野次馬雑記

20180511

No492 10・8羽田闘争の光と影 -三派全学連内部からの視点-

 1967年10月8日の「第一次羽田闘争」から50年が過ぎた。昨年の10月8日には10・9山﨑博昭プロジェクト主催の50周年記念集会も開かれた。50年が経つと「歴史」になるといわれるが、そういう意味では「10・8羽田闘争」も「歴史」となったのかもしれない。

私が明治大学に入学したのは1969年4月。その頃の集会では「10・8が切り開いた組織された暴力とプロレタリア国際主義の旗のもと・・ ・」という言葉が必ずアジテーションの冒頭に出てきた。10・8羽田闘争を知らない私のような学生には「ジュッパチ?何のこと?」という感じだったが、先輩たちからゲバ棒が初めて登場した輝かしい記念すべき日として教えられてきた。
 この「10・8羽田闘争」に関連して、当時の活動家による回想などで、前夜の10月7日に、法政大学で中核派による社青同解放派へのリンチ事件があったことが知られるようになってきた。昨年発行された「情況」2017秋号にも「10・8闘争とその功罪」というタイトルで高橋孝吉氏(当時:三派全学連書記長)のインタビュー記事が掲載されている。
 佐藤首相(当時)の南ベトナム訪問に対し、三派全学連が一致団結して阻止闘争を組むべき日の前日に、なぜこのような「事件」が起きたのか?この「事件」の背景については、今まで語られることはなかった。
 この度、10・8羽田闘争50周年を機に、当時、三派全学連書紀局に関わっていたN氏から、10・8羽田闘争を巡る三派全学連内部の視点からの貴重な証言(文章)を寄せていただいた。
今回のブログは、その証言(文章)を掲載する。

 

【10・8羽田闘争の光と影 -三派全学連内部からの視点―】

この原稿は、2017年10月8日に開催された「10・8佐藤訪ベト阻止羽田闘争50周年」に寄せて書いたものである。その後、ブログ「野次馬雑記」への掲載依頼により、加筆したものである。


<1967年10・8羽田闘争と山﨑博昭君の死>


 山﨑博昭君の死は、当時ベトナム反戦闘争を闘った者たちには忘れることのできないことである。

だが、結成されて1年も経たない三派全学連の一員として10・8羽田闘争を闘った者たちにとっては実に複雑な気持ちが同居しているのも事実である。
 複雑な気持ちとはなんであろうか。

 60年安保闘争における樺美智子さんの死が、あの闘いの象徴であるように山﨑博昭君の死は、日本におけるベトナム反戦闘争を象徴するものである。

 このことに誰も異議をはさまないだろう。そして、私が感ずる「複雑さ」は、彼の死の歴史的意味を貶めるものではないと確信している。


 ものごとはいつも美しく語られ、同時にあった「負の側面」を語らずに終わる。
 この「負の側面」は、すでに語られ、ある程度知られていることかもしれない。
 今さら、「負の側面」を語ることに果たしてどれほどの意味があるのか確信を持てないが、三派全学連結成を共に担い、10・8羽田闘争を闘った者たちに残る共通の違和感・複雑な想い=「10・8羽田闘争を美しく語って終わるわけにはいかない」という理由を述べることは意味のないことではないと思える。

 

<10・8前日に起きたこと>

10・8前日の10月7日、法政大学(中核派拠点キャンパス)において、三派全学連書記長T、都学連委員長K(両氏とも『社青同解放派』)が拉致され、凄惨なリンチが加えられるという「事件」が起きた。
 この結果、三派全学連として闘うはずであった「10・8佐藤訪ベト阻止闘争」は、分裂して闘われることになった。
 凄惨なリンチを受け、膨れ上がった顔とボロボロになった体を引きずり、抱えられて中央大学講堂に現れた二人を見て、みんな目を疑った。
 ここには、全国から結集した学生が明日の10・8羽田闘争に向け、総決起集会を開いていた。
 1965年都学連再建、1966年三派全学連結成等の過程で、各派はそれぞれの政治主張を掲げ、論争をし、よく殴り合いの衝突をしたことがある。しかし、それは限度を心得ており、密室に連れ込むなどという陰湿さはなく、オープンで実に爽やか。このような衝突が一度くらいないと全学連大会は盛り上がらず、すっきりしないという実に健康的なものであった。
 しかし、10・8佐藤訪ベト阻止羽田闘争を目前にして起きた法政大学での中核派の社青同解放派に対するテロ・リンチは、陰湿かつ凄惨さにおいて、かつてないものであり、それは、大衆運動とは両立しえない性格のものであった。この事態は、ようやくにして結成された三派全学連を分裂へと導くに十分であった。

 

<原因は何だったのか>

1)ここに至る経緯と要因をいくつかのポイントに絞ってあげれば、次のようになる。
 第一は、10・8羽田闘争の全学連総指揮者をめぐる対立である。
10・8佐藤訪ベト阻止闘争を前にして、「全学連の総指揮を誰がやるか」が 重大な焦点となった。
本来であれば、委員長、副委員長、書記長の三役から選べばいい話で、「委員長がやる!」と言えば、即、決まる話である。しかし、委員長A.Kは「自分はできない。しかし、総指揮者は中核派から出す」とし、具体的には、広島大学A.Tを提案した。
  【ブログ注】A.K=秋山勝一 A.T=青木忠
 理由は次のようなものであった。
 「10・8直前の9月14日、法政大学学費値上げ反対闘争で大量逮捕者を出し、委員長A(秋山)もそこで逮捕され、釈放されたばかりで総指揮をとることはできない」と。
これに対して、「委員長ができないなら書記長か副委員長が指揮をとるのが筋」と解放派・ブンドは主張した。この時、全学連副委員長はN(静岡大・ブント)、書記長はT.(早大・社青同解放派)であった。
 大衆運動組織の原則からすれば当然の主張である。そしてこの時、書記長のTが「Aがやれないなら、俺が指揮をとる」と名乗り出ていた。
 今から思えば、「釈放されたばかりだから指揮は取れない」というのはおかしな理屈である。9月14日に逮捕されて20日足らずの拘留で釈放されたのは、幸運な話で、10・8羽田闘争を指揮するのに別段支障はない。10・8の総指揮を執ることは、逮捕され一定の長期拘留を余儀なくされることが前提だから、そこに20日前後の拘留が直前にあったことなど何の関係もない話である。Aにそうした覚悟がないというなら話は別だが、そんなわけはなかろう。10・8佐藤訪ベト阻止闘争を歴史的闘争と位置づけ、並々ならぬ決意を中核派もまた表明していたのだから。

 要するに、10・8で逮捕されれば長期拘留を覚悟せざるを得ず、中核派にとってAの不在は、ようやく手に入れた三派全学連のイニシアティブを失いかねない―このリスクは回避したい。更に、『総指揮』も手にすることによって、中核派のヘゲモニーを目に見える形にしたいという欲張りな党派利害を主張したものにすぎない。
 この主張が無理筋であることをA、Y(吉葉忠)は認めざるを得ず、初期、全学連書記局では書記長のTが総指揮を執ることについて、彼らは半ば承諾していたという。(Tは私の質問にそう答えている)
   
 ここには、党派利害を最優先する中核派政治局の指導方針があり、この方針を無理筋と思うA、Yと中核派政治局の間に微妙な相違が生じていたことは事実である。しかし、A、Yは、最終的には全学連書記局での合意を翻し、強引と思える中核派政治局の路線に転換したのである。

2)思い起こせば、1966年12月に結成された『(三派)全学連』(全国35大学、71自治会、1800人結集)の初代委員長はS.K(明大・ブント)であった。だが、1967年初頭の明大学費値上げ反対闘争において大学当局との「ボス交」が露呈して批判され、初代委員長S.Kは辞任した。代わってA(横国大・中核派)が委員長となった。

 ブントにとっては何ともいえず悔しいものだったろうが、彼らは潔くよくこれをのんだ。
 大衆運動・大衆組織の原則に沿った在り方が、ここには生きていたのである。
だが、こうして委員長の座を手に入れた中核派は、10・8佐藤訪ベト阻止闘争にあたって、この原則を破壊した。この矛盾した二つのことが、三派全学連結成後1年も経たないうちに起きている。それは、「大衆運動組織と党派の在り方」をめぐる根本問題であった。
 この党派は、あらゆる闘争において「主流派の位置」を求め、そのヘゲモニーを脅かす党派に対してゲバルトを伴う恫喝をかけてその芽を摘み取るという「党派性」を持ち、当たり前のように行使してきた。
【ブログ注】そういえば思い出すのは、分裂が確定した後、中核派中央のビラには「全学連主流派」の発行者名義が着くようになった。「秋山全学連とか全学連(秋山委員長)で充分なのにね??」という感想を語り合ったものだった。私達埼大中核派は、「少数派」であることを誇りにも思う気風もあった。

 これを中核派は、「党としての闘い・党のための闘い」と「理論化」し、活動の基軸に据えていた。この「前衛党建設論」こそが安保ブントに欠落していたものとし、その欠落を補う前衛党建設論が黒田理論にはあるとして「革共同黒寛派」に走った理由でもあった(注。第2次分裂のこと?)。

 だが、中核派指導部が培ってきた「ブント的大衆運動感覚」は、革マル派の「徹底した反急進主義・秩序派体質」と合うはずはなかった。この相違は如何ともしがたく、両者は短期間で分裂へと向かうのだが、自派の純粋培養の延長上に「前衛党建設」を目指す「排他的党建設論」は残った。この前衛党論が生み出す党派主義・セクト主義が、全学連という大衆運動・大衆組織に持ち込まれたのである。
 
 ちょっと古くなるが、私の記憶に残るレーニンの次の一節との対比はどうだろうか。
1917年ロシア革命のさなか、「党かソビエトか」と二者択一的に問題を立て、混乱するボルシェヴィキ党員にレーニンは答えている。(ソビエトの多数派はエスエル、メンシェヴィキであり、ボルシェヴィキは少数派であった)
 「そのように問題を立てるべきではない。党かソビエトかではなく、党もソビエトもだ!」と。(今、私の手元にレーニン全集はないので、これはあくまでも記憶だが、そう違っていないと思う)

 中核派が示したこのような党派主義・セクト主義は、他党派に対するものというより、より根本的には大衆運動そのものに対立するものとして作用し、絶えず矛盾を生み出し続けることになる。
 後に述べるが、このことは中核派だけの問題ではなく新左翼全体が内包していた問題であるが、この当時のブント、解放派は、この体質とは無縁であったと思う。

 他党派の私から見れば、ブントは「自然発生的大衆そのもの」であり、常にその先頭に立っていた。解放派は、「大衆の自然発生性」を重視し、ある意味では「ブント的」であった。私の眼に彼らは、「愛すべきブント」と映っていた。

【ブログ注】けっこう長いので分割して掲載のつもりでしたが、つごうで変更。
 続きはもともとの『日本の古本屋』でお読みください。

 https://meidai1970.livedoor.blog/archives/1365869.html


3・15「本多延嘉追悼50年」、126名で熱気あふれる集い

                             集会実⾏委員会事務局

1975年3⽉14⽇未明、反⾰命カクマルによって虐殺された本多延嘉⾰共同書記⻑(享年41。破防法被告)の死から今年は50年⽬。3⽉15⽇(⼟)、東京・御茶ノ⽔にある連合会館にて「本多延嘉追悼50年の集い」が開催されました。

集会を企画したのは、⾰共同を離党、除名された者、分裂独⽴した⼈々。呼びかけ⼈を全国から募り、23⼈の呼びかけ⼈による集会です。

参加者の数は、当初の予想を⼤きく上回り、定員72名の会場に126名が参集、極めて熱気のある集会としてかちとられました。また集会の後は近くの中華料理店で懇親会を持ち、あちこちが何⼗年ぶりかの再会を喜び、旧交を温める場となりました。

午後1 時から受付開始。参加者⼀⼈ひとりが本多さんの遺影に献花、DVD『怒りをうたえ ダイジェスト版』(50 分)上映の後、午後2 時から「追悼の集い」が開始されました。冒頭、事務局の東條守さん(⽇⼤全共闘)の説明でDVD『思い出の本多延嘉−−勝利に向かっての試練』(約3 分)が上映されました。

【注 以下の見出しは当ブログによる】   ……… ……… ………

前半の発言 石川一雄さんの遺影も

司会には結柴誠⼀さん(元東京都杉並区議会議員、横浜国⼤全共闘議⻑)。司会から、本⽇、本多さんのご遺族からのメッセージとご参加があることが紹介されました。全員で正⾯左に置かれた本多延嘉⾰共同書記⻑の遺影に黙祷。本多さんの遺影の隣には去る3 ⽉11⽇に急逝された狭⼭冤罪事件の⽯川⼀雄さんの遺影が置かれました。

開会の挨拶は、元⾰共同東京⻄部地区委員会委員⻑の向井拓治さん。続いて呼びかけ⼈の岩本愼三郎さんから、本⽇の追悼の集い開催にあたっての経過と報告「〈党と世界観〉―本多さんは何をめざしていたのか」が20分近くなされました。岩本さんはマル学同中核派書記⻑、「前進」編集⻑、破防法研究会などを担ってきました。それを受けて、呼びかけ⼈から制限時間3分の発⾔が続きました。まず⻑崎県壱岐の島から参加された斎藤政明さん。横浜市⼤出⾝で多数の同窓と共に参加。⽇⼤の今章さん(⽇⼤全共闘組織部⻑)。⽇⼤全共闘の皆さんも多数参加されていました。元全国部落⻘年戦闘同志会の楠⽊吉秀さん。⽯川⼀雄さん急逝に慟哭の弔辞を読まれました。⾰共同再建協議会、元広⼤全共闘議⻑の川嶋澄夫さん。反戦共同⾏動・福岡の北原⼤樹(ひろき)さん。「未来への協働」の茂⽊康さん。横浜国⼤出⾝、⼥性解放戦線を担ってきた槇(⽔⾕)けい⼦さん。元マル学同副委員⻑の⾚松英⼀さん。元⾰共同関⻄地⽅委員会幹部の⼭本清次さん。

元「破防法研究」編集・発⾏⼈の江村信晴さん。

後半でも諸発言 連れ合い・恵子さんのメッセージも

休憩時間を挟んで、午後4 時、再開。参加者からの発⾔が続きました。元ブンド⾚軍派の⾼原浩之さん。元全逓労働者の⽅。ジャーナリストの⼩林哲夫さん。

破防法弁護団だった辻恵さん。元東⼤闘争被告団の⼟⽥正昭さん。本多さんが虐殺された当⽇、本多さんの⾞のドライバーとして⾏動をともにしていました。⽇⼤全共闘副議⻑の酒井杏郎(きょうろう)さん。⾰共同再建協議会、元全学連副委員⻑の橋本利昭さん。川崎市⺠の会の喜多村憲⼀さん。元在⽇朝鮮⼈・中国⼈細胞のキャップであった李徹(リ・チョル)さん。他の在⽇同志の⽅たちも参加。

集会終盤に、本多さんのご遺族、闘病のため⽋席された連れ合いの恵⼦さんのメッセージが、⼩林智⼦さん(横浜国⼤出⾝、108 ⼭﨑博昭プロジェクト事務局)によって代読されました。とても毅然とした、聴く者の胸を打つ感動的なものでした。そして、埼⽟の地から杖をついてお越しになった本多さんの妹御の善⼦さん(88 歳)がご挨拶されました。なお、集会後、善⼦さんから「集いの熱気に圧倒されました。皆様の⻘春時代が映画のように映りました」とのご感想が寄せられました。最後に、事務局からの本多さん墓参りの提案と閉会のあいさつを元⾰共同政治局員の⽔⾕保孝さんが⾏いました。


 なお参加者にはパンフレット「本多延嘉年譜」(8ページ)と都合が悪く⽋席した呼びかけ⼈などのメッセージが配布されました。以下の9通です。

本多さんが命をかけた沖縄闘争(⼀瀬敬⼀郎)、狭⼭とパレスチナと沖縄と(尾上光)、本多さんの思い出―追悼50年、最後のお別れにあたって(楠⽊吉秀)、当初の思いは今も消えることなく(新城せつこ)、テレビも⾒ず、新聞も読まずに(たかだたけし)、戦争前夜情勢が切迫する沖縄で(宮城正明)、本多書記⻑がもし⽣きていたら(掛川徹)、本多延嘉追悼50年の集いへのメッセージ (滝本洋⼀)、「3・15本多延嘉追悼50年の集い」参加にあたって(⾼原浩之/⾚軍派)、⽯川⼀雄さんのご逝去にさいして 慟哭のことば(楠⽊吉秀)。

懇親会が満席に

懇親会には76⼈が参加し、集いの熱気をさらに盛り上げました。

⾚松さん提供のワインがふるまわれ、司会をその⾚松さんが務め、マイクを回しながら、集会で発⾔しなかった呼びかけ⼈や当⽇参加の⼈たち10数⼈が発⾔しました。元⾰共同東京⻄部地区委員会の伊藤隆明さん、元全学連副委員⻑の廣瀬健⼀さん、元⾰共同富⼭県委員⻑の村⼭和弘さん、⾰共同再建協議会、「未来」編集⻑の松⽥耕典さん、元関⻄⼤学全共闘議⻑の板倉元朝さん、元「前進」編集局の湯本憲⼆さん、「未来への協働」の掛川徹さん、東北⼤出⾝の渡部義就さん、元破防法裁判闘争を⽀える会の川⼝顕さん、元ブンドの垣沼真⼀さん、元⾰共同神奈川県委員会の杉⽥勝⽣さん、元⾰共同東京⻄部地区委員会の⻑尾由美⼦さん、元⾰共同秋⽥県委員⻑の⽜越(李)国昭さん、ほか。

懇親会は午後9 時過ぎまで、数⼗年ぶりの再会、交流が続きました。

墓参り。振り返り、命ある限り

本多さんの墓参りが4⽉14⽇(⽉命⽇)におこなわれ、これをもって「本多延嘉追悼50年」の事業の締めくくりとしました。

本多延嘉追悼50年を全国から呼びかけ、3・15に集いを実現できたことは、発起⼈、呼びかけ⼈、参加された皆さんにとって、ひとつの振り返りと前進の節⽬となったことと思います。全国からやってよかった、来てよかった、会えてよかったとの⾔葉が寄せられています。また、ある⼈は「⻑⽣きをしてください。55年、60年、可能な限り続けましょう」と⾔っています。命のある限り闘い続ける強靭な意志表明です。ともに前に進みましょう。

3・15「本多延嘉追悼50年の集い」の実⾏事務局にご協⼒いただき、ありがとうございました。会場設定等の準備不⾜など多々問題がありましたが、有意義な集いを実現できました。ありがとうございました。

2025年4⽉26⽇

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以下、呼び掛け文を転載します。

2025年の3⽉14⽇は、⾰共同書記⻑の本多延嘉が⾰マル派に暗殺されてから50年⽬を迎えます。
 この半世紀の間に、当然ながら関係者の⾼齢化が進み、故⼈となった⽅も少なくありません。
また、「⾰共同」を名乗る党派はいまも存在しますが、昔⽇の⾯影はなく、ここから分裂した党派や諸個⼈も各地に存在しています。
 相互の間の緊張と摩擦も横たわっています。
 本多さんがあの後ももし⽣きていたら、⾰共同はどうなっていたのだろうという想いとともに、改めて追悼の意を捧げたいと思います。

しかし私たちが、ここに「追悼50年の集い」に集まろうというのは、各地におけるそれぞれの孤軍奮闘が、世界戦争の切迫と⽇本階級闘争の危機の中で極めて重要であることを確認しつつ、⾰共同の短くない歴史を回想することで、これらの無数の闘いの⼀層の前進のための、何らかのヒントでも得られればとささやかに期待するからです。

いや、とてもそこまではいかず、「やあ久しぶり。何だ、まだあんた⽣きていたのか」と⾔葉を交わすことが精いっぱいの場合もあるでしょう。
それならそれでいいではないですか。

  ともかくこれは、おそらく本多さん追悼の最後の機会になるでしょう。

 本多書記⻑の思い出に導かれて、⾰共同の原点にたち戻ってみる、遠い過去にさかのぼって昔話に花をさかせる、そんな⼀時を過ごすのもまた⼀興ではないでしょうか。

 集会のあとには懇親会も準備しています。

みなさまのご参集をお待ちしております。
2024 年12⽉28⽇ 

3・15集会呼びかけ⼈⼀同
⾚松英⼀(⼭梨)、板倉元朝(兵庫)、⼀瀬敬⼀郎(東京)、岩本愼三郎(神奈川)、
江村信晴(東京)、尾上光(福岡)、川嶋澄夫(⼤阪)、北原⼤樹(福岡)、
楠⽊吉秀(⼤阪)、結柴誠⼀(東京)、今章(東京)、斎藤政明(⻑崎)、
新城節⼦(⼤阪)、⾼⽥武(広島)、廣瀬健⼀(京都)、槇(⽔⾕)けい⼦(東京)、
松⽥耕典(兵庫)、
⽔⾕保孝(東京)、宮城正明(沖縄)、向井拓治(東京)、茂⽊康(⼤阪)
(あいうえお順)

事務局 連絡先
Mail: honda.memorial50@gmail.com
電話 090-2425-7910 東條

  本多延嘉追悼50年の集い  集会要領
日時 2025年3⽉15⽇(⼟) 午後2時〜4時半 (1時開場)
場所 連合会館(総評会館) 402会議室
資料代 1,000円
懇親会費 参加⼈数確定後、お知らせします。(懇親会参加者のみ)

連合会館
〒101-0062 東京都千代⽥区神⽥駿河台3-2-11
TEL:03-3253-1771 

【ブログ注】

①呼びかけ人は第1次のもの。

②諸派・グループ系。当ブログの無責任な見立てでは、主な系譜・人脈・傾向として

㋑06年の3・14(関西地方委員会での決起)以来の。
 
関西派(橋本派)系、九州派(宇谷派)系。
  水谷・(故)岸系。旧戦闘同志会系。
  その後追放された人々≒岩本系など。
さらにまた、上記から
分離したグループや個人。
El5系(旧東北地方委員会の5人の地方委員)は不詳。

㋺それ以前に(60年代~90年代に)離脱した諸個人。
  社会評論社から出版した人々。
「9条改憲阻止の会」や経産省前テントなどに集う人々等々。
その他日大全共闘ほか。
元他党派の人々?

㋩もしかしたら「中央派(清水派)の一部もコッソリ顔を出す」???????(笑)

③私自身は私的事情から、本集会には不参加になりそうです。

  【お知らせ】新しいカテゴリーを始めました。

☆革命的共産主義運動の略年表
http://www.zenshin.org/blog/contens/w-profile.html#ko-z2410c

【前史】

1955年7月 日本共産党6全協
1956年3月 ソ連共産党20回大会で「スターリン批判」/10月 ハンガリー革命
1957年1月 革命的共産主義者同盟創立
1958年~59年 東大、早大など日共大学細胞で、スターリン主義との闘いに次々勝利
1958年夏 第1次分裂。トロツキー教条主義との闘い/12月 共産主義者同盟(ブント)結成

  【革共同全国委員会の歴史】

1959年8月 第2次分裂。トロツキー教条主義と闘い、革共同全国委員会結成/9月 全国委員会機関紙『前進』創刊
1960年4月 マルクス主義学生同盟結成。ブントとともに安保闘争の先頭に立つ
1961年1月 マルクス主義青年労働者同盟結成/3月 ブントの革命的部分が革共同に結集/夏 革共同第1回大会
1962年9月 革共同第3回全国委員会総会(3全総)。戦闘的労働運動の防衛と創造、地区党建設、革命的統一戦線について決定。動労千葉労働運動の原点/年末から翌春 3全総にたじろぎ、黒田と松崎らカクマル派が逃亡
1964年 原子力潜水艦横須賀寄港阻止闘争
1965年 日韓闘争(日韓条約批准阻止闘争)/8月 反戦青年委員会結成
1966年8月 革共同第3回大会
1967年2~7月 砂川基地拡張反対闘争/10月 10・8羽田闘争。羽田、佐世保、三里塚、王子の「激動の7カ月」 
1968年10月 米軍タンク車輸送阻止の新宿闘争(騒乱罪適用)
1969年1月 東大安田砦攻防戦。68年以降、日大・東大など全国大学闘争が高揚/4月 沖縄闘争(破壊活動防止法扇動罪適用。本多書記長ら逮捕)/10、11月「第1の11月決戦」。「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」を掲げて学生と労働者が武装闘争に決起
1970年6月 安保闘争。革命的左翼が社・共を上回る大衆的な決起/7月 闘う中国人青年からの糾弾を受け「連帯戦略」を形成(7・7自己批判)
1971年2~9月 三里塚軍事空港粉砕の土地強制収用阻止闘争/11月 沖縄返還協定批准阻止の「第2の11月決戦」(再度の破防法適用)。11・14渋谷暴動闘争で、後に星野文昭同志にデッチあげ殺人罪で無期懲役攻撃(現在獄中35年)/12月 関西でのカクマルの武装襲撃で中核派の2学生虐殺(12・4反革命)。二重対峙・対カクマル戦に突入
1973年9月 革命的報復戦の開始
1975年3月 カクマルによる本多延嘉書記長虐殺(3・14反革命)。3・14報復戦に突入。「先制的内戦戦略」を確立
1977年8月 動労千葉地本がジェット燃料貨車輸送阻止闘争に突入
1979年3月 動労千葉が動労本部から分離独立
1981年 第5回大会。先制的内戦戦略フェーズⅡ(第2段階)に転換。国鉄・三里塚決戦に全面的に突入
1985年10月 三里塚2期着工阻止決戦/11月 国鉄分割・民営化反対で動労千葉がスト突入。中核派が11・29浅草橋戦闘
1986年5月 迎賓館ロケット弾戦闘。権力は革共同壊滅の「5・7宣言」体制発動/10月 「10月の挑戦」と爆取弾圧粉砕の闘い
1989年7月 長谷川英憲氏が都議に当選
1990年 天皇・三里塚決戦
1991年5月 5月テーゼ路線への転換
1994年6月 マルクス主義基本文献学習シリーズの刊行開始
1995年秋 19全総
1997年12月 20全総。清水丈夫議長―天田三紀夫書記長の最高指導体制を公表
1999年11月 闘う労働運動の新しい潮流の形成へ3労組呼びかけの11月労働者集会始まる
2001年 第6回大会。黒田=カクマル完全打倒の勝利宣言
2003年 新指導路線/11月 日韓米の国際連帯闘争始まる/12月 新生マルクス主義青年労働者同盟結成
2006年3月 関西の労働者同志を先頭に「党の革命」に突入
2007年1月 階級的労働運動路線打ち出す/7月 7月テーゼを発表/秋 塩川一派が7月テーゼと階級的労働運動路線に敵対し革共同から逃亡/12月 新生関西党員総会を開催、労働者指導部を軸に新体制確立
2009年7月 サンフランシスコ国際労働者会議/9月 25全総開く
マル学同1000人、マル青労同1000人建設へ、世界革命勝利へ驀進中!

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