2011年07月

 百人を超える「浮上組」のうち、指導部はそれなりのポストを得た。
 けれども「地下」に潜行する以前の相互の関係からすれば、彼らの地位は「戦功」をも加味すればなお、それに匹敵するものではなかったようだ。
 
 また多くのメンバーは行き場を失った。
 
 それ以上に、この10余年の「表と裏」の二つの「党」が、それぞれの戦いと思いを共有する気の遠くなるような作業が残っていた。「全面的・総合的総括」のために巨大なエネルギーが必要だった。けれど‥。
 あまりに長かった清水さんを頂点にした「水紙政治」(対話なき報告書)を経て、「横や斜めの議論」に耐えうる互いの許容量の狭隘化はいかんともしがたい。「内的共感」は再形成されるゆとりもない。
 
  天田体制は「軍部」を徹底的に解体することを迫られた。
  浮上組の大半は、名目上のポストを与えられて、東日本全域に薄く広く拡散された。
  浮上組の間の相互の連絡や「酒の場」こそ危険要因になった。
  「書記局マフィア」を中心にした108世代の交換の場も忌むべきものだ。
  「指導系列を無視した情報の交換を非とする」ことが指導指針になる。
  長期の投獄から帰還した古参の人々も、「浦島太郎」だ。
 
  いわば「顔を持たない」無名の内務班あがりの人間が、改めて機関を制することになる。
  対外的にあるいは現場からの信望を得る人々は無力化する。
 
  梶さんに代わり、清水さんの秘書・名代として、Fさんが表の顔になったのは‥。
 
  ここでもまた、関西・西日本は独立王国として、ありつづけた。
 楠木グループとその後の浮上組という二つの流れがその後の矛盾を孕む。
 
 
 
 
 
 

血債主義 VS労働運動主義

対立の発生
95年?の『前進』の夏季特別号論文を契機に、互いに「血債主義」と「労働運動主義」とレッテルを張り合う党内論争が巻き起こったことを知った。その一端を整理してみた。
論争は首都圏と全国で、地方委員会・県委員会や労対の場で展開された。
当初の対立は、「たとえ孤立しようともアジアの人民の連帯が‥」をめぐって、公然化した。
首都圏では、ポスト10・8世代を中心に「労働運動派」が形成された。プレ10・8の産別の重鎮たちがそれを支えた。「血債主義派」は党機関員を中心に「浮上組」に支えられた。
言い換えれば、「大衆の中で」「現場の問題意識と向かい合う」vs 「革命的孤立」「求心力」の対立でもあったろう。
半ば公然と展開されたというこの論争は、ある意味、中核派の「解放性」、その可能性を示した最後のあだ花だったと言えるかもしれない。
 
決着の形
9?年、○○論文と政治局体制の確立・公表と共に、論争は終結した。
公表されなかったが事実上明らかにされた中野副議長。清水議長と天田書記長の公式な就任と共に行われたこの体制は、「清水=中野体制」あるいは「清水・中野⇒天田体制」と呼んで良いだろう。
 
その内容は、労働運動への転換と「国鉄決戦」特に「動労千葉支援運動」への特化だと言える。
中野さんの労組交流センター指導が大きな位置を占める(天の声)。党機関は天田さんの指導に服するが、天の声も直接届く。
あわせて、中核派系の「国労共闘」や「全逓中核派」の独自行動の幅を制約し、階級闘争の発展のために占める動労千葉の別格の優位性・主導性を、交流センター内でも不動のものとして確立する。
 
「労働運動派」の先頭に立った人々はその後、あるいは除名され、離党し、排除された。残った一部の人々は、その「有能性」ゆえに栄達の階段を上った。
他方で、「血債主義」は関西や浮上組・三里塚や戦線に根を張り続けた。首(こうべ)を垂れて政治局に残ることもできた。
東日本ではおおむね、決着がついた。
 
全逓問題
全逓中核派は、この時期ある意味最大の「ガン」となった。
プレ10・8世代が大量に存在した全逓では、70年台~90年代のこの時期も、勢力は減退したけれど、全逓労働運動内でも高い「権威」を維持していた。プレの人々は、「4・28ブツだめ闘争」とその不当処分に対する全逓内の運動でも、輝かしい実績で存在を占めた。職場に根付き、職場の同僚と共に進退する作風を維持していた。
 
全逓中核派の旗を高く掲げるとともに、同僚たちと飲み、遊び、苦楽をともにすることなしに運動はありえないと確信していた。同時に、新たに獲得された青年たちには、「動労千葉の物販を持ち込む」ことなどで浮き上がること、無用な対立を引き起こすことをいましめていた。
 
全逓中核派は、対革マルの内戦のもっともすさまじい戦場を体現していた。同僚たちにとっては、「中核派」とはただちに「鉄パイプの攻防」でもあった。「戦時下の疲弊・戦争疲れ」とでもいうべき状況だ。
全逓中核派はまた、多くの戦士たちを輩出し、浅草橋戦闘などでも多くの逮捕・指名手配をだしていた。プレや70年世代の後続の層は、不十分でアンバランスだ。
 
私は思う。集配係の実直な性格、「言葉ではなく行動以外に信じない」「職場の空気」を中核派は好都合に使ったのだと。70年代の苛烈な日々、動労千葉や国鉄を(革マルと)互いに「拠点」として戦域からはずす暗黙の了解の中で(非・戦闘地域化)、全逓職場での総力戦を選んだこと。それは、結果として両派の「利用主義」でもあった。やはり集配よりも機関手のほうが大事なのだ。
この時期、「70年」の全逓中核派は50歳に手が届く。ようやく獲得し、維持していた20代・30代とは親子ほどの年の差だ。ここで、青年たちとの対話はどうしたら形作ることができたろうか?
地区の指導部によって、事態への認識や対応は極端なほどの違いがあったようだ。
ある指導部は、「輝かしい全逓の戦歴」をさらに高めよと、「党的課題」への引き回し、垂れ流しに奔走する。
 
神田問題
プレや70年世代の人々など全逓活動家の多くは、多くの政治集会だけでなく革共同集会にも参加せず、職場と全逓産別の行動に力を集中する人々が主流を占めた。
労対の全逓担当の「神田」はこの動きを積極的にかばい、数年にわたる「全逓問題」の矢面にたった。
神田さんは、あの日大闘争での芸闘委。その指導部としての体験も踏まえて、広い大衆決起の何たるかを知り、また戦場での駆け引き・進退を体現する人だ。
 
彼が全逓の責任者の任を解かれたのは95年だったろうか?
「全逓中核派」の独立王国は費え去り、中野政治の下で、「動労千葉を支援する純粋中核派の革命的全逓運動」に変質していった。

まんが「はだしのゲン」は、原爆をめぐる「社会」を子どもの視線から照らし出す。
 放射能の恐ろしさは、「医学的領域」にとどまらない。人間の恐ろしさと生き様でもあると痛感する。
 
 

②の「最新技術」「超音波」について質問してみたかった。
 
その前に「.超音波探診」について。
超音波探診とは何か。その原理から

  巨大な氷の柱(幅は狭くすごく長い)を想像してください。
 スポットライトを氷柱の端(底)にあて、点灯する。光の束が線になるように、そして少し斜めに入るようにして下さい。
  あなたの目はライトの真後ろにあるとしましょう。
  室内は真っ暗です。
 
 氷が理想どうりにできていれば、あなたはそこに真っ暗な空間を見出すでしょう。
 ま、柱の頂(反対側)で反射される一部の光が見えるから、薄い光が見えるでしょう。
 
 反射した光がどれだけの距離を走って戻ってきたかは、その時間差で分かります。
 今回は、光を赤にして、頂部分に反対色の黄緑のペンキを塗ってみましょうか。そうすれば、やはり真っ暗になります。
 
 さて実験です
 水槽に傷や変形があれば、そこが光る。(傷や磨耗)
  氷の中にアワが残ったり、魚が閉じ込められていたら、そこだけ光って見える。(これがピンホール)
 
 これが(音波と光の違いはあれ)基本原理です。
  この場合、音と光は「波」という点で同じで、「速さ」という点で対照的です。
 
 そこで「専門家」に質問。
 
a.氷柱の内外にゴミや藻が大量にへばりついていたら、どうなるか知っているか?
(つまり細管が錆び付いていたらどうなる?)
 
 「無数の乱反射が生まれて正しい検査はできない」
 「きれいに掃除してから検査してください」
 と答えるだろうか?
 
  では、ダムやビルの検査での錆と使用中の原発での錆の量はどのくらい差があるのか知っているか?
 
 「知らない。関係ない」。かな?(実際の作業では時に数ミリほどのサビに悩まされます)
 
 では、ダムやビルでの検査に要する時間と、錆び付いた細管の錆を取りしっかりした検査に必要な時間では、およそ何倍のあるいは何十倍の時間を要しているか?
  東電は作業工程にどの程度の違いを反映しているかを知っているか?
 
  「現場は現場で責任を持ってやっている‥はず」「それを信じなければ何事も進まない。信じます」だろうか?
 
  (いつでもどこでも、矛盾は下請け・孫請けに。そして事故があれば、責任は私たちに押し付けられる!)
 
b.劣悪な作業環境の下で、信頼できる検査をするには、さらに何倍の時間を確保することが必要か?
工程として、どの程度の余裕をとっているか?
 
「知らない。信頼している」か?
 
  結果として、検査の信頼度はどの程度だと想定しているのか?
 
 「設計や、作業規範は守られているはず。信頼度は100%でなければなりません」だろうか?
 
c。作業員の被ばく量は、その後の健康診断にどう使われるのか?
  「詳しくは知らない。被ばく量が限度を越えた人は追跡調査がされるでしょう」
 
  白血球の減少や原因不明の体調悪化があったときは、どうなるか?
  「症状との因果関係が明白に認められたら、もちろん保障されるでしょう」
  (明白な? 120%の因果関係か? それとも5%程度のそれか?)
 
d。チェルノブイリの調査はそれなりにされていると聞きます。
  それなら、ヒロシマ・ナガサキの被爆者の追跡調査や「疫学的調査」による因果関係や、医療の進歩・保障は進んでいるのか?
 
  「それは私の管轄ではありません」か?
 
 e。あとがき
 
 戦後66年、生き、苦闘してきた人々の「被爆者援護法」をめぐる運動や生き様に思いをはせたい。
 
  
 
 
 

昨夕の番組を見ていて「視聴者参加」したかったことを少し。
 
  今回はまず、推進派の専門家の主な主張をまとめる。
①福島事故は津波。
 だから、これを直せばいい。技術とは失敗を繰り返しながら成長するものだ。
②「最新技術を旧式にも適用している」
 だから旧式もいつまでも使える。
 冷却水の細管なども超音波探信などで適宜検査し、ぴかぴかの新しいものに替えている。
③自然エネルギーは気候・天候などで不安定。
  世界には風の吹かない地域も、太陽光の少ない地方も少なくない。砂漠地帯には水がない。
(だから? そして日本では? )
 だから基本は原子力しかない。
 
  これに「条件付き賛成派」がいう。
④原子力のシェアを減らすのはいい。
  10%くらいでも維持したい。(それじゃ、「原発基軸でなくなっちゃう?!」)
 
両者とも、廃止派・中止派にたいして、「博識」とデータを駆使して「空論だ」と笑う。
追及されれば、「各種の電力のパランスある推進の必要」も認めはする。
 
けれども、「情報公開を」という隠蔽体質には「それはそうだ」と(あくまで消極的に)受け入れる。
(では、公開と信頼のために何をするか、してきたか? 信頼確立と推進のプロセスはどうあるべきかにも答えない。「原子力村」批判にも同じ対応だ)
 
 
つまるところ、
 「国家と経済」を主眼に置くべきだ。
国家とその未来を担う原子力と東電は、批判や非難の対象であってはいけない‥ということではないか?
 
少し柔らかい言葉を言えば、「科学とお上にかけた未来と夢の下で『和』を保とう、争うな」
「自分の身に降りかからないように、その限りで被災者を悼む。都市の多数派の富と平和のために地方には泣いてもらう」‥かな?
 
  原発村とその取り巻きたちには、この数ヶ月におきた事件や世論の変動にはまったく無関心で、いつまでもこのままに行ける、行きたいということしかないようだ。「根底的な機器などどこにもない!」
  ぬるま湯に浸りきった人々には変化を主導する活力がないことこそ、明らかになったというべきか。
  言い換えれば、この時期東電を擁護する意見を吐けば、1回数百万の講演以来が舞い込み、御用学者としての忠誠度と地位が確保される。おいしい話に恥も外聞もない。なぜなら今までずっとそうだったから。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

被ばく検査が緒に就いたかと思ったら、4月からの作業員の多くが、所在不明か名簿にすら見つからないという。
 
下請け・孫請け・ひ孫請けの構造が浮きあがってくる。
やくざ絡みや町金絡みの話もちらちらと語られている。
 
ここでは、私自身の経験と、友人の経験を紹介するにとどめたい。
 
①私の原発体験
  多分1972年のこと。これも確か、東海(第一)原発のことだと思う。
 
 私は横浜の非破壊検査の会社で働いていた。
 
突然、部長に、「原発に出張に行け」と指示された。
4人1組で一か月ほど、第2次冷却水?の細管の超音波検査だという。
入社してまだ1年ほど、それに直前に出張を断ったこともあり、私は受けた。
 
部長が言う。「お前は入社5年、民間の資格の1級、ということにしておくから」
「えっ。だって‥」
「そういうことにしておけ。経歴書もそう書いておくから」
「はあ? 分かりました」
 
下請けというのはこんなものだ。お国というものはこんなものだ。と納得した。
 
もともと原発の作業は、地元への見返りとして位置付けられたものだったはずだけれど、宇宙服のような作業服(防護服)と胸に着ける線量計が着実に値を示すのを繰り返すのは気味のいいものではない。
結局地元でいやがって、遠く横浜まで発注が来たのだという。
 
出張手当、危険手当、宿泊手当てなど余禄も大きかった。
 
②私の前歴
 当時私は二つの裁判を抱えていた。逮捕暦は20余回。公安も会社に通っている。
 原発の敷地内外の幾重にも張り巡らせた鉄条網やフェンス。
出入りに際しては厳重な人物確認もある。
原発は、「テロ」に対する警備も厳戒だ。
当時の反対運動のひとつの論拠には、「地域全体の警察支配」という項目もあった。
 
こんな私を平気で受け入れる原発・東電とは‥
 
戦争と複雑に絡み合う原発。
こんなことで、軍拡や戦争協力をして大丈夫なのか、と素朴に思ったものだ。
 
 
続きはコメントで。
 
関連記事は{1章 横浜時代}の「非破壊検査技師」「原発労働者」など。
 

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