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67年から70年代前半にかけて、政治局員や最高レベルの指導部が次々に離脱した。以下、「党内権力闘争」レベルで思いついたままに「メモ」として。
①竹中氏や浜野氏らの意見書と「関西地方委全員」の解任
②小野田氏ら首都圏学生運動の大量の離反と「反戦連合」
③71年の田川和夫さん。政治局員の北川さんや弘田さんも広くはこの時期に離脱している。
④澤山保太郎さん
⑤「試練派」の上口孝夫さん(ブログ『試練』とは無縁)
⑥「党友」扱いにされ、地下に放置された陶山さん
    この辺を総称して「第4次分裂(サミダレ型)」または「第4次、5次」というべきか??
    同時に、数多くの中央・地方、地上・地下での「党内抗争」の実相と数え切れないほどの離脱…。あらゆる領域で「党の担い手」や有り様が変化したこと。PBだけの視野でなく、実は「あらゆる」が大事なのだが…。
(尾形『私史』でも地下生活での実相が一部描かれている)
本多さんの虐殺と清水時代。
⑦「3・14」本多さんの虐殺=暗殺。「革共同は死んだ」
清水さんの「襲名」。清水さんのカリスマ性の確立と頂点の時代。
3・14直後の清水・野島関係を含めて。
80年代の法大支部の集団「分派」ほかをどう位置づけるか?

91年5月テーゼ関連で。
⑧90年以降の「転換」を受けての各地方.県党での分裂・反乱・離脱と一連の指導部の更迭
⑨野島・秋山両氏の失脚
   野島さんや 秋山さん事件は「PBによるカネとセクハラ」という一大不祥事であるが、同時に「PBの失脚」であり、「権力と路線」が交錯した問題でもある。少なくとも「清水専制」の確立のもう一つのメルクマールとすべきか?それとも全体として「動揺の開始」とすべきか?
⑩中野VS「PB主流派」の抗争と清水バランス政治。
小西誠・白井朗さんらが中核派と袂を分かった件。

そして06年関西の「3・14」とその後の一連の事件(「党の革命」)。
   91年の「転換」以来、なんど15年もの間、2つかもっと多くの路線や「それぞれの党」が「一丸」の名の元に並存・抗争してきたという事実こそが改めて衝撃だ。

  竹中意見書を読んで、思いつくままに羅列してみた。
  私自身は、⑦または⑨くらいまでが「私にとっての中核派」なのだが。
  「路線」に集約できない、思想や綱領戦略などと色んな課題はあるが今回は略。

以降、竹中意見書関連は「新綱領と党史」に移します。
◎以下は」マル共連2軍から

中核派の4回大会はいつ開かれ何を議論したのか?
竹中意見書に67年12月29日本多
「NC関西地方委全員を不信任する。
木下PBを常駐させ,そのもとで関西を再建する。
理由①10・8以降の京大でのブントとの党派闘争の敗北(と無反省)
②関西での地区反戦でのブントとの党派闘争の敗北
③67年9月の4回大会で美濃部支持・美濃部都政擁護方針への強い反対
④公務員賃闘における教労委大阪支部の経済主義・組合主義」
という条があり4回大会に言及しているが、公認党史でこれに触れたものはない。3回大会、5回大会は出てくるのだから当然4回大会もあったはず。「政治局の敗北」に4回大会で陶山が美濃部支持方針を批判した云々の記載があるが、ただし時期は67年12月としている。


   長ったらしいタイトルになってしまったが。内容を紹介しようとすればこんなことになるのだろうか?
  序章から第Ⅱ部の「内乱・蜂起をめざした革共同の敗北」の第Ⅳ章「三里塚…」までは時代と世代を加味して、同世代にも若者にも読める展開になっている。時代を髣髴とさせる。
   全体を大きく生きいきと描く工夫、折々の描写と節々での総括点の提示は、自分自身と重ね合わせながら読み進むことができる。さしあたりこのあたりまでは多くの人と共有し、ともに総括する土台にしたい。ここまででもぜひ一読の価値ありだ。

  三里塚で「3人の大隊長(現地指導部)」の1人だったという尾形さん。71年渋谷暴動でも作戦予定としては星野さんらの部隊と合流してその指揮を執るはずだったという。(関係者の証言から)
   そして「軍」として関西・芦屋で逮捕される。関西では「1人住まい」のアジト生活。そしてやはり聴くところによると、関西では「非公然」のまま、地区党の会議に参加していたという。このへんは東の軍と西の軍そして地区党のありようの差異が大きかったということも始めて耳にした。
   だからこそ人一倍「内戦・軍」と沖縄と「星野」にこだわり、離党後も星野陣形や沖縄陣形にこだわり、関わり、さまざまな援助をし続けたのだという。希少な人材だったと人は言う。いいかえれば、残された党にはそういう人格がいなかったかまれにしかいなかったことの結果でもありそうだ。(この辺は荒川・荒木氏らの存在感とつながりそうだ)

   尾形氏は獄中生活をかなり描いていて、そこでの問題意識も語られている。文中には無いが、浅草橋戦闘の後、獄中被告への指導や援助が長く途切れていたときがあったそうだ。そんな時、同じ獄中から、若者たちに親身になって指導し世話役を買って出た数人の1人として語り継がれているという話も聞いた。「何であれ、切ってはならない人」だったという。(つづく)
 

同じく『資料蒐集』から
尾形さんが荒川碩哉さんとともに、出てくるので参考までに。
「甘糟との会談の記録」として公表されたものだ。
荒川碩哉事件の最初の顕在化ということとしても改めて参考になる。

 【13年】5月8日に荒川は拘束された。坂木【政治局員、労対議長】、有岡【内田透、東京西部地区委員】、新井(中島)【東海地方委員会議長】、坂井【東京西部地区委員長】が自宅に来た。最初は、自宅に上がり込んで尋問してそのまま自宅に置いておくようだったが、(荒川)みどりが都合が悪いと断ったため、ハワイ(杉並区上高井戸の事務所)に移動した。荒川は、11日に沖縄で尾形【尾形史人。1997年離党】と会う予定だった。みどりには、そのことは告げてあった。」
「11日に沖縄にいる尾形から甘糟に電話があった。『荒川が来ないのだが、どうなったのか?』と。自分は、『荒川のことだから日時をまちがえたのではないか』と答えた。その翌日会う約束をしていた星野暁子が尾形に電話してきた。『党中央から、尾形と会うなと言われた』と。【尾形からその連絡を受けて、】それで、自分としては、荒川が拉致・査問をされているのだろうと考えた。」

 【荒川は星野裁判闘争の重要な一角をしめ、獄中の星野も信頼しており、連れ合いの暁子とも運動上の関係が強かった。星野裁判闘争の性格上、沖縄の位置が大きく、関係者はしばしば沖縄に行っている。沖縄には尾形がいる。5月11日には荒川が沖縄に行って尾形と会い、星野暁子も翌日合流することになっていた。この三人の沖縄での会合が党中央によってつぶされたと受け止めた甘糟は、非常事態が起こったと推定した。荒川が密かに反中央の動きをしていたことを知っていた甘糟は、拉致・査問と察知した。なお、なぜここで党から逃亡した尾形が出てくるのか、筆者らは疑問に思っている。】

資料:甘糟との会談の記録(※27日に甘糟が読んで朱入れした記録文書)

   この時点では甘糟氏はすでに年末には反党フラクで除名?。
たしかに星野裁判になぜ尾形がという疑問は蒐集サイドからは「疑問」だろう。
   ここでは「逃亡・離党」後もなお、尾形氏が荒川氏とともに、星野闘争と暁子さんを支え続けてきたということを指摘するにとどめよう。
 
  なお「星野裁判闘争」という表記には「蒐集」側の立場・思惑の表明もありそうだ。「裁判闘争」が適切なのか?それとも「星野再審」なのか?それとも…?
  ちなみに全国連絡会のHPは「再審」とともに「星野さんに自由を! 星野さんと共に歩もう!」というタイトルだ

   また、2016年6月19日「星野文昭さん解放全国集会」もある。https://www.youtube.com/watch?v=USrOWYcPIes

   「ただちに釈放を」という表記もある。
      



「アジアと小松」さん。「小松基地問題研究会」の書評も。

〈資本主義の終わり論2〉さんの論評は、掘り下げた議論をしている。

   「2」以前の論評も参考に。

    尾形氏の『革共同50年 私史』のアマゾンレビューを転載する。
第一声としては至当と言えそうだ。
   転載に当って、段落と字下げをした。ブログ上では読みにくすぎる。本来の段落は1行あけにした。

投稿者 孔明 投稿日 2016/10/31

   これまで中核派自身が出した『現代革命への挑戦』や元政治局員水谷・岸両氏の『革共同政治局の敗北』などが出ているが、中核派が歩んできた60年代後半以降の運動、組織、理論の総括にまともに立ち向かったとはとてもいえない。
   前者は、スターリン主義と同様の「無謬の50年」を自画自賛するもので、後者は、元政治局員という立場から政治局内部の暴露を通して特定の政治局員の思惑によって中核派の運動路線が決定されてきたとするもので、自分たちの「正当性」を主張するものでしかない。

   しかし、政治党派の運動というものは、たとえ一部の最高指導部の考えに規定されている面があるとはいっても、その運動の担い手たちや大衆的基盤の反応、バックグラウンドとしてのその時々の政治的、社会的背景などを無視して「総括」できるものであろうか。この本の著者尾形氏は、組織内の立場からすれば、最高指導部の下にある基幹指導部として活動してきた人であり、路線や政策の決定に直接携わったわけではないが、運動が現実に展開される「現場」の活動家として自分が担ってきた中核派の路線が、本当に大衆的気分や時代的要請にあったものだったのかどうかということの総括を真摯に試みている。

    著書の大きなテーマは、60年代後半から70年初頭にかけてのあの激動的時代とは何だったのかということ、そして70年代初頭以降の中核派の革命戦略である武装闘争路線=革命戦争についてである。
   特に後者についての論述は、思想的、運動的、組織的、路線的など多角的な視点から大きな問題点を提起している。
   著者もこの本を書いた動機を指摘しているが、おそらく三桁にも及ぶ戦争での死者、自殺者、精神障害に陥った人、戦争に伴う犠牲でその後健常人としての人生を送ることができなくなった人等々、凄惨という他ない「闘争」が「革命」の名の下に20年にもわたって続けられてきた。
   そのことへの、なぜ、どうして、という自問に、中核派の当事者として必死に答えようとしている姿勢がにじみ出ている。ただ、一つ気になることは、この戦争の直接の担い手でもあった著者自身の内的な切開という視点が薄れていることである。著者は、出版を前にしてがんで逝去した。それは、次に書くべき課題だったということであろうか。

   この問題提起は、70年代以降、武装闘争路線を採用してきた諸党派や諸グループの問題にも通底しているだろう。
   「事件」の衝撃性から、連合赤軍や東アジア反日武装戦線の「闘争」に関しては当事者をはじめ多くの人たちから論じられてきた。それに対して、犠牲者の数も、それを生み出し続けた戦争の期間も、比較にならないほどの規模で継続されてきた中核派の革命戦争について、これまでまともな議論がなされてこなかった。
   そのこと自体が常軌を逸していたのではないか。中核派の対権力関係の厳格な自己規制という特質が、語るべき多くのものを持っている人たちの口をふさいできたという側面もあるだろう。だが、著者が言うように、それを語ることは「闘争を担ってきたものの責任」でもあるのではないか。

    中核派の革命戦争や70―80年代の武装闘争について議論する機会は、関わった当事者たちの年齢からすると今が最後の機会かもしれない。この間も続いているあれこれの暴露や中傷などではなく、この本が投じた一石を機とするまじめな議論が起こることを期待したい。

   「問題意識」と「内的切開」はキーワードになりそうだ。
  現状は「在庫切れ」に近そうだ。
 

 詳細は後日か誰かにに託して。
 橋本氏の「私史」で69年11月の「爆弾闘争」への移行・開始が始めて「文字化」された(?)。

 以下は橋本氏の記述から。
私の個人的体験として、69年11月決戦の過程で、爆取(爆発物取締罰則)で逮捕されている。60年代以降の階級闘争では新しい地平であった。爆発物取締罰則とは明治の自由民権運動を圧殺するために太政官布告でできた法律である。違反した場合の法定刑が「死刑又は無期若しくは7年以上の有期懲役又は禁鋼刑」と、著しく重い。天皇制の延命のためのこの「法律」が戦後憲法の下でも合憲とされ、生き延びた。ところが私は、この事件で起訴されたときは、爆取ではなく火取(火薬類取締法)違反であった。通常の罰則は1年以下の懲役刑である。私は、このなかに、大衆的実力闘争の発展と結合して爆弾が使われることにたいする国家権力の恐怖が表れていたと思う。爆発物取締罰則をめぐって、権力と労働者人民が運動と裁判の両面で全面的に争うことになることへの、権力の側のたじろぎがあると感じた。【以上引用】


 私自身は現役を離れて近年になってから初めて事実を知った。
 69年の6月に逮捕・拘留され、1年4か月?「獄中」にあり、保釈後は神奈川反戦に移行した私は、いかんながらこの事実を知らなかった。就職したこと(つまり「常任」にならなかったこと)、本社に移籍後は「書記局マフィア」に組しなかったこと、内にこもったこと、それが私の「無知」を加速したのかもしれない。

 さて事実は…。
 11月を前にして、少数の「決死隊」が選抜・抜擢され、ただちに爆弾が配布された。
 この時期急速に拡大した学生組織委員会(SOB])と中核派全学連書記局・中執の一部メンバーが配布・指示したという。
 ある人に拠れば、爆弾は路上に投げられたとき不発に終わった。ある人に拠れば、爆弾を突然手渡されて指示を待ちながら、何の音沙汰もなく当日を迎えてしまった。彼らは連絡もつかずに放置されたまま、爆弾を川原に埋めたと言う。そして離脱した。

 「69年11月」は、大衆的武装蜂起とともに、爆弾闘争として展開されたのだった。
 権力は「爆弾」の事実を隠蔽し、そしてまた政治局も活動家や「大衆」から事実を押し隠した。マスコミもまた。
 
 以降、75年9月の横須賀緑荘での爆発事件(不入斗事件、いりやまず、)と東宮御所前爆弾所持事件で再び頓挫するまで、爆弾の使用は長く封印された。3度目に発動されたのが86年4月・5月の横田・迎賓館ロケット弾戦闘(?)。
 岩手爆取事件は「圧力釜」で大量の警察官を殺傷する新たな武器だった。「対物」から「(本来の?!)対人テロ」に移行しようとして事前に摘発されたともいえる。

 秋山さんや清水さんの「対人本命」論はかなり根深かったようで、70年から「革命軍戦略」に至るまでの総括の中心に置かなければならないように思えてくる。69年の事件は明らかに逮捕前の本多さんが中心にいたとも思える。…そして何も知らされなかった私たち…。(秋山さんや清水さんの指導の「ブレ」は『敗北』本にも一部出ては来るが…)
 仮に69年11月に爆弾が炸裂し、大量の警察官が爆死し、同時にそこにいた活動家たちが死んだり重傷を負ったりしたら、歴史はどう変わっていたろう?当時を振り返って、私はどんな選択をしたろう??今は「疑問」「問題提起」にとどめよう。

以下転載。

 
「革共同五〇年」私史 -中核派の内戦戦略=武装闘争路線をめぐって 単行本(ソフトカバー) – 2016/9/13                              
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内容紹介
歴史と死者への冒涜は許されない

六〇年代後半から七〇年代を彩り、その後もゲリラ戦という形で続いた武装闘争について歴史的評価をすることは、現代人の避けられない仕事である。革共同(中核派)はその渦の中心にいたのであるから、その領域についての評価に積極的に立ち向かうべきだと考える。 この過程では、革共同内外の多く人々がかかわり、人生を左右されて来た。獄中の人となり、指名手配の厳しい探索と対峙してきた人も多い。あるいは権力との武装闘争、革マル派との闘争において命を落とした有為の若者たちがどれだけ存在することか。 現在の革共同が路線転換したとしても、この事実を消し去ることは許されない。それは、歴史と死者への冒涜というものである。本書を執筆する最大の動機は、以上の点にある。 (「序章 何故この小史を書くのか」より)

著者について
一九五〇年、茨城県土浦市に生まれる。 一九六六年、神奈川県立横浜緑ヶ丘高校に入学。 一九六八年、「反戦高協・神奈川県委員会」結成に参加。 一九六九年、法政大学法学部政治学科に入学。全学バリケード封鎖。「七〇年闘争」へ邁進する。 一九七一年、中核派系全学連・副委員長に選出される。のちに非公然活動に入る。 一九八五年、三里塚闘争に関連した容疑で逮捕される。裁判で懲役七年の判決、確定。新潟刑務所に下獄、服役。 一九九二年、満期出所。革共同の活動に復帰。神奈川県委員会に所属。 一九九九年、革共同を離脱。 二〇一三~一五年、沖縄に移住、大きな影響を受ける。 https://www.amazon.co.jp/dp/4784524002/

以下は模索舎のホームページから。

模索舎 @mosakusha 9月2日
【模索舎新入荷】『「革共同五〇年」私史 中核派の内戦戦略=武装闘争路線をめぐって』(著=尾形史人 発=社会評論社) 反戦高協から全学連副委員長へ、そして地下生活、逮捕・獄中闘争・・と生きてきた活動家による「五〇年」私史。(続く)(E)
模索舎 @mosakusha 9月2日
(続き)【模索舎新入荷】『「革共同五〇年」私史 中核派の内戦戦略=武装闘争路線をめぐって』(著=尾形史人 発=社会評論社) なお著者の尾形史人氏は本が完成する直前である8/26にガンで亡くなりました。(E)

【注】今日・あすにも通販大手や書店でも買えそうだとのこと。模索舎でも通信販売ができるはずですが。

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