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「共産趣味者」の過去記事から
 【ブログ注】80年代の当時現役の革マル派の「世界観」が恐ろしいほど率直に描かれている。おぞましい。
   段落はブログで付けた

Name: すえいどん(【注】趣味者の中心の1人)
Date: 03/19 17:45

[4678]竹田先生(革マル)の回想に基づく78年以降の横国大情勢性の利用

>中核派は、78年9月以降、横国大を武装制圧し始めた。
 そして、中共派の日本労働者党の協力の下、横国大を拠点化しようとした。1978年9月30日の文化系サークル連合の総会に出席するために全学連の学生は、9月29日の夜10時ごろに、横国大を武装制圧した。9月30日に総会に出席する事は、広く宣伝してあった。その日、中核派を来させないためである。
 しかし、我々が大学を武装制圧した後に、中核派はやってきた。中核派は、我々と遭遇すると、トラックで、我々に向けて、突っ込んできた。トラックに2人がひかれた。1人は半身不随になり、学習院大学の同志・堀は、倒れている所を鉄パイプで止めをさされ、虐殺された。
 10月1日からも、中核派は、機動隊に守られて、大学を武装制圧し続けた。そこで、革マル派は、10月の中旬のある日に、大学に登場するとの情報を広く流した。朝、大学構内に入った機動隊は、そこに居るのが、革マル派だと間違えて、中核派40名を逮捕した。機動隊に中核派を逮捕させた事は、革マル派の権謀術策の勝利だった。
 1978年11月、僕は、2000人の学生を前にして、アジテーションを行い、拍手喝采を浴びた。その勢いにのって、僕達は、経済学部自治会を、翌年の1979年1月に再建し、当初、ノンセクト主導であった自治会執行部を、同年、6月には、革マル派竹内寿一を執行委員長とする執行部に変革した。
 横国大学生運動の主導権は、43歳の革共同最高幹部・佐々木(北海道学芸大学札幌分校音楽科卒業、ピアノの教師、根本仁の盟友)の指導を受け、東京工業大学退学処分の佐野という現地指揮官に従う、10代の少年活動家の手に掌握された。
 1979年11月16日の佐藤修平、小林智(北大生)虐殺事件で、野島三郎は失脚し、北小路路線の下、謀略追認路線にウジ虫は舞い戻り、1980年の東京工業大学7名の学生の虐殺をも追認するのである。
 佐藤にとって、「内ゲバ」こそ、現代日本社会の矛盾を象徴するものであった。革マル派系学生が殺されれば、殺されるほど、闘争に決起するもの、革マル派の運動に参加する者が増加していった。
 M(横国大工学部)は、同志・堀が横国大で殺された事を新聞で読み、親戚一同の反対を押しきって、横国大に入学した。松川は言った「人間は血を流して闘う事が必要だ」「横国大に血を流して闘う人が居る事を知って、自分も生命を危険に晒したいと思って、この大学に来た」
 竹内寿一は、佐藤修平が虐殺された事を知り、自分も同じ道を辿ろうと決意した。僕も同じだった。佐藤修平の死によって、「いつ死んでもいい」と言う覚悟ができた。

 1980年頃には、中原の後継者=狭間による滝口派に対するテロが続発した。狭間が精神病になり、学生解放派は分裂し殺し合いを始めた。
 しかし、学生解放派両派の死者の多くは「知りすぎたスパイ」の抹殺を意図した権力の謀略部隊によって殺されたのである。
 解放派のスローガンは「感性の無限の解放を!!」であり、「殴りたい時に殴れ、セックスしたい時にはセックスしろ」というものであった。解放派の女はヤリマンで、男子活動家の共同便所だった。女とやりたくて解放派に入った学生も多い。
 解放派のメス青虫のオルグ方法は肉体オルグであった。性に関する純潔を求められる革マル派とは、正反対であった。ちろん、動労青年部においては、後輩を風俗営業店に連れて行く事が奨励されていた。しかし、同志間の恋愛には、指導部の許可が必要であった。

【以上転載】

【ブログ注】以下は「竹田 革マル」の検索結果から

  • https://ali0001.jimdofree.com

    竹田博士の著書から非常に多くの文章を引用し、JR総連破壊を破壊するための本を8冊も書いたのが、 「自分は公安警察と共にJR総連革マル派と闘う」と公言しているのが宗形明である。 中核派最高幹部。 JR、JP、沖縄

  • https://sevgi-us.wixsite.com/makoto-takeda

    革マル派について教えて下さい」と言って来た。 竹田博士の著書から非常に多くの文章を引用し、JR総連破壊を破壊するための本を8冊も書いたのが、「自分は公安警察と共に革マル派と闘う」と公言しているのが宗形明である。

  • https://open.mixi.jp/user/15183261/diary/1939032186

    2015/02/21 · 以後、革マル派幹部の制止を押しきって、歴代の首相、公安警察最高幹部に対するスパイ工作を貫徹。革マル派に多大の利益を与える。 1997年、極悪極右反動分子=石井吉也学長の犯罪行為を弾劾し懲戒解雇処分

  • https://open.mixi.jp/user/15183261/diary/1938671348

    2002/11/19 · 革マル派のゲバルト部隊は学生によって構成される全学連特別行動隊である。 この祭典には、全学連の学生は一人も参加していなかったのである。 革マル派に暴力を行使する …

  • https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4688010&id=48321236

    竹田誠博士の、家系が、皇族そのものであったという、事実は、 これで、証明されたものと、思います。 黒田寛一だの、革マル派だの、まったく、小さな、事柄では、 ありませんか。誇 …

  • www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/sahasaiseico/...

    竹田誠氏の事件見解】 竹田誠氏の「第4章 国家権力の謀略とネオ・ファシズム体制への傾斜」に「革マル派系活動家・水本潔(日本大学生)変死事件」について次のように触れている。 …

  • https://money4.5ch.net/test/read.cgi/kyousan/1124204647/l50

    ついに、竹田誠博士が、英断を、下しました。. 博士は、革マル派内部で、英雄的な、プロレタリア. 分派闘争に、乗り出すことを、断固として、決意し、. ここに、革マル派改革協議会を …

  • https://www.nishinippon.co.jp/item/n/516710

    2019/06/10 · かつて革マル派の活動家だった大藪龍介さん(80)は50年近く前、内ゲバの標的になった。. 「しばらくどこかに身を隠した方がいい」。. 仲間に ...

  • https://money2.5ch.net/test/read.cgi/kyousan/1082808448

    >竹田博士が、革マル派の中では黒田寛一と並んで >その理論的柱を担っている事実はどう説明するのかね。 94 :名無しさん@3周年:04/04/27 06:58 ヶヶて毎日何して生計たててるんだろ …

  • https://namagusa.com/archives/6559

    2017/06/08 · 革マル派・中核派のメンバーは、大衆の中に紛れ込んでいると言われています。それぞれに数千人の構成員がいますので、「隠れ

  • 離脱、脱け殻の日々
     そして、何年か経って戦争も闘争も一つの峠を超えたかにみえたある日、おれはふと党本部に帰るのをやめたのである(当時俺は党本部に寝泊まりし、飯を食い、24時間それだけに没頭していた「職革」であった)。はっきりと説明できる理由があったわけではない。エネルギーがなくなったロボットのように動くのをやめたとしか言いようがない。
    その後、10何年かは、まるでせみのぬけがらのようでもあった......、この混乱は何なのか、思想的拠り所を見つけない限り、帰れないと思った。確信も持たずに戦争はできない。
    ずいぶん、つらいことやきびしいことを書いてきたようだけど(?)、(おれも含めて)当事者たちは、決してつらいことばかりだったわけではない。むしろ、楽しかった。みんな生き生きしてた。毎日わくわくしていた。血わき肉踊る日々であったと思う。その間かれこれ5年以上にわたる間、ほぼ毎日3時間ぐらいしか眠っていなかったと思うが、そんなに苦ではなかった(もちろん、無茶苦茶眠くて、食事中に寝てしまったり、歩きながら寝てしまったり、なんてこともあったけど)。
    ハイテンションがずーっと続いていたから、むしろあんまり眠れないんだよねえ。つらい時代であった、などと言うつもりはひとつもない。
    何年か経ってから同時代を同じように生きたかつての仲間やノンセクトの友人らと何人かと酒席についたことがあるが、最初はみな疑心暗鬼である。こわいものを見るような眼で見ている。言葉も選びながら、静かに話をしている。
    はじめはなにやら総括やらなにやら言ってるけれど、でもたったひとこと「でも、おもしろかったなあ!」と言うとみんな一気に打ち解けてしまうのだ。「そう、そう!」と合鎚を打ち、「あの時は..、」という話で盛り上がってしまう。みんな体を張って生き抜いてきた戦友だし、インターやワルシャワロードーカは軍歌なのだ。
    かつてのエンゲルスの著作を思い出してしまう。「かつて敗れはしたが歴史的ホーキをやりとげたヨーロッパの片町の酒場は、その後何十年にもわたって労働者の誇り高き唄声がきこえる...」と。
    呪縛からの解放(過去を隠して)
    あれからもう25年以上も経つのにいまだに呪縛からのがれられずにいる人も多いにちがいない。数年前、大学の同期生に会った時、税理関係の仕事をしていた彼は、最初かたくなに何もしゃべろうとしなかった。過去のことは一切しゃべってくれるな、という態度であった。彼は20年以上にわたって女房・子どもにも、もちろん会社の同僚にも**派カツドーカであったことを隠し通してきたのだろう。
    しかし飲むにつれて、おれは何のこだわりも持っていないこと、やましいこと等なんにもないこと、それどころか我々がやらなければ今の世の中がどうなっていたのかということ、そんなことはおまえも知っているはずだということ、Yの暗黒を阻止したのはあの戦争なんだ、誰が何と言おうとわれわれがやってきたのはホーキなんだということ、おまえもおれも歴史的ニンムを果たしたんだということをおれは自分に言い聞かせるかのようにしゃべった。しばらく黙したあと彼は、「眼からウロコが落ちた」と言った。「肩の荷が全部おちたようだ」とも言った。
    おれのようなノーテンキとちがって彼のようなまじめで実直なタイプはカツドーカにはけっこう多かったし、そういう多くの元カツドーカが彼のようにじっと身を潜めるように生きているのかと思うと少しやりきれない。おれがこんなヤバソな話を書きはじめた理由のひとつもその辺にある。だけどもう25ねんも経ってんだぞ。おい、おい。我々がおやじ達の太平洋戦争の話を聞いていたのも「戦後20年」とかであった。う~ん!?..
    我々の戦争はまだ終わってないのか?カツドーカをやめた。
     
    怪物のような人びと(松尾・北小路・マオさん・藤田・稲辺)
    それにしても党生活・活動を通して人間の深さみたいなものを垣間見た。世の中は広い。他では出会えないような怪物のような人がここには何人もいた。自分の小ささを何度も思い知ったものだ。
    松尾氏
    ホンダさんは言うまでもない。頭の回転の速さ、判断の速さでいったら、マツオ氏はすごかった。普通うーんと悩むような問題をいつでも一瞬にして解決策を提示できた。ビラや新聞原稿を執筆する速さもべらぼうであった。全国紙の巻頭論文をあっと言うまに書き上げていた。
    ただ、それに比してその判断が性急過ぎるのではないかと感じることはいくつかあったけれど、やはり後になって、失脚することになったようだ。詳しいことは知らない。おれが戦線を離れた後のことだから。ただおれをR大の担当からはずすという不可解な人事をおこなったのも彼であったのはまちがいない。
    彼は今、公然と某大学の講師を勤めているけれどその変わり身の速さも理解しがたいが。
    北小路氏
     キタコウジさんの演説のうまさは格別であった。
    いつ聞いても感動的に盛り上げていくのである。さすがに60年アンポゼンガクレンのイインチョウともなるとまるでものが違うといつもうなっていた。
    (この人は、60年安保トーソー時、6.15国会前のゼンガクレンのデモシキをして国会内突入を果たしたその人である。この時、かの樺美智子さんが死亡している。)
    キタさんの眼力というのもすごい。おれが書記局に入った頃、まだほとんど話もしていないのに(単ゲバと度胸だけで売っていた?おれを)「君はまるでスルメのような人だねえ」と褒めた?のだからすごい(笑^^;)。
    マオさん
    キタさんと同世代のオノさん(マオさん)は人間そのものの大きさに敬服するしかなかった。嘘偽りのまるでない人。人民とカイキュウトウソウに対するまるで微動だにしない深い愛情。オールドボルシェビキの典型のような人。他派からも愛された偉大な人だ。
    彼は最近戦時下のイラク・バグダットに入り、「人間の楯」として世界中から入国した人々を組織してバグダット市内デモを敢行したそうだ。うーん!なんともすごい。当年60歳を越えているはずだ。生還したのだろうか?
    【注】イラク戦争。20033
     
    藤田マル学同委員長
    政治的センス、バランス感覚でいったらM同盟イインチョウのフジタ氏。その才能もある意味で究極であった。オノさんとは逆に他派からはもっとも嫌われた人物でもある。それだけ政治的力量が際だっていたことの証左である。
     
    稲辺氏(日大)と作り上げた最大拠点=立教大学支部
    ガクレンショキチョーをしていたN大のイナベ氏も人間的魅力にあふれた人であった。マツオ氏ほど頭が切れるわけではない、フジタ氏ほど政治的力量があるわけではないが、人を見る眼と人を育てる力という才能があった。
    イナベ氏はおれの直接の指導部でもあった。彼はいっしょに活動を始めてからしばらくしておれのことを「おまえはほんとにどんぶり勘定だなあ」と言っていた。何と言う眼力!そう、おれは「どんぶり勘定」でそれでいて「スルメのような」人間なのである(笑い)。まったくそのとおりだ。まちがいない。おれ自身は言われてはじめて、しかも何年かして気が付いたのだが、彼等はわずか半年やそこらで言い当てたのだ。
    **派の70年代のR大学生運動は彼とおれとでたった二人ではじめ、育てたと言っても過言ではない。最初同盟員はおれだけ。それが数年して**派最大拠点H大をしのぐ首都圏最大の動員力を誇る拠点校へと育てたのである。
    今にして言うけれど、H大など新入学生もノンセクトもほとんど誰ひとり獲得できなかった。党の動員力をかけてでかい立て看を作り旗を振っていただけである。おれらのR大はちがう。クラスに入り、サークルに入り、ノンセクトと論争し説得した。74年以降、学生大会で2千人以上集め、何百人規模の純粋の学内集会を開くような盛り上がりをみせた大学運動が他にあっただろうか?たぶんない。この時期**派の学生運動を全国的に牽引していたのはまぎれもなくR大であった。
    1年間の地下工作の実績
    ぼくとイナベ氏のたったふたりではじめたR大の組織化。何から手を付けるか?ノンセクト時代の人脈を生かして個人オルグをトコトンやろうということになった。ノンセクト運動の指導部と接触しコンタクトをとり話をする。集会に誘う。イナベ氏にも同席してもらう。
    なにせイナベ氏は日大全共闘の有名人である。効果はかなりあった。メシを食う。酒も飲んだ。親近感をもたせることがまず大事。当時、××派はノンセクト内部でもカリスマ的影響力をかなり持っていたけれど、その反面、近寄りがたい「怖さ」みたいなものもあった。いっしょにメシを食うというだけでもその垣根を取り払う効果はまちがいなくあった。
    表面には出ない地下工作を地道に1年近くも続けただろうか。そしてたまに(決してぎょうぎょうしくではなくさりげなく!)ビラ入れも行なった。ビラ入れ自体が衝撃的だ。なにせR大はノンセクトが最大党派でそのうち機関誌の学習会もできるようになった。自派集会・デモへの参加者も徐々にふえていった。地下組織化はちゃくちゃくと進んだのである。やがて大々的にいっきに登場する舞台裏は整いつつあった。...(この項、後述...の予定)「H大は何をやってるのか」というのが当時のおれの口癖で会議でもH大指導部を攻撃したものだ。
    野木さん
    ほかには、オルグの天才とかもいた。信じがたいスカウト術!新人をぞろぞろと連れてくる天才。大物や文化人らをじっくりと落としてしまう天才。おれはその点まるでだめであったなあ。突っ込ませる時の扇動だけはできたかな(笑)。
    ノギさんという人がいてこの人はマツオ氏、オオモリさんの前にSOBのトップだった人。非常におだやかで物腰が柔らかく頭のいい人であった。マツオ氏やフジタ氏のような独断専横のにおいはまるで感じられない。殺伐とした戦況が頻繁にとびこんでくる書記局のなかでもいつもひょうきんな笑顔を絶やさないような人。
    印象はマオさんに近いが、マオさんほど「実直なボルシェビキ」ではない。もっと醒めて冷静に戦局をみつめているようなスタンスの人だ。こういう人のほうが人物としては大物だと思うけれど、「戦争」という状況下ではどうしてもマツオ氏のような、決断の早さ、リーダーシップの強さという部分の資質が重用されるのだろうか。
    おれはM加盟論文を彼に「講評」を受けた。自分が見た中では最高の論文です。ということはこの書記局内の誰よりも優秀だということですよ。M主義の理解、党の方針の理解という点でここまで理解して加入を決意した人はいません。というような極上の評価を受けた。そのせいかなあ?おれはノギさんに悪い印象は一つもない(笑)。
     
    傑物たちの欠点。権力の集中問題
    党本部というのは全国の傑物ばかり集まってきた怪物屋敷ようなところだったんだなあ。それでもみんな欠点がある。これだけの人物がそろっていたのに完璧な人間などいない。マツオ氏もいくつかまちがいを犯した。これこそ傑出した人間であっても権力を集中させてはいけないということの証なのだ。
    たしかに当時、マツオ氏には権力が集中しすぎていたようだ。キタさんやタカギさんですら彼の下のように見えた。ということは彼は地下のPBと同格であったのか?この体制を不可解と思っていたのはおれだけではあるまい。彼がその後、降格したことは**派の自浄作用が働いたと信じたい。
    (追記。最近、オノダとかアラとかその当時のことを振り返る本が続々出版されている。ヒドイ。読む価値もないが、逃敗走した兵隊が、悪態を着いて醜行を繰り返しているようなザマだ。アラとかオノダとかいったイイカゲンでデタラメな奴らが、歴史を偽造してまで自己弁護を繰り返し、自分の自慢話をべらべらとしゃべりまくる。
    一方で、真摯に取り組んできた優秀な部分は、真面目さゆえに、{主に}マルクス批判をできないまま思考停止におちいり沈黙を決め込んでしまったという80年以降の現実。今現在の思想状況のていたらくの原因はこの辺にもあるのではないかとおれには思えるのだが。)
     
    しょうもない俗物の堀内氏
    傑物ばかりをあげてみたけれど、もちろんしょうもない俗物もいっぱいいた。あまりけなしたくないので気が引けるけれど、例えばマツオ氏の後のイインチョーHなどは、声がデカイだけ、アジだけは(中身がないけど)まとも、下部にはどなりちらすだけという程度の人物。よく戦争映画にでてくるいばりくさった鬼参謀みたいなもの。その程度で起用しておけばいいのに、とおれはいつも思っていたし、ずっとそりが合わなかった。
    こういう輩はふだんいばりくさっているのにいざ戦さになるとほんと絵に描いたようにてんで役立たずなのだ。まあ、時効だからこのへんにしておくが、戦時下では(帝国軍であれ革命軍であれ)こういう輩が出てくることを記憶しておいても悪くはない。
    離脱
     多くの仲間と別れるのはつらかったけれど、おれはやめようと決めた。多くの、いまだに整理できない、理由がある。それはまた後で述べる機会があれば整理してみよう。とにかく、少しごたごたした後で、おれは戦線を離れた。そして、血のついた手足を洗い、食うために仕事を探したのだ。
    だけどなかなか職がない。どこ行っても1週間もすると公安のデカが張り付いてくる。すぐ会社の社長に知れるわけで、どこ行っても2.3週間で首になった。こりゃあいかん、とかなりおいつめられたと思った(なにせ金が一銭もなかったから)。
    まともな職場には行けないだろうと観念した。とにかくハエのごとくうるさい公安に、俺はもう足を洗ったんだ、組織とは切れたんだ、と分からせるほかないとおもったんだ。それに追いかけてたのは権力だけじゃなかったからね。みっともなくテロられたり、新聞ネタにでもなったりしたらアウトだから。1年ぐらいフラフラしながら食いつないでしのいだってわけだ。
    たいへんだったのはアパート。ことごとくデカにおそわれた。しかも公安、本庁、所轄、ばらばらだけどみんな来るんだよね(これはたて割りで意志の疎通ができてないみたい。)。日本の警察はこの辺は徹底している。というか60年代後半からアパートローラーのシステムができあがっていたからね。
     カメラマンとして
    で、えーと、2年ぐらい逃げたりしのいだりしているうちにカメラマンの口を見つけたんだ。都合のいいことにそこのチーフが元京都大の赤軍のシンパらしかった。それでもって面接したらあっさり採用されたってわけ。カメラなんてリコーオートハーフしかさわったことなかったのにねえ。だから、後年よく聞かれて答えるのだけれど、カメラマンはそれをめざしてなったわけではない。他に才能も、つても、コネもなにもないおれが食って行くために選択した残り少ない就職口のひとつでしかなかったのだ。
    しばらくして、やっとこさ、なんとか生きていけるかなあと思った。で、そこでアシスタントを2年やらしてもらった。いいとこやったな。1から10まで手取り足取り教えてくれた。いまでも感謝しとる。ありがとさんでした。札付きをやとっていただいて(笑)...
    で、無謀にもたった2年で独立してしまった。申し訳ない。このあたりなど写真の世界など何も知らないで飛び込んだ者の浅はかさであったのだろう。独立して2年後、六本木に事務所設立。1982年だったかな。物撮りや建築写真など、広告写真全般を撮っていた。けっこううまいこといっぱい仕事をさせていただきました。年収もかなりあったけど、ほとんど飲んだくれて....
    84年。JPS 展に今の「幻色の都」の写真の原形である写真を出品したら入選をもらった。そのころもちろんパソコンなどなく、フィルターとマスキングと多重露光をつかって制作したものだ。
    93年。アートボックス大賞展に出品。これも入選をいただいた。これはもうほとんど今の作品に近い。それでもまだアナログ作品である。デジタルをやりはじめたのは97年ごろである。
    99年。スタジオを恵比寿に移転。
    【注】写真家としての経歴で本人が特定されそうだ。ただ、悪いがそのままにした。
    追記 
    ブント系
    ブント同窓会なるものが某ホテルで盛大?に開催されたらしいけど、ほんとにオメデタイなあ、こいつら。ふぉんとに!無責任というか、なーんにも考えてないと言うか...。デタラメで無責任な、学生気分丸出しで(労働者に何の根っこも張らず)ブントなるカクメイ党を作ってしまったという、そういう根源的なものこそ赤軍、果ては連赤なるお化けを作ってしまったのだとは誰も思わないらしい。
    荒(日向)の「ハテンコー伝」なる駄文をみればブント(2次ブントではあるがたいして違わない。それでもアラなんて1次ブントの島とかキタさんとかにくらべたらどうしようもなく矮小であると思うが)のトップなるものがかなりいい加減であったというのがわかろうというもの。
    赤軍なんて子供のマンガである。軍だけの党なんてあほらしい。大衆を組織しないカクメイウンドーなんてばからしい。こういう子供を産み落としたのはブントだ。そっから総括したらどうなんだ?!何も考えずまたぞろただ気分的にブントを再結成しようったって、また同じ轍を踏むだけだべさ。
    革共同
    カクキョウドーも同じ。**派の指導部の中に未だにクロカンを払拭しきれていない者がいることを知ったのはおれもそういう立場の連中と少しは直接話できるようになってからのことであり、唖然としたものだ。今だから言えるけれど、**派のセンソーのやり方はどんどん□○に似てきたのである。現場の兵隊はとっくに気付いていたのだ。シドウブの感覚の方が麻痺していたのだ。
    「他党派を一掃し指導権を握る」、...□○の他党派解体論とあまり変わらない一歩まちがえばおっかない路線だ。なぜならこの思想は外部だけではない。内部にも適用されうるのだから。ただ**派は、その後、戦闘的な闘争を展開した。だからこそおれも違和感を持ちながらも、多少はしょうがない、と思ってやってきた。シドウブが「ぎりぎりのおっかない路線だぞ」という意識をしっかりもってやればそんなにまちがわないとも思っていた。
    でも違うのだ。カクキョウドーのシドウブのなかに、そうではなくて肯定してやっているものがいたのだ。クロカン組織論の盲目的実践者が。
    (カクキョウドーのシドウブ内にもクロカンを批判しきれていない人間がいたというのはおれには驚きであった。ヒドイね。クロカンなどとるに足らない、というかあまりに稚拙な観念論だよ。
    「プロレタリア的人間」とか「共産主義的人間」とはいったいなんなのだ。「革マル主義者」という「前衛党」の拡大運動こそがカクメイウンドウだとする組織運動論をなぜ否定できないか。「他党派解体-小ブル諸雑派一掃」というあきれた論理になぜすりよるのか。
     
     「内ゲバ反対??」「知識人提言」
    連赤を生んだブントも同列である。「内ゲバ反対論」の四トロなどもっとお話にならない。共同で粉砕すべきであったはずなのに何を言っていたのだ。埴谷雄高や久野収らの「文化人提言」の連中も的はずれである。
    クロカン批判とレーニンと
    今にして思えばもっとしっかりと全面的にクロカン理論を批判しつくすべきであったと思う。クロカン理論とはカクマル以外のあらゆる運動を許さない運動なのだ。その上、「大衆」は「カクマル前衛党」に指導さるべき「無自覚な存在」なのだから恐ろしく始末に悪い。
    こんな大衆蔑視の思想などマルクス主義とは相容れない。...だから、問題なのである。このクロカンもまたマルクスを読み間違えてこんなになってしまったのだ。ML思想の見直しは絶対必要だ。)
    れーにんの末期を思い浮かべてしまう。敵に勝つためには党組織はこうでなければならない、でもこの党の形態は危ないものだぞ、と、れーにんは意識していた。特にすたーりんが力をもちはじめてからはよけいに意識していた。だから後期には「中央委員会の100人化」とか必死になって暴走しないように歯止めをかけようとしたのだ。でも遅かった。れーにんは自分の路線によってすたーりんをもって追放され指導権をにぎられたのだ。
    賢明なれーにんが元気ならば問題なかった、たしかに。でもそういう問題ではない。「れーにん」はそんなにいないのだ。匹敵するようなひとがいても倒されたら終わりなのだ。だからちがう。ちがう思想、ちがう組織論が必要なのだ。
    アオカイなら、だから「ローザ」なんだというかもしれない。でもちがう。そうでもない。ローザは矛盾している。アオカイも同じあやまちを犯しているではないか。アオカイ同士でみにくい××をやっている。問題はやっぱり本家のMなんだよ。だってほら、□○はれーにんを読まないよ、まるで。で、だから...、ちがう思想が必要なんだ。

    【以上転載終わり】

    【注1】元のブログは見つからない。「マル共連」が最初に見出したものか?
    今回は「れんだいこ」さんのブログから無断転写(孫引き)。
       【注2】小見出しは当ブログによる。節ごとに当ブログによる【注】を加えた。
    果たして正確な【注】か否かは不安もある。元ブログが無いので筆者は岩〇氏としておく。元立教大学⇒学生書記局。70年代半ばの首都圏大学の3大拠点を作り上げた。

    【注3】74年6・26の第2次法大会戦を生々しく描いている。対革マル戦争への評価も生き生きしている。

    【注4】長いので2回に分けた

    【以下引用】
    【れんだいこ注】告白者不明であるが、「党派間ゲバルトの感性」がネット空間に次のような内容のものがサイトアップされている。これを転載しておく。仮に「告白者A」とする。仮題「告白者Aの党派間ゲバルト風景録」によれば、「告白者A」は、中学・高校と陸上部に属し、秋の県大会100mで優勝の実績を持っている。中学あたりから社会意識に目覚め、高3の時はじめて10.21国際反戦デーデモに参加している。某大学社会学部社会学科入学。陸上部に入ったが、2週間で退部した。大学は6年通って、(表向き)授業料未納で除籍。ノンセクト活動家を1年ほどやった。その後、**派に入った。
    【注】「某大学」は立教大学のこと。**派は中核派。

    53年生まれ?1972年立教大学社会学部入学
    1979
    年立教大学を中退(挫折と離脱)  

    ―――――――――――― ――――――――――――

    挫折(成田空港の開港と方針転換への疑問)

    でもって、成田開港の後、どうしようもない挫折感におそわれ、無気力状態に陥ってしまう。党の大きな方針転換にも疑問があった。この方針転換とは「組織防衛」を第一義とし、これから来るであろう後退局面を退却戦として戦おう、というものであった。もちろん対外的にはそういうことは言わなかったけれど、その後の20年をみればそういうことであったと思う。おれとしても「そういうことか」、と感じていた。おれの出番はなくなったなというか、もうついていけないなという漠然とした気持ちを抱きはじめていた。きっぱりとやめようと決断したわけではない。ずるずるとやる気をなくしたのである。
    【注】成田空港開港は78520


    本多書記長と3・14について
    75年3・14
    ***しかし、やはり党の指導者であったH書記長の死は大きかったと思う。□◯派のテロで暗殺されたのであるが、そのニュースを聞いたのは党本部の書記局の部屋であった。それはもうかつて味わったことのないようなショックを受けた。党本部は3階建てのビルであったけれど、建物全体が静まり返って重苦しい雰囲気に包まれたようだった。歯をくいしばって眼に涙をうかべる者もいた。
    本多さんの人物像

     H氏はみんなから親しまれ尊敬されていたのだ。H氏はその当時の他派やガクセイ運動の指導者と比べてもけたちがいの人物であったと思う。彼の人物感を表する多くのエピソードがある。例えば、サンリズカ闘争の初期の頃、彼は農民の指導者の家を訪ねた時、神棚に手を合わせたという。彼にとっては唯物論者としての立場などよりも、農村の慣習をふまえ人間と人間の信頼関係を得ることこそが大事であったのであろうか。こんなことをさらっとできる人はその当時ほとんどいなかったと思う。

     また、彼は、機関紙やビラなどでは難解な言葉使いをことさら批判し平易な文章を心掛けろと口をすっぱくして言っていた。ほかのサヨクと言えば難解な言葉を書き連ねてそれが知的であるかのような時代にである。
    70年闘争で組織破防法が発動されいよいよ危ないかという時でも党の主要な政治局メンバーがさっさと地下に移動したのにほんとは一番危ない彼が最後まで残った。また党が彼に最強の防衛隊をつけようとした時拒否されたとも聞いた。遠く離れて防衛上も安全なところから指導すべきだという意見にもがんとして拒否されたとも聞いた。そのあたりも敵の情報網にひっかかる原因があったのかもしれない。なにか当時義理と人情の**と一部で言われていたけれど、これはH氏の人柄に大いに関係していたにちがいない。つくづく惜しい人をなくしたと思った。もちろん残ったS氏などもりっぱな指導者ではあるけれど、やはりH氏あってのことではないだろうか。やはりH氏ならばついていこうという面はあったと思う。いわば例えは悪いがH氏は「仁侠」にも通ずるものがあった。
                  【注】S氏、清水丈夫政治局員。後の「議長」
    「神棚に手を合わせた云々」は60年代当時としてはさほど意外では無い気もするが、実態はどうだったろう? 筆者との世代・年代の差、70年以降の時代の空気の差、みたいなものも感じるが?
    「決戦主義」と本多さんの持論
     **派は当時「決戦主義」などと揶揄されたものだが、しかしそんな他派の低レベルの批判などおかど違いであり、それこそはH氏の思想そのものであった。「革命党は負けがわかっていても(たとえ局面における戦術的勝利がほど遠い場合であっても)戦わなければならない時がある」というのがH氏の持論である。奴隷根性に堕ち、敗北主義にそまるよりも階級と人民に希望を与えるために党と活動家は犠牲になって戦え、ということであった。だからこそすべての党員がどんな時であろうと「H氏なら必ずやる」という確信をもっていた。敗北主義におちいることなど一度もなかった。どんな苦しい時でも楽観主義であった。「やる時はやるんだ」という気概をすべての党員が持っていたのだ。彼についていけばまちがいないという心情すらおれにもあった。

    「等価報復」「完全せん滅」
     だからこそ彼が亡くなった時の悲しみは例えようもなかった。党内も激高していた。党内でも最左派でならしていたB戦闘同志会などは「□◯派本部とD労会館に突入しよう!」とか叫んでいた。H氏がテロに遇ってから1週間後6人の□◯派戦闘員がアジトで完全××されている。党のすべての人間がそれを長いこと(たった1週間であったのに)待ち望んでいた。みんながようやく半分くらい溜飲をさげたような気がしたと思う。それは史上に残るもっとも激烈な戦闘であったようだ。新聞各紙のトップをかざり、社会面は半分以上をさいて報道していたと思う。その後の「自民党本部火炎放射焼き討ち事件」に匹敵する扱いであった。周囲の電話何万回線も切断し、敵のアジトの鉄のドアをガソリンカッターで切断し、中のバリケードを打ち壊して突入し、一方の隊は隣の部屋からスレートを巨大なハンマーでたたき壊して突入したらしい。××された6人はH氏が受けたのと同じ打撃を全員が強制されたという。部隊は全員真っ赤な返り血をあびたらしい。
     
     この当時から「等価報復」という言葉が使用されている。(H氏の暗殺者の凶器はまさかりであったらしい。それに対して1mもあるバールで報復したらしい。その後の政治集会で60年アンポゼンガクレンイインチョウで有名なK氏は「ファシストの脳天にバールを!」とアジっていた。)その事件の報道を聞いてすべての党員が手に手をとりあって「やった、ついにやった!」と叫んでいた。それからその後の1年近くはまさしく嵐のようなテロ合戦であった。銃火器だけは使わなかったけれど、何百人もの死傷者を出した戦争以外のなにものでもなかった。

    あえて言いたい。革マルは「左翼」ではない。「内ゲバ」ではない

     戦争以外のなにものでもない多くの戦闘行動に俺も数多く臨戦している。歴史的事実を風化させないために俺はあえていまだ生々しい記憶を掘り起こしている。ひとつことわっておくが□◯派はもはや決してサ翼ではない。敵対党派や文化人らににわとりの生首や猫の死体を宅急便で送ったりするのはサ翼ではない。敵対的な労組の幹部らを尾行し電話を盗聴しプライベートな醜聞をさがしまくりそれをネタに恫喝するのはサ翼ではない。他派をつぶすためにのみ軍事組織をつくり、他派の戦闘はすべて「権力の謀略」であるなどとうそでぬりかためるのもまたけっしてサ翼のやることではない。他派をウジ虫とか青虫とか公然と機関紙で言ってるのもまた□◯派の本質を表している。したがってこの戦争をひとくるめに「内ゲバ」と称するのは決して正しくない。サ翼の仮面を被った、史上もっとも暴力的な新興宗教団体と言った方がいいかもしれない。事実、党首の「くろカン」としょうする人物は彼等の集会では録音テープで登場する!彼等は総立ちになって拍手するらしい。

     
    法大会戦(74年6・26)
     革マルによる襲撃と大学支配
    風化させないために、事実を知ってもらうために、一つの会戦(!)を掘り起こそう。個人テロ戦に対して集団戦を会戦と称していた。有名な会戦に俺も参戦していたH6.26会戦というのがあった。H大構内で起こった200人規模の大集団戦である。その当時すでに□◯派の脅威は猛威をふるっていて、ただの学内集会すらまともに開くことすら命がけであった。
    全国のほとんどの大学は□◯×派に制圧され、数少ない当方の拠点大学は幾度となく襲撃されていた。多くの死傷者も出している。早稲田、東大、東工大、専大、国学院、横国大、北は北大から南は沖大までほとんどの大学を制圧されていたといっていい。
    大学だけではない。国鉄、全逓、教労、自治労、..労働戦線ですら□◯派の支配は猛威をふるっていたといってもいい。信じられないだろうけれど、本当の話である。例の国鉄分割の時も当時の中曽根が切り札にしボス交でとりまとめた相手こそ日共ではなくD労のマツザキであった。この人物こそ□◯派の副議長である。当時の影響力を物語っている。
    革マルによる下宿・アパートへの襲撃との対峙。そしてスパイ
     **派の学生カツドーカは大学に登録してある下宿やアパートをすべて引き払っていて友人のところを泊まりあるいたり、2.3ヶ月ごとにアパートを代えたりしながら□◯派の牽敵活動をかいくぐっていた。
    □◯派はインフと称して数百人規模でスパイ活動もどきをしていたし、先日権力にアジトが摘発されてあきらかになったけれど、盗聴活動などはけたはずれの規模で行っていた。警察無線のデジタル暗号を解読していたというので権力がやっきになってようやく検挙したらしいけれど、これも聞いた話によると警察内部にかなりのそれもかなり幹部クラスに□◯派のスパイが入っていたようだ。東大は□◯派の拠点校の一つであった。警察に組織的にもぐりこませていたとするならば十分ありえることだ。
    「加入戦術」というのは□◯派の公然たる戦術でもある。この辺もどっかオームに似ている?!オーバーに恐れていたのではなくて事実、何百件とアパートで寝込みを襲撃されている。俺などもアパートのドアは冷蔵庫などでバリケードをつくり、ふとんに鉄パイプを抱いて寝た記憶がある。両手両足には竹とガムテープで作ったプロテクターをつけていた。
    命がけの大学戦争
     で、学内集会であるけれど、のこのこと大学に歩いていってたらその途中で襲撃されてしまう。帰りもまたしかり。したがってそのころはもう、60年代にみられたような(「いちご白書」にみられたような)ある種、牧歌的な風景などみじんもない。大学に入るのすら命がけである。
    例えばこうだ。前の晩、3人ずつぐらいで各所に分宿する。朝4じに起床し、決められた結集点に集合する。結集点はいくつかある。そこで幌付きトラックにのりこむ。そのなかでヘルメットと竹ざおで「武装」する。鉄パイプでないのはその時点で権力に遭遇した時「凶器準備集合罪」に問われないようにするためだ。そして大学近くの公園で各所からきたトラックが集合し、そこから全員が隊列を組んで大学に向うのだ。大きい集会であれば、50人から80人くらいであろうか。この部隊は先発隊であって、いわば集会防衛隊である。そうやって防衛隊が学内に陣取った後でもう少し大衆的なレベルの参加者らが合流するのである。
     
    α隊と糾察(求殺??)の実相
     ***一部で有名になった糾察隊というのはこの集会防衛隊から派生した部隊のことであって、この言葉にはいろんな誤解がある。「公安調書」などは、「糾察隊」が「軍」そのものであるかの記述があるが水準が低いのかアホなのか笑ってしまう。ノンセクトのなかにもそう理解している人もいてこれもこれも低水準。
    この頃、集会がしょっちゅう襲撃されるのでα(アルファ)という集会防衛隊を作った。これは軍組織でもなんでもない。集会参加者はβ(ベータ)、防衛隊はα、それだけのこと。だから「○×大は、α人出せ」とか指示を出してその集会の都度、急造した隊編成なのだ。「求殺隊」なんて笑かすなよ。集会場の周辺を見回りしてスパイとか襲撃部隊とかを摘発しようとして動いていただけのこと。α(防衛隊)とは別に攻撃隊を配置したこともあったけどね。こっちの方が本来の誤解された意味の方だね。まあ、ただαは軍隊的行動を要求されたので本来の軍から指導を仰いでいたのはたしかだけれどもね。
    このα隊が、他派や一般学生らから反発を買ったのも事実。だって実際、一般人の荷物検査をしたり、(武器=Pを持ってないか)服装チェックをしたりしたわけだから。警察なみだよね(だから-警察と区別して-人民糾察隊と言った-正式名称ではないと思うの組織化をまかされたキャップクラスが勝手に命名したようだ)。αは、ただの活動家クラスの若い学生や労働者が多かった。だから実直だし使命感に燃えていたし硬直でもあったわけで、一般民衆にはまずい対応もいっぱいあったと思う。それは指揮官クラスの指導のつたなさの問題でもあるんだよね。
     
    6・26法大会戦の当日の現場
     6.26当日もそのようにしてH大構内に60人ぐらいで登場したのだ。実はこの日は背水の陣でゴリゴリのメンバーを総動員していた。ガクレンのイインチョウHもいたし、マルガクドーのイインチョウのFもいた。SOB議長O氏すらいたのだ。
    なぜかと言うと、その1週間前のサンリズカ支援集会を襲撃されて大敗北を喫していたのだ。こっちが100人に対し、それ以上の数ではさみ打にされこてんぱんにやられている。1人の死者も出した。重傷は数しれない。その当日、俺は党本部にいたけれど、夕方になって血だらけになってみんなもどってきていた。
    H大といえば**派の最大拠点である。そこを襲撃され惨敗したとあっては立つ瀬もない。たいしてダメージを受けていないぞ、という姿勢を内外になんとしてもアピールし党内外の動揺を払拭しなければならない。そうした政治判断における1週間も経たないうちの大動員であった。なりふりかまわぬ召集だったわけだ。逆に敵もそんな早い再襲撃もきついだろう、という読みもあったのではないか。召集したメンツにそれがあらわれているように思う。
    【注】 一週間」前。74年5月13日、前迫勝士が虐殺=戦死。
    【注】学連委員長H氏。堀内氏のこと。マル学同委員長F、藤田氏(後述)SOB議長O氏???
     
     再度の襲撃。1時間以上の死闘
    しかし、それは甘い読みであった。敵はより以上の強力な布陣を敷いていたのだ。我々は部隊を校庭に布陣し、学内の検索隊を何隊か出した。数分して検索隊が戻ってきて「異常なし!」という報告があった。
    だが、その時である。正面の69年館の中でなにか白いものがうごめいていた。すぐにそれはヘルメットがゆれたものとわかった。誰かが「Yだ!」と叫んだ。一斉にこっちの部隊が建物に殺到し衝突が始まった。それがそれから1時間以上におよぶ壮絶な死闘のはじまりであった。
     発見が一瞬こちら側が早かった分さいわいしたのだろう。敵が建物からでてこないうちに殺到したおかげで緒戦の激突はこちらが押していた。(もしもであるけれど、発見が遅れて敵に奇襲をかけられていたならば、もっと悲惨な結果になっていたであろう。)喊声をあげて突っ込んだ部隊は竹ざおで69年館のドアとガラスをぶちやぶり敵に猛然と襲い掛かった。だが敵の数は半端ではなかった。倍(百以上)はいたであろう。「斥候は何を見てきたんだ!」とおれは思った。
    竹竿VS鉄パイプ
    しかも竹ざおと鉄パイプではやはり勝負にならない。ばしっ、ばしっ、と竹がたたきおられてしまう。がつん、がつん、とヘルヘットが陥没してしまう。10数分でずるずると押し出されて校庭が主戦場になってしまった。総勢2百人規模で校庭いっぱいにひろがって白兵戦が展開されている。まさしく斬り合いであった。
    何人かが血まめれになって地べたに倒れている。敵は長めのパイプと短かめのパイプの2種類の役目の人間がいて訓練された部隊であろうことはすぐわかった。(当時□◯派にはJACという襲撃の特殊部隊がいてテロのプロといってもいい組織があった。)「こいつらがJACか」と思った。おれはJACに遭遇したのはこの時がはじめてであった。頭上からヘル越しに1発くらってクラッとなった。グシャとヘルが割れた。さらに左手に一発くらった。幸運にも時計にあたって壊れてそれが幸いした。それでも左手のダメージは大きくてその後ずっとしびれて握力がほとんどなくなった。
    こんな白兵戦になると竹ざおなど何の役にもたたない。突いたって当たりはしない。さおのまん中を両手にもって右、左と鉄パイプの嵐を振払うのがせいいっぱいであった。そのうちこっちの部隊のうち20人くらいが押されて正門の外にだされてしまった。いよいよやばいかなと思った時、助っ人が出てきた。学生会館に泊まり込んでいたこっちの部隊5.6人が鉄パイプをもってでてきたのだ。それでまた押したり押されたりの均衡状態になった。
    というより双方疲れてきたのであろう。みんな竹ざおをふりおろせない程、疲弊していた。一瞬不思議なにらみあい状態が続いていた。後ろの方でSOB(カクキョウドーガクセイソシキイインカイ)議長の「隊列つくれ!かたまれ!」という声が聞こえていた。(かたまってどうするんだ、とおれは思ったけれど、彼はJACの怖さを生身で知っている人間である。勝てる相手ではないと思っていたのであろう。)
    戦闘再開
    その間をぬっておれは使い物にならなくなった竹ざおの替わりをさがしに後ろへさがった。
    本館の柱の影で鉄パイプをもってふるえているW大の仲間をみつけた。「何やってんだ、こんなとこで!」そいつは先輩であったけれど、おれはついどなってしまいその鉄パイプをよこどった。これでおれはようやくまともに戦えると思った。そこからおれは鉄パイプを手にして意気あがりなんとも無謀なことをしたのだ。にらみあって横を向いている□◯派の部隊に真横からたったひとりで突っ込んだのだ。Pをふりかざす瞬間大声を上げた。「ナロ~!」ひとりの右肩にぐさっと一撃。とってかえして顔面に二撃。だがそのとたんに3人ほどにかこまれて猛然と反撃された。
    だがそれが合図になってにらみ合いから一転、戦闘がはじまった。おれは敵の陣地からなんとかのがれて部隊に復帰した。それから俺は二人ほどやりあい鉄ついをくらわせただろうか。こっちの人間も何人か地べたに倒されている。倒されているのに助けるひまなどないのだ。足元にも敵がすごい量の血をふいてねころがっている。「こいつ死んだのか。」と一瞬考えたりしている自分の妙な冷静さが不思議であった。

    学館に逃げ込み
     10数分続いた後だろうか。むこうは徐々に隊列を整えて上回る数で扇型にじりじりと追い詰めてきた。「あいつだ、あいつをやれ!」という声が敵の隊列から聞こえてきた。なんだ、おれを差しているではないか。その一瞬、4.5人がこっちに殺到してきた。ワーッ、とボコボコにされてたえられなくなって学館の方へ逃げた。ところがそれがまた合図になってわが方の部隊が一斉に学館にむかって逃走したのである。全員が学館に逃げ込んだ。敵はそれ以上追ってこなかった。中ではマルガクドーイインチョウのF氏が、入り口にバリケード築け、と指示を出していた。
     
    結末
    たたかいは終わったのだ。全員疲れきり、血まみれの服をまとい、ある者は折られた手足をだらりとさせてうずくまっていた。そしてその一時間後くらいに機動隊が入り当方は全員逮捕された。襲撃した□◯派は逃走している。幸いにも死者は出なかったが、双方あわせて数十人の重傷者を出した。
     
     勝てはしなかったけれど互角に戦った。それまで常勝のプロ軍団JACは初めて手痛い傷を負ったのである。JAC神話が崩壊した日であろうか。こんな会戦が何十回となく全国であったのだ。立教で横国大で慶応大で、あるいは相模原とか新橋駅構内とかで、...
    何故?なぜこんな集団(革マル派)を生み出したのか??
     (なぜこんな戦争が起こったのか、なぜ□◯派のような集団を生み出したのか、もっとはっきりと明らかにすべきである。もっと言えば、連赤、クメールルージュ、そもそものスターリン。キヨーサンシュギ運動のなかからなぜこのような部分を輩出してしまったのか、をはっきりさせないかぎり未来の青年を決してマルクス主義で引っ張っていくことはできない。
    おれはこの戦争の正当性を主張できる。当事者としてその事情を知っているかぎりにおいて、戦うしかなかったし、戦わなければやられていたし、もし我々が戦わずに□◯派の天下になっていたとしたらそれこそおぞましい。
    しかし何も知らない若者に対してマルクス主義運動がなぜそうような部分を生み出すのか、と説得するはっきりとした論拠を俺は持ちえていない。みななぜ口をつぐんでしまっているのか。もちろんそれはいまだに□○派のテロがこわいという面は十分にあるが。)

                          つづく
    【下】の見出しは
    離脱、脱け殻の日々
      血わき肉踊る日々
      呪縛からの解放
    怪物のような人びと(松尾・北小路・マオさん・藤田・稲辺)
    稲辺氏(日大)と作り上げた最大拠点=立教大学支部
    傑物たちの欠点。権力の集中問題
    俗物の堀内氏
    離脱
     カメラマンとして
     追記(諸党派と黒田寛一)














































     47年生まれ。早稲田大学(2浪?)。一時は法政大学に寝泊まりして(革マル派制圧下の)早稲田に。68年~69年?
     同世代には当時の彼女を知る人も少なくない。彼女のファンも少なくないらしい。
     山崎プロジェクトの発起人の一人。
     ウィキペディアには「1980年、全共闘運動に関わった学生時代を歌った歌集『無援の抒情』を 発表し、第25回現代歌人協会賞を受賞する。」とあるが…中核派そのもの。

    「道浦母都子」の検索結果は以下。

    都はるみの「邪宗門」作詞

    同「枯れ木灘残照」

    ◎以下はアマゾンのレビューから転載。
    道浦母都子は、安保闘争において過激派と呼ばれる一派に属して、真摯に闘争を行った。あの時代の空気をとてもよく伝えてくれる。正直、私は、短歌と言うものにはなじめなかったが、この無援の抒情の短歌はすべて読み通せた。最初のページを電車の中で開いて

    「迫りくる盾怯えつつ確かめている私の実在」
    「「今日生きねば明日生きられぬという言葉想いて激しきジグザグにいる」

     の2首を読んで思わず本を閉じてしまった。「あっ、泣くな」と思ったからである。それほど、いきなりあの時代の空気が突入してきた。また、安保闘争が政治闘争というよりも、個人の実存の戦いであったことを明確に示してくれる。忘れかけていた時代の空気である。あの、時代を真摯に生きた世代に読み継がれるべき本である。また、あの時代を知らない若者にとって「無援の抒情」はどのように写るであろうか。まさに、あれは「時代」であった。安保闘争のうねりは、時代のうねりであった。若者たちは、時代のうねりに身を預けたのである。

    以下は同じくレビューからの転載

      わが縫いし旗を鋭く震わせて反戦デーの朝を風吹く
      確かめ合うスクラム弱く震えいてわれらのインター歌声低き
      火炎瓶も石も尽きしか静まりし塔に鋭き夜気迫りゆく
      炎あげ地に舞い落ちる赤旗にわが青春の落日を見る

    しかしそれは全共闘のためのプロパガンダではない。全共闘の時代を真摯に生きた女性の叫びである。

      稚き手白き手選びてビラ渡すその手がつかむものを信じて
      恋う人は同志なるかと問う友に向かいて重たき頭を振りぬ
      お前たちにわかるものかという時代父よ知りたきその青春を
      眠られぬ夜を明かして又想う苦しき今を今を生き抜け

     思いつくままに幾つか拾ってみたが、これらが私の一番のお気に入りだというわけではない。何故一番のお気に入りを挙げなかったのかというと、それらは巻末に載せられた後藤正治氏の「我が世代を歌う――道浦母都子小論」に取り上げらているからである。実はこの小論が素晴らしいのだ。しかしこれを最初に読んでは絶対いけない。あまりに素晴らしいものなので、本文を読んでいる時知らず識らず氏の選んだ歌を探しているような気持になってしまうからだ。

    朝日歌壇で名前はよく目にしていたが、全共闘世代の歌人とは知らなかった。今回彼女の歌を始めて読んで、やはり歌で人生は詠めるけど、歌で思想は語れないのだと思った。
     お気に入りの歌
     「会議果て帰る夜道に石を蹴る石よりほかに触るものなく」
     「ヘルメット灰皿にしている君の部屋「反帝・反スタ」逆さに泣いてる」
     「異常が日常に溶け込む際の一瞬を青年の眼よ見逃すなかれ」
     「寂しさに耐えきれず来てシャガールの抱擁の絵の前に佇む」
     「生きていれば意思は後から従きくると思いぬ冬の橋渡りつ」
     「全存在として抱かれいたるあかときのわれを天井の花と思わむ」
     「大男ひとり眠らせその後をわれもぬばたまの闇となるべし」

    以上、転載

    【補足】道浦さんは『黒ヘル』だったよ」という人もいる。ま、深くは詮索すまい。


    「争論 荒川スパイ事件」に高経大有志の声明がアップされた。
     
     冒頭で「荒川碩哉氏のスパイ問題について、高崎経済大学有志一同の態度を表明する」として………以下の文が続く。

     …【中略】…「中核派による荒川氏スパイ断定」が私たちに大きな衝撃を与えたことは言うまでもありません。
      それから1年半後の2014年12月、荒川氏が中核派の主張を全面的に弾劾する小冊子『スパイ捏造と財産略奪策動を弾劾する』(2014年12月1日 古挽社)を発行しました。私たちは、荒川氏の反論は具体的であり、説得力があり、中核派の主張には根本的な疑問があるという結論に達しました。

     …【中略】…中核派には挙証責任があります。荒川氏の説得力ある弾劾に対して、二年有余にわたり反論もできません。
      人にスパイの烙印を押し、断罪することは大変なことです。中核派は荒川氏をスパイとして認定し、監禁し、荒川氏の信用を傷つけ、心身に大きな打撃を与えました。
     強い怒りをもって抗議します。
      ここに荒川氏への「スパイ捏造」を非難し、同氏へのこれまで50年の変わることのない友情と信頼を表明するものです。

    詳細は以下。

    越冬闘争の補足です。少し遅すぎるようですが、まだまだ間に合うとのこと。
    以下参照。

    越冬闘争期間中の「衣類分配」は7日だそうですが、衣類分配は夏も含めて通年なので、いつでも福祉会館宛に送ってくれればいいとのこと。
    上野公園にも出かけるし、渋谷の各地とも提携しているとのことです。

    関連して、たんぽぽ舎からの引用もしましょう。【以下引用】


    ┗■1.「山谷労働者支援-年末年始、助け合い運動」にご協力願います
     |  支援物資受付は12月8日(木)より12月22日(木)到着分までです
     └──── たんぽぽ舎

    ◎毎年、山谷労働者福祉会館の仲間は、年末年始緊急支援として
    「共同炊事」を実施しています。
     衣類、毛布、お米などの物資が大量に必要になります。
    一枚の毛布で一人の命が守られます。
    皆様の支援をお待ちしております。
    支援物資受付期間
     12月8日(木)より12月22日(木)到着分まで(受付期間は厳守願います)
    ▲送ってほしいもの(略-当ブログによる)
    〈物資〉送付先
      〒101-0061 東京都千代田区三崎町2-6-2ダイナミックビル5F
          「たんぽぽ舎」支援物資担当あて (TEL 03-3238-9035)
    〈現金〉現金カンパは郵便振込でお願いします
        口座番号:00180-1-403856  加入者名:たんぽぽ舎
        *必須事項:[山谷支援カンパ]と明記して下さい。


    【当ブログの注】
    たんぽぽ舎は脱原発の陣営でも有り、経産省前の(元)テント村の一員でもあるとのこと。ただし今年の冬の分はたんぽぽ舎では終わっています。

    ●山谷の「分裂」について
      上記引用もたんぽぽ舎も「山谷労働者福祉会館」(城北労働・福祉センター近く)関連です。【山谷労働者福祉会館活動委員会】

      公正さと事実確認のために、もうひとつ従来共同して越冬闘争が行われていた「玉姫公園」(玉姫神社脇)でのグループ(東京・山日労)もあることだけを確認しておきましょう。


    革労協(解放派)の赤砦社(台東区入谷)
    『解放』(赤社)の越冬闘争記事


      ここでは二つだけ。
     第Ⅰ部「七〇年世代」としての私の歩み  は「私史」中の「私史」。その第一〇章「離党へ」の「ある労働組合との出会い」は尾形氏にとってある意味「新たな原点」といえなくも無い。
      離党後に出会った「競争労働組合」という競馬・競輪などの馬券売り場の女性たちの争議を支援するという経験をした話だ。
    「80年代は全競労の発展期であった。ちょういど七五年のゼネストが限界にぶつかり、総評に体調局面が到来していたころ、彼女たちは実力闘争で次々と権利を勝ち取っていたのである。…私の個人史において、この経験は三十余年間の革命人生を総括するものであった。…離党後の体験とはいえ、私の人生の新しい境地を切り開くような大きな位置を占めている」
      この辺の感覚は私にとっての荒本体験ややはり離党後の職場組合役員の経験に通底する。ま、私の場合は生活そのものに「ズブズブ」にはまった結果でもあるのだけれど。

      第Ⅲ部の第二章「沖縄奪還」論再考 も氏の沖縄移住後の沖縄体験から得た思いが濃密に語られている。

      こんな体験や思いが「離党後」にしか得られなかったという現実認識こそ「総括」の出発点なのだと思う。尾形氏も「白井A」を経て出発点に立った。まずはそのことだけを共有したい。
     
       

    『資料蒐集』の「荒川自白文書(抜き書き)」には以下の項がある。
    白井新党問題。
    (荒川氏は次のように「自白」したという)
    「新党構成メンバーを記したメモが発覚して、尾形史人が書記長になる人事案があると藤本か甘糟から聞き、人に漏らしたところ、水谷に伝わり「誰から聞いたのか」と追及され「川添」と答えたことがある。「他言無用」と注意された。
    〔権力は〕白井新党には強い関心を持っていた。「同調者はいるのか」
    尾形に直接ただしたところ、「何度か会ったのは事実。法大の先輩後輩ということが最初。新党構想は知らない。白井が勝手に書いたもの。いかにもメモ魔の白井さんらしい」
    これらのことも〔公調に〕当然話したと思う。

    〔この「白井新党問題」についての記述が事実だったとして、これをまとめなおしてみると、白井朗(最古参PB、のちに自己批判を拒否して逃亡)が、どういう意図でか「新党」を構想し、その人事案を書いたものが、不用意に露呈して問題になった、ということ。これだけでは不明瞭としか言いようがない。〕


    *  文中の「川添」は岸氏のこと。文書は荒川氏の監禁中の「自白」と打ち出されてはいるが、「会話」の時期は02年の白井さん襲撃・テロ直後のことに違いあるまい。略奪した手帳やメモが元になる会話だといっていい。[ ]内は蒐集サイトの加筆らしいが、引用自体を含めて白井さんへの憎悪を全面にしている。
       ひとこと、「白井を襲撃して奪取(略奪)した文書」程度のことをなぜ言えないのか?襲撃当時は「かん口令」があったとはいえ、襲撃を企画・実行したKGBの当人が「知らない」はずがない!「両氏」が分析を担ったと見るのが普通でもある。
      「白井新党」をはじめ、「反党分子」の動きについてはまったく実情を分からず右往左往していたように見える。逆に離党した人々には中央の動きや情報が手に取るように分かっていた時期もあった。…のだそうだ。
     * とりあえず、「書記長」は残念ながら無かったという話。


      岸・水谷両氏の『敗北』本で荒川碩哉s事件が再録され、尾形氏の名前も出ていた。
      無視を決め込んでいたのだけれど、『50年私史』も出たので、さわりだけ。

      同じ「白井派」同志だが、実は余り面識が無い。
      むしろ70年の学生書記局関係者が多くを知っている。また神奈川の常任時代を知る人は少なくない。、人物論としてはいおいそんな話が出てくればと思う。

      じつは「白井派」は存在したことが無い。
      白井さんの『中核派民主派宣言』もあり、白井さんも一時は「白井派」の旗揚げを希求したこともあったのだろうが…。
     
      ここでは親白井グループとか白井系とか白井ネットとでも言うものがあったというだけにしておこう。
      尾形さんは白井A、私は白井Bとでもしておこう。C、Dくらいまではありそうだ。
      その関係性や形態・時期の差異によってそれぞれ別々だ。同じ白井Bも実は色んな思いの寄せ集めだといっていい。残念ながら長い党生活を経て、みんな「党」への異常なほどの嫌悪を内在していたし、後ろ向きの総括をぼちぼちしながら、自分たちがしてきたこと、信じてきたことの全体像をつかむにはあまりに道が遠すぎた。
      それぞれが別の道を歩みながら時々寄り集まって語り合うのが最大の課題だったといっていいのではなかったろうか。もちろん、ひとそれぞれの思いを抱えてだ。
      それぞれが別の人脈や運動やグループ・個人に関わってもいたから、それを抜きにして「白井系」の肩書き・レッテルを第1義とするのも正確ではない。
     
       尾形『50年私史』は、その意味で「白井系」が共通して抱えてきた課題に果敢に挑戦したイツブツだといってもいい。その成否・正否について語る前に…。ま、「白井系の云々」というとせっかく彼の遺志を善しとする多くの人と距離を開けそうだから、元中核派の多くの諸氏の思いを共有するとしておこう。
        (多くの人が白井さんとの交流を大事にしていたという点では、元中核派に絞る必要もなさそうだが)
          

    知人からの要請を転載します。【以下引用】

    2016秋~冬期カンパのお願い 現在毛布・寝袋、冬物衣料、カイロが最も不足しております
    <<   作成日時 : 2016/09/27 16:01  

    こんにちは。以下、山谷労働者福祉会館活動委員会からの2016年秋~冬期カンパの呼びかけです。どうぞよろしくお願いします。

     これまでに物資・現金両面でカンパを寄せていただいた多くの皆さん、どうもありがとうございました。送っていただいた物資・食材により、多くの仲間が寝場所を守り食事をすることができました。野宿の仲間をとりまく厳しい状況は続きます。これからも私達は野宿を強いられる人々を支える取り組みを行っていきます。毎週日曜日には共同炊事(食事の支援)で毎回250食前後の食事を作り、また、貧しい人々を公共空間から追い出す役所などの動きに反対・抗議し、仲間たちのささやかな寝場所を守る取り組みを続けています。これらの取り組みを支える物資とお金の寄付の呼びかけです。応援を、どうぞよろしくお願いします。

    ●必要な物資 現在毛布・寝袋、冬物衣料、カイロが最も不足しております

    【毛布、衣類】
    毛布、寝袋、防寒着、ジャンパー、トレーナー、フリース、ズボン、下着(新品)、作業着、靴下、軍手、靴

    【布団】
    越年闘争の集団野営に使用します。年末までにお願いします。

    【食材】
    米(精米設備がないため白米をお願いいたします)、調味料(味噌、みりん、和風だし、鶏がらスープ、塩、砂糖、カレールー、カレー粉)
    インスタントコーヒー、粉末ミルク、紅茶、日本茶、カップ麺、缶詰、レトルトカレー

    【日用品】
    洗面用具(タオル、石けん、カミソリ、歯ブラシ、歯磨き粉)
    洗剤(食器用、洗濯用)
    カバン、テント、テレホンカード、カイロ、風邪薬、胃腸薬、鎮痛剤、マスク、湿布薬

    【キャットフード】
    (猫の世話をしている野宿の仲間が多いため)
    ドライ(カリカリ)とウェット(缶詰など)どちらでもOKですができればウエットをお願いします。

    【仕事道具】
    安全帯、腰袋、安全靴


    物資送り先
    〒111-0021 東京都台東区日本堤1-25-11 山谷労働者福祉会館
    TEL&FAX 03-3876-7073
    *宅配便の配達時間を、『日曜日の12時~14時』と着時間指定にてお送り下さい。
    *衣類は、野宿生活に向く実用的なものが必要とされています。
    *以下のものは需要がありませんので、送っていただかないようお願いいたします。
    〖背広、スーツ、ワイシャツ、女性もの衣類、どてら、かいまき、食器〗

    ●現金カンパ

    【銀行口座などから振り込む際の口座番号・名義】
    銀行名 ゆうちょ銀行
    金融機関コード 9900
    店番 019
    預金種目 当座
    店名 〇一九 店(ゼロイチキユウ店)
    口座番号 0550132
    名義 サンヤロウドウシャフクシカイカンウンエイイインカイ

    【郵便振替口座】
    郵便振替口座:00190-3-550132
    口座名義:山谷労働者福祉会館運営委員会
    ツイートも参照
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    【注】いるものと要らないものは意外なところもあります。要注意!


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