いずれ、「正しい戦争論」や「正しい内ゲバ」について正面から語りたいと思う。
 「統一行動」も共同行動も、「敵」を想定して形成される以上、あらかじめ「排除」すべきものがある。けれども「共同」に参加する人々はそれぞれ「重心・核」が違う以上、排除すべき相手と取り込むべき相手が大いにずれる。共同行動の外のラインはどう設定できるのかはとりあえず「悩ましい」
 結果、我慢と受容には互いに限度があることはがあらかじめ限定されていると考えるのが「正しい」。

 一つの解法は、運動が抱える様々な場面を想定して、時々節々の「離合集散」の繰り返しを想定することだ。そういう想像力の豊かさと、「絶対的正義と絶対的貫徹」論の「排除」から動き出すことかとも思う。他人への非難は「親しい関係」の時にこそ、場面場面ですべきであり、「絶対的敵」への集中砲火によって代行することを厳しく諌めるべきだという気もする。それでもいい、それでも闘えるというある意味中途半端な「闘いの志」のありかたを養うべきなのではなかろうか?

 もちろん、「党派政治」や「政治力学」論も現実にはある。けれどもそれはまず、まっとうな「近代政治学」を研鑽するなかでのものでなければ、本末転倒になりそうだ。あるいは多少まともな社会学や人生論を深める途上性として「仲間作りや排除」を葛藤しながら重層的・多面的に進めるそのプロセスに拘りたい。

 
 小話から
 
 昔、サムライが幅を利かせていたころのこと。
 群馬のある村に、おじいさんとおばあさんがおったとさ。
 おじいさんとおばあさんは真っ白な馬を大事に大事に育てていたんだとさ。
 名前は白いからシロだんベ。

 ところが村の長者がこの馬を奪って都の偉い人に献上してしまったんさ。
 悲しいことだよね。

 ある時都にいくさが起こって、偉い人もその旗がしらになったらしい。
 おじいさんとおばあさんは、馬のシロが心配で心配でしょうがなかったんさ。
 「でもシロは頭のいい子だから、何とか生きて生き延びているだんベ」と慰め合ったんだとさ。

 ある日の夜中、ドサッという音がして2人で外に飛び出したんだとさ。
 ほしたら、シロが倒れていたんさ。体中に矢が突き刺さったまま、都から飛んできたんだんベ。
 シロはだんべ、2人に看病されてだんべ、元気に生き返ったんだんベ。
 幸せに暮らしたんだんベ。(おしまい)