2011年12月

当社では今、毎日の朝礼で、「違法な駐禁をしません」と斉唱させられている。
さらに駐禁でつかまったら、直ちに会社に報告が義務付けられている。
一度目は掲示板に名前を張り出され、2度目以降は「乗務停止○日」の懲戒処分が出る。
 
駐禁の検挙数が所有台数の1割に達すると、運輸省による「車両停止処分」がくるので、会社も必死だ。とはいえ、まともな対策が出されるためしはない。
すべて乗務員に転嫁してすむという事なかれ主義。
いっこうに違反が減りそうにない。
 
私も付け待ちをするほうだから、自分で自分を守るほかない。
 
去年と今年の検挙基準は大きく変わった。
去年は「一斉摘発」が多かったけれど、今年はなくなった。
一斉摘発は、「交差点の近く」に先頭車両がいたら、後続すべてを摘発するというもの。
今年は「交差点・横断歩道から5メートル以内」「停車禁止場所(赤ペンキなど)」それと「交差点内」に限られている。
 
多分去年、一斉摘発で捕まった人が、大騒ぎをして摘発の違法性が暴かれたのかもしれない。とすれば改めて異議を申し立てれば、あるいは面白いことになるかもしれない。
 
とはいえ常々思う。
付け待ちの先頭になった車の多くが、今でも、横断歩道にぎりぎりのところに進んで客待ちをすることが常態になったままだということだ。
 
当社で少し策のある人々は、先頭になっても「5メートル」空ける人が増えている。
後ろから「」ぷっぷっ」と警笛を鳴らされても動かない。
時には後ろに「分かっているよ」と合図して、動かない。
そうして自分を守っている。
 
確かに、従来の常識から言えば、詰めるのが乗務員間のマナーだ。
隙を見れば割り込んでくるハゲタカたちを許さないためにも、必要なことだった。
横断歩道の真ん中に停めて割り込む奴らに隙を与えたくないのはお互い様だ。
けれども今は諦めるしかない。
 
人によっては、歩道の真ん中に停めている車の会社に電話でチクリを入れる人もいる。
昔なら降りて行ってたたき出す元気のある人が多く、それで秩序が保たれていたものだけれど、最近はそんな元気のある人も少なくなった。
とすれば、チクリも仕方のない選択かもしれない、とも思う昨今だ。
じっさいに、電話の効果は大きいのだし‥。
 

イメージ 1

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9月11日以来、経産省前で女たちの「十月十日」の座り込みがつづいている。
そのとなりには「9条改憲阻止の会」。
二つのテントが寄り添って路上にいる。

資料1-1
 
会誌編集委員長
山田耕作です。
日ごろお世話になっています。以下のような理由で添付のコメントを投稿します。
「被ばく線量のしきい値の有無は未だ結論の出ていない、物理学の専門領域を超えた問題であるため、本欄においてこの問題の正否に直接かかわる議論はこれで打ち切りとします。」とのことですが今回のコメントは「物理モデルの理論式の理解の誤りに関する純粋に物理の議論に限定したものです。この誤りをこのまま放置することは物理学会の見識を問われる問題と認識しています。数式の結果の意味を逆の結論にしていますので、全く正当な論理を欠いています。教育的にもよくありません。 (1114日)
 
稲村氏の「もっと真実を知ろうー被ばく線量にはしきい値があるー」に対するコメント
                      山田耕作 kosakuyamada@yahoo.co.jp
稲村氏は閾値のない式を導いて、しきい値があると主張している。稲村氏の式を検討してみよう。1) 時刻tにおける損傷を受けた遺伝子の総数をN(t)として答えは  N(t)=(D/μ)[1-exp(-μt)]
となっている。ここでDは単位時間あたりの損傷数、μは修復・免疫機能による単位時間あたりの再生率とされている。この式はtに関して単調増加関数であり、t=0からN=Dtで線量に比例してNが増大し、t=∞で飽和し、N=D/μとなる。この結果はDがゼロでなくて、μ=∞でない限り、Nはゼロにならない。つまりこの式は修復機能があってもDが有限であれば遺伝子が損傷されることを証明したものである。しかも稲村氏はD=σnIと仮定しているので、Iの小さい低線量であってDが小さくてもμが大きくてもNはゼロにならないこと、低線量の被曝が続けば遺伝子の損傷が起こり、しきい値がないことを示している。稲村氏は何を証明したのか。自分が間違っていることを自分で証明したのである。
 なお、稲村氏は自然放射能などをもちだし、バックグラウンドに近づく値を閾値としているが、観測が難しいだけで遺伝子損傷Nは上の式となり、損傷がなくなるわけではない。2)
参考文献
1.稲村卓;日本物理学会誌,vol.66,No.11,863.(2011)
.山田耕作;日本物理学会誌,vol.66,No.10,790(2011)
 
資料1-2
 
会誌編集部御中
編集委員長
 先ほどの投稿は編集委員長のコメントに配慮したものですが、必ずしも編集委員長のコメントが正当と思っているわけではありません。
 重要な被曝の問題を科学的に解明することは焦眉の課題です。
この観点から編集長に熟慮いただくことを含めて再投稿いたします。
こちらの添付の掲載を第一に要望いたします。
それが困難なとき前文を投稿としていただきたいと思います。
山田耕作         (1114日)
 
稲村氏の「もっと真実を知ろうー被ばく線量にはしきい値があるー」に対するコメント
                     山田耕作 kosakuyamada@yahoo.co.jp
稲村氏は閾値のない式を導いて、しきい値があると主張している。稲村氏の式を検討してみよう。1) 時刻tにおける損傷を受けた遺伝子の総数をN(t)として答えは  N(t)=(D/μ)[1-exp(-μt)]
となっている。ここでDは単位時間あたりの損傷数、μは修復・免疫機能による単位時間あたりの再生率とされている。この式はtに関して単調増加関数であり、t=0からN=Dtで線量に比例してNが増大し、t=∞で飽和し、N=D/μとなる。この結果はDがゼロでなくて、μ=∞でない限り、Nはゼロにならない。つまりこの式は修復機能があってもDが有限であれば遺伝子が損傷されることを証明したものである。低線量であってDが小さくてもμが大きくてもNはゼロにならないこと、低線量の被曝が続けば遺伝子の損傷が起こり、しきい値がないことを示している。稲村氏は何を証明したのか。自分が間違っていることを自分で証明したのである。
 なお、稲村氏は自然放射能などをもちだし、バックグラウンドに近づく値を閾値としているが、観測が難しいだけで遺伝子損傷Nは上の式となり、損傷がなくなるわけではない。この点も被害を隠すいつものやり方であるが、すり替えである。誠実な科学者J.グールドは原発周辺100マイルの住民の間に見られる自然放射線量に近い低レベルの放射線被曝による乳がんの増加を統計的に正しく導いている。2)
チェルノブイリ事故後の粘り強い研究によって、チェルノブイリ原発事故よって放出されたセシウム137による低レベルの放射線汚染地域で、チェルノブイリ膀胱炎というがんに発展する特異的な膀胱炎が発見されている。3) これは手術で取り出された膀胱の解剖の結果であり、100ミリシーベルト以下の低線量でがんが発生するという動かしがたい実例である。従って、100ミリシーベルトが閾値であるというのは誤りでる。4)
参考文献
1.稲村卓;日本物理学会誌,vol.66,No.11,863.(2011)
2. ジェイ・マーティン・グールド;低線量内部被曝の脅威(The enemy within)、肥田他訳、緑風出版(2011
3. A. Romanenko et al.; Urinary bladder carcinogenesis induced by chronic exposure to persistent low-dose radiation after Chernobyl accident. Carcinogenesis 30, 1821-1831 (2009).
4.山田耕作;日本物理学会誌,vol.66,No.10,790(2011)
 
資料2
 
編集委員長より以下の回答が届きましたので、お知らせいたします。
--------------------------------------------------------------------------------------------------
山田耕作様
 
「会員の声」欄へのご投稿、ありがとうございました。せっかく
ご投稿頂いたところを大変恐縮ではございますが、編集委員会で
慎重に検討の結果、「会員の声」欄ではありますが 11月号の当該
欄末尾に記しました方針に基づき、今回は頂いた原稿の掲載を断念
することとなりました。このことに拘わらず、今後とも変わらず
学会誌の充実のためにご協力頂きますよう、謹んでお願い申し上
げます。                         平成23 11 25
                         第67期会誌編集委員長
                              旭 耕一郎

3.編集長の誤り
 しかし、旭編集長のコメントは以下の点で誤りであると思う。
 
1)論争があるから議論しないのではなく不一致の原因を明らかにし、正しい結論を得るのが科学である。しかも、しきい値の有無に関しては、少なくとも100mSv以下でも被害が生じることは明確である。私が引用したように市川定夫氏やグールドたちのような先人達が苦労の末、低線量被曝の被害を解明して報告しているのである。市川定夫氏やA.H.Sparrowらは2.5mSvの低線量まで放射線量とムラサキツユクサの突然変異率の関係を実験的に確認している。その上、放射線と化学物質との複合汚染も明らかにしている。最近ではチェルノブイリ被曝者にみられる特異的な膀胱炎から膀胱癌への微視的な機構が報告されている。
 
さらに物理を超えたことの判断を物理学者が出来ないと考えるのは誤りである。統計の信頼度の問題である。稲村氏の引用する被害が観測されないという文献のデータは統計的に有意でないということだから、対象が少なすぎて研究が信頼できないのであり、被害がないことを証明したものではない。J.グールドの著書にはこの点が詳しく議論されている[]
 
2)編集長は不可知論に立っている。しかし、少なくとも稲村氏の式がしきい値を否定しているのは物理学者なら誰にも明確に理解できる。また、引用が不正確であることも明らかである。なぜ、編集長は著者にこれらの誤りについてコメントし、注意を喚起しなかったのか。なぜ、稲村氏の題名をなかば否定するようなコメントを入れ、議論を打ち切ったのであろうか。
 
3)稲村氏がしきい値の意味を「区別できない」値のように記述しているのは被害が観測されないというのと被害がないということをこっそり取り替えるものである。観測されないという意味は測定が不十分である可能性を持ち、直接被害がないことを証明しないのである。しきい値があり、ある被曝線量以下では被害がないという証明を考えてみよう。被害がないことを証明するのは統計的に必要な多数に対して、長期にわたって観測しなければならない。しかし、被害が存在するという証明は発見されれば決定的である。J.グールドたちは、原発の日常の運転が乳がんによる死を増加させることを示したのみならず、稲村氏が無視した低線量の長期の内部被曝は線形関係よりもいっそう危険であることを統計的に明らかにした。
 
3.物理学者の社会的責任と物理学会誌の責任
「物理を超えた問題」領域は議論を打ち切るというのは正しいのか。まさにこれこそ私が物理学者の皆さんに尋ねていることである。原発は地震に耐えられるかは地震学者だけでも、原子力工学者のみでも、生物学者のみでも専門領域を限って議論すれば誰も正しい判断ができない。現実に人類の生死にかかわる問題を専門外として放置してきた科学者の無責任な態度こそ私が6月号で問題にしたことである。さらにシンポジウムで被曝を軽視する報告に異議を唱えた理由でもある[]
 
福島や各地で被曝が今も進行中であるが、稲村氏の言うように100ミリシーベルト以下の被曝は被害が出ないといえるのか。もし、被害が出たとき稲村氏、編集長、物理学会はどのように責任を取るのか。被曝の被害は幾世代にも引き継がれることがこの4月に開かれたチェルノブイリの国際会議で報告されたと聞く。
 
分野を超えて総合的な判断ができてこそ科学者集団ではないのか。そのような総合的な判断の一翼を担うことにこそ、物理学の存在意義があるのではないだろうか。時には意見が別れることもあろうが、自由な討論によって真理を探ることが必要である。編集長の見解は学問の総合化に逆行し、物理学の発展を妨げる細分化された専門化への道である。総合的な学問の中に正しく位置づけられてこそ物理学が活性化され発展するのである。物理学会誌は学問の総合化とこのような物理学者の社会的使命に関して積極的に議論すべきである。そして、物理学研究の社会的意義を明らかにし、社会的使命を積極的にはたすべきではないだろうか。以前の物理学会は物理学者の社会的責任を公式の分科としてシンポジウムを開くのが伝統であった。物理学者は専門家である前にまず人間として社会人であるべきであるとわたしは思う。
 
参考文献
1)山田耕作;日本物理学会誌 vol.66,No.6
2)山田耕作;日本物理学会誌 vol.66,No.10
3)市川定夫;新・環境学III 藤原書店(2008年)
4)ジェイ・マーティン・グールド;低線量内部被曝の脅威(The enemy within)、肥田他訳、緑風出版(2011
                            

知人から、「しきい値」についての物理学会での議論の一端を転送されました。
そのまま全文載せてみます。
 
「専門家にとって事実とは何か?」という問題でしょうか?
 
元「物理学徒」として感銘深いものがあります。
 
大学闘争のただなかで論議されたそのものであるようにも感じます。ヒロシマ・ナガサキの被爆者にも通じる。
 
「境界領域」「学際研究」という言葉で理解することもできるかもしれません。以下‥。
 
物理学者の社会的責任と物理学会誌の責任
                                         日本物理学会誌編集委員各位
                                         日本物理学会会員各位
                      山田耕作 kosakuyamada@yahoo.co.jp
 
1.はじめに
福島原発事故は東北・関東地方をはじめわが国全土、海洋など世界に放射性物質を放出した。私は史上最大のチェルノブイリ事故に匹敵する深刻な事故と考えている[]。田畑や海を汚染し、農林・漁業の被害も重大である。未来の世代も含めて、地元福島はもとより、多くの人々に取り返しのつかない重大な被曝の被害を与えてしまった。豊かな山野、海を守り育ててきた先人に如何にわびてもわびつくせないと思う。子供達の将来の健康も心配である。
 
とりわけ、核エネルギーの利用は物理学者が当初からかかわってきたことであり、全ての物理学者が何らかの責任を感ぜざるを得ない問題であると思う。特に私はわが国のような世界でも例を見ない地震多発国で原発が安全に運転できるかは重大な問題であり、その危険性を強く社会に訴えるべきであったにもかかわらず、力が及ばなかったと反省している。129日、原子力安全保安院発表によると、今回の地震動も新たに設定された耐震設計の基準地震動さえ超えたということである。
 
大規模化した科学技術は大きな社会的役割を持ち、人類の将来を決定する。その安全な利用は、科学技術が総合的になった現在、全ての分野の科学者のたゆまない協力によって維持しなければならない。私は日本物理学会員として、私たちが地震や放射線の影響について軽視してきたことが結果として原発を容認し、今回の事故を事前に防ぐための努力を強めることが出来なかったのではないかと思う。科学者は集団として総合的な判断をし、社会にあるべき科学技術について提案したり、警告する社会的責任があると思う。なぜなら、他に総合的な判断ができるところがないから、各分野で自発的で積極的な活動が必要である。
 
それゆえ、私はささやかな責任の一端として、本誌会員の声に物理学者の責任について投稿した。4月に投稿すると6月に掲載された[1]7月に投稿したものはなぜか9月掲載のはずが10月になった[2]。ところが11月号を見ると6月号の私の「会員の声」に対する稲村卓氏の批判が掲載されていた。名指しで私を無責任とするもので次のようなものである。
 
冒頭に「山田耕作氏の原発批判には放射線被曝に関する迷信があるのでこれを正したい。・・・ここでは、放射能・放射線に限って、氏の意見に反論する」とある。そして最後に「事実から目をそらし、あるいは事実を知らないで旧態依然たる発言をつづけるとすれば、いたずらに社会を混乱させるばかりで、物理学者の責任をはたしているとはいえない」という。ここで稲村氏が言う事実とは氏の題名の「もっと真実を知ろうー被ばく線量にはしきい値があるー」である。
 
 さらに、不思議なのは稲村氏の会員の声の直後に会誌編集委員長旭耕一郎氏の次の言葉が続いていることである。「被ばく線量のしきい値の有無は未だ結論の出ていない、物理学の専門領域を超えた問題であるため、本欄においてこの問題の正否に直接関わる議論はこれで打ち切りとします。」というのである。
 
私が6月号で取り上げたのは福島原発事故に対する物理学者の責任であり、原発の耐震性も含めた安全性に関するものである。確かにその中で私は「撒き散らした放射性物質による内部被爆について意図的に触れず、すぐさま影響が出ないと誤魔化している。過去の被曝研究による明確な真理がゆがめられている。それは第一に、被曝線量に閾値はなく、これ以下なら安心とはいえないことである。低線量でも被曝量に比例して被害が出るのである。さらに、細胞分裂が活発な胎児、乳児、幼児はいっそう危険である。第二に自然に存在する放射性物質と人工の放射性物質の生物的影響の違いを無視している」と書いた。そして上記の明確な証拠として市川定夫氏の環境論を引用しておいた[3]。被曝の真実が問題になっているのでその内容を少し紹介する。
 
そこにはイギリスのアリス・スチュアートの妊娠中の低線量被曝による幼児白血病による死亡率の増加の報告がある。さらに市川氏は記している。アメリカのマンクーゾらは「ハンフォード原子力工場で働いた全労働者の被曝記録とがん発生の記録を調査し、さまざまながんの発生率と被曝線量が明白な関係を持つことを1977年に立証している。この調査によれば、骨髄がんの発生率はわずか0.8レム(8ミリシーベルト)で倍加し、白血病など造血系がんの発生率も2.5レム(25ミリシーベルト)で倍加していたという」。
 
私の投稿に関する経過は以上であるが、稲村論文をめぐる問題は単なる一投稿文の問題ではなく、物理学会にとってその存在意義に関わる重要な問題点があると思う。指摘して会誌編集委員や会員諸氏に考えていただきたいと思う。
 
 
2.問題はどこにあるか
1)被曝の評価が原発震災の事故評価にとって、根本となる重大問題であること
政府、東京電力など原発推進の立場に立つ人は現在安全神話を捨て、原発事故はやむを得ず認めるが、被曝を過小に評価し、被害を消し去ろうとしている。いっせいに100mSv以下は害がないとの大合唱である。文部科学省は新たな副教材を提案してこの合唱を先導している。それ故、科学者集団としての物理学会の被曝の問題に対する見解は社会的にも極めて重要であり、人命と子供達の未来に関わることである。
 
2)手続き上の民主主義の否定は学会の民主主義をゆがめ、真理をゆがめる
これまでの私の経験では、私がコメントで名前を挙げて意見を述べると、批判された人が意見を書き、それがわたしにも送付され、合意の上で両者の文章が同時に掲載されるのが通例であった。(例えば藤森・吉田氏との「フェルミアーク」に関する論争)。
 
しかし、今回は違っていた。今回批判された私が知ったのは11月号が出版され、しかも議論打ち切りの編集長コメントつきであった。あわてて、稲村氏の誤りを指摘して投稿したが、案の定、私の反論(以下に資料を添付)は編集長コメントを盾に拒否されたのである。あたかも、あらかじめ反論を封じるために編集長コメントがあったように私には感じられた。しかも困ったことに稲村論文が論理的に混乱していることである。
 
3)稲村論文の内容の非科学性と不正確な引用
 つまり、稲村氏の論文はしきい値の存在を証明せず、逆に修復・免疫機能があっても遺伝子の損傷が起こることが示されており、私の記述に合致し、稲村氏自身の主張に反しているのである。ただ、環境因子で遺伝子損傷がバックグラウンドに埋もれ「区別が出来なくなる」という記述があるのみである。この区別が出来なくなるというのは損傷がないということでなく、遺伝子の損傷は稲村氏の導出した式にしたがって依然として存在するから、遺伝子の損傷を否定するものではないので被害は生じるのである。この点を指摘してコメントの掲載を求めた(資料1-1,1-2)。それに対する回答が資料2である。後は読者の判断に任せようと思う。編集長のコメントに反して、稲村氏の誤りは誰にも明確であるからである。
 
さらに細かいことであるが、稲村氏のしきい値があるという引用文献の原子力学会誌FOCUS「被曝による健康への影響と放射線防護基準の考え方について」(2011vol.53.No.6)では次のように記述している。「100mSv以下の被曝で確定的影響は発生していないとしています。一方、100mSv未満の被曝であっても、がんまたは遺伝的影響の発生確率が、等価線量の増加に比例して増加するであろうと仮定するのが科学的にもっともらしいとしています。これを確率的影響と呼んでいます」。原子力学会誌では註があり、「確率的影響:しきい値がないと仮定し、被ばく線量が低くてもその線量に応じたある確率でがんや遺伝的影響が発生するかもしれない影響。低線量被曝による人体への影響の下限があるかどうかについては現在では諸説あり、検証が進められている」と記されている(同上FOCUS p429)。これは旭編集長のコメントに合致し、「被ばく線量にはしきい値がある」という稲村氏の断定的な「真実」とは整合しないように見える。稲村氏は原子力学会の「検証が進められている」とする解説よりもしきい値の存在法則を強く主張しており、しきい値100mSv以下の被曝には危険性がなく、危険性を言うことは「いたずらに社会を混乱させる」という。この主張は、物理学会としては多くの人命に関わる問題であり、その責任を問われる見解である。批判なしには済まされないと思う。その責任を回避するのが編集長コメントの目的かもしれないとも推察する。
(つづく)
 
 
物理学会誌

同僚たちと、震災から8か月、3・11の時の動きについて話になった。

私は地震の瞬間には、下町を走っていた。
突然、前の車が停まってしまった。
私自身は、一瞬「あっ、きた!」と思う。
日ごろ不安に思っていた脳溢血か何かが襲ったのかと思った。
ハンドルをしっかり握り、あわてて車を留めた。

あっと思うまもなく、ビルから飛び出した人々が、空き地で輪になってスクラムを組んだ。
それを見て、ようやく地震だと分かった。

ゆり戻しが終わって、近くのガススタンドに入って息を整えた。「きょうはまずい。早く帰ったほうが身のためだ」
休憩室でテレビを見ていると、予想以上の大地震だと分かる。
「これは大変。商売だ、商売だ」。

あわてて車に戻って走り出すと、いつもはいない所で手が挙がった。
お客を乗せて近くの駅に急ぐ。
駅前はタクシーがいなく、乗客の長い列ができていた。
親子を乗せて都心方向に向かい、お客が降りたらあちこちに手が挙がる。

お年寄り♀が飛び込んできた。
「マンションの上のほうに住んできるのだけれど、恐ろしくて、平屋の妹のところに逃げたい」

秋葉原界隈で4時半を過ぎていた。
日勤のときはお客を乗せられるのは4時半まで。(あれから制度が変わったけれど)
「回送」にして会社に向かう。
もう大渋滞だけれど、こんな時は、幹線を離れて裏道に行けばすいすいだ。
裏道をしばらく走ったとき、お年寄り♀が疲れたように歩いている。

「こんな時だ。一つや二つ規律を犯さなくっては面白くない」
事情を話して「帰りがけだから、メーターを立てられないけれど無料でお送りしましょう」
震災絡みの世間話をしながらお送りする。
降りるときに「いくら払ったらいいかしら?」
「う~ん。じょ、千円ももらえますかね」
「それでいい? じゃ、お礼にこれも」。少し高そうなお菓子をつけてくれた。
そこに別の人が飛び込んできた。私が断ると、前のお客が事情を説明してくれた。

裏道の、そんまた裏道を走ると面白いように走れる。

会社に近づくと、もう無数に手が挙がる。
窓を開けていく先を聞くと会社の先なので、「会社に行けば空車があるかも」とのせる。

会社の駐車場につくと、職員が総出。その中に、空車表示でお客を乗せて入っていく。
「○○さん、どうしたの? 空車で載せちゃダメじゃないの!」と「次長」
「何言ってるんだ、こんな時に」。私が叫び返す。
「いい、いい。話はあとで聞くから。早く車を交代して」

だいぶ遅れたけれど、私が最初に帰ったらしい。
あとで聞けば、みんな幹線道路を歩く速さ以下の速度で帰ったらしい。

後日になってもお咎めはなかった。

夜、思いついて幹線道路にのぞきに行った。
大渋滞は続き、歩道はひとでいっぱいだ。
けれども、辻辻にも道案内はなく、「ヒッチハイク」の雰囲気もなく、みんなばらばらに歩いている。
知り合い同志で歩く人もいる。なにやら、思いなしか、軽い晴れやかな興奮も感じられた。




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