最近の記事への備考として


新自由主義 全てが労使関係から語られる。
真に血債を取るなら‥いまだ鮮明にできなかった障害者解放闘争 核心的なポイントだが
人間的共同性の奪還 たまに出てくる人間性云々、ここでは労働者>障害者論だけ確認しよう。労働者「本体」>障害者論と一体?
自立の積み重ね 議論の歴史を歪曲しすぎだ
[1]障害者解放闘争の勝利なくして 「その意味で」に意味あり?「特殊的闘い」を呼びかけるものでもない、がポイントか?
[1] 団結以外 「特殊的闘い」を呼びかけるものでもない、がポイントか?
[1] ましてや 労働者自身の事業云々。だから、そういう言い回しを排して議論が有ったのでは?
[1]歴史的に労働者階級そのもの 歴史的に戦争と兵士や農民や商人たちだったのでは?
[1]革共同の障害者解放闘争 革共同以外の所から始まったことを見据えよう
[1]諸戦線は別立て 諸戦線の組織論的歴史はジグザグを繰り返している。軍令と戦争の党の下での歴史を振り返りたい。
[1]意欲的な周辺の同志 何だろう?意欲的でない多くの同志の存在?そう。中核派にあっても、そんな現実が覆ってきたのだ!!もともと〈意欲的でないメンバーやトンチンカンな意欲性を発揮する同志も〉少なくないのは〈若者の共産主義者〉にはありがちだ。また、大人になればなるで「大人の対応」に紛れて「現実的」になるのもある種の必然だ。そこをどう克服するかは、ある意味で「人生そのもの」でもある。政治的・革命的人生では答えは得られない問題でもある。中核派もある意味「成長」して差別への居直りに転じたのだと受け止めるのが自然かもしれない。問題はそこから「意欲的同志」とその活動をどう位置づけしなおすのかということとして問われる。改めて運動論的にも整理しなおすべき課題なのだと思うけれど、それを捨て去ってしまったように感じる。
[1]障害者就労への障壁 一貫しているのは、障害者への就労の機会は飛躍的に増える、という認識。
[1]労働者バッシング 是非は措いて、確かにスタンスのコペ転か。