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68年3・20だったっけ?
 
 反対同盟の村ぐるみ参加の解散集会に、機動隊がなだれ込んできた。
 市役所近くの谷あいに作られたグランドに、坂をかけ下ってくる機動隊。
 
 当日も機動隊とゲバ棒で激しく激突したあとのことだ。
 集会に参加した「3派系」の学生たちは、すでにゲバ棒を処理して素手・無防備だった。
 しかも、反対同盟=農民を中心にした集会だ。
 
 警棒を振り回して無差別に殴りかかる機動隊に、集会参加者は逃げまどい、大混乱に陥った。
 
 ここで書きたいのは、権力の怒りではない。
 逃げまどい、ぶつかり合い、倒れ・よろめく仲間たちを押しのける学生たちの姿だ。
 
 会場の周囲には、鉄条網が張り巡らされていて、出口は少なく狭かった。
 
 出口に殺到し、逃げまどう人々の中には、明らかに農民たちが交じっていた。おじさん・おばさん、おじいちゃん・おばあちゃん。押しくらまんじゅうの末、数人が転べば折り重なって窒息しそうだ。
 
 そんな中で、学生たちも、互いを押しのけ、農民を押しのけて、ぶつかりあう。
 修羅場だ。
 
 私は逃げる道を失った。
 かといって反撃に転ずるなど考えもできない。
 シンガリを担えるような状況でも無い。
 
 必死の勢いで鉄条網にしがみつき、ひっぱり・揺らして逃げ道を確保しようとした。
 何人かが同調して、ようやく逃げ延びた。
 後ろに取り残された人々は、学生であれ、反戦であれ、そして農民であれ、したたかに叩きのめされていった。
 
 
 負けた時、勝てない時にもまた、逃げるための「人としての在りよう」が問われるのだろうと思う。
 そしてまた、「逃げるための力」も同じ。
 
 機動隊と何度も何度も激突し、勝ったり負けたりを繰り返す中でしか、そんな力もつかないのかもしれない。
 傷つき倒れるか、なんとか続けられるかの境目もあろうが、「修羅場を踏む」ことなしに、「強いゲバ」は育たない。
 同時に「平時」に力を着けることもやはり大事な要素なのだろう。農民を突き飛ばして逃げるくらいなら、「今回は参加しない」のも一つの選択だ。逃げ足の訓練、状況判断の訓練…振り返れば日々の生活の中にある幾多の選択肢…。
 
 武装とは何かを改めて振り返ってみたい。
 
 

あまり長くはないので、全文読ませてもらった。
①当時の左翼の理論的土台となる翻訳や思想的提起がどんなものだったかをずらずらと並べる。
   トロツキーもマルエンも、翻訳書籍は少ない。
   むしろこの頃からようやく花開いてくる。
 
  つまり諸党派の立脚点は、理論的にはかなり危ういものだったことになる。
  まだ産声を上げたまま突っ走ったということか?
  簡略だがなるほどと思う。
 
②高校生運動をまとめ上げた経緯とブントとしての活動。
  その経緯もあの時代を髣髴とさせる。
  分との著名人がたくさん出てくるのも面白い。
 

 学生運動の歴史を振り返るとき、やはり数字の持つ意味が気にかかる。
  ということで‥
 
1961年頃はやはり大学進学率は1割台だった。
 女性の進学率は、90年代にようやく男の半分になった。
短大は60年代に急速に増加したが、比率は突然、頭打ちになった。
専門学校の台頭はここには表現していない。
 
  1955年の頃の「旧帝大」のエリートとしての地位は、今日からは想像もつかない高さだ。
 
  マスプロ教育の初期の時代、私たちはまだ、「学生さん」と「さん」付けで呼ばれた。
  「学生は貧しいもの」「書生生活」
 「お金は良いよ。出世払いでね」という世間の温かい目が有った。
 
  戦前の学生は、卒業単位は30~40??
  私たちの時代の標準は、120くらい?
  今は??
 
 「国家・社会」のリーダー足るべき時代は、大学は、ゆとりと自由の場だったことが分かる。
「デカンショ、デカンショで半年暮らす、後の半年は寝て暮らす」は単なる比喩ではなく、事実だったと思っていい。
 
  今の「学生」は、同世代の過半数を超えている。
  とりあえず、「学生」の社会的意味が根本的に変わったことを確認しておこう。
 

大学進学率%  短大進学率%  
 
19558 13 2 2 2 3
196517 22 11 13 21 5
198527 39 14 11 2 21
199025 33 15 12 2 22
199532 41 23 13 2 25
200040 48 32 9 2 17

 
大学LABOから
 
 
 

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