ブログから。
筆者は不明ですが知る人ぞ知る?
資本主義の終わり論
<マルクスは『資本論』で資本主義の終わりを証明した>ことを明らかにする
2015年08月01日
『革共同政治局の敗北』を読んで
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新聞に 水谷保孝・岸宏一著『革共同政治局の敗北 あるいは中核派の崩壊 1975~2014』の広告が載っていたので3200円は高いなと思いつつ、見ておかねばまずいと思いすぐ買いに行った。
新聞に 水谷保孝・岸宏一著『革共同政治局の敗北 あるいは中核派の崩壊 1975~2014』の広告が載っていたので3200円は高いなと思いつつ、見ておかねばまずいと思いすぐ買いに行った。
パラパラっと見て反省という言葉は繰り返し書かれているが、なぜそうした間違いを犯したのかという水谷ら自身の総括(下向分析)はまったくなされていないと思いました。
その後、何人かの人から感想を聞かれたので「清水丈夫に対する恨み・辛みの連続で 読んで得るものはまったくなかった。何よりも3.14で与田だけでなく自分たちも打倒されたという根本がいまだ解っていないと思われる」と答えました。
しいて本書の「意義」と言えば 与田の腐敗(財政問題とスパイ問題。私党化には触れていない)は共産主義者として絶対許されない行為であると断定していること(にもかかわらず3.14は党内クーデターとして否定している)と清水や天田のデタラメさ(党運営・指導の核心が自己保身にすぎない)の暴露ということくらいか。
前者は水谷ら3.14に反対した人たちへの天唾であり後者はいまだ清水・天田を最高指導部に仰いでいる中央派への批判の意味をもっていると言えなくもありませんが。(略)
(3・14に際して)私は事前に決起の呼びかけ人になって欲しいと誘われたのですが 「与田打倒には大賛成だが中央打倒の方針がないから同意できない」と断わりました。「与田を打倒すれば中央は解るはずだ」が 誘った人の返事でした。
水谷らは本書で 3.14を路線・方針の対立であるかのように述べていますが 問題はそれ以前の 指導部自身が共産主義者たらんと自らを律しているのか、内部で繰り返し詐欺を働く人物をトップに据えておくのかという革命党としての根本問題だったのです。他人を騙して己が得をしようとする詐欺は 相手を主体として認めないことであり 民衆の一人ひとりが社会の主人公・主体になることを求める共産主義とは 絶対に相入れないのです。(関西A)
水谷らは本書で 3.14を路線・方針の対立であるかのように述べていますが 問題はそれ以前の 指導部自身が共産主義者たらんと自らを律しているのか、内部で繰り返し詐欺を働く人物をトップに据えておくのかという革命党としての根本問題だったのです。他人を騙して己が得をしようとする詐欺は 相手を主体として認めないことであり 民衆の一人ひとりが社会の主人公・主体になることを求める共産主義とは 絶対に相入れないのです。(関西A)
ブログには下記の記事もありました。
2015年07月01日
血債の立場・思想、加害者性の自覚について
血債の立場・思想、加害者性の自覚について
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4月号に「生産様式と宗教について」を書きましたが 「抽象的で、現在の階級動向をどう見ているのか解かりにくい」という意見があったので もう少し現実の政治に引きつけて イスラム国(IS)について述べたいと思います。
私たちは 1970年7月、華青闘の糾弾を受け、自己批判し 血債の立場・思想を自らの思想的深化として明らかにしました。私たちは 65年の日韓闘争以来、ベトナム反戦闘争においても「加害者性の自覚(あるいは否定)」を根本テーマの一つと見なしてきたので 華青闘の糾弾には驚きましたが 中央の自己批判はすぐに受け入れたというか、自己批判したのでホッとしたという感想です。当時 60年闘争から70年闘争への飛躍を 被害者性から加害者性の自覚への転換と提起していたと思います。社共など旧左翼と新左翼とを区別する論点でもありました。
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4月号に「生産様式と宗教について」を書きましたが 「抽象的で、現在の階級動向をどう見ているのか解かりにくい」という意見があったので もう少し現実の政治に引きつけて イスラム国(IS)について述べたいと思います。
私たちは 1970年7月、華青闘の糾弾を受け、自己批判し 血債の立場・思想を自らの思想的深化として明らかにしました。私たちは 65年の日韓闘争以来、ベトナム反戦闘争においても「加害者性の自覚(あるいは否定)」を根本テーマの一つと見なしてきたので 華青闘の糾弾には驚きましたが 中央の自己批判はすぐに受け入れたというか、自己批判したのでホッとしたという感想です。当時 60年闘争から70年闘争への飛躍を 被害者性から加害者性の自覚への転換と提起していたと思います。社共など旧左翼と新左翼とを区別する論点でもありました。