2011年01月

長く中核派の擁護者を自認してきた人ですが、ついに‥
当時は郵便局員…
 どんな人かはマル共連の別人による投稿を引用する。

思想的腐敗で除名された男だろ。

----------引用
1984年2月大学の合格発表の帰りに全日本学生自治会連合会(全学連)の街宣と
第四インターの街宣に遭遇。全学連を選択。同年3月第一志望に落ちて二浪確定。
受験勉強そっちのけに学生運動とバイトにいそしむ。
結果85年3月に反戦派労働者になることを決意し地区党に配属。
同年5月反戦青年委員会に加盟し、10・20三里塚交差点における市街戦に参加し
逮捕される。
残念ながら完全黙秘は貫徹出来なかったが非転向で
23日間の勾留期間を満了し不起訴処分。

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減車の影響  09年11月と10年11月の比較   
     
1.都内の台数 
        9.11末  10.11末   減数   減率 
法人 台     32164   28190   3274   12.40% 
個人 台          16919      16523       396       2.30% 
計                   49083      44713      3670       7.48% 
     
2.営収(1台あたり)   *非「4社」。無線加入の有無は大差なし 
               *休車を除く、稼動車の営収 
     09年  10年    増収  
10月  38064  38227   159 円 
11月  37800  37871    71円 
12月  41483  43218  1735円 
 
 
3.結論
1.減車がひとまず目安とした「2割・11月いっぱい」は貫徹せず。
2.減車が進行中の10-11月には「結果」は出なかった。
3.年末は少し回復した(4.2%)。けれど、「減車の実績」といえるレベルか?
 
本格的な分析は後日にします

旧版にないものがあります。参照下さい
 
 
全国全共闘(1章 私の「10・8羽田」)
安保・沖縄と大学闘争を2大スローガンに,全国約200の大学全共闘(全学共闘会議)の全国組織として結成された.山本議長(東大)と秋田副議長(日大)の下,民青・革マルを除く新左翼8派によって書記局が構成された.
全共闘は60年代中盤以降の大学闘争のなかで,諸党派の分立と無党派ラジカルの台頭を受けて,各大学で結成された。
直接民主主義にもとづく組織運営と行動による共闘を基本とし、全員加盟制の学生自治会とは趣を異にする。全共闘によるバリケード封鎖→学生大会での無期限スト、が多く見られた。〈自己否定〉,〈大学解体〉などを掲げる思想運動でもあった.70年代に入って崩壊した.
今日、東大闘争だけが象徴にされるけれど、本来は日大・東大の2つにして1つ。日本刀を振り回す体育会を支配の手段とする大学当局と対決した日大闘争の「破壊の思想」は、「積極的な自己肯定・自己実現」の思想でもあった。
 
7・7自己批判(1章 「第2の7・7」と地域入管闘)
70年安保・沖縄闘争の中で、諸党派とともに華青闘が隊列に参加していた。その統一戦線の会議の場で華青闘が「抑圧民族の傲慢な姿勢」を徹底的に批判し、共に闘う仲間と認めることは出来ないと退場した。中核派は批判を受け入れ、「抑圧民族と被抑圧民族」の区別を明確にする立場を確立した。7・7は1937年7月7日の盧溝橋事件、中国侵略の本格的開始の日。
「たとえ闘う人間であれ、共産主義者であれ、その存在として、私たちは抑圧民族の一員として刻印されている」。この認識は、沖縄県民に対する「ヤマトンチュ」、被差別部落民に対する「一般民」等々として普遍化された。「差別者の一員として、差別主義と対決しのりこえる」という。
「知らないことの罪」「無関心と言う罪」、「踏まれたものの痛みは踏まれなければ分からない」等々。
「非抑圧民族の生活と闘いから学ぶ」、そこから自らを発見しなおすこと。糾弾を受けつつ成長する。非抑圧の解放主体としての存在を承認する。
けれども私たちの世代は、青年期に郷里を離れ、日々の巨大な変化の中で、親子間・世代間の継承を欠いた断絶の世代でもあった。乗り越えるべき歴史や自らのアイデンティティの不確かさを、どう見つけ出すことができるだろうか
 
狭山差別裁判(2章 狭山と組織論) 
63年5月1日の女子高校生誘拐・殺人事件。警察の威信をかけた捜査の中で.石川一雄さんを別件で逮捕.再逮捕した。一審死刑,2審・最高裁で無期懲役。
部落解放同盟は、見込み捜査が作り出した差別事件とし,「無実・差別」を訴える糾弾闘争を展開した.76年には、19都府県の小・中・高1500校で10万人が同盟休校.日比谷で1万5千が集会。79年にも、東京・明治公園で5万人.大阪でも1万5千が再審要求。社会党・総評・新左翼諸派や市民運動・宗教者を結集する大運動になった。
94年12月21日,石川さんは31年ぶりに仮釈放となった.現在も再審請求中。
70年代半ば、中核派や新左翼の最大の運動も、「沖縄・狭山・三里塚」だった。革マルは「狭山無差別裁判」などとやゆして敵対し、露骨な差別観・エリート主義をマン展開した。共産党も「無実・差別」を否定した「公正裁判」要求運動で、弁護団を残して大衆運動から脱落した。共産党による八鹿高校差別事件も糾弾闘争の焦点になった。関連して7章
 
留置所(2章 留置所の歌声大会)
警察の留置場。正式には「代用監獄」。容疑者は、本来は拘置所に送られる。けれども自白偏重の捜査では、留置場が自白強制の手段として活用されている。
用便を足すにも上半身を看守にさらし、屈辱感・転落感覚を強制する。家庭生活や社会生活から突然遮断される犠牲や損害は計り知れない。
深夜に及ぶ長時間の取調べも、弁護士接見の妨害も、警察の留置場あってのこと。「逮捕=犯罪者」という裁判所と社会の常識もある。
争っても何になる。無実であれ何であれ、自白して早く生活に復帰しなければ、という思いは十分に理解できる。多くの国選弁護士もそう対応する。
代議士などの場合は直ちに、法務省が管轄する拘置所送り。少しはましだ。
運動時間。容疑者には、「捜査に支障がない限り、十分な人権が保障されなければならない」。1日1回の運動時間の保障も同じ。留置所では「タバコの時間」で代用される
 
チョウとキリ、ミリ、テツ(3章 「常在戦場」の臨戦態勢
(兆)チョウ。アパートや職場などの周辺とその経路で、革マルの襲撃の予兆を発見すること。ただちにアパートを移る。職場を休む。時には待ち伏せて迎撃する。
(切り)キリ。尾行を切る。幹部の場合、数時間、時には数日かけることが原則。
(ミリ)。留守中に革マルが侵入していないかを確認するための細工。机の上に本を置き、旗からの距離をミリ単位で計っておく。玄関に新聞をしき、その下にソバを数本置くこともあった。
(鉄)テツ。アパートのドアに鉄板を張って補強するなど
散)サン。公然拠点から移動すること。ホロトラなどから降りたあと、数人ごとに分かれて隊長の指揮のもと、数分歩いてタクシーに乗る。下車後、原則として一人1人に散る。兆を見つけてのアパートの引越しも「散」
 
バナナと日本人(5章 フィリピン新人民軍
浅草橋戦闘の獄中被告から「バナナを拒否しよう」というアピールが届いた。この時代、フィリピンの半植民地状態の1つの象徴はアメリカ・デルモンテ社の巨大農園で作られるバナナだった。その最大の輸入国は日本。
「農民の土地解放への闘いに応えたい」という想いは大事だ。けれども私の答えは「ノー」だった。「いったん生産・消費のルートが出来てしまったら、あとは食い続けること」。問題を告発している鶴見良行氏自身が書いているけれど、「先進国の消費者の移り気」こそ、農園で働く人々の生活を何倍もの力で右に左に振り回す。
巨大農園から自立して砂糖生産に挑む農民を支援する「ネグロスキャンペーン」がその後始まった。「持続可能な成長」が合言葉になる。もっと突っ込んだ議論をしたいと思いながら、議論の土俵が見つからないままに放置してしまった。
 
革マルの3・14(10章 政治なき戦争)
相次ぐ政治局員へのテロと本多さんの虐殺。それは「やり合い」の過程に突入した時の革マルの断末魔のあがきだった。「権力が(中核派の)首根っこをつかみ(革マルは)下の急所を蹴り上げる」と公言したおぞましいのもくろみは崩れ去っていた。尊大・ごう慢な「教育的措置」論や「お尻ペンペン」論は、革マル幹部たちは恐怖の反映だった。
「3・14」=「勝利・一方的停戦宣言」と「停戦」を求める文化人声明、そして「謀略」論は3身1体だった。
もしこの抗争を停めることができるとすれば、それは本多さん以外にありえない。そんなことは、革マル(黒田・松崎・土門=根本)自身が十分すぎるほど知っていたはずだ。それが分からないほど、革マルは、幻影・幻覚の中に現実逃避していたということか。解放派への襲撃と中原氏の虐殺は、新たな戦場を生んだ。
「人を呪わば穴2つ」。以降の革マル指導部は、黒田をはじめ、現場責任から逃亡し、怯えと夢想の穴倉に閉じこもってしまった。
革マルもまた、いくつもの節目を経て、変質と内部抗争をくり返している。革マルもまた「かつての革マル」とはほど遠いところに行ってしまった。元中核派と元革マル派、ともに集まって、「戦史研究」を始めるべき時ではないか。
 
本多さんの3・14(10章 1975年3・14)
69年4・27、破防法で逮捕された本多さんは、長期の未決拘留を強いられた。保釈出獄してすぐ、結婚して子どもをもうけたという。それは獄中での心身の痛みの癒しと将来へのステップでもあったろう。休養が必要だったはずだ。けれども「情勢」と「任務」が休養を許さない。
逮捕時の取調べで雑談を交わし「完黙」を貫かなかったと、政治局で自己批判を迫られたとも言う。「政治犯として堂々と立ち向かう」ことが「規律違反」だとしても、「転向・屈服」にはあたるまい、と私は今思う。「完黙・非転向の思想」自体が古すぎる。本多さんの失望も想像できる。
非公然下での軍事小委員会というトロイカで棚上げされ、本多さんは実権を失っていたとも聞く。
護身のためにピストルを渡そうとした人に本多さんは「いざという時、引き金が引けるか?」と断ったと聞く。ここに本多さんの体温・人となりを私は感じる。
 
69年、「破防法を引き出して、勝った」と叫んだという本多さん。戦前・戦後の共産党の屈服の歴史の壁を乗り越えたことで、その歴史的使命を果たしたと言うべきか?
 
証言 組織論の結末(同上)
 キャップが、「排他的で全一的」な指導をするのが理想とされた。その結果、転属や離脱でキャップがいなくなると、継承性が断たれてしまった。
 どんなに無能な人間でも、30余年も1つの部署で頑張ればそれなりの力がつく。時が経つほど、抜てきや天下りの新キャップには「全一的指導」ができなくなった。
 結果として、出る杭、いや「出てもいない杭」を徹底して叩きつぶすことがカギになる。有能な奴は、上におもねり、下を隷属化してぶんまわすことでのしていく。指導部間では、権益をめぐる暗闘が日常化した。
 清水さんの人事は極端なキャリア主義。30年以上も前の記憶で人を判断する。そのキャリアたちも全滅した。
 

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白兎族は、玄界灘の海の民の助けで海を渡りました。
そして因幡に住みついて王国を築きました。
そこにやはり海を渡ってきたスサノオの子孫たちが攻めてきて
うさぎは赤裸にされてしまいました。
けれども大国主の命は優しかったので、服属したうさぎを助けてやりました。
ありがたや、ありがたや。
だっけ?
 
 
 

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