2011年10月

「急いで」というお客。
「どちらまで?」
「そこを右。あとは言うから、急いで!」
 
こんなお客に限って、「あっ、止まって!止めて!」となる。
車の多い交差点の中で停めさせられる。
中央車線からグワーンと急ブレーキ・急カーブだ。
 
そしてこんなお客に限って、支払いにもたもたする。
やおらバッグのチャックをはずし、中から財布を探し出す。
「710円です」
やっとのことで千円札を探し出す。
 
お釣りの290円を渡そうとすると、黙ってあとから十円を差し出す。
いまはやりの「つり銭ぴったり」だ。
あわてて300円に直して渡す。
 
いい加減にしてくれよな~。
 

高校の恩師の一人。
高校時代、私たちは、裏では「カメ」、本人の前では「カメさん」と呼んでいた。
詳細は後述。
 
カメに関する記事がずいぶん見つかった。
今回は後日のために、記録だけ‥。
 
【以下】
 
三鷹ネットワーク(太宰治)
亀島貞夫は戦後八雲書店の編集者として最晩年の太宰と触れた人です。亀島貞夫は戦後八雲書店の編集者として最晩年の太宰と触れた人です。
 
村山精二 詩のホームページ(ぼっちゃん 異説)
私はわが恩師亀島貞夫の顰みに倣って「欠落の情緒」と呼んでおきたい。
http://homepage2.nifty.com/GOMAME/2008/03/080313.htm
 
ゆまに書房
 
戦後文学の志
亀島貞夫『白日の記録』の表現と思想
 
日本の軍隊を衝く
(野間宏・大岡昇平・亀島貞夫)1949/06/01国土社
日本の軍隊  岩波現代文庫  飯塚浩二」 に収録。
 
中村稔
昭和二十三年九月、相澤諒が服毒自死したこと、相澤の詩と詩論のこと、『芸術』 に詩を発表した機会に亀島貞夫さんを知ったこと、
ゆりいか 青土社 「私の昭和史」
 
山影冬彦
亀島貞夫伝説に取材。書いては没書いては没の想いの果てにくるものは……。
創作の窓
 
昭和24年11月号近代文学 坂口安吾 安部公房 埴谷雄高 亀島貞夫
 
いといしげさと 糸井重里
 亀島貞夫先生っていうんだけれど、‥
 

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これもどの程度正確かは議論のあるところ。
 
弥生期に数十万人として、‥現代の1県に平均1万人。
この頃の伝承を基にしたのがヤマトタケルだとすれば、肥後の国で「おーい」と読んでも、人っ子一人いなかった、というのもうかがえる。
邪馬台国の話と付き合わせれば、「人口の偏在」も浮き彫りになる。
 
「人が住める地域」は時代によって大きく規定されている。
大平野に人が集住するようになったのは、日本史上「つい最近」だ。
「社会の発展の結果」以前に、大地の活動がそれを許したという面もまた大きい。
 
これもまた、歴史観の土台になりそうだ。
 
 

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ウィキペディアから引用してグラフに直してみました。
 
弥生以前には、50%のシェアを占めていた奥羽(東北、主に東部)。
 
弥生期には中部(東山道・東海道)が発展。
 
奈良時代前後にようやく近畿が2割に達する。この時期、関東・中部・中国も同等。
 
院政から鎌倉初期に、関東・東北が発展する。
 
戦国時代は意外なことに、近畿が‥。
 
*ただ、人口統計学は、いまだに「科学」としては未熟で、推計には幅が広く、たぶんそれぞれの地域の人口は倍~半分くらいとして大まかに見たほうが良いのだろう。
とはいえ、歴史を学ぶのに、脇において空想をたくましくすることが必要だし楽しさが倍加する。
 
参照 近代以前の日本の人口統計
 

60年代~現在までの闘争と運動を網羅した映像が満載。
それぞれ短く収められている。
 
「三里塚大地の乱」のほか、三里塚の一連の闘い。
 
沖縄ほか。羽田・佐世保ほかもある。意外なのはベトナムのテト攻勢まで。
 
大学闘争では日大・東大から諸大学の闘争まで。
2000年代の動きも出てくる。
 
 

このカテゴリーは結局書かずに終わった。
「現役」の著名人の無残な姿を描くのも面白くない。
かといって、無名の「最高レベル」の幹部たちにも興が湧かない。
 
「体験」を公開します。
本文でまとめたことの準備校。削除したほうがすっきりするような気もするのですが。
 

1950年生まれ。早稲田卒とのこと。
『検証 学生運動』上下として本になった(社会批評社)
敗戦直後からの学生運動の歴史をまとめている。
別章として、連赤、党派間ゲバ、三里塚などの考察も。
 
個別の闘争の概略とともに、高揚と抗争が合いまった歴史を俯瞰してもいる。
通史として改めて振り返ると思い新たなものがある。「中から見る目」と「結果から見る目」とその総合‥。

知人からのメールからの抜粋です。
あえて、「脱にも継続にも異議」という彼の立場を引用しました。
 
【引用文】
 ●立場
 人類が使用するすべてのエネルギーを太陽光発電で賄おうとするのは無理で、だから原子力が必要というのは、やや論理に飛躍あるように思う。
  原子力の代替としては、太陽光発電以外に風力発電もあれば、ややコストは高いが火力発電も有力だし、地熱発電もあるはずで、いずれも今すぐにということは考えられないが、脱にしても縮にしても、順次これらに代えていけると思う。
  我々団塊の世代が減り人口が減少すればれば、日本においては、使用エネルギーも減るとも思う。
  なお、技術維持や産業輸出のために、東芝・日立・三菱重工が頑張って、原発を作って購入希望のある国へ輸出することは全く差し支えないとは思うが、この地震・津波・火山災害国日本において原発をさらに設置することには、今の技術レベルでは賛成できない。
 
  今日8月24日の原子力発電出力(後述:1118.6万kW)を太陽光発電で賄えればよいとして、概算すると、

① その電力量は、
1.37kW/m2(太陽定数)×1/3(昼率)×1/5(天候等率)×0.2(変換効率)37万×10の6乗m2(日本面積)×Ⅹ(国土敷設面積比)  =1118.6万kW

② 必要なパネルの量
これから Ⅹ=0.00166  国土の0.166% すなわち 614km2 25km四方 1km×1kmを全国614枚敷設すればよい!!
 
③1件あたり50平方mの屋根として、各県平均で25万軒となるが、これもかなり難しいが、不可能ではない??・・。
 
  あくまで、太陽光だけで代替するとした値です。

 

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明和の八重山大津波で陸に揚げられた津波石。何百トンもの重さ。1771424日(旧暦310日)津波の遡上高(陸を駆け上った高さ)は、石垣島南東部から東部海岸で30m以上という。
オヤケアカハチ
琉球王朝の支配に抗した八重山の英雄。歴史は重層的で豊かだ
ともに石垣島
 

9・19明治公園には少し遅れて参加しました。
四ッ谷駅で構内放送で「千駄ヶ谷駅は原発関連の集会参加者で構内がいっぱいです。ここから歩いて参加して‥」
 
明治・芝工大それと関東学院(エネルギー研)などのそれぞれのOB旗を見ました。
駆け寄って、挨拶しました。
もっと多くのOBグループが集まっていたのでしょう。
 
9・11は主として若者たちの行動でしたが、この日は50代・60代~が中心かも。
双方の緩やかな連携で一つの姿が浮かび上がればいいなと感銘しました。
 
青年館側は「市民団体ほか」の指定集合場所。「元かつ非中核派」のいくつかのグループに会いました。
 
現役の中核派系(中央派)の集団も中に埋もれていて、そこここでなじみの顔に合いました。
「やあやあ」とにこにこと近づくと、眼を逸らしたり知らない顔で無視された。
 
でもごくわずかだけれど、渋々話に応じる人も。
さらにわずかだけれど、「ブログ読んだよ。面白かったよ」という人も。
「仲間に教えてやったら面白そうに読んでいた」
 
この日、何冊か売れた‥。
 
 

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