絡センターに集まった60年世代・戦中派世代から私たちはあまり多くを学ばずにスルーしたようだ。

 それは私のせいか、運動のせいか?

③若さ
 いや、最大の問題は「若さ」といってもいい。
 もちろん「私の若さと言う罪」はある。同時に、30代、40代の百戦錬磨の将になって、大きく包み込む、そんな成長の仕方があったはずなのだと思うのだが。そんな指導者群になるための、そんな指導者群を作り出すための闘いだったような気もする。
 もちろんまったく違った経験からだ…。

 若さゆえの想像力と根源性は、若さゆえの無知と限界と背中合わせだ。
 どんなに優れた確信でも、「巨大なあいまいさ」を内包した確信とするしかない。

  
④滝沢さんの死を別の視点で見ると
 内ゲバも外ゲバも、当事者と他者ではあまりに立場の違いがあることを突き付けられる。
 芝工大闘争、芝工大の学生の視野から見ると…。
 連合赤軍や赤軍派をこれほどまでに正面から切って捨てる議論には、実ははじめてあったとすら言える。
 うーん。絶句。
 たしかに昨今の解放派のゲリラなどにはほとほとうんざりする。
 彼らとはほんとに「同席」したくない。
 ま、いろんな場面があるから、無条件に拒むともいかないけれど。

⑤早稲田解放闘争の砦・駆け込み寺。
 もちろん、安田講堂の攻防や多くの中央闘争にも関わっている。
 
 なかでも半年間だっけ、学内の教室を早稲田の仲間に解放し、寮を解放し…。
 寮の窓という窓を板で覆って、革マル派の攻撃に備えた…。個人テロへの恐怖と闘って、寮生や当局の協力を得て…。よくぞそこまでやりきれた!!
 『前進』社や法政にはできない事、同じ姿勢に立つ同じ学生の闘いでこそ、生きてくる。
 そういう意味でも、色んなバージョンがあったのだと思う。
 そんなこんなの結果として、昨今の集会には「芝浦工大」の旗が翻る。
 少なくない「○○大学全共闘」の旗も垣間見える。

⑥全共闘の総和か単一の結合か?
 異質の連合か同質化か?色んな議論が提出されている。
 
 ある人は言う。「いわば全国各地の地区ソビエトと、中央権力への蜂起の関係の、矛盾・対立の縮小版だったのかね?」
 ま、振り返ってみれば、70年は「権力奪取」には程遠い世界だったから、学生運動の延長にそんなことを語ること自体が間違っているとは思うけれど…。
 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 まとまらないまま、まとめようともしないままですが。「宿題」への第1次の答えとします。
 

以下、 [ 野々村 ] さんのコメントをコピペしました。
 
【以下原文】
法大黒ヘルの首領・中川文人氏の電子書籍「サムライ・コミュニズム」にSOB時代の松尾が法政大学から10億円以上の裏金をせしめていた話が松尾のインタビュー付きで紹介されています。
これは初耳でした。しかし、思い起こせば、思い当たる節はあります。
これは松尾が単独でやっていたことなのか、清水の了承のもとでやっていたことなのか?清水が松尾の「円満退社」を認めたのは、この件があったからなのか?貴兄はどう見ますか?
 
関連記事は以下です。

松尾真の失脚

 

 

80年代半ばだったろうか。
携帯が普及し始めたころのことだ。
工場の食堂の携帯が鳴る。
鳴っては消え鳴っては消える。
ワン切りを受けて急きょ出動態勢がきづかれた。
 
金さんを中心にドライバーと防衛隊の計6人が集められ、車で出発する。
 
30分ほどキリをやって入ったのは環七沿いのファミレスだ。
「何でも好きなものを頼んでいいよ」とのお達しで、久しぶりにちょっと贅沢な外食の気分を味わう。
そこで10分ほど?待つと、呼び出し電話がかかってきた。
 
金さんがなにやら話してあとは食事会だ。
梶さんの防衛にも何度か駆り出された。
やはり「食事付き」。みんな、うれしそうに食事にありつく。
 
当たり前のことだけれど釈然としない思いはある。
上級幹部たちの財政は、どんぶり?
 
 

【4】「3・14とその後の日々」
 関西の決起を転機として、中野・天田ラインの動きは早かった。清水天皇を天の岩戸に押し込めて「第3のクーデタ」に突入。清水氏が身の安全を引き換えに側近を売り渡す。これを受けて水谷・与田らを一掃する大運動・大粛清が始まる。(第2のクーデタは不発に終わった「カウンタークーデタ」?)
 
 そう。その後の関西派の弾圧・追放などを見ると、「3・14=党の革命」論の空ぞらしさは印象的だ。
 高木を処刑し、秋山を復活させ、鈴達を引き上げ…この意味は何か?
 清水氏が、天田氏にがんじがらめに縛りあげられて、命乞いをしているように見える。
 で、そういう「勅許」を乱発している?
 
 清水復活の芽も無いわけではないが、それはそれでまた、大粛清を伴いそうだ。
 長生き戦争に勝った家康の教訓かね?
 ただ、清水氏の文章を読んでも、あまりに生気がない。「とっくに終わった人」じゃないか?
 党を潰しても、主導権争いに勝つ。「チキンレース」の覚悟なしに、この世界には踏み込めそうにない。
 天田・清水の党内権力にかけた執念は、あぜんとして、非難を超えて見惚れるほどのものではある。
 
 ***「いつ・どこで・だれが…」。
 正確に全体像を描こうとすると、すぐに生き詰まる。
 乞う協力。というか乞う発信。
 
 
 

水谷さんらの言動には「何で?」と思えるくらいのこだわりが見える。
事情に通じる人の話を聞いた。
 
【1】関西の3・14への均衡を逸した敵がい心
 うん。正否は措いて当然と言えば当然のような気もするが。
  水谷氏は「留守番内閣」の筆頭として、「反革命クーデター粉砕」に社論を統一し、戦争的決着への準備を整えた。(注)末尾に修正。
 それ自体は中核派の「前例に倣った」ごく普通の行動だった。
 帰ってきた天田氏に清水氏の「勅令」を突き付けられて、突然「忠君転じて逆賊」として失脚・捕縛・処刑された。
 たしかに「理不尽」といえば理不尽だ。
 というか「あまりに想定外」過ぎたのかも。
 
【2】吊るし上げの日々(千葉の党員総会)
 本社⇒地方・地区、「クーデタ粉砕」の決議がひっくり返り、水谷粉砕決議に一変する。
 そして極め付きがあの党員総会だ。
 場所と時間を覚えていないんだけれど、千葉のDC会館?
 混乱と混沌の日々だったので、いまだに整理がつかない。
 
 会場入り口近くに中野氏がドデンと座り、参加者はみんな、中野さんに挨拶して入っていく感じだったな。
 司会も誰だったっけ?
 とにかく壇上に水谷氏が座らされ、「罪状」が読みあげられて吊るし上げが始まった。
 「討論」だったか、でも事実上の吊るし上げ。
 会場の参加者が次々に立って、水谷氏の罪状をあげつらう。
 ま、相当念入りに準備がされていたのだろう。
 あることないこと、とにかく許せない、という感じだった。
 
 「水谷!釈明しろ!」のヤジが飛ぶ。
 「釈明させろ!」もあったと思う。
 水谷氏が一歩前に出ると、「黙れ!引っ込め!」のヤジが覆う。
 水谷氏が引っ込むと、また「釈明しろ!」
 水谷氏は出たり引っ込んだりでうろうろするだけだった。
 
 1人か2人か?「ちょっと待って。やりかたが酷すぎる」と立ち上がった。
 けれど、ヤジの嵐に押しつぶされて、何度かの問答の末に沈黙させられた。
 
 俺は水谷が好きじゃない。
 それにあんまりに唐突過ぎて、ぼそぼそいうのが精いっぱいだった。
 何といっても、関西への武力反撃がひっくり返って「党の革命」、その転換の大きさに翻弄されていたのだと思う。
 「その時誰がどう動いたのか、どういう形で、どういう思いで」は改めて今後の課題になりそうだ。
 
 「自己批判書」を書かされ、書き直され続け、監禁生活では昨日までの部下にいたぶられ。
 たぶん水谷氏らには「いったい何が起こったのか」すらがいまだに整理つかないんじゃないか?
 
 【3】西部・杉並でも
 同じ形の吊るし上げは杉並でもあったね。
 ここでは「現場」の声が会場を制したという感がある。
 やっぱり数人の人が、「フェアじゃない」「酷すぎる」とたったと思う。
 中でも障福氏が最後まで頑張った。ヤジを押し切って発言し続けたのは印象的だ。
 教労・給食などからも割って入る人がいた。
 けれども押し切られた。
 
 その後、障福氏は離れた。
 教労・給食も、あとで厳しく詮議されたようだ。
 似たようなことはその後も何度かあり、その都度割って入ったりしたけれど、ついには力尽きたというところか?
 
 そこまでの情況に直面して、なんで激しく立ち上がることをしなかったのか?!
 うん。うまく言えない。そんな空気に長く漬かっていたから、としか。
 なんですぐ離れなかったのか?
 1人で離れるって、選択肢になかった。
 
 ****
 白土=刈谷の経験としては、80年代の「自作出版事件」を思い出す。
 けれども質・量・激しさでは雲泥の差でもある。
 参考までに当ブログ。


(注)『敗北』本によれば、天田さんは夕方~夜には本社に戻った。
 昼間に開かれた党員総会では関西での事態には無対応だったようだ。
 
 

少し古くなるけれど図書新聞から
第22回
水戸喜世子氏(元救援連絡センター事務局長)に聞く
聞き手=小嵐九八郎(作家・歌人)
 
 66年に入学した私は、直後からほぼすべてのデモに参加した。
 多い時は週に数回もあるデモ、普通なら断るところだけれど、出勤率百%に近い。
 出席率と逮捕数では、東工大の内田(杉並の有岡)とトップを競う。浦和から駆け付けるのは時間もカネも大変だ。
 
 その中で「中国核実験弾劾」のデモは印象的だった。
 緊急行動への参加は、書記局と合わせて十数人だったろう。
 
 当時はまだ共産党は「社会主義の核はきれいだ」論であり、「中国の核でも反対」というのは覚悟が必要だった。
 三派でも統一見解はなかったと思う。
 「社会主義の自衛のための核保有」論に対して、「国際反戦闘争による核の抑止」論で中核派は応じた。
 
 「社会主義の核も弾劾」論や「中ソに替ってまともな社会主義が実現できたらやはり核を持たない」論は新鮮だった。
 翌日は学内で、民青と全面対決だ。議論のネタは次から次へとあった。
 
 誰に聞いたのだろう?
 この議論は水戸巌さんらが強力に主張した結果受け入れたものだという。
 反核運動(原水爆禁止運動)の中でも混迷していた。
 中核派にとってもあらかじめ準備されていた主張ではない、と。
 
 核も原発も、物理学者たちが反対の旗を先頭で掲げていた時期でもある。
 
 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 堀内が全学連委員長になってからのこと。
 集会(会合?)に水戸さんが同席していた。
 堀内が水戸さんに向かって、とうとうとアジる。
 「やはり核を持たない」論をさも中核派の独自の主張であるかのごとく。
 水戸さんはおとなしく聞いていた。
 たまたま編集局員として取材で同席していた私は、赤面する思いで聞いていた。
 
 堀内に罪はない。
 彼は政治局か松尾かに言い含められて上記の論を受け入れ、アジッタに過ぎない。知ったかぶりも「学生」ということで許されよう。
 けれども、中核派の主張が、独自・自己完結的にできたかのような思い込みをどう糺したらいいのか?
 
 思想に「特許権」は不要だが、その生成やその葛藤について先人を敬愛する思いの継承は、「党派」であればなおのこと、必要ではないかと感じながら、私は無言だった。
 
 今の時代、「社会主義者として」(つまり権力を奪取し行使することを前提として)論を立てること自体がウソ臭く感じる。けれどまた、「革命派」と自称する限り、つねに過渡期の諸政策や社会生活について、その観点からも論立てしない限り、結局は単なる不満分子(以下)の無思想・無理論にしかなりえない。
 難しい問題ではあるが、「新しい思想・価値観・視角からの発信力」の有無が、「革命派」の存在感(不在感)を生むのだと思う。 
 最低限、「価値観の転倒」を生む多くの個人・運動に、より学ぶことか?
 
 (余談)革マル派は喜んだ。
  「中核が『中国核実験弾劾』と叫んでいる。略して『中核弾劾』には大賛成だ!」
 
 
 

 神奈川支社の専従だった頃だから、たぶん、76年か77年のこと。
 以下は、「スパイの摘発」事例。
 
 白ヘルにゲバ用の竹竿(中核旗を巻きつけた)で、それでも街頭署名・カンパは止められなかった。
 時期として、三里塚か狭山の街頭宣伝だったと思う。
 
 署名やカンパに応じてくれた人は、オルグの対象だ。
 何人かのこれはという人材に巡り合った。
 
 その1人は、自宅に行って会って早々、申し出に応じてかなりのカンパをしてくれた。
 歳はほぼ私と同じ年代(男)だったと思う。
 
 何度か会って、その度に話しこみ、カンパをもらった。カンパは基本的に私の生活・活動費になる。
 
 夏冬の上納金(中央へのカンパの集中)のために、「カンパ計画書」を出した時のことだと思う。
 天田さんから呼び出された。
 「この多額のカンパをする奴はどんな奴だ?」
 
 報告と議論の末に、「スパイかもしれない」「多分スパイだ」ということになった。
 「(テロ合戦が殺し合いにまで発展している)いまどき、新しく結集しようなんてやつはおかしい。そんな奴はまず疑え」。「摘発する観点から、話したり(実生活を)逆に質問してみろ」
 
 私も忠実に答えた。
 誘い水として、非公然活動の話をしてみる。
 とたんに話に食いついてきて、いくつもの質問をしてきた。
 一時金の時期という名目もあり、これまでより桁を上回るカンパを申し出て、相手も出した。
 
 支社に帰って天田さんに報告する。
 「やっぱり疑わしい」と私。
 いつものアパートだ。その点では信用できそうだ。けれども住んでいるアパートに、あまり生活臭がない。
 職場も聞いている。けれども確かめたわけではない。
 なんといっても、非・非の話に食いついてくる。
 
 「やっぱりスパイだ」
 「いまどきおかしいと思った」
 こうして天田さんと私は、「Sだ」と断定した。
 
 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 私の方からの連絡を絶ってから数カ月、長者町の神奈川支社に「S」が現れた。
 2階上り口にある鉄扉を挿んで、身分と私の名を告げて、面会を申し込んできたのだ。
 私もいたが天田さんが応対した。
 「貴様が権力のスパイであることは分かっているんだ。とっとと帰れ!」と一括する。
 いくつかのやり取りの末に、「S」は帰って行った。スパイを摘発して叩きだしたのだ。
 
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
後日談がある。
私が編集局に移動してから随分たったあとだ。
神奈川のキャップが岩田さんに替ってからだから、多分90年代の初期か?(もしかしたら80年代)
 
 岩田さんが私を訪ねてきた。
「最近Mになったひとが話したことだけど…」
上記の「S」がその後、改めて結集し、M(マル青労同)に加盟した(させた)という。
私が写真班として顔をさらしているのをみて、改めて当時の話を申告したのだという。
 
 岩田さんの質問に答えて、上記の経緯を話した上で、「あの時期だったからね」「ずいぶん乱暴な断定だったと今は思うけれど」という内容で合意した。岩田さんの判断に従って、「誤判」と決めた。天田さんとの話のあとか、その前かは今ははっきりしない。けれども天田さんとの合意もあったと聞く。
 天田さんのことだ。ブスッとして結論だけ容認したのかもしれない。
 
 「どうしよう。本人に直接謝罪しようか?」
 「いや、それは止めた方がいい。まともに応対したら、収まりがつかなくなりそうな気がする」
 「集会などで顔を合わせたら、軽く会釈する程度に収めておいてほしい」
 「分かった。そうします」
 後味の悪い話だった。
 
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 最近、荒川事件の話の折に、そんな話をしたら、「そういう話っていくつもある」と反響が広がった。
 80年代や90年代にも、似たような体験をした人は少なくないという。所属や時期を超えての事例が重なる。そして2000年代。
 「やっぱり、『いまどき結集しようということ自体がおかしい』だったね」
 
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 
 同じ「同志」でも、「体質の違い」「波長の違い」は耐えられないほど大きい。
 「こんな奴が同志?」。スパイや敵性分子に感じるメンバーは少なくない。他党派であってくれればよほどすっきりするのに、と思うことはよくあった。
 何かの折に、「悪者」が必要不可欠の局面で、くすぶりつづけたものがふっと燃えだすこともありそうだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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