職場を守る「安全」と「プライド」
一九七〇年代、大学や街頭に火炎瓶が飛び交う頃、職場の若者たちは、「安全」や「品質管理」を求めて、立ち上がっていた。
高度成長は、「水俣」やカドミヤム、煤煙による喘息や「交通戦争」など、あらゆる「公害-産業災害」をまん延させていた。
若者たちは、企業の内外で「市民・消費者」と連携して、自身の企業を「告発」した。
「怒れる若者」たちは、古参組合員とも葛藤を繰り広げた。
労働組合の役割自体、変化することが求められていた。
「人として、子どもを抱える父・母として」「市民として」、仕事と生活を矛盾のないものにしたいと願った。
「労働者としてのプライド」を求めていた。
未熟さと世間知らず、そして思い込みが、互いを激しく傷づけあい、さまざまな危機を生んだ。
しかし、あれはどの「公害」が(表面だけだとはいえ)収まったのも事実だ。
フジヤの職場の崩壊
不二家も、工場の近代化を、「郊外移転」として進めた。
生産現場を支え、運動を支えてきた多くの女性たちも職場を去った。
ある人は健康を害し、ある人は地元に残った。職場に残った人は労働強化と子育てに追われた。「昇格」を拒否して現場に残った人も、「本工」として、準管理職に棚上げされた。
「同一労働・同一賃金」の原則を墨守し切れなくなった時、「職場の一体感」は崩壊する。
テレビをはじめ多くの報道も、働く現場は無視したままだ。操業停止された工場の労働者(派遣・パート)の現状は見えてこない。
従来の消費者運動は労働現場への配慮を基本としたが、昨今の「消費者保護」や「被害者の救済」の「ブーム」ではこうした目線を仇敵としているようだ。
現場からの再建の道
それに、「製造業」よりも「金融・IT・物流」の時代だ。募集は「営業」ばかり。カネカシやブローカーが我が物顔にはびこっている。「保安」や「保守」、現場のコストカットが、「経済の論理」として横行する。
「格差社会」とは、まともな生活や労働をさげすむ社会でもあるようだ。
「クリスタル」― 一見透言明だが殺伐とした空気の中で、労働運動の再生の道は険しい。
かつて職場を支え、労働運動を牽引したりーダーたち、彼らに半ば呼応し相対した中下の中間管理層(そのタマゴたち)も霧散した。
革新政党や労働運動を支えた自立した文化運動も、花開くと共に、商業主義の中に取り込まれた。
しかしまた、今ほど労働運動やいろんな「労働者」運動が求められている時代は、ない。
労働運動の原点に立ち戻ろう。
「少しでも長く居たい職場に。わが子や家族に誇れる仕事を。そして仲間の居る職場に!」
適度に「群れ」、適度に付き合うことの継続が、日々の糧になり、「非常時」にも「保険」になるはずだ。『一期一会を大切に」。
組合員もさまざまだ。かつて、「労働運動潰しの『闘士』」だった人々も、元経営者も、今は立派な組合員だ。「事実は小説よりも奇なり」
今、春闘の真っ只中。
私も「団塊の世代」で、子もたちは「失われた十年」の「失われた世代」だ。多くの人は、わが子や親族・知人に複数の非正規社員を抱えている。その共感や苦闘をどうしたら形にすることができるのだろうか? 【その2 完】
「Y乗務員 投稿記事」
2007.2.15