百人を超える「浮上組」のうち、指導部はそれなりのポストを得た。
けれども「地下」に潜行する以前の相互の関係からすれば、彼らの地位は「戦功」をも加味すればなお、それに匹敵するものではなかったようだ。
また多くのメンバーは行き場を失った。
それ以上に、この10余年の「表と裏」の二つの「党」が、それぞれの戦いと思いを共有する気の遠くなるような作業が残っていた。「全面的・総合的総括」のために巨大なエネルギーが必要だった。けれど‥。
あまりに長かった清水さんを頂点にした「水紙政治」(対話なき報告書)を経て、「横や斜めの議論」に耐えうる互いの許容量の狭隘化はいかんともしがたい。「内的共感」は再形成されるゆとりもない。
天田体制は「軍部」を徹底的に解体することを迫られた。
浮上組の大半は、名目上のポストを与えられて、東日本全域に薄く広く拡散された。
浮上組の間の相互の連絡や「酒の場」こそ危険要因になった。
「書記局マフィア」を中心にした108世代の交換の場も忌むべきものだ。
「指導系列を無視した情報の交換を非とする」ことが指導指針になる。
長期の投獄から帰還した古参の人々も、「浦島太郎」だ。
いわば「顔を持たない」無名の内務班あがりの人間が、改めて機関を制することになる。
対外的にあるいは現場からの信望を得る人々は無力化する。
梶さんに代わり、清水さんの秘書・名代として、Fさんが表の顔になったのは‥。
ここでもまた、関西・西日本は独立王国として、ありつづけた。
楠木グループとその後の浮上組という二つの流れがその後の矛盾を孕む。