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2) レーニンという人物

《モスクワに着いて間もなく、私はレーニンと英語で一時間対談した。彼は英語をかなりうまく話す。通訳が同席していたが、その助けはほとんど必要がなかった。レーニンの部屋にはまったく飾り気がない。大きな机、壁の数枚の地図、本棚が二つ、二、三の固い椅子の他に来客用の安楽椅子が一つあるだけであった。彼が贅沢はもちろん、安楽ささえも好んでいないのは明白であった。彼は非常に親しげで、一見単純で、倣慢そうなところは全然なかった。誰であるかを知らずに会えば、彼が強大な権力を持っていることにも、彼が何らかの意味で著名であることにさえも気付かないであろう。これ程までに尊大さのかけらもない人物に、私はかつて会ったことがなかった。彼は来客をじっと見つめ、片方の目を細める。それがもう一方の目の人を見抜く力を驚くほど強めるように思える。彼は大いに笑う。はじめは彼の笑いはたんに親しく陽気であるように思えたが、私は次第に気味悪く感じるようになった。彼は独裁的で平静、恐れを知らず、私利私欲が異常なまでに欠け、理論が骨肉化したような人物である。唯物史観が彼の生命の源という感じである。自分の理論を理解してもらいたいと願う点で、誤解したり反対したりするものに怒る点で、また説明するのが好きな点でも、大学教授に似ている。私は、彼が多くの人を軽蔑しており、知的貴族であるという印象を受けた。
 私が尋ねた最初の質問は、彼がイギリスの経済的、政治的状態の特殊性をどの程度まで認識しているかであった。暴力革命を支持することが第三インターナショナル加入の不可欠の条件であるかどうかも知りたかったのだが、他の人々が公式にその質問をすることになっていたので、私は直接には訊かなかった。彼の答は、私には不満足であった。彼は、イギリスでは今、革命の可能性はほとんどないこと、労働者はまだ議会制政府に愛想をつかしていないことを認めた。しかし彼は、この愛想づかしが労働党政権によってもたらされるだろうと考えていた。例えば労働党指導者のヘンダーソン氏が首相になったとしても、重要なことは何も行なわれないであろうし、その場、組織された労働運動は革命の方向に向うと、彼は信じている。この理由から、彼はイギリスのレーニン支持者が議会内で労働党の多数を得るために全力を尽くすよう願っている。彼は議会選挙に棄権するのは賛成していない。誰が見ても議会を軽蔑できるようにするのを目的に、選挙に参加することを奨めているのだ。われわれ大部分のものにとってイギリスで暴力革命を試みるのはおよそあり得ないことで、望ましいことでもないように思えるが、その理由は彼には取るに足らぬことで、たんなるブルジョワ的偏見のように思えるのであろう。イギリスではおよそ可能なことならば流血なしで実現できると私が言ったところ、彼はこの意見を空想的だとして軽く一蹴した。イギリスについての知識や心理的な想像力があるという印象はあまり受けなかった。むしろマルクス主義の全体的傾向が、心理的想像には反対なのである。マルクス主義は、政治における一切のものを純粋に物質的な原因に帰属させるからである。
 私は次に、農民が大多数を占めている国で共産主義をしっかり充分に樹立できると思うかと尋ねた。彼は困難であることを認め、農民が食糧を紙幣と強制的に交換させられていることを笑った。ロシア紙幣が無価値であることが、彼には喜劇的なことのように思えたのであろう。しかし彼は、農民に提供できる商品があれば、事態は自然によくなるだろうと言った――それは間違いなく正しい。この点では、彼は一つに工業の電化に期待を寄せていた。電化はロシアにとって技術的に必然なことだが、完成するには一〇年かかるだろうと、彼はいう。党員はみなそうだが、彼は熱意をこめて泥炭による発電の大計画について語った。もちろん根本的な対策としては外からの封鎖の解除に期待しているが、他国に革命が起らなければ、封鎖解除は完全かつ長期的には実現できないだろうと考えていた。ボルシェヴィキ・ロシアと資本主義諸国間の平和は常に不安定なものにならざるを得ないと、彼は言った。協商国側は厭戦気運と各国相互間の不一致のためにロシアと講和するようになるかもしれないが、その平和は短期的にしか続かないと確信していた。平和と封鎖解除については、彼はわれわれ代表団よりもはるかに熱意がなかったし、その点ではほとんどすべての指導的党員も同じであった。彼は、世界革命と資本主義の廃止がなければ真に価値のあることは何も達成できないと信じていた。資本主義諸国との貿易再開は価値の疑わしい一時しのぎの措置と考えていると、私は感じた。
 彼は富農と貧農の間の対立、貧農にたいして行なわれている政府の富農反対の宣伝について語った。そのため暴力行為が起こっていることを、彼は面白いと思っているようだった。彼は、農民にたいする独裁は長期にわたって続けねばならぬといわんばかりの口調であった。農民が自由貿易を望んでいるからであった。この二年間、農民はそれ以前よりも多くの食糧を持っていることを統計で知っていると言った(これは充分に信用できることである)。「それでも彼らは、われわれに反対しているのだ」と、彼はいくらか物悲しげに付け加えた。農村では共産主義ではなくて、農民の土地所有が創出されただけであるという批判者にたいしては、どう返答したらよいのかと、私は彼に尋ねた。それはあまり真実ではないというのが、彼の返事であったが、何が真実であるかについては何も言わなかった。
 私の最後に尋ねたのは、資本主義諸国との貿易がもし再開されるとすれば、資本主義的影響力の中心部が各所に作り出され、共産主義の維持をもっと困難にしないであろうかという質問であった。熱烈な共産党員ならば、外の世界との商業的交流は異端の浸透を招き、現存体制の硬直性をほとんど維持できなくしてしまうとして恐れているのではないかと、思っていたからである。私は、彼がそのように感じているかどうかを知りたいと思ったのである。彼は、貿易が困難を作り出すだろうということは認めたが、戦争の困難よりは小さいだろうと言った。二年前には彼も彼の同志たちも、世界中の敵意に対抗して生き延びることはできないと考えていたと、彼は言った。彼らが生き延びたのは、さまざまな資本主義国家間の嫉妬心と利害の分裂、それにボルシェヴィキの宣伝によるものだと、彼は言う。ボルシェヴィキが大砲にたいしてビラで戦おうとした時、ドイツ人は笑ったが、しかし事態はビラも同じように強力だということを証明したと、彼は言った。西欧の労働党や社会党がその事態の中で一役果したことを、彼は認めていないと、私は思う。イギリス労働党の親ソ的な態度のために、イギリス政府はこそこそやれること、また否定してもあまり空々しい嘘にはならないことしかできなくなり、こうしてロシアにたいする本格的な戦争は不可能になったことについては、彼は知らないようであった。
 彼は、イギリスのタイムズ紙の社主ノースクリッフ卿の反ソ攻撃を大いに楽しんでいた。ボルシェヴィキの宣伝に貢献したというので勲章をさしあげたいとまで思っていた。強奪という非難はブルジョワにはショックかもしれないが、プロレタリアートには逆の効果があると、彼は言った。
 誰であるかを知らずに彼と会ったら、彼が偉大な人だということに気付かずに終っただろうと、私は思う。あまりに強く自説にこだわり、偏狭なまでに正統的だという印象を受けた。彼の強さは彼の正直さ、勇気、不動の信念から来ていると、私は想像している。彼の信念は、いわばマルクス主義の福音にたいする宗教的な信仰である。マルクス主義の福音の方が利己主義的でないという点を別とすれば、この信仰がキリスト教殉教者の天国への願いの役割を果しているのである。彼は、ディオクレティヌス帝の迫害のもとで苦しんだが後に勢力を得てから復讐したキリスト教徒と同じく、自由にたいする愛着をほとんど持っていなかった。おそらく自由への愛着は、人間のあらゆる苦しみを治療できる万能薬があると心から信じる態度とは両立しないのであろう。そうとすれば、私は西欧世界の懐疑的な気質を喜ばざるを得ない。私は社会主義者としてロシアへ行った。しかし疑いを持たぬ人々と接して私自身の疑いは千倍にも強くなった。社会主義そのものにたいする疑いではなく、信条を固く抱いてそのために広く不幸をもたらすのは賢明なことかという疑いである。》

 レーニンという人物は不可解な人物である。趣味はなにかと問われれば「マルクス主義と革命」と答えるのではないかと思えるほどに無趣味であり、かつ私心がない。快活であり、尊大なところを人に感じさせない点でも希有な人物である。しかし、私には「彼は大いに笑う。はじめは彼の笑いはたんに親しく陽気であるように思えたが、私は次第に気味悪く感じるようになった。」とラッセルは記している。このラッセルの直感には、さすがだと思わせる鋭さがある。

突破力




 かつては郊外の里山だったものを造成した分譲地はまだ空き地が目立つ。このところの東京周辺の宅地造成は驚くものがある。「戦争」が始まるまではこういう光景を見ることもなかったし、関心もなかった。それが、このところ必要に迫られて頻繁にお目にかかるようになった。こういう光景を見るにつけ、思い出されるのは敗戦でソウルから引き揚げて移り住んだ母親の郷里ののどかな山村の風景である。山があり、したがって川があり、こどもにとっては遊ぶ場所にこと欠かない自由な世界だった。ここにだってかつてはそういう世界があったにちがいない。
 あらためて周囲を見回す。周辺の取り付け道路は整備が終わり、一部見晴らしがきかないところもあるが、高いところに陣取れば周囲はほぼ360度見渡すことができる。いい場所を選んでいる、と男は思った。ドライバーは視野が広い大口径の双眼鏡で下の道路を見渡している。
 4月の暖かさを増した陽光が差し込み、汗ばむほど車内は温かい。

 こどもたちはみな裸。すっぽんぽんである。上流ゆえに両岸は切り立った崖になっており、川は眼下を蛇行している。ところどころに小さな砂州があり、こどもたちはそこに服を脱ぎ捨てて水遊びをしている。橋の上からなんということもなしにそうした光景を眺めていた視野に、つるんとした白い尻が飛び込んできた。その尻がポカッと浮き出た瞬間にのっぺりした裂け目が見えた。もぐりそこなって、尻だけが水面に浮かび上がったのである。いらい、ほんの一瞬だけかいま見たその裂け目は、男の潜在意識のかなり深いところに定着することになった。いまの妻との結婚にしても、その深淵を探ってみたいという動機がなければしていなかったかもしれない。だから、気を許して寝物語でその「白い尻」のことを問わず語りに話してしまった。あれは失敗だった。男としては、話すべきでことでなかった、と男は思う。
 同級生である妻は、卒業後に私立の女子校に就職した。70年代に入り内ゲバが激化すると、公安が学校に干渉を始め、周囲の妻を見る目が極端によそよそしいものになり、居づらくなった。理事長に離職を促されたときには、すでに保護者のあいだで問題になっており、自分の力ではなんともしようがないと校長がいうまでになっていた。同僚で彼女をかばうものはひとりもいなかった。妻は自分で小さな商社の事務員の仕事を探してきたが、こちらのほうは1年ともたずに辞めざるをえなかった。男は、組織に所属する弁護士を通して、弁護士事務所の事務員として働く場を用意した。

 敵対する党首を暗殺した日からあと、それでなくとも会う機会が限られていた逢瀬にさらなる制約が加わることになった。何カ月ぶりに会ったときに、男ははじめて妻のほうから迫られた。それまでは、そういうことをしなかった妻が、自分のほうから求め、あられもないほどの大声を上げ、腰を激しく使った。思い切り放出した。気だるい充足感とえもいわれぬ解放感があった。男は、深層で追い求めてきたあの白い尻の裂け目の深淵が、そこにあったことをこのときにはじめて知った。つぎの逢瀬でも妻は同じように激しく求めてきた。が、男は必死の思いでこらえ、かろうじて放出寸前に陰茎を抜いた。怒張した陽物は湯気を立てていた。直前でいきなり抜かれてしまった妻の深淵からも湯気が立っていた。物憂げなかすれ声で「心配しなくてもいいのよ。」と妻が声をかけてきた。男の抜茎を排卵日を恐れてのことだと誤解してのものいいである。目の前にいる女と結婚したことを、男は悔いた。師が実践しているように、有能な秘書をじっくり時間をかけて探せばよかったのだ。同じとはいわないまでも、男がやろうとしていることを理解するだけの能力の持主を待てばよかったのだ。そうしなかった結果がこのていたらくであり、すべてはあの「白い尻とほの見えた裂け目」がしからしめていることを呪詛した。
 前の逢瀬でことが済んだあとのことだった。「みんな志なかばで死んでしまうのね。」という妻が思わずつぶやいたことばが強力な制動力として働いていた。後ろめたさでもある。この間に死んでいった仲間を妻は知らない。妻がいう「みんな」とは、彼女が知っているごく限られた古い仲間である。しかし、この間に死んだのは20代前半の若い学生だった。いずれもあの割れ目の深淵を知ることなしに逝ってしまった。妻がいうとおり「将来社会の萌芽形態」をみることなしに、そういう意味では「志なかば」で。

 「きたようです。」運転席からの声で男はわれに返った。柄にもなく感傷的になっている自分がおかしかった。がらにもなくみょうな気分になっている己を振り切った。
 南北に通っている新しい道路の上手から姿を見せたグレーのライトバンが目に入った。車はゆっくりと下りてきて、眼下を通り過ぎ、しばらく進んだところで止まり、助手席からひとりの男が下りてきて左手をかざして造成地をながめている。「まちがいありません。」ふだんは融通が利かない男だと思うが、こういうときは頼もしく思える。左手をかざしたときは尾行は見当たらないというシグナル。右手をかざしたときは要注意のシグナルであると事前に決められている。その間、車はスイッチバックを始め、男が乗り込むのを待ってもときた道を引き返し、男がいる位置から見ると30度ほど前で止まった。すべて指示どおりに動いているのを確認し、双眼鏡を納めながら
「ではいきましょう。」
 車はゆっくりと坂道を下り、ライトバンを追い越したところで停止した。
 助手席から先ほど手をかざして眺めていた男が下りてくる。黒っぽいサラリーマン風の服にネクタイを締めている。上着の左胸のあたりをしきりに気にしながら前後を確認し、ドア越しに運転席に目顔で合図を送る。運転席のドアが開き、ドライバーが出てくる。その男が近づいてくるのを確認し、こちらのドライバーも外に出る。近づいてきた男は内ポケットから紙片を取り出しドライバーに手渡す。ドアを開け、戻ってきたドライバーはトランスミッションの上にある備え付けの灰皿のふたを開け、ライターで火を付ける。紙片がすぐに燃え上がり、灰になった。それを確認したドライバーがいう。
「移ってください。」
 その声を待って男はドアを開け、外に出た。
 ふたりの男が近づいてきて、両側から挟むようにうしろで待つ車にいざなう。ひとりが先に後部座先に乗り、男はそれにつづく。内懐から伸縮式の警棒を取り出し、床に置く。もうひとりの男が周囲を見回してから男の隣に割り込むように入ってきた。ドアを閉めロックし、同じように警棒を内懐から取り出して床に置いた。
「いきます。」
 車はゆっくりと発進した。




 6月にジャカルタで開かれた国際学連(IUS)執行委のおりとは状況が大きく変わっていた。前年の61年8月にはソ連が核実験を再開。4月に入ってアメリカが実験を再開し、このままいけばイギリスとフランスも追随し、世界中が核実験競争の渦に巻き込まれる様相を見せていた。そうしたなかで8月にレニングラードでIUSの第七回大会が予定されていた。
 革共同政治局はこの大会に向けて3つのことを決めた。ひとつは同じ時期に開催が予定されている東京の原水禁世界大会に対し全学連が米ソ両国の核事件に抗議する大衆行動を展開すること。これに呼応してモスクワの赤い広場でも示威行動をおこなうこと。レニングラードの大会ではソ連核実験擁護の執行委案を批判すること、である。
 難題は赤い広場でおこなう示威行動の中身だった。類例がないことだっただけにことは慎重を期す必要があり、計画が綿密に練られた。政治局からは鈴木が英語に堪能であることから選ばれた。全学連を代表して根本と高木がゆくことに決まったが、高木は別に行動することになった。IUS書記局に常駐している石井と連携して後方支援をするためである。念のためにということでロシア語を話せる学生が物色され、Kが追加された。デモをするのは3人。高木は石井とともに拘束されるであろう3人の救済に当たることに決まった。

 モスクワに着いた鈴木はホテルで外国人記者を捜した。デモといったところで赤旗に「全学連」と白布を縫いつけただけのものを持って歩くだけのことである。ほかの国なら取り締まりの対象にはならないだろうが、この国ではそうはならない。すぐさま、KGBが駆けつけてきて拘引されること必至であり、何歩歩けるかが勝負になることが予測された。それだけに、カギは、その様子を写真に撮らせて世界中に配信させることにあった。赤地に白なら、白黒写真でもハッキリと写る。漢字の「全学連」の意味がわからなくてもいい。そういう示威行動がモスクワの赤の広場でおこなわれたことを世界中が知ることが大事なのだ。事前の打ち合わせでは日本の通信社を候補に挙げたものもいた。が、本多は言下に「それはダメだ。」と切り捨てた。日本の通信社では発信力がない。APやロイターでないことには受け取るほうに相手にされないという。そう本多に主張されると異論を挟むものはいなかった。
 ロビーには所在なげに雑談しているそれらしい人間がいる。Kがいかにもヤンキーらしい陽気な人間と話を交わしている。親指と人差し指で輪をつくり、「脈あり」のサインを送っている。ふたりのところに近づくと、Kが「APの記者だそうです。」といった。ここで話すのはまずい。どこにKGBが聞き耳を立てているかわからない。握手を交わし、「ゼンガクレン」の代表としてきていることをいってから、「夏のモスクワは美しいとは聞いていたがきょうはまさにそういう天気だ。ついては時間があれば少し外の空気を吸ってみないか。」といってみた。それだけで察してもらえるとは思わなかったが、相手の男ほうは乗ってくれた。「ゼンガクレン」がきいたことはしきりに「ゼンガクレン」を繰り返すことでわかった。アメリカ人にしてみれば、この極東の敗戦国を騒がせている「ゼンガクレン」とはそもなにものなのか興味津々なのだ。
 歩きなら単刀直入に用件を話した。男はしきりに「ひじょうにおもしろい(very interesting)」を連発し、ぜひとも乗るという。細部の打ち合わせは彼らの部屋でおこなった。カメラマンには写真を撮ったらすぐに現場を離れてほしいと念を押した。配信するさいにはビラをまいたことにしてほしいこと伝え、案文を渡した。話は筆談でおこなった。その雰囲気に彼らも飲み込まれようで秘密を共有する共犯者の気分になった。打ち合わせは短時間で済んだ。

 予想したとおり、旗を広げ、ものの数歩も歩き出したところで制服が駆け寄ってきた。鈴木は目でカメラマンの姿を追った。フラッシュがたかれ、指で丸をつくりながらカメラを持った男の後ずさりしていく姿が目に入った。「勝った!」と思った。
 へたをすると十年、ひょっとすると二十年は拘留されることを覚悟しての行動だった。が、結果は意外なものだった。1週間の拘留ののち、「わが社会主義共和国連邦」の「平和を求める気高い理念」の名をもって3人とも釈放された。レニングラードに送られ、そこで待つ高木と石井に合流した。大会では、執行委員会のソ連核実験擁護提案に抗議し、凱旋帰国した。事前の計画は予想した以上の幸運に恵まれ、写真は全世界に配信された。




 60年闘争のカギとなる国会突入を前にしてのことである。ブントの労対責任者として黒田に電話した。動労青年部の部隊を登場させてもらえまいかと依頼するのが用件だった。結果は拒否された。が、電話で筆名を名のった鈴木に対して「森だけではわからんよ、マルクス主義芸術理論家森茂と名のりなさいよ。」と黒田にいわれた。ひとをくすぐらせるものいいである。このひとことで鈴木は黒田の掌に落ちた。モスクワから帰国すると、いっときの凱旋気分は党内のもめごとで吹き飛んだ。わけがわからいうちに議長派と書記長派に分裂し、組織は割れた。弟がそれにからんでいることは明らかだった。が、鈴木は黒田をとった。ブントからは数多くの活動家が革共同に合流したが、黒田に従ったのは鈴木をのぞけば根本ひとりだった。年功と知名度から書記長の椅子を与えられ、結党宣言を議長にかわって書いた。が、その椅子は荷が重かった。生来が書斎肌の鈴木は動く政治は得手でない。つまるところ、半分自分から身を引く形でその椅子を譲ることになった。それでも理論家として得手な分野で動けたうちは居場所があった。しかし、それができたのも68年まで。運動の激化にともない自前の印刷所をつくってからは、そこにしか居場所がなくなった。

 いままでの革マルにはいなかったタイプの活動家が出てきた。これが、男をめぐる一致した評価だった。とくに黒田の期待は大きいものだった。黒田が説く理論をなぞる「理論家」はいたが、彼が不得手とする経済学について進んで挑戦するものはいなかった。男は最高指導部のメンバーのひとりひとりの性格や得手不得手などをじっくり観察していた。そして、だれもが名のりでないのを見て、後退戦の先頭に立つことを買って出た。黒田が定めた党是に忠実に、他党派からは敵前逃亡と罵られ、下部から指弾されることにも怯まなかった。その突破力は党首の信頼をかちえるに十分なものだった。抜擢に次ぐ抜擢がおこなわれ、数年で先人を追い越し、実質的な指導権を確保した。気づくと、ことば遣いを含めた態度をもって鈴木の前で君臨していた。
 目の前では根本が踏み絵を突きつける。弟の情報を出せ、そうするのが「プロレタリア的人間の論理」のあるべき姿ではないかいう。この種の理屈をこねることが不得手なこの男にしては柄にもないことだった。膝詰めの談判はこれが二度目だった。その根本自身も踏み絵を迫られてのことである。つぎはないだろうことは、隣で腕組みをしながら黙って座っている男を見れば一目瞭然だった。鈴木がどう対応するかだけでなく、根本がどう振る舞うかも同時に監視しているのだ。
 振り返ってみると、革共同への合流が正しかったと確信できたのはあのあたりまでのことだったかもしれない、といまの鈴木は思う。こと芸術にかかわる理論については一家言があるという自負をくすぐられ、同様に理論家であると称する黒田とは波長が合うものだと錯覚したのがボタンの掛け違えだった。居場所はときの経過とともになくなっていた。気づけば上のほうで決められたことを活字にするだけの部署にいた。従業員として動員された学生を管理するだけの存在になっていた。かつては自分もそこにいた部署でなにが、どう議論されているのかわからないまま、ただひたすら活字を拾い、輪転機を回す作業に明け暮れる日々がつづいていた。
 少し考えさせてもらえまいかというのが精一杯の抵抗だった。しかし、それは抵抗といえるほどのものでないことはすぐに判明した。これまでの閲歴を考え、それに兄弟という事情を顧慮すれば、頭からは否定できないという手続の問題として42時間の猶予が形として与えられたものでしかなかった。いちど堕ちたからには世捨て人として生きるほかに術はない。問われるままに弟について知っていることをすべて話した。いちど話し始めると、いわなくてもいいことまで「自白」している自分に気づき、暗澹とした気分に陥った。救いはただひとつ。「心配は要りませんよ。必要なのは彼が持っている資料だけなんです。むろん、いきがかりから適当な教育的措置はしますけど。」という男の保証だけだった。
 男は約束を守った。
 本で読むイエズス会修道士はこういう男ではなかったのか、と鈴木は思った。だとすれば、勝負はやる前から決まったも同然然だった。「負けた。」と思った。
 弟が持っていた資料を奪ったことも、相手もやっていることであるからには非難されるいわれはない。しかし、男が書いた「軍報」の文体にはなじめない。というより、なんともいえないざらざらした違和感をおぼえた。その危惧はすぐに現実のものになった。〝ブクロ官僚一派への葬送の辞〟として書かれた論文がその危惧を裏付けた。「それを読む部外者を唖然たらしめるほど品が悪いものがある」と立花隆が指摘したものがそれだった。こういうお行儀が悪い文章を書かかせたら、男は天下一品であることを示した。




 なにをするのかについてはここにくる日までなにも教えてもらえなかった。前の日になってはじめて告げられた。そういうものだと疑問は感じなかった。
 二階にある事務所ではふたりの男が待っていた。キャップとおぼしい年かさの男が起ち上がり、「庶務課長の関口です。待っていました。」
 そういって握手を求められた。名を名のりながら握手を返すと、隣に立つ同年代の男が紹介された。
「きみと一緒に防衛を担当してもらうCくんです。」
 関口はくわしことはその男から聞くようにといったきり椅子に座り、机に向かってなにごともなかったかのように事務を執り始めた。それであいさつは終わりだった。入れ込んでいただけに拍子抜けした。その一方で、革命組織であるからには諸事につけこのように事務的であることが問われているのだとIは自分にいい聞かせた。
 校了には間があるためか工場で活字を拾っているひとの数はまばらだった。活字台にとりつき、活字を拾っている長身の男とCはなにやら話をしていた。話は簡単に済んだようでCは丁寧に頭を下げると戻ってきた。
「きりがいいところまで済ませるから休憩室で待っようにとのことです。」
 衝立で囲った休憩室で待つことになった。慣れているためかCはゆったりとソファに腰を落としている。が、慣れないIは緊張で落ち着かない。男が入ってきた。バネ仕掛けの人形のように直立不動の姿勢で起ち上がった。
「作業中だったもので待たせて済みませんね。区切りがいいところまでやっておかないと気持ちが悪いもんですからね。どうぞ楽にしてください。」
 Cが「工場長の鈴木さんです。」と男を紹介をし、ついで自分のことも簡単に紹介してくれた。男は被っていたタオルを無造作にとり、手をぬぐいながらもしっかりと相手を見て「鈴木です。」といった。反射的に差し出した右手を両手で包むように握られた。インキが爪のあいだにしみこんだその手は労働者の手をしていた。雲の上の存在として仰ぎ見ていたひとから面と向かって声をかけられ、吉本隆明に「若きマルクス主義理論家」として高く評価されたあの森茂に「一緒にがんばりましょう。」と両手で握手されたのである。党首がいう「プロレタリア的人間の論理」をこのひとは率先してやっている。そう思うとIは感激のあまり声がふるえた。

 ひと息つく暇もない緊張の毎日がつづいた。やることとおぼえなければならないことが多すぎた。着いたその日に見張りの不寝番をやらされた。息つく暇もなく、Cから数冊の地図帳を渡され、いくつかの課題を与えられた。行き先を示すコードの読み方と地図帳の使い方を頭にたたき込むことから始まり、S車と呼ばれる装甲を施した車の助手席に座り、ナビゲーターをやるという実地訓練もやらされた。OJTということばがいわれるようになった時期だった。ふつうの企業などでやられているとは思えないほど性急かつ激越な実務に就きながらの学習だった。
 Cはときおり激しく咳をした。顔色も悪い。まだ率直に尋ねられる関係にないので遠慮したが、どこかからだがよくないことは推察できた。ほかに代わるものがいないことから、気力で乗り切っているらしいことが伝わってきた。そう思って振り返ると、工場長を待つあいだもしきりに咳をしていたことを思い出す。工場長が吐いた「あなたを頼りにしていますからね。」ということばも気になった。単なるリップサービス以上の意味があってのことではないかと思った。とまれ、一日でも早くCに替わって車両班の責任をもてるようになることが自分に課せられた任務なのだと考えた。そう考えると、Cが必要と思われる以上に「教育」を急いでいることの意味も見えてきた。

 時間に追われる日々がひと月ほどつづいた。工場内の人間関係もうっすらとではあったが透けて見えるようになってきた。そういうある日、S車の点検を告げられた。理由は告げられなかったが、雰囲気から推してかなり重要なことであることが推察できた。段取りの打ち合わせを始めようとしたところでCが呼ばれた。できるところから先に始めていることを名のり出た。
 工場長は「わかりました。」といい、工場の隅にある倉庫に向かった。「火気厳禁」とある扉が開くと、印刷工場特有の揮発油の臭いが鼻をついた。
「これでいいと思います。」といって使いかけの溶剤を渡してくれた。
「揮発性が強いからくれぐれも火には気をつけてください。密閉したところで長いあいだ使うことはしないこと。それから気持ちが悪くなったら作業はやめてください。これは必ず守ってください。ウエスは棚にあるものを適当に使っていいです。」

 ガラスはすべて割れにくい風防ガラス、内側は視野を確保するために金網だが後部座席は鉄板で補強されている。要は運転者の視野を確保することなのだ。しかし、風防ガラスは傷つきやすいようで細かな傷に埃や油が付着していた。Cがいった点検とはこの汚れを取り除くことだと得心した。渡された溶剤を使って拭きにかかった。まっさらなウエスがすぐに油とほこりまみれになった。5つあるドアを全部開けておいても10分もすると気分が悪くなった。できる範囲で先にやっていますといったときにCが示した表情の意味が飲み込めた。あれだけ咳き込んでいるのだ。この作業はできることなら避けたかったにちがいないと思った。
 頃合いを見計らったわけではないだろうが、車の掃除が一段落しところでCが現れた。運転席に座り、ハンドルを手にして視野を確認する。
「いいと思います。」
「これはどうしますか。」
 使い終えたボロ布と溶剤を入れた段ボール箱を抱えてみせる。
「そうねえ。また使うかもしれないから荷台におくことにしましょうか。」




 車庫を出てものの5分もしなうちに大型トラックが現れ、先を塞ぐようにして止まった。
「きたか。」と思った。車を後退させようとしたところを間髪入れずうしろからトラックに退路をふさがれた。それでもCは脱出を試みようと車を前進させた。大型トラックをかわそうと急ハンドルを切ったものの縁石に乗り上げ脱輪した。後方から7、8人の男たちが得物を手に襲いかかってきた。Cはハンドルに覆い被さるようにしがみつきながら警報を鳴らしつづけている。
 男は時計を見た。9時10分を少し過ぎたところを針は指していた。周囲を見回すとまだ灯りがついている。すべてが想定の範囲内のことである。勝負はこの10分か15分、長くても20分を超えることはあるまいと確信した。
 運転席の窓にツルハシを打ち込まれ、たまらなくなったCが後部座席に待避してくる。時計を見る。5分は警笛を鳴らしつづけていたことになる。よく頑張った。助手席ではIが姿勢を低くしながら懸命に耐えている。いずれにしても耐えなければならないのはあと10分だ。それまで待てば敵は退散するはずである。条件を考えれば襲った側もそれ以上の時間はかけられない。
 後部に回った部隊の窓を打ち壊す音が響き、車が激しく揺すられた。壊せないと見てやけになって横転させようとしているものだと男は判断した。ここまでもったからには勝ったも同然だと思った。ツルハシが打ち込まれ、穴が穿たれた。激しい打撃を受けて鉄板を止めていた螺旋が緩み、風防ガラスとのあいだに隙ができたためだろうとみた。あとで対策を考えなければならないことだ。車の外では指揮官とおぼしい男の声がなにやら叫んでいる。と、穴から筒状のものが差し込まれ、床に落ちた。激しい煙と同時に花火のような火が噴きだした。2本目は差し込まれたまま猛烈な火を噴射し、天井に張られた化学繊維に引火した。と同時に荷台から火が吹き上がった。
 天井の張り物に火がついたまではわかる。が、荷台から上がった炎は?
 どうしてそうなったのか。その理由だけはわからなかった。
 熱さを感じる前に呼吸が苦しくなり、意識が薄れていくのをおぼえた。その瞬間、男は謀略だと思った。それにしてもなぜ? と不審に思いながら足元に視線を移した。両側からふたりの人間に覆い被さるような格好で庇護されている男の視線の先を、炎をともなった液体が這っていく。むき出しの床に螺旋止めした鉄板の隙間にその液体は吸い込まれるように流れ込み、あとを追って炎が落ち込んだ。
 男は死を意識した。多くのことが頭をよぎった。

 敵党首の暗殺は議長の至上命令として打ち出された。協議は紛糾した。積極的に反対を唱えるものこそいなかったが、予想される反撃を測りかね意見を集約するのに時間がかかった。相手の内情について熟知しているわけでない。そうであるのに、このたぐいの議論は無意味である。至上命題として命じながら党首は例によって会議に顔を出さない。議長不在の会議である。勢い、議論を主導する責任は男の肩にかかった。最終的な断を下す議長が不在のまま、議論はいたずらに時間を費やすことになった。最終的には党首に直筆の書簡を書いてもらい、その権威を借りて全員の意思を集約させた。綿密に検討した策戦は敵の弱みを突いたものであり、図に当たった。敵は首謀者の名を挙げて報復を宣言した。指名された3人のガードを固めるための作業に追われることになった。主要メンバーのガードを固めた分だけ被害は周縁に拡大した。それ相応の犠牲は想定の範囲内のことだったが、数の拡大は組織の動きを痩せさせた。中途半端な停戦工作も頓挫した。負のスパイラルに陥ったことを知らされた。乾坤一擲といえるなにかの策を講じる必要に迫られた。こういうときこそ攻めに転じないことには組織はもたない。そう判断して反撃に転じなければと考え、もうひとりの敵将の謀殺を指示した。その策戦が動き始めたときに、水本潔が水死したいう報知が届いた。
 1月6日ひとつの水死体が江戸川に浮かんだ。所轄の市川署は警察医立会のもとに死体の腐敗の状態から推して死後1週間から10日と判断した。同署では指紋を採取しようとしたが長時間水に浸かっていたための指がふやけており、採取用インクがのらず採取できなかった。外傷などが見当たらないことから覚悟の入水自殺と判断し火葬場へ運ばれた。翌日、市川署の鑑識課係員が火葬場へ出向き、シリコンラバーを使って指紋を採取したあと死体を火葬した。指紋照合により水死体が水本であることがわかり、家族に連絡したのは発見から10日後のことだった。すでに火葬に付していることから鑑識主任は遺留品を示すとともに遺体の写真を見せたところ変わり果てた息子の写真をを見せられた母親は「これは潔じゃない。」と叫んだという。
 動顛した母親が変わり果てた息子の写真を見せられ、現実を直視できずに叫んだ可能性は否定できない。が、肝心なのことは市川署が死体を火葬してしまったところにあった。組織の総力を挙げての謀略論を展開することに決まった。松崎を説得し、動労を巻き込み、国会対策と知識人対策に奔走した。緩慢だった動きに弾みが出てきた。すでに進められていた解放派幹部笠原の謀殺については忙しさにかまけて担当部署にあずけ謀略論の指揮に専念した。策戦は予定どおり進められ、笠原謀殺は成功をした。が、彼らの反撃を甘く見たのは誤算だった。

 荷台が燃えているのがわかった。「自分の責任だ。」と思った。「また使うかもしれない」といわれ、安易に荷台においてよいといったCに同意したことをIは悔いた。多少経験にいおいて勝るとはいえ、相手は同じ年であるだけでなく病人なのだ。中央の最重要部署に場を与えられ、働き始めてからまだひと月しか経っていない。このまま死ぬのはなんとも悔しいと思った。工場長のインキがしみこんだ手が頭をよぎった。

 カギは動労なのだ。時間に追われていたからといって原稿を書く時間をとらなかったことが悔やまれた。いよいよということになれば印刷所で書けばいいと考えたことの失敗だと思った。前にやれたからといって、状況を考えれば同じようにできる保証はない。一年前に襲撃されたことを軽く見過ぎたことも。
 意識を失う前に男の脳裏に浮かんだのは、水面からぽっかりと浮がび上がった少女の白い尻だった。




 臨時にしつられたとおぼしい死体安置所には、一見するとは誰であるか判別できない4つの真っ黒な遺体が並んでいました。私には右端のものが彼であることがすぐにわかりました。ほかの方たちも同じだったようで関口さんのおかあさんは迷わず関口さんの遺体に向かって「誠司。」と叫びました。遺体にすがりつき、ほんとうに悲しいときにはひとはこういう声を上げるのかと思いました。まさに慟哭ということばのほかに表現しようがない声でした。
 事件の翌月に人民葬と称する集まりがおこなわれました。一連の謀略を糾弾する集会だとのことで遺族を代表する形で水本さんのおかあさまと私が壇上からあいさつすることになりました。これまでに何度となくこのたぐいの集会に参加したことがあります。しかし、それは客席からのものであって壇上に上がるのははじめてのことでしたので戸惑いました。彼が私になにをしゃべることを期待するだろうかなどといろいろと考えてみましたが、まとまらないまま当日を迎えました。会場の裏手にある控え室では水本さんのおかあさまにはじめてお会いしました。大変緊張していらっしゃるようでした。ごあいさつはしましたが、どう声をかけてよいやら見当がつきませんでしたのでそれ以上はことばを交わしませんでした。集まりが始まり、椅子に座ってからは文字どおり針のむしろの思いでした。水本さんのおかあさまも同じだったと思います。おかあさまは「水本の母でございます。よろしくお願いします。」とおっしゃっただけで椅子に座られました。私としてはいろいろとお話ししたいことがあったはずでしたが、いざ何百人ものひとを前にすると口の中がからからになり、水本さんのおかあさまと同じようにいうのが精一杯でした。

 彼は問題に直面しても逃げない人でした。必要とあればどこへでも行きました。なにか大きなことがあると、その中心に彼が入っているだろうといつも思っていました。事態を知ったとき、「もしかしたら彼が入っているかもしれない。」ととっさに思いました。その一方で彼は大変慎重なひとで、交通事故にあわぬようにとふたり一緒のときには離れて歩くようにするひとでした。無意味な死に方は絶対したくないと考えるひとでした。身元確認のために警察署にいったおりに工場長の鈴木さんから事件の一年前にも同じようなことがあったというお話をお聞きました。そのときは間一髪難を逃れたということでしたが、なぜそのような危ないところに普段はあれほどまでに慎重だった彼がいったのかが気になるようになりました。
 編集作業で頻繁にお付き合いするようになった方にそれとなくお尋ねして謎が解けました。機関紙の号外を出す予定だったとのことでした。いつもなら原稿を渡すだけ済むはずのころですが、あのときは彼の原稿が遅れたために印刷所で泊まり込んで間に合わせざるをえなかったとことでした。彼らしくないと思いました。しかし、前にもいちどだけですが同じようにして原稿を間に合わせたことがあったことを聞き、それほど彼の肩に全部がかかっていたことを知りました。ひと一倍責任感が強いひとでしたから得心はしましたが、それほどまでして守らなければならいものだったのかということになると、私にはわかりません。ついていけなくもなります。
 ついていけないといえば、「みんな志半ばで死んでしまうね。」と私がいったときのこです。彼は「場所的に考えねばだめだ。ボクは死んでいった人たちのことが忘れられない。」といいました。「場所的」という言い方は彼のというよりもあのひとたちの慣用句です。そもそもわかりにくいことばですが、私にはこういうときに使われると意味がわからなくなり、ますますついていけなくなります。
 振り返ってみると、私たちが夫婦といえる生活をした期間は何年もなかったように思います。それでも平和だったときにはこどものころのことなどを話してくれたりして、それなりに楽しかったし、思い出すこともたくさんあります。その一方で、いま考えみると、すれ違いの芽はそここにありました。
 私にはよく哲学論争をふっかけてきて閉口しましたし、私があまり勉強しようとしなかったことも彼は不満だったろうと思います。彼は「我々のノート」というノートをつくり、自分の思索の結果をつづったものを私に渡すのですが、私にはわからないことばかりで私が書くものとはまったく噛み合いませんでしたので、いつの間にかやめてしまいました。部屋が散らかっていたり、私がなにもせずにごろごろしていたりすると「離婚したいほど嫌だ」といわれたことがありましたし、私がお金の計算をしていると「くだらないことに時間をかけているなあ。」といわれたこともありました。
 母親にはかなり前に「覚悟しといてくれ。」といっていたようです。水本くんのおかあさんの話をしたときのことですが、「自分が死んだら誰が夢を見てくれるかなあ、母はきっと見てくれるよ。だけどあんたはダメだね。」といわれました。
 いわれたそのときはあまり気になりませんでした。が、こうして彼が逝ってから15年も経ってみると「あのひとはなんで私と結婚したのか。」と考え込むことばかりが思い出されます。
 こどもをつくらないというのは納得ずくでしたことでした。いまになってつくづく思うのはそれで正解だったと思います。私はふたり姉妹であっただけでなく中学も高校も私立の女子校でしたし、大学を卒業してから就職したのも女子校でしたので男の子との付き合い方をほとんど知らないできました。もしこどもができたとして、女の子ならなんとかやっていける自信がありますが、それが男の子だとするとどう接したらよいのか見当がつきません。ましてや彼のようなこどもだったらと思うと、どうしたらよいものかまったくわからないからです。彼や水本さんの母親のようにできる自信もありません。じじつ、いまの私は彼の夢を見ることがありません。

 人民葬の話と同時に彼の著作集を出すというお話をいただきました。活字になったものがあるので、それらをまとめて一周忌までに出す。もうひとつ古いノートや手紙などをまとめたものも出したいということでした。そのお手伝いだけは私にやらせていただきたいとお願いしました。浄書に一年ほどかかりましたが、おかげで血なまぐさいニュースを耳にせずに済みました。こちらのほうは一周忌には間に合いませんでしたが、三周忌に彼の家族とお会いしたときに私が寄せた文章について「あなた方ふたりの暮らしぶりがわかり久しぶりに楽しませてもらったわよ。」と彼の母親からいわれ、苦労したことが報われたと思いました。彼の著作集ができ上がるまでは、血なまぐさいことがあっても意識的に目をふさぐことでなんとか過ごせました。しかし、その作業が終わり、彼の三周忌を済ませてしまうとそうはいかなくなりました。彼のときは三人でしたが、そのあとに5人いちどきに殺されたというのに、メディアは騒がなくなりました。
 勤めていた学校に居づらくなり、辞めたあとは彼の紹介で弁護士事務所に仕事を見つけてもらいました。ふつうの弁護士事務所でないことは予想していましたが、私のようなノンポリがいられる場所ではありませんでした。彼の仲間で投獄されているひとたちからは事務所宛に検印が押された手紙がきます。いちどきにくる数はさほど多くはないのですが、中身によっては急ぐ必要があるものがあるようで、そうしたものも含めてYさんが全部目を通したうえで私が青焼きをとります。いまのように便利なコピー機が普及していなかった時期だったので数が多いときには半日仕事になることもありました。私は教員以外の仕事したことがありませんでしたから、最初からお茶汲みや電話番をやるつもりでいましたのでそういうことで不満があったわけではありません。ここは私のいるところではないと思ったのは、Yさんだけでなく事務所にいるひとのすべてが私とは別の世界のひとだと痛感させられたことでした。弁護士の渡邊さんとは学生時代に面識があり、気安く話しかけてもくれるのですが肝心なことになると私だけが外されました。で、本ができたのを機に辞めさせていただきました。新しい勤め先には公安の刑事さんがきました。が、それも1、2年のことでいまはふつうの暮らしができるようになりました。彼が生きていたらどういうかわかりません。でも私にはいまの平穏な生活のほうがあっているのではないかと思っています。彼の妻であったときを忘れたいとは思いませんが、かといってことさらに誇るつもりにもなれません。できることならこのまま誰に知られることなく生きてゆければと考えています。




 20世紀も残すところあと数年で終わる。モスクワの赤い広場でデモをやったときから40年経ったいま、考えてみるとあのころだけが華だったのかもしれないという気分に駆られる。日本での常識に照らしてもそう簡単に釈放されるとは思えなかった。それが、わずか1週間足らず拘留されただけで無罪放免になった。
 フルシチョフ体制は万全だと思われていた。じじつ、『イワン・デニーソヴィチの一日』は62年末に国内で公刊されていた。ただし、それは表面的なことで、内実は崩壊の危機が裏側で進行していた。そのことを世界が知るのは著者が国外での公刊を決意した『収容所列島』の公刊を待たねばならなかった。本はパリで公刊されるや時間をおかず邦訳された。ことはそれほど深刻であり、ソ連がどこにいこうとしているかは世界中の注目を集めていた。にもかかわらず、その前後の10年ほど、私には本を読む時間がなかった。指導体制から外されているとはいえ、機関紙の印刷をあずかる位置を与えられている身にあって、そういした余裕がなかったのである。
 いくらか時間に余裕がもてるようになったときには『列島』の全巻が文庫版で訳出されていた。それを読んで、拘留されたところが有名なルビヤンカであることを知った。そこでは拘束されたものだけでなく取り調べにかかわるものも含めてすべてが人格をもたない世界が支配していたこともあらためて知らされた。
 同書によると、拘束されたものは身につけたものの全部をはぎ取られ、つづいてからだじゅうの穴という穴をすべて調べられた。それが終わると、ボックスと呼ばれる畳一畳の広さもない箱形の房に入れられ、取り調べを待つ。取調室はボックスに比べれば広いがそれでも2㍍×4㍍ほどのもので、机と椅子が一脚づつあるだけの小部屋である。被疑者はそのボックスと独房を往復しながら調べを受けることになる。そこで書かれていることはすべて私が経験したものだった。
 夢中だったことに加えて拘留が短時日だったこともあって、私はそうしたことのすべてを忘れていた。A・ドルガンが書いたものは、忘れていたことを私に思い出させた。
 ドルガンの場合はアメリカ大使館員の身分をもつとはいえ、ロシア国籍ももっていた。が、私の場合はそうではない。KGBの大佐に対して私はもっぱらそのことを主張した。互いにおぼつかない英語をもってしての会話である。それでも彼がいうことはわかった。要は、「反ソビエト扇動およびプロパガンダ」について規定されている国事犯事項の80条の10に該当するというのだ。無茶苦茶な論理だった。そう考えて反論したが、押し問答にもならなかった。そういうことになっているからそうなのだと言い張るのみで議論にならないのである。かくしてドルガンは15年の懲役刑に処せられ、刑期を終えてからも流刑され、つごう20年の拘留生活を強いられた。あのアメリカの大使館員がである。
 ドルガンの回想記を読んで慄然とした。アメリカ大使館員ですら20年だったとすれば、日本人のわれわれはどうだのか。写真は撮ってもらっていたし、世界中に配信されていた。おりからの国際世論も追い風になっただろうことは予想できる。が、しょせんは小国日本の極小政党がやる救援活動である。1年や2年で釈放されるとは思えなかった。あれが2年あとだったら、まちがいなくそうなっただろうと思う。しかし、もしそうなったとすれば、スターリン体制以外の時期にかの「収容所列島」を経験した唯一の日本人ということになる。そうすれば、私の人生は全く別のものになったにちがいない。私が「革命家たりうる度胸も節制も持ち合わせていない」ことが証されたいま、貴重な経験をした一表現者としていきるのもけっこう楽しかったかもしれない。
 このように「もし」と考えると、想念がめぐった。私たちの救出をよそに内輪もめがされたとは思えない。だとすれば、組織の分裂はなかった可能性がある。もし、分裂が不可避だったとして、どちら側の組織が私たちの救出のために動いたんだろうかとも思う。

 弟の訃報に接しながら、私は葬儀には顔を出さなかった。出さなかったというよりも、出せなかったのである。組織が分裂し、書記長に就任した段階で私は親兄弟の縁をすべて断った。そのことで実家からなにかいわれることはなかた。が、弟を売るということになると話は別になる。弟を襲撃した情報が私から出ていることは養家で知らぬものはない。実家でも同じである。そうした条件があるなかで、顔を出すわけにはいかなかった。会葬の通知は昵懇の仲だった弟の妻を通じて私の妻の手元に届いていた。しかし、一周忌のあとに妻が出したはがきに返事はこなかった。妻はしばらくは賀状を出していたようだった。それにも弟の妻からの返事はなかったようである。
『収容所列島』には、党と国家の方針を信じて肉親をKGBに売り渡した例が活写されている。そのようにしたのは貧しいロシアの無学なひとたちだけではなかった。党の要職にあるものほど生き残るために妻を売り、夫を売った。身を守るためにそうしなければならなかったとして、そのようにして守ったものを抱えて生きる残りの人生とはなんであったのか。やった当人はいい。だが、巻き込んでしまった妻はどうなのか。そう考えると、私の犯した罪は深いし重い。いちど堕ちたからには、底まで堕ちないことにはなにをしようにも始まらない。いまの私はそう考えている。了。(2010/2/21

 

ダンディズム? デカダンス?

 「おい。O、あれをやるべぇ。」Oさんとはもっとも親しいSさんが声をかけ、着ているものを脱ぎ始めた。黙ってうなずいたOさんもやおら立ち上がり、上下メリアスの股引姿になり、履いていた靴下を両手にはめ、パントマイムに似た怪しげな所作で踊り始めた。阿波踊りや沖縄踊りをゆっくりした仕草でやるといったほうが正確かもしれない。
 Oさんたち3年生の送別会を兼ねた第2機関誌の打ち上げのときのことである。このクラブは、部室がそうだったように部費も教師が管理する外にあったから、この費用は部費で賄う。ビールと酒が出たようにも思うが、定かではない。
 なんとも珍妙な踊りが終えると、歌が出た。秋の文化祭のあとに出た歌だったので、私もそれに唱和した。

♪○
高よいとこいうなれば
おんぼろ校舎の焼け跡で
どこにもとるとこないけれど
ひとつ高生はよい男

右に江東楽天地
左に名高き国技館
間に立ちたる高にゃ
粋な姐御もたんといる

長年ためた参考書
叩き売ったる古本屋
化けたビールのほろ苦さ
禿のおやじがうらめしい

通り激しい千葉街道
道説くせんせはいるけれど
おいら17まだ若い
赤い血潮が承知せぬ

 あれはなんだったのだろうか。ずいぶん長いあいだ私は考えてきた。1つのヒントがある。

 しかしそうした知のダンディズムが何処から来たのかと考えると、戊辰戦争、明治維新後の薩長中心の新秩序において排除された江戸町民のダンディズムが浮かび上ってくる。ダンディズムは頑廃(デカダンス)と結びつき易いが、それは階層秩序に編成されること、分類されて上下関係の網の目に組み込まれることを拒否して、自らを開かれた状態に置いておく精神に基づいていることに由来するものであろう。(山口昌男『「挫折」の昭和史』p420)

 そう。山口が指摘するように、江戸下町の町民が育て、東京になってからも引き継いできたダンディズムが、デカダンスの形をとって表れたものと解するのが妥当なような気がする。


からくり

 しばらくして映画部と図書部にも入部した。映画部といってもなんのことはない。駅前にある映画館で上映する映画の割引券を斡旋するだけが唯一の活動だというおかしなものだった。新聞部で一緒だったYが、部員になると映画をただで観られるという話を聞きつけてきて「入ろう。」という。悪い話でないので、私は即座に同意した。このクラブは、部員は3年のMと2年のNのふたりしかおらず、ほかのクラブでは3年になると2年生に部長を譲るのが普通なのだが、3年のMが卒業する間近まで牛耳っていた。部員はわずかにふたり下級生ゼロは、部存亡の危機であるはずなのに、入部を希望した私たちふたりを歓迎するという雰囲気が彼らにはなかった。違和感はあったが、私たちはいわれるままに彼らがつくる「鑑賞券」と称する切符を売り、指定された日には映画館の入口でもぎりを手伝った。
 どこぞの警察署長の息子だというMは、親の商売からは想像できなほどくだけた男で、私が破るまでは3つのクラブを掛け持ちする記録をもっていた。自動車部も彼ひとりが部員の部で、放課後の校庭でいまでいうゴーカートほどの大きさの自家製自動車を乗り回していた。学校のすぐ裏には日本一のポンコツ街である竪川(現在の住居住所でいうと墨田区立川1丁目から4丁目辺り)があり、同窓生にはこの街の出身者がたくさんいた。手製の自動車は、彼らが部品を調達して造ったものだった。18歳になると、自動車免許がとれるので、通学にバイクを利用する生徒がいる。Mは、そこに目を付けて講習会と称して自動車部のデモンストレーションを企画した。むろん、おやじのコネを使ってのことだから、所轄である本所警察公認の講習会である。
 2年になって、からくりがわかった。Nが学校に姿を見せなくなり、観たい映画がかかったのを機に、私とYは支配人を訪ねた。私たちの顔を見るなり、のっけから「Nはどうした。Nを連れてこい。」でないと話は受けつけないといと支配人に怒鳴りまくられた。わけもわからないままさんざっぱら怒鳴りつけられ、怒りが静まったところで支配人の口から、Nが集めたはずの料金を使い込んでしまい、納めていないという話を聞かされた。いろいろと聞いてみると、通常は学生割引で100円のところを、支配人とのあいだで60円を納めるというのことで話を付けていた。生徒にすれば普通なら100円払うところを60円で済むし、映画館にすれば正規の切符を使わなくて済むので、双方の利害は一致する。ただし、これは明白な脱法行為であるわけで、支配人にすれば表沙汰にはできないという事情があった。*12
12 これは推測だが、MとNは売り捌いた「鑑賞券」の全額を納めずに間引いて払っており、支配人もそのことを黙認していたというのが真相だったと思われる。ひょっとすると(その可能性のほうが高いと思うが)支配人も、この密約で得た金を会社には納めていなかった可能性もある。

 図書部というのもおかしなクラブで、正規の司書がいないため顧問は非常勤講師のK先生が兼任していた。K先生は旧制高校の教授をしていたという漢文の先生だった*13から、授業のコマ数は少ないがそれでも授業があるときには受付要員がいなくなる。図書室は空き時間の自習の場でもあったから、受付要員がいないからといって閉めてしまうのはまずい。図書部員はその穴を埋める。授業がないおりに受付に据わるのが唯一の「部活動」なのである。ただし、部員には特典があった。自由に貸し出しが許され、読みたい本がいつでも読めるのだ。かくして、卒業アルバムの「各部の活動」で私は5つのクラブに写真が掲載される「栄誉」を担うことになる。
13 漢文専任の講師はふたりおり、私はもうひとりのF先生に教わった。F先生は北京大学で教えていたということで流暢な北京語を話す学者だった。私たちは戦前の高等教育の影響をほんの少しではあるが受けた最後の世代だったかもしれない。


7つ受けて全部ダメ

 就職試験は全部で7つ受け、全部が不合格だった。筆記試験では通るのだが、面接で落とされた。古いメモに「7つ」とあるのでこのでは7つとしたが、その全てを思い出せない。関東電気通信局(いまのNTTの前身に当たる電電公社)、NHK、国策パルプ、湯浅金物、海渡までは思い出せるのだが、そのほかの2つについては、どう記憶を振り絞っても思い出せない。
 最初に受けたのは関東電気通信局だった。2次試験の面接で「公社には電電のほかになにがあるか。」と問われた。専売公社(現在のJT=日本たばこ産業)は答えられたが、国有鉄道(現在のJR、分割される前は1つの組織だった)を答えられなかった。「もう1つあるはずなんですがわかりません。」といったのが失敗のもとで、なぜ君はそういうのかと尋ねられ「3公社5現業」といわれていることを告げた。3つの公社と5つの現業が組織する公労協は春闘の主役であり、毎年、春になるとメディアを賑わす主役だった。そんなことに関心をもつ高校生は敬遠すべしという思惑が、面接官に働いたとして当然のことだった。
 NHKについては苦い記憶が残る。ジャーナリストを志望していた私は、この試験だけは受けたいと思っていたが、学校に割り当てられたのは男1,女2だった。もうひとり男で受けたいという生徒がおり、くじ引きで外れた。たまたま就職指導を受け持っていたのが担任で私を買っていてくれ、2名の女生徒のうちのひとりを説得してくれた。*14
14 担任は誠実な人だったから強要したわけではなかったと思うが、その女生徒、Fさんの説得には時間がかかった。「今井、大丈夫からもう少し待ってくれ。」と担任にいわれても、私に彼女の気持ちを慮る余裕がなかった。Fさんが同期会にいちども姿を見せないのは、この1件があってのことだと思うと、いまでも気が引けてならない。

 このような無理を押して受けたNHKだったが、最後の面接で私は落とされ、採用されたのはもうひとりの同級生だった。ここでも、余計なひとことが仇になった。「尊敬する人物」の欄に米内光政と書いたことが、である。試験の直前に、私は米内について書かれた本を読んでおり、亡国の危機に当たっての彼の行動に共感を覚えていた。私としては、素直にそのことを書いたまでだったが、幹部職員の採用ならいざ知らず、高卒の中堅幹部に考える人間は必要ないという基準からすれば「なぜ、米内を尊敬するのか」と問われて、滔々と弁じる少年を雇わなかったのもこれまた当然だった。
 国策パルプ*15には、上の姉のコネで受験した。この会社には1名採用のところに30名ほどの受験者があった。コネといっても姉のつて程度のものでは、はじめから合格の可能性はなかった。
15 現在の日本製紙の前身の1部。山陽パルプと合併して山陽国策パルプとなり、十條製紙、東北パルプ、大昭和製紙の4社が合併したのが日本製紙である。

 次々と落とされて最後に受けたのが湯浅金物だった。一般的な知名度はないが1部上場の会社で将来性はあると思う、と担任にいわれて受験したのだが、ここでも見事に落とされた。筆記試験は満点に近かった。国語の問題で1つだけ解答できなかった設問があった。「難詰」の読みを問う設問で「なんきつ」と読むだろうことは想像できたが、自信がなかったので白紙にした。そのことを問われ「そう読むだろうとは思ったが意味がわからなかったので白紙にした。」と答えた。ここでも、そういう高卒を期待していないのは当然だった。*16
16 のちに大卒で湯浅に入ったNと同級会の席で立ち話をしたおりのことである。ひょっとすると同じ会社に入っていたことを告げたところ、Nは「誰が面接をやったか知らないけど、それは正解だったんじゃない。おれが面接したとしてもそうするよ。」といわれ、互いに大笑いをした。

 海渡を含めてあとの3つについての記憶は、ない。ここまでたてつづけて落とされと、面接があるかぎり合格するのは無理だと思うようになっていたからだ。
 かくして、受けた就職試験の全てに落とされた私は、東京都が募集する試験だけが残された唯一のものになった。筆記試験のみで面接がないこの試験のみが最後の頼みの綱だった。



「大島を買う話」

 菊池寛の佳作に「大島を買う話」という小品がある。学費を援助してくれた後援者に新品の大島紬の着物を買ってやるといわれ、断る話である。私は、この小品に描かれた菊池のと似たような体験を、なんどか味わった。
 小学5年と6年のときの担任を訪ねたおりのことである。進学はどうするという話になり、学費は援助するから進学しろといわれ、私はその場で丁重に断った。その少し前に菊池の作を読んでおり、それが見返りを求めないものであっても、この種の厚意が、受け取る側にもたらす負担の重さについて感じていたからだった。
 遠縁に当たる化学工場の経営者からも、同じような話が持ち込まれた。ただし、こちらのほうは紐付きだった。こどもがおらず、後継者として考えているとのことで、理工系の学部に入るのが条件だった。もともとが理系は不得手だったことに加えて、経営者としてやっていく自信もなかったから、こちらのほうも断った。
 日大に学費のほかに援助金が貰えるという奨学制度があることを知り、担任に推薦を貰えないかを相談したこともあった。成績を勘案して首をひねったものの、担任は校長を説得してくれ、推薦状が貰えることになった。しかし、私はそれを断った。成績からすればダメなものを出すことにしてくれたというだけでなく、もともとが私のほうから無理を承知で頼んだものである。断るにはそれなりの理由が必要だった。それを、些細な理由から私は断ったのである。
 演劇部で芝居をやっていたOという男が1級上にいた。矢代静一に傾倒しており、日大の芸術学部に進学、暇を見ては後輩の指導と称して母校に顔を出していた。その男が、どこで嗅ぎつけたのか私の推薦を聞きつけ、私が推薦を取り付けたと触れ回った。あの成績で特待生などというのはけしからん、というのがOの言い分だった。それを聞いて、私は嫌気がさした。他人のことなどどうでもいいはずなのに、なんてくだらないヤツだと思う一方で、そういう情報を流す教師にも腹が立った。担任にはそのことを話した。渋る校長をやっとのことで説得した担任には、翻意する気はないかとなんども問われた。それでも私の意志が固いのを知り、最終的には受け入れてくれた。
 就職先が見つからず困惑している私に同情して、ふたりの級友も援助してくれた。父親が毎日新聞の論説委員をやっていたSは、給仕の仕事でよいなら世話をするという話をもってきてくれた。私がNHKに落ちたことを知っての厚意だった。が、私は、それを断った。給仕からたたき上げることに不満はなかったが、それでは家に金を入れられないということもある。しかし、そのこと以上に、NHKを落ちた時点で大学卒という肩書きが条件である世界に魅力をおぼえなくなっていた。活字をもって表現する世界で生きたいという思いには変わりなかったが、己の力のみで勝負できる世界、つまり、小説の世界に、私はこの時点で半分以上踏み出していた。
 Oも「よかったらおやじの会社に入るか」といってくれた。Oの父親は、ライオン石鹸の常務をしており、時期外れであっても高校生のひとりくらいは入社させられる位置にいた。「よかったら」というOのことばは、そういうコネでの入社を私が好まないことを知ったうえでの配慮だった。「ありがたいけど遠慮するよ。」という私の返事に、Oは黙ってうなずいた。その顔には、「おまえならそういうだろうと思っていたよ」という表情があった。

貧しさは卒業して働いてもつづいた

 東京都の採用試験には合格したものの、4月には就職することができなかった。4月時点での採用枠は成績順に上のほうから採用されて埋まってしまい、あとは欠員が出るつど順次採用するという形がとられていた。5月になっても私までは順番が回ってこず、私が採用されたのは6月になってからのことだった。これで、わが家はひと息つけるようになった。とはいえ、働き手がひとり増え、扶養家族がひとり減り、3対3の構造が4対2になっただけだった。加えて、働き手といったところで、自分の食い扶持を除けば残る部分がわずかしかない低所得者である。文字どおりひと息つけたという状態を超えるものではなく、苦しい状態は変わりなかった。
 職場には学生服で通った。7月にボーナスが出たが、途中採用のため満額は貰えず、夏のあいだはジャンパー姿で通した。やっとのことで冬のボーナスを待って背広をつくった。
 食わせなければならない立場にあるにもかかわらず食わせて貰っている、そういう負い目から解放されたことは、私の気分を楽にさせた。その一方で、思う存分に羽を伸ばすことができた高校生活は過去のものになった。私の高校時代は社会に出る前のモラトリアムだった。が、その期間に次の展望をもたないままに過ごしただけに、卒業後の私は模索することになる。
 夜間大学では肩書きとしての学士が社会的な意味をもたないことを、私は知っていた。そういう私が、夜間大学でもいいから、いちど正規の学問というものの正体を覗いてみてやうという気分になるまでには1ねんかかった。なぜ、そういう気分になったのかということも含めて、次章では書くことにする。


〈この章の総結〉

一家は貧窮のドン底に突き落とされて、小学生の私達の学費さえ困った。学校から帰った午後、私と次兄とは、廃坑の跡を漁り歩いた。車輪の破片、ボートの折れ、釘、一切の金具類を拾い集める。翌日町の古金屋に持ってゆけば、多い日は十銭、普通は六銭で買ってくれた。それが私達の学費だった。
 引用は、「消えることはない」とまでいわれた八幡製鉄所の溶鉱炉の火を止める大ストライキを組織した労働運動指導者浅原健三の自伝『溶鉱炉の火は消えたり』からのものである。*17
17 かつてこの「幻の名著」の海賊版が労働者解放闘争同盟(労闘同)によってつくられ、私も手に入れたはずだが、手元に見つからないので上の引用は『「挫折」の昭和史』から孫引した。

 上の記述にある情況は、浅原が15歳のときだということだから、1912(大正元)年のことである。ここでいえるのは、当時の日本は、テレビの映像で見るマニラやリオの貧民窟と似たような光景が、各地にざらにあったことである。では、それから40年過ぎた50年代はどうだったのかといえば、「朝鮮特需*18」とのからみで銅や真鍮を集めることがはやった
18 朝鮮戦争(1950~53)とのからみでアメリカの兵站基地になった日本の軍需需要が急激に拡大し、その余波がつづいた55年ころまでの軍需景気のこと。この特需によってわが国は敗戦によって中断されていた最新技術を入手できたほか、アメリカ式の大量生産技術を学ぶ機会を得ることで、戦前の非効率的な生産方式から脱却し、再び産業立国になるうえで重要な技術とノウハウを手に入れることができた。それだけでなく、多くの雇用と外貨を確保することもできたのである。その額は1950年から52年までの3年間に特需として10億㌦、55年までの間接特需として36億㌦といわれている。

 私も含めて、私の周辺では大のおとなだけでなく、貧しい家ではこどもたちも兵器に使われる金属を集めて売ることに血眼になった。敗戦の結果、ふた昔前の時代に先祖返りしてしまったのが、敗戦後の10年ほどの期間だったのである。このことが戦前との連続であるとすれば、GHQの政策によって官が主導する施策、とくに人材育成の側面であった優遇措置はことごとく排除された。軍の廃止に伴って士官学校がなくなっただけでなく、教員志望者や公共企業を下支えしてきた中堅技能者養成施設も全て廃止になったことは、断続の1つであったといえる。
 戦前から戦後へ継続されたものという視座から見ると、浅原の自伝『溶鉱炉の火は消えたり』が復刻されることなく今日までその状態が続いていることの背後に、戦後の言論界におけるマルクス主義の支配力の問題がある。桐生桂一『反逆の獅子』角川書店にこの経緯はくわしいが、それについては別のところでふれることにする。
          2006・3・25


06/5月号
〈編集ノート〉06年5月号
当初の予定では、1部では私が過激派であった時代についてを、2部では過激派と決別してから今日に至るまでを書くつもりだった。書いていくなかで全体の構想を固めればよいだろうとも考えていた。が、書き始めてみて、それでは「一元過激派の手記」の域を出ないことに気づいた。自分史を書きたいならそれでもよいだろうが、私が予定を変更しても書かねばなるまいと思ったのはそういうことではない。新左翼の運動は、その理想としたものとは180度方向を異にする内ゲバによる殺戮合戦という愚昧な結果に終わった。なぜそうなってしまったのか。その根拠がどこにあったのか、を問うことこそこの覚え書きを書き始めた動機だったのである。
そういうことで予定を大幅に変更することにした。1部については今号で打ち切り、次号からは2部に入る。その2部も当初の予定を変更し、なぜ内ゲバが必然だったかという本題について扱うことにする。そのうえで、しめくくりの議論を3部でおこなう。
PFDにすると縦書きにしたものをそのまま読んで貰えることを知り、前号でデータをPFDにしてみた。かねてから縦書きを前提にして書いた文章を横書きで読ませるのはなんとも気分がよくないと思っていたからだ。ところがせっかく縦書きにしたのにWindowsでは呼び出せないのだ。全部のブラウザーが呼び出せないのではないから参った。今回も同じ轍を踏むことになるかもしれないが、再度、挑戦してみる。
         2006・4・25


今月の断章

 政治の困難さについてマキアベリは、政治は最高の芸術である、という主旨のことばを残している。この言をはじめて読んだとき、私は「なるほどな」と得心したもののいまひとつ腑に落ちないものを残した。この間、新左翼の政治について検証していて小野田襄二が次のように書いていることを知り、マキアベリのことばを思い返した。私は、今でも、政治というものの困難さに身震いする。それは、あまりに資本のかかる事業であり、余りに事業の規模が大きいからだ。思想という限りでは、私個人というなけなしの財産をはたけばなんとかなるし、またそれしか方法はない。政治というのは、どうあっても、私個人という財産をはたくだけではどうにもならぬ。純然たる個人の事業である文学や思想には無い困難が政治にはある。小野田がここでいわんとしていることは、政治が共同の事業であり、個人の事業としては成立しない領域に属することに伴う困難性である。その一方で、政治には強力な指導性が要請されることから、最終的には「組織の歴史を担ったところの指導者」の資質に絞り込まれる側面が色濃くあり、それは政治がもつ「宿命的構造」でもある。マキアベリが「最高の芸術」といったゆえんはここにあるわけで、政治がもつこうした困難さに対する視座を欠いた論評(政治批判や政治家批判)はおよそ意味をなさない。無意味であるだけでなく有害でさえあるといって過言でない。
              2006・4・25






当ブログサイトの機械的な制約があり、分割して掲載します。

この「手記」の末尾の日付は 2006・4・25 とあります。

【以下引用】……… ……… ………


ある元過激派の手記





――
過ぎ去りし日々を問う。


 序にかえて

 

この手記を書くに至った経緯と理由

 なぜ、予定していた計画を変更してまでこの手記を書くことに至ったか。まずは、その経緯と理由から書く。
 昨年の後半は、ひょんなことから西部との対峙をすることになった(その経緯と中身については別掲のノートあるので省く)。西部との対峙に一段落を着けたとはいえ、荒稿を書き終えてから3年もたっている。中断していた「光りと陰」の次稿にとりかかるには、それなりの準備が必要になる。それでも、ふた月もあれば、なんとか冒頭の書き出し程度なら書けるという自信があった。荒稿を虫干ししていた3年のあいだに、それなりの構想を詰めていたからだ。
 気分転換に映画を観たりして、いざレジュメに取りかかろうとしていたおりである。突然、旧友のFから電話がかかってきた。高校時代の同級生であるTと連絡をとりたいと思い、だいぶ前に会ったおりにFがTの所在を知っていると聞いていたので、Fの線をたどってTと連絡をとった。連絡がとれたことについてはメールで知らせてあり、用件は済んでいた。いまのところ、Fと私のあいだにはそれから先の接点はない。だから、向こうから電話があるとは思っていなかったのである。
 久しぶりだから声でも聞かせようということなのかと思いながら電話口で応対した私に、Fはとてつもないことを口にした。本多さんを殺した直後に革マルの根本から小野田襄二に電話があったこと。根本が「本多暗殺で革マルからの殺しは打ち止めにする。30人程度の犠牲者は覚悟している。二カ月間、組織討論して決定したことだ。」といったことが、小野田が書いた本に書かれているというのだ。
 生来が私は群れることを好まない。正確にいえば、群れることに伴う馴れ合いに対して、生理的・気分的に好きになれない質なのだ。そういう私が、もっとも閉鎖的な過激派組織の一員になった経緯については、おいおい書くことにするが、ひとことでいえば、本多延嘉という人物に魅せられてしまったことが原因である。歴史に「もし」はないことだが、もし本多さんに会うことがなかったなら、私は過激派にはなったかもしれないが、当人からじかに口説かれることがなかったとしたら、その組織成員にならなかっただろうことだけは断言できる。そういう私だったから、組織を離れてからも群れることはしてこなかった。1度だけ乞われて全共闘の総括をするための組織つくりに参画したことはある。が、そのおりも、いいだしっぺのMに、「腐れ縁だから付き合うが、1年だけだよ」と念を押し、活動は1年に限るという会則をつくり、1年たった時点で解散した。その1年ほどのあいだ、元過激派と称する連中が書いたものに目を通してみたが、どれもこれもいい加減で、まともなものは鈴木貞美が書いたもののみ。それ以外には読むに耐えるものにお目にかかることはなかった。
 以来、私は、その類のものに目を通すことをやめた。西部の『60年安保』に目を通していなかった(あること自体を知らなかった)のは、上に述べたような経緯による。当然ことながら、Fが指摘した小野田の本についても、読んでいなかったし、そういうものがあること自体を知らなかった。しかし、Fが吐いたことは、ことの次元が異なっていた。普通なら活字にできる中身ではない。活字にするということは、のちのちまで残ることを意味している。話の中身からして、小野田が活字にすることを期待して、根本がいったものではないことは明かだ。そういう中身を、ここにきて明らかにするとなれば、小野田にそれなりの決意があってのことである。私は半分以上うわの空で、長電話になったFの声を電話越しに聞き流していた。生返事をしながら、私は頭の中ではどう考えたらよいかだけを考えていた。
 電話を切ったあと、私は、問題の本をネットで注文した。1日おいて、本が届き、その日のうちに読み終えた。
 問題の箇所で小野田は次のように書いていた

はたして、公表していいことなのか
迷いに迷った末のことから話したい。
 革命的共産主義者同盟(革共同)書記長本多延嘉が革マルに殺されたのは、一九七五年三月一四日である。十日ほど経ってのこと、革マルの根本仁から電話があった。「小野田、どう思うか」。ぼくは声が出なかった。続いて、「これによって多数の死者が出ることになるが、革マルからの殺しは本多書記長をもって打ち止めにする。二カ月間、組織討論して決定したことだ」。ぼくは根本の言葉に圧倒されていた。非情の美しさを感じもした。》
 「30人程度」といった部分が「多数」となっているほかは、Fのことばのとおりのことが書かれていた。「30人程度」と「多数」にさしたるちがいはないとしがちだが、受け取る側からすれば、ことばがもつ意味合いにかなりの差がある。30という数詞と多数という代名詞のちがいである。Fが「多数」とあるところを勝手に「30」と思い込んで私に話したのか、それとも情報通のFが別の回路から仕入れたものなのか、いずれにせよこの話は実際に両者のあいだで交わされたものにちがいない、と私は判断した。そして、私は慄然たる思いに襲われた。
 問題は、根本が予測する「多数の死者」の中に自分を入れていないことにある。2カ月かけたという組織討論に参画したであろうもの(当然のことながらごくごく限られた数だ)も、その数には入っていない。殺されるのは、そういう討議に参加していない(あらかじめ閉め出されている)下部の組織成員なのだ。ごく限られた(おそらく10指に満たない)人間が、彼らを指導者として信じている下部の組織成員の生死を、彼らのあずかり知らないところで決め、組織外の人間に対して話す――そういう恐ろしい組織を、私もその一端を担っていた過激派組織が生み出していたことに対して、このままで黙っているわけにはいかなくなった。と同時に、同じような心境から書いたと思われる小野田が、この根本の発言に「非情の美しさを感じもした」と書いていることに対して激しい憤りをおぼえた。中身のすさまじさに「圧倒され」るのは仕方がないとして、これほど非道な言辞を浴びせかけられて「非情の美しさ」を感じる精神のありようが、私には理解できなかった。

《【限りなく虚しい殺し】――新左翼(革共同)の負の遺産はあまりに大きい。ぼくが語らなければ永遠に葬り去られる事実(ぼくの責任も含めて)を語ろうと思う。――

 
引用は、問題の本『革命的左翼という擬制』の「序にかえて」のむすびに記されている小野田の心情である。その心情は是とするものの、同書は、還暦を過ぎて書いたものとしてはお粗末極まりなかった。だから、これ以上は付き合う必要がないと思った。しかし、「ままよ」と考え直し、念のために同書で小野田が言及している過去に彼が書いた文書を読んでみることにした。判断するのは読んだあとにすればいい、と思い直したのだ。年の功である。10年、いや5年前だったとしても、いままでの私なら、この種の煩わしさは避けたと思う。いまの私は、その類の傲岸さがなくなってきている。
 問題の文書が掲載されている小冊子は、数日後に小野田がやっている書店から郵送されてきた。肝心なところで問題を含んでいるとはいえ、こちらのほうがまともだったのには驚いた。小野田は私と1歳しかちがわない。ボケるには早すぎる歳でもある。麒麟も歳をとると駄馬と化す好例なのかもしれない。矛盾する言い方だが、肝心なところで的を射ている。わが身に照らして、考えさせられる箇所を多く含んでいる。慎重を期したことが吉と出たといってよい。
 そうであるからには、予定を変更して小野田に付き合わざるをえない。
 どこの、どれが、どうお粗末なのか、どの部分の、なにが、どのように正鵠なのかについて書くには、いましばらくの準備が必要だ。準備不足のいま、それらについてはおいおい書くことにして、以下、小野田が提起している問題の核心だと思うことについてふれ、この手記の序にかえたい


 

 

一無名党員とレーニン

 ゲ・イ・ミャスニコフ。1989年生れのロシア共産党員である。ただし、私がこの人物について知っているのは、レーニン全集の巻末に記されている簡単な略歴とレーニンが書いた彼宛の公開書簡のみであり、ほかのことはなにも知らない。あとに述べるような理由から、永久にわからないだろう人物、いってみれば、20世紀前半のロシアに生きた多くの革命家のひとりである。まずは、巻末の略歴を見てみよう。

《ミャスニコフ、ゲ・イ(1989年生)――共産党員、労働者出身。1906年から革命運動に参加し、逮捕、追放、逃亡をくりかえす。第3および第4回全ロシア・ソヴェト大会のぺルミ県代表。1920年、ベトログラードに派遣されたが、翌年5月、党中央委員会に「報告書」を提出して、党ペトログラード組織の欠陥なるものを強調、民主主義的自由の欠如がその原因であるとしてあらゆる政治的流派にたいする言論・出版の自由を要求、さらに同年7月、論文『焦眉の問題』を発表して、さきの要求を固執した。党中央委員会組織局が8月22日の決定で、彼の要求は党の利益に反するとみとめたのちにも、ぺルミ県で党中央の政策に反対する煽動をおこなって党から除名された。のち反党集団「労働者グループ」の指導者。》

 この略歴からわかるのは次のことである。
 1906年から革命運動に参加し、逮捕、追放、逃亡をくりかえした――
 1960年といえば、前年に第1次ロシア革命が勃発した翌年のことである。16歳でその現実にふれたミャスニコフは、翌年に17歳で革命運動に身を投じたことになるが、ロシア社会民主党は03年の第2回大会でレーニン派(ボリシェビキ)とプレハノフ派(メニシェビキ)に分裂していることを考えると、革命前にボリシェビキに参画した歴としたボリシェビキだと判断してよいと思われるただし、両者の最終的な分裂は12年なので、わずかではあるが疑問の余地はある。しかし、このことも、ミャスニコフがボリシェビキが権力を奪取した17年革命の前後に参画したボリシェビキであれば、そのことに言及しているはずである。その言及がされていないことから推して、私の判断はまちがっていないと思う。ここでもう1つおさえておく必要があることは、ミャスニコフが労働者出身であるということである。この時期の革命家は例外なく知識階層の出身である。ちなみに、およそ知性のかけらすら感じさせないスターリンですら、貧困層の出身であったとはいえ「神学生」だった。生粋の労働者出身の革命家は、存在そのものが珍しい。
 ミャスニコフは、2つの文書を書いている――
 略歴で「報告書」と論文『焦眉の問題』と記されている文書である。この文書の現物は、引用の形も含めて残っていないので、中身を知る手がかりは、略歴と次に紹介するレーニンの書簡で中身にふれた箇所から推測するほかにない。「党ペトログラード組織の欠陥なるものを強調、民主主義的自由の欠如がその原因であるとしてあらゆる政治的流派にたいする言論・出版の自由を要求」という略歴に記された箇所からいえることは、ミャスニコフが「あらゆる政治的流派」の「言論と出版の自由」を要求していたということである。21年といえば、レーニンが新経済計画(NEP)に踏み切った年であることも重要だ。内戦にかろうじて勝利したとはいえ、打倒の対象であるアメリカ経済の方法を採り入れないことには成り行かないほど国内経済は破綻をきたしており、党の腐敗も許し難い状態に陥っていた。このような背景があって、上に紹介した異例な書簡が書かれた。
 没年は不明――
 レーニン死後の党内闘争は、トロツキーの除名(27年)と追放(29年)をもってスターリンの勝利が確定する。ソルジェーニツィンによれば千万の単位で逆流が始めるのは2930年からだという。「労働者グループ」とは、いわゆる「労働者反対派」のことだが、この流れに巻き込まれたとすれば、ミャスニコフの没年が記されていない理由も納得できる。よほど高名でないかぎり、没年がわからないほど大量の人間が強制収容所で死んでいるからだ。

 右に記したことを踏まえて、レーニンの書簡を見てみよう。少し長くなるが、この手記で私がふれたいと考えている核心と密接にからんでいるので、全文を引用する。

《同志ミャスニコフ!
 やっときょう、あなたの論文を二つとも読みおえた。ペルム(ペルムだとおもうが)組織での君の発言がどんなものであり、この組織との衝突がどういう点にあるのか、私は知らない。これについてはなんとも言えない。この問題は、組織局がさばくであろう。組織局は、専門委員会をえらんだと聞いている。
 私の任務はこれとは別なものである。それは、文献的および政治的文書としての君の手紙を評価することである。
 興味ぶかい文書だ!
 論文『焦眉の問題』は、私の見るところでは、あなたの根本的な誤りをとくにはっきりとしめしている。そこで私は、あらゆる手をつくしてあなたの説得につとめることを義務とみなす。
 論文の冒頭で、あなたは弁証法を正しく適用している。そうだ、「国内戦」のスローガンと「国内平和」のスローガンとの交代を理解しないものは、こっけいである。それより悪くはないとしても。そうだ、この点ではあなたは正しい。
 しかし、この点であなたが正しいからこそ、あなたが結論をくだすさいに、あなた自身の正しく適用した弁証法を忘れてしまったことに、私は奇異の感じがする。
 ……「帝政派から無政府主義者をふくめて、出版の自由を」……大いによろしい! しかし、失礼だが、すべてのマルクス主義者と、わが革命の四年間の経験について考えるすべての労働者は、言うであろう、どのような出版の自由か、なんのためにか、どの階級のためにか、考えてみようではないか、と。
 われわれは「絶対者」というものを信じない。われわれは「純粋民主主義」を嘲笑する。
 「出版の自由」というスローガンは、中世の終りから十九世紀までのあいだに、全世界的に偉大なものとなった。
 なぜか? なぜなら、それが進歩的ブルジョアジーを、すなわち僧侶、国王、封建諸侯、地主にたいする彼らの闘争を表現していたからである。
 大衆を僧侶と地主から解放するために、ロシア社会主義連邦ソヴェト共和国ほど多くの仕事をしたし、またしている国は、世界に一つもない。「出版の自由」というこの任務を、われわれは、世界のどの国よりもりっぱに遂行したし、また遂行しつつある。
 資本家のいる全世界での出版の自由とは、ブルジョアジーのために、新聞を買いとり、執筆者を買いとり、「世論」を買収し、買いとり、製造する自由である。
 これが事実である。
 だれも、けっして、これを論駁はできないであろう。
 だがわが国では? ブルジョアジーは撃破されたが、撃滅されてはいないこと、彼らが身をひそめていることを否定できるものがいるだろうか? これを否定することはできない。
 世界のブルジョアジーという敵に取りかこまれたロシア社会主義連邦ソヴェト共和国内での出版の自由とは、ブルジョアジーとそのもっとも忠実な下僕であるメンシェヴィキおよびエス・エルとの、政治的組織の自由である。
 これは、論駁できない事実である。
 ブルジョアジー(全世界の)は、まだわれわれよりも強大であり、しかも何倍も強大である。このうえになお政治的組織の自由(=出版の自由。なぜなら出版物は政治的組織の中心であり、基礎であるから)という武器を彼らにあたえることは、敵の仕事をやりやすくし、階級敵を援助することを意味する。
 われわれは自殺したくはないし、したがって、そういうことはしないであろう。
 われわれはつぎのような事実をはっきりと見ている。それは、「出版の自由」が事実上、国際ブルジョアジーによる何百、何千のカデット、エス・エル、メンシェヴィキの著作家の即時買収と、彼らの宣伝、われわれにたいする彼らの闘争の組織とを意味するということである。
 これは事実である。「彼ら」はわれわれより富裕であり、われわれの現有勢力に対抗して十倍も大きな「勢力」を買収している。
 いや、われわれはそんなことはしないであろう。われわれは、世界のブルジョアジーをたすけるようなことはしないであろう。
 どうしてあなたは、一般階級的な評価から、すなわちあらゆる階級間の諸関係の評価という見地から、感傷的・俗物的な評価に転落するようなことになったのであろうか? 私にはそれがわからない。
 「国内平和か、国内戦か」という問題、われわれはどうして農民を獲得したか、また「獲得」しつづけている(プロレタリアートのがわへ)か、という問題、これら二つのもっとも重要な、根本的・世界的な(=世界政治の核心にふれる)問題(あなたの論文が二つともそれにあてられている)では、あなたは素町人的でない、感傷的でない、マルクス主義的な見地に立つことができた。そこではあなたは、あらゆる階級の相互関係を実務的に、冷静に、考慮することができたのである。
 ところがここであなたは突然センチメンタリズムの深淵へ転落してしまった。
  ……「われわれのところには醜態と職権濫用が山とある。出版の自由はそれを暴露するであろう」……
 二つの論文で判断しうるかぎり、あなたはまさにこの点で理路を失ったのである。あなたはいくつかの悲しむべき、苦い諸事実に押しつぶされて、冷静に力関係を評価する力を失ってしまった。
 出版の自由は、世界ブルジョアジーの勢力をたすけるであろう。これは事実である。「出版の自由」は、ロシヤの共産党から幾多の弱点、誤り、不幸、病弊(病弊は山ほどあるということ、このことは論議の余地はない)一掃することには役だたないで――というのは、世界のブルジョアジーはそれをのぞんでいないから――むしろこの世界ブルジョアジーににぎられた武器となるであろう。彼らは死んではいない。彼らは生きている。彼らは隣接していて、機会をねらっている。彼らはすでにミリュコフをやとっており、チェルノフとマルトフは、(一部は愚かなために、一部はわれわれにたいする分派的憎悪のために、だが根本的には彼らの小ブルジョア民主主義的立場の客観的論理によって)「誠心誠意」このミリュコフに奉仕している。
 あなたは「ある部屋に入ろうとして、別の部屋に入ってしまった」。
 あなたは共産党を治療しようとおもったが、確実な死をもたらす――もちろんあなたからではなく、世界ブルジョアジー(+ミリュコフ+チェルノフ+マルトフ)から――ような薬をつかむことになったのである。
 あなたはささいなことを、まったく取るにたりないささいなことをわすれてしまった、すなわち、世界ブルジョアジーと、新聞を買収し政治的組織の中心を買収する彼らの「自由」を、わすれてしまったのだ。
 いや。われわれはこの道をすすまないであろう。一〇〇〇人の自覚ある労働者のうち、九〇〇人まではこの道をすすまないであろう。
 われわれの病気はたくさんある。一九二〇年の秋と冬の燃料および食糧の分配のさいにおかしたような誤り(われわれの共通の誤り。労働国防会議も、人民委員会議も、中央委員会も、みな誤りをおかした)は、われわれの病状をさらに何倍にも激化させた。
 窮乏と災害は大きい。
 一九二一年の飢饉は、それをおそろしくつよめた。
 それを切りぬけるには、言語に絶する苦労を伴うであろうが、しかしわれわれは切りぬけるであろう。またすでに、切りぬけはじめている。
 われわれは切りぬけるであろう、というのは、われわれの政策は、あらゆる階級勢力を国際的規模で考慮した、正しい政策だからである。われわれは切りぬけるであろう、というのは、われわれは自分の状態を飾りたてはしないからである。われわれはすべての困難を承知しており、すべての病弊を見ている。われわれは恐慌に陥ることなく、それを系統的に、ねばりづよく、治療するであろう。
 あなたは、あえて恐慌に夢中になり、この斜面を転落し、ついに、あなたによる新党の創立か、あなたの自殺に類する結果を生みだすにいたった。
 恐慌に陥ってはならない。
 党からの共産党細胞の遊離? それはある。これは害悪、不幸、病弊である。
 それはある。重い病弊だ。
 われわれは、それを見ている。
 それの治療は、「自由」(ブルジョアジーのための)によってではなく、プロレタリア的・党的な手段によってすべきである。
 あなたが経済の高揚について、「自動鋤」その他について、農民にたいする影響等々についてかたっていることは、多くの正しいこと、多くの有益なことをふくんでいる。
 どうしてあなたはそれを強調しないのか? われわれは一致するであろうし、一つの党のなかで協力一致して括動するであろう。利益は莫大であろう。だがそれは、一挙にえられるのではなく、非常に緩慢にしかえられないであろう。
 ソヴェトを括気づけ、非党員を引きいれ、党の活動を非党員に点検させる――これこそ、絶対に正しい。ここに山ほど仕事があり、無数の仕事がある。
 なぜあなたは、実際的な方法でそれを発露させないのか? 大会のための小冊子のなかで?
 どうしてそれに着手してはならないのか?
 なぜ人足仕事(中央統制委員会を通じて、党の機関紙を通じて、『プラウダ』を通じて職権濫用に迫害をくわえるという)におびえるのか? 人足仕事、緩慢な、困難な、重苦しい仕事から、人々は恐慌に陥り、「容易な」打開策を、「出版の自由」(ブルジョアジーのための)を探しもとめる。
 なぜあなたは、自分の誤りを、明白な誤りを、「出版の自由」というような非党的・反プロレタリア的スローガンを固執しなければならないのか? なぜあなたは、あまり「かがやかしく」(ブルジョア的な輝きによる)ない仕事、職権濫用の実際の一掃、それとの実際の闘争、非党員にたいする実際の援助といった人足仕事に手をつけてはいけないのか?
 どこであなたは、これこれの職権濫用を中央委員会に指摘したか? また、それを訂正し、板絶するこれこれの手段を指摘したか? 一度もない。
 ただの一度もない。
 あなたは、おびただしい災厄と病弊を見いだし、絶望に陥り、そして他人の抱擁、ブルジョアジーの抱擁(ブルジョアジーのための「出版の自由」)に身を投じた。私が忠告したいのは、絶望と恐慌に陥らないようにということである。
 わが国のわれわれに共鳴している人々、労働者と農民には、まだ底しれぬ力がある。健康はまだ多い。
 非党員を抜擢せよ、党員の活動を非党員に点検させよ、というスローガンを、われわれはまだよく実行していない。
 しかしわれわれはこの分野で、いまより百倍ものことをすることができるし、またするであろう。
 あなたがすこし冷静に考えて、まちがった自尊心から、明白な政治的誤り(「出版の自由」)を固執するようなことがなく、気をしっかりもち、自分のなかの恐慌を克服して、非党員との結びつきをたすけ、党員の活動にたいする非党員の点検をたすけるという実際の活動に着手するものと、信じる。
 この活動では、仕事は山ほどある。この活動でも病弊を、ゆっくりとではあるがしかしほんとうに治療することができる(またしなければならない)し、「出版の自由」によって、この「かがやかしい」鬼火によって、判断をくもらせてはならない。
                 共産主義者のあいさつをおくる。
    レーニン》(『レーニン全集(第四版)』/大月書店/第32巻p541-547)

この書簡をどう読むか

 この書簡全体は、次に挙げる4つの姿勢に貫かれている。まずは、私が青字にした部分に注目していただきたい。
 誠実かつ真摯な姿勢

 所属をまちがえるほどの関係(ほとんど知らないということ)にあるミャスニコフという一古参党員に対して、「あらゆる手をつくしてあなたの説得につとめることを義務とみなす。」と書いている。これはきわめて異例なことだ。大ロシア帝国を継承した最高権力者が、無名の一党員を全力を挙げて「説得」するというのだから。
 このような姿勢は、党内に蔓延する職権濫用について「病弊は山ほどあるということ、このことは論議の余地はない」と認めているところにも見ることができる。
 組織の腐敗は部外者の監視によってしか正せないとする姿勢
 組織における腐敗は、外からの監視によってしか正せないことについても、これを認めている。「非党員を引きいれ、党の活動を非党員に点検させる――これこそ、絶対に正しい。」「非党員を抜擢せよ、党員の活動を非党員に点検させよ、というスローガンを、われわれはまだよく実行していない。」とする姿勢である。
 金さえあればなんでも買えるとする姿勢
 その一方で、金さえあればなんでも買えるとする姿勢に貫かれている。逆にいえば、人は魂を金で売るものだとする観念に凝り固まっている。
 階級を絶対視する姿勢
 この姿勢は、階級間には越えられない絶対的な溝があるとする宗教的信念にまで高められている。このことは「われわれは『純粋民主主義』を嘲笑する。」ということばに、象徴的に表現されている。
 についていば、これほど誠実かつ真摯な姿勢を示した権力者は、私が知るかぎりではレーニンしかいない。同じようにに見られる硬直した姿勢は、ルターのような宗教家には見られるが、超一流の政治家にあっては滅多に見られないものではない。私たちは、レーニンを政治家として見ることを前提にしてきた(事実、政治家であったことに疑いの余地はない)が、宗教家として見直してみると、いままでは見えなかったこの人物の真実の姿が見えてくるのではないか、と私は思うのだ。高潔さと謙虚な姿勢において図抜けている一方で、他方では度し難いほどの思い込みと人間に対する無理解が共存しているという点でいえば、レーニンとルターは、同じタイプの人物だと思うからだ。

重なるもの

 私は、この書簡の存在を、70年の10月に、未決で拘留されていた東京拘置所の独居房で知った。私がいた舎房には、4・28闘争で破防法が適用され、被告人とされた本多さんが先住者としており、面会のさいに顔を合わせ、目で挨拶を交わすという関係にあった。
 前年の1021闘争を前にして、逮捕・起訴を覚悟していた私は、獄中で読むべき本の1つをレーニン全集と決め、神田の古本屋で買い求めていた。私が買った4版は35巻、定価1000円でだったので、当時の私には懐具合を考えると手が出なかったが、たまたま5冊ほど欠本があるものがあり、それは全巻揃いのものに比べて半値以下だったので買ったのである(それでもかなりの出費だったが)。10・8羽田以降の闘争の高揚は、革命の「現実性」を示していた(と私たちには感じられた)。69年に入って、街頭蜂起の方針が出されたときには、「いよいよ時がきた」というのが、私たちが共通に抱いた素直な感懐だった。
 読み始めたのは起訴後の11月に入ってから。ほぼ1年かけ、全巻(といっても先にふれたように欠本があり、34巻と35巻はなかった)を読破する直前になって、この書簡に出合ったのである。
 全集の読破は退屈な作業だった。マルクスやエンゲルス、トロツキーなどが書いたものは理念にかかわるものが多い。いってみれば観念の世界を展開している。それらとは異なり、レーニンが書いたものは、とくに権力奪取後に書かれたものは、実務にかかわるものが過半が占めている。実務家ならいざ知らず、読んでいておもしろいものではない。それでも、実務に取り組むレーニンの姿勢に、私は鬼気迫るものを感じていた。なかでも、内戦後の食糧危機にさいして、確保した食糧と人口構成の数値を前にして、1人当たりの配給量をいかにすべきかを検討するレーニンの姿勢には、感動をおぼえるものがあった。「あるべき政治家」の姿を、私は、レーニンのなかに読み取っていた。爆発寸前の危機的状態にある条件下にあって、公平性を保ちながら、なおかつ、労働生産性を刺激することも考慮しなければならないこの作業は、相矛盾する難問題を含んでいる。どちらか一方に傾いても、不満が爆発しかねない。年齢と性別に分けられた表を前にして、レーニンは、そこに書き込むべき数値を決めるのに全精力を注いでいた。なぜその数値にしたかについての説明に苦慮していた。その姿勢に感動をおぼえたのである。
 そういうときに出合ったのが、この書簡である。一地方活動家の反抗が、いちいち最高指導者に耳に入ることなど、一般的にいって考えられることではない。なにかの回路をたどって伝わったとしても、普通なら然るべき下僚に委ねるべき性格のものだ。そういう類の問題に過ぎないミャスニコフの問題提起に対して、「あらゆる手をつくしてあなたの説得につとめることを義務とみなす。」と断言するレーニンに、私は、本多さんと自分との関係を重ねて読んでいたのである。
 小野田の指摘を受けて、この書簡を読み直して、改めてミャスニコフという一無名活動家とレーニンとの関係に、私と本多さんと重ねていたことに思い至った。あわせていえば、このことは、全ての原理主義に通底すると思った。ひとりのカリスマ指導者とその指導者に対して全的に信頼を寄せる組織成員との関係は、その組織が必ずしも宗教組織でなくてもいえることだが、疑念を入り込ませない関係になりがちである。それが宗教組織になると、より疑念が入り込む余地は狭まらざるを得ない関係になる。そういう宗教組織にあっては、外から見ると絶対的な従属関係にしか映らないものにもかかわらず、当事者のあいだでは純粋に「精神の問題」でしかないのだ。
 本多延嘉の邂逅と別れから、はや30年の歳月が経た。このあたりで私なりの決別をしないことには、「全体小説を書く」などと偉そうなことをほざいたところ始まるまい――いま、そういう心情の下に、私はいる。

                  2005・2・26


 06/4月号 今月の断章
 観念としての暴力革命論がある。人はこれを理念とするとき、その観念は信仰に一歩近づく。さらに一歩進んでそれを己の政治課題に据えたとき、それは信仰になる。
 宗教は、その信者を獲得するために傘下の信者がもてる全てを動員することを常とする。ときには全てを捧げることを要求する。このことはキリスト教文明を見れば明らかだ。現代最大の宗教だったマルクス主義が隆盛を誇り得たゆえんもここにあった。通信手段がそれ以前の時代と比べて飛躍的に発達を遂げた時代だっただけに、その効果は絶大だった。他の大宗教が何世紀もかけておこなったことを、わずか百年余の時間をかけただけで実現し得たのである。近代に固有のこの伝搬力は、宗教としてのマルクス主義においては最大の武器だっただけに、その武器は破綻をもたらす力としても働くことになった。人間の歴史が愚かさと賢さが複雑に入り交じった時間の連続であることを考えれば、このこともまた歴史の必然だといえる。              2006・3・25

〈編集ノート〉06.4月号
西部との付き合いを終えてひと息つき、これでいよいよ〈本来の戦線〉に復帰できると考え、その準備を始めた。そんなおり、またまたひょんなことから今度は小野田襄二と付き合う羽目になった。なぜ、そうなったのかを含めて「ある元過激派の手記」(仮題)で書くことにした。詳しくはそちらを読んで貰うとして、ここでは1つだけふれておく。
 私の課題は、この国において受け継がれてきた〈受け継がれるべき精神〉のあり方を、自分が生きた時代とのからみで残すことにある。そのための方法はいろいろある。得手不得手ということもあるが、私は小説の形で書くことを選び、その手始めにと思って書いたのが『序章』である。4半世紀前ことである。当然のことながら、序章につづく第2章を書くことが、それからあとの課題だった。このホームページに掲載したものは、高校生のおりに書いた最初期の小説を除いて全てそのための準備過程の産物であり、序章につづく第1章の荒稿が「試作」欄に掲載してある「光りと陰」である。
西部との付き合いを終えて、その準備に関しては一段落したと思った。だから、前号では「『光と陰』の続稿を、冒頭の部分だけでも掲載できるようにしたいと思っている。」と書いた。ところが、ひょんなことから古い友人から小野田の著作を指摘され、参考までにと目を通した結果、もっとも肝心なことが抜け落ちていたことを知らされた。ひとことでいえば、私の検証が観念の世界に偏っており、生身の人間が生きる(生きてきた)現実に対して目を向けてこなかったということである。弘法も筆を誤るのが人間の世界である。間違いに気づいても、行きがかりから途中で修正できないのが人間の当為である。そうした〈性〉の部分、別言すれば、人間の闇の部分との格闘を抜きにした小説の世界が人の琴線に響くはずがない。よくいっても表層にふれる程度で終わりである。その程度のものなら、掃いて捨てるほどあるわけで、いまさら私が書かねばならないいわれはない。小野田の著作にふれて、そのことを痛感させられたのである。
今シーズンはワセダが健闘してくれたので、久しぶりに溜飲が下がる思いをした。私と同じ感懐を抱いたファンは多いはずだ。日本では社会人といっているが、あれは歴としたプロである。アマチュアがプロに敵うはずがないわけで、ワセダの完敗、東芝の完勝は予想されたことではあった。だから、来シーズンも同じようになるにちがいない。が、それでも学生がプロに挑戦しつづけるところに、このスポーツの醍醐味がある。負傷で交代を命じられた1年生の豊田が悔し泣きをしている姿、同様に交代した4年の首藤がヘッドキャップを取って競技場に向かって深く一礼する姿が印象に残ったシーズンだった。
『福澤諭吉の真相』の著者である平山洋さんから、前号で書いた私の書評に事実誤認があるとのメールを貰った。訂正も含めて、参考資料を別掲した。前号の書評を補強する意味でも、目を通していただければ幸いである。
西部のときと同様に、今号も無手勝流で臨んだ。これが私流のやり方なのだから、仕方ない。問題だったのは、西部のときと比べても今回は格段と準備不足であることだ。だから、形をつけるのに四苦八苦した。なんとか予定日までにあげようと頑張っが1日延びてしまい、中身もよくない。この取り返しは次号ですることで勘弁して貰うほかにない。
            2006・3・・25

 今井さんのHPの一部転載の機会を得た。
資料として大事なものが多いので全文引用。
おいおい追加したい。
 長いので今回は以下目次のみ。

ある元過激派の手記
――
過ぎ去りし日々を問う。
目次
序にかえて

この手記を書くに至った経緯と理由
一無名党員とレーニン
この書簡をどう読むか
重なるもの
1部 過ぎ去りし日々を問う。

第1章 1950年代という「時代」(その1)

父の死
新聞配達
衣食住供与プラス報酬付きの魅力
奨学金、バイトに継ぐバイト
間違えて入ってきた生徒
政治的後進地
文芸部ならぬ文学部
ダンディズム? デカダンス?
からくり
7つ受けて全部ダメ
「大島を買う話」
貧しさは卒業して働いてもつづいた

2章 1950年代という「時代」(その2)
断わり書き
1950年代はどういう「時代」だったのか
社会主義労働者国家信仰
アメリカの暗部と日本復活の兆し
進行形の歴史をとらえることの難しさ


高校の恩師の一人。
高校時代、私たちは、裏では「カメ」、本人の前では「カメさん」と呼んでいた。
詳細は後述。
 
カメに関する記事がずいぶん見つかった。
今回は後日のために、記録だけ‥。
 
【以下】
 
三鷹ネットワーク(太宰治)
亀島貞夫は戦後八雲書店の編集者として最晩年の太宰と触れた人です。亀島貞夫は戦後八雲書店の編集者として最晩年の太宰と触れた人です。
 
村山精二 詩のホームページ(ぼっちゃん 異説)
私はわが恩師亀島貞夫の顰みに倣って「欠落の情緒」と呼んでおきたい。
http://homepage2.nifty.com/GOMAME/2008/03/080313.htm
 
ゆまに書房
 
戦後文学の志
亀島貞夫『白日の記録』の表現と思想
 
日本の軍隊を衝く
(野間宏・大岡昇平・亀島貞夫)1949/06/01国土社
日本の軍隊  岩波現代文庫  飯塚浩二」 に収録。
 
中村稔
昭和二十三年九月、相澤諒が服毒自死したこと、相澤の詩と詩論のこと、『芸術』 に詩を発表した機会に亀島貞夫さんを知ったこと、
ゆりいか 青土社 「私の昭和史」
 
山影冬彦
亀島貞夫伝説に取材。書いては没書いては没の想いの果てにくるものは……。
創作の窓
 
昭和24年11月号近代文学 坂口安吾 安部公房 埴谷雄高 亀島貞夫
 
いといしげさと 糸井重里
 亀島貞夫先生っていうんだけれど、‥
 

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