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以下、呼び掛け文を転載します。

2025年の3⽉14⽇は、⾰共同書記⻑の本多延嘉が⾰マル派に暗殺されてから50年⽬を迎えます。
 この半世紀の間に、当然ながら関係者の⾼齢化が進み、故⼈となった⽅も少なくありません。
また、「⾰共同」を名乗る党派はいまも存在しますが、昔⽇の⾯影はなく、ここから分裂した党派や諸個⼈も各地に存在しています。
 相互の間の緊張と摩擦も横たわっています。
 本多さんがあの後ももし⽣きていたら、⾰共同はどうなっていたのだろうという想いとともに、改めて追悼の意を捧げたいと思います。

しかし私たちが、ここに「追悼50年の集い」に集まろうというのは、各地におけるそれぞれの孤軍奮闘が、世界戦争の切迫と⽇本階級闘争の危機の中で極めて重要であることを確認しつつ、⾰共同の短くない歴史を回想することで、これらの無数の闘いの⼀層の前進のための、何らかのヒントでも得られればとささやかに期待するからです。

いや、とてもそこまではいかず、「やあ久しぶり。何だ、まだあんた⽣きていたのか」と⾔葉を交わすことが精いっぱいの場合もあるでしょう。
それならそれでいいではないですか。

  ともかくこれは、おそらく本多さん追悼の最後の機会になるでしょう。

 本多書記⻑の思い出に導かれて、⾰共同の原点にたち戻ってみる、遠い過去にさかのぼって昔話に花をさかせる、そんな⼀時を過ごすのもまた⼀興ではないでしょうか。

 集会のあとには懇親会も準備しています。

みなさまのご参集をお待ちしております。
2024 年12⽉28⽇ 

3・15集会呼びかけ⼈⼀同
⾚松英⼀(⼭梨)、板倉元朝(兵庫)、⼀瀬敬⼀郎(東京)、岩本愼三郎(神奈川)、
江村信晴(東京)、尾上光(福岡)、川嶋澄夫(⼤阪)、北原⼤樹(福岡)、
楠⽊吉秀(⼤阪)、結柴誠⼀(東京)、今章(東京)、斎藤政明(⻑崎)、
新城節⼦(⼤阪)、⾼⽥武(広島)、廣瀬健⼀(京都)、槇(⽔⾕)けい⼦(東京)、
松⽥耕典(兵庫)、
⽔⾕保孝(東京)、宮城正明(沖縄)、向井拓治(東京)、茂⽊康(⼤阪)
(あいうえお順)

事務局 連絡先
Mail: honda.memorial50@gmail.com
電話 090-2425-7910 東條

  本多延嘉追悼50年の集い  集会要領
日時 2025年3⽉15⽇(⼟) 午後2時〜4時半 (1時開場)
場所 連合会館(総評会館) 402会議室
資料代 1,000円
懇親会費 参加⼈数確定後、お知らせします。(懇親会参加者のみ)

連合会館
〒101-0062 東京都千代⽥区神⽥駿河台3-2-11
TEL:03-3253-1771 

【ブログ注】

①呼びかけ人は第1次のもの。

②諸派・グループ系。当ブログの無責任な見立てでは、主な系譜・人脈・傾向として

㋑06年の3・14(関西地方委員会での決起)以来の。
 
関西派(橋本派)系、九州派(宇谷派)系。
  水谷・(故)岸系。旧戦闘同志会系。
  その後追放された人々≒岩本系など。
さらにまた、上記から
分離したグループや個人。
El5系(旧東北地方委員会の5人の地方委員)は不詳。

㋺それ以前に(60年代~90年代に)離脱した諸個人。
  社会評論社から出版した人々。
「9条改憲阻止の会」や経産省前テントなどに集う人々等々。
その他日大全共闘ほか。
元他党派の人々?

㋩もしかしたら「中央派(清水派)の一部もコッソリ顔を出す」???????(笑)

③私自身は私的事情から、本集会には不参加になりそうです。

  【お知らせ】新しいカテゴリーを始めました。

☆革命的共産主義運動の略年表
http://www.zenshin.org/blog/contens/w-profile.html#ko-z2410c

【前史】

1955年7月 日本共産党6全協
1956年3月 ソ連共産党20回大会で「スターリン批判」/10月 ハンガリー革命
1957年1月 革命的共産主義者同盟創立
1958年~59年 東大、早大など日共大学細胞で、スターリン主義との闘いに次々勝利
1958年夏 第1次分裂。トロツキー教条主義との闘い/12月 共産主義者同盟(ブント)結成

  【革共同全国委員会の歴史】

1959年8月 第2次分裂。トロツキー教条主義と闘い、革共同全国委員会結成/9月 全国委員会機関紙『前進』創刊
1960年4月 マルクス主義学生同盟結成。ブントとともに安保闘争の先頭に立つ
1961年1月 マルクス主義青年労働者同盟結成/3月 ブントの革命的部分が革共同に結集/夏 革共同第1回大会
1962年9月 革共同第3回全国委員会総会(3全総)。戦闘的労働運動の防衛と創造、地区党建設、革命的統一戦線について決定。動労千葉労働運動の原点/年末から翌春 3全総にたじろぎ、黒田と松崎らカクマル派が逃亡
1964年 原子力潜水艦横須賀寄港阻止闘争
1965年 日韓闘争(日韓条約批准阻止闘争)/8月 反戦青年委員会結成
1966年8月 革共同第3回大会
1967年2~7月 砂川基地拡張反対闘争/10月 10・8羽田闘争。羽田、佐世保、三里塚、王子の「激動の7カ月」 
1968年10月 米軍タンク車輸送阻止の新宿闘争(騒乱罪適用)
1969年1月 東大安田砦攻防戦。68年以降、日大・東大など全国大学闘争が高揚/4月 沖縄闘争(破壊活動防止法扇動罪適用。本多書記長ら逮捕)/10、11月「第1の11月決戦」。「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」を掲げて学生と労働者が武装闘争に決起
1970年6月 安保闘争。革命的左翼が社・共を上回る大衆的な決起/7月 闘う中国人青年からの糾弾を受け「連帯戦略」を形成(7・7自己批判)
1971年2~9月 三里塚軍事空港粉砕の土地強制収用阻止闘争/11月 沖縄返還協定批准阻止の「第2の11月決戦」(再度の破防法適用)。11・14渋谷暴動闘争で、後に星野文昭同志にデッチあげ殺人罪で無期懲役攻撃(現在獄中35年)/12月 関西でのカクマルの武装襲撃で中核派の2学生虐殺(12・4反革命)。二重対峙・対カクマル戦に突入
1973年9月 革命的報復戦の開始
1975年3月 カクマルによる本多延嘉書記長虐殺(3・14反革命)。3・14報復戦に突入。「先制的内戦戦略」を確立
1977年8月 動労千葉地本がジェット燃料貨車輸送阻止闘争に突入
1979年3月 動労千葉が動労本部から分離独立
1981年 第5回大会。先制的内戦戦略フェーズⅡ(第2段階)に転換。国鉄・三里塚決戦に全面的に突入
1985年10月 三里塚2期着工阻止決戦/11月 国鉄分割・民営化反対で動労千葉がスト突入。中核派が11・29浅草橋戦闘
1986年5月 迎賓館ロケット弾戦闘。権力は革共同壊滅の「5・7宣言」体制発動/10月 「10月の挑戦」と爆取弾圧粉砕の闘い
1989年7月 長谷川英憲氏が都議に当選
1990年 天皇・三里塚決戦
1991年5月 5月テーゼ路線への転換
1994年6月 マルクス主義基本文献学習シリーズの刊行開始
1995年秋 19全総
1997年12月 20全総。清水丈夫議長―天田三紀夫書記長の最高指導体制を公表
1999年11月 闘う労働運動の新しい潮流の形成へ3労組呼びかけの11月労働者集会始まる
2001年 第6回大会。黒田=カクマル完全打倒の勝利宣言
2003年 新指導路線/11月 日韓米の国際連帯闘争始まる/12月 新生マルクス主義青年労働者同盟結成
2006年3月 関西の労働者同志を先頭に「党の革命」に突入
2007年1月 階級的労働運動路線打ち出す/7月 7月テーゼを発表/秋 塩川一派が7月テーゼと階級的労働運動路線に敵対し革共同から逃亡/12月 新生関西党員総会を開催、労働者指導部を軸に新体制確立
2009年7月 サンフランシスコ国際労働者会議/9月 25全総開く
マル学同1000人、マル青労同1000人建設へ、世界革命勝利へ驀進中!

ガザに心を寄せていただいている皆さんへ

 

藤永香織さんからのメッセージです。

 

藤永香織と申します。パレスチナ・ガザ地区に家族がおります。今日は、ガザの家族

からのメッセージを読ませていただきます。

「日本の皆さん、こんばんは。僕たちはマッスーシーとムハンマド。今はハンユニス

郊外に逃げています。

 

近隣はドローンが飛ぶくらいですが、ラファヘの攻撃音が聞こえてくる毎日です。こ

れまで、爆撃音に怯えながら、明日も生きていられますようにと祈り、朝、目が覚め

たら生きていることにホッとする。

 

こんな生活が8か月以上も続いています。

 

ガザの人間というだけで、僕たちは殺されても仕方がないのでしょうか。僕たちは死

にたくありません。殺されたくありません。

一日も早く停戦してほしい、どうか皆さんの助けが必要です。僕たちがこれ以上殺さ

れる前に、どうか助けて下さい。」

 

電話が繋がった時、彼らの声のすぐ後ろにドローンの飛行音が大きく迫って聞こえる

ことがあるのですが、今にも子どもたちが撃たれるのではとドキドキします。

 

逆に、近所の子どもたちが遊びまわる甲高い声が聞こえると、活き活きとした命のざ

わめきが電話の向こうに満ちているようで嬉しくなります。

 

けれど、今この瞬間にも命を奪われている人がいるかもしれないと思うと、胸が苦し

くなります。

 

彼らが殺されていい理由など、どんなに探しても見つかりません。

 

もう、誰にも死なないでほしいです。イスラエルの人質も含めてです。そのためにも

、一日も早い停戦が必要です。

 

どうか、ガザに寄り添って下さい。あなたの助けが必要です。

あなたの関心が、あなたの行動が、ガザの誰かの命を救うのです。 一刻も早い停戦

の実現の為に、どうかあなたの力を貸してください。

 

以上転載です
転載・紹介が遅れて申し訳ありません。
パレスチナ・ガザ/時を共に、遥かなる空の下で - gooブログ

【ブログ注】『情況』最新号で語られています。詳細は以下


情況 2024年春号 [第6期6号] | 模索舎 A5 240頁


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【読後感】
岩本愼三郎『党はどこに行ったのか』 | 菅孝行

勝者なき「内ゲバ」の決算に一筋の光を見る
-岩本愼三郎『党はどこに行ったのか』 | 長島由紀夫


終わりなき葬送、過ぎ去らない惨苦
『自伝的革命論〈68年〉とマルクス主義の臨界点』 | 幸村燕

川元祥一著『部落差別の原因-国家による天候支配の思想=仏教の「殺生禁断」』
| 小林孝吉


 
……… ……… ………

【注】以下は目次です。「特集 食」 略しました

【連載】

川元祥一と文学者たち 第五章 | 河村義人
戦前は続いているのか?非断絶の戦時(16) | 髙井ホアン
情況喫茶 傍流からの展望 弐 | 中牟田聖司×髙田輝
解説 ウクライナ戦争論争 | 横山茂彦
【特集外】
ハマスと熱心党 安彦良和『イエス』と相澤文蔵の古代ユダヤ民族史研究 | 矢田部健史
マイケル・サンデルとトーマス・ヒル・グリーン | 野沢文哉

市田良彦の『フーコーの〈哲学〉』を徹底読解 後編
戦術談義 運動の技術/現場の工夫
| かわすみかずみ/ヨナカシンヤ/ひょっこり/小峰ひずみ

〈誌上インタビュー〉重信房子『パレスチナ解放闘争史』刊行記念
イスラエル批判を反ユダヤ主義と見なす論理を打破するために | 高橋順一

「#FreeKazehitoSeki」
ガザ虐殺抗議グラフィティを描いて勾留されたアーティストについて | 本誌編集部

コンビニから男性向け雑誌が追放される!? | 中山美里

『自伝的革命論〈68年〉とマルクス主義の臨界点』刊行記念対談I
| 笠井潔×長崎浩

部落差別とは何か | 川元祥一
漫画が伝える戦前の「原風景」 『鬼畜米英漫画全集』の刊行に寄せて | 髙井ホアン

〈独占インタビュー〉浴田由紀子
爆弾闘争50年 東アジア反日武装戦線元兵士が次世代に残す証言



【映画評】代島治彦監督『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』
腑に落ちぬ幾つかの事柄 | 菅孝行
川口君追悼とは真逆の虐殺者免罪映画 | 水谷保孝

【追悼】
追悼 桐島聡さん | 友常勉

【ブログ注】尾上さんのメールを転載します。

【狭山ヨタヨタ白杖記】

1)第59回三者協議(4月中旬)は狭山第三次再審請求審の流れを変えるチャンス

だ。家令和典裁判長に弁護団が一時間のプレゼンテーションを実施する。3月25日

の狭山全国活動者会議での報告にびっくりした。新しい裁判長に弁護団が狭山事件の

経過と課題を説明したらどうかと提案したのは大野勝則前裁判長だと報告された。第

58回三者協議(2月27日)での弁護団のプレゼン実施提起に検察官は持ち帰って意

見を言うと反対したが、裁判所は前任者の提案を前提に実施の方向で話はすすめたい

としたという。報告の内容もびっくりだが、何よりも三者協議での裁判官の息遣いが

聞こえる気がしたことにびっくりで、うれしかった。私は三者協議での裁判官の息遣

い、顔つき、ふるまいなどが知りたいのだから。これだけでも大阪に出てきたかいが

あった。この前例を大切にしてくださいと弁護団にお願いしたい。

 今回の狭山全国活動者会議は狭山再審無実の実現に向けて重要な時期と課題をテー

マにすべき会議だった。なぜなら次回・第59回三者協議で家令裁判長に弁護団が一

時間のプレゼンテーションを実施するのだ。第三次再審請求審の18年間で、10人

の裁判官が担当したが、プレゼンは初めてではないのか。18年間弁護団は191点

の証拠開示を勝ち取り、269点もの新証拠を提出し、事実取調請求を行い、石川一

雄さんの記者会見、52万筆の署名、マスコミでの取り上げなど狭山は動き始めた感

触がある。だが、裁判所の動きはっ全く分からなかった。裁判所は何の動きも見せな

かった。見せたのかもしれないが、私は知らなかった。今回の家令和典裁判長のプレ

ゼン決定は18年目にして、ようやく裁判所の動きが表に出たのだ、この機会を黙っ

て見過ごすことなど絶対にできない。いいプレゼンを準備したい。狭山闘争にかかわ

ってきた人々のすべての知恵と力と思いを結集して、家令和典裁判長のみならず、誰

もが納得するプレゼンを作成できないだろうか。

 プレゼンで家令和典裁判長の心が動くとしたら、それは家令裁判長がこのプレゼン

に社会・世論が注目していることを知るときだ。プレゼンが裁判所で実施されるのみ

ならず、それが公開され、石川一雄さんは無実だと誰もが納得したときだ。国家とマ

スコミと地域が部落差別をあおり、利用し、加担し、無実の石川一雄さんを殺人犯に

でっち上げた部落差別事件なのだと誰もが納得した時だ。世論がプレゼンの無実・部

落差別の真実を訴える迫力を感じた時ではないだろうか。そのためにはプレゼンの内

容をどうするのか、プレゼンをどうやって社会に知らしめるかが問題になる、このこ

とが今回の全国狭山活動者会議で議論される課題ではなかったろうか。

 

2)プレゼンの内容をどうするか。まず、第三次再審請求審はこれまでの二次の再

審請求審と決定的に違う。それは検察が隠し持っていた証拠の開示を勝ち取り、無実

の新証拠が明らかになったのだから。とりわけ万年筆インク資料鑑定は鑑定人の意見

を裁判所が聞くだけですまされるのではなく、科学的に白黒の決着がつくのだ。イン

クの色の違う万年筆を同一のものとした寺尾確定判決に重大な疑義が出てくる。再審

を開始しなければならないのは当然だ。この新証拠による石川さん無実の証明は弁護

団が全力を尽くして明らかにされるであろう。真実は必ず明らかになるのだ。

 さらに狭山事件の大きな特質のひとつに、警察の被差別部落への見込み捜査、新聞

報道での予断と偏見による部落差別の煽り立て、地域住民の加担がある。黒川みどり

著「被差別部落に生まれて 石川一雄が語る狭山事件」から引用する。

 

◇『朝日新聞』埼玉版(一九六三年五月二四日)は、「「底知れず不気味な」石川 

善枝さん殺し」との見出しで一雄逮捕を書き立てており、『東京新聞』も、「犯罪の

温床四丁目部落-善枝さん殺しの背景」「善枝さんの死体が、四丁目に近い麦畑で見

つかったとき、狭山の人たちは異口同音に「犯人はあの区域だ」と断言した」と記す

。被差別部落は犯罪の温床であるとの偏見を根底に持った一連の新聞報道は、一雄を

即座に犯人と結びつけ、さらに人びとの被差別部落に対する差別意識、恐怖意識を煽

り立てていった。以下は、当時の『埼玉新聞』(一九六三年五月二六日)の記事であ

り、こうしたものは枚挙に暇がない。石川の住む「特殊地区/環境のゆがみが生んだ

犯罪-用意された悪の温床」石川の住む”特殊地区”には、毎年学校からも放任され

ている生徒が一〇人ぐらいいる〔中略〕こんどの事件の捜査の過程で、同じような犯

罪を犯す危険性を持つ多数の若者達の存在が浮き彫りにされた(『埼玉新聞』一九六

三年五月二六日、『狭山差別裁判』第三九五号、二〇〇六年二月)。ー黒川みどり著

「被差別部落に生まれて 石川一雄が語る狭山事件」の35頁から36頁からの引用

 

◇さらに同紙の同日(『埼玉新聞』一九六三年五月七日)。のコラム「ヤブにらみ」

は、「八日までに犯人を捕えよ」という見出しでこのように記す。吉展ちゃん事件、

埼玉県の女高生誘かい殺人事件など、たび重なる捜査当局のミスに批判の目が向けら

れているので、篠田国家公安委員長は六日午前緊急国家公安委員会を招集した。委員

会ではさっそく二つの事件についての捜査の手ぬかりが追及されたが、篠田委員長は

「八日の参院本会議で事件の捜査経過を報告する予定になっているから、それまでに

犯人を捕えよ」と警察当局を督励していたが、委員会が終わって間もなく所沢の捜査

本部から「現場近くに住む”犯人らしい男”が自殺した」という情報がはいった。こ

れを聞いた篠田委員長「こんな悪質な犯人はなんとしても生きたままフンづかまえて

やらねば……」と歯ぎしりをしていた。ー同情83頁、84頁から引用

 

 そして5月11日に死体発見場所の近くの麦畑から発見されたスコップが何の証拠

もなしに死体埋設に使われ、石田養豚場から盗まれたものと断定され、被差別部落青

年への見込み捜査が強化され、石川っ一雄さんの別件逮捕につながっていく。

 別件逮捕から一か月近く頑強に否認していた石川一雄さんが、再逮捕後に「自白」

させられた。狭山事件を知った方々の大半が必ず、やってもいないのになぜ「自白」

したのだろうかと質問される。無実の石川さんは警察と検察に部落差別によって教育

をうばわれた結果の「無知」に付け込まれ、刑事のウソで弁護士への不信をかきたて

られ、お兄さんを犯人だと信じ込まされ、10年で出してやるからと狡猾なウソに載

せられてしまった。家の大黒柱をとられては一家は破綻する、自分が身代わりになり

、10年我慢すればと「自白」してしまったのだ。石川一雄さんは「短歌に託して④

」で

「泣くだけ泣いても癒えることでなし 怒りの渦は 日夜 坂巻く」

と詠っている。この短歌の読んだ思いを石川さんは

「だんだんいろんなことがわかってきて、私は警察官にだまされたことを確信した。

私をだました3人の警察官に復讐心がわいてきた。首を覚悟して死刑囚である私に、

文字を教えてくれる若い看守さんに、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)という漢字を教

わった。大きく書いて、部屋の中に貼った。だまされたことが悔しくて悔しくて、い

つも臥薪嘗胆をみて自分の心を奮い立たせた。」(短歌に託してから引用)

 プレゼンにこの短歌と石川さん自身の生の声を取り込んでほしい。

 

3)プレゼンで弁護団にぜひとも重視していただきたいのは寺尾確定判決を楽差別

判決として批判することだ。鎌田慧さんはその著作「狭山事件 41年目の真実」で

寺尾確定判決を「寺尾正二裁判長による完全犯罪」と指摘されている。寺尾判決から

50年目の今日、それが現実になりかねない危機感を抱いている。寺尾正二裁判長の

、いや司法と国家がもくろむ「完全犯罪」を打ち破る道はただ一つだ。それは寺尾確

定判決を部落差別判決として批判し、狭山事件が国家による部落差別事件、権力犯罪

だということを誰もが納得するように明らかにすることではないか。そこで寺尾確定

判決を部落差別判決として批判する要点を書く。

 寺尾判決は

① 自白を離れて存在する7つの証拠と5つの秘密の暴露が石川さんと関係がある。

② 石川さんの自供は、それを聴取した警察官青木が法廷で、自分は供述のまま記述

しており、石川さんはすらすらと自供したと証言したことは信用でき、供述は任意に

なされたものである。

③ 自供と証拠の食い違いがあるが、これは石川さんが命惜しさにウソをついている

と言う。弁護団は、①は新証拠として批判し、②は再審請求の理由の追加として裁判

所に提した。寺尾判決の問題は③の石川さん嘘つき論にある。

 寺尾確定判決は、裁判で人を裁くことができる根拠を経験則からなんの確証もなく

断定した。人が人を裁くことができる根拠をわずか数行の経験則論でだ。現在の民主

主義でも人が人を裁くことができる経験則など「発見」していない。だからこそ、真

実は徹底して証拠に依存し、熟慮に熟慮を重ねて、絶対に誤判をしないが原則なのだ

。誤判の恐れが少しでもあればそれは無罪にということだ。

ところが、寺尾正二は徹底した証拠への依存でも。誤判を絶対に起こさないでもない

裁判官の「全人格的能力による合理的思考」をもってすれば真実を発見できるとする

。この思考方法は弁証法的思考をもってするから正しいという。寺尾正二は真実は徹

底して証拠に、現実に依存することから見いだされるのではなく、裁判官の頭の中で

生み出されるというのだ。この転倒した思考は狭山事件の再審請求から57年間、一

度も証拠調べをすることなく、再審請求を棄却した裁判所の姿勢そのものではないか

 

 寺尾確定判決の核心は石川さん嘘つき論にある。その論をでっちあげるために、人

はどんな状況にあっても必ずウソをつく、ましてや滞在を犯したものであれば、命欲

しさにウソをつくと論じる。寺尾は自供と証拠の矛盾を自供の不自然さの追及ではな

く、部落民だからウソをつくのだというとんでもない偏見と予断をもって正当化して

いる。寺尾確定判決は直接的に部落差別に触れてはいない。だが、寺尾確定判決の中

に部落差別を容認し、その予断と偏見に満ちた証言を採用し、石川さん有罪の証拠の

ひとつにした。それは内田幸吉証言だ・

寺尾確定判決は

「同証人が中田栄作方を訪ねて来た不審な男のことを、事件後直ちに警察へ届け出な

かった理由について、同証人が原審及び当審で供述しているところは、結局届け出る

ことによって事件とかかわりを持つことが恐ろしく、わずらわしいということに帰す

ると解され、そのような考えで届出をためらい、後になって漸く届出をするに至った

心情も理解できないことではない。所論は、隣人が被害にかかっているならば、直ち

に犯人と思われる訪問者の人相、風体、年齢その他を警察に届けるはずだと主張する

が、一般世人の人情を理解しない見解と評せざるを得ない。」

 この内田証言の寺尾判決の部分は悪質な部落差別だ。内田の「事件とかかわりを持

つことが恐ろしく」とは部落は怖いという部落差別感情そのものであり、それを寺尾

裁判長は「一般世人の人情」として理解できるというのだ。しかもそれを殺人事件の

重要目撃証言として採用している。寺尾正二の言う「裁判官の全人格的能力による合

理的思考」とは部落差別を「一般世人の人情」として認め。おのれ自身もその片棒を

担ぎ、部落差別を積極的に容認し、その証言を採用し、石川一雄さんに有罪判決を出

したのだ。

4)最後に。

① 第59回三者協議の終了後に、記者会見を行ってください。その記者会見でプレ

ゼンを公開してください。プレゼンの内容は必ず世論を動かす。狭山再審請求は世論

を動かすことにかかっていると誰もがいう。記者会見こそその重要な手段の一つでは

ないか。

② 523日比谷野音での狭山集会に参加しよう。地方からの上京の困難さは狭山闘

争が生み出した現地調査のための物資販売などの知恵と経験に学び、クリアーしよう

。せっかく地方から上京するのだから、デモ終了後に、東京高裁前にいき、東京高

裁前の歩道を「地べたの法廷」として、家令和典裁判長にアピールしましょう。(2

024年3月28日 尾上光)
……… ……… ………

【追】2月26日、NHK総合テレビ「おはよう日本」の番組の中で、朝7時過ぎに再審制

度問題に関係して、狭山事件が報道されました。

以下にその録画を貼り付けます。

是非ご覧になってください。

 

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