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投稿を一部削除して転載します。
見出しのみ付けた。下方に『狂おしく』の【注】
2つの映画を紹介してくれた人でもある。【以下転載】
 


先週、ほぼ映画を観るためだけに上京しました
 
久しぶりに映画館をハシゴしました😁自主的な二本立てです

感想①マルエン 
 まず、マルエンですが、原題にある通り若きマルクスを描いています
冒頭、森のなかで薪拾いをしている貧しい民衆を官憲が弾圧、というより虐殺?するシーンから始まります
 そこから、ライン新聞が発禁にされ、マルクスが逮捕されることに始まり、党宣言が出されるところで終了です
 
 監督が意図するところは、マルエン二人の友情物語と、二人の信念を貫く思想的強靭さなんでしょうけども、私にはどうしても二人の人間が嫌な奴にしか見えませんでした
 特にマルクスの傲慢さは鼻につきました 決して、友だちにはなりたくない・なれない人間です
 そのあまりにもセクト主義な姿勢は、Yを連想させるほどでした
総じて、こんなものかなっていう感じで、最新の研究成果など真新しいものはなく、スタ党でも創りそうな映画でした
 それでも、私が岩波で観たどの映画よりも観客が多くそれが不思議でした
意外に、マルエンは人気なのかもしれまん
 もっとも、私より若い観客は二人だけで、あとは見るからに団塊の世代ばかりでしたから、納得できると言えばいえると思います😃
 【注】Y=革マル派のこと
 
感想②タクシー運転手
 もう一本のタクシー運転手~約束は海を超えて~は、お勧めです😃
 光州518は市庁舎に立て籠って、武装闘争を描いた文字通りの蜂起を描いた、画期的な作品でした。
 それに対して、タクシーは光州蜂起のもう一つの知られざる一面を描いた、感動的な作品でした
 学習不足の私が知らなかっただけかもしれませんが、初めて知ることばかりで驚きの連続でした
 主人公の学生デモに批判的だったソウルのタクシー運転手が、悩み抜いたあげくにドイツの記者に協力して立ち上がる姿や、地元のタクシー運転手が立ち上がって闘う姿は、涙なくしては観ることができませんでした
 負傷者を救出する場面や、ラストの場面は必見です
 彼らの、人間としての尊厳を賭けて闘う姿とは対照的な、非人間的な弾圧をする軍隊特に私服の軍人の弾圧の苛烈なこと
 人間とは何か?人間解放とは何か?大いに考えさせられた映画です
 是非ともご覧下さい😉
 残念だったのは、こちらの方ががら空きだったことです
 世の中やっぱりどこか間違っています👊
【注】マルエンは岩波・大阪・名古屋の3か所だけ?
タクシー運転手は全国で公開中。(末尾⑤参照)

 
【『狂おしく』注】
①映画「光州5.18」
 同・過去の予告編(ユーチューブ)
 

②光州事件とは 1980年5月、韓国の街は戦場だった【画像】


③光州事件(Wiki 概要・経緯・今に至る評価など)
 詳細を調べてもらえると市民軍の構成の変化などがもう一つ感動を呼ぶ。

④光州広域市(クァンジュこういきし、韓国語表記:광주광역시)は大韓民国広域市。 朝鮮半島の南西部、全羅南道に八方を囲まれる形で位置しており、過去には全羅南道の道庁所在地だったことがある。
 1986年11月1日 - 全羅南道光州市が光州直轄市に昇格(事件後6年目)

 ◎「韓国光州」の検索結果
 海外の場合いつもそうですが、「観光案内」は必須ですね。「正史」を補足する宝の山です。
⑤上映中の映画館(北海道から沖縄まで全国で公開)

⑥当時の中核派は「光州蜂起」と呼んだ。
 ただ、具体的な連帯行動ができたわけではない。「先制的内戦戦略=革命的ゲリラ戦で応える」という言い方もあった。
 現下の「南北・米朝」そして「日韓」関係をどう見るかという時にも、この事件を背景・底流として読み解くことをお勧めする。朴正煕の娘の朴槿恵を押し頂く勢力と金泳三金大中の流れをくむ諸勢力への歴史上の認識は大事だ。
 朴正煕の下での「漢江の奇跡」(https://www.weblio.jp/content/%E6%BC%A2%E6%B1%9F%E3%81%AE%E5%A5%87%E8%B7%A1)も正面から見据えたい。

 もっと早く書評を書くつもりだったのだけれど、だいぶ遅れてしまった。
 最大の理由は、「嫌になってしまったこと」だ。
 総括の糸口が限りなく閉ざされている。

 目次を観た段階で、「読んでも意味がなさそうだ」と思いつつ、でも読まねばと思い、このブログでも宣伝させてもらった。

 宣伝の理由は紹介の末尾に書いた「そんな中で勇気をふるって語ろうとする姿勢自体をおおいに是としたい」に尽きる。

 で今回は、総論には程遠いままとりあえずいくつか書いて、あとはおいおい体験をも振り返りながら膨らませてlいきたい。正面からの書評は面白くない。一部は「昔話」の分類に入りそうだ。

 ①いわば事実暴露に関する部分。「深夜の政治局会議」と清水さんのあらわな言動(あいまいな?)。「副議長と書記長が賛成だから決定」…。

 ②本書のスタンスと、編集のスタンス。
   ・多分、二つの内戦の節々での議論と「7・7とは何か」などが新たな議論になろう。
   ・「3・14Ⅱ」の評価は避けて通れない。また、事実経緯についての両氏の認識の変化?
   ・輝かしい時代の「統一戦線」???も「自己批判」では実態に即していないこと、など。

 正直、共感の持てない本への「書評」は気が載らない。

 模索舎で販売開始から3年有余、とくに他の宣伝や販売経路を作らずにやってきました。
 当初予定の部数はほぼ完売となり、あと数部残るだけになりました。
 
 今後の増部の予定は有りませんので、売り切れの際はひらにご容赦を。
 
 手元にわずか遠視用の「デカ文字版」がこれもわずか残っています。欲しい方は当方か模索舎にお問い合わせください。
 
 長い間謝々。
 ブログは時折書き足すつもりです。

元共産党の幹部。
体験をもとにした戦前戦後の豊富な研究と論説などが満載。絶版の復刻版もある。
  とりあえず以下のテーマを読んだ。
 
関西生コンの脇田憲一さんの「私の山村工作隊体験」
     共産党の軍事路線の一員としての総括など。
     
石堂清倫の「転向-中野重治」
    「結果責任」のとりかた他
    新たな資料として、内戦下の中国共産党の「転向の進め」指導など
    中野さんは杉並選挙(都政を革新する会)の創立者の中心的一人でもある。
 
「転向」の新しい見方と考え方
    戦前共産党研究。2300人の党員中、「非転向は俺(宮本)一人」???
 
共産党青年部(民青)を解体・破壊した「新日和見主義事件」の実像と批判
 
ここでも、日本史上の大「転向」=大思想弾圧の原点としてキリスト教弾圧が語られている。
    「沈黙」(遠藤周作)はやはり、呼んだほうがいい。映画では篠田正弘監督ものがあったそうだ。

脚注のまとめ

(10年前半以前の版には無いもの、短いものがあります。改めて比較しやすくしてみました。)

1 死闘の7か月。(1章 私の10・8羽田)1967年10・8羽田闘争から翌年4月までを指す。2つの羽田闘争と佐世保・三里塚・王子でのゲバ棒での大衆的実力闘争。3派全学連とともに青年労働者は反戦青年委員会に結集して闘った。3派とは、中核派(白ヘル)、共産主義者同盟(ブンド 赤)、革命的労働者協会(解放派、青)。第4インターほかの諸派も参加した
 

断定。(同)共産党は、マルクス・レーニン・スターリンを教祖とし、トロツキーの暗殺を当然としていた。トロツキー系の思想や運動を権力の別働隊として、あらゆる手段で排除・抹殺することを当然とした。「日本共産党は世界の共産党の中でもっともトロツキストに対して厳格」と自負していた。

 

全学連。(同)全日本学生自治会総連合。68年3月当時、自治会総数750のうち、3つの自称全学連があった。民青系205、3派76、革マル22。他にフロント系17、民学同系14など。いずれにも非加盟は299。

 

 反戦。(同 革共同への加盟書)反戦青年委員会。もとは1965年に結成された韓条約反対の青年組織。社会党青年部・社青同・総評青年部や他の青年組織などの共闘組織。次第に新左翼系の主導する運動になり、3派全学連の崩壊後もしばらく続いた。この頃は党派的に細分化され、「中核派系の労働者」やその運動体という意味で使っている。

 

5 芝工大事件。(同)私の埼大中核派の滝沢紀明さんが芝工大で死んだ事件。「内ゲバによる最初の死」。詳細は第2章の「滝沢『虐殺』事件をめぐって」参照

 
 公安。(同 稼いで生きる)一般に、対象者の住民票を定期的に点検し、大家・不動産屋に面接する。→会社回りする。本人に直接当ることもある。逆に言えば、住所を変えずに転職すれば職場は割れない。公安の能力も一般にはその程度だ。
 

7 「党」。(同 またも解雇)この時期も以降も中核派は自身を「党」とは規定していない。「党たらんとする」だ。けれどもまた「革命党にとって‥」という論理は常にキーワードでもあった。ここでは便宜的に「」付きの「党」を使うことにする。

 

8 県評。(同 県評青婦協)県労働組合評議会。当時労働組合運動主流派だった総評(全国労働組合総評議会)の県別協議体。社・共とともに反戦・平和などの政治運動を担った。89年に解散。

 

9 対峙。(同 妻が教われた)毛沢東の持久戦論に学ぶもの。防御・対峙・総反攻の3段階からなる。71年の「12・4反革命」以降、相互絶滅戦争論へと転化する。72年11月以降の早稲田解放闘争で追い詰められた革マルは、集会への結集場所への、鉄パイプでの襲撃を開始。翌年春?には学生の下宿への襲撃を始めた。中核派は「権力・革マルとの『2重対峙』の下で、主として対革マル戦に力を投入する」ことになる。(2重対峙=対革マル戦)

 
10 本多さん。(同 子どもを産もう)中核派の創立以来の書記長で代表。後述。
 

11 アコーディオン。(同上)携帯用の楽器として50年代の運動に登場した。「大衆性」の象徴でもあった。文化・芸術と「党」や政治の関係は、共産党結成以来の重大な議論の的でもあった。

 
12 反戦。(2章 鉄壁防御の要塞)この場合、中核派系の労働者と大衆団体のこと。
 

13 常任・専従。(同上)ともに専従活動家。常任が上位で県委員。それ以前は常任も非専従だった。

 
14 法大拠点化。10章「革命的独裁」参照
 

[1] スト権スト。(同 スト権ストと上尾暴動)スト権の合法化を求めて行ったスト。公社時代の国鉄ではスト権は与えられていなかった。国労・動労の最盛期であるとともに、退潮への契機となった。

 
16 狭支連。(同 石田郁夫さん)狭山を闘う中核派系の大衆組織。関連して7章
 
17 Zヘル。(3章 大会戦の現場)革マルのヘルメットで「全学連」の略。白ヘルに赤テープ、前面に「Z」と書いて中核派と区別した。
 

18 謀略論。(同 人民の海)73年から始まった革マルの世界観の根幹。すべての事象を権力の、革マル排除の為の謀略と見なすこと。教祖・黒田の直感により、謀略の企画・実行者は特定される。

 
19 (同 戦争論について)大衆運動主義への非難と共に、他方では軍事技術に熱中する者を「軍事主義」と制する空気も政治局に有ったという。「軍事主義」が制するには時間と何かが必要だった。
 

20 マスコミ。(4章 記者会見)70年闘争では、中核派は「マスコミ左翼」とヤユされた。白ヘルはテレビ映りが良い。マスコミをうまく使った

 

21 高石闘争。(同 動労千葉)72年の船橋事故で処分された高石運転士の処分撤回闘争。「事故の責任は当局にある!」。高石闘争は反合・運転保安闘争をレベルアップさせ、動労千葉は、「全国1」の労働条件を獲得した。

 

22 POSB。(同 改革と北風)諸機関・諸戦線・各地方委員会によって構成される。調整・執行と政策立案の両面の機能を持つ。

 

23 再共有化(同 3・8分裂の経緯)。反対した。その後98年、中核派は「脱落派の再共有化に応じた人びとを含む全国1200人の一坪共有者に訴える。その権利を絶対に守り抜くことは人民の正義であり、三里塚闘争勝利のために不可欠である」と、「一坪再共有化運動」に対する態度をそれまでの総括なく転換した。

 

24 寄せ場。(同 土木作業員の死)日雇い労働の求人業者と求職者が多数集まる場所のこと。大阪=釜ヶ崎、東京=山谷、横浜=寿などが有名。70年代、暴力手配師追放の運動が発展し、暴力団や警察との間で数千人規模の暴動(山谷騒動)が何度も闘われた。高齢化が進んでいる。関連記事、8章「寿越冬ルポ」

 

25 寸又峡事件。(同「報道」の腕章)68年在日韓国人2世の金嬉老(キム・ヒロ)氏による殺人を発端とする監禁事件。寸又峡温泉の館に宿泊客を人質として篭城し、警察官による在日コリアンへの差別発言に謝罪を要求した。テレビ等で実況され、社会的に衝撃を与えた。最後は、記者団に紛れた警察に逮捕された。大規模な弁護団が結成され、日韓の政治問題にもなった。99年に韓国への出獄を条件に仮出所。事件時、共産党は3億円事件とともに「犯罪者に共感を示すマスコミ」をくり返し非難した。

 

26 「教育実践」。(同 浅草橋戦闘)彼は子どもたちに童話の読み聞かせなど、さまざまな工夫を試みていた。けれどもそんな教材の点検や同僚・保護者との大事な時間すら無くなっていると苦しんでいた。指名手配を受けて突然姿を消してから、残された子どもたちの「先生大好き。帰ってきて」という声が聞こえる。10章53「私の精神形成」ほか参照

 

あけすけでしなやかな茨線バリケード
模索舎
[後編]2010年08月19日
書店の森たんけん倶楽部=原稿/倉本さおり、写真/猪又直之
 ミニコミ、自主流通出版物の聖地・「模索舎」。電子書籍出版元年として騒がれる今年、奇しくも40周年を迎える。再開発の進む新宿の片隅で、今でも変わらずに“たまり場”であり続けることの意味とは――。(中略)
『狂おしく 悩ましく』
元中核派・編集局員 黒田・白土・刈谷/¥1500
「ウチで上半期一番売れた本。ミニコミで100部というのは驚異的な数字ですよ。こればっかりはおそらく他店にも置いてない」(神山さん)。1966年、埼玉大学入学直後から学生運動に飛び込んだ筆者による“中核派・私論”。羽田闘争、沖縄闘争に身を投じた青年時代から、革マル派との確執も含め、『前進』編集局員として戦い抜いた30代から40代までの体験談が実直に語られている。闘争とは何だったのか――その問いかけに、一個人の人生の手ざわりで不器用に答える一冊。

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