1部 過ぎ去りし日々を問う。
第1章 1950年代という「時代」(その1)
■父の死
小学校の卒業を控えた2月、大雪が降った翌日のことだった。学校から帰った私は、鞄を置いて遊びに出ようとして8畳間に入った(そのころの私は3畳、6畳、8畳に風呂場付きの長屋に7人家族で暮らしており、いちばん広い8畳間は寝室として使われていた)。そこで、私は、父が上半身を起こした姿勢のまま顔を仰向けにのけ反らせた格好で、口から血を吐いているのを見た。私は、それが死を意味していることを直感した。目は、かっと開いたままだった。動転した私は、頭の中が真っ白くなり、後先のことに思いをめぐらす余裕などなく、気がつくと家を飛び出していた。表へ出たもののたったいま目にした光景が頭を離れない。それを振り払おうとして、雪合戦に混ぜて貰ったりしてはみたもの、心中は気が気でなかった。しばらくして家へ戻り、おそるおそる8畳間をのぞいたところ、そこには母がいた。「おとうちゃんが死んじゃった。K先生を呼んできておくれ」という。少々のことでは動じた姿を見せたことがない母だったが、このときばかりは、なにをどうしたらいいのかわからないほどうろたえていた。
私は、K医院まで走った。出てきた医師に、父が死にそうであることを息せき切って話し、すぐに往診にきてほしい旨を訴えた。訴えながら、涙が出るのを抑えられなかった。私の訴えを聞き終えた医師は、顔色ひとつ変えずに、住所を尋ね、往診することを約束してくれた。こどもが涙ながらに人ひとりが死にそうだと訴えているのに、冷たい、と私は思った。
型どおりの診察を終えた医者は、胃出血による心不全という診断を下し、死亡診断書を書くから取りにくるようにといった。*1
*1 父の系統は、弟が胃の病で30代で亡くなっている。兄は、ずっとあとに胃ガンと診断されたが、手術してから5年といわれたにもかかわらず10年以上も生きていた。私も、どちらかというと胃腸が丈夫なほうではない。胃腸病が遺伝的であるといわれていることを考えると、現在の水準で診断すれば、父の病気が胃ガンだったことに間違いない。失業中で医者にかかると言い出せなかった父を、気の毒だと思う。同時に、このようなかたちで貧困が存在することに対して、敵意を覚える。長生きすることが必ずしもいいことであるとは思わないが、貧しさゆえに治療を受けられなかったことに対して、である。
父は、死ぬ前の2年ほどのあいだ定職がなかった。50年に朝鮮戦争が勃発し、いわゆる朝鮮戦争特需が始まるまでの2年ほどの期間は不況期で、人員整理が頻繁に行われた。49年に失業した父は、親類のEさんに頼み込み、その会社で帳面をつけさせて貰っていたが、この仕事も長続きしなかった。商家の出だから、算盤と帳面はつけられたが、近代的な経理事務ができるというわけではなかった。そういう中途半端な労働力を、身内だからということだけで雇いきれないほどの不況だった。
この時期、母のふたりいた弟うち上の弟は露天商をやっていた。その種の仕事の経験がない人だったが、天性の磊落な性格ではったりをかましているうちに、テキヤ仲間に伍していっぱしに場所の仕切りをやるまでになっていた。母がその叔父に窮状を話し、働く先がないならやってみないかという話になった。商品は、向かいのご隠居が考案したおもちゃである。このご隠居はおもしろい人で、もともとが浅草橋の老舗の紙問屋の跡取りだったが、早々と息子に店を譲り、わが家の向かいにお妾さんと暮らしながらこどものおもちゃをあれこれと考案しては、近所の主婦につくらせ、問屋に卸していた。母もそのひとりだったことのからみで、このご隠居に接触して以来、互いにうまがあうのか昵懇の仲になり、叔父の仕入れ先の1つになっていた。
「あにさん、こんなふうにやるんだよ。」
叔父はそういいながら、ヨーヨーにヒントをえて考案されたおもちゃを手にして、父の前で実演した。そのおもちゃは、小さなゴムのボールにアメゴムの紐を付けたもので、投げるとゴムの弾性で手元に戻ってくる。どこへ投げても手元に戻ってくるのがこの商品のウリであることを父に説明し、ぶんぶんと音をたてて振り回しては、上に放り投げ、斜め後ろに投げては鮮やかな手つきで受けとめる。そうしながら、景気がいい口上を述べ立てる。その全てを、こどもにかえったように楽しそうにやるのである。それらの所作は、脇で眺めていると、つい欲しくなるほど見事なものだった。
父は、叔父について商いに出た。が、半日で戻ってきた。母は、どうして半日で戻ってきたのかとなじった。
「あたしにゃできないよ。」
その言い方は、飼っていたニワトリを絞めて貰ったおりと同じだった。この時期、ニワトリを飼い、たまごを換金させることが流行った。わが家でも近所で成鳥を分けて貰って繁殖を試みたが、雄鳥は1羽いればいいので、不要になった雄鳥は駅前の鶏肉店に持ち込んで処分してもらっていた。精肉にしてもらえるのはありがたいのだが、処分料として半分はとられる。それは馬鹿馬鹿しいからおれにまかせろということで、裏の家の次男坊が名乗り出て、絞めてもらったことがある。
トリ鍋を前にした父は「あたしにゃ食べられない。」といったきり、最後まで箸を付けなかった。そのときと同じだった。私は情けないと思った。そして、憎悪を感じた。*2
*2 父に対するこの感情には、いくつかの布石がある。私は、3年生ころまで父と同じ布団で寝ていた。ある日、私は布団の中で屁を放った。父は、その屁が臭いといって、これみよがしに布団をめくって屁を追いやったことがあった。10歳のこども相手の仕打ちとしては、じつに大人気なかった。いまひとつは、間食にまつわる。失業してぶらぶらしていたあいだ、酒が弱い彼は口寂しかったのか、間食を自分でつくった。家庭科の実習で私が真似た脱脂粉乳入りの芋ようかんは、そのひとつだった。そのほかに干し芋をつくった。自分で芋を買ってきて蒸かし、薄く切ってざるに並べ、庭に面した南側の軒下に干した。そこがいちばん日の当たるところだったが、同時にこどもには容易には手が届かない場所でもあった。干し芋は、乾燥をはじめてしばらくした時期の生乾きの状態のときが柔らかいうえに甘みもあって、いちばんうまい。私は、父がつくるその干し芋を、出来上がる前につまみ食いするのがつねだった。わからないように並べ直して置いたところで、減る量を考えれば、誰が盗んだかは一目瞭然だった。しかし、父は、私の行為だとわかっていても叱らなかった。その干し芋は、彼が食うためにつくっているのであって、家族に分け与えるためのものではなかった。が、そうだからといって、盗み食いをしたといって叱ることはできないことだった。
父にしてみれば、私は可愛気がない子だったにちがいない。母は、長男であるということで、私をほかのきょうだいと差別して扱うことが多かった。たとえば、自分の分のおかずを、ほかのこどもには分けないのに、私にだけは自分は口にしないで分けるといった具合に。父は商家の次男だったから、何事に付けても、長男と差別されて育ったことは想像に難くない。そういう意識が潜在的にあり、長男である私を疎んじたのだとすれば、次男である弟を溺愛したことも含めて、いまの私は一連の父の行為を理解できないことではない。
このころから、父は胃が痛むことを口にしていた。母は、その種の愚痴にいっさい取り合わなかった。私にも、ぶらぶらしている言い訳に聞こえた。医者に通う金がない父は売薬を買ってきて飲んでいた。朝鮮人参がいいと聞いてきたものの、医者にかかる金がない状態では高価な朝鮮人参は買えなかった。本物ではないが、いくらか効き目があるだろうということで、人参をおろして飲んだりもしていた。
収入がない父は、タバコ銭にも事欠いていた。この時期のわが家の収入は、母の内職による稼ぎとタンスの中身の売り食いだったから、父に渡せる金は全くなかった。仕方なく、父は妹のところへいって、小遣い銭をねだってきた。この叔母は、日本橋にあったクリーニング屋に嫁いでおり、父の唯一の理解者だった。叔母に勧められたのか、父は、昔の得意先を尋ねて衣紋描きの仕事を貰ってくることもあった。着物をほどいて洗濯し、染みを抜き、剥げ落ちた柄を補修した。補修にさしいては、顔料を大豆の擦ったものや鴬の糞を水で溶かして使っていた。その顔料を細い絵筆でなぞる作業をする父の姿は、それまでに私が見たことがないものだった。*3
*3 父の実家は、洗張屋をやる前は衣紋描きを生業にしていたらしい。といっても新品を扱うのではなく再生を業としていたようで、祖父の代に蔵前に洗い張りを専業にする店を出し、途中からはクリーニング屋に転じていた。洗張屋に転じる前に家を出ているので、正確にいえば、父は商家の出ではなく職人の子弟だったというほうが正しい。
洗張屋といっても、いまの若い人にはわからないと思う。いまでいうクリーニング屋であるが、客から預かった洗濯物を、染みやほつれなどを補修して、新品同様に再生する洗濯屋であると理解してもらえばいい。戦前の日本人はほとんどが和服を着ており、戦後も50年代の半ばころまでは和服のほうが多数派だった。和服の場合も普段着は家で丸洗いするが、余所行きと称する外出着は、いちど解いて布地にばらしてから洗濯し、それに布海苔をつけて板などに張りつけて乾かすという方法で再生していた。これには一定の技術がいるので専門の業者に出すのである。
ちなみに和服というのはじつによく考えられた衣類で、原則として布を裁つことをしないで縫製する。成長期のこどもの場合には丈が伸びることを考慮に入れて長めに作り、丈をたくし上げて着用する。身長が伸びるのに応じて、たくし上げた分を下ろして着る。袖などに丸みを付けるにもハサミで裁つことはせず、丸みを付けて縫ってから裏返す方法で仕立てる。だから、おとなの着物を解くと六尺以上あり、板に張り付けて干すには長すぎるので、両端に針が付いた直系三㍉ほどの竹のひごを使って布の耳の所に針を刺し、竹のバネの力で布地をぴんとさせる方法で干す。こうしていったん解体して洗濯し、仕立て直すのである。だから、原理的には、布地がすり切れるまで再使用が可能な衣類である。
父が定職をもっていたときでも楽ではなかった家計は、父の死でいっそう苦しくなった。母ひとりの働きでは、5人のこどもを養うのは無理だった。まして、高校に行かせるなどということは、より困難なことだった。
父が50歳で逝ったとき、上の姉は旧制女学校の4年だった。4月には新制高校になるため、高校2年に編入されるところを特別のはからいで同じ高校の給仕に雇って貰い、新制になった定時制高校の4年に編入させて貰った。旧制のままなら、残り1年で卒業するはずであるという配慮がされた結果だった。下の姉は新制中学の3年で新制高校に入学するための準備をしていたが、受験をあきらめた。降って湧いたようにおこなわれた学制の変更だったため校舎が間に合わず、私が住んでいた地区の女生徒は管内の私立の女学校に委託される形入学していた。そこにあった1年だけの別科というコースをとることにしたのである。上の姉とのバランスを考えての苦肉の策だった。その結果、彼女は1年後に就職して家計を助けることになった。
父の死から1年のあいだが、わが家がもっとも苦しかった時期だった。母ひとりの働きでは、食っていくことだけでもおぼつかなかった。毎日がタケノコ生活の連続だった。質屋通いは父が生きていたころもやっていたが、この1年間で、タンスの中にあったものは文字どおり空になった。母は平井にあった公益質屋に通った。質草が流れた場合に売値との差額が出ることがあるが、公益質屋だとその差額を貰えたからである。
父が死んだ翌日、私は、いつものとおり学校にいった。告別式は午後からということだったので、午前中は授業を受け、給食を終えてから午後から早退したい旨を担任に申し出た。話を聞いた彼女は、いたく驚いた様子だった。
担任は私を教壇の前に立たせ、級友に事情を説明すると同時に男の子はこうあるべきであるという意味のことを述べた。私は、この過褒を俯きながら面はゆい思いで聞いた。通夜は身内だけで済ませたし、葬儀の準備といったところでこどもの私にはすることがなかった。父の死は、予想外のことではあったが、だからといってそれまでの日常生活が激変するとは思えなかった。いつもどおりの日常を過ごしたのはそういう思いがあったからで、涙が出なかったのもそのゆえだった。
その涙が、級友が揃って焼香に現れたとき、どっと湧いて出た。努めて冷静であろうと振る舞って堪えていたものが、級友の顔を見てどっと溢れ出るのを止められなかった。感情が、理性とは別のところで働くことを知った最初の機会だった。
この件を機に、担任の私に対する評価は、がらっと変わった。私は、人におもねることができない質の人間である。この性格は、父からも母からも受け継いでおり、とくに目上の人と対するさいに表れた。教師に対しては、在学中はできるかぎり距離をとるという姿勢をとった。この担任の場合もそうで、在学中はいちども訪問しなかったが、卒業してからはしばしば訪ねるようになった。在学中は頻繁に訪ねたこどもたちは、利害がなくなったとたんに訪れなくなっていた。そういう律儀さが貴重だということで、この教師には見直されもした。*4
*4 私には、そうした自分を誇りに思う気持ちがある。それはたんなる不器用がもたらすものにすぎないと考えた時期もあったが、父が逝った歳に近づいてからはどうもそれだけではないと思うようになった。
■新聞配達
小学校の6年ころから、私の課題は新聞配達の株を手に入れることだった。貧しい家のこどもにとって、新聞配達はこどもにできる唯一の稼ぎ口だった。近所で新聞配達をして稼いでいるこどもを指して、母は口癖のように「だれだれさんを見習え」といい、褒めそやした。母にいわれるまでもなく、私は、新聞配達をやりたかった。自分ひとりで全部を使えるとは思っていなかったが、自分で稼いだ金であるからには、少しは自分でも使える可能性があると考えていたからだ。
前任者が後任を指名して権利を譲渡するという意味でいえば、配達員の口は、一種の株であるといえた。誰かが辞めるまでは空きがなく、辞めたあとの株を譲って貰える関係がない限り、やりたいという希望だけでは仕事にあり就けないのである。
この株には実入りと仕事の軽重によって、かなり厳密な序列があった。私が株を手に入れた毎日新聞を例にとると、駅前の立ち売りから始まり夕刊の配達、朝刊の配達、集金の順に、あとになるほど高位になる位階制があった。上のほうから順に報酬が高いことが決め手だが、同じ新聞配達でも駅の近くや住宅の密集地は効率が良いために短時間で済み、序列が上にランクされた。当時の中学生は大半が卒業と同時に就職したので、3年生が卒業する時期になると空きができた。空きが出ると、よりよいポストを譲って貰ったものが自分の株を親しい希望者に譲渡するのである。*5
*5 それは、きわめて閉鎖的で陰湿な、縁故関係だけが貫かれる狭い社会だった。たとえば、私と同級のKの場合は、兄から双子の弟たちに、その双子の兄弟から下の弟へと株を委譲しており、ざっと数えただけでも6、7年間はこの貴重な株を独占しつづけていた。私が夕刊から朝刊の株を譲り受けたNは、譲渡にさいして中学1年になった弟に私の夕刊の株を譲ることを条件にした。
新聞の輸送は、電車の最後尾に貨物車が1両だけ連結されていて、定時になると駅にとりにいく方法で行われていた。電車が駅に着くと新聞の束がホームに放り投げられる。その中から自分の専売所宛の梱包を拾い上げ、リアカーに載せて運んでくるのである。それは専従の配達員の仕事だった。やれる気があればひとりでできない仕事ではなかったが、複数の人間がやるほうが能率的だった。で、手伝うといくらかの報酬がもらえた。朝刊の場合、一番電車で運ばれてくるのをとりにいくためには30分は早く専売所へ顔を出さなければならない。しかし、早朝の30分は遊び盛りの少年たちにとって少々の金には換えられなかった。彼らはすでに収入を確保していたうえに、やればひとりでやれないことはない作業である。1人分報酬を数人で分ければ貰える報酬は高がしれている。だから、この仕事だけは株の対象にはならず、希望すれば誰でも手にすることができ、希望者は少なかった。
毎日新聞の販売所は、京成線の国府台駅前に店頭売りの株をもっていた。その株を、同じクラスのMは誰かから譲り受けていた。卒業を控えて配達の株が空き、Mは夕刊の配達の口を手に入れることができたので、前から口をかけていたその株を私に譲ってくれた。こうして、私は念願の稼ぎ口を手に入れた。
駅前の立ち売りの株を手に入れた私は、夕刊が着く時間を見計らって専売所にいった。この仕事の責任者である店主の長男から持っていく商品を受け取ると、自転車の荷台にくくりつけ、国道を30分ほどかけて国府台駅まで走った。駅前には交番があり、その脇に販売用の机を置かせて貰っていた。それを組み立て、商品を並べる。7時半が店を仕舞うメドとして与えられていた。その一方で「内外タイムス」の売り切れを1つのメドとするようにもいわれていた。*6
*6 夕刊紙としてスタートした「内外タイムス」は宅配がなく、全てを駅売りに依拠する最初の新聞だった。週刊誌も新聞社系のものだけしかなく、持っていった「内外タイムス」の売り切れはそれ以上は売上が見込めない時間帯に入ったことを意味していた。
7時半に店を畳むと専売所への帰着は8時を回ることになる。売上を精算して家に帰れるのは早くても8時半、少し遅くなると9時に限りなく近くなった。夕刊がない日曜日と大雨の日だけが唯一の休みという過酷な条件、それが駅売りの仕事だった。それでいて報酬は歩合制だったので、配達のほうが歩がよかった。珍しく「内外タイムス」が7時前に売り切れたことがあり、私は店を畳んで専売所に戻ったことがある。いつもなら8時を回るところを、早々と店を畳む時間に戻ってきた私は、店主の次男に理由を尋ねられた。私は「内外が売り切れたから。」と答えた。誰がそんなこといったかと問う次男に、私はこの仕事の責任者である長男の名を挙げた。
「○○さんがそういったのか。」と困った人だという表情を露わにし、しかし、ややあって「内外の売り切れは1つの目安であり、原則は7時半が店仕舞いであること」を私にきっぱりと宣言した。その表情には、遊び好きで経営者に不向きな兄に遠慮しつつも、自分が支えないことにはこの店が維持できないという彼の決意がこもっていた。こうして私は、「内外タイムス」の売り切れは1つの目安であって、売り切れたからといって即店を畳んでもよいということではないことを知らされた。1日も早く配達の株を手に入れたいという気分が募った。
年が明け、3月になって夕刊の株が空くことになった。その株を確保できた私は、ほっとした。卒業する3年生の朝刊の株を手に入れることができたMが夕刊の株を私に譲ってくれたのである。配達地域は、専売所からもっとも離れていた。郊外の農村の名残りが濃厚なその地域は、家の数はまばらで、やたらと広い配達地域だった。最初の1軒目を配達するまでに店を出てから4㌔近く歩かなければならず、配達を終えるまでには1時間以上かかった。それでも、寒い風に吹きさらされる立ち売りの退屈さに比べると、からだを動かしつづけているうちに仕事が終わってしまうので気分的には比較にならいほど楽な仕事だった。
苦労して確保した収入だったが、報酬をもらうと私はそのままそっくり母に渡した。期待していた自由になる金が増えることはなかった。それまで口癖のように「○○くんはえらい。」といっていた母の嫌みな言辞はやんだ。が、だからといって、その新聞配達をやり始めた私が褒められることはなかった。正確なことはおぼえていない。しかし、駅前にあった古本屋でしょっちゅう本を買っていたことを考えると、小遣いは私の稼ぎからいくらかは出ていたにちがいない。こうして私の中学時代は終わった。
■衣食住供与プラス報酬付きの魅力
わが家の経済状態からいって、私は昼間の高校へ行くつもりはなかった。だから、できることなら働きながら勉強もできる機会があればと考えていた。少年自衛官という制度があり、衣食住の全てが保証されたうえで、高卒の資格もとれるという触れ込みだった。願ってもない好条件である。本気でこれに応募しようと考えた私は、願書を貰うために隊員が常駐している区役所の支所に出向いた。
けっして扇動したわけではなかったし、そのつもりもなかった。しかし、結果として見れば、それは優れたアジテーションになってしまった。少年自衛官という制度があること、試験はやや難しいがある程度の水準なら十分に合格できること、そしてなによりも衣食住が保証されたうえに報酬と高校卒の資格を得られることが決め手だった。最後の条件が最大の扇動材料であり、私のオルグが優れていたわけではない。なぜというに、私はひとりの級友にそういう制度があり、自分はそれに応募するつもりであること告げたほかには、なにもしなかったからだ。
その級友がもうひとりの級友に耳打ちし、それを聞いた級友がまた別の級友に告げるといった形で、この円環はクラスの枠を越える広がりを見せる1つ手前のところで教師に耳に届いた。あとで知ったことだが、教員組合はもとよりPTAまで巻き込む騒動になっていた。
担任に呼ばれた私は、事情はよくわかるし心情もわかる。しかし、兵隊になるということは戦争に加担することにほかならない。事情はどうあれ、ほかの道がないわけではない、と説得される羽目に陥った。担任の話では、私を可愛がってくれていたふたりの教師が説得に乗り出してもいいといっているという。ともに学徒出陣で駆り出された口で、うちひとりは腰に受けた貫通銃傷の後遺症のため、やや引きずり気味に歩いていた。必要なら親を説得するとまでいわれると、私にはそれを押してまで応募する気にはなれず、あっさりと彼女の説得に応じることにした。気分としてはすっきりはしなかったものの、もともとが兵隊になりたくて思いついたものではない。そうした周囲の反対を押しても意地を張る必要を感じなかった。
定時制にいくことも考えた。この考えは、上の姉に反対された。姉は、なんとかするから昼間の学校へ行けといい、母もそれに同調した。
そこで、受験の対象は実業高校に絞られた。数字をいじくることが苦手なうえに客あしらいが全くできないということは実証済みだったので、商業高校はあらかじめ除外した。受験雑誌で調べてみると、都立の農業高校が2つあることがわかった。世田谷にある園芸高校では、当時はまだ珍しかったトラクターを使った実習を行っているということだった。級友には農家の子弟がおり、その仕事ぶりは私にとって日常の範囲にあった。効率は悪いし、収入もいいとはいえない。なによりもわが家には農地がない。彼らの親がやっている農業とは異なる「新しい農業」なら、企業の従業員として働くことが可能だというころに、私は魅力を感じた。が、いかんせん通学に要する時間を考えると、乗り気にはなれなかった。もう1つは近くの亀有にあったが、創立から日が浅く校舎を建設中だったこともあって、はじめから検討する対象にしなかった。
こうした引き算をするなかで、工業高校でも数学が必須でない学科があることに気づき、水道橋にある工芸高校の図案科か木工科に的を絞ることにした。 この時期の私には、ふたりのごく親密な友人がいた。IとNである。ふたりとも迷うことなくすでに自分の進路を決めていた。Iは商業高校、Nは工業高校の機械科だった。年が明け、私はNとふたりして見学に行くことにした。Nの本命は工芸高校だったが、ついでに蔵前にある蔵前工業も覗いてみたいという。同じ沿線にあるので、途中下車していくことに決めた。*7
*7 蔵前工業高校は、東京工業大学が同じ名前を名乗っていたことから、同じ学校であると錯覚する人が多かったが、じつは別の学校である。しかし、全く別かというとそうでもなく、敷地は旧蔵前工業のものを使っていた。そのことに象徴されるように中堅技術者の養成校としては高い水準を保持していた。生徒も優秀なものが多く集まり、競争率は高かった。
私たちは、近いほうから訪問することに決め、はじめに蔵前工業を訪ねた。私たちの中学は分校から独立した学校であるために、先輩がひとりもいない。仕方なく、私たちはなんのつてもなしに訪問先を訪ねることにし、守衛室で用向きを伝えた。その種の見学者は滅多にないようで、守衛が教員室に電話をかけ、しばらく待たされた。30分は待たされただろうか、生徒会長が現れ案内するという。詰め襟の学生服を着た生徒会長は、対応も含めていかにも優等生らしい印象を私たちに与えた。それに反して、つづいて訪れた工芸高校では、全てがちがっていた。私たちの用向きを聞いた守衛は、勝手に見て行けという。案内してくれる人がないまま、私たちは遠慮がちに教室を覗いて歩き、一回りしたところで屋上に出た。そこで私たちは見たのである。実習用のつなぎを着た生徒が数人、タバコをふかしているのを。私は、その光景を見てこの学校がすっかり気に入った。Nも同感だったようで、帰りの電車のなかでは「あれはいいや」といいながら、しきりにたばこを吹かす仕草をしては陽気にはしゃいでいた。
翌日になり、学校へ行ったNは、屋上でタバコとふかしている先輩がいる「すごく気に入った高校」を、級友に向かって宣伝して回った。
商業デザインか木工をやるつもりでいた私は、ここでもまた志望先を変えることになった。私には、色神検査をおこなうと「赤緑色弱」と判定される障害があった。信号も絵の具も区別できるのに、その検査をやると「色神異常」と判定されるのだ。このことを気にした姉が知人のデザイナーに相談したところ、就職のさいに不利であるから考え直したほうがよいとのことだった。商業デザインは色感が問われる。木工なら問題はないだろうとは思った。が、稼ぐために行く高校である。就職ができないとなると、考え直さざるをえなかった。担任に「先行きどうにでもつぶしが利くから普通高校へいってみたほうがいい」といわれると、「それもそうかな」という気分になった。
■奨学金、バイトに継ぐバイト
20歳に満たない女ふたりと格別な技能をもたない中年の寡婦、この3人がわが家の収入源である。それぞれの食い扶持は自前で賄えるとして、3人のこどもを養うためには残余がなければならない。が、ほかにこれといった収入はない。支出を極端に抑えないことにはやっていけない。そういう条件にあって、働かせれば己の食い扶持程度は稼ぐだろう私を進学させるという彼女たちの判断は、先のあてがあってのものではなかった。いま考えるとどうやって私たち3人を食わせていたのかと思うが、それでも新聞はとっていた。父も新聞を読むのが好きだったが、尋常小学校の課程を4年しか終えてない母も、新聞は毎日目を通していた。
入学直後のホームルームで、学校からの諸注意が担任からあった。そのおりに、ついでのように「奨学金を貰いたいものは手を挙げろ。」と担任が事務的にいった。「そういう手があるのか」と私は思った。教室を出る担任の跡を追うようにして教員室にいき、奨学金を受けたい旨を申し出た。「そうか。」といっただけで委細を問うことなく、担任は申請に必要な書類を取り出し、必要事項を書き込んで持ってくるようにいった。申請書は自分で勝手に書いて提出した。これで学費と定期代が賄えることになった。
しばらくして全校一斉のテストがおこなわれた。進学志望のものは知っていたようだが、私はそのテストがなんのためにおこなわれるのかを知らなかった。英語も数学も、全く習っていない問題が出題されていたのにはいささか奇異な感じがした。が、不意打ちテストはお手のものだと思っていた私は、どの程度の力があるのかを確かめるためのものだろうと考えた。しかし、採点が戻ってきて、得意の国語が30点だったのにはショックを受けた。それまでにそういう点数をとったことがなかったからだ。『徒然草』からの出題だったか「高名な木登り」という句があり、私はそれを人の姓だと思って読み、その設問には答えられなかった。いま考えれば、「高名な」とあるからには、形容詞であって名詞ではないので、誤読することはないはずだが、人1倍乱読していたわりには国語力は低かったものと思われる。
このテストは、1年から3年までの全生徒が同じ問題に挑戦する国立大学受験のための(そのためだけにおこなわれる)模擬試験だった。試験結果は、採点後に得点順に50位までが一覧にして張り出される。この一覧が「番付表」と呼ばれてこともあとで知った。この番付にのれば国立大学はok。20位以内なら現役で東大合格間違いないというのがもっぱらの噂だった。なかには優秀なのがいて、上級生に伍して上位に食い込むのがいる。この連中の追い上げ効果を期待してのテストだった。
そのからくりを知ってからの私にとって、年に3回おこなわれるこのテスト期間中は、絶好の稼ぎ時になった。国立大学受験を前提にしているために、同じ条件の日程が組まれていたから、あらかじめ私立を受験するものは自分の受験教科だけしか受ける必要がない。学校もそのこと知っており、出欠をとらないので、試験中は休んでも出席扱いにされた。かくして、夏、冬、春の休みに加えて、このテスト期間中の私はアルバイトに精を出すことになった。
アルバイトの斡旋は、千鳥ヶ淵の近衛第1連隊の跡地にあった学徒援護会という組織だけが、おこなっていた。対象は主に学生だったが、生徒も高校生なら認められた。そのことは入学前にIの姉から聞いて知っていたので、私は在学中の3年間、休みとなると斡旋を受けて働いた。学生が対象の仕事はかなりあったが、高校生を対象とする求人は限られていた。数少ない「高校生も可」とある求人票を探し出しては、どんな仕事でもやった。対象が「高校生」とある求人票を見つけたときには、幸福感で豊かな気分になれた。登録している高校生は限られており(おそらく私のほかにはいたとしても数名だったと思う。)、「高校生」と限定された募集なら即斡旋されることがわかっていたからだった。
彫刻家のモデルの仕事だった。柔道2段を誇る大男のラグビー部の先輩は、私の貧弱な肉体をしげしげと眺めながら「おまえがモデルかよ。」といい、あきれたのようにつぶやいたが、雇い主である彫刻家の目的はまだ青年になりきっていない少年像の制作だった。報酬は日当で貰える工場の作業に比べて安かったが、3カ月つづくという条件が魅力だった。このようにして得た金だけが、私が自由に使える金だった。
いまでは2つとも死語になってしまったようだが、鉄道の不正乗車のことをキセルまたは薩摩之守といった*8。私は、このキセルをやって捕まったことが2度ある。
*8 キセルは煙管とも書く喫煙具。吸い口と材料を詰める箇所が金属で、煙を通す部分が金属製であることから、入場と退場だけに金(属)を使い中間には金(属)を使わない不正乗車のことを指していう。薩摩之守は平忠度(ただのり)の官名が薩摩之守だったことに由来している。
はじめはもっとも親しかったOが腎炎で倒れ、休学して療養していたのを見舞ったおりのことである。期末試験が終わり、ひと息ついたという気分もあって、たまたま帰りの電車の中で一緒になったTと見舞いに行こうということになった。Oの家は私の下車駅の2つ先にあり、Tの下車駅と同じだった。上級生から学帽に定期乗車券を入れて受け渡しするキセルの方法を聞いていた私は、Tにその方法を提案した。私に当時の最低乗車区間の料金だった10円がなかったわけではない。このときは、半分は遊び気分での不正乗車だったのである。
私の提案に気楽な気分で同意したTから、定期券を受け取ったまではよかった。が、なにげなくやったつもりがあまりにも公然とやったので、駅員が見逃さかった。改札口で捕まり、事務室に連れて行かれ、絞られる羽目になった。定期券を手になまえを尋ねる駅員に、私はTの姓名を名乗った。改札の外から事務室の様子を覗き見ているTの心配そうな顔が窓越しに見える。「嘘をついてもダメだ。あそこで覗いているのがTだろう。」そう図星を指され、私は観念した。
「○○高校といえば模範になって貰わなければならない学校じゃないか。」そういう学校の生徒不正をしてもいいのか。恥ずかしくはないのか。等々と駅員は説教をたれる。こういうときには、低姿勢に徹することが必須であることを知らされていた私は、もっぱら頭を下げつづけた。通常なら3倍の罰則料金を払わなければならないところだが「きょうのところ格別に許す。」ということばが駅員の口から出るまでに小1時間かかり、やっとのことで解放された。
私たちの話を聞いたOの母親は、薩摩之守程度でそんなに絞り上げるのはけしからんという。話し込んでいるうちに帰宅したOの父親も、選良候補生のいたずらに駅員ごときがその劣等意識でいびるなど不届きだといい、冗談交じりに駅長に抗議するかという。モラトリアム期間にありがちなこの種の「不良行為」は、社会が許容する範囲内にあったのである。
2度めの不正乗車、これは意図的だった。夏休みにやったバイトのおりのことである。仕事は工事現場の廃材を片付ける作業で、銀座の現場に行かされた。2週間ほどの期間だったので、新橋駅発行の最低料金の回数券を買い、仕事を終えてから有楽町で乗り、通学定期で下車。翌日はその回数券を使って新橋で降りるという方法で、途中をキセルするだけでなく、1枚の回数券を2回使ったのである。正規に払う料金とキセルによって確保できる金額との差は、当時の私には大きかったのである。
無事だったのは数回で目ざとい駅員に呼び止められ、役務室に連れて行かれ、主任格の駅員に渡された。捕まるはずがないと思っていた私に、その駅員にこの種の不正乗車が典型的なものであることを説明され、私は観念した。学帽にジャンパー、高下駄を履いたどう見ても貧しい私の姿にかつての己を見たのか、駅員は同情的だった。家の事情を聞き、「気持ちはわかる。わかるが規則だから守って貰わなければならない。」といい、精算所で精算をすることを告げられた。3倍の罰則料金を払うように、とはいわれなかった。
■間違えて入ってきた生徒
通称「ドロ健」と私たちが読んでいた数学の教師がいた。女生徒の中には、1次志望に落ちて2次志望で入学してきた人がいる。勢い成績が落ちるのは否めないわけだが、そういう生徒を目ざとく見つけてはねちねちと質問を浴びせて立ち往生させ「おまえ、間違えて入ってきたんじゃないか。」と口汚く罵倒するのである。別の意味で間違えて入ってしまった私は、自分のことをいわれているようで、たまらない思いがし、好きになれない教師だった。
2学期の初日の教室には、立ち往生させられた女生徒ともうひとりAの席が空席になっていた。代わりに教室の後ろにふたりの見知らぬ顔があった。担任から転入生であることが告げられ、両名は空いた席に座るようにいわれた。授業に付いていけない生徒は追放され、代わって優秀な生徒で補充する。これがこの学校がとっていた「水準を維持するための方式」だった。文芸クラブで一緒だったSさんもそのうちのひとりだったようで、いつの間にか姿を見せなくなっていた。
卒業アルバムを見ると、痩せこけた私は洗いざらしの木綿の学生服姿で写っている。別のアルバムにある春の遠足ではそれがサージの服に替わっていることから推して、中学のときのものを進学後もしばらくは着ていたのだと思う。西部は、高校時代にオーバーコートを持っていなかったことをもって貧しさをことさらのように強調している。が、それは「うちはそんなに貧乏ではなかった」と「文句をいう」彼の妹たち(『友情』p22・23)のほうが正しい。好意的に解釈したとしても、西部の「貧しかったという思い込み」による錯覚にほかならない。この時代の平均的な庶民は、家族が1つ屋根の下で肩を寄せ合ってガマン比べのような協同をしないかぎりは生きてはいけなかった。貧しかったとはいえ私の場合は中の下あたりで、下に属する人たちはもっとたくさんいたし、だいたいが年子を揃って大学にやれる家庭など、東京でも上に属さないかぎり不可能な時代だった。
そうはいっても、私の高校生活は充実していた。在校生の9割までが進学志望であるなかで、いま考えると、経済的な事情から進学が難しい級友の多くは暗い表情をしていたように思う。しかし、暗い表情をしていたのは彼らだけでなく、周囲の期待に応えなくてはならない連中も暗い顔をしていたから、親しい関係でないかぎり外から見たかぎり両者は区別がつかなかった。そういう連中に比べて、あらかじめ進学する気がない私は気楽だった。入学した当初は文系のクラブ3つ、運動部も3つのクラブに加入を申し出た。水泳部は夏だけだからやれないことはなかっただろうが、ラグビー部と柔道部の掛け持ち無理。生物部はおもしろくなさそうなのでやめ、運動部はラグビー1つに絞り、新聞部と文芸(どういうわけか文芸部といわず文学部と称していた)部に所属することにした。新聞は季刊、同人誌は年に2回の発刊だったから時間のやりくりがついたので、両方で中心的な役割を果たしていた。かくして「間違えて入ってきた生徒」の3年間の高校生活が始まった。
■政治的後進地
新聞部は生徒会役員室と同居していた。小学5年から学級新聞をつくっていた私は、当然のことのように新聞つくりにたずさわることになった。