伝聞ですが。

80年代の神奈川には、ちょっと変わった人がいた。
 全逓の担当についた変人さんは、社会党系の組合執行部や他党派の核となるメンバーにのこのこと、唐突に会いに行っては語り合った。全逓職場には門外漢の元学生の中核派が、彼ら現場の他党派とまともな会話が続く、ということで「中核派にも面白いやつがいる」という噂が広がる。
 結果として、現場の中核派のメンバーにとっても活動範囲が大いに広がった、という。青年婦人協議会での主導権争いでも、社会党系の牛耳る親組織の容認を受けてずいぶんと有利な地歩を築いたのだという。

 彼の全逓メンバーとの付き合い方も一風変わっていたという。
 車座になって雑談と世間話をする。そんなときに、その一員となって耳を傾け、頓珍漢な話も交えて溶け込んだ話をできるようにつとめたのだという。仕事というものは、いちいちの作業や機能とならんで、いろんな人のいろんな想いで形ち付けられる。その現場での想いを織り込んで、主張も政策も練り上げられる。

 そんなことのできる常任は、この頃は神奈川ですらすでになく、指導し,問い質し、管理するのが任務という常識になってしまっていた。

 そんな中で(彼の下で)育った全逓メンバーが90年代の一翼を担った。
 けれど当の彼は、その頃には消えてしまっていた。
 県党の中で、(神奈川ですら)そんな存在は許されなくなっていたのだという。
 
 彼の後に似たようなことをした常任が生まれた。
 親身になっていろんな相談を受けて対応し方針化しようとした。
 けれども彼女も同じ道を辿った。
 後者の場合、問題は「左翼の基礎的素養」に欠けていたともいう。
 80年代の学生出身者には、反スタの素養や、左翼としての基本を学ぶ経験も無く、「路線・路線」で完結するしかない。そのことに違和感を覚えても、個人の問題意識や資質があってもどうにもならない領域があまりに多かったとも言えそうだ。
 地区や支部(現場・細胞)での世代間格差もありそうだ。
  「若い常任」として扱いが軽くなる。
 「路線主義」への縛りがいっそう体質的に局限化したただ中でもある。
 そして中核派をめぐる周囲の対応の変化も大きく変化していた。

 中央の指導の問題でもあるけれど、孤立した諸個人の集合体としての学生戦線でどう学ぶかどう学習指導するかは、第1級の難題だったのだろう。だからこそ、もう一つも二つも「路線」が練り上げられなければいけなかったのだ。

 というよりも、「路線=単一または一元」か、良くても「限られた数少ない許容幅」という「路線主義」が「綱領的大きさ」や「三全総」や「総路線」を排して全てを覆ってしまったこと。小さく固まってしまったこと。
 
 今の時代、中央派も大きく変わったようだが、広がりも深みも感じられない世界観も、人間観・社会観もしみだして来ないような「路線主義」も、その根本からの批判・脱却への格闘は感じられない。