2006年08月

以下も同名の中核派ブックに関して。「所感」だけですが。

1)「幻想的国家」論に「暴力国家」論を対置
 もともと、80年代には、ほぼ「暴力論」に傾斜していました。「未発表」の野島論文(?別人?)で、「確立」していたといえるでしょう。
 「革命軍基軸路線」は、この「暴力国家論」と対を為していたのだということ、それが今、「新指導路線」の「進路を照らすもの」として打ち出された意味は、きわめて大きい。

2)本多氏の「幻想国家論」を廃棄
 本多氏はもともと「幻想国家論」であった、と私は記憶しています。
 また、「継承か解体か」だったと思いますが…「暴力と幻想の二つの契機」をあげています。ここでは、国家の「二つの契機」として、「対外対抗と対内統制」をもあげていたと思います。
 「今さら」ですが、「継承か解体か」を廃棄するのなら、それを明言するのが「理論家」の義務ではないでしょうか?
 「本多中核派は終わった」「清水中核派は『一度死んで生まれ変わった中核派』であり、元には戻らない」というのなら、そうはっきりさせるべきでしょう。

3)「対外」と「対内」の問題
 ロシア国家の建設が、「ダッタンの脅威」をテコとして、軍事的要請を帯びて進んだこと、明治維新が「外圧」をテコに早産したこと等をあげれば、「対外」の意味は分かるでしょう。韓国の歴史教科書でも、「漢民族の圧力」との対抗が独特な国家形成に進んだことを繰り返し語っています。
 マルクスも、普仏戦争で「ドイツの勝利を期待する」と明言していました。また、独仏の国境問題を検討して、民族⇒言語の境界と領土の関係を論じています。
 民族解放でも「自分の国家の建設」は不可欠・緊急の課題でした。
 現代日本の「愛国心」を歴史的に検証する作業も進んでいます。「戦争責任」をめぐって、「一部の軍部」やあるいは財界も交えた戦争責任のわい小かに対して、中核派や新左翼は、「日本人民・階級と民族の責任」をも射程に入れていました。そうしてなお、「階級・人民の多数派」を目指していたはずです。
 「暴力国家」論はその点で、「初期中核派」や「70年の中核派」と一線を画す退廃だとしか考えられません。

4)「哲学の貧困」
 「国家=共同体」論や「国家=共同幻想」論に対置して、「本質としての暴力」を掲げています。
 しかし、レーニンの「哲学」に依拠すれば、この論議は、今の中核派の立場にたってさえ、「形式としての共同体、実体としての支配階級、本質は暴力、そして概念としては…???」ということにしかなりません。一番高度で大事な「概念」がない理論とはいったい何でしょうか?
 好意的に見ても、「本質還元論」としかいいようがありません。つまり、何も言っていないのです。

5)実践的要請への無関心
 交流センター運動にとって、こんな理論が「応用」できるでしょうか?
 「応用」を前提として「開かれた環」でない理論に意味があるでしょうか?そんな理論に「検証可能性」があるでしょうか?(私はここで数学や物理の話をしているのではありません!)。
 かつて80年代、「独自の軍事大国化」論が打ちだされた時も同じことがありました。
 論の正否はおいて、安保と沖縄の現実を視野に入れないこの議論は、「米軍基地」との戦いを最大の焦点とした当時の(今も)沖縄の運動に(「本質的に」)悪罵を投げかけ、混乱させる以外の何者でもありませんでした。
 「新指導路線」下の「理論」もまた「相変わらずだ」としか言いようがありません。

6)「一国主義」の完成と対か?
 上述したように、排外主義との対決=民族問題の追放が、隠されたテーマだというべきでしょうか?
 「清水 VS 白井」問題は、政治テロを含めて根が深い。「スターリン批判と民族問題」は、いまの中核派ではタブーになってしまった。こと「革命論」の領域では、「一国革命主義」の完成、という以外の何者でしょうか?

7)「軍令」と「専制」の理論
 けっきょく、この理論の政治的目的は、「一党支配」と「党内専制支配」にあるということでしょう。
 「女性解放委員会」の諸論文が、女性たちの運動にツバを吐きつけ、「内戦下の女性運動の凍結」を(隠微に)結論付けるためのものであったように…。
 交流センターや諸運動の自立的展開にはどめをかけ、「機関」の優位を確保し、「党から派遣されたGPU」による監視と破壊を保証するための議論。目的ははっきりしているといわざるを得ません。

7)「キャリア政治」は不変
 中核派の中に公然とかつ根強く存在する「学生書記局出身」という「キャリア人事」は、確かに大きく崩れているとはいえ、中核派自体の歴史的消滅まで変わることのない「本質だ」と考えるしかありません。
 「労働者階級」の「実生活」はおろか、その接点すら経験せずにきた多くの「書記局」や「機関要員」に、いつまでコンプレックスを抱き続ければ良いのか?いまさら遅いのかもしれませんが。
 「武闘派」の「変化」に期待したり、それを前提にした「多数派工作」や「再編清水体制」での上昇志向の先に展望などないとしか考えられません。
 中核派の中で、「交流センター」が主流になる日などけしてない、あなたが腐るのが先でしょう。

8)「公開論争」と「話し合い離婚」を
 いま起こっている対立・分裂は、この点に即して言う限り、「古い軍令主義と『改善された軍令主義』との対立」以外の何者でしょうか?
 とはいえ、議論の対立が表ざたになったこと自体は歓迎するべきことだと思います。「古い、しかし阻害された地方」の「決起」が、「公開論争」を挑むなら、それは「歓迎するべきこと」でしょう。
 「協議離婚し」「財産の分配を協議し」そしてあらためて「いつの日か、語り合う」。それは、単なる夢物語でしょうか?
 

 結末をまとめて、「党」に送った。
 あわせて、お別れの手紙を書いた。
 
 90年の「党改革運動」では、「通報の義務と権利」が大々的に語られていた。
 私はこの権利と義務をテコにして、数々の書状を書いてきた。しかし、通報の受け手が義務を果たしていない以上、私の権利も義務もない。以降、一切の指導を拒否する…という内容だった。

 同時に、私なりの組織論を書き連ねたのはこのときだったと思う。
 私との信頼関係で関与したWa氏への処遇は、私自身への処遇である。私が介入するのは、当然の権利・義務だ。私の関与を排除してWa氏との会見を拒否し続けた関西や「中央」の組織論はあまりにおかしい。「関西に隠れて」私からの報告を要請するのも姑息だ。党の現状がおかしいだけではなく、考え方自体が間違っている。こんな「党」に未練はない。

 内容的にはこんなことを書き連ねた。

 「緊急出頭」の時のAm氏の最後のことばに、「晩節を汚したな」といわれたが、それを「そっくりお返し」した。

 投函するのに数日待った。自分の腹を確認したいと思った。

 もっと正面きって関西に乗り込むことができなかったのか?
 「糾弾会」を逆に要請して臨むことはできなかったのか? 知り合いも大勢いたし、少々袋叩きに合っても何かになったのではないのか?
 自分は単なる負け犬なのだろうか?
 自分を信頼して親しく付き合ってくれた人々への責任はどうとる?
 自分は単なる腐敗した日和見分子だったのではないのか?

 あいつならこうしたろうか? あるいはもっと正面からやっていただろうか? あるいはこいつなら?

 「党による人民への襲撃・強盗」行為に立ち会いながら、むざむざと屈することへのやるせなさ…。

 ようやくすっきりした。私は私なりにやってきたのだ。「責任」はおいおいとるしかない。
 とりあえず、自由を取り戻したのだ。これからは、自分の意思と判断で生きることができる。それこそが「イスト」としての最低の生き方だ。良かった!      (了)

 双方が控訴した。
 控訴に当たって、Wa氏から、「あなたの名前を使うよ、いい?」と迫られた。
 それまで私は、自分の名前が出ることを恐れていた。「糾弾」の脅しは確かに効いていた。それに、私は、「党に対する公然たる敵対」の結果への恐れをひしひしと感じていた。二人の女性の追放大会への出席も、腹を決めての行動だったが、一歩進むにも、何度も決断を問い直すことなしには身動きできなかった。万が一の「テロ」--Wa氏もそうだったが、「党員」への処罰は何倍も重いはずだ。

 改めて腹を決め直した。「分かった。そうしよう」

 控訴趣意書では、「中核派の元編集局員の○○が、『せっかく被災者を応援してくれた○○氏に迷惑をかけたことをお詫びした』」内容の一文が付け加えられた。私がWa氏に支援を依頼し、Wa氏が業者に援助を依頼した経緯が語られた。また、二人の女性の追放を契機としてWa氏が身を引いたことのなかで、業者に撤収を要請したくだりも語られた。

 訴訟の経緯は一転して、裁判所による「和解」となった。「問屋」は、「もう、こんなことに関りたくない。金で済むことなら終わらせたい」と受けた。証言台での自分の失敗がこの結果を生んだとして、「3人で分割して払う」ことも断った。
 労金から50万円満額を借り、当初の支払いの一部に当てた。本来、私の責任で、生涯かけても返すのが筋だと分かっていたが、息子への仕送りもあり、分割して返してもらうことになった。業者の行為に甘えたというよりも、あきれた業者に見捨てられたというのが正しい。

 「企業組合」に靴を卸し、技術指導も破格の条件で用意してくれていた名古屋の「問屋」に「損害賠償」が提起されたのはしばらくたってからだ。二人目の現地指導者が急死し、最初の奴が復活したころだ。
 訴状の大半は、「破壊主義者」「陰謀の元凶」として、Wa氏への罵詈雑言に満ちていた。「問屋」の「違約」はほんの一部。党派の政治文書のような訴状に、問屋があわてふためき、「いったいあの人たちはどんな人なの?」と問い合わせてきた。苦虫をかみ締める以外になかった。

 「訴状からすれば、損害賠償の相手は、Wa氏だよね」「ほんと、私だと思うけど」。
 「ウィークポイントの狙い打ちかね」「これで裁判になるのかね」
 「損害賠償額が百○万、訴訟の手付金が30万。百%勝訴でも残るのは…。目的は?」
 「中核派はこんなことで民事訴訟などするの?権力との関係は?」「うーん。聞いたことがないけど」

 以降、Fu氏に会った時は口頭で、基本は、文書にまとめて、「党」に郵送を続けた。
 念のため、本社の最高指導者と、労働運動の最高指導者、そして何人かの関係者に直接送り続けた。
 
 訴訟は被告側の大量の資料で、勝利的に進んだ。
 しかし、どんでん返しが待っていた。被告の問屋が証言台に立った。訴訟も初めて、事務的実務も得意でない、そもそもこんな揉め事は初めてという被告は頭が真っ白になったという。原告側が巧妙にいびり続けたという。被告は、こまかい事実関係の証言を投げ出して、怒りだけをぶちまけてしまった。

 「大企業の零細いじめ」--人の良い、正義感に溢れる?裁判官が出した図式があてはめられた。
 判決は「5分5分の責任」に終わった。ふんだくられた。
 

 除名された女性たちに対する中傷の数々が起こっていた。「破壊分子」などの激しい言葉が使われていた。
 特に、現地に住む在日の女性への中傷が激しかった。何か起こりそうな気配に緊張が高まった。実際にいろいろあった。「入管戦線」が彼女の除名をあらかじめ承認していたことも分かっていた。おどろきと、やはり、とが同居していた。

 To氏やFu氏の腰が引けていたのも、『東西対立』への恐れがあること、も分かった。国労大会の壇上選挙を指導したのが、現地の直接の指導部と同一人物であり、To氏は、壇上で同士討ちを指揮した直接の責任者でもあった。しかしそれは、もっと「上」の対立そのものだった。「大事の前の小事」でもあったのだ。

 定期的に会っていたFu氏に、報告し善処を申し入れた。彼は、「関るつもりはない」と拒絶しながら、「何か起こったら直ちに連絡しろ」と強く言った。関西からの本社への報告に何かあったのだろう。「本社に行くのだけはご免こうむる」という私に、「その時は緊急時だ。来い」との言明だった。

 「本社に出て来い」という「緊急指令」が出たのはこの頃だ。私も腹を決めて、出頭した。神奈川以来の大先輩で最高責任者のAm氏と会った。Fu氏が立ち会った。
 「関西地方委員会から弾劾状が出ている」という。荒本に住む大先輩に仲介の依頼を送った私信が、丸々地方委に差し出されたのだという。
 「当該組織への不当な介入」が弾劾の趣旨だったと思う。

 「本人も十分反省している、ということにするから。自主的に謹慎していることにする」「えーっ、反省?」
 
 「荒本という言葉が入っていたろう。『差別の疑いがある』とも書いてある」
 「荒本選挙には半年いって、オレにとってものすごい大きな経験だった。瀬川さんに半年密着したりもした。私信に簡単な感想を書いただけだけれど、中身は何も書いてはいない。それに、私信でしょ?」「私信も全て報告されるということを知らないのか?!」「知らないよ!」
 「まあ、手紙そのものが届いてから考えるということにしてあるから」「はーあ?」。正直言って、背筋が寒くなった。「なるほど、そういう手を使うんだ?」
 「とにかく、最終決定は、ここにほら、こんなに厚い報告が出ている。決まったことなんだ」。「なるほどね」。「分かったか?」。「社会正義に反しているということは残るけれどネ」
 Fu氏が始めて口をはさんだ。「社会正義としてもおかしくはない」。「あーあ、なんという人か?!」とは言わなかったが。

 「○さんが来ている」と何人かが歓待してくれた。なつかしい後輩や印刷局のメンバーとは歓談したかったが、とっくに長居する場所ではなかった。早々と退去した。

 

 

(注)いろんな事情でアップをためらっていたのだけれど、このさい在庫整理で…。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 企業組合は、結成直後からごたごた続きだった。被災者運動の代表の「飯を確保する」ことも含めて、被災者=生活者を取り込んだ組合は、組合の一員でもある現地責任者の「人材」をも原因に、いつも内部崩壊の危機を抱えていた。

 結成時の責任者は粗暴で専制的で、組合員の怒りを買っていた。知らぬ振りを決め込む地区党に繰り返し善処を求めて、新たな責任者を追加派遣させたのも彼(Wa氏)の功績だ。しかし、新たな責任者も同じようなものだった。やはり「党としての資質・下地」の底が知れたのだ。
 繰り返される財政危機と揉め事の中で、女性代表と在日女性を切り捨てる事件が起こった。「民族的で階級性がない」「企業組合の利益に同胞の利益を優先させる」--という「罪」が認定されていた。

 Wa氏の異議申し立てに、関西地方委員会は会うことすら拒絶するようになっていた。 
 Fu氏も担当換えとなっていた。後任のTo氏も会談を拒絶していた。「党の決定に異議は受けられない」「だから言ったじゃないか」。Wa氏からの緊急呼び出しがあったのはこの頃だ。

 事実上、党離れしていた私も行きがかり上、動くしかなかった。意見書を書き、To氏との三者会談をなんとか実現した。企業組合の現状や現地組織への批判は、むしろ、To氏のほうが強いくらいだった。しかし、関与を渋っていた。To氏は東日本の支援運動の責任者だったが、関西そして企業組合の上部組織である被災地運動とのあつれきを恐れたのだ。「縄張り」もある。

 それでも、処分対象の二人の女性と会って、彼女らの「除名・排除」の大会に3人で「支援の会員」として批判的に立ち会うことは決まった。

 双方の主張は、Wa氏の報告どおりだった。しかし、除名は強行された。二人の怒りの決別発言は激しかった。

 三者の会合で、Wa氏が、「以降、被災地支援から手を引く。私との信頼関係で協力してもらってきた名古屋の技術指導(問屋)にも手を引くことを要請する」と提起した。Toも「オレも手を引く」と応じた。最悪の形だがひとまず、けりがついたように思えた。

 90年代の末、私はようやく、「正式に」中核派を離れた。

 95年の春に、『前進社』を出て杉並を仮の宿として、バイク便に努めて、ようやくアパートの「城」を得た。時々、私が逆指名したFuと会って、機関紙・誌の代金だけ払い、不満をぶつけていた。
 阪神・淡路大震災の時はハウスクリーニングのアルバイトだった。

 ある日、大学の後輩のWa氏が会いにきた。彼は神戸の出身だった。
 「被災支援運動で現地と協力したい。ついては、現地の中核派に紹介して欲しい」

 「難しいな」と思いつつ、Fu氏と連絡をとり、3人で会った。Fu氏も中央のスタッフ的位置から企業組合に関与していた。私が現地に紹介状を書き、彼がつなげた。
 
 Fu氏は当初から、「現状の中核派は、こうした活動の経験も下地もない。とんでもない問題を数々起こすだろうがチェックして欲しい。ただ、力量の限界はあり、見て見ぬ振りをして欲しいことも多くなる」というような事を話した。

 Wa氏の参加は、一つのブームを起こした。研究者として、協会派や新社会党にもつ人脈を惜しげもなく活用して、いろんな運動につなげ、企業組合の活動自体をマスコミの注目の的にもした。何度も消滅の危機に陥った企業組合を蘇らせたのも彼の功績が大きい

 また、被災地支援運動のイデオローグとして、多くの場に立ち、多くの人の「毛穴が開く」体験を生んだ。

 しかし、彼の功績は、何といっても、崩壊するケミカルシューズに替わる代替物として、新しい靴産業へのイメージを提起したことにあると思う。
 本格的な医療靴の生産とフットケアは、彼が紹介したいくつかの案のうちの一つに過ぎない。彼が紹介した諸案の一つに現地・企業組合の当時の責任者が飛びついて、準備もなしに「独断」で「暴走」したのが発端だという。
 「責任者」の関りの内実は後に分かってくるのだけれど、とにかくWa氏もあわてて人脈を駆使して陣形を作り、本格的研究に乗り出した。(名古屋・東京ほかに自身が深く関与してネットを作り出した)。

 「企業組合」の靴はWa氏に「おんぶで抱っこ」して発足・維持された。 

 白井朗氏の「除名」を承認した大会報告と一連の白井非難論文の頃、私はまだ、最古参の「学者さん」=Fuと半定期的にあっていた。私が「地区に移行」した時、「行きたいところに行け」と言われて、彼を逆指名した経緯が続いていた。

 その後、神戸の震災での「企業組合」問題で、天田・中野・Fu氏あてに、「今後一切、『指導』を拒否する。今まで行使してきた『通報の権利と義務』も打ち切る」と通告して以来も、会うことは会っていた。

 彼は除名の理由を簡潔に言った。「要は自分の本を出したいだけなんだ」「ブルジョア的な虚栄心だけだ」。
 (私)「この本を読んだ。待ちに待った本だと思う。大事なことではないか?」
  Fu「読む気もしない。規律違反のブルジョア本など読んでたまるか」
 (私)「読んだ方がいい。批判も聞きたい。パンフは宇野経の評価の問題だから、あなたの責任領域では?」
 Fu「…。下らない!」
 (私)「除名の善し悪しは別として、現政治局員を除名するなら、まともな手続きがいるのでは?」
 Fu「なんだ。大会決定だぞ」
 (私)「処分される人間の釈明の場が大会で保証されていない」
 Fu「なんだそれは?!」
 (私)「大会に白井さんを呼んで、演説させたら?」「議論が大変なら、オレが議長をしてもいいよ」

 Fu ニヤリとして「分かった。お前の提案を伝えておこう」
 (私)「は、は。馬鹿な。伝えるはずがないだろう!」

 2,3時間話したろうか。白井氏と会っていること、私の問題意識をはっきり伝えた。もちろん、頻度や形式・場所は言うはずがない。

 最後に、別れ際、割り勘をしながら、FUが言った。「じゃあまた。連絡するから」
 (私)「えっ。絶縁じゃないの?」
 Fu「過去に白井と一回会ったくらいでそんなことはない」

 並んで外に出ながら
 (私)「さっきから、何度も会っているといっているんだけど?今も会っていると言ったけど?」
 Fu「やれやれ」という顔で、近くの公園に行った。

  こうして、ありきたりの押し問答を経て、私は晴れて、「権力との密通分子と恒常的に会っている奴とはもう会わない」という、「処分通告」をもらった。やれやれ…。

 と思ったら、今度は別な人間が、「前進紙代の徴収」のために、来るようになった。喫茶店で割り勘だけの出費だから、私も受けた。白井氏・角田氏へのテロの後も、数回会った。

 正直言って、なぜ、こんなに長く、中核派にいたのかと、自分自身で不思議になる。そしてそれこそ最大の難問だ。それは私自身の選択なのだが、同時に諸状況の為せる技でもある。その時々に自分が何をどう見ていたのか、何をどのようにして見なかったのか?
 実は、早々と止めた人にも、いまだに「現役党員」としている人にも共通な問題なのだと思う。一人や二人や十人や二十人で分かる問題ではない。形はどうであれ、止めきって一息ついて多少動き出して…それから分かる問題なのだと思う。思い出すのも辛いような事件を客観的に捉えるには、同じ環境に再び入るしかないという話もある。

 中核派の変質が、実は「10.8」から始まっていたとすれば、問題は深い。「原点」自体が問われるだろう。
 中核派が「戦う場所を提供してくれた」というのは間違いない事実だ。「戦い続けたい」からこそ中核派を選んだのも事実だ。しかしそれが「戦闘的・排他的・囲い込み」に乗せられたのだとしたら?そして同じことを他に強いてきたのだとすれば?どこまでが何か?難しい。
 

1)「敗北主義」をめぐって
 第一次大戦の中で、レーニンはボルシェヴィキの中でも孤立していました。
「祖国=ロシアの勝利を期待する勝利主義」が指導部でも多数を占め、「祖国=ロシアの敗北を期待する、促進する、敗北を利用する」という主張は少数でした。
 レーニンはここで「敗北主義」の貫徹のために、「革命的敗北主義」というヌエ的表現を採用したといっています。「革命的」とは良い言葉で、内容をあいまいにするためにも充分威力を発揮したといっています。
 さて、『前進』は「祖国敗北主義」なのでしょうか?それとも「革命的敗北主義」なのでしょうか?
「軍令派」と「中央派」と「改革的軍令派」の間に微妙な違いがあるということでしょうか?
 もっとも今の情勢では、「帝国主義間戦争」よりも「共同と対抗の共同侵略」に直面しているのですが。

2) 「愛国主義」をめぐって
 「日の丸・君が代」や改憲の時代、「愛国心」との対決は火急の課題です。
 しかしまた、「愛国主義」との対決の理論はあまりにぶざまというしかありません。「愛国心」との全面的対決には、日本の現実を見据えての問題と共に、理論として語る時はやはり理論としてはっきりさせる問題もあるのだという初歩に立ち返る必要があるでしょう。まさかここで「個に死して…」と叫ぶ人はいないでしょうが。
 レーニンは、使える愛国主義と使えない愛国主義を区別しています。単純化すれば、権力を握ったら「愛国主義」を肯定するが、現状(反体制)では「愛国」を拒否せよと。レーニンの場合、論戦形式で罵倒に忙しいこともあり、理解も大変ですし、「帝国主義論」の成立をはさんでとかいうややこしい議論もありますが…。
 マルクスの「プロレタリアートは祖国を持たない」論が、今日まであまりに誤解されていました。「持たない」とは、「持っていない」という意味だということが理解されていなかった…。
 これも白井氏に学ぶべきでしょう。マルクスは普仏戦争で自らのドイツ=プロシアの勝利を期待すると明言しています。それは、戦争の初期の動機が、ドイツの統一(戦争)を阻害しよとする仏帝の意図にあったからだとされています。「統一ドイツ」がマルクスの主張だったからです。(オーストリアを中心にした大ドイツ主義やこれを排除した小ドイツ主義もありましたが)。マルクスは「祖国を持つべきだ」と主張していたのです。「共産党宣言」のはるかに後の主張だということを理解しておきましょう。また、「アイルランド問題」の前でもありますが。
 
3)レーニンを越えて
 時代は、マルクスやレーニンが予想していた以上に、「階級」に一元化できない「民族問題」の大きさ・深さを示しています。もともとレーニン自体、ポーランド進攻などの度し難い失敗(裏切り)を数々犯しています。それは「帝国主義論」のはるかに後の問題です。「ユダヤ人ブント」問題への過ちは後々、そしていまのイスラエル問題にまで及びます。
 また、「社会内外の多様性」や「人権」の問題と蓄積もあります。EUという「現実」もあります。本格的に広範囲のテーマをめぐって「愛国心」との対決を議論していかない限り「わら人形を撃つ」ことを続けることになるでしょう。

4)「国家」の存在とその「死滅」の問題、現実の国家と過渡期の国家の問題をいまの現実にのっとって深めること、「過渡期の国家」を統治と民衆の双方から捕らえ返すこと…革命ロシアでの「労働組合論争」の比ではないものとして捉え返すこと。それは中核派の大再編や発展的解消をも意味するのでしょうが。
 残念ながらそんな余力すら残っていないとすれば…。
 
 
 
 日本革命あるいは日本の巨大な社会的変革
 
 
 
 
 

↑このページのトップヘ