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【注】
  1. ()内は当ブログによるメモ。途中からかなりパスした。
  2. 手紙やノート関係は基本的には ◇をつけた。
  3. 第三部の小見出しは実務上の都合で一分削るか改変した
  4. 第一部は110頁。第二部は80頁。第三部は156頁の構成である
    (うち、第七章最終の地 は80頁。第四部に匹敵する)。
  5. 写真は高田裕子さん(74年夏、25歳 2012年7月16日没)
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高田武 地下潜行 高田裕子のバラード

 
どびらの詩
    生活 (ラシ)    結婚 ( シュウゲン ) ( バゲ )(抜粋) 
 痩へだ体コくつげでも なんも()ぐぐねジヤ
 ああ俺達二(オラダツに)人ア  ()あだりぬすむ(はえ)()(オンナ)しだ
 明日がらお() ( ムラサギ ) (ハガマ) ()はいで黒い ( くろい )まんと かぷて役所 (やくしょ) ()グのガ 
 貧 (ひん) (クセ)婿(ムゴ)花嫁(はなよめ)
(きゅう) な             (きゅう)
なんも(オカナ)グね       あれア (カジュ)ア吹いで
ドロの樹アジャワめでるんだネ
(津軽『方言詩集 まるめろ』高木恭造)
 
目次
部 野暮な男が新左翼運動に
武が上京した                                                  P
京浜工業地帯でプレス工に
  ・京浜協同劇団の研究生
・沖仲仕が、ハッチをのぞくと
・米軍ノースピアでは、キャタピラに肉片が
・組合つくって馘(くび)になり
 
いきなり「イスト」を渡された
・なぜ、革命が可能なんですか?
・二足のわらじを脱ぐ
 
70年安保11月決戦」へ
 ・破防法の発動
 ・看護婦さんら一六人逮捕された(慈恵医大病院)
 
第二章 出会い                                                        P26
府中拘置所 (69年10・21で1年余の拘置生活)
                【注】トラの檻 (ベトナム)
 ・小西三曹の決起にうたれた (7か月の自衛隊暮らしと落合さんとの文通)
 ・陰が陽に変わる解放感と三島由起夫の反動
 ・わが血でつぐなう「血債」
 ・「七〇年八‣三海老原殺害事件」のトゲ (暴力革命の叫びと梅本克己の意見)
 ・際立つ「慈恵反戦ニュース」 (6911月決戦の獄中で)
 
ランチに誘って (裕子との出会い)
 ・「先輩が、なんで人の女を盗るんだ」
 ・最初の記憶 (裕子に話した生い立ち)
 ・岡田君のおにぎりを盗んだこと
 ・「駆け落ちしてください」 (あなた、私のこと、好きでしょう!)
 ・準急から飛び降りた (棄郷)
 
一九七二年、五自衛官の決起-小西反軍闘争へ     
 ・革命的反軍闘争(慈恵から反軍へ)
 ・革マルが掲げた「他党派解体」内ゲバ論
 ・反軍闘争にも内ゲバ
 ・常任らしからぬ風采の上がらぬ男 (今井公雄による記憶)
 ・ここでは要領を使わない(「軍隊は要領を本文とすべし」。吉葉忠)
 ・六つ又ロータリー別れの涙(革命と殺し合いと裕子の涙)
 ・集団で銃剣術の訓練(法政。福井、小多)
    (73年12・23東京駅会戦で事後逮捕。75年3・14後の保釈)
    732月、裕子、非合法非公然に移行。直後に婚姻届け)
 
第三章 独自任務を自己流でこなし                      P66
眠らない夜
 ・内ゲバを戦争に変えた「一二-四襲撃」
   (海老原、法大への襲撃リンチ。憎悪の連鎖。政治局の沈黙することの帰結)
 ・政治における「敵」規定と憎悪
 ・本多書記長が殺され、非公然活動へ (雲の上の人々と川口顕)
 ・非公然活動に就いて (インフ=索敵情報活動)
 ・革命運動らしきスリル
    (夕暮れのバスで、小多妹)
 ・革命軍募兵に応じた裕さんは…(家族面会)
 ・「四〇代、五〇代の人生はないものと思っていたの」
    (西田はるみは裕子の先輩。そして横須賀緑荘の誤爆死と裕子)
  はじめてハンドルを握って飛ばす!ふたりの青春劇画)
   (裕子との共同インフ作戦)
  デカたちに追われ
  ・ナーバス電話作戦
  ・立っても眠りこけ
   組織防衛と主体性と
    (秘匿と粛清との微妙なバランス感覚)
  立っても眠っていた(力の及ばぬ限界。中島みゆき)
 
二 一九七五年、横須賀緑荘誤爆事件
・本州の北端へ・ 武装闘争路線の破綻
    (夕子叔母さんのもとで「戦士の休息」)
    (武も転職)
    (先制的内戦戦略 75年9月と内戦の第2段階 80)
    (86年、武に全国指名手配。裕子,岩手爆取で逮捕)
    (裕子は実は迎賓館迫撃砲攻撃に直接関わっていた)
武装闘争路線の終焉
 
三 雪原で野ウサギに見送られた
・七夕よりもいいよ
・心に残る人の親切
カマドから火が走り
シェパードにかまれて
雪の川に流れていく馬
テルとチャメ
 
四 組織内レイプ、裕子が犯された 79年?)
(幾多の戦闘と裕子の思い)
(「ターちゃん、もう、ダメなの? もう、終わりなの?」)
(武の思いと決断) (北さんの返信)
(その後の裕子の戦闘。合同庁舎、自民党本部火炎攻撃、そして迎賓館)
 
第二部 それぞれの試練                              P118

第四章 武は地下潜行、裕さんは爆取りで逮捕       P118
一 全国指名手配
・焼却炉を使ったら、自己批判 (ハーさん,仲山と権ちゃん。軍事とは…)
・顔も上げられず (ついに指名手配。軍のOと若いP)
二 潜伏生活のリアル
・指先のパンくずを払った瞬間 (潜伏先の家人の前で鉄拳が)
・「水槽に手を入れるとき腕をまくるな」
・なるべくして始まる殴り合い
・「朝飯を一五分で作れ」 
・ついに包丁がテーブルに
・「死んだ目をしていた」
・信州の青い空に弾けて
 
第五章 岩手爆取裁判―明治の亡霊             P140
一 岩手爆取裁判 ―高田裕子の最終意見陳述
・取り調べが拷問になるのは、
   最終意見陳述(以下、目次と要旨)
   女性解放の願いを込めたたたかい
・爆取法廃絶を!
法を守らぬ裁判官に人は裁けぬ
転向強要の暴力性の中に革命の現実性がある
最大の親孝行は、革命に勝利することだ
抑圧された人びとの非転向のたたかい
・松代大本営地下壕跡
・日本軍軍隊慰安婦
・革命運動を担う女性たち
   ◇結語(ベートーベンの第九)
  
    保釈歓迎集会 (94329日?一審判決と釈放)
    生きて会えるなんて
・永田洋子との文通を止められた
    岩国さんの妹のように(田川和夫との別れ)
二 「十五年」潜伏、いまひとつの成果
    (94,裕子の保釈と武の後半戦)
 腰痛を解す (心身が壊れないという感覚)
 (凝り=こりは懸命な生理的防御反応、痛いところが体のサイン…)
 

   【注】以下第三部は別稿で

朝日新聞本社は私にとって、営業上のお得意さんでもある。
色んなマスコミを試してみたけれど、読売やサンケイは出入りの人も少なく、同業も相手にしない。
東京新聞も残念ながら営業の対象にはならない。
朝日から乗る人に話しかけてみたけれど、朝日の人は意外と少なく、出入りの業者だったり、地下鉄から降りた人や隣のガン研関係者の方が多いような気もする。 

 「慰安婦報道」の「撤回」以来、朝日新聞には在特会がしょっちゅう張り付いて嫌がらせの「宣伝行動」を続けている。事実上のタクシー乗り場の前に着けるので、タクシーにとっても営業妨害がはなはだしい。最近の乗務員は軒並み年寄り化しているので「触らぬ神に祟りなし」とおとなしいが一昔前なら集団で追い出していたに違いない。
 「嘘と隠ぺいの朝日新聞は 読まない! 買わない! 買わせない! アサヒは国民の怒りを知れ」というプラカードやゼッケンを着けていたけれど、最近は「買わせない」の部分を隠すようになったらしい。

 ただこの間も、「イスラム国」問題には沈黙したままだ。(今後どうなるかは知らないが)

 
 それとは別に、田母神のツイッターがネットで話題になっているそうだ。
 以下。
 「在日? 後藤健二さんの母・石堂順子さん 田母神俊雄氏が「違和感」を表明」
 

 「自己責任」論が意外とおとなしい感じの中で、臆病な後藤さん非難、後藤さんの母親非難が、「嫌韓・在日攻撃」の形を取ってやれないかという試行なのかと思う。反イスラムを在日非難を水路にしてやりだそうということか?中東やイスラム世界は日本人の意識としては良くも悪くもあまりに遠い。
 知らない世界に右であれ左であれ、「日本人の価値観を元に正義を持ち込む」ことがあまりに無力・非力だということも無視できない。
 それにしても、こんな奴が空幕長に収まっていたということがおぞましい。
 こんな奴に「まともな戦争」ができるか?「戦争を組織できるか?」という面も無視できない。


たまたま気にいったブログからt


 
 

 だいぶ前に、本多さん虐殺の真相がアップされていることが判明した。
 とりあえず、転載する。
  私が聞いたこととほぼ合致する。

  運動の中から正面から語られなかったのが残念だ。
  これもまた、もうひとつの「50年史」といえる。


2007年12月31日 (月)

2007

【取材メモ】本多延嘉・中核派書記長「暗殺事件」

〝事件取材〟を長くやっていると、まったく別件の思い掛けない話が飛び込んでくる。都内でも有名な地上げ物件の取材をするため、関係者に会っていた際のことだ。この人は地上げについては肝心なことは何も言わなかったが、何故か急に、俺は学生の頃、中核派だったんだ、と話し始めた。71年11月の「渋谷暴動」(沖縄返還協定批准阻止闘争)で逮捕されたこともあったようだ。この時は、機動隊に攻撃を仕掛ける部隊に配属されたという。
「たまたま、俺は寝過ごして、〝早朝召集〟に遅れてしまったことがある。これは後から知ったことだが、革マルがその時、死んでいる。地下に潜っていた当時の仲間と30年ぶりに最近会ったよ」
周知のように、中核派と革マル派は長期にわたる「内ゲバ」を繰り広げ、その死傷者は1000人に及ぶとされている(現在、両派は公式に表明していないが、実質上、内ゲバを停止した模様)。そうした内ゲバの中でも、「暗殺」と位置付けられているのが、75年3月14日に埼玉県川口市でおきた中核派・本多延嘉書記長に対するテロである。「犯行声明」を出した革マル派が、最初から本多書記長の殺人を目的としていたことは明らかで、このテロは革マル派が組織の総力をあげて実行したものであるとされる。
「革マルは警察を装って本多さんが交通事故にあった、と夫人に電話した。当然、夫人は防衛上の観点から前進社(中核派の公然拠点)などに事実確認の電話をしている。ところが、夫人の電話はすべて革マルのアジトに繋がるように工作してあったのだ。本多さんの身の回りの物を持って出掛けた夫人を、革マルの別動隊が数時間にわたって追尾した結果、本多さんのアジトがわれてしまった」(前同)
この時、本多書記長の所在を知らされていたのは、夫人と極く限られた中核派最高幹部だけだったという。

秘密保護法に反対する鎌田慧氏の短文を読んだ。
 で、私が「逮捕・処罰」されるかどうかは別として、取り調べやガサを受ける可能性や処分される場面を考えてみた。
 
 まずブ当ブログから‥‥
 ①1      稼いで生きるでは、米軍基地に堂々と侵入する方法(基地ゲリラ)の手法。
  米軍基地の近くで出入りの業者の車を調べて、そこに勤めればよい。(当然、ゲリラの後はすぐに本人が特定されるけれど)。そんな体験談だ。
 
 ②同じ項の原発労働者
  当時私は逮捕歴20回ほど。2つの裁判を抱えていた。当然、公安の監視下にあった。
  原発は「厳しい保安」の下にあり、テロリストは厳格に排除されるはずのところ。
  しかしその厳しい基準を難なくクリアーして、定期点検中の原発の中に入り、作業ができた。
 
  理由は簡単だ。当初は「地元還元」の雇用確保と言われたけれど、おかしな事件が重なり、また恐ろしい防護服や出入り時の放射線検査に「普通の人」は恐れおののいて、はるか遠方からしか人が取れなくなったからだ。
 もちろん「作業員名簿」で厳格に管理する。けれど官庁も元請けも、頭数さえ合えばよい。下手に厳しく検査すれば人手が足らなくなる。いざという時には、下請け・孫・ひ孫に責任を負わせれば済む。
 ということで、採用歴=勤務歴半年程度の私が、「実務歴10年?」「資格保有○○」という書類の下で派遣された。
 「履歴はサバを読ませて書いておいたから、出先で余計なことを言うなよ」と念を押されて‥‥。
 不法な「公文書偽造」なのだろうけれど、それが暗黙の了解事項だ。
 
 ま、出世街道を歩む人々には目に入らないことかもしれない。現場などには何の関心もない人々なのだ。実務を担い、その職場に根付いている下級・中級官僚や、元請けの下級職制(担当部署)さえ分かっていれば世の中は回るのだ。
 で、そんなことを暴露し、働き口をどう探せばいいかを示唆すれば、それもまた「警備の実情の暴露」に当たるのかもしれない。もちろん私は居酒屋で、馴染みの客を相手に自慢げに話し、そんな話がだんだん広がるわけだ。

新しいことではないけれど‥。

軍事の解体を、とりあえず10余年・数段階に分けてみよう。他の見方もあるはずだけれど?

1.「90年」から始まる「浮上」。
 公安がどう出るか?を読む。「○○が浮上した」という事実によるメッセージ。そして公安の対応というメッセージ。
 その積み重ねには時間もかかった。公安の出方次第ではどう転ぶかも分からない。

2.浮上組の処遇
 当時と過去(70年)の互いの位置に応じたポストの必要。
 けれども20年の離別の後、互いの距離感を計るにはどんな秤があったろう。
 互いに幹部連も離脱その他で歯の抜けたクシ状態。穴埋めや抜てき・降格で共通の「基準・目安」もない。
 70年の互いの関係を基準にすれば、中央幹部の総とっ替えが必要だ。
 
 そしてまた何よりも、戦場の血を浴びた兵士たちを「平和な組織」に迎えることは可能か?という根源的問題。

 幹部たちにはそれ相当のポストを保証して、下部兵士たちは有名無実・有閑のポストを与えて分散させる。
 内部抗争のことあるごとに、「武力」をちらつかせる元軍をどう解体・無化するかは、清水さんや天田さんににとっても死活・解決不能の難題だったに違いない。
 他方で、彼らの存在が、中央批判を抑圧する無言・有言の圧力(GPU?)としてこの時代の「安定」を担保したと言う見方もある。

3.三里塚の武装闘争の継続
 略。(見方によっては軍事派のガス抜きの側面もある)。
 白井さん・角田さんへの「内部」テロは、この時代の最後の時期に当るといって良いだろうか?

4.「関西の3・14」
 別名「党の革命」。(ある人は「革命と言うよりはクーデタ」という)
 関連しての中央でのクーデタと政治局・諸組織幹部の粛清。
 この過程でようやく「軍の最終的解体」が実現したらしい。

 「革命軍戦略」の清算には、10有余年かかったということか?
 清水さん・天田さん・中野さんたちにとっても、この過程はあまりに長く重苦しい。彼らが持てる全てを使い果たした過程ともいえるだろうか?

 「求心力を維持し高めつつ、全てを抱えていざ『大西遷』」の結果が、今日の「中核派」というべきか?

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