2010年刊。ポット出版発行
「親父」の加納明弘氏と「息子」の健太氏の対談。
「親父」は1946年岐阜県生まれ。
65年東大文Ⅲ入学(現役)。
入学の5~6月には日韓闘争⇒中核派に加盟。
67~68年の「死闘の7か月」を経て中核派を離脱。
  ノンセクトラディカルの先駆け?となる。
69年東大闘争・安田講堂を経て運動からも離脱…ということらしい。

イメージ 1  私が66年に入学して中核派に結集した頃、中核派の全都アクト会議(活動家会議)などでも活発に発言していた数人か十数人の1人だったと思う。当時は2年生か?3年生か4年生になれば中核派の若手リーダーを嘱望されていた人だ。

 本書は「親父」が息子と対談しながら当時の意味を振り返ろうと言う形式だ。それ自体ちょっと引かれる形でもある。それもあって時々風呂敷が大きくなり、脱線し、収拾できない話にもなる。
 その後のいくつかの友人らの関わりは大事だ。風変わりな人との付き合いから出てくる大人の知恵も対比できてそれも面白いと言えば面白い。
 その後の発見や後ヂエも大きそうだ。

 そんな形式の選択が成功したか否かは、読者の興味や関心しだいと言うことだろうか?

 私に戻れば、68年の王子野戦病院突入・占拠の共同被告でもある。突入時のスローガンは「開設阻止」だったはずだけれど加納氏に拠れば「閉鎖」になる。各所で記憶の揺らぎがありそうだ。

 氏が中核派からの離脱に至った最大の要因は「内ゲバ」にあったという。
 67年10.8羽田前夜の法政大での中核派による解放派へのテロ。氏はその報復に革マル派と並んで解放派が優勢な東大駒場でラチ・テロの対象になった。「なんていうかな、三派全学連が持っていたある種の明るさを、打ち砕かれるような事件だった」と述懐している。
 清水さんはもちろん、中核派の政治局が直接関わったということは限りなく大きい。
 
 中核派は大事な地平を失い、有望な若手を失ったことにもなる。

 私に戻れば、この時拉致された「5,6人」のメンバーにはたぶん前高の同級生も含まれる。
東Cの中核派はしばらく後に、駒場寮からも追われて「亡命生活」に入る。カリスマ的リーダーを失った駒場中核派…。東大闘争で内在勢力として中核派が影響力をもてなかった一因にはこの過程も大きい。(もっとも東大全共闘の「自己否定」論にいたる大学論や学問論には中核派には対応力を失っていたし…、だが)

「解放派は寮の部屋に突入するとガリ版や謄写版をひっくり返しては帰っていく。けれど革マル派はそっくり奪っていく」。
 亡命前の頃に同級生に聞いた話だ。加納氏がこの時に受けた暴行に比べれば、その後の同じ東Cの学生同士の解放派のゲバは少しは穏やかだったのだろうか?小野田譲二氏に拠れば、体を張って和解に乗り込んだのは氏だったと言う。直後に小野田氏は東大・早稲田への関与を本多・清水の両氏の立会いの場で禁止される。

 たしか早稲田でも同じようなことが起きた。ま、キャンパスが離れた理工学部では比較的自由に展開できたらしいが。
 そして法政は中核派の天下だ(クロもいたし、土手の向かいは民青の支配下にあったが)。大闘争時には全都・関東動員の熱気に包まれたキャンパスでは、その衝撃だけで瞬時に数百の法大生の白ヘル隊列が生れた。大スターの秋山委員長の声を聴いて学生は飛び出してくる。
 当時の法政には私が尊敬するリーダーもいた。そして前橋・前高の仲間も白ヘルの中心にいた。色んな形で高校生時代に大衆的運動をリードしてきた仲間や後輩は、「画一・お仕着せ」の中核派に飽きて散っていった。

 「解放派との戦争」が宣言される。その後紆余曲折を経て何度も統一行動が実現された時も、個別大学ではそれぞれの主流派が内ゲバ的に他派を排除し独裁を維持する構図は戻らなかったはずだ。「上からの」「内ゲバの時代」が始まっていた。あるいは裾野を広げ、最高潮に達してきた?

 そんなことが常態化した後に、革マル派による「他党派解体のための向自的(目的意識的)党派闘争」が発動される。革マル派のゲバルトはそれ以前に比べても、次元の異なるものではある。けれどまた、「それ以前」自体がすでに「一線」を越えていたのも事実だ。
 
 「内ゲバ」総括の起点をどこに据えるべきか?どこに向かうべきか?
 小野田譲二氏らの「反戦連合」ができたのもこの後だし、埼大の先輩たちがどちらも拒否して意識的に金や銀のヘルをかぶったのもほぼ同時だ。
 無党派・脱党派という実は最大の「勢力」になる選択とどう向かい合うべきか?
 「無党派とは未だ党は選択ができていない左翼的層」という定義が崩壊した時代でもあった。
 いまから思えば。でもあるが。
 
 そして卒業(時に中退)して社会に入っていく共同の準備をどういう形でやれたのだろう?
 自分を当時の現場に置きなおしてみたとき、どんな答えを見出せるのだろうか?

 「オーバーサーティー」。つまりは「30歳を超えたら体制内の秩序派」という若者の鋭く激しくせつな的心情をどう誘導し、どう応援するか?お互いに、今はそんな歳になった。