2015年12月

 しばらく休みます。

 『敗北』本の最大の効用は、「中核派のことなんかどうでも良いや」と思い切り突き放す気持ちにさせてくれたことでしょうか?
 それを押して少しだけ踏み込んでみましたが、どうだったんだんべぇ?

 私生活でも新しい大きな課題(困難)に直面し続けています。
 
 面白い投稿やメールがあれば随時転載します。
 また、ため置いた「非公表」の記事をポツンと公表に変更するかも。

 よろしく。

●けっきょく、「シミタケ」信仰の極致を描いてみたということか?
ただ「左派」論には、「武装闘争」の貫徹に最後までこだわったということでもありそうだ。武装闘争からの撤退とは革命家としての死でしかないという想いはかすかに伝わってくる。「革命家として死にたくない」。それが「本当の想い」ともいえそうだ。
 この世の不可解さと森羅万象を「暴力革命」「政治党派」と「政治」に収斂しようとすること自体が(いまだ何者でもないゆえに)怖れを知らぬ青年の過ちではある。どんな理論も信念も、その適用範囲・応用範囲があることをあらかじめ知るには、「政治の世界」は狭すぎる。「生活感の欠如」とは、こんな脈絡で語られるのだろう。優れた感性をもつ選ばれた青年の一人でもあった水谷さん。その悶えは伝わる。
 75年の314直後の会議でのシミタケさんの黒田哲学批判への異常なのめりこみも、分かる気はする。「黒田哲学ののりこえ」は、第3次分裂以来の中核派の、中核派たらんとするかぎりの存在証明のひとつではある。ただ、「単一の哲学体系」を党派の基礎としようとする限り、それ自体がスターリン主義としかいいようがない。それに「時と所を選べ」。確かにそれほど「314」は重すぎたのか?!
 岸氏の81年の三里塚への着任の経緯は短いけれどよく描かれている。断って離脱するか受け入れるか?「労働運動」へのかりそめの興味。もし別の道があったらという想い。その想いを振り捨てて三里塚の武装闘争に突入したその想いと「重責」「つけ」。「ルビコン」を渡り武装闘争にかけたその橋をはずされた無念…。
 
    お互いに「緊縛」されてきた経緯。「解縛」には残る生涯を費やしてもなお短いのかもしれない。最後に水谷さんと岸氏の「共著」に無理があるという面もありそうだ。岸氏が本音・本性を現せば水谷さん的なナイーブな表現はたちまち大気に触れたミイラのごとく風に散る。「左派」の仮像と「二人の政治局員」という看板にこだわったことが、いっそう中身の薄さにつながったという面もありそうだ。両氏の食い違いをもっと率直に「併記」すればよかったとも思う。
 
    いろいろ思うことも無いわけではないけれど、そろそろまとめに入りたい。『敗北』本が見せた惨めな実態は、「恥ずかしい」とか「お粗末」どころではない。あまりにひどすぎる。
 
    他方で、昨今の安保関連法案での中央派の対応もまた、断末魔の域を超えていそうだ。なんの存在感も影響力もないままで、ひたすら「労働者集会へ」とするビラまきに終始した。「発信力ゼロ」。自滅というか革マル的「決戦後の決戦」論に逃げ道を求め閉じこもるというか。何よりも、小なりとはいえ生き生きとした息吹と価値創造性が感じられない。もはや「誰にも相手にしてもらえない旧・新左翼」か?
 
本書が書く「20労組」への中野さんのネガティブな対応(前述)は以外に根が深いのかもしれない。交流センター以来、「新たな労組のナショナルセンター」それ自体の母体かあるいはその一角を占めることを目指すのかをめぐって揺れた。そして前者に収斂されてきたように見える。「中核派主導・独裁の全運動の再編・統一の現実性」論は「左派・右派」を問わず共通していそうだ。「夜郎自大」が本書の特徴の一つでもある。
 
『敗北』本への「史上最悪のスパイ」云々論は恥ずかしい限りだ。
けれど、テロは無いということでもあるようだ。ま、現状ではそれが一番大事なことかも。
「査問中のスパイの本社からの転落・重態」事件もあるけれど…。
「危なくなったら本社への出頭に応ずるな」という話も。
 
「故郷」が消滅するのを見るのは辛い。同郷の士のみじめな議論には改めて情けない。
とはいえ、何であれ、出版したことの意義は充分にある。
ま、「散華」?? 殉死?? 諫死??

編集の仕方
 []が少なすぎて、像が浮かばないものも少なく●分派・党内闘争
「分派」や「フラクション活動」が否定的な意味合いでのみ語られているのも特徴か?せいぜい「グルーピング」があいまいな姿勢ででてくる。「公然たる党内闘争」への希求や分派闘争への肯定的姿勢が欲しいところではある。分派を否定した統一戦線論など面白くも無い。で、追い出されてから「暴露」では…。
 
統一戦線
 67108羽田前夜の解放派へのテロや38三里塚テロなどの自己批判にはけっこうな分量もある。ただ、全国全共闘以降も他党派への互いのテロ支配は続いた。法政の中核、明治のブント。互いに拠点大学内ではテロによる支配は定着してしまった。ま、革マルほどではない、という面もあるけれど。三里塚の統一戦線(共闘)も、「上からだけの」共闘にすぎなかった。そんなことに慣れっこになっていた。
 
 「下からの」について。職場では、地域・産別それに諸個人によって千差万別のようだ。
 いちど党派や社会党系の派閥に結集してしまうとお互いに党派から離れられないという問題がとても大きい。だからあらかじめ「囲い込み」が策されるのだけれど、生まれてしまえば共闘しかなくなる。仕事の上でも「できるやつ」か否かは互いの信頼感や実際の解決能力での差を生む。
猪 ある時青婦協に動労がやってきた。常任たちはボーとしていて対応できない。そのとき国労と川崎市職市職がスクラムを組んでたたき出した。後日知り合いの動労が来て、「まったく、青婦協には行きたくないね」とぼやいていた。わざわざ挨拶に来たわけだね。もちろん、青婦協の役員には事前にも事後にも話は通してあったのだけれどね。こんなこと誰も知らないんだろうけれどね。 
桜 つまり〈革マルの勢力の大きさと広がりとの〉対峙の陣形をどう考えるのかという問題でもあった。テロ合戦や法政などの「大学戦争」の延長に、動労革マル(JR総連)との闘いを見る傾向に埋没していた気もする。
 

   ラディカル左翼?

中核派の常用語にはない「ラディカル」を多用している。「革命的左翼」でなく…。
ま、色んな思惑があるのだろうけれど、別な場所でということで。
 
生活感の無さ
 生活感のなさはもちろん、地区や現場の実態がゼロだというのも特徴のひとつだ。
 婦民問題でかすってはいるけれどそこまで。
 元・東京南部地区委員長の岸の実態ない。基本的になで斬りだからなおのこと。視点をそらした「コラム」や「解説」が欄外に欲しい。ま、分量が多すぎて…、ということだとしても。そして読者からすれば、なぜ第1部と第2部を切り分けて出版できなかったのかという思いだ。そして第3部(3冊目)で軍事・地区・産別・課題による実証的な検討があっていい。元編集局長にしては…。
 
まとめとして、『狂おしく』から
06年の「3・14」(関西の「党の革命」)と以降の中核派の分裂・対立は、ある面では過去を振り返ることで読み取ることもできた。91年の転換を「茫然自失と敗走の開始」と見ればいい。80年代の中核派の陣形を考えればいい。
「安田派中央」の変質ぶりは度肝を抜くほどだ。けれど、それとまともに対決も出来ずに敗退した清水さんにこそ、問題の核心があると思う。エピローグ
 2009・8・21から

スパイ問題が一定の大きさで語られている。
ここでは荒川スパイ事件への私のブログの記事を紹介する。
 何度か記事にしているので読んでほしい。
私としては、当初は「資料不足で推定無罪」の論を張った。荒川氏のパンフが発行されて以降は「より白に近い灰色の推定無罪」としている。
 栗山スパイ事件については「事実」が公表されて修正も必要に思えるけれど、著書の姿勢への評価では変わらない。「神保スパイ事件」として、直前に、北小路さんへの「魔手」が及んでいたということは初めて聞いた。後手・後手の対応だったのだ。
与田の腐敗と浅尾(高杉)スパイ事件での議論の仕方は、その対策と基本的な姿勢では意外な論述もある。「再起」のチャンスを与えよ…という議論だ。へー意外だね、と思う。
宮崎学その他、今回はパスしたい。
 
かつての偉大な人々
陶山さんへの対応のひどさや野島問題もある。
他方では秋山問題や松尾問題も一部だけれど触れられている。いまさら、という思いもないわけではない。こちらは清水側近の視点、清水べったりではある。故北小路さんの闘病。さらに白井問題・高山問題。与田問題から梶さん(高木さん)の失脚と除名。清水さんの闘病と卑劣さと「未熟さ」。もはや…。頂点に立つ人々が次々に壊れていく。いつ解散に踏み切るかという問題でもあった…。
10 80年代の諸問題の「松尾真の失脚」とはだいぶ事実関係がずれきっている。
 
   「党改革の歴史」

「組織は人」もひとつの名言だけれど、とりあえず三つの「党改革」にも触れて欲しかった。

80年代の三里塚実行委員会ほかでの青忠さんや三○さんたちの「楽しくやろうよ」運動。同末の吉羽忠さんの「党改革運動」、そして「常任の党」から「労働者の党」への再編について。

最後の問題は、「左派の基盤」を基礎から掘り崩したものでもあるはずだ。実際に効力を持って改革につながったかどうかは、これもまた実際の検討なしには語れない。県や地区のキャップを現場労働者に置き換えて、常任の元キャップは「担当常任」になった。とはいえ、産別や職種、そして地域の違いなどを取り込んだ「指導」には新たな膨大なエネルギーが必要だった。現場でそれぞれのやりかたで実績を伸ばしてきた他のメンバーの力を引き出すには、「指導と被指導」の関係をひっくり返すほどの一大転換が求められたはずだ。暗黙の「地下ルート」でつながりあう「現場」の力に、時には依存し時には「屈する」度量も必要らしい。結局は簡便な「新たな管理主義」への魅力が勝ったとはいえないだろうか?もはや「党の実勢と動態」を認識すること自体、不可能化していたのかもしれない。

 


   三里塚に関して

中核派の農地守論

ばらばらの一元化

 首都圏の組織のばらばら感と地方組織のありかたには差異が大きい。ましてや解放同盟全国連においておや。

 対革マル戦以来?中核派は少なく見ても2桁の分立した組織のあり方を続けた。政治局にあっては「一元化」かもしれないけれど、諸組織やメンバーにとっては、それぞれまったく別の蓄積を重ねてきたといえる。

 まず、表と裏。主としてSOB(学生組織委員会)経験者たちを幹部とする「軍」は互いに旧知の仲であり「おれ・おまえ又は先輩・後輩」の中でもある。けれど「あれから20年」。違った経緯を経ることで中身は崩れることは当然至極だ。「一体感」など実質的にはないはずだ。そういう問題意識からのアプローチが感じられないのも特徴だ。

 

事実上の「連合党」からの再出発

 清水さんの東と野島さんの西。(それぞれ各地方代表者会議を持つ)。それぞれの元に地方委員会や県委員会など。

 本社や支社の官僚機構と特に古参の労働者たち。
現場の古参にしてもいろいろで、現場では浮いてしまった人から、かなりの運動の蓄積を得てきた人に至るまで千差万別。大衆的には信望を得た人でも、中央に対して物言えるか否かではまた色々だ。
 松尾の下の学生戦線も地方ごとに組織されていた。別格の位置を持つ三里塚。諸戦線の課題はじっさいに基本組織の諸活動にどう反映されてきたのだろうか。
 特に部落解放戦線は大きくは独自の力と権限を持つ分立組織ともいえた。選挙のときを除いて、「セツルメント」や地域活動すらない関係。
 「20年後の再統一」などあり得たろうか?という素朴な問いに思いを馳せることからしか始まらない。
 
   「アウンの仲」
 しかも「脱落・離脱」や戦線移行が重なり、初期的な「旧知の関係の人間的アウンの心」という潤滑油・クッションもない。両氏の議論にもその課題の大きさへの認識の気配すら出てこない。
 「ばらばらの一元化」。それは絶対主義や今の天皇制論議、「新たなファシズム」や「構造的差別」にもつながる大きなテーマだ。さらには「大衆社会化・都会の砂漠と絆の回復云々」。この課題にどう答えたらいいのだろうか?

「あとがき」では水谷さんの「77自己批判」論がある。
 それとは別に、「緒言」の注に解説もある。
 どこかで「スルタン・ガリエフ」という言葉もある。「スルタン・ガリエフ」はレーニン民族論の再考でもある。白井さんが主要に追求した課題でもある。清水さんの「単一民族論」の暴露もある。
けれど、白井さんの事件でも高山問題でも「党内権力闘争」や「権勢の拡大」志向で片付けてしまった。この辺では清水政治局の忠実さを引きずったままだ。
白井さんの追放は「一国社会主義」と民族問題の関連でもあった。清水さんが民族問題を公然と無視・批判したひとつのメルクマールだ。私自身は本社の時代に、それとは知らずに水谷さんと議論したこともある。
44      ソ連崩壊と反スタの終り
 
 そして白井さんへのテロ。
 高山問題では、関東地方委員会(KC)での激論もあったと聞く。「労働運動路線」と「血債主義」が「動労千葉路線」とは別な意味合いで議論された。この時は木崎ほかも反乱分子に対して中央としての「血債主義」のスタンスを取った。そんな時もある。けれども水谷さんにとっては関心の外にあったのだろうか。
 ついでに宣伝として       43      理論への渇望


    堅実全面論文の棚上げの意味
桜 『前進』646号論文(「堅実・全面論文」73.08.06)にも触れているけれど、すう勢的「後退局面」の1文が削除されたというちまたの話は無視された。今が階級闘争の高揚局面か逆か?全体として運動にとって不可欠な議論をネグレクトしている感もある。74年=75年恐慌(オイルショック)を経て、清水さんの『現代戦争テーゼ』「恐慌⇒戦争」論に進まなかった現実。「豊かな社会」の出現。時代の変化への無関心と排斥。
梅 とはいえ,堅実論文が本多さん自身によって「棚上げされた」こと、『清水選集3』では参考文献からも削除されたことの暴露は意味がある。90年代の転換の混迷期には、多くの人がこの古証文を引き出して必死に読んだものだったけれどね。
 

   5回大会。内戦の「高次段階」と清水体制。単一基軸論

 「結節環」という点では「75年の転換」論は目新らしい?
81年の「5回大会」の実態は意外の感もある。PⅡ(先制的内戦戦略の高次段階への移行)とともに「清水時代」の正式な幕開けだった。けれども直前の政治局会議ですら、対革マルと対権力の戦争のいわば比重の置き換え(任務体系の組み換え)も三里塚の「基軸化」も確認されていなかったのだという。大会での政治局員たちの渋い顔!そしてすべての報告を清水さん一人で取り仕切る異例の進行。
「戦略的総路線」が廃棄され、「唯一単一の路線」化への逸脱の開始という(岸氏の?)指摘は今更ながらとはいえ当然過ぎる。
梅 とはいえ「(単一)路線主義」で当時を生きてきてしまった人間にとっては、実感として振り返られる当時の時代認識や社会認識はもうない。専従や学生、「忠実すぎるメンバー」にとっては「みんな虚構だった」という感しか残らない。日本の敗戦以降に、本当とウソの区別もつかない「アカ新聞」(表紙や文字の赤い暴露系)が溢れたというけれど、似たような経緯を経ないと「何が本当だったのか?」ということも分からないという悩みがある。
80年代革命」という切り口は、当時も今も、共感する人と違和感を持つ人とに別れそうだ。本多さん虐殺で70年代革命が失われた論と併せてね。ただ確かに「正統本多派」論的ではありそうだ。
 
●天皇決戦と破防法。「戦後民主主義」
梅 50年史』では90年天皇決戦そのものが史実から抹殺され、「ほんとうに何も無い」という。
松 他方で天皇決戦では「破防法を粉砕した」誇らしげに総括している。確かに組織適用の恐怖に打ち勝ったとはいえる。本多さんの悲願を貫いたとも言える。けれど実態としては「敗走の前の大攻勢」とでも言うべき感もある。
竹 「天皇絡みで破防法は無い」ともともと断言していた人もいる。
松 自衛隊の治安出動を阻んだ後藤田やそんな連中もいた。「戦中派」がまだ健在だった時代でもある。「治安維持法の再来」となれば社会全体に激震が走る。そんなぎりぎりの時代だったのかもしれない。他方ではゲリラやテロへの非難のキャンペーンが社会党を解党に追い込んだという議論すらないわけではない。矢面に立たされた動労千葉や国労にとって、浅草橋や「ケーブル切断」などが「良いこと」だったのかは大事な指標になる。中曽根の「左右のウィング」論がどう実現されたのかされなかったのかという面からも、ていねいに整理して議論するべき大きな問題だ。
梅 そうだね。直前や直後の評価とは別に、5年・10年を経て、より多くの関係者の体験や想いを集約すべき問題だよね。
 
公非・合非の現実
 公然事務所に常任や活動拠点を集中して、「破防法と戦うなどおこがましい」という議論もあった。じっさいはここに本当の問題があったのかもしれない。地区のメンバーも非公然アジトを別に構える金もゆとりも無い。名簿もカネも権力に奪われた中で、すでに勝負はついたあとだ。ガラス張りの中での「公然・非公然」。「合法・非合法」の使い分けという面では、あまりに場当たり的だった気がする。
 戦後民主主義論とその変容もしくは定着のしかたをめぐっては、ご都合主義的だったとしか思えない。「継承と断絶」という概念だけで、戦前的議論と戦後的なもののごった煮のような議論しかできなかった。その解明は今後の課題かもしれないね。浅田光輝さんの本でもこの辺は厳しい批判の的だ。
 

   85年蜂起について

 ほかにも結節環ごとにいろいろと。
 「85年蜂起」についてももう少し書いてほしかった。
偉大な闘いというだけではすまない多くの問題を抱えている。
 「85年世代」という言葉があるけれど、みんな苦しんでいる。
 『狂おしく』の本体ではもう少しいろんな局面が多彩・多層に書かれている。せっかく読んだのなら、もう少しちゃんとした反応がほしいよね。
 総じて「不都合な事実」「不都合な真実」が多すぎて…。

  14自民党本部の炎上 85年蜂起の2385年蜂起85年蜂起 浅草橋のその後


(承前)

「浮上」が対権力で意味したもの
私 地下から大量に浮上してきた結果、何が生まれたのかな?
梅 もう地下を支えられないという実情から始まったことは事実だと思う。あわせて、「かつては優秀な活動家」だった人々がフル回転すれば、大衆的展開も新しい可能性が開かれる。そういう期待があったのも事実だと思う。ただ、一部を除いて、表の惨状に触れた浮上組の「浦島太郎」感覚も大きくて、結果としては…。荒木氏は酒によって転落し…。そう、出獄組の荒川氏の活躍も大きかったとは思うけれど。
桜 集会・デモの「合法化」も一段進んだ。反戦共同行動委や労組交流センター主催のデモは、それ以前のでも警備と比べるとずいぶんとゆるいものになった。都心や市街地でのデモも増えたからとはいえないレベルだったと思う。
梅 だいぶ後にはなるけれど、現役の「全学連委員長」が訪米のビザを受けられたと聞いて驚いた。アメリカの「テロ指定団体」には入れなかったんだなと。公安の判断がどんなものだったのか、よくは分からないが。
 うん。結局は浮上組が本社や公然事務所にたむろして、権力に対しては「いつでも誰でもパクれる」という状態。結果的にはほとんどパクは出なかったけれど、「わき腹をさらけ出して、権力側のさじ加減次第」の時期だ。
つまり「権力側のシグナル」に神経を集中させて、次の一手を決める。とはいえもはや「浮上路線」「軍の解体路線」は戻せない。仮に一斉逮捕が出ても、大きくは変えられない。
たがいに「シグナル」を出し合い、読みあっていた時期だということか?!
 今から見れば、権力側も中核派の方向性をつかむのに躍起だったのだろう。「パクらない」ことで「右」に誘導することには、内部でも一枚岩ではなかったのでは?
 テロもゲリラもぎりぎり2003年まで続いた。かも時にはかなりの巨弾もあった。8月の千葉県警幹部宅への爆発物を伴う放火が最後だと思う(誤爆)。政治局内での中野さんと「左派」の議論は、わずかだけれど、「多数派」が「継戦」にこだわっていたことは良く分かる。「ゲリラの巨弾で中野路線を吹き飛ばしたい」か?
/清水さんのマヌーバー。とはいえ、地方や現場のメンバーにとっても反応は主々雑多。どこに向かうのかは不鮮明という頃でもある。
 時代的には総評・社会党の解体が「メイン」だった。中核派の存在は残念ながら、2次的問題として、別の要因から考えるべき問題も多そうだ。主客を代えて考え直したいと思う。
梅 角度は違うけれど、「軍の解体=社会復帰」は、やはり「党の浮沈のかかった」最大の課題だったという面を見逃して欲しくない。「凶状持ち」の内心・内省と「時効」の問題は、組織にとってどんな犠牲を払っても全力で解決すべき課題で、「路線」や権力闘争に還元してはならない。
 
いくつか付け足し
 公安の地盤も低落した。後になってからだけれど、警察庁・警視庁のツートップを「交通畑出身」に奪われる事態が続いている。警察も「生まれ変わる」過程にありそうな。とはいえ、どこがどうなるのかは、あれたちには分からない。「変わらない」ことも多いわけだし。「中核派唯一論」からは見えないことも多そうだ。
梅 公安との対決では、15年現在では71年渋谷暴動がらみなどで時効が廃止されたままだ。全体と個別それぞれの領域がありそうで、一口でまとめることはできない。ただ、「非公然」の清水さんには累は及ばない、少なくともおおいにゆとりがあることは、確かだろう。
竹 当時からも、天田氏らの「3人組」は最低だったと思う。官僚的・恫喝政治。会話ができない。「314Ⅱ」の経過やその後の経緯を聞いても、すんなり理解できることが多い。ま、坂木は比較的対応がうまかったけれど、「官僚的自己保身」にたけた奴、「官僚的な優秀さ」というべきところかな?
桜 かなり荒削りだけれど、今後に託そう。
 

本書によれば、91年の5月テーゼに反発して秋山さんが「やけのやんぱち」でゲリラ戦を総発動させて力尽き、自身の罪状を告白した年であり、平行して地下からの浮上が大量に進んだときだ。清水さんの「左ブレ」が元の「右ブレ」に戻る。権力に対してもそういうシグナルを送り続けた時期だ。白井さんが偽りの「政治局会議」におびき出されて自宅を襲撃された年でもある。90年代半ばを「亀井=中野会談」をキーワードに振り返ってみたい。

 

会談の意味

桜 「たかだか千葉機関区の少数派の1組合」に担当大臣が乗り出す。しかも元公安、浅間山荘の亀井だ。会談の設定そのものに「政府・公安と中核派のすり合わせ」が意図されていたと言われて普通はおかしくない。

 そう思う。否定する材料がない限り、断定していい。考えれば考えるほど、スルーできない。

 中野=亀井会談の94年とは、年末に本社が移転した時期であり、私の本社生活の最後の1年にあたる。職場で生活し、組合で活動して分かったこともある。警察や会社側との付き合いは実に色んな形いろんな場面である。小さな職場でもガラス張りと並んで「非合法・非公然」の領域はある。

 あえていえば、「武装闘争の党」であれ「非非の党」何であれ、国家とのシグナルの交換やホットラインは事実上あったしあっていい。「一時停戦」や「部分停戦」のために「取引」や「ボス交」はあるものだと腹をくくることも必要な気がする。双方が相手への妄想や誤解で攻撃しあったら、とんでもない事態を生むこともあるからだ。「権力」や「体制」は必ずしも一枚岩ではないし、「誤認による無益な犠牲」も少なくないからだ。ただ、「当面どこまで〈法やルール〉を守るかの暗黙の?」シグナルはできるだけ公開であることが望ましい。

(参考までに1      鉄壁防御の要塞)

 ただそうであればあるほど、一定の規模と時間をかけて、(少なくとも執行部(政治局))では、それがどういう事態を生み、その対策にどれほどの力を注ぎ込むかを真剣に議論しておくことが不可欠だ。それを運動全体の新たな社会認識・政治認識にまで高めていくという努力が必要なのだと思う。それなしには「取り込まれる」。力関係があまりに偏っているからこそ、「転向」「党としての転向」でしかない。多くの場合は「即転向」というべきではないとしても、だ。

 

90年代とは?

 さて、では90年代の半ばとは組織的にはどんな時代だったのだろう?

梅 91年の5月テーゼでの「転換」を経て、気持ちは大衆運動に向かっていた時期だ。現場の要請などを受けて、色んな地域や産別の闘う人々との交流を深めなおしていた時。地域や産別の「絵地図」を描き、その中に中核派の存在が多少は入ってくる。そんな時にゲリラが起き、「軍報(実行声明)」がでると「まだこんなことをやってるのかよ」と思った。「中核派は変わっていないんだね」と言われて、色んな努力が無に帰すという思いが強かった。まして「対革マル」のせん滅戦などあると、もう最悪だった。「何を考えてるんだ」と怒鳴り込みたい思いがあった。「左派」を自称する人たちが今でも胸を張ろうとしていることには違和感が強い。

海 90年天皇決戦にはもう「党のガラス張り化」はどんどん進んでいて、労働者は自宅に住み、会議もそこで開かれた。94年の前進社の新社屋移転は色んな転換を一気に進めた時でもある。本社への出入りが最寄のバス停からの徒歩で良くなり、タクシー代が浮いた。本社からの帰りも同じで、車に乗って延々走ってわけの分からないところに放り出されることもなくなった。時には張り込み中の公安に逝く手を阻まれることもあったけれど、気にしない。時間的にも金銭的にも「もうだめ」「転換」という実感から生まれた変化だったと思う。

竹 地区常任の活動費も行き詰まってきた。地方では「遅配・減配」が相次いでいた。「県委員」でない「専従」の「活動費」が「無給」になり、やがて90年代後半には「常任」も減俸から(県からは)無給になった。人によっては自分が握る地区財政から自分の金をひねり出してもいたようだし、地区によっては労働者からの新しい「基金」で糊口をしのいだ場合もある。
 本社メンバーも結婚して近くに住んで自転車で通うことも生まれた。もちろん本社からバイトに出たりもする。人によって色んなバイトに関わり出した。これも「天田改革」だね。(この項つづく)

2枚ジタと野合の10余年?

 清水さんと中野さんの入り組んだ関係や清水さんの2枚ジタぶりが印象的だ。フェイズⅡ(80年代を貫く対権力のゲリラ戦と動労革マル(JR東))はやるべきではなかったという中野さん。「分かってもらう」とする清水さん。「血債」についても同じだった。こんな議論をしながら両者の野合が進んだのだという。

ことの当否は置いて、総括も路線も展望もまったく一致しない両者による10余年があったという事自体が「革命党」としては不思議としか言いようが無い。

 
中野=亀井会談について
著者によれば会談は9412月。当時運輸相の亀井静香が中野さんを呼び出して会談したのだという。その結果963月には三里塚のジェット闘争の大量解雇について、いわば金銭和解が成り立つ。(「たかだか動労千葉を相手にした」トップ会談)
三里塚ゲリラは新指導路線の直前までつづいた。中野=亀井会談以降には中野さんが何度もゲリラの停止を求めて他の政治局員たちから「たしなめられた」ともある。(亀井との取引を匂わせて。もともと中野さんの持論でもあるが)
とはいえ、その後にはやはり停止されたのも事実だ。ゲリラの停止(武闘路線の放棄)はいつ、どういう形で決まったのかも知りたいところだ。
 
 著者らはこの会談の事実は知らされながら、その評価・議論は許されなかったように見える。「労働組合の指導者だから」と受け入れただけでらしい。会談の中身もほぼ知らないらしい。すべては清水さんと中野さんの胸のうち、ということか?「中野は…ゲリラ戦をやめさせろと恫喝され、それを呑んでいたのだった」
中野さんももともとゲリラ反対だし、私自身、この時期にはとっくに終わるものと思っていた。
けれども卑しくも「唯一の革命党」「武闘派」を骨の髄までしみこんだ中核派の政治局が、それですませて良いものだったろうか?済ませられたのだろうか?「権力=公安との内通・密通」という言葉が浮かぶ。それは中野さんにとどまらない。清水さんを始め、政治局全体の「密通」…。
事後にせよ何にせよ、「非合法の党」「公非・合非」のありかたそのものの全面的検討・整理なしには「スパイの党」への転落は避けられないのではないか?そんな大きな問題だったはずだと思える。
 
「非合法云々」の空叫びがただただ虚しい。事態の根底には労働組合運動の現実や現場のさまざまな葛藤への無関心・無定見がありそうだ。「難しいバランス感覚」に対して「意見がもてない問題の大きさ」に屈したのだ。「武装する党」はもちろん、「労働者党」としても「転向」という以外に何が言えるのだろう?
 
動労千葉の和解の後、分割民営化の問題ではあるが「4党合意」粉砕で檄を飛ばす中野さん。しかしこの会談の事実が(実は亀井サイドなどから)広がるにつけ、それに胸を温くしたり呼応することが国労・動労千葉の中でもどれだけの人にできたろうか?「労働組合だから」とはこの場合もあてはまる。大闘争に終止符を打った後、少なくともしばらくは、「休養」に入るのは常識だ。
 
清水=中野体制を批判するに当たって、著者らにとっては本来、第1級の事件と私には思えるのだけれど、見出しも立てずに本文に短く埋もれさせている。(P386,10章の「20全総は政治局内左右対立の始まり」)
 
(亀井静香1971年警察庁警備局の極左事件に関する初代統括責任者となり、成田空港事件、連合赤軍あさま山荘事件、日本赤軍テルアビブ空港事件等を陣頭指揮)

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