芝工大事件⑬ 69年11月決戦をどう戦うか 週刊読売インタビュー
No112 「週刊読売臨時増刊号」各党派インタビュー 中核派
[ブログ註]「謀略論の世界」について深めたいと思いつつ、行き悩んで時間が過ぎていきます。正直、私の手に負えない。
「閑話休題」の意も込めて、『野次馬雑記』から引用して、ひとまずは、少し幅を広げます。
当時の中核派の「11月決戦」論とはどんなものだったのか?
(その実態は?結果は?) 実は、このブログの究極の本題でもあるけれど、じっさいの課題ではない。以下引用。 … … … … … … … …
野次馬雑記(引用元)
1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。
No109で1969年11月13日号の「週刊読売」臨時増刊号について紹介したが、その中の各党派代表者へのインタビューを、党派ごとに抜粋して紹介する。
第1回目は中核派。
写真は友人のK氏が持っているマル学同中核派法大支部の「中核旗」。
K氏は反戦高協と行動を共にしていたので、68年後半から69年頃のものと思われる。赤旗に黒マジックで「中核」の文字。
時間が無い時は、このようにマジックで旗に文字を書いていた記憶があるが、街頭闘争で使ったものか?
… … … … … … … …
[ブログ註]改めて、当時の主張を読むと、改めて度肝を抜かれる思いがする。今回の「芝工大事件」「その謀略論の世界」、を検証するには…。ま、とにかく、読んで欲しい。歴史の大きな一齣だ。
(中略)は元のブログによる。
【勝利の展望は、機動隊の粉砕から】
週刊読売 1969.11.13臨時増刊号(引用)
[ブログ註] 今回の場合は「発行日」=発売日らしい。
『全学連中核派副委員長 林 信次(横浜国立大)
<まず70年安保を、どういうふうに、なんのために闘わなければならないか>
はっきりいえば、革命のために闘う。(中略)革命というものは帝国主義あるいは資本主義そのものの生み出す矛盾が人民の耐えられないところまできたときに、人民そのものが不満と怒りをその権力者に対して向けるときに起こる。
そういったものを社会主義の方向にいかに導いていくのかが問われるわけで、それをぼくらが、あるいは組織というものがになわなければならない。
この原則に基づいて安保粉砕の闘いを70年あるいは70年代においてやろうというわけだ。(中略)
<中核派の幹部としてあなたに聞きたいが、安保粉砕に追い込む見込みと、その時期について>
おそらくは、70年代の階級闘争というのは安保粉砕、日本帝国主義打倒を掲げて闘われるだろう。そして、その安保が粉砕できたら日本帝国主義は倒れる。
となると70年代の全闘争に新たな地平を切り開くであろう11月闘争のいかんにかかっているとしかいえない。
<すると11月の佐藤訪米阻止闘争が重要になってくるのか?>
(中略)10月非常時体制が敷かれている。(中略)全国十何万、東京で二万五千、防犯部、刑事部の私服刑事をすべて公安刑事として登用するというふうにして、われわれを押さえつけようとしている。(中略)
10月非常時体制、この新しい統治形態の過程を打ち破るかどうかによって、70年、あるいは70年代は決まるというふうに見ていいだろう。
そういった意味で11月佐藤訪米阻止闘争こそはきわめて歴史的な意味をもった決戦であると思う。(中略)
<民衆のエネルギーの爆発がなければ、革命は達成されないと思うが、具体的に中核派としてそれをどういうふうに動員していくのか?>
(中略)組織というのは目的を追求するけど、大衆は勝てないと思ったらやらない。いまの大学闘争についても若干いえると思うが、かって大学治安立法といえば1万人近い人数が東京だけでも集まっていた。
それが最近少なくなっている。それはなぜか。
機動隊万能主義というものにぼくらが十分にまだ打ち勝っていない。あんなに機動隊が出てはもう大学闘争に勝てないんじゃないか、ということが一つの問題になって伸び悩んでいる。
11月にぼくらが機動隊を一部において、できれば全部においても粉砕できるかのどうか、やはり国家権力の暴力と、われわれの暴力との対決になっている機構を知っておく必要があると思う。打ち破らなければ勝てはしない。(中略)
やはり機動隊をいかに粉砕できるか、しかもそれが機動隊粉砕の闘いと同時に、その方向性は沖縄奪還であり、安保粉砕、日帝打倒であることを全体にしみわたらせようということだ。
やっぱり大衆に勝つという展望を与えてやる必要がある。それはぼくらが一部分でも機動隊を粉砕すれば、大衆は「勝てるじゃないか」という気がする。
必ず後からついてくる。(中略)
[ブログ註] ウーン!「決戦前夜」の高揚感は伝わる。「わき目も振らず真っ向勝負」「武装闘争一直線」。「その頂点的戦い」
ただ、今回のテーマから見ると、「わき腹を衝く謀略」への配置は見えない。反戦(労働者)の決起の持つ意味も欠けている。ま、「中略」部分もあるが…。また、学生の任務と党の配置の違いかもしれない。
別な側面から言えば「前衛・ボルシェビズム・選ばれたる者がすべて」観も絶頂に。
たぶん私も東拘の中で読んだのだろうと思うが。
参考までに以下。
10.21国際反戦デー闘争 (1969年) - Wikipedia
1969年の 10.21国際反戦デー闘争 (10.21こくさいはんせんデーとうそう)は、 1969年 10月21日 に 東京都 新宿区 を中心に発生した 日本の新左翼 暴動 事件。 国際反戦デー にあたるこの日、新左翼各派は前年の国際反戦デー闘争(新宿騒乱)に続き大規
佐藤首相訪米阻止闘争 (さとうしゅしょうほうべいそしとうそう)は、 1969年 11月16日 - 17日に行われた 新左翼 による闘争・事件。 警察官487人、一般人65人を負傷させたほか、学生1人が死亡し、近代日本史上最大の2500人超の逮捕者を出し、
芝工大事件⑫ メモと補足 まとめと写真二つ
事件についての主たる訂正・補足部分と要旨
① 中核派の拉致事件のターゲットについて。私は「人違い」説だったが、必ずしもそうではない。
② 事件の関係者=逮捕者(起訴・不起訴とも)に現役の埼大中核派メンバーが含まれていたこと。
事後対策において、同人の潜伏・逃亡を中核派中央が指導していたこと。
③何よりも、拉致された反戦連合メンバーの奪還のための議論と行動に、滝沢さんの死亡までは埼大中核派が全体として関与していたこと。
その結果、「その時私がそこにいたならば、もしかしたら私も芝工大突入し加わり、被告になっていたかもしれない」という想いを抱くようになったこと。いわば天動説から地動説への転換を体感したこと。 「転落死」に関連するいくつかの事実。(未)
④ 中核派の「正史」の書き換えを(未)
こんなことを並べてみると、どうしても滝沢さんへの弔意が後回しになってしまう。現役または元中核派の他の人がもっともっと協力してくれれば書き方も全く変わると思うのだが、ここでは止むを得まい。
『前進』 第 2019号 「滝沢紀昭」での検索結果
https://www.bing.com/search?q=%E6%BB%9D%E6%B2%A2%E7%B4%80%E6%98%AD&qs=n&form=QBRE&sp=-1&lq=0&pq=%E6%BB%9D%E6%B2%A2%E7%B4%80%E6%98%AD&sc=1-4&sk=&cvid=F4A2363FB96A4FE993F456642DA9F7A0
事件の被告・逮捕者
「死闘の」7か月の中で中核派として逮捕・起訴されたメンバーは少なくない。第1次羽田・第2次羽田・王子野戦病院突入・占拠、そして東大安田講堂などだ。ちなみに羽田弁天橋で装甲車の上で革共同の旗を振り回して事後逮捕されたのも、「教養学部」の中核派だった【注1】。
事件の時には芝工大には行かなかったが、少なくとも2人の中核派が関連して逮捕され、事後逮捕・不起訴になった。
【注1】教養学部とは、主として1,2年生向けの教養部とは違い、独立した学部。理工系ブームの時代に、理系と文系の垣根を超えた「学際」学部として新たに設立された。
北小路さんは失脚し、三里塚で逝去。日大生は離脱、川口さんは離党して近過去(near past) 奥浩平への手紙 (RED ARCHIVES 02)。
埼大生は、私の前高の同窓。「ジッパチ羽田」では唯一の事後逮捕、か。「革共同の旗を振った『旗振り罪』」とも言われた。後の芝工大事件の被告。
埼大中核派の行動と立ち位置(補足)
総じて埼大中核派は、滝沢さんが転落死するまでは、救出工作に積極的に関わり、この点に限ってはいわゆる「反戦連合」【注2】に協調・協力的だった。
埼大中核派は、反戦連合ほかの諸グループに対しては政治的優位を感じてはいたが、学内政治では孤立に近かった。
[補足]
①その場にいた埼大中核派は、襲撃・拉致直後には、襲撃から逃げた2人が負傷して倒れていないかを、「反戦連合」とともに探してもいた。
②中核派メンバーは「芝工大突入」の会合には同席していながら、参加していない。「行こう」の声もかからなかったからーーというのが一因、とも言えそうだ。
前夜17日の埼大バリケードへの「黒ヘルメット」での襲撃への、中核派中央の関与の程度は正確には不明だ。ただ、他大学生の部隊など、学生中央指導部の指導・関与が有ったとみるのが順当だ。
転落した人々は、前夜の襲撃者の一員だったと見るのが順当だ。
また、前夜の襲撃・リンチ・破壊の様態や落ち着いた立ち居振る舞いは、ゲバ慣れを思わせるが定かではない。襲われた人の述懐では、「喧嘩慣れしていない」という感想もあった。
早稲田革マルの偽装?
その上、この夜、早稲田の革マルに「今夜、埼大と早稲田の反戦連合が襲撃をかける」という予告電話が入っていた、という落ちまである。!!という。
……… ……… ………
その後の私
一度だけ、浦和地検に乗り込んだ。事件の公判資料を読みたかったからだ。資料の閲覧はすぐできたが、中身は全く理解できなかった。あまりにも膨大すぎて、しかも限られた時間の中での閲覧だけ。
対革マル戦の真っただ中、互いに住民票などの公式資料を閲覧しあっているというマスコミ記事もあった。敵権力のど真ん中で、私自身の緊張感も高かった。たぶん、70年代のなかば。
冒頭にあげた諸問題にはここではほとんど応えられなかった。
判決を報じる毎日新聞記事71年12月18日

画像を拡大するには、右クリック➡その他のツール➡画像の拡大
この時期は、71年11月決戦の直後。71年「12・4反革命」の直後でもある。
たまたまこの日の社会面の記事には、解放派との内ゲバの記事もある。
中核派は、「全方位」の内ゲバにあけ暮れていたらしい。
芝工大事件⑪その実相㋺ 時系列ⓑ増補改訂
【ブログ注】先ずは、前夜の襲撃と未明の転落死までに絞る。
赤字はくり返し出てくる名前の索引替わり。
今回は調書の正確な引用をせず、要旨のみ書いた。
【ブログ注 2】
「埼大生たち(新左翼系諸党派やグループ・諸個人)の想いに沿って、まずは事件の全体像を描き出す」
今回の項は、大きく増補してまとめ切りたい。結果、前にアップしたものよりもだいぶ長くなる(本文はA4で4.5枚。文末脚注も同量)。
【ブログ注3】㋑㋺㋩は一部で削除したので飛んだ。
【1】
前夜の襲撃(79年9月17日夜)
㋑この日は後期期末試験の最中だったらしい。
北浦和の文理キャンパス[a]のバリケード封鎖を受けて、大学当局は当初の下大久保キャンパスへの全面移転計画をさらに前倒しにし、休み明けにはⅠ,2年生はもちろん、ほとんどの学部学生たちも下大久保キャンパスに移っていた、らしい。以下はほぼすべて、文理キャンパスでの話。もちろん、芝工大大宮校舎も舞台だ。
事件の数日前には、反戦連合のリーダー格の3人が経闘委部屋に押しかけて、滝沢さんに20番台教室に移れと要求[b]している。その時滝沢さんが殴られて、眼鏡が飛んだ、という話もある。部屋のドアを外して[c]、中庭に放り出した、とも。この後、中核派は、抗争を避けて、拠点を理闘委(中核部屋)に移した。狭義の反戦連合と中核派の不和・対立が高まっていた。
㋺経闘委部屋の襲撃
事件のあった「経闘委部屋[d]」(教養部長室=事務棟=本部棟)では、この夜、広義の[e]反戦連合などのメンバーが数人、テレビを見ながら談笑していた。バリケード封鎖した本部棟にはここしかテレビが無いので自然とみんなが集まる場所になっていた。
夜の21時頃か?「5,6人[f]」とされるメンバーがこの部屋を急襲した。
「見慣れないヘルメット」と鉄パイプで脅しをかけるが、初めは「悪質な冗談」かと思ったという。じきに「襲撃」を体感した。侵入者が鉄パイプで滅多打ち。
反戦連合のリーダーの重尾さん[g]は、とっさに2階の窓から飛び降りた。地面でモンドリ撃ったがなんとか立ち直った。
ブラウン管(テレビの画面)を鉄パイプで突き破り、
「○○はいるか?」「××はいるか」…と糾問する。
それぞれの名は、「反戦連合」のリーダーやリーダー格とみられる学生の名前だった。
リーダー格の武闘派君[h]は、「お前は誰だ。名前を言え」という糾問に「オレは○○」と偽名で応じたが、自分が狙われていることを知って、重尾さんに続いて2階の窓から脱出し、樋に伝って、するすると下に降りた。
㋩「経闘委部屋が襲われたらしい」という報に、学内にいて駆け付けたやはりリーダー格の東大君[i]は、部屋の外の見張りに「お前は誰だ」と問われて「東大だ」と答えて、「お前が東大か」と部屋の中に連れ込まれ、リンチ。東大君は先に名前をあげられた一人だった。
ほかに5~6人の埼大生が部屋にうずくまり、1人が倒れていた。多くがケガをしていた。
この時、襲撃者たちは「お前ら、早大の文学部1号館を襲ったろう。早大ではよく見かけるな」というような事を言っていた。[j]
同じ階の別室に居た、中核派の団交君[k]は騒音に目が覚めて襲撃と見張りを見て、あわてて向かいの文理2号館[l]に逃げた。
㊁この時、文理キャンパスには6人くらいの埼大中核派メンバーも居たが事態は知らずだ。うち5人は理工学部。
㋭その一人のの免許証君[m]はノンセクトの黒ヘル君[n]と中庭にいた。事務棟と文理2号館のあいだの中庭で、バリケードのゴミなどを燃やしながら焚火に当たり、雑談していたらしい。
㋣東大君の拉致 やがて襲撃者たちは、東大君を目隠しなどして連れ出して、人目のつかない所で車に乗せて消え去った。
【2】】深夜の緊急集合(17日~18日)
㋠事態を知った学生たちが駆けつけてきた。
埼大生たちは、襲撃者が去った後、活動家や元活動家などの下宿[o]を訪ねて事態を知らせた。喫茶店ロビンでは会議をしていた東大闘争(安田講堂)の被告団10人ほどが話を聞いて駆けつけた。何人かが「内ゲバ」に嫌気がさして消えた。
22時頃には経闘委部屋に数人が、0時頃(1時?)には30人か40人ほどが集まってきた。女性も数人いた。この時点では襲撃者は、民青かどこかの右翼か?という推論がほとんど。「早稲田の革マル派」を疑う声も強くあった。ごく一部には「中核派も疑わしい」という声もあった。
負傷者たちに同行して深夜に近くの診療所に行く人もいた。
㋷「中核派による襲撃」が明るみに
2階の窓から飛び降りた重尾さんが戻ってきて、「中核派説」が確定した。
彼が飛び降りた時、階下の暗闇の中から滝沢紀昭さんが飛び出してきて襲い掛かり、数百約メートルにわたって、叫びながら追いすがったという。
この直前、異常を感じた黒ヘル君が焚火から離れて駆けつけると、滝沢さん[p]に「捕まえろ」と指示されて、追い着いた相手が旧知の重尾さんだったので、あわてて離した、という。
ただ彼は、「中核派の襲撃」と知って免許証君ほかに「襲ったのは中核だ」と言い捨てて憤然としてキャンパスから出てしまった。結果としては中核派以外には話は伝わらずにいた。
埼大中核派はこの時、文理2号館2階の「独元」の部屋を拠点としていたが、「中核派による襲撃」と聞いて、急遽、簡易のバリケードを築いた。しかしそのバリケードを抜けて入ってきた埼大生に頼まれて、先に逃げだしていた二人の消息を求めて、路上を歩き回った。
ただ、すでに、東大君の拉致の事実は知れ渡っていて、「救出」が喫緊の共通の課題になっていた。相手が革マルだとすれば、早稲田の例があり、半殺しのリンチの末、山中に放置されて野垂れ死ぬ恐れさえ感じられた。
深夜0時頃(1時頃?)には事務棟と文理3番棟の間の中庭には埼大学内の反民青・新左翼系の党派・グループ[q]のほぼ全てが集まっていた。重尾さんに続いて、黒ヘル君もまた、襲撃者の中に滝沢さんがいたことを話した。
㋦埼大中核派が各々「自己批判書」 襲撃者たちが中核派であることが確定して、居合わせた埼大中核派(この時点では4人)の各々に自己批判が要求された。
「30分」の時間が与えられ、その間に1人を除いた全員が書いた。
中庭で襲撃への自己批判、「知らなかった」「知らされた居なかった」「そういう形での滝沢さんの独断への批判 など」(略)
批判[r]に応じてさらに新たな自己批判書。
【3】東大君の奪還工作
いずれにせよ焦眉の課題は、「どう奪還するか」だった。
経闘委部屋に場所を替えて、議論された。司会役は重尾さんと大物さん[s]。マル学同書記局員だったが、この間は事実上離脱していた人だ。
彼の「仲裁」も有って、埼大中核派は報復のリンチを逃れ、会議にも参加していた。
㋸現役中核派の責任者が前進社に工作電話
拉致された場所も不明なまま、最初の案は、前進社に電話することだった。現役中核派の理闘委君[t]が大役を任されて、ほかに数人が付き添った。結果は思わしくなかった。前進社には留守の電話番しかいなくて話にならない。拉致の場所はおろか、滝沢さんの居場所もわからない。「知らない」。当てにしていた埼大出身の初期局員のMさんもFさんもいない。
埼大生の声。「中核派も堕ちたな。中央書記局の奴らは、埼大中核派を見殺しにするのか」
㋾「拉致・監禁は芝工大か?」 そのうちに守衛室に滝沢さんからの電話があり、理闘委君の呼び出しがあった。別の埼大生が電話に出ると、切られてしまった、という。ただその時、電話口からザワザワと人の声が有ったという。 「滝沢さんは芝工大にいる」。色んな推測の結論は出た。
㋻中核派・免許証君が芝工大に
滝沢さんをおびき出し、拉致された東大君との人質交換をしよう。
現役中核派の免許証君がその大役を引き受けた。人質交換の場は埼大経済キャンパスで。
もちろん、滝沢さんもろとも捕まえて、自己批判も迫る。
免許証君の「負傷」の偽装のための包帯姿はそこにいた女性が担った。
午前1時半か2時頃、免許証君は芝工大にタクシーで飛んだ。
芝工大の中核派との交流にも参加していた免許証君は、キャンパスやバリケードの様子も知っていた。
会議室で寝ている滝沢さんを見つけて起こして反戦会議の部屋に。
「埼大中核派が学内に取り残されて、報復のリンチを受けている」「どうしたらいいのか?指導を望む」。
しかし滝沢さんは[1~2時間待て]「もうちょとまて」と答えただけで天井を見つめるだけだ。自分の借りたレンタカーが芝工大にあることは分かった。時間が過ぎていく。外にはタクシーを待たせている。免許証君はあきらめて、タクシーで埼大に戻った。未明の4時半ころか?
会議の間に回ってきたお握りを食べた。
㋕免許君の責任感[u]
【4】未明の芝工大突入(18日)
㋵「埼大反日共系の全勢力」が救出に突入
ぐずぐずしていると東大君がどこか別の場所に移される恐れがある。
東大君の行方の唯一の手掛かりの滝沢さんも居なくなるかもしれない。だから朝早く出発しよう。「やるんならこの期を除いてはチャンスがない。あとは幸運を祈るしかない」。
多くの埼大生が芝工大突入を決意した。同席していた埼大中核派には声がかからなかったが、団交君は「中核派同盟員の責任」として参加を決めた。
北浦和駅から大宮へは、始発を待って国鉄で行った。大宮からの始発はより遅い。バスも来ない。で、駅前のタクシーに分乗した。
芝工大の近くで再結集して学内に入った。
学内の大まかな地図は、免許証君の話で分かったので、一部のメンバーはヘルメットを被ったが、被らない人もいた。
バリ封鎖されている2号館の近くで、立てカン用の角材で一部が武装。一部はバリの中で手ごろな角材で武装した。ある人はこーもり傘を手にしていた。結局武装したのは一部にとどまった。
バリはすごく狭い通路で、相手の出方も分からず、本当に不安。バリを抜けて広い場所に出てホッとした。そーっと2階に上がっても物音もしない。
先頭の一部は「反戦会議」[v]の部屋を覗いたが誰もいなかった。別の学生は、隣の部屋で、寝ていた男を起こして「東大君の居場所を知っているだろう」と詰問した。各自がバラバラに別々の部屋に侵入していた。
会議室のバリケードを抜けた発見者君[w]は、7,8人が椅子や机で仮設したベッドで寝ているのを発見した。滝沢さんもいた。
「滝沢が居たぞ」と叫ぶ。
その声に目が覚めた滝沢さんが慌てて眼鏡を付け、周りを見渡す。
声を聴いて埼大生たちが会議室に駆けつけた。
会議室に泊まり込んでいた学生の内、滝沢さんを含めて4人が朦朧状態で窓際に集まった。
㋟滝沢さんの転落死と他大学中核派[x]3人の転落・重傷
そして、相次いで窓から飛び降りたり、転落した。
「逃げたぞ」と誰かが叫ぶ。「落ちたぞ」の声も。
階下に駆けつけた人たちは、頭から血だらけで身動きしない滝沢さんを発見した。
反スタ君は慌てて、電話ボックスから119電話をした。
「滝沢さんは死んだ!」そう思うしかない。バラバラに逃げた。
㋹芝工大で学生が死んだというニュースが遅くとも午前11時か正午頃には流れていた。
残されていた埼大中核派はこの時点で、その場にいた4人全員が池袋・六つ又ロータリーの前進社に向かった。駅から前進社に電話した[y]。
前進社では数人の「幹部」が、「権力責任」説を語り、免許証君の潜行[z]を指導した。他の学生は埼大に帰った。
㋞当夜の通夜と翌日の「全学葬」(埼大生=広義の反戦連合)
その日の夜12時頃、広義の反戦連合が文理の文4教室で通夜。10数名が参加した。
「通夜」らしく事件の話はしないで滝沢さんの想い出話。「短距離は苦手だったが長距離は得意だった」。約4時間ほど。
芝工大に突入して後に逮捕された学生も、芝工大には不参加だった学生もともにいた。
翌19日の昼、午後3時頃?、バリケードを撤去し、祭壇を作り「全学葬」。
【5】下大久保キャンパスでの追悼集会と陶山氏の発言
㋧陶山健一氏の追悼発言(前記記事)
【6】転落した4人の学生
㋶死亡した滝沢さん以外の3人。慶大生君は記憶喪失。
都立大生君は12月15日に「建造物侵入」で逮捕(前記事)。芝工大生はその後「行方不明」(潜行?)
【7】12月、一連の一斉逮捕
㋰超広義の「反戦連合」(埼大の反日共系全勢力)の一斉逮捕(12月~1月?)
㋒関連する中核派の逮捕も(12月から1月にかけて(都立君・免許証君))
㋼マスコミの報道と『前進』(略)
㋨裁判と判決(脚注)[cc]――
【8】仮の結論 もしも?もしも
㋔もし、拉致事件が無かったら? もしも、「革マル派の偽装」も無かったら??
事件も滝沢さんの死亡も無かった?!
㋗生死の分かれ目。 もし、未明で無かったら??? 寝ぼけまなこで…。
もし、下がコンクリートでなかったら?
(前夜の襲撃でやはり「2階から飛び降りた」重尾さんとの対比で)
もし、拉致から逃れた東大君の電話が通じていたら? もし、 もし、…
㋳「権力の大謀略」論という世界観とは?(後日)
㋮その後の影響。「広大、勝共の謀略」論、ほか。
https://yuigadokuson999.livedoor.blog/archives/316173.html
[a] 文理キャンパス 北浦和キャンパス・常盤キャンパスともいう。ほかに大学当局の本部を含む下大久保と、経済学部のキャンパスがある。
当時の学生総数は約3千人。東大・早稲田・法政の1割程度だが、元々は「中核派の拠点校」
[c]部屋のドアを外して 【註】以前に「バリケードの破壊はすさまじかった」と書いた私の記事の一部は、この行為によるものだったらしい。
テレビや書棚のガラスが砕けていた。
この時、「(滝沢は)埼大から出ていけ」とも言われた、と。滝沢さんが「俺を権力に売り渡すのか」と憤慨。下記、「6・12事件」参照。
この時、中核派としては、「反戦連合の連中も弱みをさらけ出したものだと嘲笑的に受け取り、胸を張って堂々と移転した」。
以前から感情的に対立していたこともあった、という。中核派が反戦連合に「」「腐敗分子」「」反革命」というレッテルを貼り、面と向かって言ったこともある。(下記・【d】経闘委部屋、参照)
6・12事件 下大久保キャンパスで羽仁五郎氏の講演会をめぐり民青と激突。新左翼系はゲバ棒で民青を襲い、会場を確保した。共産党員の教授らにより告訴。結果として6人ほどが逮捕された。新左翼系をまんべんなく覆う逮捕で、痛手も大きかった。滝沢さんも手配されていたらしい。数人が起訴。私も東京拘置所から逮捕・移送されたが不起訴。 この時の行動隊長(部隊指揮)はやはり重尾さん。
[d] 経闘委部屋 教養部の学部長室。教養部と教養学部とは別。元々は「闘争者連合(東大君など)」の割り当てで、その活動停止を受けて、この間は経闘委部屋になっていた。事実上中核派の部屋。
問題の端緒は、闘争者連合が復活して、部屋割りを戻せと求めたことにあったらしい。
活動方針上の対立では、9月5日の全国全共闘の結成を受けて「埼大全共闘」の結成を求める中核派と、「実態は8派の党派的野合」とする反戦連合の反発もあった。今やほとんどの学生が通う下大久保キャンパス内の理科棟の封鎖を言い出した中核派に、叛乱会議が反対、反戦連合も後者を支持。(民青が武装支配する下大久保への進出は、長期・大規模なゲバルトと「告訴」を伴う総力戦)。
直接の対立ではないが、理工学部では、19日に予定した当局との団交を進める他グループや団交君と、団交そのものに反対する滝沢さんの対立があった。理工学部執行委員会は事実上、消滅していたが、名目としては残っていた。(民青との2重執行部)。
襲撃のあった時も、経闘委部屋の近くの叛乱会議の部屋で、6,7人で団交の打ち合わせをしていた。
主に下大久保キャンパスで活動する「1連協」の改組という中核派の動きもあった。
[e] 反戦連合 埼大では、主に教養学部(教養部とは別)が拠点で、学部自治会(執行委員会)も握っていてが、中には別の2,3のグループが有ったとも。(被告の構成)
全国的には東西で展開されたらしいが、首都圏では、早稲田の「全共闘」と埼大が拠点。法政や東大駒場は「非公然」に潜行したという。ま、中核派も革マル派も許すはずがない! 反戦連合の消滅で「中核派には内紛や分裂はない」という「神話」が確立した。早稲田革マルも参照⇩。
[f] 5,6人 経闘委部屋に突入した前夜の襲撃者。ただこれに滝沢さんを加えると「6,7人」ということになりそうだ。東大君の拉致で同乗したのは、4人ほどだとすれば、残りは徒歩で解散か??
[g] 重尾さん 反戦連合のリーダーの重尾さんは元埼大中核派キャップ。「激動の7か月」の過程で民青執行部を打倒して、臨時全学自治委員総会で全学執行委員会の委員長になった。副委員長は私。「7か月」の後、埼大中核派は疲れ果てて、滝沢さんの経済学部を除いて休眠状態になった。
[h] 武闘派君 異色の反骨の人。「反戦連合」系の非左翼?両者の対立の先鋭化に、暴力的「仲裁」?
[i] 東大君 安田講堂の前後?「ホンの一時」、中核派に加盟した。ただ、学内などで中核派として活動したことはなく、東大などに入り浸っていたらしい。
彼の演説を聞く限り、東大助手共闘など「研究者」たちの論理だ。「反戦連合のリーダー格」ではあるが、元中核派のそれとは違う。「物理学科闘争者連合」は、当時の3年生たちの有志。かつては「中核派のシンパ名簿」にあった人たちなど。ま、埼大には反日共系や3派系は中核派だけだったころだ。
[j] 早稲田革マル そのリンチと拉致
この年69年5月19日、早稲田の1文学生大会で激突・流会。逃げ込んだ革マル派を反戦連合など全共闘が火炎瓶などで攻撃。駆けつけてきた諸党派がリンチ。翌日以降、全国動員の革マル派に襲われた反戦連合7人がリンチされる。高橋公氏ら7人が長時間のリンチの末、狭山や多摩などの山奥に放置された。川口大三郎君虐殺(1972年11月8日)に先行する。この前年、解放派は革マル派との攻防で敗北して東大駒場に逃げ、そこでも敗退していたらしい。私の知らない所で、「革マル派のテロ支配の時代」が始まっていた。
高橋公氏の兵どもが夢の先 | 人文・社会 | 株式会社ウェイツ参照。
当事者が語る学生運動|桑原亘之介 - note(ノート) から
(略)…その当事者は自分の体験を時系列で説明し始めた。1969年4月、大学本部を占拠中に全共闘と革マル派との戦いが勃発して、5月の文学部の学生大会は全共闘と革マル派執行部が競い合い、流会になった。
革マル派が学友会室に逃げ込み、それを全共闘が追いかけ、外から投石、火炎瓶
で攻め立てた。機動隊が入り、革マル派10数人を理工学部のサークル部屋に連れ 込んで、他大学のセクトが来ていて「テロった」。
それは5月下旬のことだった。
「俺たち全共闘は”止めろ”と言った。全共闘は大衆運動を重視し、テロで相手の肉 体を痛めつけるような理論武装をしていなかった。しかし、セクトは日頃のうらみつら
みからやってしまった。そこで機動隊が入った」。
狭山の山中でリンチに遭う
その後、何日か経って、革マル派が全国動員をかけて襲ってくるという情報が入っ
て来たので、どう対応するかということで早大全共闘の会議を開いた。革マル派を早 大で迎え撃つか、逃げるかの結論が出なかった。
それぞれのセクトで対応を決めてから1時間後に再び集まろうとしたが、各セクトはみんな逃げてしまって再び集まるこ
とはなかった。
最終的に残ったのは早大反戦連合の7人だった。本部バリケードを死
守することにした。しかし、一日中意見を戦わせていたので疲れてしまって、不覚にも 、見張り番も含めてみんな寝てしまった。
そこに革マル派が襲ってきた。証言者はいう「拉致されました。15号館の地下でリンチされた。7人は(リンチの後)次々にホロ付のトラックに乗せられて、都内各地で一人ずつ捨てられて、ある者は上野公園に、私は狭山の山の中に連れていかれ、リンチされた」。
「全身打撲だった。ほふく前進して山道まで出て、工事現場にパンを入れているおば ちゃんに拾われた。アジトに電話をしてもらい、生きていると伝えてもらった。本川越駅まで送ってもらい、西武新宿駅に着くと仲間が来ていて、高田馬場の病院に入院し た」。
[k] 団交君 中核派メンバー。9月13日の経闘委部屋での反戦連合側による事件以来3日ほど、文理キャンパスに行かなかった。で、滝沢さんに叱責された。本人は、「中核派の同盟員としての責任」という自覚で、芝工大に行った。理工学部。
[l] 文理2号館 「20番台教室」とも言う
[m] 免許証君 理工学部。下の【v】免許証君の責任感を参照。
[n] 黒ヘル君 理工学部。純無党派。
[o] 下宿 正しくは「間借り」か。当時は、主として食事つきを下宿、と呼ぶ頃。ま、地方によってという面も。こんな時間にも、留守が多かった。階段下の3畳一間、便所(トイレ)は共同、も。
[p] 滝沢さん この日「久しぶりにバリケードに来た」。遅くともこの年の春には、革共同に加盟し、埼玉県委員会にも所属していたらしい。併せて中核派系の全学連中央執行委員でもあり、中央の諸任務や県内中核派の指導的役割で忙殺されていたらしい。
[q] 埼大学内の反民青・新左翼系の党派・グループ 中核派や反戦連合のほかに、理工学部叛乱会議(構改=構革系)、物理学科闘争者連合、教育学部闘争委員会(育闘委=無党派=元中核)、1年生連絡協議会(1連協)、安田講堂被告団(諸党派・個人)など。その他ブント系も。『前進』紙上などでの報道や追悼文などもあるので、時に「広義の反戦連合とも」「埼大生」とも表記する。中核派の主な大衆団体としては、経済学部自治会・経済学部闘争委員会(経闘委)、理工学部闘争委員会(理闘委)など。事件の後に革マル派が別の「育闘委」を名乗り登場。
[r]自己批判への 更なる批判 「第1に、党派闘争であるならば、白ヘルを被って来るべきだ」など。
[s] 大物さん 私が入学時のマル学同キャップ。その後、SOB(中央書記局員)。69年の冬に書記局を離れて、埼大にいた。事件の当時は中核派と反戦連合を取り持つような位置にいた。私も含めて埼大中核派のメンバーも多くが慕っていた。
[t] 理闘委君 中核派。68年の春?私から理工学部の大衆団体の指導を譲った。
[u] 免許証君の責任感 中核派としての党派性ははっきりした人だが、他党派の人々と親しく付き合う人だった。この夜も、中庭で黒ヘル君と談笑し、数日前には反戦連合のメンバーらと喫茶店で団らんしている。この頃はまだ、普通の光景だった、と言っても良さそうだ。
この日午後3時前、彼は川口でレンタカーを借りた。事務棟の器具を質に入れる予定だった。そのキーを、滝沢さんに言われて渡した。その車が拉致事件に使われたのだ。彼は「前夜の襲撃」の話も聞いていない。その痛憤と、拉致に自分が借りてきたキー(車)が使われたことに「自分にも責任がある」。「私は東大君を救出するのに力を貸すのは嫌ではありませんでした」
[v] 反戦会議の部屋 この頃、諸大学では中核派直系の大衆組織として、この名を使う場合が多かった。突入した埼大生たちは、東大君がこの部屋に拉致されている可能性を想像していたらしい。
[w] 発見者君 反戦連合。狭い入り口を抜けて会議室に侵入した彼は滝沢さんを発見し、「居たぞ」と叫んだ。声を聴いて応援に駆けつけて会議室に入ったのは15人ほど。元々は私の理工学部での最初期の仲間・後輩。三里塚現闘に派遣された‘△△君と並んで、理工学部中核派の中堅だった。芝工大の会議室に泊まり込んでいたのは7人ほど。他に別室に2人?
[x] 転落した他大学の中核派3人 慶大君、都立君、芝工大君。慶大君は転落して、転落・頭蓋骨骨折、左耳内部損傷、腰椎骨折など。「逆行性健忘症」で、事件の1年前から事件後の記憶を失った。都立君の逮捕を受けて、芝工大君も長く潜行。ともに不起訴。滝沢さんは、脳損傷(脳挫傷)などで即死。ちなみに、他に泊まり込んでいた他党派などの芝工大生は、軽傷か無傷。 その後、バリストなどの闘争を継続した、という。
余談ですが、芝工大のバリケード・芝工大闘争は、その後も続いたそうです。山田純一さん(元芝工大全学闘委員長)を追悼する
[z] 「権力責任」説と免許証君の潜行 幹部クラスらしき2~3人。「事件は反戦連合が仕組んだものだ。反戦連合は権力のスパイだ。滝沢君は反戦連合の白色テロに殺されたのだ」
翌19日、「権力から任意出頭がかかるかもしれないから、免許証君は法政に残った方が良い」⇒その後、免許証君は、鳥取市局や群馬で活動(潜行)。年末に帰宅し正月3日、逮捕➡不起訴。
[aa] 拉致された東大君のその後 東大君は猿ぐつわと目隠しをされて事務棟から連れ出された。生協の裏手?あたりで座らされ暴行された。それからまた別な場所で座らされた。その後、キャンパスの外で車に乗せられた。同乗したのは4人ほど、と想像している。
車はたぶん1時間ほど走り、「浦和へは戻るな。戻れば命が危ないぞ」などと脅された末、田んぼの広がる所で解放された。熊谷の近くだったらしい。知らぬ土地でうろつき、電話を借りてタクシーを呼び、友人宅にたどり着いたのは午前2時過ぎ頃?
応急手当のあと、文理に電話をかけたが通じなかった。(守衛室は巡回中で留守だった?)。主に下半身、腕、背中、頭にも擦り傷や打撲の区のキズがあった。疲れ切っていて4時過ぎには眠りについた。
この日18日中には学友と間接的には連絡がついたが、多くの学友と連絡がついたのは20日ころ?その間、病院ではレントゲン検査で骨折は無かったので、以降は自分で市販の薬や湿布薬で治療した。
[bb] 埼大中核派のその後 下大久保キャンパスでの追悼集会絡みでは、滝沢さんの親族の応対。その後も数人が、「中核部屋」にとどまり、11月決戦に臨んだ。事件の前には??経済学部でも自治委員選挙で民青に敗北。民青の学部執行委員会が樹立されていた。「経済バリケードの解除決議」も。その後、安田講堂被告たちが戦列に復帰して、いわば「新生埼大中核派」が生まれた。
[cc] 裁判の結果・判決
70年4月24日、「統一被告団」(15人)の公判始まる。傷害致死罪などの2人(α組)と凶準などだけの13人(β組)の二つに分けられた。αβは便宜上ブログでつけた【ほかに、未成年の少年審判が2人、個々人の分離裁判が6人】。
71年12月17日、統一被告団の同日判決。傷害致死などの2人(α)には懲役3年、執行猶予4年、凶準などの13人(β)には、懲役1年6月~懲役1年。執行猶予3年。
α組は、検察側・被告側の双方が控訴。減刑。
◆予期せぬ出来事 (毎日新聞71年12/18)
(略)傷害致死、凶器準備集合罪などに問われていた**と**の判決公判は17日…裁判長は二人に懲役3年、執行猶予4年を言い渡した。(α組)
同裁判長は判決理由で
①学生が死亡したことと、重尾、発見者らの暴行とは因果関係はあるが、直接結びつかない
②学生が窓から転落死したのは予期せぬできごとだった
③前日の内ゲバで重尾と発見者は被害者だったーーなどをあげ、予想以上に軽い判決となった。
また共犯の…計13人(β)に対する公判も同日、別に開かれ、全員に執行猶予つきの懲役1年―1年6月の判決が言い渡された。
*α組は、検察側・被告側の双方が控訴。
◆埼大生らに執行猶予 (東京新聞71年 12/18)
芝工大の内ゲバ殺人判決
(略)…同裁判長は判決に当たり「被告らの行いの発端には同情すべきものがある。また深く反省しているので更生の道を与える」と執行猶予を付けた。
[dd] 前夜の襲撃と拉致計画の素描の考察
改めて検討すると、そのずさんさ、ご都合主義的で無謀なプランは、度外れだ。「時代の風潮」としての内ゲバそのものの問題性をおいて、以下、検討したい。
①
埼大中核派に知らせもせずに、学外からの動員だけで襲撃を敢行したこと。いったいなぜ?
取り残された埼大中核派はどうなると思っていたのか?
②
前夜の襲撃は、当時学内にいた(同じ本部棟や向かいの文理2号館)埼大生の新たな逆襲の危険を冒した。中核派の白ヘルを被らない襲撃だったからだ。
同じことだが、「中核派による襲撃」を押し隠せば、翌日からの学内展開も、自由にできる、という事だったのか?
当時の党派間内ゲバの姿からしても、あまりに「常識外」だ。
③
このことを何度も考えていると、やはり「拉致」「革マルの偽装」こそが襲撃計画のかなめ・本丸であったと思えてくる。そしてあまりにも「幼稚な主観的・思い付きプラン」だ。
中核派性を隠し、早稲田革マルの拉致事件を装えば、①②はクリアーできる。襲われた側は数倍の恐怖と危機感に追い込まれる。
結果として、恨みと怒りに満ちた反戦連合の存在を埼大から消滅させることができるかもしれない。
仮に、
とはいえ、やはり甘い。
④
計画の立案者が本当のところ誰だったかは不明だ。あるいはちょっとした遊び心が芽生えたのかも知れない。「ブラックユーモア」だったのかもしれない。多くの新左翼系の若者がやくざ映画にしびれた時代でもある。陰謀渦巻く世相を描いた映画に人気が集まった時代でもある。
しかし結果は最悪で重大な事件につながり、滝沢さんの死や、埼大新左翼勢力の逮捕と消滅につながった。
⑤
伝聞によると、出獄後の本多さんは事件の詳細を聴き、「○○の××」と犠牲者を罵った、という。
⑥
重尾さんの回想によると、69年のはじめ?、腹を決めて池袋の六つ又ロータリーの前進社を訪れ、1階の喫茶店で本多さんと対面したという。
色々な想いを話したのち、本多さんに問われた。「で、お前はどうする?」「反戦連合で行きます」。「そうか、自分の思うとおりにやれ」。
本多さんは学生たちに「自由にやれ」、と勧めていた、という。
米の対イラン戦争の現況 遠藤誉さんの論評 中国論から
【ブログ注】アメリカ中心の記事や論評が多い中で、中国問題に足場を置いた論考はとても参考になります。青文字は原文のまま。関連記事にリンクしています。
……… ……… ………
習近平国家主席がやっと動いた。
習近平は、友好国イランを米イスラエルに攻撃されて、トランプ大統領を北京に迎えることが困難になっていた。しかし今パンダ2頭をアメリカに貸与することになったということは、トランプを北京に迎えても大丈夫な状況が見通せたということではないのか?それはすなわち、イラン情勢が好転することを習近平がつかんでいるということを意味する可能性が高い。
◆表立って動かなかった習近平が対米パンダ外交に
イラン攻撃が始まったその日から、習近平は王毅(外交部長兼中共中央政治局委員)に全ての中東関係国と接触させ、ひたすら即時停戦を呼び掛けさせてきた。何と言ってもトランプ訪中が約束されていた中で突然、中国の友好国イランが攻撃されたのである。
本来なら友好国イランを守りたいところだが、昨年まで続いてきたトランプとの「蜜月」を壊すことはできない。だから習近平は全ての関係国に即時停戦を求めるよう王毅を動かししたが、トランプを表立って批判することはしていない。
その板挟みから、4月9日の論考<トランプ「中国がイランを停戦交渉の場に引き込んだ」 習近平の思惑は?>に書いたように、停戦仲介という大きな仕事をしながら、「中国に功労があったわけではない」という種類の、それを否定するような事さえ、その後中国では発信する者が現れている。
しかしここに来て、突如、アメリカにパンダを2頭貸与することを決定したのは、イラン情勢に好転がみられていることを把握しているからではないのだろうか。イラン情勢の内部事情を一番よく知っているのは中国だからだ。
もちろん現在アメリカにいるヤンヤンというパンダがかなり衰弱していて返還の時期も来ているという要素もあるかもしれないが、それにしてもタイミングが絶妙だ。
◆イラン代表がパキスタン、オマーンとロシアを歴訪
何かあると思っていたところ、案の定、4月24日、中国の中央テレビ局CCTVは<イラン外相がイスラマバードとモスクワを歴訪>という見出しの報道をした。それによれば、イランの情報筋として「イランのアラグチ外相は現地時間4月24日夜からイスラマバード、マスカット(オマーンの首都)、モスクワへの歴訪を開始する予定だ」とのこと。
CCTVは同日、<情報筋:アメリカとイランが第二回会談をする見込み>と報道した。しかし、これはあくまでも「見込み」で、その後、アメリカによってもイランによっても否定され、アメリカはウィトコフ代表などが行く予定はあるが、バンス副大統領はワシントンで待機しているというアメリカ側のニュースが流れた。もっとも、アラグチ外相が同日夜にイラン代表団を率いてパキスタン入りする予定だというのは確かなようだ。ここはあくまでも流動的である。
それでもCCTVは同日、<米代表団が明日(4月25日)、イスラマバードに到着するかもしれない>という、パキスタン情報筋の新しい情報を流した。
中国は、兄弟国パキスタンとの関係をますます緊密にしており、4月22日に新華網は<中国の有人宇宙計画への最初の外国人宇宙飛行士の選抜が無事に完了 最終的に2名のパキスタン人候補者が選ばれた>と報道している。天宮宇宙ステーションに外国人が選ばれたのは初めての出来事で、それがパキスタン宇宙飛行士だったというのは注目に値する。
つまり事実上、中国はパキスタンとペアになって動いており、4月9日の論考<トランプ「中国がイランを停戦交渉の場に引き込んだ」 習近平の思惑は?>に書いた事実は真実であった判断していいだろう。
一方、2023年4月6日の論考<脱ドル加速と中国仲介後の中東和解外交雪崩現象>にも書いたように、習近平はイランとサウジアラビアを和解に持ち込み、その後「中東和解雪崩現象」を招いたという実績を持っている。
そのイランが、いくら米イスラエルによる奇襲を受け、ハメネイ師を含む数十名の指導層をいきなり爆殺されたからと言って、米軍基地のあるすべての中東諸国を爆撃したというのは、習近平にとっては、この上なく頭が痛いことだったにちがいない。
しかし、イランに攻撃を受けた中東諸国が、イランに対して怒ってはいても「米イスラエルが、オマーンが仲介してイランとアメリカの和平交渉をしている最中に、突如イラン爆撃を始めた」ということに対する憤りの方が大きいという事実には注目しなければならない。
中東の平和を乱したアメリカに強い憤りを持ち、常にイスラム国家を破壊しようとするイスラエルのネタニエフ首相を「絶対に許さない」という、激しい怒りをイスラム国家として抱いているということは重要だ。
◆中東イスラム諸国8人の外相が「イスラエルに非難声明」
現に、4月24日には、中東イスラム国家<8人の外相が共同声明を発表し、イスラエルのアル=アクサー・モスクへの入植者侵攻を非難した>とCCTVは報道している。
アル=アクサー・モスクというのはエルサレム旧市街の「神殿の丘」と呼ばれる聖域の南にあるモスクで、イスラム最初期に建てられたモスクの一つである。当初はイスラム教の最高聖地だったが、立地がイスラエルの実行支配下にあるが、管理はイスラム国であるヨルダン宗教省が行っている。
続きは下をクリックしてください。