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防備録 未整理な諸問題
 本多さんの色んな姿の中で、今の私は「革命の現実性」論の真否性の検証が避けては通れない。
 当時の思いや目線と、そして結果が示すものとを、どう組み合わせるか、それが「総括」なのだと心して触れておきたい。

69年の爆弾闘争
 69年の4・28破防法で本多さんが獄中にあった時、79年の10-11月に中核派の爆弾闘争が発動されていたことを近年になって知った。
 爆弾闘争は69年10-11月に初めて発動され、何故かあいまいな形で終わり、『前進』もそして権力も何事もなかったかのように扱われた。

 「いや、突然●~*を持たされ、突然指導が絶え、当日まで指導部との連絡もかき消えて、あるいは路上に投げつけ(不発?)あるいは玉川の土手に埋め、…」

 中核派もそして権力も、そんな事実などなかったかのように素知らぬ顔をしていた。

 69年の11月闘争も、多くの個人や部隊は結集過程や結集地点で、方針待ちのため、連絡体制の不備のため、不用意に長居することで通報されて検挙されたという。
 
 71年の渋谷暴動闘争はその全体像が良く分からない。
 続く日比谷暴動闘争は、完全武装した機動隊の包囲の中で、ほぼ非武装の集会にまぎれての小さな武装決起。すでに解散していた闘争本部を緊急呼集して突入したものだ。あたら犠牲と大量逮捕をだしただけだった。松本楼の火災・焼失も、「音を出す」「駄目押し」の策謀=陰謀だったという話に信憑性が感じられる。

 一連の過程は、膨大な逮捕者を出した大規模な騒乱状態を現出したことには違いないけれど、「軍事的勝利云々」とは程遠い。
 
 そういう形で「中核派の二つの11月」の「勝利」が大々的に喧伝されたのだった。
 「マスコミ左翼」という面では、カゲキ派内での主導権を奪回するために一定の成果を上げたのかもしれない。私も「(軍事的)敗北」論に対して、「政治的勝利論でいい」と納得したはずだ。

 同時に、「爆弾へ、爆弾へ」の猛進とジグザグの過程でもあった。
 私はこれらの変転の過程を今でもよく知らない。知らないままに激しく動き、激しく揺れた日々だった。

 知っているのは一握りの指導部その実動部隊と葉山さんたち裁判関係者だけだった。

 あの二つの11月の全貌は、その後の弾圧・闘いをも含めて、いったいどれほどのものだったのか?どういう過程と結果を生んだのか?
 「総括」する以前に、事実を知りたい。

前夜情勢と革命の現実性
 ただ一つ分かるのは、(結果として)「70年代前半の革命情勢の到来」などなかったことだ。
 (革命的「決起」それ自体を措いて…)
 そして「蜂起」に向けた労働者・労働運動の大量の獲得など、意識的に視野からはずされたとしか思えない。もしあるとしたら、「地区ソビエトなき中央武装蜂起」または<蜂起の時代を切り開く全段階蜂起>だ。社会的背景を排除した「陰謀的蜂起」…。その背後には「権利も運動も奪われた圧政下の無力・非力な民・労働者」観への後退がある。

 改めて当時の議論を思い起こす時、この過程ですべては「前夜情勢の到来」の観点から塗り替えられ、言いかえられていた。「革命的議会主義とは何か?」とは、切り縮めれば国政の場で蜂起を呼び掛けるもの。
 それはまた当時の反代々木=反議会主義戦線の(サンジカリズム的な?)議論に制約されつつ、政治・政治的リアリズムを取り戻そうというある種の努力という側面もある。そんな「錯綜」の時代背景…。

 革命家(急進的青年)の義務を情念的に掻き立てて、吶喊(とっかん)…。
 もはや青年ではないが老成したわけでもない本多さんたちは、爆発する青年学生の急進性に取り残されまいと、自らを鼓舞し、幻覚の旗を掲げて突進した。

試行錯誤と吶喊精神
 その背後で、「労働者党」の構想と未だ始まったばかりのそれへの認識と構想がどう関連付けられていたのかも良く分からない。

 とはいえ、「机上の空論などどうでもいい。実践こそすべて」。わたしもそうだが、ひとたび燃え上がれば、昨日の議論など投げ出して、突き進む。それが「実践家」の性(さが)でもある。

 偉大な実践家の片言隻句を引き出して学ぼうということ自体が、空しいとも思える。
 だからこそ、「理論と実践の云々」とか「実践家と理論化の分業:協業」が議論される。
 ま、もともと理論のできない優れた実践者も数多くいるわけだし。

 もともとは革共同という「未だ党ならざる同盟」を自認した中核派は、「党不在」のまま「闘いの前衛」を担い、「党への芽」を自ら断った。「党としての闘い」の結末はそんなことでしかなかった。

 それならそれでいいのだが、それならそれと何度も何度も自問する。あの時、中核派の延長に党を夢見たのか?それとも生まれるべき党のほんの片隅に入れれば良い。そういう機運を作れれば、その礎になれればいい、だったろうか?
 では「党とは何か?」への思いを抱きながら…。謙虚さを装いながら、あまりに直線的な思考。

 その意味では、70年決戦とは、実は全国的な小蜂起的総決起の時代だったことを示したのではないか? 二重対峙戦の背後の時代認識がもう一つの課題になりそうだ。

 改めて、『本多延嘉伝』が欲しいと思う。
 素顔の本多さんと、闘う本多さんのそれぞれの実像だ。
 とはいえ無駄な注文だとは分かっている。
 そんな問題意識を抱えて、40年前の本多さんを偲びたい。
 虐殺者=革マル派のレッテルをべったりと貼り直し…。
 時に、恩讐を超えて、互いの抗争の互いへの意味を語り直したいとも思う。
 中核派も革マル派も急速に変貌した時代。内部で葛藤し、大半が離脱し、初期の姿は跡形もなく…。

 時が経ち、宿敵が同じ船で難破することもあろう。その時はその時で、助け合うほかはない。戦場ってそんなものだ。そんな時、せめて何かの役に立つようには育ちたいものだ。はたしてどちらがそんな人材を生んでいるだろうか?

【補足①】「堅実・全面発展論文」は『前進』への掲載途上で一部削除されたと聞く。
 「階級闘争の後退局面」という内容の一文だという。清水さんが激怒して削除させたとも。
 たしかに本多さんについて語る人は似たようなニュアンスを直に聞いたとも言う。
 大量の労働者が次々に逮捕され解雇される方針からの転換を本多さんも試行錯誤していたようだ。
 「対カクマル戦の対峙段階の闘取」への突入期のこの認識の変化がじっさいにどの程度のものだったのか?その認識と削除(前夜情勢論のだらだらした継続)はその後どういう問題になったのか?

 対権力への武装闘争を掲げたフェイズⅡ。
 いったいどこまで本気の「革命軍戦略」だったのか?
 似たような諸問題も少なくない。時間と労を惜しむことなく解明すべき問題ではある。

 74-75年恐慌を経て、急速に変わりゆく世界…。

【補足②】本多さんの後継候補は陶山さんだったという話もある。
 そしてまた、多くの会議を取り仕切っていたのは田川さんだったとも。

【補足③】 「7・7自己批判」もまた、政治局の色んな人々の色んな思惑と思いが錯綜してできた複合的産物だったということも聞く。「自己批判」の中身も、清水さんと白井さんではその角度は余りに違ってもいたようだ。
 「まずい、まずい」と『前進』社に飛び込んできた清水さん。
 「民族問題」の見地から激しく議論した白井さん。
 では本多さんは何と言ったのか??

 ただ、そんな一握りの閉ざされた空間での議論が、あたかも矛盾なき一枚岩のごとく対外的に(党内的に)打ち出されて承認されてしまうこと自体が、今となっては空しいとしか言いようもない。

 本多さんから決別した中央派?

 中核派(中央派)は「40年行事」を一切せず、何事もなかったかのように明け暮れているらしい。
 「本多さん論なき中核派」とは何か?
 ま、「50年史」ですったもんだした経緯を想像すれば、「過去」との決別がすべてでもあろう。
 組織の中軸を担う世代も変わったし、過去の善し悪しを忘れて、ということか?
 「唯一の前衛」の看板さえあれば、若者たちは一定吸い寄せられる。
 絶対神話が求められる時代には、「何はともあれ前衛」かも知れない。
 人によっては共産党よりも敷居も低い。

「レーニン主義の総括」では、梶川さんの3部作が避けて通れない。
ソ連がなぜ崩壊したのか?
社会主義がなぜ失敗したのか?
そもそもソ連のどこまでが「解放」でどこからが「圧政」だったのか?
その圧政の実態は?
責任はスターリンに発するのか、それともレーニンとトロツキーにさかのぼるのか?
その断絶と継承の関係は?

「米帝の圧倒的な軍事圧力の前に崩壊したソ連スタ」論が覆い隠すスタへの傾斜・親近感と「社会主義への関心の放棄」、それが清水さんと中央派の根っこを覆っているとすれば…。


「飢餓の革命 : : ロシア十月革命と農民 」ほか。
とりあえずネットで問題の基本を読むことができる。
これですら長いのでプリントアウトしてじっくり読むことをおすすめする。
アマゾンでも買うことができるけれど、できれば梶川さんへの思いも込めて新品を買う人が増えることを望みたい。

レーニンの農業・農民理論をいかに評価するか

宮地健一のホームページ

―― 十月革命後の現実を通して ――
 
梶川伸一

白井さんも梶川さんの著書と交流を通して多くを学びなおしたと聞く。

ちなみに「梶川伸一」を検索するとたくさん出てくる。

60年前からの革共同全国委員会派は、本多延嘉、木下尊悟(野島三郎)、白井朗(山村克)、飯島善太郎(広田広)、小野田猛史(北川登)。
  第1次ブントの田川和夫、陶山健一(岸本健一)、清水丈夫(岡田新)。
 
 
 
  北小路敏(ブント)、小野田襄二(反戦連合)らは、後に政治局員。(敬語は略)
 
  白井・野島・北川・岸本は、それぞれ兄弟が革マル派幹部になった。(革マルの山代・木下・倉沢・森茂=姓が違うが)
 
当時の革マル幹部(政治組織局員レベル)は
 黒田(山本勝彦ー死亡)・松崎明(倉川 篤ー分裂・死亡)・森茂(鈴木啓一)
 山代冬樹(白井健一)・土門肇(根本仁)・西条武夫(木下宏)
 朝倉文夫(池上洋司)・倉沢(小野田啓介-離脱)・杜学(藤原隆義-死亡)など。
 
 下線の3人は中核派が「3頭目」として「処刑」を宣言した3・14の首謀者

関西派(再建協議会)が全文公開してくれました。

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豊田直巳さんの疑問を読んで

SM

 ①エンゲルスは、共和制の国ぐに・または非常に大きな自由のある国ぐにでは、社会主義への平和的発展を想像しうることを認めています(レーニン、『国家と革命』)。「革命は、暴力でやるものではない。少なくとも、議会制民主主義が成立し、言論や結社の自由、表現の自由がそれなりに保障されているような社会では、武装闘争が革命を主導するなどということを考えることは出来ない」。日本革命的共産主義者同盟(JRCL)の高島義一(右島一朗)さんは、『かけはし』の2003年8月11日号で、そういう意味のことを述べています。私は、これらの考えを支持します。
 ②でも、ビルマの軍事独裁政権は、ひどすぎます。ビルマの軍事独裁政権は、非暴力のデモに参加する人びとに対して、暴力を振るっています。非暴力のデモに参加する人びとを殺りくしています。「合法的な集会やデモ、ストライキなどによって、民衆の主張を打ち出し、世の中のあり方を変革する条件を持たない社会、すなわち警察や軍隊の厳しい弾圧によって合法的な意思表現が許されていない社会――そのような社会においてのみ、武装闘争が選択肢になることを、ゲバラは明確に言っている」。太田昌国さんは、『チェ・ゲバラ プレイバック』(現代企画室)の中で、そういう意味のことを述べています。ビルマのような国では、人民が武器をとって立ち上がることも、頭から非難されるべきではないのではないでしょうか。「ビルマVJ 消された革命」(アンダース・オステルガルド監督作品/2008年/デンマーク映画)を観て、私は思わずそう思いました。もちろん、どのように闘うかは、ビルマの人民が決めるべきことです。ビルマ人民に「武器をとって立ち上がれ」などということを、私は要求しているわけではありません。
③「不当な暴力は、許されない。だが、正当防衛なら、許される。革命的非暴力主義者は、革命的暴力(やむにやまれぬ暴力)は認めている。『娘と話す 非暴力ってなに?』(ジャック・セムラン著、山本淑子訳、現代企画室)を読めば、そのことが分かる」。私は、そう書きました。「武器も持たず、むざんに殺されようとしている人びとを助けにいく場合は、暴力を用いても正当化出来る。「人道に対する犯罪」又は「虐殺」と呼ばれる、組織的な恐ろしい犯罪の犠牲者を守る場合だ」。ジャック・セムランさんは、『娘と話す 非暴力ってなに?』(山本淑子訳、現代企画室)の中で、そういう意味のことを述べています。レイプされそうになった女性が男性を撃退するために暴力を振るうようなことまで非難するのは、間違っているのではないか。アウシュヴィッツに囚われた人びとを解放するための暴力まで非難するのは、間違っているのではないでしょうか。日本軍国主義をアジア太平洋から撃退するための暴力まで非難するのは、間違っているのではないでしょうか。私は、そう思います。
 ④では、「不当な暴力」か「正当な暴力」かは、誰が判断するのでしょうか。普段は、それは裁判所が判断するのかも知れません。でも、裁判所の判断が常に正しいとは限りません。それに、独裁政権に対して人民が武器をとって立ち上がったとします。「独裁政権下の裁判所」が人民の抵抗を「やむにやまれぬ暴力」として肯定するようなことは、ありえないでしょう。でも、歴史と人民は、「独裁政権下の裁判所」とは異なる判断をするかも知れません。歴史と人民は、革命を支持するかも知れません。歴史と人民が、人民の抵抗を支持する例は、たくさんあります。
 ⑤内ゲバには、私は絶対反対です。『かけはし』派が中核派に報復するなら、私は『かけはし』派を支持しません。「三里塚『3・8分裂』と第4インターへのテロによって、中核派は『革マルと同じ』と忌み嫌われる党派になってしまった」(元中核派・編集局員 黒田・白土・刈谷著、『狂おしく悩ましく――『前進』編集局員の事件録』)。そう主張する人もいます。でも、良心的な内ゲバ殺人集団など、そもそも最初から存在しえないのではないでしょうか。存在しえなかったのではないでしょうか。内ゲバそのものが、間違っているのではないでしょうか。間違っていたのではないでしょうか。私は、そう思います。
 ⑥レーニンは、『プロレタリア革命と背教者カウツキー』の中で、「ソヴェト権力は、もっとも民主主義なブルジョア民主主義の百万倍も民主主義的である」と主張しました。「北朝鮮」(朝鮮民主主義人民共和国)のどこがブルジョア国家の「百万倍も民主主義的」なのでしょうか。中国のどこが他のブルジョア国家(ただのブルジョア国家)の「百万倍も民主主義的」なのでしょうか。私は、疑問に感じます。レーニンは、「ソヴェト権力は、もっとも民主主義なブルジョア民主主義の百万倍も民主主義的でなければならない」と主張するべきだったのではないでしょうか。「ソヴェト権力は、民主主義的である」ではなく、「ソヴェト権力は、民主主義的でなければならない」と主張するべきだったのではないでしょうか。
 左翼は、暴力に甘過ぎたのではないか。民主主義を軽視し過ぎたのではないか。革命党派といえども、「間違った判断」を一〇〇パーセント防ぐことは出来ないのではないか。民主的左翼は、この問題をどう考えるべきか。私には、良く分かりません。
 ⑦豊田直巳さん。「『やむにやまれぬ暴力』も正当化されない」(『かけはし』2010年8月2日号)を読みました。ご指摘ありがとうございます。「日本革命は、暴力でやるべきだ」などいうことを、私は主張しているわけではありません。豊田直巳さん。分かりにくい文章だったら、ごめんなさい。勉強不足のために、何か間違ったことを言っていたら、ごめんなさい。
(2010年8月1日)

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