2014年02月

映像がアップされているという記事。
アフガニスタンの米陸軍兵による「米軍機の誤爆」映像。駐留兵や家族らに激震走る。
 
 

13.3の入江さんの脱退(交流センター代表の辞任)の弁を読んだ。
 
 いくつもの思いがあるのだけれど、元活動家の話を聞いた。
 
(刈谷)足元に組合をという話について?
 
 --労働者のいるところ、自分のいるところで組合を!という言葉は、ス労自主が90年代から繰り返し言ってきたことだ。入江さんも言うのに疲れてしまったのかもしれない。
 
-- (地区常任の)私もあるころ、同じ思いを持った。
 地区のメンバーや元活動家の話を聞いて、組合回りを繰り返しやった時期がある。
 そう、刈谷さんの話のようなタクシーの現場にも行った。「話を聞かせてください」と飛び込んで、何度も何度も訪問する。
 うん。当時のルンプロ規定は寿や山谷のような日雇い労働者を対象に考えられていたと思う。タクシー乗務員は「労働者」じゃなかったのかな?
 
刈谷 山谷や寿を除いて、そもそも眼中になかったのじゃ?
 
‥ たしかにいわれてみれば、乗務員も言う所の「労働者階級」なのかどうか?改めて考えてみたいことだね。
 このころ、建設労働者の組合にも、港湾の組合やその関連にもずいぶんいったものだ。自分としてはかなり踏み込んだという思いもあるね。
‥そうかもしれない。  それぞれ「一人親方」や「さすらいの職人」という面も大きいね。
 たしかに、「賃金形態や労働条件」ということ以前に、その人の生い立ちや「社会的地位」そして将来の人生設計などで考えると、官公庁や大企業の労働者だけでなく、町工場の労働者とも違った面がありすぎて、同列に語るのが難しい問題だ。
 同じ職場にもいろんな人生を抱えて生きているわけで、どんな人がいるかによって、組織戦術や職場政策は大きく変わるものだし。
 そもそも、戦後の日本では、「永久就職」までは行かない人でも、一定の長期間の就業は保障されている。なにかそれが前提で、「プロレタリアート」と「ルンプロ」の区別も、マルクスの時代の定義とかけ離れている気もする。「不安定就業」=ルンプロにされてしまってきた気もする。
 
 ‥直接の目的は、物販の拡大にあった。
 いくつかの成果もあったし、組合動員の芽もできたり、それと自分の世間知らずにも驚かされた。
 そうだね。世間を知るための関わりっていうことは当時は考えてもいなかった。
 
(刈谷)とはいえその実績は小さくない。誰かが引き継いだ?
 
 ‥多くの活動家や常任には話は通用しなかった。
 自分が離れてゼロに帰した。
 みんなが目を向けていたのは、教祖・高教祖や自治労で、「下層や現場」には向かなかった。
 党派の穴場や運動の谷間にどうにか潜り込むことが大きかったのだと思う。
 そちらのほうが効率もいいし、路線にもあっている。
 もちろん自分もそちらの領域にも力を入れていた。
 
(刈谷)効率から見れば、未組織や下層は飛ばしたほうが良さそうにも見える。何かYみたいだけれど‥。
 
 ‥けれどまた、そこでの(未組織職場での)組織化の仕方も問題は大きかったのだと思う。
 とにかくすぐ「争議」にしてしまう人がいる。派手にぶち上げて、会社側を追い詰めようとする。
 その労働者がその職場で働き続けることを眼目にするなら、話の持って行き方も変わるのに。
 結局は「クビ=解決金」に終わってしまう。職場には何も残らない。
 
(刈谷)いや、マイナスだけが残るのかも。単なる「争議屋」‥
 
 ‥「職場や人に即して」ということに思いをめぐらすことができなかったから、結局はおざなりのオルグ
、報告書のための職場訪問にしかならなかったのだと思う。
 
‥会議でもそんな議論を起こしてきたけれど、「つまらぬことへのこだわり」として最終的には無関心に終わった。
 中核派の問題としては、路線問題も然りだけれど、「笛吹けど踊らず」「現実や現状への無関心」が最大の壁だったのかも。「惰性」だね。
 
 (刈谷) タクシーや建設の「生き方」の話を教師や自治労の事務職に返すだけでも意義はありそうな気もするけれど?
 共産党の区労連も、各産別の合議の場でも、他の職場への無関心ばかりが目立った。すれ違いばかりの職場報告でお茶を濁して「さあ、選挙だ」だったね。共産党としても使えるコマを使い切るという真摯さがかけているのがよく見えた。
 他の産別の話には、職場のビラや雑談で世相を語るネタがごろごろ転がっているのに使えない。ま、職場の組合に10年かかわって初めて見えてきた話だけど。
 
‥うん。党を離れて時間を経過して、いまやっとそんな話ができるようになった。思いがいたるようになった。悲しいことだけどね。
 
 (刈谷)お互いにね。 

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