2014年09月

06年の3.14に反対して独立した九州地方委員会。
本社からの懲罰隊との折衝の末、支社を明け渡して反戦共同行動の事務所に拠った。
 
もともと西日本は与田系(与田の指導体制)だったが、残る中四国委員会の執行部が本社の素早い動きでクビを挿げ替えられてひとまず収まったのに対比して、九州の頑張りは(内容を措いて)ひとつのあるべき姿でもあった。
 
関西派と中央派の対峙と「中野体制」への移行の中で、「内ゲバとしての内ゲバ」にならない分裂のありようが、ようやく生まれたことに意義があるともいえそうだ。
 
残念ながら平田さんは逝去。HPの更新もままならない。
 

「杉並区議会 無所属区民派」の両議員のHP.
 
 06年の「党の革命」の波で水谷氏らとともに切り捨てられたが、後援会の支えで勝ち残ってきた。
 従来水谷系と見られてきたが、非水谷系の人も多く集っている。06年以降離れた人々の集いという面もありそうだ。
 
 ただ残念なのは、杉並・西部の現役中核派で「中央派」による処分としての「議員辞職要求」などに反発して行動を共にする人がほぼ皆無だったこと。(両氏の近親者を除いて)
 議員や候補の活動が独自で、かつ『前進』の読了などにはおぼつかないほど多忙で疲労していたとはいえ(そういう指導だったのだが)、外からはあまりに意外だ。
 問題が結柴氏らの側にあるのか、それとも「選挙のための杉並地区党」がまったく後援会や議会活動に無関心だったのか。根は深そうだ。
 
 70年の中核派を代表する日大全共闘系の面々も少なくない。
 当ブログで多少関連する記事は以下。
 
 もちろん、支えとなる後援会は独自の立場だが、これも多士済々。「マル共連」ほかの元他党派の関係者もいそうだ。広くは、70年代系のつどいともいえそうだ。
 もちろん、もともとの「杉並革新連盟」は、60年代末の新左翼の時代を準備した思想家・研究者・などなどの営為によって作られたもの。
 中核派系と言う前に、「旧・新左翼系」という本来の姿に似ているかも。
 
 都革新の無残な現状と対比すると、思いも新た。
 

中核派系の三里塚実行委員会運動の中心をなしてきた関実。
その関実も、近年、中核派(中央派)と大きく距離を置くようになった。
 
 

百万人署名の世話人を務められた小田原紀雄さんが発行する。
西早稲田のキリスト教会に行ったことのある人は少なくないだろう。
『ピスカトール』の常連の執筆陣や関係者にはなじみのある人も少なくない。
カンタカ時評の菅孝行さんの切り口が面白い他、愛知の桐村剛さんほか。
 
発行人の小田原紀雄さんは、さる(今年、14年)8月23日に亡くなられました。享年69。

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