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承前

――中核派に話を戻します。中核派のイメージは変わってきたと思いますか。
 世代によって違うかなとは思う。80年代、90年代……。僕らが内ゲバを否定していたら違うのかもしれませんが、僕らはあれはやるべき闘いだったというふうに今でも思っている。そういう意味では否定はしていない。
 内ゲバというのは権力が作った言葉です。それを他のすべての人が受け入れただけ。僕らはあくまで革マル派との「戦争」。当時、革マルが大衆的な運動では中核派に勝てないから「中核派は全員殺しちゃえ」となった。破防法で中核派が動きにくくなっている時期に、という論文も出したりして。職場で一人、二人の中核派のうちに襲うとか。それに対してどうするの、というときに、いったん勝負をしなければいけないという党の判断があった。
 じゃあ、当時、他にどんな判断があったんですか。おとなしく殺されればよかったんですかと。外から見たあなたたちの考えはそうかもしれないが、中にいる私たちの判断はそうですよと。
 
――対革マル派と最近は内ゲバないですよね。
 あちらがやらなくなったら、こちらもやる必要はないと。革マル派の殲滅に向かって最後はいきますけど、解放社(編集部注:革マル派の拠点)に乗り込んでウオーとか、それはないですから(笑)
 内ゲバを否定はしていないが、それだけで革命が起きるとは思っていない。労働運動とか学生運動とか、現場にいる人間の主体性を引き上げていくと言いますか、爆発させていく。その中で日常が変わり、革命が起きるというのが基本的な考え方。
 今は、そっちの「基本的な路線」の方が目立つので、20代、30代はそういうイメージを持つ人が少しずつ増えていると思います。逆に40代、50代は内ゲバのイメージ。現場を見たりとか経験として知っている人がいる。そういうイメージを拭い去るというのは実際問題厳しいのかなと思います。
 
――中核派だけでなく、過激派の大学拠点はどんどん失われています。学生と接点を失ったとも言える。前進チャンネル(ユーチューブの中核派PR番組)を始めた狙いは、接点がない人に接触しようということですか?
 それを含めて、今までやってこなかったことをやってみようということです。
 
――中核派と言えば、斎藤さんが在籍した法政大学、そして京都大学。退学者を出したり、大学当局が圧力を増しているように見受けられます。
 何かを起点に圧力を強めていると言うよりは、大学の側にまず、大学改革というのがあって、産業の競争力のために、大学、産業が連携しないといけないという方向に向かっています。30年スパンで改革をやるんだということをずっとやられている。その流れで踏み込んできて、ぶつかっているというのが基本的な形。
 京大の場合は反戦バリスト(編集部注:15年に中核派の学生がキャンパス内でバリケードストライキをした)から激しくなっているように思われていますが、その前の段階から、既存の、僕らと関係ない自治寮とかに関しても「団体交渉をしない」とか始まっていた。その流れであんな形に。
 
――過激派の活動の拠点になっているのが経営上ふさわしくないと大学は考えていると?
 完全にそういう認識だと思いますね。
 
――受験する高校生が減るから?
 それだけではないと思います。私立大学レベルでは「イメージ良くないよね」と言われているのかもしれませんが。国立大学レべルでは「国家のために産業と連携していけ」という話はすなわち、防衛省の軍事研究。大学にいま呼びかけているわけですが、それに対して反対の声というのが大学の中から起こるというのは本当に簡単ではない。日本の支配層は60年代、70年代に「ベトナム戦争反対」とか嫌というほど味わっていますから。大学の中で反対されて、それどころではないという状況になった。なので、それ(産学連携)を貫徹するためにはあらゆる反対勢力を排除しようと。僕らに限らず不穏分子といいますか、自治会とか教授会とか。そのなかで乾坤一擲、大々的に反撃しよう、勝負掛けようと僕らが動き、中核派だけが目立っている。
 
――産学連携とは軍事研究? どこの大学でもやっているのでしょうか?
 というよりも、大学を一つのGDP上昇の協力機関に変えようという流れの中で、直接軍事研究と関係なくても、「自分の市場価値を上げろ」という教育を文系理系問わずやる。グローバル人材を育てようとか。金融企業と結び付くとか。
 それに対して組織的な反対運動をするのが中核派。他の政党、人たちはあきらめて反対もしないので、活動がすたれ、人もいなくなり、さらにすたれていっている。ビラまきとか小さい形であっても、大学に目をつけられるのを覚悟でやろうということですから。他の人たちにはできないので、中核派だけ生き残った。力はまだまだ弱いですけど。
 
――大学の圧力は具体的にどんな形で感じていますか。
 大学のルールを変えて集会を禁止にしちゃうとか、ビラまきを大学の許可制にしたり。または退学処分。
 
――15年に中核派の学生らが京大キャンパス内で行ったバリケードストライキ(バリスト)。ユーチューブで見ましたが、一般学生がバリケードを内側から破壊したんですよね?
 最後の対応をミスった。12時でバリストは終わりにしますと言っていて、その後バリケードの防衛を解いていた。後で撤去する予定だったが、秩序を大事にしたい人はいますし、まじめに授業受けたい人も少数います。そういう人たちがああいった行動に出ること自体は……。むしろバリケードを守っている最中にそういう激突にならなかったことで、「まだ(中核派の言い分を)聞いてくれているな」という風に思っていますけどね。
 
――ノンポリ、反学生運動層は認めざるを得ない一定層いると?
 もちろん。
 
――ユーチューブだけを見ると、スト中に壊されたのかなと思ってしまいました。
 そういう風に言いたい人たちはいます。産経新聞なんかそうですし。バリケードを破壊した人たちもそういう風に思っているんだろうなあと思います。「主体性を発揮して壊した」んだと。
 僕らは無風な状態で軍事研究だったり、学生を商品にするような教育だったりをしていることに反対ですよと。そういうことを思ってバリストをやった以上、軋轢を生むだろうなと覚悟してやっている。教員とか当局よりも、学生の方が数多いですし、具体的な行動をしてくることはあるだろうなと思っていました。
 
――ユーチューブに半永久的に「中核派を一般学生が打破した」と思われてしまう画像が残ります。悔しいですか?
 うーん、悔しくはありますが、そういうコンテンツがある以上仕方ありません。1年でも2年でもかけてあのバリストが、なんのためにやっていたのか、正しかったのかどうか。これから評価が決まっていく。それは僕らの活動に問われていると思います。
 
――一般学生が破壊活動をするのは長い学生運動の歴史の中で珍しいのかなと思う。ある意味中核派を恐れないと言いますか。
 うーん、私が大学に入った時には、当然そういう学生はいました。昔もいたと思う。でも昔は力関係がもっと(運動側が強かった)。労働者もばんばんストライキしていた。ストライキが世の中にあり得るんだという前提があったから、「(ストライキにぶち当たっても)今日は仕方ない」となったかもしれない。でも僕らの世代はストライキなんて見たことがない。「ただの占拠行為だろう」という見方をする人がそれなりに出てくるのは当然かなと思います。
 でも本当はカリキュラムが決まっているから、「こう動かないといけない」というようなんじゃなくて、自分たちが決断すれば「止められる」「変えられる」のです。ストライキという行為がこの社会にあることをよみがえらせたい。
 
――大学キャンパスでのバリストは何年振りだったのか分かりますか?
 京大では約30年ぶり。全国でも東北大で2000年に国立大学法人化反対のバリストをやって以来です。
 
(以下中核派メンバーの回答)
 東北大以降、物理的な大学内ストライキには刑事罰を適用すると大学が言った。こっちとしても「うっ」となる。で、しばらくやっていなかったが、一昨年は安保法案が通ったので、「ここはちょっと腹固めてやろう」となった。実際正門前まで警察が来てましたので、突入されても仕方なかった状況でした。
 
――ついでに伺います。京大では14年、キャンパス内に無断で入っていた私服警官(公安)を中核派学生らが取り押さえる事案がありましたよね。大学の自治が焦点となった、あの有名な東大ポポロ事件になぞらえて、「京大ポポロ事件」と呼ばれているそうで。概要を教えてください。
 労働者の大きな集会をやり、そこに参加した京大生が2人逮捕されました。その仲間を取り戻そうと、京大内で呼び掛けていたところ、「変な人がいるぞ」となった。声を掛けたら逃げ出した。つかまえたら公安だったという流れです。
 
――公安の身柄を大学敷地内で学生側が確保する行為自体、珍しいですよね?
 普通そんなことやったらこっちが逮捕されますから(笑)。血気盛んな人が取り押さえた。最終的には大学当局に突き出しました。
 
(以下中核派メンバー)
 恒常的に大学空間に入って面割りするやつがあまりにも露骨にやっていたという話。どこの大学にもいるんでしょうけどあんまり普通分からない。
 

左翼は89年「総評」崩壊で心が折れた、中核派・全学連委員長が激白(3

――60年代、70年代は大学紛争全盛期。最近はほとんど聞かない。なぜ衰退したのでしょうか?
 一番大きいのは国鉄分割民営化で、労働組合が基本的に崩壊しました。
 当時の学生の未熟さ故ではあると思うんですが、運動に参加した人たちが普通に就職した。なんというのかな、戦って社会を変えるというのはあんまり意味がないんだと、当時運動をやっていた人たちすらそう言っちゃうぐらいまで、運動する側が闘えなくなってしまった。
 それが次の世代にも影響。負のスパイラルが続いた結果、「政治とは選挙なんだ。選挙のとき以外は、政治のことなんて考えなくていいんだ」となってしまった。そうじゃないとむしろマナー違反みたいな雰囲気がある。運動して「なんかやる」という感覚自体がなくなった。
 政府の側が運動をつぶすためにキャンパスを移しちゃうとかいろいろありました。例えば、筑波大学、広島大学。法政大学も経済とか社会学部が一番学生運動強かったんですが、二つの学部を多摩の山奥に移した。大学側は移転理由を公然とは言わないが、理由はそうに違いないです。
 
――早稲田は1997年~2001年、学園祭がありませんでした。革マル派の資金源を断つためと言われています。そういった動きは他の大学でもあったのでしょうか?
 ありますよ。4年かけると学生はだいたい入れ替わりますから。記憶がなくなったところで改革というのは大学側の常とう手段。法政も学費を上げる過程で、ボワソナード・タワーを建てるために暫定的に上げるという話をして、4年後に今度は建てるのにお金がかかったので更に学費を上げます、と。学生の側が自分たちの闘いの歴史を継承する組織がないと「やりたい放題」。大学の常識を変えていくスピードは社会よりも早いです。
 
――労組の崩壊。国鉄の民営化は学生運動にとっても大きな転機だったのでしょうか。
 はい。
 
――国鉄だけの話ではなくて波及していったと?
 そうです。運動は人間がやっていますから。当時最強だったのは国鉄。そこが解体されたら「もう戦えないよね」と。一気に連合の結成に向かって物事が進んでいく。
 
 (以下中核派メンバー)
 89年の総評(日本労働組合総評議会)崩壊。91年のソ連崩壊。それが与えた影響がとてつもなく大きい。基本的に日本の左翼と呼ばれる人たちは、それで心が折れた。あきらめた。雪崩を打ったというのは事実であります。
 
――ソ連崩壊というのはイメージが湧きますが、同じぐらい総評崩壊も大きいと?
以下中核派メンバー)
 ですね。でかい。まがりなりにも社会党があって、絶対反対で戦って、ストライキやって。春になると春闘デモ。それが一夜で、自民党となれ合うような連合に代わった。連合の方が総評より規模は大きいが、総評は力が強い。要するに戦闘力がある。要求が通らなければストライキをやる。僕ら総評を支持はしないし、社会党は嫌いですけど(笑)。
 総評というところに体現されていた日本の労働者の力と言うのは、やはりでかい。90年前後までストライキというものがありましたからね。
 
――個別に強い労組は今でもありますよね。
 はい。でも社会全体を止める力と言うのは……。その時代は総評の反対を押し切ってやれないから、正月とかに総評の会長と首相が話すとかイベントがあった。もう一人の首相、権力として労働組合があった。「賃金上げろ」とかは当時、総評の下で整然とメーデー、春闘、全体で団結して賃上げ闘争。いまは個別の労組。分断がものすごくある。
 
(以下中核派メンバー)
「むかし陸軍、いま総評」という言葉があったじゃないですか、80年代。いい意味で言われていたわけではないが、それぐらい力があった。
 
――総評崩壊、ソ連崩壊のほかに、左翼勢力の衰退の端緒になったイベントとして、他に何かありますか?
 基本的にはそこで力関係がだいたい決まってしまいました。10年間くらい押しつ押されつ。そして郵政民営化があって、民主党政権のときに国鉄民営分割化の解雇闘争が正式に終わるというのが最後大きいと思う。国労とか、今まで左翼と呼ばれた勢力が「もう戦わない」と物事を決めていっちゃった。
 
(以下中核派メンバー)
 90年代は混濁していた。あえて言うなら9395年は、左が押していた。自民党政権崩壊、従軍慰安婦問題、河野談話、村山談話……。世の中よくなるんじゃないかという流れがあった。明白に96年以降はカウンター。つくる会教科書、歴史修正、不景気で労働者の賃金下がっていって……。とどめは小泉登場。そして民主党政権下で国鉄闘争が終わる。
 
――97年以降の金融危機で景気が悪くなる中で、というのも大きかったと思いますが?
 それに乗じて、「会社の経営が悪いから仕方がない」と。そうなると労働者側が闘争できない。組合員を守るために、非組合員を非正規雇用に落とすとか、大手の労組では「原発現場は非組合員を送る」とか、平気でやっていた。それで「組合を信用しろ」とか「左翼を信じて」とか(はおかしい)。ある種、新聞に意見すら出てこない人、サイレントマジョリティはものすごく圧力を食らった。この20年間ぐらい左翼が注目してこなかった領域なのかな。
 
――昔のような強い左派ではなく、穏健なリベラルの人たちの受け皿はどこになっていくのでしょうか。
 そういう人たちはすごく減っていて、その人たちが立憲民主党を支えている。とうの昔に絶滅していくという状況に基本的にはなっています。
 
以下中核派メンバー)
 単純に歴史が重なるわけではないが、資本主義の危機が進めば、社会の崩壊が進めば進むほど、二極分解化が進む。ナチスとドイツ共産党の戦いのように。自民党で今までやってきた連中がどんどん淘汰されて、安倍みたいな極右がのしちゃって。中間部分がどんどんなくなっていった。社会が右と左に分かれていくのは避けられないと思う。ちゃんと働いて食えて年金もらえてという社会なら、そんなにみんな(右へ左へと)走らないと思うんです。

          つづく

斎藤郁真(中核派全学連委員長)の週刊ダイアモンドでの発言)
内容
 
週刊ダイヤモンド1118日号の特集は「右派×左派 ねじれで読み解く企業・経済・政治・大学」。保守とリベラルの対決が鮮明となった衆院選が終わってもなお、「右派・左派」「保守・リベラル」などイデオロギーにかかわる議論が続いている。この状態を過激派はどう見ているのか。極左暴力集団の一つ、「中核派」の斎藤郁真・全学連委員長へのインタビューを全5回でお届けする。(「週刊ダイヤモンド」編集部 土本匡孝)
……… ……… ………      ……… ……… ………
『狂おしく悩ましく』の【注】
ネットでは171112日~16日に連載としてアップしている。11答形式。ネット上では2回目以降、それぞれ別のタイトルがついているので「中核派…」の繰り返し部分のみ削ってそのままにした。ただ、各回の最後にダイアモンドの質問項目があり、次回の冒頭から答えが載っている。読みずらいのでその質問項目をタイトルの後ろに移した。長いので23回に分けたい。斎藤氏の写真は1枚だけにした。
太字は設問。答えは細字とした。冒頭の「内容」は当ブログによる。

 平易な語り口には好感ももてるが、その分?「ディープな議論」や「深い綱領的内容」は感じられない。
まぁその分いまの中核派をありのままに率直に語っているといえるかもしれない。
正直に言って「」既成の新左翼」を乗り越える「若者らしさ」や「新鮮な問題意識」も感じられない。いくつか「えっ?!」と反応するような告白もある。

評や感想を期待したい。

  【以下コピペ】

――まずは先月の衆院選東京8区(杉並区)で出馬した感想を教えてください。斎藤さんは初めての選挙だったんですよね?
 
斎藤郁真(さいとう・いくま)
 中核派全学連委員長。1988年生まれ、29歳。2007年、法政大学法学部入学。10年、退学処分。11年、全日本学生自治会総連合(中核派全学連)委員長就任。17年、衆院選に東京8区(杉並区)から出馬し、2931票獲得。
 
 はい。今の政治というものに対して、うんざりしている人がすごく多い。根本的に違う価値観を、どう皆さんの実感と結びつけて提示していくのか。まだまだ難しいなあと感じました。一方で、すごく訴えが刺さった人が結構いました。手応えを感じています。
 
――2931票、得票率で1.2%(候補6人中最下位)についてはどう感じましたか。
 7月の都議選の時は、杉並区で北島(邦彦、中核派関係者)さんが出ました。その時は2400票ぐらい。それより増えた。北島さんが基本、杉並区でずっとやっていた。今回私に替わって、知名度ゼロからやって増やしたという意味では、小さくはあれ、前進したと思っています。
 
――特にどの辺りの訴えが有権者に刺さったと感じましたか。
 やはり社会を動かしているのは労働者。なのに働いている場所がめちゃくちゃになっているというところに、共感してくれた人が多かったのかな。だから労働者がストライキを力に変えていけるんだというところまでいくと変わる。でも日本ではもうそんなにストライキを見ないですし。そこまで信じられないというか、そういうハードルはやはり超えられなかったんだろうなと思います。
 
――労働者層が特に足を止めたと思いますか?
 4050代というよりは、青年と、「昔ばんばんストライキやった」という層から熱狂的に支持してくれる人が現れたという感じです。
 
――中核派自体の話に入っていきますが、昔と比べたら減っていると思います。
 最近は明白に増えています。
 
――どの辺りの時期を底に増えてきたのでしょうか?
 構成員数は発表しないです。「公安筋では約○○○○人」という数字を聞いてうちらもびっくりしているぐらい(笑)。機関紙『前進』の購読者は増えています。ただ、それが昔のようにバリバリという感じではありません。この10年で見ると、機関紙を含めて増えてきているなというのはあります。発行部数は非公表ですが(斎藤氏に代わって別の中核派メンバーが回答)。
 
――若者には中核派のどういう運動が刺さっているのでしょう。
 労働運動と言いますか、現場でちゃんと闘おうというところ。ある種まじめな人はそこを見る。力が足りていないのが現状なんですけど、「なんか巻き起こそうとしているな」というところを感じている人が増えています。
 
――労働者の問題を訴える政党が他にもあるわけですが、どのような違いがあるのでしょう。
 他の政党は労働運動といっても選挙のときの組織力。動員というところに主眼がいっています。労働運動の現場において、「じゃあ資本と具体的に戦おう」「ストライキやってでも、激突していこう」「力関係を変えよう」ということをやらない。僕らは基本的にそこが一番大事なんだと結党当初から訴えている。そこらへんですかね。
 
――国政を見ると左派勢力が衰えています。どういうところに原因があると思いますか。
 要は現場で闘わなくなった。左派の言うような約束事が現場で貫徹されない。ですし、民進党とか民主党とかが、安倍政権に対する最大の対抗軸だと新聞を読めば言われているわけですが、民進党を支える連合を含め、何をやっているか現場の人は知っている。それを信用しようとは普通ならない。
 新聞は数の論理で「こことここが対立軸」とか言っているが、誰もそこが対立軸だとは思っていない。じゃあ、誰の力で生活を良くしてもらおうかというときに、「自民党が一番安パイだよね」っていうのが一番普通の感覚ですよね。
 例えば、(左派政党が企業の)偽装請負を追及する。それ自体は正義なんですけど、(企業が)「じゃあやりません」となって派遣切りが横行する。それに対して左派はどうしたか。対応できない。中途半端な正義みたいなものが、全部裏目に出る。現場での力関係を作ろうとしない、そういう政治の世界での正義と言うのはもう……ということ。
 
――現場での力関係とは?
 例えば、大企業のコストダウンというのは、法律うんぬんの話ではない。だけど、(取引先の)中小企業は反撃できない。結果、大企業に課税したら(取引先の)中小にしわ寄せがいくよねという当たり前の話です。
 
――一方で左派、リベラルの立憲民主党は今回の衆院選で想定以上に躍進しました。
 森友、加計学園と続いて、安倍政権でいいとは思っていない人はたくさんいます。「イッパツお灸を据えたい」層はそれなりにいた。でも実際、立憲民主党が勝ったところで、変わるとは思えません。
 
――なぜ変わらないのでしょうか。
 民主から何から含めて変わらなかったですし、政治に関心をもって見ていた人なら、枝野(幸男・立憲民主党代表)が原発事故の直後に「ただちに影響なし」と言った人と知っています。さらにその後撤回したわけでもありません。その人を信用しろと言われても、そんなテンションにならない。エリートの遊びですよね。どっちがましかという話。どちらにも正義はないでしょ。
 
――リベラル勢力の衰退が叫ばれる中で、反安倍の世論。復活には何が必要か。提言はありますか。
 リベラル勢力が復活することは無理だと思います。要はリベラルとは、左派でも右派でもないということですし、労組とかそういう基盤なくやるんだというのが一つの筋になってますから。要は選挙とか、そういう場所以外においてストライキとかで強制しようという論理の筋道がない以上、彼らはじり貧になっている。復活の道はその先にはないと思います。
 
――そうなると今後、日本の二大政党制は成り立たないものなのでしょうか。右派とリベラルの対抗軸、自民と民主が戦ったような状況にはなり得ないと?
 あれは一時的にそういう状況になりましたが、じり貧になる過程の話だろう。他の国でもリベラルの衰退は起きていて、労働者の雇用とかということを掲げる自国第一主義を掲げる政党が大きな潮流を形成し始めています。構造は日本と同じ。労働組合が腐ってしまい、自分たちの支持基盤が……。LGBTとかももちろん大切だとは思いますが、自分たちと切り離された市民運動の領域、ある種エリートの領域に支持基盤を求めていく限り、具体的に生活が崩壊していくとか、そういう人たちが誰に頼って生きていくのでしょうか。そういうことを考えたら、やはり国家主義とか、そういうものが代替していく。今までの自民党は国家主義をあまり出しすぎないようにしていました。2000年の前までは。そのあたりを自民党が押していくようになってきたのがこの15年間くらいの歴史です。
 
――保守と革新。そもそも今の自民党は思想的には右派、保守。政策的には本来革新政党がやるべきものをやって支持を集めているように思います。
 まさしくその通り。日本は労働運動がめちゃくちゃ強かったという歴史が60年代にあるので、都市では社会党に勝てなかった。農家とか農協とか地主が自民党員だったりして。「具体的な信頼」を作っていったというのが自民党の強さだったと思います。
 
――土着的な部分?
 そうですね。だからこそ自民党が都市から農村への再分配策とか、社会党に負けない社会保障政策とか。自民党は結構、積極的に打ち出していきましたよね。
 
――6070年代はそうだと思いますが、80年代は保守への回帰が起きました。その後左に戻って、小泉政権で更に新自由主義という形で保守に戻って、その後また戻ってきたという印象。自民党も揺れ動いてきた印象があります。
 それは踏み込んで、雇用を破壊して、柔軟な雇用を作り出して、労働者からの搾取を強める。当然労働者からの人気は落ちるので、ある程度揺れ戻しながらバランスをとって政権を担ってきた。
 
――本来は揺り戻しと言うのは政権交代で起きるもの。米国は共和党と民主党の間で起きます。
 立憲民主党の枝野さんなんかは「30年前だったら、自民党宏池会に自分がいるはずだ」と自分で言っています。そういう意味では、野党も自民党のような世界観で物事を打ち出して勝負している。となると政権交代をする必要がない。選挙でそれ(政権交代)が起こることはあり得ない。なぜなら選挙はテストみたいなもので、日常の力関係がそのまま表れるから。資金力がまず要因。何回選挙しようが、安倍政権がどんだけひどいことをやろうが。
 
――一方で小選挙区制度だと逆転が起こり得るのかなと思うのですが再度政権交代はないのでしょうか? やはり民主の失敗が大きすぎたという考えですか?
 そのことを左翼の方も総括していない。だから信頼されていない。そういうことがかなり大きな問題。自民党が大こけしても代わりに出てくるのが希望の党みたいな(笑)。「別に思想的には大して変わらないよね」という野党が出てくる。
                                        (つづく)
 

やはり、「仮釈」を隠蔽。
文章上は「仮釈」の用語が3回出てくるが、そのすべてが否定的だ。
事実上、四国地方更生保護委員会には仮釈放申請しているにもかかわらず、運動上は否認するというフタマタまたは二元化だ。

更生保護委員会闘争に突入 無実なのに43年 星野さん解放を! 革共同救援対策部

発行日: 2017年10月 9日 第2883号 弾圧との闘い
週刊『前進』04頁(2883号04面01)(2017/10/09)

更生保護委員会闘争に突入
 無実なのに43年 星野さん解放を!
 革共同救援対策部
【以下は抜き書き】

 「30年問題」めぐり決戦に
 「しかし、実際にこの手続きで仮釈放になった人は一人もいません。」
 「『私は無実だ。私はやっていない。中村巡査への殴打をしていない。火炎びん投てき命令をしていない。これは一点の曇りのない真実だ』…
 「更生保護委員会は、この星野さんの叫びを真っ向から受け止めよ。」
無期刑の終身刑化許すな
 「無期受刑者の仮釈放は、90年代後半から減り続け、この10年間は連続一けたになっています。…無期刑の終身刑化を打ち砕いて絶対に取り戻そう。」
大坂さんの裁判と一体で
 「7月に徳島でかちとった星野・青年集会で、「ゼネストで星野さん・大坂さん解放」が力強く宣言されました。…衆議院選挙闘争に総力で決起し、11・5全国労働者集会と11・26星野全国集会の大成功をかちとろう。」

 ▲
▲前の記事の平良 修さんの◎資料 09年の総会から から一部抜粋する。

 
 「この新しい方向性が示された結果、政治色が強く浮かび上がる構図になった。
 と同時に、星野暁子さんの「全ての人を解放するという政治思想に立つ運動の中で文昭を解放するという原則に立ちながら、自分の最も得意な方法で参与して欲しい」という趣旨のビデオメッセージに、市民運動の立場から大きな共感が示された。
  これまで、控え目であった政治色が前面に出る新しい方向性について、市民参加による運動の広さを要求する声が出たことに対して、「両者は対立するものではない。労働者や労働組合の闘いが中心に座ることで、もっと広い市民参加も可能になる」との反論がなされた。政治色を強く出す鋭角的運動にするのか、市民参加を容易にする鈍角的な手法でいくのか、両者をどう調和させるか、運動形成についてのこの基本的課題に適切に対処しなければならない。」

【補足】 「ゼネスト…衆院選…11月集会」云々はここでいう「政治色」であり、そのすべてでもありそうだ。こういう議論を一般には「政治的引き回し」というべきものではないか?かつての共産党・民青と区別がつかない。
 今の中核派にはそんな初歩的な「歴史的・常識的」な議論の基礎すらも失われてしまったようにすら感じる。
 肝心なところは、仮釈なのかそれに反対なのかすら明らかにならないことだ。
 家族や友人の声に押されてこっそり、と中途半端に仮釈放申請に舵を切り、失敗すれば申請自体なかったことにしたい、そんな思惑を感じる。 

 いまや中核派自体が往年の中核派でもなく、かつての情勢や社会でもなく、「71年渋谷暴動」とその時代・空気を彷彿とさせる呼びかけでもなく…。

7月14日、星野全国総会(午後)に先立って、四国地方更生保護委員会への仮釈申し入れが行われた。家族、弁護団、平良修さん、狩野満男さんが文書を提出した。総会はいわば事後承認の場。
 うち、共同代表の平良修さんの仮釈請願書だけがアップされている。
 一連の記事ではほぼ「仮釈放」の文字がなく、「解放」などと言い換えられている。
ただし、組織内では「仮釈」のことだと広く確認されている。「星救」関係者のあいだでも同様らしい。いわば「転換」と引き回し。こんなことでは「星野解放」などどんどん遠のくばかりだ。
 判決確定から30年、法務局に義務付けられた仮釈の検討という「30年問題」は来年の7月までの1年間とされる。「最後のチャンス」と言えなくもない。
 再審のあまりにも狭き門。仮釈30年問題もじっさいには針の孔よりも細いとされる。そんな中で少しでも可能性をこじ開け、何としても星野解放を実現したいという思いは少なくとも公表された資料には見当たらない。
 
 直近の経緯を検証してみた。


7月14-15日、
 全国総会記事と基調報告全国再審連絡会議
7月14日午後、とくぎんトモニプラザに全国の仲間が集まってきます。その顔には、「この1年の闘いで星野文昭さんを取り戻す」という決意があふれています。会場には各地の活動報告が並べられ、今年2月に急逝した奥深山幸男さんの遺影も飾られました。…【中略】… 午前中には、高松市にある四国地方更生保護委員会への申し入れが行われました。家族、弁護団、平良修さん、狩野満男さんが文書を提出し、1時間にわたって訴えを行いました。
 7月から、星野さんの解放をめぐる審理が始まります。委員会は1年以内に審理を開始することになっており、2人の委員が実際に星野さんと面接します。

▲大会記事や基調報告には「解放」の文字はあっても「仮釈」の文字はない。「再審」や「解放」の文字を「仮釈」と読み替えてほしい。

無実で獄中42年 星野文昭さん即時解放を 沖縄はじめ100万労働者人民と結び労働運動と国際連帯で奪い返そう 革共同書記長 天田 三紀夫

発行日: 2017年2月27日 第2823号
▲こっそりと?「仮釈」が出てくる。ただしその主語は法務省や星野さんだ。


星野さん解放へ新段階 四国更生保護委員会に申し入れ 7月14、15日
徳島刑務所無期懲役囚・星野文昭さんの仮釈放についての請願書 2017年7月14日「星野さんをとり戻そう!全国再審連絡会議」共同代表・平良修
▲上述の「文書」などは「仮釈放についての請願書」であることが岡山のブログでやっとわかる。

星野文昭さんのメッセージ
   無実だから直ちに解放を 7月14日 星野文昭
▲同じく「仮釈」の文字はない。

全国水平同盟第6回大会 特別決議
7月16日
「これらの闘いの前進で石川一雄さんの再審無罪と全証拠開示百万人署名で星野文昭さんの再審無罪釈放、大坂正明さんを早期に奪還するために全力で闘いましょう。」
▲短い文ではあるが、他の文言も併せて「仮釈反対」とすら読める。

◎資料 09年の総会から
平良修さんの議論のまとめが参考になる 6月26日(金)~27日(土)

現全国総会を踏まえて 「一日も早い再審・無罪、釈放を」
                                                           共同代表 平良 修 

 2009年全国総会は、6月26日(金)~27日(土)に開かれ、113名が参加した。事務局提案の「総括と運動方針(案)」を軸に真剣な論議がなされ、支持され、7点にわたるまとめが決議された。以下、決議に至るまでの経過を超略述する。
▲短いまとめなので繰り返し読み込んでもいい。特に「運動の方向性」がポイント。

【注】詳細は随時、補充または新規記事で補いたい

毎日新聞と『前進』の記事を並べてみた。

毎日新聞 2017915
中核派活動家が無罪主張 大阪地裁初公判
[大坂正明被告(67)をかくまったとして、犯人蔵匿罪に問われた同派活動家、鈴木哲也被告(53)の初公判が15日、大阪地裁(伊藤寿裁判長)であり、被告側は「不当弾圧だ」などと無罪を主張した。…【中略】…弁護側は、鈴木被告が部屋にいた男を大坂被告とは認識せず、故意はなかったと主張した。 」

鈴木哲也同志、圧巻の陳述 大阪地裁 犯人蔵匿デッチあげ初公判

発行日: 2017年9月25日 第2879号 弾圧との闘い
週刊『前進』04頁(2879号04面04)(2017/09/25)

鈴木哲也同志、圧巻の陳述
 大阪地裁 犯人蔵匿デッチあげ初公判

 9月15日、「犯人蔵匿」デッチあげ弾圧裁判の初公判が大阪地裁第2刑事部(伊藤寿裁判長)で行われた。鈴木哲也さんは5月18日、広島で逮捕され、その容疑で不起訴になったにもかかわらず、1971年渋谷暴動闘争で「殺人罪」をデッチあげられ指名手配されていた大坂正明さんをかくまったとして不当にも再逮捕・起訴されたのだ。
 裁判は傍聴席が100席近い201号大法廷で行われた。入室に際し身体・持物検査を行い、多数の廷吏を配置するなど、大阪地裁では異例の警備だった。近畿救援会をはじめとする傍聴者が法廷を埋め、「すべては戦争・改憲にむけた弾圧だ。完全黙秘・非転向で闘う鈴木さんと団結し闘おう!」と裁判に臨んだ。
 圧巻は鈴木さんの冒頭意見陳述だった。鈴木さんは、始めに今回の一連の警察・裁判所・検察の行動について怒りを込めて弾劾した。次に渋谷闘争に決起した星野文昭さん、大坂正明さんたちの闘いは、現在の沖縄を見るとき、その正しさが明らかであるとし、国家権力による両人への弾圧との闘いと一つになって闘う決意を述べた。
 そして最後に、「国家権力の不当弾圧に対し人間的共同性をかけて対決することは、誇り高い解放的な事業である」「支配階級の暴虐は、法の名のもとに行われてきた。労働者には法を超えて自らの正義と利害を貫くことが必要な時がある。私にかけられた不当弾圧に対し、心底から怒りを燃やし、本裁判を徹底的な階級対階級の非和解の戦場として設定し、最後まで闘い抜くことを断固として宣言する」と結んだ。法廷は感動の拍手に包まれた。
 その後、裁判は証拠調べに入ったが、検察の提出した証拠には物証がなく捜査報告書のみで裁判官も驚く内容だった。
 傍聴者が「異常な警備をやめろ!」と怒りを込めて弾劾した。
 近畿救援会は、裁判に先立ち、大阪地裁・高裁前で「朝鮮侵略戦争・改憲・労働法制改悪絶対反対」「戦争・改憲・共謀罪に反撃を」と呼びかけるビラを配布し、公判闘争への結集を呼びかけた。(写真
 次回公判の11月17日(午後1時30分開廷)に結集しよう。
(近畿救援会・A)


【注】
[犯人蔵匿と隠避]Wikipedia
判例・通説によれば、蔵匿とは、官憲の発見・逮捕を免れるような隠れ場を提供することをいい、隠避とは、蔵匿以外の方法により官憲による発見・逮捕を免れさせるべき一切の行為を含む(大判昭和5年9月18日刑集9巻668頁)。

[同  ブリタニカ]
罰金以上のにあたる犯罪を犯した犯人または拘禁中に逃走した被拘禁蔵匿したり,隠避させる罪 (刑法 103) 。蔵匿とは,隠れる場所を提供することによって,隠避とは,逃走資金や変装用具などを提供することによって,それぞれ,官憲が犯人または逃走者を発見,逮捕するのを妨げる行為をいう。この罪は, 証憑湮滅 (しょうひょういんめつ) 罪 (104条) とともに,国の刑事司法の適正な実現を保護するために設けられている。しかし,親族が犯人または逃走者の利益のためにこの罪を犯したときは,その刑を免除することができる旨の特例も規定されている (105条) 。

[朝日]
罰金以上の刑にあたる罪を犯した者や、捜査当局などが拘束中に逃走した者の発見・逮捕を妨げる罪。法定刑は2年以下の懲役か20万円以下の罰金。逃走資金を与えたり、身代わり犯を立てたりする行為も含まれる。(隠避。蔵匿も量刑は同じ)

**公妨。ちなみに公務執行は、3年以下の懲役もしくは禁錮または50万円以下。

組織犯罪処罰法の特則[編集]

組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律には本罪の特則規定が置かれており、禁錮以上の刑が定められている罪に当たる行為が、団体の活動として、当該行為を実行するための組織により行われた場合、その罪に係る犯人隠避、証拠隠滅、証人等威迫に該当する行為については、3年以下の懲役又は10万円以下の罰金に処せられる(組織犯罪処罰法7条1号、2号、3号)。

▲大坂氏の逮捕・起訴を「でっち上げ」と言っている時に、こんな訴訟方針で良いのか、という疑問が寄せられている。どうだろうか?
マスコミの記事と『前進』のどちらが事実を書いているのかという、基本的な疑問もある。
【注】Uチューブから鎌田インタビュー
「2017/05/25 に公開」とある。
大坂氏の逮捕前。「犯人隠避罪」などを理由に、大坂氏防衛に言葉を濁した。(たかが隠匿罪で専従活動家しかもその指導部が…)
https://www.youtube.com/watch?v=_pchQ36LPpU
Uチューブで「中核派」や「前進社」などで検索するとテレビ東京やTBSなどでの特集も見られる。ただ、短く編集されているものも。

以下は朝日新聞デジタルと『前進チャンネル』前進チャンネルから。日付けは記事の掲載日。


   5月24日 (朝日)
「男と大坂容疑者の母親(死亡)が親子関係にある可能性が高いことがわかった。」
2:38         


6月7日 警官殺害容疑で再逮捕(朝日)
「同庁公安部は7日午前、渋谷暴動事件に絡む殺人など五つの容疑で大坂容疑者を再逮捕し、発表した。」
「 捜査関係者によると、渋谷暴動事件を巡って逮捕された女性の活動家が事件直後、「大坂容疑者が中村恒雄巡査(当時21、殉職後に警部補に昇進)の襟元に油を注ぎ込むのを見た」と供述したという。また、すでに逮捕された大坂容疑者以外の6人のうち一部の共犯者が、大坂容疑者が中村警部補を仲間数人で取り囲み、「殺せ殺せ」と叫んで鉄パイプなどで頭や腹を何度も殴っていたと供述。公安部は今後、共犯者の再聴取も検討している。」


6月28日、起訴。
6月30日(朝日)
 1971年の渋谷暴動事件で警察官を殺害したなどとして、東京地検に殺人など五つの罪で起訴された中核派の活動家大坂正明被告(67)について、大阪地検は29日、大阪府警の捜査員に対する公務執行妨害容疑では不起訴処分とした。処分の内容や理由については明らかにしていない。

【注】都合により,未完のままアップします。記事を補充したらその都度、「コメント欄」にひと言書き込みます。当ブログの左端の下のほうの「最新のコメント」欄にご注目ください。
【追】『前進チャンネル』をここで紹介する。中核派(中央派)の機関紙を動画で紹介している。若者受けを狙ったものらしいが、同時に「若者」らしい編集もあり、時には逸脱もありそうだ。それ自体は、一般には「大目に見る」のがいいのかも?
【投稿から】
色んな集会で「三派の残党」を見る。中核派の「学生」は目が輝いていると思う。革マルや解放の二派の「学生」の目が死んでいるのとは大違いだ。
入っては辞める、出入りが多いのも特徴だ。
数か月か数年続く若者は少ない。
それでもやっているうちは「目が輝いている。」

 サンケイの「特ダネ」として、公安の手柄話を披露しているが、今後の為に記録しておきたい。


【逃亡45年・中核派活動家逮捕】
「この部屋には必ず何かある」捜査員の執念の尾行


渋谷暴動事件をめぐり殺人容疑などで警視庁に指名手配され、逃亡を続けていた過激派「中核派」の大坂正明容疑者(67)とみられる男が、大阪府警に逮捕されていたことが明らかになった。45年以上にわたって捜査の網の目をくぐり抜けてきた男の存在が浮上したきっかけは、執念の「追跡劇」だった


 捜査関係者によると、今年1月29日、中核派の非公然活動家、鈴木哲也容疑者(52)=有印私文書偽造・同行使容疑などで逮捕=が、府警がマークしていた中核派活動家の女と大阪府内で接触したのを、府警の捜査員が確認した。


 鈴木容疑者は昨年1月、大坂容疑者の潜伏先だったとされる東京都北区のアジトを警視庁が家宅捜索した際、公務執行妨害容疑で逮捕(後に釈放)された「大坂容疑者をかくまうグループの一人」(警視庁幹部)とされる人物。女と接触後、兵庫県相生市のホテルに偽名で宿泊した。


 捜査員は翌日、ホテルを出た鈴木容疑者の尾行を続けた。電車やバス、タクシーを何度も乗り換えた末、広島市安佐南区にある5階建てマンションの3階の角部屋に入るのを確認した。


 「この部屋には必ず何かある」。捜査員が張り込みを始めて数日後の2月初旬、マンションから年配の男が現れた。これが大坂容疑者とみられる男だった。


 府警は慎重に2人の行動確認を続けた。連れだって外出することはなく、特に男は、「ほとんど外出せず、出かけてもすぐに部屋に戻ってきた」(捜査関係者)という。


 男の正体がつかめず膠(こう)着(ちゃく)状態が続く中、事態が急変したのは5月中旬。鈴木容疑者と接触していた活動家の女が、別の事件で兵庫県警に逮捕されたのだ。「(鈴木容疑者らが)アジトを移す可能性がある」。府警は急(きゅう)遽(きょ)、鈴木容疑者の偽名宿泊の件で逮捕状を取り、5月18日朝にマンションを急襲。大勢の捜査員がなだれ込む様子を見た住民男性(28)は「何事かと思った」と振り返った。


 部屋の間取りは2LDK。布団や食器類があり、冷蔵庫には食品が残っているなど、生活の痕跡がうかがえた。捜査関係者によると、鈴木容疑者と一緒にいた男は白髪の短髪で黒縁眼鏡をかけていた。大坂容疑者の22歳当時の手配写真と比べややふっくらしているが、唇など「目から下の特徴が似ている」という。


 今後の捜査の焦点は、逮捕した男を大坂容疑者とどのように特定するかだ。

 キーワードとしては、ともに逮捕された鈴木氏、「大阪府内で接触した」女性、兵庫県警などになる。昨年1月の「東京都北区のアジト」も大きい。
 今の中央派は「武装闘争」を完全に放棄したものの、「歴史上の中核派」の”正統な後継団体”=”唯一無二の革命党”として、古参や若者たちに打ち出している。そのキーワードが「星野・奥深山・荒川ー大坂」だった。
 その中央派が大坂氏を守り切れないという大敗北を喫したということなのだが、その深刻さを直視する姿は見て取れない。
 大坂氏も逮捕時には67歳。「大坂氏」を主語にした議論が大事だと思うのだが、奥深山氏の逝去関連の事態とともに、主語のブレや曖昧化が気になる。今回はこのことだけを指摘しておこう。

5月18日、大阪正明氏広島市内で「公務執行妨害」で逮捕。
6月7日、渋谷暴動の「殺人罪」で本人と断定し再逮捕。
6月28日、起訴。
ひとまず逮捕に関する新聞記事から。

 

渋谷暴動事件で指名手配 大坂正明容疑者か 中核派拠点の捜索で逮捕の男

サンスポ2017.5.23 00:36

 昭和46年に警察官が殉職した過激派による渋谷暴動事件をめぐり、殺人容疑などで警視庁が全国に指名手配していた過激派「中核派」の大坂正明容疑者(67)とみられる男の身柄を大阪府警が広島県内で確保していたことが22日、捜査関係者への取材で分かった。警察当局はDNA型鑑定を行うなどして身元の確認を進める。

 渋谷暴動事件は46年11月14日に発生。沖縄返還協定の批准阻止を訴える中核派などのデモ隊が、渋谷駅周辺で機動隊員や派出所を襲撃し、新潟県警から応援派遣されていた中村恒雄巡査=当時(21)=が火炎瓶を投げつけられ、大やけどを負い死亡した。
 捜査関係者によると、府警が今月18日、兵庫県内のホテルに偽名で宿泊したとする事件の関係先として、広島県内の中核派の拠点を捜索し、現場にいた男を有印私文書偽造・同行使容疑などで逮捕した。一緒にいた別の男も公務執行妨害容疑で逮捕したが、特徴などからこの男が大坂容疑者の可能性があるという。
 大坂容疑者は渋谷暴動事件の実行役とみられ、殺人容疑などで指名手配されたが逃走。共犯とされる男の公判が病気治療で中断したため公訴時効が成立せず、平成22年の刑事訴訟法改正で時効は廃止された。
 大坂容疑者の動向はほとんど不明だったが、警視庁公安部が都内などに潜伏していたとみて捜査。28年には中核派の非公然活動を担う「革命軍」の拠点になっていたとみられる東京都北区の賃貸マンションを家宅捜索していた。
 警察当局は、大坂容疑者が病気を抱え、北関東などで治療を受けていたことも割り出しており、足取りを追っていた。(産経新聞)

  確かに神奈川は「ヘル・角材・火炎瓶」には最後まで乗らなかった。
  いや、「第1の11月」に初めて「持った」というのが正確かな?
  そうだね。天田さんも「11月」の反戦被告団の代表だったはずで、その意味では「白ヘル火炎瓶反戦」の人格的体現者ともいえる。

  とはいえ、天田さんをもって「神奈川方式」の体現者とするには無理がありそうだ。
  そうだね。オレが71年に神奈川に移籍したときの県キャップは「お医者さん」だ。横浜南部地区?のキャップは「ヤナセ」さんだった。天田さんはその意味ではオレにとっては「同格の大先輩」とでもいう位置だった。逮捕・起訴そして解雇で、右派労組の書記に潜り込んでいたと思う。
桜  「同格」?全国委員か否かとか、県か地区の「LC」かということでは、各の違いがあったのでは?!

  神奈川は労組や社会党との結構太いパイプもあったから、そんなことも「フツーに」できたんだよね。(【注】竹中意見書の中身から)
  神奈川と陶山さんの指導性ということでは諸説あって、「神奈川型」の成立と温存の関係や第2次羽田での陶山さんの立ち位置など、検証すべきはいくつもある。何しろ「京浜工業地帯」だしね。もちろん、対革マル戦の戦略構想まで…。ま、田川さん問題まで入れれば知らないことばかりだ。

  この時期を総称して「第4次分裂(サミダレ型)」とでも捉え返すべきなのかもしれないね。「分裂」の認識も自覚もないままに過ごしてしまったこと自体が、「ああっ」だけどね。
松  政治局もほぼ30代、多くの活動家はハタチそこそこ。若かったねー!

  天田さんが対革マル戦争で「常任の党」への転換の中で「3段跳び」で神奈川のキャップに抜擢されたこと、「神奈川の実績」を背景に書記長まで上り詰めたこと。「神奈川型」を作り上げたのは別の人たちなのに、その「神奈川性」ゆえに疎まれたこと。矛盾というか、歴史のパラドックスというか?
   「レーニン主義の党」と「ボルシェビズム」と「根性」が一体だったとは。そういえばそうだった気もするが。
  中野さんの労働運動路線に乗りながら、党機関としては結局はまともな「労働者の党」への転換はできず、失策を重ねて中野さんの失望・絶望を呼び起こした…。
  清水さんが”比較的短期”に限る「転換」を意図していたことも今では見えてきている。言を左右にして実際に何かまともな構想や思いがあったようには見えないが。  自称「清水左派」が「多数派」を自称できる人事をしていたこともあり、「天田が中核派をダメにした」とか「アマダはダメ田」とかだけいうのはダメだと思うが、
  竹中意見書からすれば、反戦の先駆的成功事例でも有り、対中央では中間主義でも有る神奈川。その地平をひたすら食いつぶしてきた天田さんの「成功秘話?」とも言えそうだが…。

私の『狂おしく悩ましく』の本体にこのころの雰囲気がわずかに出ている。参考まで。

竹中意見書はA5で50ページに及び、議論は多岐にわたり、ここでは安易な紹介も難しい。
  議論の核心からは反れるが、「清水・天田関係」の機微に触れる「神奈川問題」を紹介するに止めよう。【以下引用】

  この中にあり、中央路線に反対する人たちの中で「神奈川県反戦をめざせ」という主張がある。…非常に無念ではあるが、この主張にもくみしえない。
  …神奈川型反戦が、現在の中央指導部のとっている路線の中では、いかに不可能であり、かつまた神奈川型反戦をめざすことがいかに中間主義でしかないのかは、次の3点によっている。
  第1点はまず何よりも、神奈川型反戦は中央にとっては日和見主義としてしかうつらない故に打倒物なのだ。
…第2点は、神奈川反戦は多くの単組青婦部の団体加盟をもって構成されており、そこに動員力も労働者性も存在するのだが、こともあろうにそれを清水中央政治局員は「社民とベタベタなのだ」と唾棄しているところにある。… 
   第3には、神奈川反戦が多くの単組青年部を中核部隊とし、ルンプロや学生に発言権をもたせていないまでになっていることはどうしてなのか、についての認識が不十分であるか、看過されている。労働者階級の内部での党建設という視点からみれば、神奈川以外は全国的に見て神奈川型反戦の前段階にあることを無視してはならない。…

  『敗北』本に紹介される清水さんの天田=神奈川方式嫌いは、この当時から一貫していそうだ。「レーニン的オーソドキシー」に(一時的に?)「回帰・転向」して後も何一つ変わらなかったといえそうだ。もちろん、『敗北』本の著者たちも同じこと…。

  もう一つ、「三全総への回帰や再評価」も大事だが、その場合、この「意見書」も他の諸氏や他の資料とともに避けては通れない。
  たしかに、意見書は用語として「革マルと同じような言い回し」ととれる面も少なくない。  「労働者本隊」論ほか…。
   けれどここには時代の共通用語もあること、「反スタ」の基礎用語でもあることを改めて肝に銘じ直したい。中核派の創生世代は、共産党=スターリン主義の克服(脱却)のために、こんな議論を積み重ねてきたのだということを知るだけでも大いに意味がある。「痛苦」を持って…。
  後の結果から思い起こせば、意見書は少なくとも中核派の70年代~80年代への「警鐘」としての意味だけでも吟味する価値がある。
  「トロツキーやローザを媒介した反スタ」のように、あるいは日本の「アナ・ボル」論争のように、同時代の人を媒介することを通しての総括という視点を大事にしたい。

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