2014年06月

【4】「3・14とその後の日々」
 関西の決起を転機として、中野・天田ラインの動きは早かった。清水天皇を天の岩戸に押し込めて「第3のクーデタ」に突入。清水氏が身の安全を引き換えに側近を売り渡す。これを受けて水谷・与田らを一掃する大運動・大粛清が始まる。(第2のクーデタは不発に終わった「カウンタークーデタ」?)
 
 そう。その後の関西派の弾圧・追放などを見ると、「3・14=党の革命」論の空ぞらしさは印象的だ。
 高木を処刑し、秋山を復活させ、鈴達を引き上げ…この意味は何か?
 清水氏が、天田氏にがんじがらめに縛りあげられて、命乞いをしているように見える。
 で、そういう「勅許」を乱発している?
 
 清水復活の芽も無いわけではないが、それはそれでまた、大粛清を伴いそうだ。
 長生き戦争に勝った家康の教訓かね?
 ただ、清水氏の文章を読んでも、あまりに生気がない。「とっくに終わった人」じゃないか?
 党を潰しても、主導権争いに勝つ。「チキンレース」の覚悟なしに、この世界には踏み込めそうにない。
 天田・清水の党内権力にかけた執念は、あぜんとして、非難を超えて見惚れるほどのものではある。
 
 ***「いつ・どこで・だれが…」。
 正確に全体像を描こうとすると、すぐに生き詰まる。
 乞う協力。というか乞う発信。
 
 
 

水谷さんらの言動には「何で?」と思えるくらいのこだわりが見える。
事情に通じる人の話を聞いた。
 
【1】関西の3・14への均衡を逸した敵がい心
 うん。正否は措いて当然と言えば当然のような気もするが。
  水谷氏は「留守番内閣」の筆頭として、「反革命クーデター粉砕」に社論を統一し、戦争的決着への準備を整えた。(注)末尾に修正。
 それ自体は中核派の「前例に倣った」ごく普通の行動だった。
 帰ってきた天田氏に清水氏の「勅令」を突き付けられて、突然「忠君転じて逆賊」として失脚・捕縛・処刑された。
 たしかに「理不尽」といえば理不尽だ。
 というか「あまりに想定外」過ぎたのかも。
 
【2】吊るし上げの日々(千葉の党員総会)
 本社⇒地方・地区、「クーデタ粉砕」の決議がひっくり返り、水谷粉砕決議に一変する。
 そして極め付きがあの党員総会だ。
 場所と時間を覚えていないんだけれど、千葉のDC会館?
 混乱と混沌の日々だったので、いまだに整理がつかない。
 
 会場入り口近くに中野氏がドデンと座り、参加者はみんな、中野さんに挨拶して入っていく感じだったな。
 司会も誰だったっけ?
 とにかく壇上に水谷氏が座らされ、「罪状」が読みあげられて吊るし上げが始まった。
 「討論」だったか、でも事実上の吊るし上げ。
 会場の参加者が次々に立って、水谷氏の罪状をあげつらう。
 ま、相当念入りに準備がされていたのだろう。
 あることないこと、とにかく許せない、という感じだった。
 
 「水谷!釈明しろ!」のヤジが飛ぶ。
 「釈明させろ!」もあったと思う。
 水谷氏が一歩前に出ると、「黙れ!引っ込め!」のヤジが覆う。
 水谷氏が引っ込むと、また「釈明しろ!」
 水谷氏は出たり引っ込んだりでうろうろするだけだった。
 
 1人か2人か?「ちょっと待って。やりかたが酷すぎる」と立ち上がった。
 けれど、ヤジの嵐に押しつぶされて、何度かの問答の末に沈黙させられた。
 
 俺は水谷が好きじゃない。
 それにあんまりに唐突過ぎて、ぼそぼそいうのが精いっぱいだった。
 何といっても、関西への武力反撃がひっくり返って「党の革命」、その転換の大きさに翻弄されていたのだと思う。
 「その時誰がどう動いたのか、どういう形で、どういう思いで」は改めて今後の課題になりそうだ。
 
 「自己批判書」を書かされ、書き直され続け、監禁生活では昨日までの部下にいたぶられ。
 たぶん水谷氏らには「いったい何が起こったのか」すらがいまだに整理つかないんじゃないか?
 
 【3】西部・杉並でも
 同じ形の吊るし上げは杉並でもあったね。
 ここでは「現場」の声が会場を制したという感がある。
 やっぱり数人の人が、「フェアじゃない」「酷すぎる」とたったと思う。
 中でも障福氏が最後まで頑張った。ヤジを押し切って発言し続けたのは印象的だ。
 教労・給食などからも割って入る人がいた。
 けれども押し切られた。
 
 その後、障福氏は離れた。
 教労・給食も、あとで厳しく詮議されたようだ。
 似たようなことはその後も何度かあり、その都度割って入ったりしたけれど、ついには力尽きたというところか?
 
 そこまでの情況に直面して、なんで激しく立ち上がることをしなかったのか?!
 うん。うまく言えない。そんな空気に長く漬かっていたから、としか。
 なんですぐ離れなかったのか?
 1人で離れるって、選択肢になかった。
 
 ****
 白土=刈谷の経験としては、80年代の「自作出版事件」を思い出す。
 けれども質・量・激しさでは雲泥の差でもある。
 参考までに当ブログ。


(注)『敗北』本によれば、天田さんは夕方~夜には本社に戻った。
 昼間に開かれた党員総会では関西での事態には無対応だったようだ。
 
 

前にも触れたことだけれど、そろそろ落ち着いて、事件を検証しなおすときなのだと思う。
「再審」「平時の法廷」の時期だ。
 
もうひとつ、(50年史での片言を除いて)中央派の沈黙が気になる。
直接のスパイ事件にかかわるその後の摘発がないことだ。
 
クロ説に立っての疑問をまとめよう。
①連座すべき人間の不在。
 荒川氏の嫌疑・スパイ活動の中心が「労働運動路線」にかかわる以上、その面から荒川氏と密接に関わった人々の中に「協力者」がいたのではないか?あるいは豊富な工作費を渡されて「それとは知らずに」利用された人々がいたのではないか?飲まされ・食わされて、機密を漏らし続けた人たち?
 という普通の疑問にどう対応したのか、この1年、何も明らかにしなかった、ならなかったのかということ。
 この1年、いったい何をしてきたのか?
 
②摘発の「ベクトル」が違う。
 事件に関する限り、「血債主義者との闘い」よりも優先する課題のはず。
 
③荒川氏の「逃亡」によって何一つ解明せずに幕が下りた、ということになりそうだ。
 
④私にとっての最大の疑問は、「テロ・ゲリラ」という武闘派=中核派を忘れたかのような議論と現実だ。
 権力も、「中核派のなし崩し的穏健化」を主眼としていると見るべきなのか?
 諸事件も時効が来るのを権力は指をくわえて待ったということか?
 中央が、「過去を忘れる道」に走っていることはよく分かるのだけれど…。
 
【以下は13年の『前進』での声明】要旨を再録する。
     (第2588号(2013年6月17日)
 
「なんと荒川は内調と公調の二つのルートを同時進行させ、党の内部情報から全国の情報、さらに「新左翼諸党派」、体制内労働運動に至るまで情報網を張り、情報の分析までやってみせ、それを高く売りつけていたのだ。」
 
さらに5点にまとめている。順を追って以下。
①国鉄闘争の解体
 「革共同と動労千葉の解体と分断、分裂策動にのめりこんだ。国鉄闘争の継続と発展は、日帝権力中枢にとって絶対に看過できるものではなく、この闘いの壊滅に彼らは総力を挙げたのだ」
 
②「革共同をも分裂させることであった」
 
③血債主義者を使って
 
ほぼ付けたりとして、
④星野奪還闘争の解体
⑤非合法・非公然体制の解体…とされる。
 
 つくづく思うのは、元中核派の口の堅さと口の重さだ。
 「今の中核派」が、形だけとはいえ存在できているのは、離反し離脱しあるいは除名・追放された人々が沈黙を続けていることにありそうだ。
 (関西派(塩川派)ほかのグループ・個人や脱原発での大事な関わりもあるけれど…)
 この事実を肯定的に見るか否定的に総括するかはそれぞれの思いや判断に由ろう。
 とはいえ、「現役の中核派」か「元中核派」をこえて、この「沈黙という存在の力」に光をあてて全体を見直すことも、第1級のテーマに据えたいとつくづく思う。
 
 もう一つは、やはり「50年史」問題だ。
 さまざまな問題意識からであれ中核派への関心が急速に消えていく。「元新左翼の中での相対的な存在感」を示してきた中核派への好悪いずれにせよ、「関心」の対象だったその過去が、「無関心」に分類されてきた。
 荒川スパイ事件も、片隅の小サークル内のいじめや内紛の類に格下げされてきた感がある。
 
 とはいえ、「私たちや父母が生きてきた時代」に拘ってこその反戦・9条・原発…」
 過去を忘れた「今や未来」においそれと飛び立つわけにもいかない。

イメージ 1イメージ 2「50年史」の見開きグラビアに、私らしきカメラマンが写っていた。
 
裳荒れが起こってここではよく分からないけれど。
写真中央奥の白い男がそれ。
 
大事な集会なので、カメラマンが2人いた。
 
「輝かしい日々?」
 
絵説きによれば、「国鉄分割・民営化反対第一波ストライキに決起した動労千葉(1985年11月28日 津田沼電車区)」
 
 

少し古くなるけれど図書新聞から
第22回
水戸喜世子氏(元救援連絡センター事務局長)に聞く
聞き手=小嵐九八郎(作家・歌人)
 
 66年に入学した私は、直後からほぼすべてのデモに参加した。
 多い時は週に数回もあるデモ、普通なら断るところだけれど、出勤率百%に近い。
 出席率と逮捕数では、東工大の内田(杉並の有岡)とトップを競う。浦和から駆け付けるのは時間もカネも大変だ。
 
 その中で「中国核実験弾劾」のデモは印象的だった。
 緊急行動への参加は、書記局と合わせて十数人だったろう。
 
 当時はまだ共産党は「社会主義の核はきれいだ」論であり、「中国の核でも反対」というのは覚悟が必要だった。
 三派でも統一見解はなかったと思う。
 「社会主義の自衛のための核保有」論に対して、「国際反戦闘争による核の抑止」論で中核派は応じた。
 
 「社会主義の核も弾劾」論や「中ソに替ってまともな社会主義が実現できたらやはり核を持たない」論は新鮮だった。
 翌日は学内で、民青と全面対決だ。議論のネタは次から次へとあった。
 
 誰に聞いたのだろう?
 この議論は水戸巌さんらが強力に主張した結果受け入れたものだという。
 反核運動(原水爆禁止運動)の中でも混迷していた。
 中核派にとってもあらかじめ準備されていた主張ではない、と。
 
 核も原発も、物理学者たちが反対の旗を先頭で掲げていた時期でもある。
 
 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 堀内が全学連委員長になってからのこと。
 集会(会合?)に水戸さんが同席していた。
 堀内が水戸さんに向かって、とうとうとアジる。
 「やはり核を持たない」論をさも中核派の独自の主張であるかのごとく。
 水戸さんはおとなしく聞いていた。
 たまたま編集局員として取材で同席していた私は、赤面する思いで聞いていた。
 
 堀内に罪はない。
 彼は政治局か松尾かに言い含められて上記の論を受け入れ、アジッタに過ぎない。知ったかぶりも「学生」ということで許されよう。
 けれども、中核派の主張が、独自・自己完結的にできたかのような思い込みをどう糺したらいいのか?
 
 思想に「特許権」は不要だが、その生成やその葛藤について先人を敬愛する思いの継承は、「党派」であればなおのこと、必要ではないかと感じながら、私は無言だった。
 
 今の時代、「社会主義者として」(つまり権力を奪取し行使することを前提として)論を立てること自体がウソ臭く感じる。けれどまた、「革命派」と自称する限り、つねに過渡期の諸政策や社会生活について、その観点からも論立てしない限り、結局は単なる不満分子(以下)の無思想・無理論にしかなりえない。
 難しい問題ではあるが、「新しい思想・価値観・視角からの発信力」の有無が、「革命派」の存在感(不在感)を生むのだと思う。 
 最低限、「価値観の転倒」を生む多くの個人・運動に、より学ぶことか?
 
 (余談)革マル派は喜んだ。
  「中核が『中国核実験弾劾』と叫んでいる。略して『中核弾劾』には大賛成だ!」
 
 
 

 神奈川支社の専従だった頃だから、たぶん、76年か77年のこと。
 以下は、「スパイの摘発」事例。
 
 白ヘルにゲバ用の竹竿(中核旗を巻きつけた)で、それでも街頭署名・カンパは止められなかった。
 時期として、三里塚か狭山の街頭宣伝だったと思う。
 
 署名やカンパに応じてくれた人は、オルグの対象だ。
 何人かのこれはという人材に巡り合った。
 
 その1人は、自宅に行って会って早々、申し出に応じてかなりのカンパをしてくれた。
 歳はほぼ私と同じ年代(男)だったと思う。
 
 何度か会って、その度に話しこみ、カンパをもらった。カンパは基本的に私の生活・活動費になる。
 
 夏冬の上納金(中央へのカンパの集中)のために、「カンパ計画書」を出した時のことだと思う。
 天田さんから呼び出された。
 「この多額のカンパをする奴はどんな奴だ?」
 
 報告と議論の末に、「スパイかもしれない」「多分スパイだ」ということになった。
 「(テロ合戦が殺し合いにまで発展している)いまどき、新しく結集しようなんてやつはおかしい。そんな奴はまず疑え」。「摘発する観点から、話したり(実生活を)逆に質問してみろ」
 
 私も忠実に答えた。
 誘い水として、非公然活動の話をしてみる。
 とたんに話に食いついてきて、いくつもの質問をしてきた。
 一時金の時期という名目もあり、これまでより桁を上回るカンパを申し出て、相手も出した。
 
 支社に帰って天田さんに報告する。
 「やっぱり疑わしい」と私。
 いつものアパートだ。その点では信用できそうだ。けれども住んでいるアパートに、あまり生活臭がない。
 職場も聞いている。けれども確かめたわけではない。
 なんといっても、非・非の話に食いついてくる。
 
 「やっぱりスパイだ」
 「いまどきおかしいと思った」
 こうして天田さんと私は、「Sだ」と断定した。
 
 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 私の方からの連絡を絶ってから数カ月、長者町の神奈川支社に「S」が現れた。
 2階上り口にある鉄扉を挿んで、身分と私の名を告げて、面会を申し込んできたのだ。
 私もいたが天田さんが応対した。
 「貴様が権力のスパイであることは分かっているんだ。とっとと帰れ!」と一括する。
 いくつかのやり取りの末に、「S」は帰って行った。スパイを摘発して叩きだしたのだ。
 
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
後日談がある。
私が編集局に移動してから随分たったあとだ。
神奈川のキャップが岩田さんに替ってからだから、多分90年代の初期か?(もしかしたら80年代)
 
 岩田さんが私を訪ねてきた。
「最近Mになったひとが話したことだけど…」
上記の「S」がその後、改めて結集し、M(マル青労同)に加盟した(させた)という。
私が写真班として顔をさらしているのをみて、改めて当時の話を申告したのだという。
 
 岩田さんの質問に答えて、上記の経緯を話した上で、「あの時期だったからね」「ずいぶん乱暴な断定だったと今は思うけれど」という内容で合意した。岩田さんの判断に従って、「誤判」と決めた。天田さんとの話のあとか、その前かは今ははっきりしない。けれども天田さんとの合意もあったと聞く。
 天田さんのことだ。ブスッとして結論だけ容認したのかもしれない。
 
 「どうしよう。本人に直接謝罪しようか?」
 「いや、それは止めた方がいい。まともに応対したら、収まりがつかなくなりそうな気がする」
 「集会などで顔を合わせたら、軽く会釈する程度に収めておいてほしい」
 「分かった。そうします」
 後味の悪い話だった。
 
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 最近、荒川事件の話の折に、そんな話をしたら、「そういう話っていくつもある」と反響が広がった。
 80年代や90年代にも、似たような体験をした人は少なくないという。所属や時期を超えての事例が重なる。そして2000年代。
 「やっぱり、『いまどき結集しようということ自体がおかしい』だったね」
 
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 
 同じ「同志」でも、「体質の違い」「波長の違い」は耐えられないほど大きい。
 「こんな奴が同志?」。スパイや敵性分子に感じるメンバーは少なくない。他党派であってくれればよほどすっきりするのに、と思うことはよくあった。
 何かの折に、「悪者」が必要不可欠の局面で、くすぶりつづけたものがふっと燃えだすこともありそうだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

5月、「現代革命論争資料蒐集」に水谷・岸の両氏による「表明」がアップされた。
                   http://shiryoshushu.web.fc2.com/index_01.html
 両氏の表明の根幹は、「白」説を説く甘糟に対して、彼を通して聞いた荒川さんの弁明を聞いた結果、「黒」の確信はいっそう固まったとするもの(2月)。あわせて、「甘糟もスパイ」を確信したとしている。
 
 けれども、そこで紹介された荒川さんの弁明を読む限り、私は、「さらに白に近い灰色」だ。あわせて「推定無罪」で推移を見守りたい。「争論」参照。
                  http://blog.goo.ne.jp/yorutokiri20130001
 「資料 甘糟との会談の記録」は大事な部分を含んでいるけれど、まだ証言としては不足していることも多い。
 荒川氏サイドからしても、経緯が不明な点が多い。
 「反党」疑惑から「スパイ」疑惑への移行の時期、「中央は通帳を見たのか否か」、政治局への公安からのリーク疑惑…その他。
 せっかくの機会なのに、水谷さんが「荒川スパイ説」に性急に固執してしまった結果、と悔やまれる。「黒」と断定するにしても、もっと時間をかけて、「弁解録書」や「本人尋問」をさせても良かったのではないか?
 KGB、検察官(革命的特高)の匂いが強すぎる。これでは「公判」に耐えられない。
 
 一度は死刑判決が下り、執行された「戦時法廷」。
 時が経ったら、一般法廷で、「再審」もあっていい。どうだろう?
 
 甘糟によれば、「荒川が自分は白だという訴えをするかどうかは、わからない。気力、体力のこともあり、どうするかは決められないようだ。それは荒川が決めることである。荒川がそうするなら、手助けするつもりだ。」
 そういう現状の中で、〈たまたま〉荒川さんの肉声が漏れ伝わった、ということか。
 
 水谷さんらの議論を読んでいると、結局は、「中央を無条件に信じろ」という枠内で中央派の中央に噛みついているとしか受け取れない。水谷さんらは変わろうとしてもいない?「政治局多数派・本流」として「一切を背負おうとしてきた」その歴史・経歴が、両氏の自縄自縛を招いているのではないか。
 その論理と構造こそが今回の「スパイ事件」の本質ではないかとも思えてくる。両氏の「表明」の核心にあるモノこそ、今の「中央」を読み解くカギなのではないか?両氏には飾らずにもっと多くを語ってほしい。両氏が強調する〈叫び〉〈おのずと湧き起こってくる衝動〉を…。
 
 

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